尾藤家住宅 (びとうけじゅうたく) 京都府指定文化財



 平成の市町村大合併により、今は与謝野町の一地区となった加悦(かや)は、かつては丹後ちりめんの主力生産地の一つで、昭和30年代までは絹織物の工場や商家が軒を並べて大変な賑わいをみせた場所でした。今では安価な中国産に押されて衰退し、寂れた田舎町に変わってしまいましたが、保存状態が良好のことから昔ながらの風情ある街並みが残こされており、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されて、「ちりめん街道」という名称で町おこしも催されています。
 その街並みは動態保存の家屋が多く、公開されている物件が少ないのですが、元町長の自宅だった尾藤家住宅が町に寄贈されて公開されています。

 

 尾藤家は当地で代々庄屋を務める素封家で、中世には武士だった家系のようです。18世紀後半から当主が”庄蔵”と名乗ることになったようで、この邸宅を建てたのは9代目から11代目の庄蔵さん達。江戸後期の文久年間から昭和初期にかけて、三世代の当主が代わり番子に約70年間の月日を経て増築・改築を繰り返して完成した大規模な邸宅で、農家・町家・蔵・洋館といった様々なスタイルの建物群が混然一体化した複合住宅建築です。

 

 まず9代目の庄蔵が1863年(文久3年)に母屋を建てたのがそのスタートで、道路側に面した二階建ての漆喰塗による木造建築です。実はこの建物は、前年の12月に但馬国久斗村(現在の兵庫県豊岡市日高地区)の綿屋長右衛門の母屋を75両で買い取って移築したもので、当地には3月に完成されています。元々地縁血縁に但馬出身の者が多く、生糸の取引でも交流があるので但馬の雪深い地域(神鍋スキー場のある旧日高町)の農家建築を移築したようです。
 その構造は質実剛健な造りで、天井は高く巨木を噛ませた梁組を見せ、差鴨居の上に貫を何段にも重ねた堅固なもの。天井に簀子を張ってその下に十字に梁組を持つ点も含めて、北陸地方に多く見られる農家建築と同様の構造となっており、雪深いこの但馬・丹後の山間部と共通する環境対策なのでしょう。北前船によって意匠が伝播したのかもしれません。

  

 またこの母屋は田の字型の四間取りの平面なのですが、8畳の居間の一部がロフトになっており、使用人の寝室となっていたようです。ちなみにこの母屋は元々は平屋だったものが、11代目が大正期に改造して今に見る二階建てに変更されており、この際に改造されたものかもしれません。ロフトの対面する壁は採光用に高く窓が開けられています。

  

 一階の表通り側は10畳のミセと、その奥に8畳の座敷が並び、ミセでは通り側に格子窓が付けられて町家風の佇まいを見せています。このミセは天井が異様に低く、二階は物置として使われていたようで荷物の上げ下ろしを容易くする為とか。座敷は違い棚の隣に大きな仏壇があり、このあたりにも北陸の民家を彷彿とさせます。

 

 母屋の北側に接続するのが表座敷棟。こちらも移築された建物で、同じ加悦の中垣家の隠居所だったものを買い取り、母屋と同じく1863年(文久3年)に完成しています。木造二階建ての住宅建築ですが、この棟も11代目が色々と手を入れているようなので、ひょっとすると当初は母屋同様に平屋建てだったのかもしれません。江戸期の建物にしては各部の意匠が戦前の近代和風住宅建築で構成されているので(特に二階)、二階は増築なのでは?
 一階は8畳間が二間並ぶ構成で、母屋の座敷よりも整った書院造の座敷となり、客用の便所も外に附属されています。母屋の座敷は商売用に、奥座敷はフォーマルな貴賓室ということなのでしょう。二間とも襖には山水画が貼り付けられています。
 二階では襖に瓢箪・鳥・卵を模った引手が付いたユニークなもの。

 

 

  

 奥座敷の西には内蔵が接続します。この蔵も母屋・奥座敷と同時期の1863年(文久3年)に完成したもので、この内蔵のさらに西側にはもう一つ雑蔵もありましたが、洋館建築の為に現在は移動されています。
 ここでは内部が映写室になっており、加悦の概要・歴史や尾藤家の変遷が上映中。

 

 その移動した雑蔵の跡地に出来たのが、新座敷と洋館の棟。遠目から見るとまるまる洋館に見えますが、近づいて見ると一階は完全に純然たる和風建築で、南側には石灯籠も置かれた日本庭園もあったりします。 
 この棟も母屋の改造を行った11代目の時に建てられたもので、1928年(昭和3年)のこと。一階が和風でその上に洋風が乗っかるのは青森の盛美館と同じ趣向ですが、盛美館は上がクラシックな洋館の為にかなり奇異に目に映るのに対して、こちらは下部を垣根と樹木で目立たぬように隠し、上も装飾性の薄いモダンな洋館なので、遠目に見ればあまり違和感はありません。但し隣に蔵も接続していいるので、近づけばかなり変に見えますが。

 

 一階の新座敷は8畳の主室と6畳の次の間とによる構成で、曲がりの強い竹をあしらった中柱や掛込・網代の天井に、竹をそのまま使った欄間など、凝った意匠で統一された数寄屋風建築となっています。書院風茶室といったところでしょうか。天井板には屋久杉を使用。

 

 

  

 縁側には風呂や便所があるのですが、ここもまた数寄屋風の凝った意匠で、便所も当時としては珍しかった簡易水洗のもの。

  

 で二階の洋館ですが、なんでも11代目の当主がこの洋館棟が建った1928年(昭和3年)に町長になったとかで、若かりし頃に横浜でハイカラな商館群を見学したことから洋館マニアとなり、町長になったことをこれ幸いと町内の公共建築を次々と洋風建築に造り変えていったことの一環だったようです。前年に丹後大地震が発生したことも促進させるきっかけだったのでしょう。
 昭和初期の洋風建築なのでモダニズムの洗礼を受けており、特に窓にはライト風のデザインが。

 

 内部は応接室と寝室の二部屋となり、特に応接室は白漆喰の天井・壁を基調とした明るい空間で、マントルピースや凝ったデザインの照明器具が配置されています。意匠は昭和初期ということか比較的シンプルな造り。階段上にはクレー風のステンドグラスも有ります。
 応接室がどことなく会議室風なのは、おそらく町長となって陳情や幹部との密談にこのような部屋が必要となったからかもしれません。下の茶室としても使える数寄屋風の座敷も同様の趣向なのでは?

 

  

  

 この洋館棟の西側に移動した雑蔵と、1912年(大正元年)に建てられた新蔵があります。さらには1888年(明治21年)建造の奥蔵や米蔵供部屋味噌蔵もあり、その蔵群に囲まれて四畳半の奥部屋なんてのもあります。ここも山水画の襖絵付き。
 かように和洋の様々なタイプの建築物が隣り合って密集するユニークな邸宅で、何れの建物も京都府の有形文化財の指定を受けています。

  

 

 「尾藤家住宅」
   〒629-2403 京都府与謝郡与謝野町字加悦1085
   電話番号 0772-43-1166
   開館時間 AM9:00〜PM5:00
   休館日 月曜日 12月29日〜1月3日