鐙屋 あぶみや



 酒田は北前船の寄港地として大いに繁栄した湊町。かつて海上には幾艘もの千石船が行き交い、北から南から農産物や特産品を運んで交易が盛んに行われていました。江戸期の最も重要なルートであった北前航路は、中世北ヨーロッパのハンザ同盟のように各都市が自冶権を持つ例も多く、この酒田も「酒田36人衆」と呼ばれる商人による自治組織が作られて、自由都市として賑わいを見せた所です。町自体はそれほど広いわけではないのに、日本一の大地主として名を馳せた「本間家」や広大な倉庫群の「山居倉庫」などの規模の大きな遺構を見ると、往時の活況振りが偲ばれます。その豪華な本間家本邸に程近い「鐙屋(あぶみや)」も、往時の名残を示す遺構の一つで、酒田を代表する廻船問屋でした。今は綺麗に修復されて公開されています。

 

 酒田湊開港の謂れは奥州平泉まで遡り、藤原秀衡の妹・徳の前が藤原家滅亡後出家して「徳尼公」と名乗り、日本海側に逃げのびて酒田に近い飯盛山の麓に庵を編んで、その家臣達が徳尼公没後に酒田湊を開いたのが始まりで、家臣達はそのまま町人となりその子孫が36人衆となったと伝えられています。この鐙屋も当初は「池田」姓でしたが、江戸初期の1608年(慶長8年)に藩主から「鐙屋」の屋号を拝領したもので、町年寄役を務めるなど36人衆でも中心的な商家でした。往時は相当な広さを誇っていましたが、北前船の衰退や幾度かの火事により今は4分の1程の広さに小さくなったとか。
 家屋は江戸末期のもので、1845年(弘化2年)4月の火災直後に8年かけて再建されたものです。屋根は石置きの杉皮葺きで、風の強い地方に多く見られるもの。同じ庄内地方の鶴岡の風間家丙申堂や、新潟県関川村の渡辺家にも見られます。

 

 大戸口を入ると「店」となり、右手に帳場でその奥に「上之間」「次之間」と座敷が並び、この上に板の間の二階があります。この鐙屋は元禄期には井原西鶴の『日本永代蔵』にも登場する大店だったようで、北国一番の米の買入問屋として紹介されており、「表口三十間裏行六十五間、使用人何百人」と驚嘆したさまが綴られています。
 店舗空間の奥は居室部になりますが、店寄りに直列に「上之間」「次之間」「三之間」と座敷が並び、「上之間」には上品な床構えもあります。町年寄役も務めていたこともあってか、接客空間として使われていた模様です。庭側は土縁まで深く庇で覆う雪深い地方に多いパターンで、庭には松の木が植わっており、防火林の役目だとか。日本海側は風が強くフェーン現象が多いため大火も多く、火災・風害に対する備えを万全にするようです。

 

  

 町屋はどこもそうですが鰻の寝床になる場合が多く、ここも奥行きが深く通り土間が裏まで突き抜けています。この通り土間に沿って茶の間や台所が並びます。
 通り土間の一番奥は台所の土間で、天井は高く吹きぬけて均整の取れた梁組みで支えています。なんでもNHKの朝ドラ「おしん」はこの家でロケがされたそうで、ここで大根飯でも食わされていたのでしょうか?

  

 茶の間や納戸など居室部はシンプルな意匠の部屋が数多く並べられているのですが、「上之間」の裏に隠れるように8畳の座敷があり、この部屋は数寄屋風の設えで炉も切られた茶室となっており、主人のプライベートルームだった模様です。

 

 



 「鐙屋」
   〒998-0044 山形県酒田市中町1-40-10
   電話番号 0234-26-5777
   FAX番号 0234-23-2257
   開館時間 AM9:00〜PM4:30
   休館日 12月〜3月の月曜日