相場師列伝

2010/08/17

見込み違えば現株引き取る、前川太兵衛氏(08/2/4)

「掘留派」代表、義父譲りの相場巧者
  前川太兵衛を相場師といえば本人は苦笑だろうか。中には「いや、おれは相場師じゃない。実業家だ」などとムキになるご仁もいるが、前川は春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、受け流すだろう。日本橋でも指折りの富商のもとで精励恪勤(せいれいかっきん)、財界で重きを成す一方、株式相場には常に親しみ取引所の運営にも携わってきた。
  かつて兜町には「掘留一派」という呼称があった。仕手集団を思わせる呼び方だが、繊維問屋の町、掘留で商売をやりながら株や米相場好きの商人たちのことを指す。その代表格が前川太兵衛。本業は綿織物問屋の主で老舗「近江屋」を経営するかたわら、株で資産を増殖させていった。いつの間にか東株の大株主になり、東京株式取引所(東株)の理事に収まるほど兜町に足を突っ込む。
  前川は決して強引な仕手戦をやったりはしない。相場師らしくない相場師で、見込みが違った時は現株を引き取って、2年でも3年でもじっと待つ。兜町不況で100円割れに落ち込んだ東株を買い込んで大儲けした辺りから「掘留一派」「掘留筋」といった言葉が生まれるが、前川の相場振りについて『兜町物語』(岸柳荘著)にはこう記されている。
  「資金は充分、そして採算から思惑をする彼は世間一般の相場師とは違い、損をすれば正株を引き取る。2年でも3年でも時の至るを待っている。また直ちに利が乗れば、差金儲けで手仕舞う。従っていったん見込みを立てた以上は必ず儲けずにはおかない」
  前川太兵衛は幾多の名相場師を産んだ山梨県甲府の製糸家風間伊七の次男として生まれ、幼名を達五郎と称した。独学で英学、漢学を学び、わずか13歳で小学校助教師になる。その俊才振りに目をつけたのが掘留町の大問屋前川太郎兵衛。
  おそらく風間家と前川家は取引関係があったと思われる。「あなたのところの達五郎君は甲府の在で置いておくのはもったない逸材じゃ。うちに寄こさないかね」「よろしく頼みます」
  そんなやり取りがあって、14歳で上京、前川家の養子となり、太郎兵衛の長女を嫁にして前川太兵衛を名乗る。義父の前川太郎兵衛は綿織物では屈指の豪商で、「明治5、6年には日本橋富沢町に支店を増設、太物(ふともの)を専業とする他方、舶来の金巾(かなきん)織物を扱って遂に近江屋太郎兵衛店は明治の富商になっていった」(白石孝著『明治の東京商人群像』)。
  義父太郎兵衛は日比谷平左衛門や薩摩治兵衛らを誘い東京瓦斯紡績会社を創立して社長に就任する一方、株式相場にも巧みで、「株をやってもどしどし実株を受け取る方で、その蓄積振りは堅実一方だった。何さま株式売買には妙を得ており、兜町には信望があった」(財界物故傑物伝)。
  知り合いの株屋が金繰りに窮した時は手を差し延べ、ある時、「天下の雨敬」こと雨宮敬次郎が北海道炭鉱鉄道の買い占め資金の調達に行き詰まって太郎兵衛に泣きついてきいたこともある。『兜町盛衰記』(長谷川光太郎著)にも太郎兵衛は登場するが、相場の白熱した場面よりも、舞台裏で金主として活躍する場面が多い。
  さて、太兵衛。差損が出れば現物に代える現株主義は義父譲りのようだが、結構リスクにも挑んだ。前出の岸柳荘によると、「資産家くらい気の弱い者はない。ことに大勢の悪い時に将来の発展を見越し増富の策を講ずる如き人物は物堅い商人にはほとんどない。しかるに前川のみはあえて自己の思惑を試み、好んで投機界の人たるを辞せざるのだ」。太兵衛は根っから相場が好きだからだろう。太郎兵衛とウリ二つといえる。
  大正6年、太兵衛の地元掘留町に綿糸取引の杉之森市場が開設され、そこに日比谷平左衛門の名はあるが、なぜか前川の名前はない。現株主義の太兵衛には先物市場は危険と映ったのか、東京米穀商品取引所の出店であるのを潔しとしなかったのか、尋ねてみたい気もする。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
○損をすれば現物を引き取り、2年でも3年でも待つ
○見込みを立てた以上、必ず儲ける
○資性温厚、篤実で人に接するに懇切にして少しも誇らず、店員にも親切、恩愛をもって臨む。店員たちは滋父のように心服した
(まえかわ たへえ 1862-1923)
  文久2年6月1日、甲州出身、明治9年上京して日本橋掘留町の豪商前川太郎兵衛のもとで商売修業、同16年前川家に養子に入り、長女千代と結婚、前川太兵衛を名乗る。同28年東京呉服木綿問屋組合頭取、同35年東京織物組合会長、同43年東洋汽船取締役、同44年東京株式取引所理事、東京商業会議所議員、大正12年3月16日没、61歳。
(写真は東京株式取引所50年史より)

相場師列伝

徹底調査の後、買い占め、鈴木一弘氏(08/2/12)

仲間割れ恐れ、単独行
  鈴木一弘は横井英樹と同じ愛知県出身で、「第二の横井」とか「小型横井」などと呼ばれた。横井の白木屋乗っ取り事件の際は横井の側近として策動した時期もある。2人はともに「買い占め魔」と恐れられたが、手口は全く異っていた。横井が経営権の奪取を狙うのに対し、鈴木は10%を買い占めたあとは、いかに有利に会社側に買い取らせるかに専念する。
  その点では藤綱久二郎のやり口と同工異曲である。藤綱、横井、鈴木はほぼ同じ時期に兜町を震撼させた「買い占めの鬼」だが、鈴木は「買い占め」という言葉を嫌い、「集中投資」と称した。が、世間の目は厳しく、違法すれすれのグレーゾーンで勝負する荒業師とみられた。3人とも投機を忌避する風潮の強い愛知県出身というのも奇異である。
  鈴木の初陣は、浅野物産株を買い集め、これを高値で肩代わりさせたことであった。「それからは、行くところ可ならざるものなく、彼が買い占めた会社は20社を軽くオーバーし、利益は最低1社当たり5000万円とみても10億円を超えるといわれた」(生形要著「相場師」)
  鈴木はある時、週刊誌の取材にこう開き直る。
  「オレは金持ちを憎む。オレは“ハチクマ・チャンピオン”。つまり八さん、熊さん、庶民の味方だ。社長だなんてエバッているヤツはふっとばしてやる。こういう信念があるから、オレが株を買うときはキツイよ」
  鈴木は実業学校在学中に父が急死、家業を継いだ。強度の近眼のため兵役を免れ、戦時中は軍需産業に部品を納入するブローカーで多額の資産をこしらえ、戦後は金融業に乗り出す。
  数々の企業を立ち上げ、昭和23年の所得税申告では名古屋管内で第一位を占めた。名古屋の長者番付は古来、松坂屋の伊藤次郎左衛門が横綱と、相場が決まっていたが、“伊藤さま”を大きく引き離して白面の青年事業家が飛び出して世間はあっといった。
  このころ名古屋では、春日一幸(政治家)、福井子好(事業家、初代中日球場社長)、そして鈴木一弘の3人を束ねて、「三こう」と呼んだ。一説によると、鈴木はカネの力を頼りに名古屋商工会議所副会頭のポストを狙ったが、「成り上がりが」と一蹴されたとか。やがて、東京に東洋経済興信所を創設、狙いをつけた会社の内情調べを徹底的にやってから、買い占めに取りかかる。「鈴木事務所代表 鈴木一弘」の名刺を差し出されると総務課長は震え上がったなどいう挿話も残っている。兜町では「鈴木が買い始めた」と噂が立つと、地場の証券会社がチョウチンをつけて株価がはね上がる。
  「鈴木の株買い占めが激しくなったので、大蔵省が調査に乗り出した。まず、金融機関に命じて、鈴木の担保の調査を行い、一方、証券界に対しても鈴木の買い占め工作に協力してはいけない旨を示達した。他方、国税庁は脱税8000万円を巡って、鈴木一弘の事務所などを取り調べた」(前出)
  検察庁は株買い占めに伴う恐喝容疑で取り調べるなど、鈴木包囲網が張り巡らされていく。結局、昭和41年8月、鈴木は恐喝の罪で懲役3年の実刑に処せられた。弁護士で作家の佐賀潜はこう述べている。
  「恐喝罪で起訴された21社のうち、判決では12社を有罪とし、9社を無罪としている。株買い占めによる恐喝が、有罪認定で、いかに難しいかを物語っている」
  以来、兜町から姿を消していた鈴木が昭和52年三菱金属(現三菱マテリアル)の大株主として顔を出す。若い証券マンは「鈴木一弘って参議院議員じゃないの」と同姓同名の国会議員と間違えたというから、去る者は日々に疎しか。10年振りに「どっこい、生きている」と正体を現した後は、杳(よう)として消息がなかったが、平成7年2月2日他界、77歳。新聞は「1950年代後半に株の買い占め王として知られた」と短く報じた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
○調べて、調べて、調べてのち買い出す
○将来性はあるが、業績は低調で株価が安い会社をねらう。失敗してもケガは浅い
○主権在株主だ。社長にあるんじゃない
○集中投資(買い占めのこと)を行う場合、人と組んではいけない。自分は、自分を裏切らない
(すずき かずひろ 1917―1995)
  大正6年、愛知県江南市古知野町の鍛冶屋の長男に生まれ、小さい時からハサミとぎの行商に歩き、瀧実業学校に入るが、父の急死で中退、家業を継ぐ。太平洋戦争が始まると軍需産業に部品を納入するブローカーとなる。昭和23年、名古屋市の多額納税者番付トップとなり、浅野物産など20数社の株にねらいをつけ「買い占め魔」と恐れられる。
(写真は「財界」昭和34年9月1日号より)

相場師列伝

四六時中、相場を考える、鈴木四郎氏(08/2/18)

「頭とシッポはくれてやる」
  ノンフィクション作家の沢木耕太郎が相場師の生きざまを取材する過程で鈴木四郎にインタビューしたのは昭和50年ごろのことだ。素人と玄人との違いを問われてこう答えた。
  「私たち(プロ)はね、相場が真っ赤に燃え上がる寸前にそれが見えるんですよ。そしてね、炎が巨(おお)きく天に届きそうに燃えさかるころには、私らは真っ白に燃えつきた灰になっていなければ、駄目なんです」(『鼠たちの祭』)
  練達の相場師がよくいう「頭とシッポは素人にくれてやる」という姿勢を鈴木は強調する。当時、鈴木は喜寿に差しかかっていたが、相場のことが片時も脳裏を離れなかった。「四六時中考えても、まだ考え足りないのが相場です。だから邪念はできるだけ持たないようにしている」。親交のあった作家、沙羅双樹にこう語っているが、鈴木は根っから相場が好きだった。
  鈴木は千葉県立木更津中学(旧制)の時代に相場と出合う。兄が蛎殻町で相場をやっていたので手ほどきを受ける。早稲田大学に入ってからは頻繁に蛎殻町に出入りするようになる。
  「四郎は医学生の友人と2人で蛎殻町へ通った。紺がすりの着物にはかまをはき、角帽をかぶった大学生が2人連で仲買店へ出入りするのは人目についた。しかし、そんなことを意に介する2人ではなかった」(沙羅双樹著『勝者の記録』)
  親からもらう小遣い銭で相場を張り、証拠金が底を突くと、「合百(ごうひゃく)」に手を出した。わずかな金を賭けて、前場の引け値を当てっこする一種の賭博だが、当時の蛎殻町は合百に一喜一憂する群衆が路上にあふれていた。
  鈴木は早大2年の時、赤坂近衛歩兵3連隊に入るが、ここでも相場は忘れなかった。来る日も、来る日も命令されるままに同じことを繰り返す兵営生活で、相場が唯一、考える時間であった。新聞の相場欄が楽しみであり、相場の立たない日曜日は詰まらなかった。
  鈴木と親しかった「相場の神様」山崎種二も兵隊生活で米相場を手掛けたが、鈴木は米ではなく、株をやった。外部との連絡がままならない身では動きの激しい米相場を張るのは不可能だった。一番うまくいったのは浅野総一郎の東洋汽船でサラリーマンの月給の2ヵ月分をあっという間にもうけた。株屋への売買の指示は、たまの外出日と、同僚を訪ねてくる面会人に依頼した。
  1年後に除隊とともに大学をやめ、兄の仕事を手伝いながら蛎殻町へ通い続ける。昭和2年、独立、千葉市で酒問屋を開業、このころ千葉銀行の頭取古荘四郎彦を知り、以後親交が深まる。酒問屋は大きな資金がいるが、支払期限が長いので資金が遊ぶ。そこを利用して抜け目なく相場を張った。
  昭和16年、千葉県食糧営団常任理事に就くが理事長が山村新治郎(初代)だった。昭和22年、新田新作の新田組の常務に就任、明治座の再建を果たす。新田と鈴木は古くからの相場師仲間だった。新田は後に日本プロレス協会理事長をやったり、横井英樹の白木屋乗っ取り劇に顔を出したり、剛の者である。24年、鈴木は山三証券を買収するが、古荘に、「証券会社の売り物があるので、権利を買って、好きな相場をやりたい」と申し出ると、古荘はあっさり了承してくれた。やがて、商品取引の明治物産を創設、社名はゆかりの明治座から取る。新田は監査役に名を出した。
  昭和36年、東京穀物商品取引所第4代理事長に就任するが、朝は4時に起きて相場を研究する日課は変わらなかった。遠くふるさと市原に居を構えたのは、東京の騒音と悪い空気の中では、落ち着いて相場を考えることができない、というのが理由だった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場だから2割も3割も行き過ぎることがある。この行き過ぎを人と一緒になって追いかけては負ける
・健康な時でなければ相場はやらない
・朝起きて考えるのは相場のことであり、夜寝て考えるのも相場のことだ。四六時中考えても、考え足りないのが相場
(すずき しろう 1898-1978)
明治31年千葉県市原村に生まれ、大正7年早大入学、兵役後に中退、昭和2年酒問屋開業、同16年千葉県食糧営団常任理事、同22年新田組常務、山三証券社長、この間、古荘四郎彦、山村新治郎、川島正次郎らと親交を結ぶ。同28年明治物産を設立、同36年東京穀物商品取引所第4代理事長に就任、同53年他界。
(写真は「東京穀物商品取引所50年史」より)

相場師列伝

日露戦争大相場を往復で取る、鈴木圭三氏(08/2/25)
黒川油田噴出、3電車合併でも勝利

 鈴木圭三の寸評が『兜町』(根本十郎著、昭和5年刊)に出ている。かつて株仲買の平均寿命は3年足らずといわれた。有為天変の激しい時代に鈴木の経営する万屋・鈴木圭三商店は旗揚げからすでに約25年を経ている。
  「現存の取引員としては、横山久太郎、南波礼吉両人に次いでの元老株であり、一見貴公子然たる温良恭謙の紳士であるが、剛胆勇毅にして、なさんとすることは必ずなし遂げる意気を有する。その営業振りは穏健着実であるから、年とともに信用が加わりつつある」
  大正2年、秋田県黒川油田の大噴油を伝えて日石株が大暴騰した時、鈴木は買い方に陣取り、巨利を博した。この時、売り方が破綻(はたん)に瀕し、泣きを入れて解け合い(売買約定の解消)を申し入れてきたが、鈴木は売り方の窮状を察し、快く解け合いに応じ、美談として兜町に語り継がれる。
  鈴木圭三は明治5年、愛知県に生まれた。生家は歴史に名高い小牧で、万屋と称し酒造業を営んでいた。名古屋商業学校を卒業すると上京、明治法律学校(明治大学の前身)に入るが、一念発起して学校をやめ、兜町の株式仲買人、粕谷瀧次郎の志摩商店に入る。この店は東京株式取引所創設時の有力仲買人である鹿島萬兵衛が営んでいたのを粕谷が買い取り、明治37年に至り、鈴木が継承する。
  この直前、主人の粕谷と郷里の父親がほぼ同時に重体に陥り、鈴木は苦境に立たされるが、苦慮の末、主人の看病のほうを選択する。粕谷家の親族会議の結果、志摩商店は鈴木が後を継ぐことになる。身元保証金の1万2000円は無担保、無証文で粕谷家が融通してくれた。
  やがて鈴木の大躍進が始まる。明治38年は東京の3つの電車会社が合併する年だが、早くに合併成立を確信し、株を買い進んだ。鈴木は語る。「手一杯できるだけ買い建てた。定期(先物)も少し買ったが、大部分は現物で引き取って、すぐに銀行に担保に入れてはまた買い取るというようにして、定期・現株合わせて7000株を買い取った」
  合併話はトントン拍子で進み、鈴木の読みは的中する。鈴木の3電車株の平均買い値は70円弱だったが、100円台でそっくり売り抜けた。さらに日露戦争に際しては、日本の勝利を信じて買いまくった。これもズバリ読み通りで、連戦連勝である。戦争の先行きに対し悲観論者は株をカラ売りしてもうけようとしていたが、「敗けてしまえば日本は滅亡だから売りで利益は取れない」というのが鈴木の理屈だった。
  明治39年から翌40年初頭にかけて株は狂熱時代を迎える。兜町では鈴久こと鈴木久五郎が「成り金王」と称され、1株700円(現在なら100万円超)もする東株を芸者1人1人に配ったなどと尾ひれもついて、その大盤振る舞いが喧伝(けんでん)されていたころだ。
  買い方針で大もうけした鈴木圭三はしばし考えた。「いかに楽観論者の自分でも、いつまでこの狂騰相場が継続できるものかは疑わしくなった。いや自分はむしろ恐ろしくなった」。そこで一斉に手じまいし、巨利を確定するとともに売り方に回った。ここが同じ鈴木でもにわか成金“鈴久”と明暗を分ける岐路となる。
“鈴久”は東株1000円相場に向けて買い方針を変えず元の歩に逆戻り、“鈴圭”は空前の大相場を往復で勝ち取った。この時の大勝利を後年、気持ちよさそうに次のように語っている。
  「相場というと誰でもすぐに一攫万金を思うのであるが、決して相場道というのは、そんな生易しいものではない。堅実で緻密な頭を持っていなくてはならぬ。39年末から売りに回ったのは、8分の利に満足して、2分は人にやるという考えで、第二の思惑に転じたのであった」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・堅実で緻密な頭脳、自信と確信を持つ
・身体を大切にする。相場は頭を使うから時には気晴らしも必要だが、肉体を粗末にしない(特に若者たちよ)
・冷静であれ。思惑が当たっても、外れ続けても、決して熱してはならぬ
・寡欲なれ。8分の利益で満足し、2分は他人にやる
(すずき けいぞう 1872―没年不詳)
  明治5年、愛知県小牧出身、名古屋商業を卒業後、明治法律学校に進むが中退し、同20年兜町の株式仲買志摩商店に入る。同37年、店主死亡のため店を継承し、鈴木圭三商店と改める。同38年東京の3電車会社合併を見込み、買い進み大成功、日露戦争景気では上げと下げと両方を取り、大正2年東株仲買人組合委員に就任、同9年まで勤めた。
(写真は経済日報社編『全国株式取引所』より)

相場師列伝

大局観に立って決断、即実行、喜多又蔵氏(08/3/3)

欧州大戦後の恐慌処理に手腕発揮
  綿糸や綿花の先物取引が1番盛んだった大正期、大阪三品取引所は日本経済の目抜き通りに位置していた。そこでは江州閥を代表する田附政次郎と尾州勢の総大将岩田惣三郎の戦いが有名だが、商社も財閥系、独立系入り交じって大勝負を繰り広げた。東洋棉花(現豊田通商)の児玉一造、江商(現兼松)の野瀬七郎平、そして日本綿花(現双日)の喜多又蔵が仕手として活躍する。中でひと際目を引くのが喜多だった。
  喜多は社長時代、相場道の奥義を聞かれてこう答えるのが常だった。「私が長い間関係している綿花の経験から申しますと、要するに『判断』と『実行力』の合致にあります。これがピッタリと合ってさえいれば、相場道は間違いありません」
  種々雑多な情報を集約して売りか、買いか判断をくだす最大のポイントは「大局を見る」点にあると喜多はいう。目先観を排除し、大局観から判断を出したら間髪を入れず実行に移す。これが喜多流相場道の神髄なのだ。ぐずぐずしていると、どんな立派な判断も宝の持ち腐れである。
  残されている同時代評をみると、児玉は三井をバックに尊大なところがあるそうだが、喜多には好意的である。
  「喜多は性来の事業家気質で、もうかることならなんでもこいと手を広げるほうで、太っ腹で目先が利いて、物に動じない。そこが、売った買ったの綿業界活動には誂え向きにできている。されば、米綿・インド綿の輸入くらいで能事終れりとせず、米綿・インド綿を欧州方面に転売などして世界的に活動しておる」(岡村周量)
  日綿は大阪商船(現商船三井)とともに大阪財界の逸材、田中市兵衛の創業した2大企業で、喜多又蔵は17歳で入社、40歳で社長となるが、これには訳がある。市兵衛の長男市太郎が社長時代、上海支店が為替相場で失敗して大穴をあけ、社長みずから現地に入って事態収拾に当たった。その、心労がたたってか、帰途長崎で客死する。この時喜多は後任の志方勢七社長を助け、大幅減資など社運立て直しに力戦、奮闘する。この働きが社の内外に広く認められていたため若くして社長に登用され、終世采配をふるった。
  社長就任直後に綿業界を襲ったパニックに際しては、持ち前の度胸と判断力で鮮かな手腕を発揮する。大正9年、第1次世界大戦後の恐慌は綿糸相場が1コリ(約181キロ)当たり700円から200円にまで暴落するという凄惨(せいさん)な場面を現出する。
  当時の商習慣として綿紡績、糸商、織物業者間で長期の先物契約が行われていたが、非常事態発生で、これを総解け合い(解約)に持ち込むのには利害の異なる者を納得させる1本の価格(棒値)を見つけ出すという大作業が必須である。さらに解け合いの結果、余った大量の原綿をどう処理するか、業界挙げての鳩首(きゅうしゅ)会談では喜多がリーダー格となる。
  「喜多は、大戦後の恐慌はまず日本にきたが、そのうち米国にもくると着眼した。だから米綿定期(先物)市場の反落をねらって、手持ち原綿を同市場に売り、下落した時、これを買い戻して、その差益を収めるよう献策した」(宮本又次著『大阪商人太平記』)
  各紡績会社は日綿を通じてニューヨーク綿花取引所の先物に大量に売りつないだ。果たして、喜多の予想は的中し、大暴落する。紡績会社はこれを買い戻し、数10万ドルの利益を上げ、窮地を脱出した。
  このころ、綿業界では「喜多は大阪三品理事長のポストを狙っている」とうわさが立った。喜多は「おれはそんな野心は毛頭ないよ」と笑って否定したが、もっと上を狙ってもおかしくない力量を備えていた。だが、大正12年の大震災で日綿は大打撃をこうむり、喜多は数十万円を投資していただけに会社の欠損は喜多の身にもこたえた。
  「綿屋は長生きできない」というジンクスがある。激しい相場変動にさらされ命を縮めてしまうというのだが、昭和7年55歳で不帰の客となる。これより先、ライバルで同志だった東洋棉花の児玉も他界、51歳だった。
=敬称略=
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場道は判断と実行力が合致すると間違いない
・種々の材料からいかに判断するかは自己の態度決定の根本をなす
・態度決定のポイントは「大局を見る」ということ
・終局の勝利は大局の把握にある
・態度が決まれば、間髪を入れず実行する用意と気力が必要
(きた またぞう 1877―1932)
  明治10年9月11日、奈良県南葛城郡出身、同27年大阪市立商業卒、創立されたばかりの日本綿花に入り、綿花の買い付け、綿糸の販売に成功、27歳で支配人となる。同41年上海支店が為替取引で大損失が発生するが、収拾に成功、同43年、33歳で取締役の後、トントン拍子で大正6年社長就任。欧州大戦後の反動を切り抜けるが、昭和7年没。
(写真は藤山貘郎著『大阪財閥論』より)

相場師列伝

2度の大戦相場で勝利、柳広蔵氏(08/3/10)
紡績株、鉄道、土地にも投資

 柳広蔵の長兄為之助(後の2代目藤本清兵衛)は藤本ビルブローカー(大和証券の前身)を創業、徳望家として今日に伝わるが、弟の柳はマスコミの評判が至って悪い。「北浜の因業爺(じい)」などと呼ばれ、その吝嗇(りんしょく)ぶりに尾ひれがついて飛び回る。
  「君の性格はくだくだしく説明するまでもあるまい。取ることにかけては、石地蔵さんの胸倉を取ることを辞せず。出すことは袖口から手を出すことでさえお嫌いだとある。今日の富を成して失わざるゆえんは、このケチンボウと称する棒にあるのだろう」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  市場に生きる人は、毀誉褒貶(きよほうへん)は覚悟のうえだろうが、柳の場合は褒め言葉が探し出せないのである。「柳にあっては広蔵ではなくして狭蔵であるが故に万事に小心翼々で大それごとをせず、コツコツと貯める一方で…忘恩行為に対する精神的天罰は死後といわず、現世で現れ、最も手厳しくやっつけられるであろう」(藤山貘郎著「大阪財閥論」)
  柳に対する手厳しい評価の根源は、兄藤本清兵衛が日糖事件にひっかかって破綻に瀕(ひん)した時、支援の手を差し伸べなかったことにある。この時柳が吐いたというセリフ、「お金に血縁はありません」の一言で世評を落とす結果となる。
  柳広蔵は数多くの相場師が輩出してきた和歌山の出身。父親は米穀商を営んでいた。兄が大阪の大手米穀商藤本清兵衛に見込まれ、2代目藤本清兵衛を襲名すると、広蔵が柳家の家督を相続する。やがて和歌山米穀株式取引所仲買人となり、米相場で勝負を競うが、成果は得られず、時の来るのを待つ日々だった。
  明治37年日露開戦で株式市場が激動し始めると、兄を頼って大阪に出る。大株仲買人の権利を取得、北浜に柳商店を開いた。そして商才が開花する。「昂騰低落の狂瀾に棹(さお)さして奮戦悪闘、もって市場を馳駆(ちく)し、一挙にして巨利を博するに至り、斯界に雄を称すべき立脚地点を確実にし、漸次順調に次ぐに順調をもってし、遂に屈指の資産家となり、致富100万をもって称せらる」(大正人名辞典)
  北浜市場の栄華を語り継ぐ松永定一もその著「北浜盛衰記」で「氏は日露、第1次大戦相場を運強く買いで取り、売りで取って大をなした。いわゆる相場道の達人である」と、2度の戦乱相場を見事に勝ち取った強運振りを称えている。柳は儲けた金で鐘渕紡績はじめ数社の紡績株に投資する。
  「柳広蔵の投資の例として、古くは明治43年の大阪電気軌道の設立に当たり1200株を引き受けた。…大正2年には愛媛紡績や浪速紡織の大株主であると同時にその取締役をも務め、7年に設立された浪速織物においては初代社長に就任している」(「大和証券100年史」)
  紡績業とのかかわりが深くなると、三品取引所の糸へん相場にも手を伸ばした。また金をこしらえた大阪商人の常とう手段として土地にも手を広げ、「利殖に鋭い頭の持ち主だけに上町方面の土地でも儲け込んできた」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)。
  タクシーが普及してくると、自家用車を廃止、合理主義を実践した。前出の松永翁が「広堂」と書かれた額をみて、だれの書ですかとたずねると、柳は「私が書いたのです。広蔵だから広堂でね。私しゃ他人様の書いた書を仰ぐ気にはなれんので…」と答えた。
  翁は書いている。「この徹底した気持ち、何者にもおかされぬド性骨があればこそ、自己商い一本で大身代をつくり得たのであろう」
  大株の仲買人組合委員当時、「内面的事情を強弱の具として相場を張るに利用し、もって奇利を獲るの常習とし…」などと、インサイダー疑惑をかけられたこともあったが、意に介さなかった。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・徹底した合理的な気の持ち方、何者にもおかされぬド性骨(松永定一による)
・利殖に鋭い頭の持ち主。相場は上手、自己一本。北浜村の準元老格(岡村周量による)
・大それごとをせず、コツコツ貯める(藤山貘郎による)
・円タクが出来た今日、自用の自動車は不経済と運転手にお金をつけてくれてやった(光本磯市による)
=敬称略
(やなぎ こうぞう 1875―1933)
  明治8年3月20日、和歌山海草郡日方町の米穀商柳仁兵衛の次男として生まれ、同26年兄為之助(2代目藤本清兵衛)から家督を継ぐ。同27年和歌山米穀株式取引所仲買人となり、同37年、大株仲買人として柳商店を開業、同42年兄の後継として藤本ビルブローカー銀行第2代会長に就任、大株相談役を経て昭和5年柳商店を長男広之に譲る。同8年4月17日、風邪をこじらせ他界。
(写真は大株編『大阪株式取引所沿革史』より)

相場師列伝

「身内から欺け」が信条、伊藤忠雄氏(08/3/15)

初陣は株、大胆な仕手戦で主役
  ノンフィクション作家の沢木耕太郎が伊藤忠雄を訪ねるのは引退した相場師として奈良県生駒に住んでいた時だ。応接間には大きなトロフィーが飾ってあった。自らの頭文字を冠した持ち馬「アイテイオー」が第24回オークスを制した記念に贈られたものだ。伊藤は競馬の話には相好を崩した。相場のことは語りたがらなかったが、やっと重い口を割った。
  「そうやな、私が買うやろ、ほしたら大衆の皆さんが一緒に買うてしまう。危ないからやめてくれて皆さんにお頼みするんやけど、いや伊藤さんと心中するんやったら本望や、いうてくれはりましてな。そやから、私も大衆のみなさんに損させんような相場を張っとった」(『鼠たちの祭』)
  だが、この言葉には「うそ」があるように思えてならない。全盛期の伊藤には、彼が誇らしげに語るように一般投機家がわんさとチョウチンをつけた。付和雷同派を時には利用し、時にはだました。伊藤の信条として今に伝わっているのが、「身内から欺け」という言葉だ。
  伊藤は“オトリ玉”で市場を幻惑させた。いかにも伊藤が買いに入ったかのように見せかけておいて、別の店でどっと売り建てる。チョウチン連中は伊藤の掌中で踊った。伊藤の肩を持つわけではないが、ケインズも同じようなことを言っている。「仲間を出し抜き、群衆の裏をかき、質の悪い、価値の下がった半クラウン銀貨を他人につかませることである」。市場は古来、トランプのババ抜きの要素を秘めている。
  伊藤忠雄は明治41年、相場の盛んな三重県津市出身で初陣は株式市場だった。昭和24~25年にかけて新日本窒素(現チッソ)の仕手戦で名を上げた。当時伊藤は岡三証券の常務取締役営業部長として創業社長の叔父加藤清治を支えていた。津を拠点とする地場証券が大阪の鈴木証券を買収、北浜に進出するに際しては伊藤が献策した。やがて商品取引の岡藤商事を設立、伊藤は専務に就任する。同時に希代の相場師、伊藤忠雄が商品先物市場で大きく羽ばたく時がくる。
  昭和31年には繊維市場に登場して人絹糸の買い思惑で勇名を馳(は)せ、同33年には笹川良一と組んで黒糖の大仕手戦で主役を演じ、同35年には豊作で沈滞にあえぐ穀物市場を舞台に東京、大阪、名古屋の3市場を股にかけ小豆大暴騰劇を演出した。翌36年には生糸市場に出陣して黄金時代を築き上げ立て役者となる。神戸生糸取引所の三木瀧蔵理事長(三共生興創業社長)をして、「不振の生糸取引所を今日の隆盛に導き、振興したのは近藤信男、伊藤忠雄の両氏のお陰です」とうならせた。
  この間、伊藤は大阪穀物取引所(現関西商品取引所)仲買人協会会長として猛者たちを束ねる行政手腕も発揮する。
昭和36年、社内事情から岡藤商事を去って、目と鼻の先に三協商事をはじめ、社長に就任、瞬く間に大阪でAクラスの仲買人へと躍進させる。岡藤商事からごっそり社員が伊藤についていったのは伊藤の人間的魅力にあった。若き日、伊藤のもとでカバン持ちをやっていた藤田庸右(元フジチュー会長)が言う。「伊藤さんは“男の中の男”という存在でした。大胆かつ細心の気配りで、人をひきつけて離さない。この人のためなら、という気にさせる人でしたよ」
  当時マスコミは伊藤のことをI氏と呼び、「I氏の買い出動」とか「I氏の陽動作戦」と書き立てた。伊藤のコメント次第で相場が上下に動いた時期がある。
  筆者が会ったのはもう伊藤の絶頂期は過ぎていたころ。だが、太いまゆ、大きな目玉、静かな語り口、そして核心に触れる話には一切口を割らなかったように記憶している。
  戦後最強の勝負師と称された伊藤忠雄の晩年はわびしい。伊藤をよく知る投資日報社の鏑木繁が書いている。「入院した病院の赤電話でガウンのポケットにいっぱい硬貨を詰めて相場を張っている姿を見て悲しくなった」
  伊藤とゆかりの岡三証券、岡藤商事の社史にも伊藤の足跡が触れられていないのはあまりにも強い相場への執念のせいかもしれない。=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・身内から欺け(いかにも買い出動したかのような玉を建て、それをオトリ玉とし、別の店で売る)。
・期近限月買い・期先限月売り、大阪買い、東京売りなど両面作戦で智略を巡らす。
・天才的な相場感覚と綿密な計算と深い読み。
・相場取引を収益性の高いビジネスに仕上げる。
(いとう ただお 1908―1984)
  明治41年三重県出身、叔父加藤清治が創業した岡三証券常務として営業の采配をふるい、昭和29年加藤氏とともに岡藤商事を創業、専務に就任、数々の仕手戦で主役を演じる。同35年岡藤系列の三愛商事社長、同36年三協商事社長、この間、大阪穀物取引所(現関西商品取引所)仲買人協会長。同38年三協商事を辞め、マルミチ社長のあと引退、昭和59年7月29日没。
(写真は藤野洵氏提供)

相場師列伝

綿布商いと米相場で常勝将軍、永岡弥兵衛氏(08/3/24)

相場の神様・近藤信男を手ほどき
  第2次大戦後、株式、商品両市場をまたにかけて数々の仕手戦に顔を出す近藤信男に相場の手ほどきをしたのが叔父永岡弥兵衛である。近藤の厳父繁八は近藤紡績所を創業し、名古屋綿糸布取引所の初代理事長を務めるなど中京財界に巨歩を残すが、その参謀として義兄を支えたのが弥兵衛だった。「中京名士録」は弥兵衛の奮闘ぶりをこう伝えている。
  「君は名古屋の生める一代の商傑、絶倫の材幹を提げて守成に甘んずるを能わず、偶々義兄近藤繁八が綿業界に一大飛躍を起こすに及び、家業は令弟に委し、近藤氏の帷幄(いあく、作戦計画を立てる本陣)に入り、その謀将として画策に努め、近藤氏が斯界(しかい)の旭将軍として雄名を天下にとどろかせたのも、君に負うところ少なからぬものがある」
  永岡弥兵衛は代々、名古屋で荒物雑貨問屋を営んでいたが、義兄の近藤繁八が綿布商で大もうけし、近藤紡績所を立ち上げると、弥兵衛は義兄のもとにはせ参じ、その参謀役として奮迅の働きをする。そして義兄が急逝した時、長男信男はまだ慶応に在学中であったため、弥兵衛が専務取締役として屋台骨を支え、2代目社長信男への橋渡し役を果たす。
  大正10年合資会社・山陰紡績所を創設、代表社員に就任する。まさに糸へん漬けの毎日かと思いきや、そうではなかった。綿布商のかたわら米相場をでっかく張っていたのである。前出の「中京名士録」にあるように、綿糸と米の両刀遣いであった。
  「期米(米の先物)に対しても深き興味を感じ、巨額の資金を動かして名古屋はもとより、東京、大阪の市場に5万、10万の大玉を続発し、東海一の大手筋たる盛名を全国的に伝えて、名古屋商人のために万丈の気を吐き、しかもその巨弾は命中せざるなくして、常勝将軍の勇名をとどろかせ、贏利(えいり、利益)また数百万と称せらるる」
  名士録だから多分「ヨイショ」はあるにしても大変な剛腕ぶりで、まるで名古屋商人の代表格のような扱われ方である。「相場の神様」とか「天下の勝負師」などと称された、おい近藤信男も叔父の前にはたじたじである。弥兵衛賛歌はまだまだ続く。
「君は大胆にして細心、ことに臨んで思慮すこぶる周到、微細を穿(うが)てる採算によって大勢の赴くところを洞察し、確固たる信念を得るや、決然邁進して眼中前敵を見ず。戦えば必ず勝つも決して偶然ではない」
  しかも友情に厚く、知人の窮状を見ると、大金を惜しまず投げ出す義侠(ぎきょう)の士でもあったという。
  地元名古屋では超ド級の讃辞を贈られる弥兵衛だが、大阪堂島では評判がすこぶる悪い。名古屋では大胆な勝負に出た弥兵衛だが、堂島ではサヤ取りに徹したらしい。古来、堂島では相場師は男の仕事だがサヤ取り師は女の仕事とサヤ取りを軽視する風潮がある。辛辣(しんらつ)評で知られる夕刊大阪新聞の青江治良記者は「質屋と高利貸しのカクテルみたいな男だ」などと酷評しているが、弥兵衛が手堅くサヤを稼いでいくことに対する嫉妬(しっと)心のようなものも感じ取れる。
  弥兵衛は決して成り行き売買はしない。必ず指値で注文する。しかも1節(1回の立ち会い)10枚(最低売買単位)の注文ときているから、マスコミの目には、なんとも絵にならない相場師に映ったことだろう。だが弥兵衛は手厳しい世評など馬耳東風、市場のアカと呼ばれるサヤ取りに徹した。その細かいサヤ取り注文を受けてくれるのは、弥兵衛の子分、北川米太郎くらいのものだった。北川だからこそ、親分のきつい注文を受け付けたに違いない。
  「よく言えばサヤ取り、悪く言えばカスリ(掠り、うわまえをはねること)で今日の大を成した」などと悪口を浴びせる青江記者も、「悪口を叩く男があっても、ここまで仕上げた永岡氏の努力はなんといっても豪者(豪傑?)だと敬意を表したい」と最後は脱帽するしかなかった。=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・1節10枚の指値注文(1回の立ち会いでは最低売買単位の商いにとどめ、成り行きではなく指値注文を出す)
・成功しても身を処するにすこぶる質素、食事は駅弁で平気(「仕手物語」)
・大胆で細心、思慮周到、採算で大勢を洞察し、確たる信念を得るや決然邁進(「中京名士録」)
(ながおか やへえ 1887―1944)
  明治20年先代永岡弥兵衛の長男として名古屋に生まれ、幼名は悦太郎。名古屋市立商業学校を卒業、同40年家督相続とともに先代の名を襲い、代々営んできた雑貨卸商を継ぐ。大正10年山陰紡績所を創業、代表社員となる。義兄繁八が亡くなると近藤紡績所専務に就任。趣味は野球で六大学、中等学校野球の観戦に追われ、選手養成の資金や家族の生活費なども惜しまなかった。
(写真は藤野洵著「天下の相場師―人間近藤信男」より)

相場師列伝

北浜の猛者束ねる徳望の士、芝田大吉氏(08/3/31)

客に向かわず絶大の信用
  沙羅双樹の長編小説「浪花の勝負師 北浜に華と散った男の生涯」は岩本栄之助が主人公だが、冒頭に芝田大吉が登場する。日露戦勝バブル景気で諸株が沸騰していた当時、北浜の株仲買たちはお客に売り向かい破綻に瀕(ひん)していた。そのころ大株の仲買人組合委員長の重責にあった芝田は仲間の窮状を打開するには、大株の大株主である岩本の力を借りるしかないと判断した。
  沙羅はこう描いている。(以下抄録) …岩本が巻きたばこをくゆらしているとのれんを分けて芝田大吉が入ってきた。「お忙しいところすんまへん」。芝田があいさつをしてすぐ用談に入った。「北浜市場は諸株高騰で少し過熱状態になってきました。情勢は険悪です」「北浜市場の商いが盛んなのは結構やおまへんか」「仲買店には売り向かっているのが大勢おりますのや」…
  この時、芝田は55歳、岩本は30歳。親子ほど違う年齢差だが、岩本に懇願して持ち株の放出を約束させた。ほどなく歴史的ガラが襲来、北浜の地場仲買は生き返った。岩本の義侠(ぎきょう)心と芝田のねばり強い説得が北浜の連鎖倒産を救ったと伝説化している。
  芝田は銭セと称する両替商に丁稚(でっち)奉公し、手代から番頭に昇進する。生まれながらの勤勉実直さが周囲の信用を博し、仲買人の資格を持つことができた。
  「華城(大阪)財界の第一人者、松本重太郎氏のお引き立てをこうむることすこぶる厚く、当時の松本氏は名義を貸しただけで、ボロ会社の株が上がるというほど素晴らしい勢力があっただけに、そのお引き立てをこうむる“芝大”の頭からは後光が差した。三菱家の注文も入ってくる。伊勢長者の諸戸家からの御用も承るという風で、同店の商いは筋の通った骨のあるもんばかり…」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  引用文中の松本重太郎は、東の渋沢栄一、西の松本重太郎、と並び称されるほどの事業家で彼から注文が入るのは、よほど信用が厚かったということだろう。
  富裕層、機関投資家からの大口注文を受けて立会場で大きな手を振るのだから、芝田の手口は相場を左右する勢いだった。当時多くの仲買はお客の注文に反対売買して呑(の)んでしまう風潮の中で、芝田はお客に向かうことはしなかった。それが信用を一層厚くした。
  芝田は別の視点からも後の史家から称賛を浴びる。「社会奉仕に意を用い、国家へ赤誠の尽力をしたこと、しかも売名的でなく衷心からの奉仕的精神が出現したもので、故人の大慈相が遺憾なく現われて我々をして、うたたその有徳の大精神を偲ばせる」(藤山貘郎著「大阪財閥論」)。
  “芝大”の奉仕活動の1つに苦学生への奨学資金の提供がある。本意についてはこう語っている。
  「私は子供もたった1人だし、天下の相場師として何とか社会へご報恩したいと思います。私の楽しみは私の学資を受けてくれる若い人達が続々と出世していくのをやがて草葉の陰から眺めていたいのです」
  大正7年、岩本がピストル自殺して2年後に病没、長男栄一が2代目芝田大吉を襲名するが、大阪高商(現大阪市立大学)卒の2代目は仲買業を嫌い、商売に身が入らず、古い店員たちも相次いで辞めていった。北浜の同業者との付き合いもなかった。同時代評は「所詮大相場師たらずといえども、将来何事かを仕でかすものと期待して可なり」と好意的だが、北浜切っての老舗芝大の名は次第に遠ざかっていった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・堅実なる奮闘的人物で温情に厚い。社会奉仕に意を注ぎ、国家へ赤誠の尽力をした(藤山貘郎による)
・勤勉実直で信用を博し、財界の大御所から注文をもらう(大阪今日新聞社による)
・頭脳の明透なるに非ず、胆力の放大なるにも非ず、学殖の深きにも非ず、純白雪の如くに透き通りたる清らかなる彼の人となりには100人が100人、嘆服する(近藤泥牛による)
(しばた だいきち 1852-1918)
  嘉永5年4月16日兵庫県で芝田雲市の次男として生まれ、明治9年分家して一家を創立、両替商を営み、同11年大阪株式取引所の創設とともに仲買となり、同36年大株監査役就任、大正3年辞任。この間大株仲買人組合の委員、委員長代理を長年務め、明治36年から同41年まで委員長を務め、大正7年他界、養子の栄一が後を継ぎ、2代目芝田大吉を襲名。
(写真は「大阪株式取引所沿革史」より)

相場師列伝

大正期に砂糖や株、土地で大もうけ、高津よね氏(08/4/7)

 古来「売った、買った」の立会場は女人禁制の場であった。だが日清戦争で米相場が高騰すると血の気の多い樋口一葉はじっとしていられない。高名な相場指南番の久佐賀義孝を訪ねる。「一葉日記」の2人の会話を再現すると――。
  一葉「一時の危険を冒してでも相場をやってみたいのです。先生の教えを請いたいのですが」
  久佐賀「申(さる)年生まれの23歳か。3月25日生まれは申し分ないが、希望が大き過ぎて失敗する相が出ている。いますぐおやめなさい」
  久佐賀の一言で一葉の相場師志願は却下されるが、明治も後半には富貴楼お倉やマダム貞奴が株で大もうけ、女性の投機界進出が始まる。そして大正時代に入ると女相場師が続出する。その代表格が高津よね。
  「北浜の猛者連はときどき、よねさんを訪ねて大量の証券投資をしてもらった。調査がよく行き届いているせいか、『イエス』『ノー』が早く、また絶対に損をしない。夫が洋行中に商売でもうけ、鉄筋コンクリート建ての立派な店舗を新築して、帰ってきた夫君をびっくりさせたというほどのエラ者だけに…」(松永定一著「北浜盛衰記」)
  夫の外遊中に大もうけした件はよねさん伝説のハイライトだが、その手段を巡っては、松永翁は商売(砂糖)といい、伝記作家の梅林貴久生は株と説が分かれる。推測だが、その両方ではなかったか。砂糖も相場商品だから大きく動く。砂糖と砂糖株の荒波を上手に乗り切って巨利を博したに違いない。
  高津よねは明治2年、大阪高津神社の神主の娘として生まれた。16歳の時、砂糖屋を開業した。後年「質素、倹約」を家訓とするが、商人としては気前よく振る舞った。
  「よねは客におまけを惜しまなかった。主婦に砂糖の分量を、丁稚や子供には黒砂糖や氷砂糖をにこやかにおまけしてやることを心掛けた。ケチケチ精神ではとても新しい店が客の心をつかむことはできない」(梅林貴久生著「実録 相場師」)
  大正時代の欧州大戦バブル景気でよねは北浜の「女もうけがしら」と呼ばれるようになる。仲買人の“よねさんもうで”も増えるが、気前よく注文を出すことはしない。仲買人が熱心に株を薦めても納得がいかないときは“さよか”と肯定も否定もしない。仲買人が「買っていただけるのでしょうか」と催促すると、よねのきつい一撃を食らう。
  「すぐに断るのも気の毒や思うて“さよか”というてんのや。私のいう“さよか”は“アカン”という意味や。心得ておきなはれ」(「北浜盛衰記」)
  よねのもとには、「相場の極意」を聞き出そうとプロの相場師も訪ねてくるようになる。そんなとき、よねは「相場のコツは、安く買って、高く売るだけです。他には何もありません」と煙に巻いた。「相場の極意」は気易く他言するものではない、と言いたかったのであろう。
  ところで、高津家に入り婿としてよねの夫になる第19代高津久右衛門は若き日、大思惑師香野蔵治の参謀として黒糖や米、株と投機界で暴れまわった。後に大日本製糖常務になり、大正14年大阪砂糖取引所を創立、理事長として終生砂糖市場の采配をふるった。日本初の砂糖取引所を設立するに先立って欧米市場視察に出掛ける。帰国してみると、よねの才覚で木造の旧店舗が鉄筋コンクリートに建て替わっていた、というのはこの時のことだろう。
  よねは株のもうけを阪急沿線の土地に投資した。「本業のお砂糖のほかに、一番もうけさせてもろうたのは、株と土地でした」。よねの言葉として今日に伝わっている。
  大正から昭和初めにかけて「阪神の“両よね”」と謳われた。1人は鈴木商店の女主人、鈴木よね、もう1人が高津よねだった。ともに相場の浮沈と深くかかわった生涯だった。「よねは、いくら損害を受けたのか、周囲の者にはいっさいもらさず、ヘマをした恥の上塗りを笑顔でつくろった。太っ腹な二重底で生涯、決してグチをこぼさなかった」(梅林貴久生)=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
  信条
・愚痴や泣きごとは恥の上塗り
・本業(砂糖)に関連した株を買う
・株は家の財産保全の1つ
・貯金の利息よりも割りがよかったら、それでええ
・どんな相場も筒一杯の金でやるもんやない
(こうづ よね 1869―1965)
  明治2年大阪生まれ、父第18代高津久右衛門は高津神社の神官で実業家でもあった。16歳で砂糖屋を開業、大阪投機界の大物香野蔵治の仲人で八条八十八(第19代高津久右衛門)と結婚、5男3女をもうける。本業の砂糖業に関連した砂糖株、船株等に投資、そのもうけを土地に投資した。昭和40年96歳の大往生。
(写真は梅林貴久生「実録 相場師より」)

相場師列伝

宣教師から兜町入りの宮崎敬介氏(08/4/14)

豊川鉄道株の仕手戦で乱手振らせる
  大阪財界の惑星・宮崎敬介が兜町興亡史に名を残すのは、若き日の暴挙のゆえである。
  キリスト教の宣教師の職を投げうって兜町入りしてからほどない明治33年(1900)年、横山源太郎と天一坊・松谷元三郎による豊川鉄道の買い占め戦がぼっ発する。この時売り向かったのが、独眼龍将軍の半田庸太郎、山一の小池国三ら兜町の有力仲買で、宮崎も売り方に加担する。
  宮崎はそのころ兜町で甲(かぶと)という仲買店を経営していたが、まだほんの「雑魚の魚(とと)まじり」でしかなかった。だが、ただの鼠ではない。それはこの仕手戦の終盤ではっきりする。
  独眼龍一派の売り攻勢にもかかわらず、株価は上昇を続ける。売り方はひそかに現株集めに奔走し始めるが、東京には一枚も現物がない。天一坊が買い占めに取りかかる前に現物をかっさらっていたのである。東京にないと分かると売り方は地方の株主を回って現株の入手を図るが、やっぱり現物はない。
  実は目先のきく紅葉屋の神田雷蔵がかき集めた後だったのだ。受け渡し期日が近づくと独眼龍たちは、やむなく神田から言い値で分けてもらうが、それでもなお860枚足りない。このままだと半田以下7人の仲買人は違約処分を受け、市場から永久追放されてしまう。8人の猛者たちは密議をこらす。なんとか犠牲者を少なくする手はないか。カラ売り玉を1人の仲買人に集中させ、他の7人は違約処分を免れる方法を模索する。この時、名乗り出たのが、宮崎敬介だった。後年、述懐している。
  「僕はそのころ、ほんの駆け出しで資産も何もなかったから、いわば『空馬にけがなし』で、違約処分なんかそれほど恐ろしくは思わなかったが、小池、半田、今井、石見はじめ売り方の仲買は皆一流ばかりで、これが処分されると大変だ。一州を取るも誅(ちゅう)せられ、八州を取るも誅せられる。どうせ首の座に坐るなら7人の売り玉を引き受けてやろうと思ったのさ」(狩野正夫著「商戦秘話」)
  せっかくの宮崎の義きょう心だったが、買い方陣営に見破られて実行できないまま、受け渡し期日を2日後に控えて窮余の一策、買い占め派の機関店須藤健助の場立ちを買収して逆手(乱手)を振らせるという暴挙に出る。ことと次第では手が後ろに回ることを覚悟しての買収役を買って出たのは宮崎で、1000円(現在の価値にして約500万円)を場立ちの牧野新太郎に握らせる。買い方のはずの牧野が突如売りの手を振ったため、相場は一転暴落、天一坊は苦杯をなめる。買い方は売買契約の無効を訴え出て訴訟となる。忸怩(じくじ)たる思いの宮崎は当時を回顧して正直にこう語っている。
  「今だから言うが、あの時はひどいことをやったものさ。もし須藤の場立ちが逆手を振ってくれなかったら、売り方は200万円くらいの損を負担しなければならなかったろう」(同)
  兜町での荒仕事のあと、宮崎は大阪に本拠を移し大株の常務理事をつとめながら株式仲買店「加富士商店」を開業する。伝記にはこうある。
  「株米両方の表裏に精通せるため商略よく適中し、大いに無敵振りを発揮し、その進退は斯界の耳目を聳動(しょうどう)せしむるに至った。北浜、堂島における彼の威望は熾(し)たるものあり」
  大正期の大阪投機界は北浜の島徳蔵、堂島の高倉藤平の両巨頭が君臨していたが、宮崎はその双方と気脈を通じていた。大株常務を十数年つとめるかたわら大正6年には高倉藤平没後の堂島米穀取引所理事長として8年間采配をふるった。
  大阪新報社長時代、「宮崎敬介、検事局に召喚」の三段抜きの記事が出ると、即座に社長の椅子を投げ出した。大阪電燈社長時代、大阪市が同社の買収に乗り出すと、株主の利益にこだわって快腕をふるった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・彼は知謀家であり、手腕家であり、同時に実行力に富める人物であった。また優れた雄弁家で滔々(とうとう)懸河(けんが)の弁は聴くものを酔わす。実業界稀(まれ)にみる舌鋒(ぜっぽう)の所有者で闘争力盛んなものがあり、関西財界で飛ぶ鳥落とす威勢があった。(「財界物故傑物伝」)
(みやざき けいすけ 1866―1928)
  慶応2年大阪で生まれ、熊本の人宮崎勇太郎の養子となる。早くに神学を修めハワイで宣教師となるが、帰国後、東京株式取引所の仲買人となり、明治33年豊川鉄道の買い占めで名をあげる。同36年大阪堂島米穀取引所支配人、同39年大阪株式取引所常務理事、同42年株式仲買「加富士商店」を開業、大正6年堂島取理事長、同9年大阪電燈社長。この間、大阪市議、大阪新報社長などをつとめた。
(写真は大株編「大阪株式取引所沿革史」より)

相場師列伝

1等車で聞き耳立てる、松永定一氏(08/4/21)
大阪商船の買い占め、ドタン場の勝利

 松永定一はその著『北浜盛衰記』が広く流布しているため北浜の語り部のように思われているかも知れないが、実はれっきとした相場師である。「北浜の太閤さん」と呼ばれた大物相場師、松井伊助の女房役としていくたの仕手戦を闘い抜いてきた。自らも時に大思惑を張った。
  松永が独自に仕掛けた買い占め戦としてよく知られているのが昭和15年の大阪商船(現商船三井)のそれだ。親分の伊助はすでに他界し、友人の山本政太郎と共に大阪株式取引所の取引店を経営していたが、70円前後で低迷している大阪商船に狙いを定め、2万株ほど買い集めた。そのことが新聞で報じられると売り物がどっと現れ、12~13万株も集めることとなる。だが、株価は82円どまりで一向に上向かない。
  「私は刀折れ、矢尽きた。仕方がないから熱海のホテルに泊まって、2、3日寝転んで考えたものだ。いつまで泊まっていても仕方がないので、悄然と大阪に引き揚げた時、ヒットラー、宣戦布告の号外である。シメタ、と思って店に飛んで帰ると、大爆発の内気配(うちけはい)で、夜というのに、地場の玄人が12、3人集まっている。引け後の気配が20円以上も高い。買ってないから少しくれというのだ」
  地元の顔見知りに頼まれれば、1人占めするわけにもいかず、引け値で希望の株数を分けてやった。翌日は果たして大暴騰、118円の高値まであったが、松永は103~104円ですべて売り放った。この時のもうけは当時の金で180万円に達した。鯛(たい)の骨までしゃぶろうとするとノドに骨が刺さることを知っている松永は、天井から15円も下で持ち株を処分したことに悔いはなかった。その時の心境をこう記している。
  「買い占めるというものは、人のうわさほどもうかるものではなく、苦労が多くて、全く命が縮まる思いだ。まかり間違えば首吊りものだ。もう一生買い占めなどやるものではないとしみじみ思った」
  松永は汽車は1等車を利用する。それは1等車には政財界の大立物が乗っていて、要人と近づきになれるチャンスがあるし、耳をそば立てていると、重要ニュースが飛び込んでくることがあるからだ。関東大震災から1カ月たった大正12年10月1日、東海道線が横浜まで開通するが、その時も松永は1等車で上京することにした。展望車に乗っていると、鐘紡社長の武藤山治が乗り込んできた。親戚に当たる八木商店の八木与三郎や長男八木幸吉らとヒソヒソ話が始まった。
  武藤は相場師が大嫌いである。相場師を見ると飯が食えないという位の相場師アレルギーの人。それは、かつて鈴久に鐘紡株を買い占められ、経営陣を追われた苦い経験からきているのだろう。北浜では相当顔の売れている松永のことも知らなかったとみえる。松永が聞き耳を立てていると、かすかに「新株をくれ、くれとうるさくて…」というつぶやきが聞こえた。
  松永はこの時、鐘紡の増資計画のことではないか、と読んだ。かたくなに増資をやらずにきた鐘紡がついに増資に踏み切る─―。そうにらんだ松永は名古屋で途中下車し、駅前旅館で電話を借り、5000株の鐘紡株、成り行き買いを指令した。さらに5000株買い増し、東京行きは中止、大阪に舞い戻った。2ヵ月半後に鐘紡は増資を発表、株価は大暴騰、松永はもうけを満喫した。
  松永の早耳情報に乗った木津の魚屋松本徳兵衛のもうけは大変なもので、7カラットのダイヤを指にはめるほど鼻息が荒かったが、欲をかき過ぎて没落する。そんな例をいやというほど知っているだけに、松永は鯛の骨までしゃぶることはしない。
  昭和6年、親分松井伊助が臨終に陥ったとき、松永は「何か遺言はありませんか」と聞くと、太閤さん曰く「人間というものは、なるようにしかならんもんや。時に新東の相場はいくらじゃ」。親分は死の床でも新東株を売買していたのだ。相場の鬼ともいうべき伊助の最期だった。それに比すれば、松永は少し冷めた相場師だったといえよう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・もうかることのうれしさに、いつまでも買いまくるのは失敗のもと。腹8分目にしておけ
・鯛の骨までしゃぶるとノドに骨が刺さる
・買い占めは人のうわさほどもうからない
・相場とは、しつけの悪い犬のようだ。なれなれしく寄り添うかと思うと垣根をくぐって走り出し、帰ってこない
(まつなが ていいち 1893―1977)
  明治26年和歌山県出身、同42年父の従兄弟に当たる大仕手松井伊助が経営する松井伊助商店に入り、株式売買に従事。伊助の女房役をつとめる。大正13年自動車の大衆化を図るため、日本で初めて円タク会社を創立、昭和4年大阪株式取引所の一般取引員山本政太郎と共に仕事をする。同19年大和証券に吸収合併されるが、筆頭株主として相談役に就任。後ナショナル証券顧問。著書に「金輸出再禁止不可避と株式相場」「北浜盛衰記」などがある。

相場師列伝

奇利と巨損を繰り返した小柳正治氏(08/4/28)

昭和33年の船株暴落で没落
  小柳正治はエピソードがいっぱいの男である。兜町の人物論に詳しい三鬼陽之助が書いている。
「小柳は仕事一筋に生きた男で、戦前ははだしで兜町を飛び回ったという。戦後、取引所が再開されたころには自転車に乗って、顧客の注文を取って歩いた。当時は自転車泥棒が多かったので、いつも自転車をかついでビルの屋上に運び上げたといった逸話の持ち主である」
  小柳の青少年期は不透明な部分が多い。三鬼によると23歳のときに上京し、第六商会という小さな株屋に勤め、外交員の一歩を踏み出し、丸玉証券、成瀬証券の外交員をやっていたというが、戦後本人の語ったところは次のようである。
  「専門学校を途中で投げ出して海外に放浪の旅を続けて4年、裸一貫で帰ってきたのが大正7年で第1次欧州大戦の真最中でした。『よし来た! 生きるためならなんでもやろう。素人も玄人もあるものか』と神戸でチャーター業を始めました。たちまち数十万円の金を手に入れました」
  小柳の語るチャーター業とは船舶のことだろう。当時、神戸を根城に内田信也、山下亀三郎、山本唯三郎、勝田銀次郎たちが船舶のチャーターで奇利を博し、船成金四天王ともてはやされていた。小柳はおそらく成金たちに付和雷同しているうちに生来の博才がものいって大もうけしたのであろう。そして夢と野望を抱いて兜町の客となる。
  現物取引などまだるっこいとばかり先物を買う。全財産の3倍もの株を買い込んで、上州の名湯、草津温泉で湯もみしながら値上がりを待っていた、というからいい気なものである。たちまち暴落に見舞われる。欧州大戦中といえども、株価は決して直線的な右肩上がりではなかった。起伏に富んだ複雑な動きを繰り返している。北浜の大相場師岩本栄之助がピストル自殺したのもこのころだ。
  にっちも、さっちもいかなくなった小柳は宿代も払えない。「大坂屋という宿屋の番頭を馬(付き馬。不払いの遊興費等を受け取るために遊客に付いていく人)にして乗って帰った。当時の損が約50万円くらいでしょう」。今日の価値に直せば、ざっと5億円の損だろう。この時、小柳は思い知った。「世の中に株ほど恐しいものはない。しかし、これほど面白いものはない」。こうして30歳にして兜町の店員になり、営業に従事する。
  昭和6年には1本立ちして小柳商店を開業するが、同11年欲をかいて大失敗する。実は前年、東洋レーヨンの株式が公開された時、三井の関係者から40円で1万株分けてもらった。その時「100円になったら売り放せ」といわれ、自分もそう決めていた。そしてとうとう100円台に乗せ、60万円の利食いを楽しみに、自ら立会場に乗り込んで手じまいするつもりが、逆に1万株を買い乗せてしまった。一瞬の心の迷いと本人は口惜しがるが、「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」気持ちが働いたのであろう。その数日後、2.26事件の勃発で株価は大暴落、当時の金で80万円の大損をこうむった。
  戦後の小柳は山崎種二と並ぶ相場功者と称され、「小柳が買っている」といえばたちまちチョウチンがつく勢いがあった。昭和27年正月号の経済雑誌でとうとうと相場哲学を語っている。
  「相場というやつは、学問でならず、実際でならず、その中間をいった一つのカンというもの、これが相場哲学である。現在は金詰まりで、誰もが株を売りたいのが本当であろう。ところが、実際は逆に買っていかなければならん。これが一つの証券哲学である。…人間の利殖心理からいって、投機というものはやめられないものである。これは人間の本能なのだから」
この年、朝鮮動乱特需で株価は奔騰、東証ダウは200円から400円に迫り、小柳の強気観は的中する。
  日本化薬社長の原安三郎の知遇を得て、原の機関店として確たる地位を築いたが、昭和33年の船株暴騰の際、生来の強気で買いまくって破綻、小柳証券は山一証券に身売りする。65歳。自身は千代田生命保険の外交員となる。証券の外交で始まり、保険の外交で終われるのも奇しき因縁である。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・経済界の動向を10分見定めて出動する
・会社の内容以上に経営者に重きを置く
・特別の場合を除き額面以下の株式は避ける
・投資は数種類に分散投資する
・底値を買わず、天井を売らぬこと。すなわち『腹八分』ということ
(こやなぎ しょうじ 1893―1984)
明治26年2月福島県安達郡針道村に生まれ、地元の高等小学校卒、専門学校を中退して4年間海外を放浪の後、大正7年裸一貫で帰国、神戸でチャーター業を始める。たちまち大もうけ、兜町に乗り込んで失敗、大正10年成瀬省一商店に勤務、昭和6年小柳商店を開業、現物売買を行う。同12年東株実物取引員、同19年小柳証券に改組、同33年船株暴落で山一証券傘下に入り、社長退任、千代田生命の外交員となる。同59年没、91歳。
(写真出所は三鬼陽之助著「悲劇の経営者」より)

相場師列伝

「天下の糸平」を一杯食わす、大江卓氏(08/5/12)
公債、米相場に「武士の商法」で失敗

 大江卓が初めて相場とかかわりを持ったのは明治6年ころのことだ。政界進出をもくろみ、活動資金作りのため岳父後藤象二郎と新橋駅頭で蓬莱社を旗揚げした時である。廃藩置県後、明治政府が家禄を失った士族救済のため発行した秩禄(ちつろく)公債の売買で一時は大いにもうかった。だが、士族の商法の悲しさ、行き詰まってしまう。秩禄公債を巡っては多くの投機師が参戦するが、大江は負け組だった。
  後藤は公債売買の失敗の穴埋めに炭坑買収に乗り出す。当時、最新の洋式の設備を誇っていた高島炭坑を手に入れるが、これもうまくいかない。大江が岳父の尻ぬぐいに米相場で一攫(いっかく)千金の勝負に出るのはこの時だ。
  明治9年ころのことだが、新聞の外電が欧州での米価高騰を伝えていた。当時、国内では米がだぶつき安値をつけていた。そこで大江はソロバンをはじく。日本の米をロンドンに運ぶと1石(150キロ)当たり1円以上の純益が出る計算である。大江は懇意にしている横浜・英一番館のウイットと密議をこらす。そして3万石の米をロンドンに送ることになる。
  大江は市場で米を買い集め、深川で汽船に積み込みを始めた段になって、またまた武士の商法の悲嘆を味わう。
  「大事なところに手抜かりがあって、斤量計算と枡目計算との間に意外な開きが出た。大江とウイットとの計量は、枡目計算が根拠であったので、予定の斤量を充たすには大変米が足りなくなった。そこで質は悪くても目方のある米ということで、当時南部米(岩手産)が目方があって値段が安かったから、盛んに買い込んだ」(東京日日新聞編「財界ロマンス」)
  そのころ米市場は坂本町にあったが、大江は手当たり次第に買いまくり、2万石余も買い込んだ。この買い占めは市場の話題を呼ぶ。米が余っている時、これほどの米を買うのは一体だれか、なんのためか、米市場の相場師たちの頭を悩ました。当時、米市場に君臨していたのは「天下の糸平」こと田中平八。糸平は情報網を総動員した結果、買い占めの本尊は大江卓だと割れた。糸平はかつて横浜で生糸相場やドル相場の仕手として鳴らし、大江が神奈川県権令(副知事)時代に交友があった仲。糸平は早速、大江を訪ね、手のうちを質す。
  糸平「近ごろ、あなたは大分米を買っているそうですが、一体これからどのくらいお買いになる肚(はら)ですか」
  大江「…」
  糸平「私も相場師だ。田中平八といえば、多少は男も売っている。あなたがそれを話してくれるなら相当の謝礼をしましょう」
  大江「さすが糸平だ。お前にだけ話してやるから1万円出すか」
  これにはさすがの糸平も驚いた。今のカネにすれば、ざっと5億円はするだろう。押し問答の末、8000円で手を打った。糸平は即座に8000円の小切手に署名捺印した。そして、大江いわく。「わしはもうこれ以上は買わないよ」
  これには糸平も怒るまいことか。ひとを馬鹿にするにもほどがあると、すごいけんまくだったが、大江はたった一言。「平八、貴様はまだ素人だよ」。大江から素人呼ばわりされた「天下の糸平」の形相たるや想像もつかないが、仕手戦の最中に本尊にカネを支払って手口を聞き出そうとした愚かな行為にほぞをかんだに違いない。だが、「大江が買わない」ことに確信を得た糸平は大量のカラ売り玉を建て3万円もうけたとは、さすが糸平。大江は手にした8000円で米の損失を埋め、買い占めた米はロンドンに輸出した。
  大江が東京株式取引所の頭取に就くのは明治25年のこと、翌年取引所法の成立で呼称が理事長となり、初代東株理事長として同31年まで兜町の采配をふるった。
  大江は伊藤博文、後藤象二郎、陸奥宗光、井上馨らとの人脈に恵まれ、取引所法成立に貢献、改革に意欲を燃やし、全国の取引所や仲買人から感謝状が贈られるが、次第に専制色が強まり、仲買人の反発を買うようになる。31年に勃発(ぼっぱつ)した北海道炭坑鉄道の買い占め事件の責任を取って辞任する。大江自身がこの買い占めに加担していたとの疑惑もかけられたが、真相はいまや知るよしもない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・大江は世間的な出世を望んだことはなかった。権勢欲が希薄であった。生涯を通じて一貫して流れているものは権力の理不尽に対する飽くことない反抗だった(三好徹による)
・政治といったところで、一にも金、ニにも金、三にも金である。そこでわが輩はひとまず実業界へ飛び込んだ。富を作り、他日捲土(けんど)重来に備えるために(本人述懐)
(おおえ たく 1847―1921)
  弘化4年高知県柏島生まれ、維新後は官僚の道を歩み、明治5年神奈川県権令(副知事)、マリア・ルーズ号事件で名を上げ、同10年西南の役に際し、林有造らとクーデターを企て入獄、同17年仮出獄、同23年第一回総選挙に当選、予算委員長として活躍、同25年東京株式取引所頭取(後に理事長)、同31年辞任、大正2年突如剃髪、以降部落解放運動に働き、水平社運動の元祖とされる。
(写真出所は稲葉博編「かながわの100人」より)

相場師列伝

相場は何でも知っている、岩田宗次郎氏(08/5/19)
綿糸、綿紡株買いで大もうけ

 岩田宗次郎は厳父惣三郎譲りの相場巧者で、強心臓の持ち主でもあった。大先輩の田附政次郎のことをこう言っている。「田附将軍はいろいろ教えてくれたが、相場の上ではわたしの相手方になった。わたしが買うと売る。売ると買う。冗談半分でやってましたんやろ。世界の大相場師やったからな。けどわしは大体に損をしなかった」
  父岩田惣三郎は信心深く、相場界では「本願寺」の異称で呼ばれた。「田附将軍」こと、田附政次郎と演じた「岩田本願寺」の闘いは大阪三品取引所の黄金期の語り草として今日に伝わっている。惣三郎が引退後は宗次郎が2代目本願寺として田附将軍を相手に虚々実々の思惑を闘わせた。宗次郎がデビューしたころの戦いぶりを宮本又次はこう記している。
  「素晴らしい才気で綿業界にデビューした。現物も買うし、定期(先物)も買い、彼の強気はことごとく的中、危険なことも、彼がやると不思議に安定して当たり前に見えてくる。田附政次郎もこの若者に一目置いていた」(「大阪商人太平記」)
  田附は売りの名人で、天井を見定めて売りで取るのが上手だったが、岩田は買いを得意とした。大正3年欧州大戦が勃発(ぼっぱつ)した時、岩田は戦火は拡大、長期化し日本にはどえらい景気がくるとにらんで綿糸を買いまくった。紡績株も買い進んだ。世間では「あんな小冠者がなんや」とどんどん売ってきた。先物相場が「逆ザヤ」(期近より期先の方が安い現象)を呈し、先行き悲観人気が強いことを示していたが、岩田はひるまず買った。
  宮本又次は大正5年の綿糸相場を「岩田相場」と名付けた。1コリ(約181キロ)当たり120円台から190円台まで高騰するのは岩田の買いの力によるものだった。翌6年は「山嘉相場」と呼ばれ、思惑師の山口嘉蔵の買いで7月に460円という突拍子もない高値が現出するが、同年12月には反動が出て230円台に逆戻りする。宗次郎は傷心の余り、買いの手を鈍らせていた。
  この時、すでに第一線を退いていた厳父惣三郎からきつい一撃が飛び出す。「400円の糸を買ったお前らが200円の安値をぼんやり見送っているとは、どうしたことや。意気地がなさ過ぎるじゃないか。おれが一番乗り出して、老いの手並みを見せてやろう」。惣三郎にあおられて、宗次郎も再び買い直しに入る。
  大正7年は石井相場。横堀将軍・石井定七が「大戦後には戦中時の高値を上回る」と強気に出てまたも400円台を回復する。大正8年は群衆買いの熱狂相場となり、730円まで噴き上げるが、翌9年は歴史的ガラに見舞われ220円台に暴落、宗次郎も巨損を被った。宗次郎の回想談。
  「当時の人は商道徳もすたれておらなんだから、首をつるわ、鉄砲で自殺するわで大変な騒ぎやった。わしのやっている店も万事休すというところまでいった」
  宗次郎ら糸屋は紡績会社から先物契約で糸を買い、同じく先物で機屋に売っていたが、機屋が破綻して糸屋の土台がぐらついた。「丸紅、伊藤忠、わしらが損の大将やった。わしは紡績会社へ率直に頭を下げて頼んだら『お前は金がないことはない』といわれた。しかし、結局了解して値段を負けてもろうて片がついた」
  当時、宗次郎は横浜の茂木惣兵衛と共同出資で設立していた中外綿業がつぶれ、これの後処理を巡っては惣三郎が乗り出してきて、強引な采配をふるい“因業爺”呼ばわりされるが、修羅場になると、まだ宗次郎の出る幕はなかったようだ。
  時は流れて第二次大戦後、大日本紡績会長職のかたわら、厳父から引き継いだ真宗大谷派檀徒総代をつとめ、「金と度胸と見通しの的確さでは定評があり、男前でもあるが酒と女は遠い昔に卒業し、今は書画骨董によって心のクリーニングをやっている」と、マスコミは伝えている。大阪では小林一三とともに今太閤と呼ばれていたとの評もある。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場ほど人間の知らぬことを知っているものはない
・米綿の豊凶と価格変動を基本に商売をやり相場を見る
・昔の人は破産の時は私財を皆無視して解決した。大阪商人の神髄はここや
・人が死んだあとでも相場だけは残っているんやから、あせったり、悔やんだりすることはない。儲けたかて誇ることはない。そういうもんや
(いわた そうじろう 1887―1953)
  明治20年7月8日、岩田惣三郎の3男として大阪に生まれ、大正4年から先代に代わって岩惣商店を経営、同7年岩田商事を創設、大物相場師田附政次郎と大阪三品取引所で虚々実々の駆け引きを展開。昭和6年大日本紡績(現ユニチカ)監査役、同22年会長、同28年9月13日没、66歳。
(写真出所は「ニチボー七十五年史」)

相場師列伝

銅成金と称され、破綻後政界へ、久原房之助氏(08/5/26)
欧州大戦景気で巨利を占める

 久原房之助が相場師の本領を発揮するのは、大正3年、欧州大戦がぼっ発した時だ。開戦直後、銅価が暴落する。戦火の拡大で戦略物資たる銅の需要は急増するはずとにらんだ久原は銅鉱石、銅地金を買いまくる。久原の辞書には「逡巡(しゅんじゅん)」も「躊躇(ちゅうちょ)」もない。売らずにためるばかりだから資金繰りはきつくなる。
  「一時かなりの窮地に陥ったが、頑として彼はその主張を曲げず、四苦八苦の中を剛情にも切り抜けてしまった。間もなく銅価は暴騰し、戦前の値をはるかに超して天井知らずに飛び上がった。いや、儲けたの、儲けないの」(「実業之日本」大正6年10月10日号)
  久原はかつて三井銀行の池田成彬(後に日銀総裁、蔵相)に銅相場の波動について「5年に一遍くらいの周期で動き、下向きの時に設備に金をかけ、上向きの時に掘り出す」などと講釈して、池田をうならせ、資金を引き出したことがある。その研究の成果が実践で的中した。
  久原房之助が藤田組から独立して日立の赤沢銅山を買収し、日立鉱山とするのは明治38年のことだ。大正元年久原鉱業株式会社に改め、欧州大戦景気で巨利を占め、同5年に株を公開するとプレミアム付きで飛ぶように売れた。
  最初の増資は大正5年で25円払い込み、80円のプレミアム付きで10万株を公募したが、応募は35万株に達した。この「新株プレミアム付き売り出し」という手法は、新錬金術として以降大流行する。久原鉱業株は上場するとたちまち408円にまで高騰、すさまじい人気を呈し「国宝株」などと呼ばれた。「神戸・住吉の久原邸は3万5000坪の広い庭に、吉野川を模した清流をつくり、法隆寺の巨石をはじめ天下の名石を集めたという」(宮本又次著「大阪商人太平記」)。大正6年には第2回増資で資本金は7500万円に達し、満鉄の2億円に次ぐ巨大資本を誇る。
  久原が大分佐賀関に550尺(166.7メートル)の東洋一の巨大煙突をぶっ建てるのもこの時だ。久原の巨大煙突は鉱害対策ともう1つの狙いが込められていた。それは精錬能力の乏しい鉱山や海外から鉱石を買い取って(買鉱)、自社で精錬しようというものだった。久原のことを「無目的の投機師」などと呼んだ人がいるが、先を読み切って大胆に勝負した。
  銅成金と称された久原は海運にも乗り出し、日本汽船を創設、「造った船はでき上がるまでに何層倍の高値で、羽が生えたように飛んでいった」(前出)。
  大正7年には久原商事を旗揚げ、貿易業に参入する。まさに得手に帆を揚げて疾駆する図である。久原の辞書に“ためらい”を意味する言葉はなかったが、あまりの熱狂に少々震えが来始めていた。その証拠が「プラチナ」電報の1件だ。
  攻めダルマとなって買い込む久原にとって最大の敵は「欧州大戦休戦」の報だ。久原はパリ支店主任として赴任する倉林賢造に対し厳令を下した。「大戦終結の兆しが出たらすぐ知らせろ」。買いから売りへ、180度転換しなければならないからだ。その暗号を「プラチナ高い」と決めてあった。
  大正7年9月24日、倉林はパリ大使館の武官から休戦近しの情報をつかむと「プラチナ高い」と打電する。受け取った社員は意味が分らないまま引き出しにしまってしまう。プラチナ電報はホゴと化し、久原商事はさまざまな商品を先物契約で買いまくった。船舶などは強気にも2年契約でチャーターした。2カ月後ドイツは休戦を申し入れる。久原を取り巻く環境は暗転する。マスコミは久原の窮状をこう報じた。
  「久原商事は綿糸布、金物輸入、雑貨・麻袋の売買、肥料等の思惑にて傷痍(しょうい)をこうむり、多額の決済金を要するため幹部は連日善後策を講じていたが、久原氏は自己の不動産と骨董品を除いた他の私財をあまねく提供し、三井銀行の手によって整理を行うこととなり…」
  久原商事は破綻、本丸の久原鉱業は銅価が3分の1に暴落、1800万円あった純利益は520万円の赤字となり35%の高配当は無配、400円台の株価はたった28円に暴落する。しかし、破産は免れ、昭和2年、義兄の鮎川義介に後を託し、みずからは政界に転じ、いきなり昭和3年田中義一内閣で逓信大臣に就任、怪物と呼ばれる後半生に入る。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人間が一たびこれと思い定めて精魂を打ち込めば物事は大抵その通りになる
・なにしろ意志と根気の強い男。カネを惜しまなかった(伊藤金次郎による)
・空想家であり理想家であり、夢を追う青年の魂を情熱的に持ち続けた(古川薫による)
・目先の見えることでは天下一品。逡巡と躊躇は彼の辞書にない(実業之日本による)
・豪奢絢爛(けんらん)、傍若無人、不羈(ふき)奔放(大宅壮一による)
(くはら ふさのすけ 1869―1965)
明治2年山口県萩出身、同22年慶應義塾卒、森村組に勤務、同23年叔父藤田伝三郎の経営する藤田組に入社、小坂鉱山の再建に尽力、同38年独立して日立鉱山(後久原鉱業)を創業、欧州大戦景気で巨利を占める。同7年久原商事を設立、同9年のパニックで久原商事は破綻、久原鉱業も大打撃こうむる。昭和2年事業を義兄鮎川義介に譲り、政界に転じ、政友会総裁に就任、第2次大戦後は日ソ、日中国交回復に尽くした。
(写真は「日立鉱山史」より)

相場師列伝

少年期から相場師の才、原安三郎氏(08/6/2)

勝負師山本条太郎に師事
  原安三郎の女婿で大蔵省証券局長もつとめた坂野常和・日本化薬相談役(87)が岳父の後を継いで、まず最初に言われたことは「雨宮敬次郎伝と山本条太郎伝を読め」である。次に「火薬から化薬まで、原安三郎と日本化薬の50年」を読むことだった。雨宮も山本も投機心旺盛な事業家で、特に雨宮は「投機界の魔王」と呼ばれ、「天下の糸平」田中平八と双へきの19世紀を代表する相場師である。
  原が後継者に大物相場師の足跡をたどらせたのは、さもありなんと合点がいく。原には阿波商人の血が濃く流れていて、幼いころから投機心があふれていた。父親は相場変動の激しい藍玉商だった。日本経済新聞の論説委員だった筒井芳太郎が原の商才を証明する挿話を書いている。
  「わずか17歳の雑貨商が四国の徳島からはるばる野州(栃木県)に乗り込んで、あっという間に麻の買い占めをやってのけ、数日間に万金をつかんで意気揚々と引き揚げた。しかも、この少年が『金ばかりが人生ではない』と大悟1番、早稲田の門をくぐったと言ったら、講釈師好みの立志美談になりそうだが、この時代がかった物語の主人公こそ原安三郎にほかならない」(「財界人物読本」)
  鼻緒の芯に使う麻糸を求めて栃木へ乗り込んだ件は、原も日本経済新聞の「私の履歴書」に詳しく書いている。天候不順で作柄が悪いことを確かめると、年間必要量は150俵だが、1割の保証金を積んで800俵も買い契約、悠々と日光見物に出掛けた。麻の市が立つ栃木町に戻ると15%も値上がりしている。
  「当節利食いということを知らなかったが、受渡しをしなくても、そのままで商売できることを知り、保証金領収書で7万か7万5000円を利食いした」
  その後も値上がりが続き、全部手持ちしていれば20万円のもうけだったのに、と悔しがる。
  早稲田の商科を1番で卒業、三井物産の入社試験にパスするが、身体検査で不合格となる。しかし、当時三井物産常務で後に南満州鉄道総裁となる山本条太郎に認められ、山本が個人でやっている薬丸金山を手伝う。経営困難になっていた日本硫黄の株を3円45銭で買う。後年、兜町に機関店を持つほどの相場師、原安三郎の初の株投資であった。親分山本条太郎に薦められて買ったのだが、14~15円に暴騰、日本硫黄の再建に力を貸すことになる。
  欧州大戦下で船価が暴騰したときは、原も大もうけ。ある大豆成金がその後の相場暴落で手持ちの船2隻、1万トンを売却したいという話をつかんだ原は、山本と相談し34万円で買い取ることを決める。その話に横やりを入れたのが船成金の山下亀三郎で50万円で横取りされそうになってあわてるが、死守する。
  「船価はますます暴騰して運賃で35万円もかせいで、翌年700万円で売ったら大変なもうけだ。しかしぼくはまだ売りたくなかった。山本さんがもう少しがんばってくれたら1000万円で売れたのに、と今でも残念に思っている」(「私の履歴書」)
  大正末期、丸の内の日本火薬の部屋に、毎日株式気配表を届けに来る株屋がいた。成瀬省一商店の小柳正治である。後に独立する時、原は支援する。三鬼陽之助によると、「小柳は原の機関店」というから、原は相当大きな相場を張っていたのであろう。小柳の店がおかしくなった時、原は山一の小池厚之助に支援を頼む。小池は大神一社長に相談、「苦しい時助けることが、長期的に山一の力になる」と意見が一致する。原個人の株投資と同時に原が関係する企業群が山一トップの脳裏をよぎったことだろう。
  小柳は原の追憶文集の中で語っている。「証券界に入って引退するまで36年間、朝9時には必ずその日の相場と関係会社の株価を電話でお宅へ知らせました」
  原は金もうけだけではなく、和歌や俳句、狂歌もよくした。
  「条翁の多摩の榮域(えいいき)盆用意」
  原にとって勝負師山本条太郎は終世の師であった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・常に先を読み、いたずらに大きいことをよしとしない(稲山嘉寛による)
・数字をはじめ、すべてのものに対する超人的記憶力(梁瀬次郎による)
・人呼んで「会社再建の名人」と称した(永野重雄による)
・忍耐して屈せざれ。追従は常に戒めよ。威力を用うなかれ。他を頼らば破滅きたる(自作いろは四字人生訓より)
(はら やすさぶろう 1884―1982)
明治17年徳島市出身、3歳の時骨膜炎で右手左足の自由を失い、同30年肢体不自由を理由に県立徳島中を退学となり、同42年早大卒、三井物産に同じ理由で入社を断られるが、同社常務の山本条太郎(後に満鉄総裁)の個人的事業である薬丸金山、日本硫黄などに勤務。大正12年日本火薬(後の日本化薬)専務、昭和10年から同48年まで社長、同57年98歳で死去。
(写真は『原安三郎翁追憶録』より)

相場師列伝

堂島で鮮烈デビューし北浜で大勝利、三木信一氏(08/6/9)

姫路中学時代から相場に親しむ
  「彗星の如く飛来し堂島市場で大思惑を試み、考巧大手筋を向こうに回して火の出るような大接戦を演じ、一気に敵をほおって大勝を博した。当時市人の一大驚異であったと、今なお世人の嘆称する物語となっている」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  大正3年、堂島に突然現れ、名だたる老かいな相場師を相手に大勝利を収めた白面の青年、それが三木信一だった。「ただ一騎の若武者は老雄連をなぎ倒し、出陣早々に目覚ましい功名を立てた」と鮮烈なデビューが今日に語り継がれている。
  三木は、昔から投機界に多くの人材を輩出している播州曽根の出身で、先代侘吉も姫路米穀市場で仲買店を開いていた。親戚には相場で名を成した人が多かったから、三木も姫路中学時代から相場の味を知っていた。
  くちばしの黄色い少年の身で数千円(現在の数百万円)も勝ったというから、伝記作家が「寸蛇、人を呑むの気」とうなるのも当然だろう。中学校を卒業するとすぐ父の店を手伝い相場の腕を磨く。投げ、踏みも巧妙で1年目こそ12円50銭の損を計上するが、これが授業料となって、翌年は二千数百円ももうけた。三木は過去10年間の米相場を調べて1年に1~2回の大相場が出ることを知る。小さな波動には見向きもせず、大相場の時だけ勝負するのが身上で、まさに機に投ずる投機師の本領を発揮する。
  姫路は所詮ローカル市場で三木青年には器が小さ過ぎた。天下の堂島に駒を進めたのは自然の流れといえる。堂島での緒戦は冒頭に記した通りだが、当時1石(150キロ)17円台の米を売りまくる。売りの根拠はなんだったか。後年語っている。「仕手の顔触れなどはもちろん分らず、気にもかけなかった。ただ天候さえよければ、12円に必ず落ちていくべきものだと500丁棒(5円足)を書き入れて売りたくったものですよ」。
  年末には三木の見込み通り12円台に落ち込み、10万円を超す大金を手に収めた。姫路からぽっと出てきた24歳の名もない勝負師に今の価値にして1億円からの利食い金を献上したとなると、堂島の猛者たちの間でも「三木って何者だ?」と話題になる。それを嫌った三木は翌大正4年正月は別府温泉に逃れ、亀の井旅館の客となる。
  ところが、ここの主人油屋熊八は、かつての大相場師で大阪株式取引所(大株)の買い占めを策し、空前絶後の1001円相場を演出した仕手であった。熊八から「株は10年に1回大相場が現れる」ことを教えられる。別府から帰った三木は北浜に向かい過去10年のケイ線を調べて大株を95円で1000株買い建てた。もうけると建て玉を増やす利乗せ作戦は三木の最も得意とするところ。欧州大戦景気を背景に上昇を続け、500円にまで高騰する。建て玉はいつしか、5000枚に膨らんでいた。
  大正5年5月には北浜に株式仲買店を開業する。だが、いいことばかりは続かない。健康を害して明石の別荘に静養を余儀なくされるが、それがちょうど大戦景気の反動期と重なり、結果的には歴史的ガラに遭遇することを免れた。
  大正12年、三木は堂島に復帰する。自分はやっぱり米相場で育った人間だという思いから北浜を去った。そしてまた奮迅の活躍が始まる。伝記はこう伝えている。
  「君が戦いを起こすや、小策を排して堂々の正攻法による。大小の仕手必ず来たって君の驥尾(きび)に付す。ために君は常に一方の主将たるの地位を占め、全軍を号令して進退す。もし敵が卑劣なる弄策をもって奇襲を試みんとするが如き場合、君は赫怒(かくど)し、自ら陣頭に立ってこれを激撃するのが常である」
  冷徹な理智の人であると同時に熱情の人であった。天馬空を行く勢いの三木だったが、昭和に入ると、突然足跡が途絶える。相場の世界は一寸先が闇なのだ。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・ナンピンは禁物、サヤ取りも不必要
・見込み違いのときは踏み・投げを素早く。ただ一心に大上げ・大下げの機をうかがう
・生涯に1度だけでも大相場をとればいい
・過去10年間の相場の足取りを見て、一定の循環的な動きを見つけ出す
・勝負に際しては小手先の策は取らず正攻法で臨む
(みき しんいち 1890―没年不詳)
  明治23年播州曽根出身。姫路中学を卒業すると父が経営する姫路の米穀仲買店を手伝い相場を覚える。大正3年堂島に出て米相場で大勝利、同4年正月別府亀の井旅館で、かつて北浜で将軍と謳われた油屋熊八より「今年は株の大相場の年となりそうだ」と教えられ大株を買い巨利を博す。同5年株仲買を開業、同12年堂島に戻り米穀仲買を始める。
(写真は大阪今日新聞社編「市場の人」より)

相場師列伝

太平洋戦開戦を売って大損、土屋陽三郎氏(08/6/16)

のちに新東株売りをはやして大儲け
  土屋陽三郎の父、鋭太郎は手張りを極端に嫌った。当時の兜町では数少ない「ブローカー型」。一代で久星土屋鋭太郎商店を興し、兜町の玄人筋をお客とする「地場受け」の店としてにぎわっていた。手数料は相当割引して量で稼いだ。昭和初めには東京株式取引所の売買高ランキングで十指に入るのも珍しくなかった。
  陽三郎が東京商大(現一橋大)を卒業して入社するのは昭和13年のこと。入社に先立ち鋭太郎は古株の幹部社員数名を退社させた。息子の働きやすい職場環境をお膳立てしたつもりだろう。店はすっきりしたが、顧客が減り、陽三郎は自ら得意先を増やさなければならない。学生時代の同級生の父親から1000株の注文をもらった時のうれしさは後々まで忘れることができなかった。10株が取引単位の時代だから1000株は大きい。
  折しも「国家総動員法」が公布され、配当制限令の発動がうわさされる中、株価は崩落、手数料で経営するのは困難な状況になってきた。父が手張りをやらなかったので陽三郎も自己思惑は控えてきたが、ついに相場師を志願する。客筋の8割が思惑買いで損しているのを見てきただけに売りで勝負する。時局は日米開戦に向かっているが、勝算はない、と土屋はみた。
  「昭和16年になると株価は落勢をたどるので、私も遂に決意をして、自己の思惑を試みることにした。といって、店として大きく張るわけにはいかない。客名の口座をつくって、短期の新東、新鐘等を数千株空売りした」(日東証券編「父子二代-日東証券の50年」)
  土屋は大量の売り玉を抱えたまま、12月8日、太平洋戦争が突発する。この日、寄り付きの気配は売り一色だったが、立ち会い中に相次いで戦果の情報が流れると暴騰場面に一変、翌9日には損を承知で全量手じまい、7、8万円の損となる。今なら億に近い。次の思惑を仕掛ける勇気もくじかれてしまうが、このまま引き下がるわけにはいかない。
  太平洋戦争の初期は株価高騰、大商いで久星商店の業績も急浮上するが、政府は株価抑制に動き出す。昭和17年11月、増資新株割り当て制限の決定が伝えられると市場の空気が重苦しくなってくる。軍部や官僚の間から投機取引に対し罪悪視する発言が目立ち始める。日本経済のバロメーター役を果たしてきた新東株の廃止論がいわれるようになると、陽三郎もいつの間にか新東廃止論に傾き、新東のカラ売りを始める。客筋や友人にも新東のカラ売りを勧める。長尾貫一(長尾秀一商店)、村井啓三郎(村井啓助商店)なども同調して売り建てた。
  新東株の食い合いで売り方上位には常に久星の名があり、1位を占める日もあった。陽三郎自身の手張り玉は三和会(兜町2世の会)の友人の店を利用して思惑売りを重ね、1万株以上のカラ売りで落ち着きを失うこともあった。が、見通しは的中する。
  「昭和17年12月の日本証券取引所法案要綱の発表とともに大暴落して、100円大台を割るに至った。この暴落のお陰で、店は非常な利益を上げ、個人としても17、8万円儲けたかと思う。…小切手を切り回して派手な遊びをした。店の成績は入店以来の最高利益で、17年暮れの賞与は10カ月分ぐらい払ったように記憶している」(前出)。書画も何幅か買い求めたが、多くは花街で長尾や村井と茶屋遊びに浸った。
  時は流れて第2次世界大戦後、兜町の論客として自他ともに認める存在となった土屋陽三郎は日東証券社長として、相場哲学を語る。「株を持つことは即ち投機性を含んでいるのだから、損をしても当たり前なら、大きく儲かることも不思議ではない。最初によほどの覚悟が必要で、損をしてから株は危険だといわないことだ。…損をしないという自信は相当なものだ。一言でいえば、無慾は大慾という言葉に尽きる」
  江口証券などの合併を経て三洋証券となり、取引所の立会場を圧倒する巨大ディーリングセンターを創設、天馬空を行く勢いだったが、平成9年経営破綻、同11年他界。=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・買いは悠々と出動して差しつかえないが、売りは機敏を要する。判断を誤ったと知ったら、素直に出直す
・長期方針の時は調査部の意見を尊重、短期で投機的値幅を狙う時は株式部長や市場代理人など現場の意見が最も有力
・買った株が順調に上がり始めたらほっておくこと。逆の場合は持続するか、投げるか、現象をよく見極め、覚悟を決めなければならない
(つちや ようざぶろう 1914―99)
大正3年6月16日、東京出身。府立一中から東京商大に進み、昭和13年卒業と同時に父の経営する久星土屋鋭太郎商店に入る。野村証券の瀬川美能留、奥村綱雄らと親交を結ぶ。同18年土屋証券を創設、社長就任、同19年角メ証券と合併して日東証券となり、戦後一時苦況に陥るが、野村証券の支援で立ち直る。昭和46年江口証券と合併、三洋証券社長。喫煙具の収集で知られる。
(写真は自著「父子二代」より)

相場師列伝

先見力で人の出世も読む、木下茂氏(08/6/23)

小僧から鉄鋼界の風雲児
  「八丁堀のドブネズミ」と呼ばれた木下茂が独自の「先見力」を生かし、鉄鋼景気やインドネシア賠償で巨万の富を築き、つっ走り過ぎて破綻する生涯は「人生は一編のドラマ」の感ひとしおである。
  スカルノ大統領の密命を帯びてジャカルタ-東京間を頻繁に往復した鄒梓模(チョウ・シンモ)は回想録に書いた。「日本のインドネシアに対する賠償問題の処理はスカルノ、岸、木下、私という、いずれにしても特異な人格をもった4人の共同の仕事としてやりとげられた」(増田与編訳「スカルノ大統領の特使」)
  木下が自らのリスクで30億円かけて9隻の船舶をインドネシア側に与える約束をしたことが賠償問題解決の突破口となる。木下の大バクチは図星だった。木下の侠気(きょうき)に恩義を感じたインドネシア側の見返りは測り知れないものがあった。
  木下茂は大正3年福井の高等小学校を卒業すると、大阪の鉄鋼問屋岩井商店に入る。間もなく欧州大戦がぼっ発した。その後、木下はなぜか、新設の小樽出張所行きを命じられる。青えんどう等の買い付けに奔走する。主流の鉄ではなく、北辺の地で雑豆の商売に取り組むことにうつうつたる気持ちだったに違いない。だが、ここで先物相場の呼吸を覚えたことは後々、大きな財産となる。相場の要諦は「先を読む」ことである。木下は自伝「鉄に生きる」で書いている。
  「小樽の雑穀の取引は半分はバクチで、皆先物の売買をやっていた。最初契約すると買い手がまず保証金を1口に500円ずつ支払う。そういう取引が沢山あったのが、休戦ラッパで保証金が取れなくなった。その整理が大変で随分大きい紛争問題が起きて…」
  2年半、雑穀相場と格闘した後、大阪で亜鉛鉄板の商売を担当する。これも相場商品で日々値動きが激しい。売買は雑豆と同様、先物で行う。関東大震災の直前、岩井は大量の先物売り契約を持っていたが、一転相場が暴騰する。オーナーの岩井勝次郎は「契約は必ず履行しなければならない」と安い先物契約を完全に履行するよう命じた。この時、木下は大阪商人の神髄を実地にみせつけられた。
  東京支店に転じた木下は終生の友となる富士製鋼の永野重雄を知り、官営八幡製鉄所の稲山嘉寛と管鮑(かんぽう)の交わりを結ぶ。この2人は周知のように第2次大戦後の鉄鋼業界のリーダーから財界の巨頭となる人物だが、木下はそれを見抜いていた。相場の騰落だけでなく、人間の出世度も読んでいたといえよう。後世の評論家は「木下はすでに日本製鉄の未来の大将を稲山と決めてこれに近づき、さらに押えに永野を買っておく。単勝も連勝も木下の馬券は的中したのである」などと書くが、確かに稲山と永野の知遇を得た人が、ただの鉄商人で終わるはずがない。
  昭和7年、独立して木下商店を創立、快進撃が始まる。戦略物資の鉄は飛ぶように売れ、「自分のほっぺたをつねってみなければ分からないほど儲かった」(自伝)。戦後の焼け跡からの復興の過程で木下の儲けは幾可級数的に増え、従業員60人から始まって同35年には木下産商を旗揚げ、ピーク時2400人に膨張する。「八丁堀のドブネズミ」が、昭和資本主義を彩る風雲児にのし上がる。
  だが、皮肉にも威風堂々の産商ビルが完成する同36年を境に鉄鋼相場が大きく屈折、山陽特殊製鋼の倒産に象徴される鉄鋼不況に突入する。折から木下は病魔に冒される。不運は複数でやってくる。江商との合併が破談に終わり、岩井時代の親交馬渕政太郎がやっていた大成物産が糸相場の暴落で倒産する。大成には大きな資金をつぎ込んでいただけにこたえた。
  同40年6月、木下産商の営業権はライバルだった三井物産に明け渡され、勝負師の命脈は尽きた。2年後他界、戒名は「宝樹院釈茂秀大居士」。船橋の5000坪の邸宅はじめ浦安、那須の広大な土地は全て人手に渡った。「木下財団豊洲厚生病院」に木下の痕跡を留めるだけである。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人生のリスクを自らの手で処理し、自己の運命を積極的に開拓する
・すべて集団の理想を実現する道の根本は「和」である
・乾坤一擲(けんこんいってき)、日本海海戦のような勝利を勝ち取りたい(昭和38年頭訓辞)
・敏速な決断を怠り、責任回避を事とする中堅幹部は戦列を去らなければならない
(きのした しげる 1899―1967)
明治32年5月兵庫県尼崎出身、大正3年岩井商店(のちの日商岩井、現双日)に入社、同6年小樽出張所で穀物の売買に従事、昭和7年金属部長を最後に退社、木下商店を創業、同19年くぎ、針金など二次製品の生産に進出、同24年日本鉄鋼製品クラブ理事長、同35年木下産商、九州石油を創立。同36年がんを患い入退院を繰り返す。同40年三井物産へ営業譲渡、三井物産顧問。同42年9月9日逝去、68歳。
(写真出所 うろこ会事務局編『鉄に生きる木下茂』より)

相場師列伝

ラサ工業株暴騰で大もうけ、鈴木由郎氏(08/6/30)

大勢観に順応、腹八分を旨とする大器晩成の相場師
  鎧橋をはさんで北岸の蛎殻町で成功すると、南岸の兜町へ乗り込んでいった相場師は多い。栗生武右衛門、松村辰次郎、有松尚龍、鈴木隆――。そして、鈴木由郎もその1人だ。
  鈴木は初め、深川の正米(現物)市場で米相場に親しみ、やがて永代橋を渡って期米(先物)を売買する蛎殻町の人となる。正米市場は現物の裏付けのある取引であり、それなりの資金は要るがリスクは小さい。一方、蛎殻町はリスク渦巻く投機市場である。鈴木が東京米穀商品取引所で仲買人を開業するのは大正元年のこと。この年、東米商の売買高は2732万石(1石=150キログラム)と開所来の最高を記録し、黄金時代を迎えようとしていた。
  社会派ジャーナリストの草分け、横山源之助が立会場の熱狂ぶりを描いている。
  「真に一面の活劇場であるその喧騒は、喧嘩のそれでなく、戦争のそれでもなく、水天宮前の賑わいもあり、観音前の陽気もある。殺気満ち、熱気みなぎり、浮いたような沈んだような一種異様のカラーをもっておおわれている。その間に数万円を利する者あれば、一瞬に家産を蕩尽する者もある」
  鈴木が蛎殻町の人となった当時の人物評が残っている。蛎殻町ジャーナリズムは古来、歯に衣着せぬ辛辣(しんらつ)さが身上だが、鈴木にはことのほか舌鋒鋭い。「衒耀(げんよう、自分の才能・学識を偉ぶって示す)、杜撰(ずさん)、軽薄、浅虜、いまだホンの若造で、むしろ批評は将来にあるかも知れぬが、第一少しも店に統一というものが見られぬのは、はなはだ遺憾」(「米屋町繁昌記」)
  世間の鈴木を見る目は厳しかったが、深川市場で米相場の基本をたたき込んでの先物界入りで、上達も早く、大正6年、バブル景気で酔う兜町へ進出する。
  「米で磨いた腕前、株においてもなかなか儲けた。ラサ島燐礦株の暴騰でしこたま儲けたのもこの時代である」(根本十郎著「兜町」)。引用文中のラサ島とは沖縄県東部に浮かぶ孤島、「沖大東島」のことでリン鉱石の産地。そこに採掘権を持つラサ島燐礦(現ラサ工業)の株が暴騰して鈴木は大もうけした。
  一時は体調を崩し、弟に名義人を譲っていた鈴木だが、巨利が薬となってか病気も治り、昭和の初めには一級の思惑師となり、沼間敏郎、松井房吉、鈴木隆、遠山芳三らと肩を並べ、「思惑組の猛者」と称される。
  新聞記者に相場の極意を問われてこう答える。「大勢上向きの時代なら買い建てて一時曲がっても、乗り替えるなり、実株を受けて持つなりしておれば大丈夫です。時々手じまいもしますが、根本の方針は常に没却しません。私のやり方を機敏といわれているようですが、私は鈍のつもりです。機敏に見えるのは出足も退却も軽くさっさとやるからだと思います」
  十余年たった第2次世界大戦後の兜町で、鈴木は山吉証券社長として株界の長老の位置にある。当時、野田経済研究所の企画部長だった加田泰の取材に相場哲学を語る。
  「永いこと統制経済が続いたため景気循環が壊された。今は投機株の方がいい。私の信条は腹八分である。練達の士でも時に失敗する人があるが、余り玉をとり過ぎてしまうからだ。十でいいものを十二にすることは、いつか二を捨てなければならない時が来る。その時に失敗する」
  加田は「実戦的に鍛えられた風格と豊富な話題に思わず時を過ごす」とコメントする。
  兜町の表と裏に精通する三鬼陽之助によると、鈴木は相場の名人で、昭和27~28年の相場でも当たり屋の1人で、莫大な資産をこしらえたという。当時の兜町には火曜会、20日会、5月会、銀星会、木曜会、三和会など地場証券がグループを結成していたが、鈴木は火曜会のメンバーで同時に20日会を牛耳っていた。
  「火曜会、20日会の統合勢力は四大証券につぐ、この町の最大の山脈を形成する」(三鬼陽之助)といわれ、鈴木の力の程がしのばれる。蛎殻町にデビューした時は散々だっだが、年輪を重ねて重厚さを増し続けた。地味だが、典型的な大器晩成型の相場師である。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・大勢観をしっかり立て、大勢に順じてさえいれば負けることはない。大勢をにらんでさらりとした気持ち
・攻めてみてうまくいかなければ、1週間くらいで兵を引き揚げる
・つかず、離れずが投機の妙諦
・統計・調査より第六感でいく方が結果はよい
・腹八分目
(すずき よしろう 1881―没年不詳)
明治14年10月6日、静岡県出身、同42年3月東京廻米問屋組合員、大正元年東京米穀商品取引所の仲買人となる。同6年東京株式取引所仲買人となり、一時名義を弟善助に譲るが、同9年再び仲買人を開業、同14年以降東株仲買人組合委員となること数度。戦後山吉証券社長。昭和27年から同38年まで東京穀物商品取引所理事。(写真は「東京穀物商品取引所十年史」より)

相場師列伝

笹川・糸山連合の参謀、のちに対立し北浜去る、畠中平八氏(08/7/7)

中山鋼仕手戦では軍師役
  畠中平八は今年米寿を迎え、ますます健在である。「北浜の平ちゃん」と親しまれ、「最後の相場師」と自称する畠中は、清水一行の代表作『相場師』のモデルでもある。笹川良一に見込まれて、岩井証券社長に迎えられ、13年間采配をふるうが、最後は笹川と対立、不本意ながら辞めざるを得なかった。第2次大戦後の北浜を代表する勝負師である。
  昭和10年、15歳で北浜の佐藤株式店の丁稚となるが、「満々たる野心を抱いて、小柄でやせているくせに、土佐っぽの父親譲りの向こう気の強さで誰にも負けまいと、いつも肩をいからせていた」(「相場師」)。
  当時、場立ち(市場代表者)になることが相場師への登龍門だった。夢がかなった平八は仲間が寝静まったころ、床を抜け出し、ケイ線引きに打ち込んだ。昭和14年、英仏両軍がドイツに宣戦布告、「遠い国の戦争は買い」とばかり突進する。平八は郵船と商船の新株を計600株も買い、見事に勝負勘が的中、一挙に1万2000円(現在なら約1000万円)が転がり込む。が、その金はネオン街に雲散霧消した。
  太平洋戦争に従軍、復員した畠中は、ヤミ物資のブローカーで大もうけ、それを元手に株を買う。まだ取引所は再開されていないから集団売買の時代だが、3円で買った住友金属が50円にハネ上がったり、すってんてんになったり、浮沈を繰り返す。昭和22年には金田証券に入り、相場師として本領を発揮、同35年には社長に就任する。
  当時の専門誌は「常に相場を愛し、相場に体を張ってきた。金田証券を手中に収めた立志伝中の人物だが、おごったところは全くなく、涙もろく『北浜の平ちゃん』で親まれてきた」と評した。株の強弱論戦でも東の石井久立花証券社長、西の畠中平八金田証券社長は対幅を成した。
  畠中は、岩本栄之助、野村徳七、松井伊助など北浜130年の歴史を彩る先輩相場師に対し畏敬の念すら抱いている。そしてこう語る。「相場師は男のロマンに命を賭けるというくらい誇り高いものでした。一般の人を巻き込んで、いろんなトラブルを起こしている人をもって相場師と解釈されたのでは、先輩に対して申し訳ないことになります」
  だから昭和40年不況で金田証券の自主廃業に踏み切った時、畠中は別荘から家の座布団に至るまで、私財一切を売り払って、株主や同業者に迷惑をかけることはなかった。
  一時は業界を去ることも考えたが、歩合セールスマンとして須々木証券(現日産センチュリー証券)に入社、たちまち才覚を発揮、証券セールス日本一と書き立てられる。その働きぶりは笹川良一の目にとまる。日本船舶振興会会長で、戦前派右翼の大物である笹川は株や商品相場が大好きで、北浜の岩井証券の大株主でもあった。笹川は歩合セールスマンをいきなり社長に抜てきする。畠中の相場師経営者として奮迅の活躍が始まる。
  昭和46年から同48年にかけて中山製鋼所株の大仕手戦が繰り広げられる。この戦いに糸山英太郎、笹川良一の連合軍が買い方、近藤紡こと近藤信男が売り方に陣取り、大乱戦の末、解け合いとなるが、近藤紡は40億円の巨損をこうむった。近藤は翌年他界するが、売り将軍・近藤信男を死に至らしめた中山鋼事件で糸山、笹川連合の軍師をつとめたのが畠中だった。
  平ちゃん株は天井知らずで、大阪証券取引所理事など公職も増えていくが、好事魔多しとや。大腸がんやクローン病など数々の大病を患い、大手術を受ける。病魔にも打ち勝って畠中の信奉者はますます層が広がっていくが、昭和57年、突如岩井証券社長を退任、株界を去る。
  平ちゃんが笹川親分とたもとを分かつに至ったのは、内部告発で背任横領の疑惑をかけられたためだったが、公判の途中で和解が成立、畠中の疑惑は晴れ、1億2000万円の退職金は支払われた。その直後の父娘の会話。
  娘「お父ちゃん、服でも買うてえな」
  父「すまんな、あの金はもうない。相場ですってしもうた。ゲンの悪い金は身につかんもんや」
  無冠の素浪人となった畠中。自らの命を救ってくれたブラジル産の健康茶「タヒボ」に賭ける第2の人生が始まる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・株は相場を張って、上がるから利益が得られるのであって、買い占めてその会社を乗っ取るという考えを持つべきではない
・金や地位に恋々とする必要はない。名だけは惜しむ
・誇り高い先輩相場師の何かを受け継いで最後の相場師という名前を飾りたい
(はたなか へいはち 1920~)
大正9年2月、大阪府出身、昭和10年北浜の佐藤株式店に入社、同17年出征、同22年金田証券に入り、同35年社長、同40年証券不況で自主廃業、同43年須々木証券に入り、「証券セールス日本一」と称される。同44年岩井証券社長、同48年中山製鋼株仕手戦で参謀役、同57年オーナーの笹川良一と対立、辞任、同60年健康茶「タヒボジャパン」設立、著書に自伝「最後の相場師 畠中平八 タヒボに賭ける」など。(写真は畠中平八氏より提供)

相場師列伝

日活株を巡る大仕手戦、堀久作氏(08/7/14)

松竹の大谷氏に闘志燃やす
  堀久作が日活(日本活動写真)とかかわりを持つのは昭和の初めで、松方乙彦の秘書をしていたころだ。松方乙彦は松方正義公の七男坊で、学習院からハーバード大学に進み、二十数社の重役をしていた。昭和7年米国視察から帰国した松方は堀をよんだ。
  松方「日本は映画が立ち遅れている」
  堀「今ゴタゴタしている日活を引き受けたらどうだろう」
  堀の提案に沿って松方は日活に入り、堀の画策で松方は3万株の大株主となり、社長に就任する。堀は参謀格で経理をみる。
  堀が取締役に就くのは翌8年だが、経営内容が想像した以上に悪い。だが、乗りかかった船から下りるわけにもいかず金策に走る。千葉合同銀行(現千葉銀行)の古荘四郎彦の支援で難局を切り抜けると、東宝との提携に動く。松方は殿様経営で、「よきにはからえ」の口だから、堀が軍師として働いた。制作に強い東宝と、配給に強い日活との握手はライバル松竹には脅威に映った。市場は正直で、低迷していた日活の株価が暴騰した。堀はほくそ笑むのもつかの間、奈落の底へ。
  昭和11年9月16日、提携懇親会が数寄屋橋で開かれることになっていたが、その夕刻、堀は日活本社を出ようとして、2人の刑事によって警視庁に連行される。タコ配当の容疑で、1年1ヵ月にわたって拘束される。松方も堀も辞任。
  「残された日活は、大阪の森田佐吉という興行師が社長に祭り上げられてはいたものの、実権は松竹の手に移っていた。というのは堀氏拘引の報で、千葉銀行に緩慢な取り付けが行われ、やむを得ず千葉銀行が保有する日活の債権を大谷竹次郎氏に譲渡したからである」(三鬼陽之助著「億万長者」)
  昭和12年10月、娑婆(しゃば)に戻った堀の動きが激しさを増す。「岩にぶつかれば、ぶつかるほど強くなる」と評される堀だが、「日活はおれをおいて、ほかに経営者はいない」との信念で、再起に動く。この時点で日活に籍はないが、そんなことはお構いなしに復権を目指す。債権者を歴訪して15年間で返済することを約束する一方、日活株の買い集めが本格化する。「大谷にだけは日活を渡したくない」との思いが堀を株集めに走らせる。東宝の小林一三もかげで支援した。堀は同じ麹町三番町に住む山崎種二に相談する。
  「値下がりのひどい先限を買って、決済月に回ってきたら現物を引き取る。もし、それまでに株価が上がって利食いできるようなら、売って利益は半々にしよう」
  こんな好条件の提案を山種が断るはずがない。山種は証言する。
  「兜町だけでなく、大阪の北浜、名古屋の伊勢町でも買って、買って、買いまくった。これに売り向かったのが各地の地場筋だった。誰が買い本尊なのか、バックは誰なのか一向に分からない。業績の悪さについて、疑惑が疑惑を呼んでいた。売りたくなるのは当然である」
  堀は14円から買い始めて、120円にまで高騰、売り方は窮地に陥った。解け合い(解約)を申し入れてきた。解け合いのことを「泣き」といい、勝負師としては恥ずべき行為だが、地方の「泣き」には応じた。だが兜町の連中の「泣き」はガンとして拒否した。受け渡しの中に大谷竹次郎名義の株もあった。売り方が大谷に頼み込んで分けてもらったのであろう。この作戦で堀の持ち株は8万株に達し、発行株数の半分を占め、名実ともに日活を手中に収めるが、解け合い事件が災いして上場廃止となった。
  第2次大戦後、日比谷交差点そばの建築許可のおりるはずのない土地を1200坪買い、日活国際会館をぶっ建て、世間をあっと言わせたのも「岩をもくだく」熱情の所産だろうか。国際会館株の権利が300円の高値を呼ぶようになると、堀は意外な作戦に出る。
  「私は非常な危険を感じた。急いで1億円ばかり借りてきて、トン当たり1万8000円で建築に必要なだけの鉄骨を買った。やはりトン4400円で1万3000トンのセメントを契約した」(「私の履歴書」)
  すると、朝鮮動乱がぼっ発、鉄もセメントも2倍から3倍に暴騰する。権利株の高騰で、国際会館への期待の強さを知らされ、責任を感じて資材を買ったのが、思わぬ付加価値を生んだ。熱情が幸運を呼び、日活に賭ける男の後半生が始まる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・金というものは信用で借りるのだ。信用がなかったらいかに担保を持っていてもだめだ
・私はあとからはげるようなうそは決してつかない
・二十数年、日曜、祭日、元旦と1日も会社を休んだことがない。事業はこの熱と信用である
(ほり きゅうさく 1900~74)
  明治33年7月、東京向島の荒物商に生まれ、大正8年大倉高商を卒業、日本完全燃焼に入社、ふろ釜の販売に従事、石炭商を経て松方乙彦の秘書となる。昭和7年山王ホテル専務、同年松方が日活社長に就任すると日活入り、同8年経理担当取締役、同11年タコ配容疑で逮捕、同14年日活取締役に復帰、のちに社長。同49年他界。(写真は三鬼陽之助著「億万長者への道」(圭文館刊)より)

相場師列伝

「丸紅証券」の司令塔、伊藤宏氏(08/7/21)

暴落直前に一斉利食い
  昭和48年4月11日──。それは「丸紅の一番長い日」だったかもしれない。狂乱物価の最中、丸紅はヤミ米の買い占め事件で強制捜査を受けた。同じ日、衆議院の物価特別委員会は、投機の実態を解明すべく桧山広・丸紅社長ら大手商社6社のトップを参考人として招致した。そこでは、丸紅が株売買で巨利を博している点が取り上げられ、売買に当たったのが同社の伊藤宏常務であることが満天下に知られた。桧山や伊藤がロッキード事件で逮捕される3年前のことだ。
  石井一議員と桧山広丸紅社長との一問一答。
  石井「あなたのところの社長室長の伊藤さんという人がこれ(巨額の株運用益を出したこと)を操作された。その結果は、この人は非常に若くて功績が認められ、常務に就任された」
  桧山「伊藤常務なる者は決してそういう、株でもうけたからではございません。先生みずから人間の診断をしていただいても分かりますが、私は少なくともあの年次で最も優秀な役員ではないか、と考えて登用しました」
  当時“丸紅証券”という言葉が兜町で飛び交うほど丸紅の株売買は活発で、「昭和48年3月期には20億円の株売買益を計上する」と日本経済新聞は報じた。同47年9月末時点での保有株式は58億7900万円で、主な銘柄は新日鉄700万株、日本郵船400万株、川崎製鉄、東急車両製造各200万株、住友金属工業、十条製紙各100万株など、46銘柄に及んだ。これを同47年暮れから同48年2月初めの暴落前に大半を売却、その後も売り続け、3月までにほぼ売り尽くし、大手商社の中でも抜群の運用益を計上する。その司令塔役が伊藤であった。
  伊藤宏は昭和2年1月の早生まれで、いくたの名相場師を生んだ和歌山県出身。旧制中学を4年で修了する、いわゆる「4修」で、同23年に21歳2ヵ月で東大法学部を卒業するという最短コースで丸紅の前身大建産業に入る。以来、市川忍、桧山両社長の側近として社長室畑を歩く。海外駐在は一度も経験しないまま、同46年、44歳で最年少取締役、そして常務、専務と出世階段を駆け上がる。伊藤は抜てき人事の効用について経済誌のインタビューにこう答えている。
  「飛び越された人はくさるかもしれない。しかし、そうしたマイナスより、われわれの後輩が、この後に続けと張り切る。そのプラスのほうが大きいんじゃないですか。それに抜てきされたものが、あれなら仕方がないといわれる能力を持ち、それを実績で示して皆に追認してもらえば問題ない」(「週刊東洋経済」昭和47年4月8日号)
  スター相場師として週刊誌に取り上げられた時、伊藤は「私は株の売買に関しては全くの素人ですよ。全部、某証券に任せています」などととぼけるが、証券会社にいわせると、「どんなに会議が忙しくても、中座してわれわれの持ち込む情報を聞いてくれる。そして即断で“買い”か“否”かを決めてくれる。その素速いこと」と、伊藤率いる株式運用チームの敏速な対応に驚いている。そして「伊藤さんの相場カンは大変なもんですよ」と舌を巻く。「相場の神様」と称された越後正一総帥のもと、伊藤忠の派手な動きに比べて丸紅はおっとりしていると評されたものだが、敏腕伊藤のもと、伊藤忠のお株を奪う豪快さで話題を呼んだ。
  兜町や北浜に丸紅旋風が吹き荒れる折しも、5000万株の第三者割り当て時価発行増資を発表する。割り当て先は日産自動車、富士銀行など芙蓉グループを中心にした15社。発行価格は230円。「額面との差額のプレミアムは90億円、これに額面払い込みの25億円を加えた115億円が20日足らずで丸紅のフトコロに転がり込んだ。このシナリオを書いたのは伊藤宏社長室長だった」(水野清文著「現代の相場師」)
  この巨額プレミアムは、(1)新規事業への進出(2)円切り上げに伴う為替差損の穴埋め(3)芙蓉グループ内の株式持ち合い強化─―などに充てるのが狙いである。
  昭和50年5月には先輩を飛び越して専務取締役に昇進、社長室、人事部門、業務・関連事業部門を統括する丸紅切っての実力者にのし上がる。次期社長候補の一番手に挙げられるが、昭和51年2月米ロッキード社から日本政府高官に渡すための5億円の領収書に伊藤の名前が出てきて、渦中の人となり、参与に降格、旭日昇天の前半生から一転、落日奈落の後半生を強いられる。
  「カブで急浮上、ピーナツで崩落」とマスコミは手のひらを返す。流行語ともなったユニット、ピーナツ、ピーシーズ等は領収書に記載された工作資金の単位のこと。昭和62年東京高裁は伊藤を懲役2年、執行猶予4年に減刑したが、再び表舞台に立つことはなかった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・頭の回転が早い。押しが強く政治性に富む。行動半径が広い(水野清文による)
・彼の年次で最も優秀な役員と考えて登用した(桧山広による)
・抜てき人事はマイナスよりプラスのほうが大きい
・大量の株取得によって系列下に収め商売のすそ野を広げる
(いとう ひろし 1927―2001)
昭和2年和歌山県出身、同23年東大法学部卒、大建産業(現丸紅)に入社、同35年社長室総務課長心得、同46年桧山広社長の抜てき人事で最年少で取締役、翌47年には株投資で会社に巨利をもたらした論功行賞で常務に昇任、同50年には専務取締役と三段跳びで栄進街道一直線。同51年ロッキード事件にからみ参与に降格。平成13年6月10日没。

相場師列伝

糸相場にらみ繊維株で勝利、吉川兵次郎(08/7/28)

米騒動で奇策をろうし敗北
  吉川兵次郎は兜町では米屋町系と呼ばれる。名古屋から上京してまず蛎殻町で米の取引員を開業、後に兜町に名乗り出たからである。国民英学会に学んだほどの人材がどうして蛎殻町にやってきたのであろうか。当時は賭博場と同じようにみられていた米穀取引所の仲買人に、それも31歳という、若くない年齢で第1部(米穀)、第2部(綿糸)、第3部(大豆粕)の看板を一挙に取得したのだからますますナゾめいてくる。当時、名古屋出身の大物相場師、松沢与七が東米理事長をつとめていたので、松沢を頼って蛎殻町入りしたのかもしれない。経歴には不明な点が多いが、相場はズバズバ的中した。
  大和証券の株式部長をつとめた渡辺信平の証言によると、吉川は相場巧者として鳴らしたらしい。
  「吉川さんは実に頭の切れる人でした。仕手の取り組みが乱戦のため非常に入り組んでくると普通の人は帳面を見てソロバンを入れても分からない。ところがどんな錯綜(さくそう)した取り組み関係でも、数字でピタリと、たちどころに示された。数字的記憶力は、まさに神技に近かった」
  吉川が本格的に兜町に乗り込んだのは、大正8年、米や綿糸で大もうけした時だ。東株の取引員になった後も東米の綿糸の資格は持っていた。吉川が一番得意としたのは鐘新(鐘紡新株)で、綿糸相場の波動をにらみながら紡績株を機敏に売買した。買いを主体に歯切れのいい相場を張った。昭和初め、兜町の評価は「開業新しきにもかかわらず、近時めきめきたる営業振り、資力も漸次充実し組合委員をつとめる」と上向いてくる。
  吉川は大阪に客筋を持っていた。しばしば大阪に出掛けるが、ある時お手伝いさんへの土産に人絹の帯を買ってきた。絹ではなく、代用品の人絹帯にはお手伝いさんも少々がっかりしただろうが、そんなことはおくびにも出さず、喜んでくれたので、次の年、また人絹の帯を買ってきた。すると前の帯より格段に品質が向上していた。「これは人絹時代がくるぞ」と人絹株を買うと、見事に的中して大もうけした。吉川は普通の人なら見落としてしまいそうな小さな点にも気を留めて、それを相場に結びつけた。吉川は言う。
  「研究もせず、漫然とその日その日を送っていると、やれ紡績株が高い、いや砂糖株が安い、日魯(漁業)がはねた、新東が崩れたという風に歩調が乱れ、ふらふらになるものです。投資にしろ、投機にしろ、採算を度外視することはできません。ただ新東などの思惑株は半年から1年先の事情を織り込み、採算を逸脱して動くので複雑です」
  吉川の相場歴でただ一度大損をしたことがある。それは、米騒動で寺内正毅内閣が瓦解、原敬内閣に代わった直後のことだ。「電光将軍」萩原長吉のもとに蛎殻町の猛者が集まって内閣交代で米価政策はどう変わるか、米相場にどう取り組むか、密議をこらす。流行作家で米相場にはまっていた村上浪六も加わった奇略謀議の模様を浪六が自伝の中で書いている。「萩長の自宅に吉川兵次郎、渡辺平三郎等の一味に浪六を加えて評議会を開く」。
  評議会とはチト大げさだが、その結論は農相が仲小路廉から山本達雄に代わって従来の買い方針を売りに転換する必要があると衆議一決した。萩原一派は外国米を受け渡しに供用できるよう政府に根回しするとともに、大量のカラ売り玉を建て、外国米供用→暴落のコースをひそかに描いた。だが、原敬は農村票を恐れドタン場で外米供用案をしりぞけると、相場は暴騰、吉川は手痛い損失をこうむった。日ごろ、奇策をろうしたことのない吉川だが、先輩萩長の策略に乗ったのが敗因だった。
  「わずかの功名心に駆られて引かれ玉を頑張るのは、あたかも城を枕に討ち死にするのと同一筆法で、愚の愚なるものです」
  米相場時代の苦汁を思い出して自戒の弁を述べているように聞こえてくる。 
  第2次大戦後は吉川証券と改称、兜町の最大派閥「火曜会」(遠山芳三代表)に属した。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・金利が波乱含みの時は第1に金利、第2に各社の業績に重点を置く。金利が平穏の時は業績を主、金利を従とする
・「知ったらしまい」は真理である。しかし、どこまで知れてしまったか、その程度が分からない
・形勢不利とみれば、兵をまとめて退却、陣容を立て直す
(よしかわ へいじろう 1882―没年不詳)
明治15年10月、吉川兵蔵の長男として名古屋に生まれる。東京国民英学会に学ぶ。(一説には小学校を卒業後、丁稚奉公から身を立てたともいう)大正2年7月、東京米穀取引所の第1部(米穀)、第2部(綿糸)、第3部(大豆粕)の取引員資格を取得、同3年東京株式取引所の取引員となり、昭和2年以降、東株取引員組合委員、東京米穀商品取引所の綿糸部取引員を兼ねる。
(写真は「全国株式取引所-同株式取引員総覧」より)

相場師列伝

不承不承の兜町で頂点に立つ、藍沢弥八氏(08/8/4)

男気災いし一時は無一文
  法律家志望で日本大学に入った藍沢弥八が株の世界に身を投じたのには訳がある。藍沢が書生として面倒を見てもらっていた原亮一郎(大手出版元金港堂の御曹子)から、石井捨三郎のところへ行けと命じられたからである。石井は当時、兜町では有数の相場師で「高印」という株式仲買店をやっていた。原が石井に多額の出資をしていたことも知っている。断る訳にもいかず、兜町の人となる。
  ある時、日本精糖の顧問弁護士から「日本精糖株を買っておけば、もうかること請け合いだよ」と耳打ちされる。日本精糖は後に合併して大日本製糖になるが、弁護士の言葉にうそはなかった。あっさり5000円ばかりもうかった。今なら1000万円からの価値になる。国元の父を喜ばせた。だが、石井に「お前は相場なんかやってはいけない」と厳しく叱(しか)られた。石井は「現代の投機界にあって、一気に流れを変え思いもよらぬ成果をあげる人」と評されるほどの辣腕(らつわん)家であった。石井が叱ったのは、相場はそんな生やさしいものではないぞ、もっと勉強してからやるものだ、と言いたかったからではないか。
  間もなく日露戦争が始まる。人気の東株、鐘紡、郵船などが値を飛ばし始める。石井から株はやるな、といわれていた藍沢だが、命にそむいて友人と一緒に株を買った。
  「3人で株を買い、2万5000円ほどもうけた。そのころの株のやり方は、1株10円くらいの証拠金で300株か500株買うのである。1000株買うとしても1万円でいいのだから、3人でやればそのくらいの金はできた」(「私の履歴書」)
  このころには石井も「少しは相場をやってもいい」と許してくれた。友人とのグループ投資は1人1万2000円もうかったところで手じまった。それは日露戦争バブルが弾ける直前のことで、みごとなタイミングであった。やがて凄惨(せいさん)な暴落局面に一変する。この時藍沢は「これからは相場には絶対手を出すまいぞ」と誓ったという。投機師が船乗りと同様、「板子一枚下は地獄」であることを身をもって知ったのだ。ところが他の2人が株暴落で大損して、助けを求めてきた。藍沢はひと肌脱ぐ男気を発揮する。だが、相場は必ずしもそれを好まない。
  「翌日私は東京瓦斯と鐘紡の株を買ったが、下がるばかりである。めちゃくちゃに買い続けたが、うまくいかない。とうとうわたしは無一文になってしまった」(同)
  兜町から足を洗うことを決心すると、満州に渡り、柞蚕糸(さくさんし)を買い集めて、米国に輸出する仕事に従事する。だが藍沢には兜町がよく似合う。1年半で帰国、株の現物屋を始める。大手仲買・富倉林蔵の取次ぎ店をやっていたが、恩人原亮一郎が株の仲買店「港屋商店」を始めたため、藍沢も馳(は)せ参じた。この店は紆余(うよ)曲折を経て藍沢の支配下に入り、藍沢商店と改める。
  藍沢は実に投機心の旺盛な男である。株よりはるかにリスクの大きい、船やヤマにも手を出す。大正船成り金の筆頭、山本唯三郎から彰化丸をグループで買い取り、3倍値で売り飛ばす。朝鮮に農場を持ったかと思うと、山形の銅山、北海道の金鉱、九州の炭鉱、朝鮮のタングステンと砂金など手当たり次第。日東鉱業汽船の設立委員長にも就任するが、興業銀行から「株式仲買人が入っているのは困る」と横槍(よこやり)が入ると、さっさと手を引いた。
  藍沢の自慢は、株価対策機関として日本証券投資会社を立ち上げたことだろう。藍沢が動き始めてわずか1ヵ月で金融機関等から1000万円の資金を集めたのは、「兜町の顔」として藍沢の信用度が急上昇してきた証拠である。昭和15年のことだ。
  「この会社は暴落した時買って、高くなると売る。主力株だけを対象にしたのでもうかった」とさりげなくいうが、「安く買って高く売る」ことがいかに難しいことかは、実際に相場にかかわった万人が認めるところ。藍沢の相場観がただものでなかったから成功したのである。昭和32年、77歳で第3代東京証券取引所理事長に就任、不承不承入った兜町ではあったが、とうとう頂点を極めた。
=敬称略
(市場経済研究所 鍋島高明氏)
信条
・昔の兜町は虚業であったが、現在の兜町は実業である
・株主には大いに報いなければならぬ(平和不動産社長を20年間つとめて)
・自分の預かる会社の株は決して売買しない
・いいものを作り、いい仕事をしていればその会社の株は自然に買われる
(あいざわ やはち 1880―1969)
明治13年3月、先代藍沢弥八、サワ子の長男として新潟県柏崎市中加納に生まれる。同38年日本大学卒、同41年「和泉商店」(現物屋)を開業、東株仲買人「港屋商店」に入る。大正7年代表者となる。昭和8年藍沢商店社長、同15年東株取引員組合委員長、同21年貴族院議員、同32年東京証券取引所理事長、同34年日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆、同44年死去。
(写真出所は「私の履歴書」より)

相場師列伝

弔い合戦に勝利、三木滝蔵氏(08/8/11)

繊維相場で特有の両建て作戦
  かつて三井物産の社長を務めた新関八州太郎が日本経済新聞の「私の履歴書」で三木瀧蔵について書いている。第2次大戦後の財閥解体で右往左往しているところへ三木が訪ねて来て、「新関さん、何をなさるにも、さしずめ資金がご入用でしょう。私が1000万円出しますよ」と資金提供を申し出る。
  「解体になって、私が丸裸になった時に助けの手をさしのべるというので、非常に感激した。しかし、あまりにもタナからボタモチ式のうますぎる話なので本気にしなかった」
  後日カネ繰りに窮した新関は神戸に三木を訪ねた。半信半疑だった三木の話は本当だった。三木の男気に新関は助けられた。新関が三井物産のレーヨン掛主任時代に、ともに人絹糸相場を闘った仲だった。三木の1000万円という巨額資金提供について、周辺の人々も三木の口から聞いたことはなかった。新関の「私の履歴書」で初めて知ったのだった。三木の侠骨(きょうこつ)ぶりを物語るエピソードである。
  三木瀧蔵は志賀直哉の小説「城の崎にて」で知られる城の崎温泉にほど近い、津居山の回船問屋の9人兄弟の三男坊に生まれた。家は代々玉屋を名乗り、10棟の倉庫を持つ分限者(ぶげんしゃ)だった。だが、鉄道の発達とともに転機を迎える。長兄は家運ばん回を図って米と株相場に手を染め、やがて破綻、債務処理に不動産を充てようとすると、登記されていなかったことが災いして、土地が以前の所有者に返還されるという不運が重なった。
  「瀧蔵は子供心にもこうなったのが相場と法律であることを知って、大きくなったら、この弔い合戦をしてやろうと心にかたく誓った」(岩本厳著「三木瀧蔵伝」)
  翌大正2年上京すると、老舗貿易商、高島屋飯田の小僧をやりながら夜学に通った。商売の呼吸も覚えるが「学歴不足で常務止まりか」などと勝手に自己診断して退社、独立する。大正9年、21歳のことだ。この年は大正バブルが崩壊し、「東の茂木合名、西の鈴木商店」と並び称された新興勢力の双璧(そうへき)がパニックで痛手を負い、茂木合名は破綻するが、三木は茂木の投げ物を拾って一家を構えたという剛の者である。三木はこの時、初めて相場の恐ろしさと面白さをみずからの肌で知ったという。三木が相場師として凄腕(すごうで)を発揮するのは繭紬(けんちゅう、ヤママユの糸)、富士絹、人絹といったマイナー商品に目をつけたことである。いずれも絹の代用品だが、不況期にはこれら「絹もどき」の商品がよく売れた。
  特に繭紬は相場変動が激しく、「殺人商品」と恐れられた。その難敵に対し、「先売り倍買い」という、基本的には強気だが、一種の両建て作戦で戦果を上げた。「弔い合戦だ。負けられるか」との信念も勝因かもしれない。
  「繭紬と並んで登場した富士絹の相場による利益こそ、三共生興の土台を作ったといって過言ではない。そして三木を一層大胆にしたのが人絹糸の商売である。繭紬や富士絹で儲けた利益を人絹に打ち込み、買っては売り、売っては買うという明け暮れで20代から30代を過ごした」(亀井定夫著「私はこうして商品相場で儲けた」)
  三木が最大のピンチに陥るのは、朝鮮動乱後のパニックの時。伊藤忠が「一等注意」、丸紅が「マルくれない」、日綿が「ケチめん」とあだ名された昭和27年、三共生興は破綻寸前に追い込まれる。亥(い)年生まれの三木は相場でも猪突猛進型でのしてきたが、この時の失敗にこりて相場師から足を洗った。
  しかし、「旭の道楽息子」と呼ばれた旭化成のベンベルグに目を付け、三共生興を飛躍に導き、旭化成の業績にも大きく貢献、三木瀧蔵の名が関西財界でも重きを成していく。やはり時代の底流を読む相場師の嗅覚が商品開発に大きな力となったのだ。
  若いころ、横浜の外国商に相場観を聞かれた。
  「三木サン、アナタ、コレカラノ相場、ドウ思イマスカ。皆ハ、高クナルカラ、今ノウチ、買ツテオケトイイマスガ」
  三木「これから上がることが分かっていれば、あなたに売らないで自分で買いますよ」
  お得意さんに向かってこんなことを平気で言っても「三木さんらしい」で済むのが、侠骨の人・三木瀧蔵の真骨頂であった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・法の及ぶ限界を手探りでとらえ、わずかでも利ザヤがあるものは絶対に見逃さない
・金とは儲けるものではなく、儲かるものである
・先売り倍買い(値上がりすると半分が利益、下がると底とみた時買い戻す)
(みき たきぞう 1899―1981)
明治32年11月22日、兵庫県城崎郡港村字津居山で回船問屋の3男として生まれる。大正2年高等小学校を中退、上京して高島屋飯田に入社、同9年横浜で三木商店を創業、絹織物を外国商館へ売り込むも同12年関東大震災で全店消失。神戸で三共商会(後に三共生興)として再建、昭和45年創業50周年を機に長男武に社長の座を譲り、会長就任、同56年他界。この間神戸生絲取引所理事長、全国商品取引所連合会会長をつとめた。
(写真出所は「戦後商品先物史」より)

相場師列伝

「買い占め王」鈴久を指導した中村清蔵氏(08/8/18)

後半生は実業界に転ず
  明治19年10月、東京府知事の高崎五六から東京廻米問屋市場の認可がおり、深川正米市場が正式スタートするが、設立者には三井物産社長の益田孝、渋沢栄一の従兄(いとこ)である渋沢喜作らとともに、中村清蔵の名が見える。中村は屋号の「上清」(じょうせい)の名で知られ、「財界物故傑物伝」は次のように述べている。
  「正米市場における巨壁として広く『上清』の名をもって知られ、のち投機事業を全廃してもっぱら実業に注ぎ、帝都財界に活躍した」
  前半生は投機に没入して資金をこしらえ、人生の後場においては手堅く実業界に進むパターンはよくある事例だが、中村もこれにあたる。
  中村清蔵は万延元年、江戸深川に生を受け、早くからひらめきがあり、将来に期待が寄せられた。明治9年叔父中村清右衛門の養子となり、家督を継ぐと深川正米市場に進出、機略を縦横に駆使、「漸次その商人としての風格は同業者の間に異彩を放ち、遂に斯界(しかい)の有力者として、その一挙一動に衆目の集まるところとなった」と伝記にある。
  中村の鬼才は、養父、中村清右衛門によって磨かれた。清右衛門は上総(かずさ、現在の千葉県)出身だから「上清」を名乗るが、大物相場師として米市場で派手に動いた。19世紀最強の相場師と呼ばれた「天下の糸平」ですら、「相場にかけては、おれが恐ろしいと思うのはたったひとり、上清だけだ」と語ったといわれている。これほどの辣腕(らつわん)家の後継に指名された清蔵だから、米相場界で一挙一動に注目が集まるのも当然であろう。
  中村清蔵を語る時、鈴久を抜きにすることはできない。日露戦争景気の最中、彗星のように現れ、兜町の話題を独り占めしたかと思うと、あっという間に没落した伝説の相場師、鈴久が13歳から20歳まで奉公したのが清蔵の店だった。清蔵と鈴久は縁戚関係にあったが、鈴久は後に告白している。「上清にせよ、天下の糸平にせよ、雨敬にせよ、一代に身代を作った者は皆相場で儲けている。天下に名を成すは、相場をおいてない」――。清蔵のもとで奉公しつつ相場で身を立てる決心をしたのだった。
  清蔵から手ほどきを受けた鈴久が力をつけてくると、主従は逆転、清蔵は脇役に回るようになる。清蔵にすれば手塩にかけた鈴久の名が満天下に広がっていくことを誇らしく思ったに違いない。清蔵が大日本製糖の取締役に就くのは鈴久の買い占めに名を連ねたおかげだし、鈴久が鐘紡株を買い占めて経営陣を総退陣に追い込んだ際も、清蔵は側面から支援した。
  清蔵は深川の米現物市場と蛎殻町の先物市場を股(また)にかけ、兜町にも足を突っ込んだが、だんだんと実業界に比重がかかっていく。倉庫業や味噌(みそ)製造が大当たりすると、明治34年には友人の加藤金之助と共同出資で、双方の頭文字をとり、中加貯蓄銀行を創立して会長となり、続いて倉庫銀行を興して頭取に就任する。
  日露戦争に際しては日本軍のために数万樽(たる)の味噌を贈った。酷寒の地でも凍結しない特殊な味噌が日本軍兵士の士気を高め、その功績で勲五等に叙せられた。後の史家はこうたたえている。
  「彼は富豪の家に生まれて順調なる生活のもとに人となり、その行路は比較的坦々としたものであったが、極めてよく人情の機微に通じ、大商人としての風格を備えていた」
  中村の名は花柳界では特別の響きがあった。「水揚げの上清さん」で知れ渡っていた。新橋の芸者「つや栄」姐(ねえ)さんの回想録「紅燈秘話 新橋三代記」に記されている。
  「あたしは、17で水揚げだったわ。その方は、柳橋だの、ほうぼうの土地で水揚げ専門の人だったわ。中村上清さんていったら、たいしたものだったわ。蛎殻町の人でしょう。柳橋辺りで中村上清っていったら、いい芸者はたいがい水揚げされているんだわ」
  書を愛し、音曲を愛し、揮毫(きごう)を楽しみ、江戸趣味豊かな通人、上清こと中村清蔵は大正14年11月9日他界した。バレーボールで有名な中村学園高校は彼が創立した学校である。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・社会慈恤(じじゅつ、あわれみ)の心厚く、富豪としての義務を果たす用意があった
・人情の機微に通じ、偏狭な気風はなかった(以上「財界物故傑物伝」)
・人為で相場に勝っても永く維持することはできない
(なかむら せいぞう 1860―1925)
万延元年12月14日、中村弥七の長男として江戸深川生まれ、明治9年叔父中村清右衛門(2代目中村清蔵)の養子となり、深川正米市場で活躍、同29年家督を相続、同34年加藤金之助と中加貯蓄銀行を創立、翌35年倉庫銀行頭取、同36年深川女子技芸学校(現中村学園高校)を創立、大日本製糖取締役や府会議員をつとめる。
(写真出所は実業之世界社編「財界物故傑物伝」より)

相場師列伝

鉄の暴騰を確信、巨利博した中村照子氏(08/8/25)

ガラとともに破滅、刑事被告人に
  中村照子の夫、英丸は大阪の鉄鋼ブローカーから身を起こし、立売堀(いたちぼり)の3人男と称されるが、日露戦争後の不況で多額の借金を抱えたまま病死、大正3年のことだ。照子は亡夫の弟と合名で鉄商を継ぐ。折しも欧州大戦がぼっ発するが、鉄鋼相場は眠ったままである。相場の先行きに慎重な義弟とのやりとりを伝記作家の上月薫が描いている。
  照子「いまやったら5万か10万円借金しても鉄を買っといたら、きっとボロイことがあると、わては思う」
  義弟「姉はん、そら、無茶や。この戦争はそない永いことあらへん。見てみなはれ、この頃の相場はとんと上向きしまへんがな。それに、この上借金してどないしまんね。アホラシイ」
  照子は鉄鋼相場の反騰を確信するかのように義弟の意見をしりぞけた。実は夫が重篤に陥った時、債権者が押し寄せ、「半分でもいいから現金でくれ」とか「鉄の在庫を競売にかけて、少しでも返してくれ」と責め立てられた時も、照子は債権者を前に、「半年後には鉄は反騰する。それまで待ってください」と訴え続けた。
  「鉄の暴落のため、取引が渋滞し、買うた品物の代金は思うように払えず、皆さんにご迷惑をかけております…暴落も今がどん底でこれ以上の暴落はあるまいと思われますし、暴落の裏には必ず暴騰があると私は信じています。半年の辛抱で、ことによると半年もたたないうちに不景気は回復し、鉄の相場はどんどん上向いてくるかもしれません。いや、きっとそうなることだと信じております」
  ここで在庫品を処分するのは、半年後のもうけをみすみす逸することになる。「在庫は私の命です」と涙の訴えに債権者たちは渋々立ち去るしかなかった。そして女相場師中村照子が誕生する。
  「彼女はあらゆる装身具を売り払って1000円ばかりの現金をこしらえて、それを手付けに鉄を買った2日目、俄然!鉄の大暴騰が市場を沸き返らせた。一攫万金。また万金。買えば上がり、また買えばさらに上がって停止するところを知らず。未曽有の大好況時代に、大小成金がたけのこの如く続出する中で傑出せる女成金、中村照子の名はひと際高く喧伝された」(岩瀬東一「女一攫千金の巻」婦人画報1929年9月号)
  この時の鉄鋼相場の暴騰は史上空前の出来事であった。『物価変動要覧』によると、大正5年1月以降、同7年9月まで、ほとんど直線的棒上げで、この間7倍余りに騰貴したのだった。照子はみずから陣頭に立って売買を指揮、あっという間に20万円(現在なら数億円)を手に収めると、世間は女成り金とはやし立てた。照子は世評に強く反発した。
  「私はぬれ手であわをつかんだかのように、たやすくもうけたのではありません。私は非常な決心と努力とで儲けたのです。巨万の富を積んで随喜の涙をこぼして楽しもうとて奮闘したのじゃありません。成り金なんて卑しい賛辞を振りまいて下さるな」(上月薫著「事実物語 浮沈の半生」)
  照子はいやがらせや誘惑を払いのけながら上流社会との交わりも増えてくる。大隈重信邸を訪ね、「まだもうけが足らん。これからであるんである」と激励されるのもそのころだ。そして、ある子爵の三男を養子に迎え、日比谷大神宮で養子縁組の式が行われた。この時照子は36歳になっていたが、跡継ぎを得てほっとひと息入れる間もなく、大正9年3月15日、歴史的ガラに見舞われる。諸株一斉に暴落、商品相場も投げ売り殺到、栄光は槿花一朝の夢と消え去った。
  大阪中之島公会堂で債権者会議が開かれる。負債は60万円にのぼった。破綻処理に当たった立売掘屈指の鉄商、岩井勝次郎(岩井商店社長)が照子をなだめた。「蹉跌(さてつ)は立派な経験です。それを基礎にしてやり直せば、以前にもまして立派な結果が得られるというものです」。見知らぬ青年からも照子へ励ましの手紙が届いた。「悲しんではならない。波瀾は人生の常である。立て、起って、再び歩め。以前にもまして強く獅子吼(ししく)せよ」
  だが、照子が次にマスコミの目を集めるのは詐欺横領の罪で愛人と肩を並べて法廷に立った時だった。そして昭和5年11月、雑誌「婦人サロン」は「番号入りの赤いおべべ、晩秋の夜寒、牢屋のキリギリスも彼女のために泣いているだろう」と冷たかった。=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・冒険的ながら細心の注意を払い、その駆け引きにもすきがなかった(上月薫)
・これからの女性は経済と法律の知識がほしい
・力行不惑
・暴落のあとに必ず暴騰がある
・十分倹約して、腕を磨いて模範的実業家になってくれ。国家社会のために働いてくれ(大隈重信)
(なかむら てるこ 1884―没年不詳)
明治17年5月15日、岡山県上房郡高梁で小泉澄平の五女として生まれる。順正女学校、神戸女学院に学び、同39年12月9日、大阪の鉄商中村英丸と結婚するが大正3年9月、多額の負債を抱えたまま夫が病死、亡夫の弟と合名で鉄商を続け、欧州大戦景気で巨利を博すが、反動襲来で破綻、詐欺横領の罪に問われる。最期ははっきりしない。(写真出所は「婦人画報」1919年11月号)

相場師列伝

どこまでもうけたら気が済むのか、足立全康氏(08/9/1)

洋画ブームの反動で大損
  日本中が昭和バブルに酔いしれていた時、足立全康も皆と一緒にこの右肩上がりの景気がいつまでも続くに違いないという錯覚に陥っていた。それまで横山大観を中心に日本画の収集に徹してきた足立だが、沸騰する洋画ブームにいてもたってもいられず、洋画の収集に走る。金に糸目をつけず、買いまくる。その時、秘書の服部律は反対する。自伝「九十坂越えてますます夢ロマン」から師弟のやりとりを再現すると――。
  服部「今の洋画ブームはおかしいと思います。簡単に値段が2倍にも3倍にもなるなんて、まるで打ち出の小づちじゃないですか」
  足立「そこや服部さん。だからもうけることができますねん」
  服部「会長は一体、どこまでもうけたら気が済むのですか。なんて欲が深いのでしょう。会長がどうしてもとおっしゃるなら、辞めさせていただきます」
  長年足立の投資活動を支えてきた服部に「辞める」といわれても、足立の洋画熱は冷めそうにない。この時すでに70歳を超えているが、洋画ブームを対岸のこととして見逃すことができない精神状況に陥っていたのだ。
  足立「まあ、まあ、そう言わんと。よう考えてみなさい。こんなチャンスはめったにあるもんじゃない。金をもうけるというのは大変なこっちゃ。もうける時もうけとかんと、いつまたチャンスが巡ってくるか、分からん。金というものはいくらあっても邪魔になるものやない」
  祖父から教えられていた「欲をかくな」という言葉を信条にしてここまでやってきた足立だったが、この時ばかりはあまりの洋画人気に自己を見失い、向こう見ずにもバブル崩壊で大ヤケドを負ってしまう。足立はしみじみと悔いた。
  「暴落にびくともしない大観芸術の底力を知らされ、ますます好きになった。浮気はするものじゃないと、自分の軽率さを悔いるばかりだった」
  土地でしこたまもうけた足立が美術品の収集に手を染め、集めた書画を皆に見てもらおうと財団法人足立美術館を建てるのは昭和45年、71歳のことだ。翌年には足立の牙城「新大阪地所」を「日美」と商号変更し、土地投資を見切って美術品投資へと大転換を果たす。
  足立の頭の片隅には常に「山種」の存在があった。相場の神様と呼ばれ、巨富を築き、そのカネで山種美術館をオープンさせた山種に対するライバル魂が足立を美術品投資へと駆り立てた。足立は自伝で正直に述べている。
  「私はかねがね、東京の山種美術館に対して、強いライバル意識を燃やしていたので、竹内栖鳳(せいほう)の『斑猫』が山種に入ったことでショックを受けた。オープンしたばかりの当館とではまだまだ差があったが、いつかは日本一の美術にしてやるという大きな夢と希望が私にはあった」
  足立の長い投機人生で大きな節目となるのは、第2次大戦後、50万円こしらえて大阪へ飛んでいって繊維商を始めたことだろう。友人から「ものがなくて皆、右往左往している。ヤミもヘチマもありゃせん。チャンスや」と誘われて、大阪に出た。糸へんブームによって巨利を博し、そのカネを土地に投資したのが第2の節目。新大阪駅付近がまだ田園地帯だったころ、足立は次々と土地を買い占めていった。
  足立の土地買収資金は自己資金と銀行からの融資によるものだが、足立の商売のうまいところは、土地代金がすぐ銀行に環流する仕組みを考えたことだろう。坪1400円がいっぱいだと主張する足立、1500円ならとねばる農家。ころあいを見計らってこう切り出す。
  「いや、あんたさんには負けました。それで手を打ちましょう。1つだけ条件があります。当座の必要なお金を残して、あとは3年なり5年の定期預金にしてもらいたいんやが」
  1500円はもちろん足立の想定内の価格であり、農家は見たこともない大金を定期預金にするのに異存はない。農家も銀行も足立も三方大満足のうちに新大阪付近の広大な土地が足立名義に切り替わり、転売されていく。そして40年の歳月は流れ足立美術館は今、世界一の日本庭園の折り紙がつけられ、山陰の観光スポットとして年間50万人の来場者を誇る。
  足立は生前、戒名を「美術院高色庭園居士」と決めていた。「高色」は初め「好色」としていたが、友人からひど過ぎるといわれて変更した。平成2年永眠した時は「積善院全道余慶居士」に改められていた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・欲をかくな。もうけを独り占めせず、分かち合う気持ちを持つ
・だれもが買いに走る総人気ほど恐いものはない
・金はいくらあっても邪魔になるもんやない
・山種にライバル意識を燃やし、足立美術館を日本一にする
(あだち ぜんこう 1899―1990)
明治32年2月島根県飯梨村(現安来市古川町)に生まれる。昭和2年米子市で繊維商を始め、同24年大阪船場で丸全繊維を設立、同39年新大阪地所を設立、新大阪駅付近の土地を買う、同45年足立美術館を開館、同46年新大阪地所を日美と商号変更、洋画投資で失敗、平成元年自伝「九十坂越えてますます夢ロマン」発刊、同2年12月19日死去。(写真出所は足立美術館案内)

相場師列伝

喜寿過ぎて兜町に通う、長尾秀一氏(08/9/8)

生糸で妙味知り、米から株へ
  丸三証券の創始者長尾秀一は根っから相場が好きで兜町をこよなく愛した。社長を長男貫一に譲ったあと、伊東に隠棲(いんせい)するが、喜寿を迎えても毎週兜町にやってきた。
  「週に1度は兜町へ出てくる。むろん、株の動きを見るためであるが、その雰囲気に浸らないと、風呂に何日も入らなかったように気持ちが悪いのである」
  長尾の年譜には公職や名誉職が一切出てこない。名聞を求めず、ひたすら社業の拡充に専念した。そしてなによりも相場が好きだった。自伝「兜町好日」に沿って長尾の楽天的相場人生をたどってみよう。相場ですってんてんになっても翌日はけろっとしているところが、長尾の好日的生き方なのだ。
  長尾秀一は兵庫県尼崎の古刹(こさつ)真宗妙光寺、楳泉(うめいずみ)家の次男に生まれた。名は元遷。僧侶の息子が父親の文箱から15円無断で持ち出し、友人と2人で家出、横浜に向かう。出奔の理由は、「人生50年、なにか成したい」という漠とした野心から出たものだった。しかしこの時点では相場の世界で身を立てようなどという確たる目的はない。
  横浜は生糸相場の町。ある仲買店の小僧になる。もうかったお客さんが「おい。小僧さん」といって小遣いをくれる。
  「そういう金を蓄えておいて、私も相場を張ってみようという気になり、合百(賭博の一種)というのがあって、1枚50銭で勝負できるのだから買ってみる。あるいは売ってみる。50銭が5円になったこともあり、喜んでいるとすっかり取り戻されてしまうこともあった。しかし、私はこれがおもしろくてならなかった」(自伝)
  やがて生糸暴落で店がつぶれ、横浜の相場街、南仲通りを転々としていたが、行く先々で仲買店が破産していく。その時長尾は相場の恐さにふるえたかと思いきや、「独立して相場を張っている方が安泰ではないか」と相場師を志願して米相場の町、東京蛎殻町に乗り込む。24歳のことだ。
  「私が意気揚々と蛎殻町に乗り込んだことは言うまでもない。貯金しておいた200円ばかりの金を米穀相場に注ぎ込んだ。だが、またたく間に儲けるどころか、その金をすってしまった。なんのことはない、蛎殻町まで捨てるためにわざわざ持ってきたようなものである。私は1日中唸り通した」(同)
  8年前、家出した時と同じ無一文となり、深川の木賃宿を根城にして日雇い労働でその日をしのいでいたある日、横浜時代の知人、野口清三郎(後に山文証券会長)を訪ねる。野口の世話で開業を間近に控えた丸三商店に入ることになる。この店は川北徳三郎、南波礼吉、高井治兵衛が1万円ずつ出資して明治43年1月の大発会から開業するが、代表者は川北の義兄、多田岩吉だった。野口には後年、相場で大損した時も助けてもらった。自伝で「私は野口さんのお世話で再々度相場の世界へ戻ることができた」と述懐している。
  楳泉元遷が長尾秀一に変わるのには訳がある。千葉東金の長尾学という医者の長女と結婚、婿養子となったのを機に父旭秀の一字を拝借し、秀一を名乗ることにした。
  やがて欧州大戦の勃発(ぼっぱつ)で空前の株ブームが到来、「私たちでさえ、もうかってもうかってしようがなかったほどだから、金持ち階級や株屋を経営していた者はどのくらいもうかったか、計算するのは面倒でならなかったに違いない」(自伝)。
  だが、大正5年暮れ、「ドイツが休戦申し入れ」というデマで新東株が460円から103円に暴落、長尾をはじめ夢を見ていた連中は皆真っ青。もうけはそっくり吐き出してしまう。「やっぱり、すってしまう時は皆と一緒や。暴落というものは、そんなもんや」
  昭和19年4月、丸三商店を丸三証券に改称、株式会社に組織変更、その際入サ証券を吸収する。晩年、長尾はわが人生3つの快事として、この1件を挙げ、長男貫一を専務に据え、自らは社長として丸三証券を統率下に収め得た喜びを語っている。「私は用もないのに夜遅くまで社長室に居残っていた。爆弾が落ちてどうせ死ぬのなら、この社長室で死にたいものだと考えていたこともある」
  丸三証券の現社長長尾栄次郎は孫に当たる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人生に変化を富ませ、人生の培養になる金銭に対しては率直でなくてはいけない
・株がダメな場合は土地を買っておく
・上昇している時に「この辺だ」というところで株数を減らしていく。ただし、「この辺だ」が奈辺であるかが難しく、これこそ人生の妙
・金銭を無視しがちな人、無視したような態度の人は嫌いである
(ながお しゅういち 1885―1967)
明治18年2月兵庫出身、同33年家出し、横浜で生糸や株の仲買店を転々としたあと、上京、蛎殻町から兜町入り、同43年1月丸三商店(代表者は岩田多吉)に入り、副支配人となる。大正9年8月多田岩吉が廃業、吉田政四郎がこれを継承するにあたり支配人となる。同14年吉田政四郎没後、業務を継承、一般取引員の資格を取る。昭和19年入サ証券を合併し、丸三証券株式会社と商号変更、社長就任、同23年長男貫一に社長を譲り会長に就任。
(写真は自伝「兜町好日」より)

相場師列伝

三光汽船率い株売買で奇利、岡庭博氏(08/9/15)

時価発行増資で大量資金集め
  昭和46年晩秋のことだ。岡庭博は大阪のある相場師から「あんたの三光汽船のことを北浜では三ピカ汽船と呼んでいるよ。神様、仏様、三ピカ様だ」と言われた。
  その相場師の解説によると、諸株が一斉安となる中で、三光汽船だけが暴騰したおかげで他のすべての損が帳消しになった、というのである。この時、岡庭は「それは、あなたの腕と度胸がいいから」と笑いながらも悪い気はしなかった。当時の三光汽船は半期で株式売買益が50億円にも達する勢いだった。同47年の大納会前日、三光汽船の株価は2560円と最高値を記録、年末の時価総額ランキングで2位以下に大きく水をあけて日本一になる。
  一方でジャパンライン(現商船三井)株の買い占めで岡庭の一挙一動に注目が集まる。海運史の研究で経済学博士号を持ち、大阪産業大や神戸商船大で教鞭(きょうべん)をとり、株式講演会に引っ張りだこ。当時和光証券社長の竹内朴(すなお)が岡庭のことを評してこう述べている。
  「岡庭と私とは昭和18年まで興銀で同僚として働いた仲である。調査部に所属していた同氏は、若年ながら既にひとかどの論客として名を成し、有能な調査マンとして将来を属目(しょくもく)されていた。三光汽船に移ってからは、同社の長期路線を確立するかたわら、持ち前の明晰(めいせき)な頭脳と蓄積された知識をもって、大きな功績をあげた」
  岡庭が銀行の調査マンから海運界に転じるのは、昭和18年興銀大阪支店時代に、かつて旧制姫路高校で一緒だった河本敏夫から誘われたためだ。いきなり取締役に就任、企画部門を担当する。昭和30年代後半、国策として海運業界の再建整備が叫ばれ、3グループに集約化されたが、三光汽船は一匹狼として生きることを決断する。国家補助を受けずに徹底した合理化で運航効率を最大限に発揮することで難関突破を図る。この選択は「河本―岡庭コンビ」によるものとはいえ、シナリオを描いたのは岡庭であった。河本はすでに政界に軸足を移し、三木武夫派の重鎮として忙殺されていたからだ。
  「三光汽船が本業以外に、有価証券の投資を定款に加えたのは、昭和47年5月である。それから4年経過するが、証券会社も顔負けの売買益をたたき出している。そんなところから、いまや三光汽船というよりも証券界では三光証券の名で親しまれている」(水野清文著『現代の相場師』)
  事業目的に証券投資を書き加えてから4年間で443億円の売買益を計上したというから、証券会社は片なしである。興銀の新入社員時代、株の相場を電話で聞いて社内に流す仕事を担当して以来、35年間、個人的にも株を売買し、経営者としても大胆な株式投資を重ねてきた成果が実ったことになる。経済評論家の斉藤栄三郎が「カラスの鳴かない日はあっても三光汽船の記事を見ない日はない」とあきれるのも無理はない。
  岡庭は天性の相場師であるとともに、知略の人であった。「第三者割り当てによる時価発行増資」という“錬金術”で資産を急膨張させた。人はそれを三光方式と呼んだ。1回目は昭和46年11月、発行株数3400万株、発行価格は460円(1株)、引受人は造船17社、株主に対する無償交付1割(47年3月以降、当分毎年行う)。こうして156億4000万円が振り込まれた。
  造船会社にすれば三光汽船は大事なお得意先である。また岡庭は事前に手回しよく造船会社の株を大量に買い付け済みで、大株主でもある。割り当てを辞退される心配はない。岡庭は自著の中で気持ちよさそうに書いている。
  「このような大量の時価発行にもかかわらず、株価は値下がりせず暴騰している。時価発行計画中に400円台であった株価は発表時には500円になり、払い込み時には600円になり、払い込み後はさらに高騰した。ここに従来の時価発行と異った様相が現れたのである」(「岡庭博の株式教室」)
  この大成功に自信を深めた岡庭は、都合4回の第三者割り当ての時価発行増資で合計902億円の資金を手に入れた。この間わずか2年2カ月。2回目は金融機関、3回目は商社、4回目は再び造船会社と目配りをしながらの三光方式に引受先は酔わされていく。が、海運界の環境は急速に悪化、拡大路線は座礁、三光汽船の株価は下落を続ける。昭和60年1月には遂に100円を割る。そして8月13日会社更生法を申請する。三光の時価総額が1兆円を超し、脚光を浴びた日から12年余の歳月が流れていた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・掘り出し株は足でみつけろ
・分散して株を買う
・株主を優遇しない会社は避けよ
・成長株は持続することに意味がある
・20%の利益で満足せよ
・不況時ほど買いまくれ
・プロもアマも当たる確率は同じ、違うのは処理方法、プロは当たれば積極的に伸ばしていき、外れると損の少ないうちに見切る
(おかにわ ひろし 1912―2004)
大正元年兵庫県出身、昭和11年九州帝国大学法文学部卒、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)で調査部に所属、同18年旧制姫路高校で一緒だった河本敏夫(元通産大臣)が経営する三光汽船に取締役として入社、同37年専務。「第三者割り当てによる時価発行」で大量の資金集めに成功、同47年三光汽船の株式時価総額は1兆円を超し日本一となる。同49年副社長、同56年会長、同60年経営破綻。海運史、株式投資、経営戦略関係の著書多数。
(写真は自著「海上商人の足跡」より)

相場師列伝

後継指名で思い切った決断、徳田孝平氏(08/9/22)

投機の才は兜町で開花
  徳田孝平は兜町で「不得要領の孝平さん」と呼ばれていた。生来もの腰は至って柔らかで、人と争ったり敵をつくることもない。「兜町秘史」(島田金次郎著)には「圭角(とがったかど)のない性質」と評されているが、「他人から相談事を持ちかけられても、すぐには賛否を決せず、ただ笑ってその場をにごすといったふうで、ちっとも要領を得ず、張り合いがないことおびただしい」と、優柔不断なところがあった。
  即断即決、てきぱきと黒白を決する兜町人種の中では異色であった。ところが、いざ実行という段になると、ちゃんと要領をつかんでいたので、「不得要領のようで要領を得た」というのが正確な人物評のようだ。
  事実、後継者を巡って長男の孝をはずし、支配人の加々見昂平を養子にして店を譲り、兜町をあっといわせた一件は孝平の凄味をみせつけた。孝平は孝には特別の教育を施した。孝が東京高商を卒業するとロンドンに3年間留学させ、さらにニューヨークに渡って、ウォール街の仲買人に託し、切った張ったの勝負の世界をつぶさに見学させ、帰国後家督を譲る手はずであった。
  ところが、孝は後を継ごうとはしない。俳句を趣味とし、キリスト者として海老名弾正師などと交遊を持つ孝に見切りをつけ、十数年営々と徳田商会に尽くしてきた昴平に店務一切をゆだねることにした。
  孝平の後を継いだ養子の、加々見改め徳田昴平は、やがて東京株式取引所仲買人組合委員長に就任、第2次大戦末期、日本証券取引所に統合されると総裁に担がれるほどの人材となるのだから、孝平の決断は不得要領どころか、末の末まで見抜いていたことになる。
  徳田孝平は三重県松阪の出身。三重はかつて津、桑名、四日市と県内に3カ所も米穀取引所があって、数多くの名相場師が輩出しているが、松阪は三井財閥の発祥の地であり、堅実をモットーとする松阪商人で知られる。孝平は初め三井組に入り、公債の売買に従事していたが、27歳ころからしばしば上京するようになる。
  「徳田家は世々酒造を業とし、富裕をもって近在に知られておったが、満腔(まんこう)の希望と大志を抱いて東京に上り、初めは正米問屋を開始していて、そもそも利を占むる機才があった。そしてその機才は遂に株式界に頭を入れることとなった」(「兜街繁昌記」)
  徳田が東京株式取引所の仲買人の免許を持つのは明治21年9月のことだから、小布施新三郎(明治16年)、半田庸太郎(同18年)、横山久太郎(同19年)、津田七五郎(同)に次ぐ古株。織田昇次郎(同22年)、村上太三郎(同23年)、小布施本次郎(同24年)、玉塚栄次郎(同25年)などより先輩格である。孝平の投機の才覚は兜町にやってきて見事に開花する。そして坂本町に宏壮な角店を建てる
  ただし、徳田を巡ってはよくないうわさもつきまとう。前出の「兜街繁昌記」に「氏はよい得意先に対して、往々間違いを生ずるとのことである。この店から独立した2、3の人は今日でも往来していないと伝えられるほど、徳を落としているそうだ」とある。先に長男の孝が後を継ぐのをためらったと書いたが、その理由は父親の評判が悪過ぎたため、との説もある。市場に生きる人は毀誉褒貶(きよほうへん)を免れないとはいえ、徳田孝平の評価は実にさまざまである。区会議員や東京商業会議所の議員には再三選出されるが、東株では組合委員のほかには役職に就いたことがない。
  米屋時代の孝平についてエピソードがある。河瀬秀治といえば当時知られた名前だが、ちょっと来てくれという。この時孝平は羽織を着込んで、玄関から乗り込んだ。すると、「おやおや、玄関から来るなんて変な米屋だな」という声がする。当時、米屋の出入りは勝手口と相場が決まっていたのに羽織はかまで表玄関から押し入ったのには訳がある。
  「今日は米屋として来たのではない。お話があるというから男1匹まかり出ました」と居直った。ところが、話というのがお手伝いさんのいいのを世話してくれとあって孝平は慨嘆した。「桂庵(口入れ屋)視されるような米屋は金輪際廃業だ」といって米屋をやめてしまった。やめる少し前、相棒の平岡準蔵がお客さんを「オイ、町人」などと呼び捨てするのを、「商人がそんな横柄な態度ではダメだ」とたしなめた孝平とは別人のような気位の高さをのぞかせたのだった。
  徳田商会は内外徳田証券を経て東海東京証券につながっていく。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・根が商人出身だけに利害の観念が強く家産を治める点で他の相場師よりがっちりしたところがある
・初め呑み半分の客仲買であったから、客をひきつける手段として苦心し、店構えも立派にした(島田金次郎による)
・客商売は不況の時、店を拡張するのが秘訣
・無尽の精力を傾倒し、誠実に商売、顧客の信用頗る厚く、名声高し(「大正人名辞典」より)
(とくだ こうへい 1848-没年不詳)
嘉永元年6月5日、伊勢松阪の酒造家水本又五郎の三男として生まれるが、徳田幸之進の養子となり、松阪の三井組に入り、公債の売買に従事する。明治14年上京、初め質屋と問屋を始め一時距離を占めるが、振るわず洋服店を開業、同21年から公債、株式の仲買業徳田商会を始める。同26年から通算8年間東京株式取引所仲買人組合委員を務める。大正初め支配人の加々見昂平を養子として家督を譲る。
(写真は毎夕新聞社編「財界名士失敗談」より)

相場師列伝

船を買わず船株で大もうけ、太刀川又八郎氏(08/9/29)
指し値にこだわり失敗
  大正バブル景気では成り金が続出するが、一番派手だったのは「船成り金」。なかでも山下亀三郎、内田信也、山本唯三郎、勝田銀次郎という4人が「四天王」と呼ばれている。このなかには名を連ねてはいないが、太刀川又八郎という人物も彼らに伍して派手にもうけた。時事新報社景気研究所を経て東京証券業協会に籍を置いた生形要が、その著「兜町100年」の中で書いている。
  「太刀川がもうけたのは第一次大戦勃発(ぼっぱつ)のころであった。145万円で買った太興丸を塩水港製糖に275万円で売り飛ばし、130万円の現金を手にした。カネが手に入ると、また船を買いたくなるものだが、彼はそのカネで郵船株を買った」
  このころ太刀川は1万トンの大型遠洋船を買えるくらいのカネを握っていたが、そのカネで船を買うか、船株を買うか、大いに迷った。太刀川の計算によると郵船株を発行株数の10%買うことは、郵船が所有する100万トン近い船の10%、10万トンの船を所有するのと同じことだった。ならば花形株の大株主に収まったほうがいいと、株を選択した。戦争景気で株価は日々上昇を続ける。
  鈴木商店から戦後、東京都副知事に就いた住田正一は「しかも一流会社の大株主になったのだから太刀川の得意や思うべしである。だが、好事魔多し。大正9年春、桜花咲くころ、突然株界に大嵐がきて、郵船株も大暴落を免れなかった」と「海運盛衰記」のなかで書いている。
  太刀川はこのころ神戸にいたが、株価暴落を知ると、郵船株の売却を指示した。相当安い値段の指し値だったが、売り一色の中で、大量の処分売りは進まなかった。

 太刀川は初め自己資金で郵船株を買い、その株を担保にして銀行からカネを借り、それでまた株数を増やすという豪快な「利乗せ」戦法で突っ走っていたから、株価暴落はこたえた。株をそっくり処分しても借金が残るという悲境に陥った。後年、この時の失敗を住田正一にしみじみと語っている。
  「欧州大戦で僕と同じように成金になった連中で、船を買った人だけはどうにかまだ生き残っている。今にして考えるとやはり船を買うことと、船株を買うこととは別だった。直接の所有と間接の所有とは必ずしも同一ではなかった。けれども僕が失敗した原因は、そのせいではない」
  太刀川が真の敗因だったと悔いるのは、指し値で船株を売り逃げようとしたことだ。緊急の事態が発生した時には、「成り行き」でいくべきところを、少しでも傷を浅くと考える余り、傷口を逆に大きくしてしまった。あの時はわしも素人だったと嘆息した。
  現在、商品相場の世界で「100億円稼いだ男」と活題を集めている坂本嘉山セントラル商事会長に「相場師の要諦(ようてい)はなにか」とただした時、坂本は即座に「見切りができるか、どうかだ」と答えた。太刀川はそれができなかったために大正船成り金7人衆の中で負け組に数えられることとなる。
  太刀川又八郎は新潟県に生まれ、わが国海運界の先駆者でありながら、県内にその足跡をたどる史料は一切ない。明治25年神戸で船舶代理店を開業する一方、「日本回漕雑誌」を創刊、同38年には「海国日報」を発刊するなど、船舶ブローカー業務とジャーナリストを兼ねる。ハワイへの移民輸送やサイゴン米の輸入を初めて手掛けたのは太刀川だった。「北情事変が起こった時は天津航路を経営し、日露戦争には御用船の仕事をした」(「海運盛衰記」)が、太刀川が一番もうけたのは前述の第1次大戦景気の時だった。
  そしてバブル崩壊で没落したあとは突如、「船舶国有論」を唱えるが、米国での失敗例があるため、共鳴者を得るに至らなかった。すると、今度は船舶大合同論を提唱、海運不況からの脱出を図る。日本郵船、大阪商船などを大合併させ、払い込み資本金5億円という巨大海運会社を設立、運転資金は政府から低利融資を引き出すという計画であった。
  これには安田善次郎や勝田銀次郎など郵船や商船の大株主も賛成に回り、逓信大臣野田卯太郎も熱心な合同論者であったため、一時は大きなうねりとなった。しかし郵船、商船両大手の役員連中が強硬に反対、下火となる。「失敗後も所信を曲げず、太刀川の船舶合同論として海運史に名をとどめるに至った」(水野勇)。
  晩年没落したとはいえ、郵船株を数千株持っていて、株主総会では自慢の長いあごひげをしごきながら発言する名物男であったという。
  海運界の直言居士、野村治一郎によると「太刀川という男は一時隆盛を極めたが、途中没落した。そして日本郵船、大阪商船の株を若干買い、郵船、商船の株主総会には必ず出席して御用をつとめていた」(「わが海運六十年」より)という。株数はだんだん減らしても終生船株を愛し続けた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・郵船・商船の合併を念願、口癖のようにし、一種禅味のある風貌をしておられた(広幡忠隆)
・篠は細しといえども束ぬれば折れ難し
・船舶合同論で海運史に名を残す(水野勇)
・素人が本業以外のことに手を出すときっと失敗する。逃げ道を知らないからだ
(たちかわ またはちろう 生年不詳―1937)
新潟県出身、明治25年ころ神戸で太刀川商店を開き、船舶代理業を始める。同30年ころからハワイへの移民輸送の全国総代理店として活躍、日露戦争に際しては軍事輸送の円滑化に努めた。第1次世界大戦中、船舶売買と日本郵船の株で大もうけするが、戦後のパニックで吐き出す。船舶大合同を提唱するが、郵船、商船両社経営陣の反対で実現しなかった。著書に「船舶国有意見書」などがある。
(写真は「日本郵船50年史」より)

相場師列伝

人生“第二志望コース”で商才爆発、高畑誠一氏(08/10/6)

ロンドン駐在足がかりに鈴木商店の黄金期に貢献
  金子直吉が率いる鈴木商店が「三井、三菱を圧倒するか、しからずんば天下を3分せん」と突っ走るのは大正3年、欧州大戦が勃発した時だ。当時、鈴木商店のロンドン支店で、その先兵として大奮闘したのが高畑誠一であった。鈴木商店初の“学校出”として入社、語学力を見込まれ、3年目でロンドンに赴任する。そして、14年間にわたりロンドンに駐在するが、一番血湧(わ)き、肉躍ったのは欧州大戦の時だろう。日本経済新聞「私の履歴書」にはこう書いている。
  「金子さんの命令を受けるまでもなく、開戦前から私は鉄、砂糖、小麦など戦争で値上がりが予想される物資を猛然と買い集めた。特に銑鉄、鋼材の買い付けに力を入れた。…予想通り、大正4年2、3月ころから鉄をはじめ砂糖、小麦粉などは一斉に暴騰した。このころ、4カ月だけで、鈴木商店は当時の金で数千万円、現在の物価から換算すれば、数百億円以上にも相当する利益を得た」
  金子直吉から買い指令が届く前から高畑は買いに走っていた。だから鈴木商店の後継会社「日商」が社史で「若くして世界貿易の檜舞台、ロンドンの支店長に任じられ、すぐれた商才を発揮して鈴木に巨利をもたらし、金子直吉の信任も非常に厚かった」と高畑を称えるのは当然だろう。
  鈴木といえば金子、金子といえば鈴木といわれるほど鈴木商店における金子の存在が喧伝(けんでん)されているが、高畑の才覚も鈴木躍進のキーパーソンとして大書されていいだろう。高畑はこの時の大掛かりな買い思惑を回想しながら「企業家として先見の明があったことになるのだろうか」と控え目に語っているが、スエズ運河を通過する貨物の量で鈴木商店が、三井、三菱を圧倒したのだから、高畑の力量はただものではない。
  愛媛県に生まれた高畑は、松山中―東京高商―三井物産のコースをにらんでいたが、西条中―神戸高商―鈴木商店といずれも第二志望のコースをたどる。25歳でロンドン着任後、一気に商才を爆発させる。父宗次郎がヤマっ気の多い人だったというから、誠一には投機師の血が流れていたのかも知れない。それまでロンドン支店では日英間の貿易に限られていたが、ハイリスク・ハイリターンの第3国貿易を手掛ける。
  「どこの国が何を欲しがっているかを調べる一方で、どこの国で必要な物資が調達できるかを多角的につかんでおかなければならない。それだけに日ごろの勉強、情報収集が勝負の分かれ目になる」(「私の履歴書」)
  小麦や麦粉、砂糖など、すべて国際商品だから国際情勢の動きや天候の変化を敏感に反映しながら相場が激動する。第3国貿易という投機的事業に成功する決め手は、正確な情報の収集であり、ネットワークを広げることだった。金融機関、メーカー、ブローカーなど情報網を広げながら、ロンドン支店の売上高はぐんぐん増えていく。そして冒頭に記した巨利を呼び込む。戦乱の中で利益を膨らましたからといって高畑を「死の商人」と呼ぶのは当たらない。平時にあっても小さなヒントで大きなもうけをやってのける。
  大正7年11月11日、ロンドン中の寺院が一斉に鐘を鳴らし、大戦終了を告げる。この日、高畑は世界的糖商ザーニコフ社の重役と昼食を取っていた。「ヨーロッパ大陸は大変な砂糖不足に陥っている」。この一言で高畑の勝負勘がひらめく。「おもしろい」。あっちこっちに当たってみると、1年先物の砂糖の売り物が見つかった。すぐ本社に「買わないか」と打電するが、返事がこない。相場は刻々上向いていく。返電を待ち切れずに船2隻分、1万4000トンを独断で買い付けた。4、5日すると相場は急騰する。やっと本店から「買い」の指令。利食っては買い、買っては利食いで、砂糖成り金である。自伝で語っている。
  「砂糖相場は当初の予想通り、第1次大戦後、2年近く暴騰を続け、ピークには10倍近くまで上がった。この間、私が扱った砂糖はざっと50隻分にのぼり、もうけは当時の金で50万ポンド(1ポンド=10円)にもなった。もともと私の独断でやったことだし、この砂糖のもうけは、しばらくロンドンに備蓄しておいて、新しい事業にでも役立てようと思った」
  帰国して1年後、鈴木商店は積極策が裏目に出て破綻、高畑は盟友永井幸太郎(後に日商第2代社長)と日商を設立した。たった39人での旗揚げだったが、40年後には4000人の大世帯に膨張した。高畑は社長にこそならなかったが、18年間会長として日商のシンボル的存在であった。本場仕込みのゴルフはハンディ6の腕前で、人脈、情報網の拡大を目指すうえで効用が大きかったという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・目先のことにはとらわれず、もつれた糸を一本一本じっくりほどいていけばいい
・待てば海路の日和あり
・日本は海外の多くの資源開発に投資し、原料資源を確保すべきである
・国際商品の売買にはいろいろな人と接触して話を聞く
・情報収集活動のためには交際範囲を広げる必要からいろんな遊び、趣味を身につける
(たかはた せいいち 1887―1978)
明治20年3月21日愛媛県内子町生まれ。旧制西条中から神戸高商(現神戸大学)を経て、同42年鈴木商店に入社。大正元年ロンドンに赴任、第3国貿易で実績を上げ、同3年第1次世界大戦勃発で諸物資を猛然と買い進み、鈴木商店の黄金期を築くことに貢献、同15年帰国、昭和2年鈴木商店が倒産、同3年鈴木の残党たちと日商を設立、同20年初代会長、同38年相談役、同47年日本経済新聞に「私の履歴書」を掲載、同53年他界。
(写真は「日商40年の歩み」より)

相場師列伝

東株の現物市場を支配、井出民蔵氏(08/10/13)

「山種さんは私の生徒」
  昭和35年ころの株界で井出民蔵は「兜町の大久保彦左衛門」と称された。安保闘争で国会周辺が騒然となる中、井出は総評事務局長の岩井章と対談した。岩井は「昔軍隊、今総評」と恐れられた当時の労働運動のボス。井出とは同じ長野県出身だが、この日が初対面だった。そのときのやりとりだ。
  井出 「実は3日ばかり前、雨の降る中を私は“兜町がなくなるぞ”と書いたパンフレットを2万枚ばかりばらまいた。兜町をなくならせないためには、岩井さん、あなたにも聞いてもらいたいが、株を持っている人が500万人いる、彼らは今は資本家じゃなくて投資家だ」
  岩井 「知ってますよ。しかし、その意見とは私は違うところがある(笑)」
  井出 「まあ、ちょっと待って。500万人はいるよ。穏やかな世の中にするには、従業員組合に30%の株を持たせたい。そして経営に参加させ、完全に協力させる。そうすると、争って得なのか、仲よく仕事したほうが得なのか自然に分かる」
  岩井 「なぜ30%なんです。50%では?」
  井出 「それはわしの案だよ(笑)。半分にしようと、20%にしようと、そんなことはあなた方えらい人が決めればよい」
  岩井 「50%か30%かは非常に大事なんです」
  井出 「株を持った温もりで、この会社を皆で経営しようじゃないかと。…ごしゃごしゃやってれば、日本の国はますます細っちゃうね」
  井出民蔵は明治31年5月、長野県南佐久郡南牧村という寒村で生まれた。尋常小学校を卒業すると農業に従事、1日13時間も働いた。17歳の時、一度家出するが失敗、19歳で再度飛び出し、新宿で3カ月新聞配達をやったあと、大正6年叔父が日本橋青物町(現1丁目、兜町)で経営する株仲買の井出郷助商店に入る。字が下手だったので帳場には向かず、使い走りをやらされた。4年辛抱したが、生来の向こう意気の強さがたたって喧嘩(けんか)が絶えず陸井某の丸二商店に転じ、場立ちをやる。
  「叔父の店にいたころ、目下だと思っていた若い人が私の上に座って威張っている。店が違うから仕方がないと思って、初めは我慢していたが、またもや喧嘩して、飛び出してしまいました。もう商店勤めはやめにして才取り(客の注文を取引員に取次ぐ者)になりました」(自伝)
  丸二商店では80円の月給取りになっていただけに世間相場をはるかに上回る月給を棒に振る不安はあったが、才取りになって最初の月にいきなり270円の収入をあげた。才取りとして独立したといっても店を持ったわけではなく、他人の店頭を借りて取引員の間を飛び回る、文字通り「トンビ」のような毎日だった。この時井出は「愛と誠意」と「自分を偽らない」をモットーにかけずり回り、月額5500円もの収益をあげる。
  30万円できたところで現物取引の丸民商店を開業する。昭和15年、42歳のことだ。店員は総勢8人だったが、月給は兜町で1番高かったのが自慢のタネだ。
  兜町で長年にわたっていくたの栄枯盛衰を目のあたりにしてきた井出はリスクの大きい先物に手を出さず、現物取引に徹した。現物市場では帝王の存在だった。この帝王は汗と脂で臭くなった洋服を身にまとい、立会場で1番高いところへ上がって相場を通した。
  「私のいうことがいちいち相場になってしまった時代さえありました。私が便所へ入ったりして場をはずしている間は、相場が立たなかったことすらあります。そういうわけで私は相場に関しては、特に現物については大した権威を持っていました。四大証券の重役の中でも私の教え子が何人もおります。山種さんも私の生徒でした」(同)
  戦後は丸和証券社長として証券民主化運動の先頭に立った。元東証理事長、坂薫が主宰する「5日会」に所属、大躍進のある日、側近の重役の裏切りにあうが、家屋敷を売り払い山一証券の大神社長、野村証券の沢村正鹿専務ら6人の支援で悲運を乗り切った。「私は6人の方のお宅を年に6回ずつ回って感謝しています」。中でも沢村の写真は終生肌身離さず拝み続けたという。その丸和証券は9月1日、ネットウィング証券と合併、証券ジャパンと改称した。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・真面目な投資は一家の幸福。愛と誠意と感謝
・儲けはこまかく、長く、気長に
・自分の頭に投資せよ。自分の頭で冷静に判断せよ
・儲(もう)けの成果は社会の役に立つものに再投資せよ
・目先の動きに拘束されず、将来性ある株に長期的投資、一時暴落しても必ず上がると信じておれば儲かる時期は来る
(いで たみぞう 1898-1970)
明治31年5月26日、長野県南佐久郡南牧村海尻で農家の次男に生まれ、小学校卒業後は農業に従事、大正6年19歳で上京、新聞配達ののち叔父が経営する株仲買、井出郷助商店に入る。丸二商店で場立ち、のちに才取りをして金をため、昭和15年丸民商店を開業、同19年小出商店を合併して丸和証券社長、同24年破綻に瀕(ひん)するが、野村証券の沢村専務(後に大阪証券取引所理事長)などに助けられて立ち直る。同45年1月13日他界。(写真は自著「株とわが人生」より)

相場師列伝

乾繭で巨損の天才技術者、寺町博氏(08/10/20)

無類の相場好き、再度会社手放す
  平成5年11月29日、生糸の原料である乾繭(かんけん)の買い占めに失敗、100億円を超す損失を被った寺町博は苦渋の記者会見を開いた。創業社長を務める店頭登録(当時)のベアリング会社、THKの株価が暴落、経営不安説の流れる中で、記者たちの質問に答えた。
  冒頭30秒に及ぶ長い沈黙が事態の異様さを物語るが、「乾繭先物相場で約100億円の損失が発生したが、あくまで個人の損失で、会社からの資金流用はない」と経営不安説を一蹴し、語り出した。
  「経営不振の商品取引会社フジフューチャーズから救済を頼まれ、引き受けた。フジの持ち株比率を6割強に高めて実質的なオーナーになるとともに、有力顧客などに総額約100億円を融資した。しかし乾繭の先物相場が暴落し、顧客に多額の損が発生、私の貸付金も回収不能になった。私自身はこの商品取引に参加しなかったし、巷間(こうかん)言われるような仮装取引など商品取引所法違反の事実はない」(平成5年11月30日付日本経済新聞朝刊)
  寺町はさらに、自社株を売却したとの噂を全面否定し、「今のところ売却が必要な状況ではありません」と、余裕すらのぞかせた。このように、寺町は会見の中で、仕手に資金は提供したが、自らは乾繭相場に手を出していない、と言い張った。
  だが、この言葉を額面通り受け取る人はいなかっただろう。寺町の相場好きは「ほとんど病気に近い」とも「不治の病い」ともいわれる。寺町は過去にも相場で大穴をあけて創業会社日本トムソンを追われているのだ。
  寺町博は大正13年生まれで、岐阜県立第一工業高校を卒業後、半田重工業に入社、ベアリングの生産技術をマスター、昭和25年名古屋市で大一工業(後に日本トムソンと改称)を創業。同38年には東証2部上場を果たす。この時寺町は社内預金制度を設け、年2割の利息を約束、それで自社株を買えというわけである。
  「ところが、社員が増えるにつれ、預金額が増えてくる。自社株を買うだけでは金が余るので内容のよく分かっている大手同業社、ユーザーの優良株を買ったが、それが分かって同業社からは株買い漁りをやると批判された」(日刊工業新聞編「男の軌跡」第7集所収)
  社内預金を使って始めた財テクだが、年率20%の利息を確保するのは容易ではない。株価が悪い時には商品相場に乗り出すが、これが難敵で、5億円とも15億円ともいわれる赤字を出す。この時は小豆相場でやられた。私財を投げ出し、手塩にかけた日本トムソンをやめるが、その1年後には東邦精工(後のTHK)を立ち上げ、ベアリング販売を始める。同時に宮入バルブの専務に就任するのは不可解である。頼まれたら断れないお人よしからか、あふれる投機心の発露なのか。
  宮入バルブのほうは、ほどなく持ち株を再建屋大山梅雄に譲って、日本トムソンから馳せ参じた45人の社員とともに東邦精工の運営に専心する。平成3年には紫緩褒章も受章し、資産1000億と称され順風満帆の晩年を迎えようとしていたが、相場の虫がうごめく。そして乾繭、生糸市場で大掛かりな仕手戦を展開し、冒頭のような記者会見を開き、「敗軍の将、兵を語る」羽目となる。
  この仕手戦は初め、寺町サイドの思惑通り上昇を続ける。1キロ2000円前後で低迷していたのが、3000円台を突破、4000円を超えて、5000円台に突入する。取り組みも大きく膨らみ、前橋乾繭取引所は急きょ、売買規制に動く。証拠金の引き上げ、建て玉制限で寺町一派の動きを封じ込めようとするが、たらいの中に鯨を泳がせた格好だったため、取引所は機能マヒに陥る。やがて凄惨な暴落場面となり、平成5年11月限は5518円をピークに1820円まで崩落、寺町の損失は100億円を超した。
  寺町は暴落の直前、前橋に出向いて総量規制の撤廃を訴えた。寺町とすれば、市場振興を願う取引所の意向に沿って買い思惑したら、規制強化で身動きできなくなった、早急に規制を撤廃しろ、というわけである。休日に夫婦そろって取引所幹部を訪れ、規制解除を訴えたのは、いくら資産1000億円と称された寺町といえども打撃が大き過ぎたからだろう。
  この時、寺町の買い占めに売り向かって30億円もうけたのが、当のフジフューチャーズのコミッションセールスマン、坂本嘉山(現セントラル商事会長)というのも奇妙な取り合わせである。オーナー社長の買いに、その会社の1セールスマンが売り向かって大勝利を収める。相場が位階勲等や、金力を超えた世界であることを見せつけたといえる。寺町はこの後、ほどなくTHKを長男の彰博に譲り渡す。
  そしてフジフューチャーズの上場を狙うなど、生涯3社目の上場に意欲を見せていたが、商品取引を巡る環境の激変で断念した。しかし、毎月始めの朝礼では全社員に「顧客さんに儲けていただくことが会社の発展につながる」と熱っぽく語る。
  天才エンジニアと名声を博す一方で、相場は苦手。本業(ベアリング)で稼いだ金は、鎧橋周辺の投機街に散じた。その額は計り知れない。だが、何よりも相場が好き。80歳を超した今も相場の心を追い求めているという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・今を最善に
・開拓創造。私は物真似は絶対にしたくない
・世の中で1番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである
・世の中で1番淋しいことは、する仕事を持たないことである
・タフネス(T)、ハイ・クオリティ(H)、ノウハウ(K)がTHKという社名の由来
(てらまち ひろし 1924― )
  大正13年4月25日、岐阜県出身、昭和17年岐阜県立第一工業高校卒、半田重工業入社、ベアリングの生産技術を修得、同25年日本トムソンを設立社長就任、同45年商品相場で失敗して同社を去り、同46年東邦精工(後にTHKと改称)を設立社長就任、同54年、無限摺動用ボールスプライン軸受で日本発明振興協会発明大賞を受賞、平成3年紫緩褒章受章、同5年乾繭の買い占めに失敗、巨損、現在大手商品取引員フジフューチャーズの会長兼社長。

相場師列伝

“無理山無茶三”と称された怪腕、守山又三氏(08/10/27)

綿糸の買い占めに失敗
  守山又三が日本買い占め史に名を残すのは、綿糸相場で強引な買い思惑を展開、大阪三品市場を震撼させたからである。守山は生まれつき投機心にあふれ、大阪株式取引所株の買い占めを図るなどやり口が余りにも乱暴だったため、大阪投機界では本名をもじって「無理山無茶三」と呼ばれていた。
  それは明治33(1900)年3月8日のことだった。当時守山は九州紡績の大阪出張所長として采配をふるっていたが、大阪三品取引所で綿糸の買い占めを策し、先ぎり相場が115円40銭と開所来の最高値をつけた。同取引所は開設されて6年目に入っていたが、「年初インド綿の大凶作に引き続き、思惑買い占めのため激騰し、…売買高は3月31万5000コリ(1コリ=約181キログラム)、4月は32万3000コリと従来の10倍に達する活況を呈す」(「三品小誌」)。この大商いの記録が塗り替えられるのは16年後、欧州大戦下の大正5年10月を待たなければならないのだから、守山の買い占めのすごさが偲ばれる。
  大阪朝日新聞の狩野正夫記者は、「守山は後年熊本から代議士に出たが、すこぶるつきのペテン師で、おまけに覇気縦横ときている。無茶三君が無茶買いをやったのだから、すこぶるもって、面白からざるを得ない」と、その著「商戦秘話」に記している。仕手戦が見る人にとってこの上なく面白いのは、昔も今も変わりはない。
  守山が思惑買いを始めるのは、32年半ばのこと。そのころ三品取引所では中国商人、益東生による綿糸の買い占めが演じられ、この時は取引所の証拠金増徴で華商が苦杯を喫したばかりだった。守山はインド綿の凶作を見込んで買い進んだ。4つの仲買店を駆使して買いあおったのだ。
  守山が大掛かりな買い占めに動くに当たっては事前に手を回し、北浜銀行頭取の岩下清周と三井物産棉花部長の山本条太郎(後に常務から満鉄総裁)から資金面で協力を取り付けてあった。しかし、建て玉が大きく膨らんできたため金繰りに窮した守山は、北海道炭坑株買い占めなどで名を知られた大物相場師、横山源太郎にも資金協力を仰いだ。しかし、横山は北炭株買い占め失敗で、「とても人さまのお世話する状況にはない」と断ってきた。
  それならと、守山は横山の名前を利用することを思いついた。「横山源太郎が綿糸に買い出動」となれば、相場は暴騰し、利食いすれば証拠金を抜くことができる。「守山は横山の名前だけを借用することにし、京都に招いて共同戦線の体を見せかけ、次いで4軒の機関店主を曽根崎新地の梅田楼へ招待して、横山を紹介し、連合買いをするために来阪されたのであると吹聴した」(同)
  果たして、翌日は綿糸が大暴騰した。売り方の踏みが続出する一方、チョウチン買いが膨らんで一気に10円高を演じる始末、守山の策戦は図星だった。この時、売り方に立っていた田附将軍こと田附政次郎が動く。田附は三品市場屈指の仕手であるばかりか取引所の監査役の地位にあった。守山一派の資金繰りが苦しくなっているのを見抜いていた田附は三品取引所の今西林三郎理事長を動かし、証拠金を一挙に3倍増に引き上げさせた。これにはさすがの守山もお手上げである。相場は一転暴落、折しも九州紡績の総支配人(一説には社長の野田卯太郎)が上阪すると通知がくる。すると守山は市場から姿を消した。買いの本尊が逃亡したとなっては相場は大崩れである。
  守山が北海道に逃走したのは仕手崩れのせいだけではなかった。守山は大株の買い占めに失敗したとき、九州紡の綿花買付け資金50万円を使い込んでしまい、この穴埋めに綿糸の買い占めを画策したことが判明した。2年後、九州紡は鐘紡に吸収される。
  この守山事件では田附の地位利用が問題にされた。「田附は監査役たる地位を利用して売買上の利益を得ているということが非難の的となり、遂にこれを契機として定款を改正し、綿糸仲買人は三品取引所の重役たり得ないということにした」(南波礼吉著「日本買占史」)
  守山の背後に山本条太郎が控えていると喧伝されたため、山本は外遊から帰国早々、自宅待機を命じられる。守山事件のあおりで三井物産の株価暴落を誘発したこともあって、株主から短刀で脅迫される。しかし、私利私欲を図ったのではないことが判明すると、本店参事に昇格、後に満鉄総裁にまで栄進する。守山は財界での評価は大きく分かれるが、郷里の熊本では徳富蘇峰を寄せつけない人気があった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・ハッタリ屋(宮本又次評)
・頭が切れ、大胆、生来勝負事が好きだった(岩本厳評)
・すこぶる付きのペテン師で、覇気縦横(狩野正夫評)
・常軌を逸した商行為をするので、彼を知る人は守山とは呼ばず、無理山とさえ称した(南波礼吉評)
・真っ正直な人物(近藤泥牛評)
(もりやま またぞう 1869―1940)
  明治2年3月熊本県出身、東京高商(現一橋大学)に学び、熊本軌道取締役、讃岐電気軌道監査役、京都電気社長を歴任する。この間九州紡績大阪支店長時代に綿糸の買い占めを策し、失敗。同41年第10期衆議院選に熊本県郡部から出馬し当選、立憲同志会に所属。読書を好み、海外の新聞で世界の大勢を知るのが楽しみだった。
(写真は「歴代国会議員名鑑」より)

相場師列伝

石橋たたく相場師、山一しのぐ成功ものす、今井安太郎氏(08/11/3)

大胆かつ細心、顧客とは勝負しない
  「帝都株式界の巨壁、三五屋商店主の今井氏は年齢ようやく40歳、20年前初めて身を株式界に投じ、義兄林猶吉氏の帷幄(いあく、参謀)となり、もって三五屋を今日の盛大になさしめた」(遠間平一郎著「財界100人」)
  今井安太郎は19歳で上京すると、株式界に入り土屋鋭太郎の久星商店などで修業を積む。日露戦争のころ義兄、林猶吉が三五屋商店を開業すると、今井は総支配人として義兄を助けた。それまで三十五銀行の兜町支店に勤めていた林が一念発起、株式公債ブローカーに転身するのは、ニューヨークでウォール街の賑わいをつぶさに見てきた結果である。
  やがて林は合資会社、三五屋商会を興こし、信託事業に専念すると、今井が三五屋の店主となる。一方、義弟の安井昌三が横浜で三五屋商店を旗揚げ、3人が呼応して三五屋を盛り立てる。全国の主要な駅ごとに「公債株式売買 三五屋」の看板を揚げたりしてPRに努めた。兜町の語り部、長谷川光太郎が「兜町盛衰記」の中で述べている。
  「英会話の達者な外交員を入れて横浜山下町の英商、サミュエル商会その他、外国商館へ公債の売り込みに先鞭をつけたのも三五屋で、それがたまたま日露の開戦となり、欧米人の関心が日本に集中し、三五屋の活動には一段の勢力を増した」
  林・今井・安井の三義兄弟がチームワークよろしく「三五屋」の旗のもと、足並みを揃えることができたのは、3人とも派手を好まず、着実を旨とする営業方針を貫いたからであろう。相場の世界では大成功者といえども裏に回っては批難を浴びるものだが、今井に限ってはマイナスの評価は皆無に近い。
  「機略にして果断、胆力ありて些事(さじ)に拘泥せず、しかも着実、穏健、小心翼々を要するは、株式界に従事する者の備うべき資格たり。複雑なる人格を有して商戦場に出入りしながら、容易には成功を見る能(あた)わざるもの、また斯界(しかい)の常観ならずや。この間にありてよく万難を排し、大成功を収め得た者は、まず男の中の男と称すべきなり」(大正人名辞典)
  投機市場は平時の戦場にたとえられる。そこで成功するには、大胆でかつ小心翼々たる別人格を同時に兼ね備えていなければならない。複雑な性格が要求される投機界で成功した今井は「男の中の男」と寸評にあるが、今井はお客の売買に決して向かわなかった。当時の取引員はお客の売買注文に反対売買して、お客と勝負する例が多かったので、今井の営業は異彩を放っていた。
  大正初めの有力株仲買のバランスシートがある。「実業之世界」誌によると、当時一流(または準一流)の店として小池国三、村上太三郎、小布施本次郎、半田庸太郎、徳田孝平、そして今井安太郎の6人を挙げているが、財務事情は今井が群を抜いている。
  今井安太郎 小池国三(山一)
手数料収入 6,600円 6,200円
現物利益 8,500円 6,500円
収入計 15,100円 12,700円
内勤店員・給料 35名・2,450円 39名・2,750円
歩合外交員・給料 150名・4,250円 40名・2,800円
小僧・給料 15名・105円 20名・120円
店費 1,700円 1,200円
主人交際費 500円 500円
金利 2,000円 2,500円
支出計(その他含む) 14,000円 11,870円
差引残 1,100円 830円
  売買高に応じて東株に納める金を見ると、今井は8400円で、小池(7900円)、村上(2850円)らを寄せ付けない。今井は仕手戦を仕掛けて大向こうをうならすようなことはやったことはないし、手堅さ一途にのし上がって、当代随一と称された小池国三をも凌駕(りょうが)した。同時代評も口を揃えて持ち上げる。
  「彼はもとより乾坤を一擲に賭するていの冒険的壮挙を好むものに非ず。鑿々(さくさく、確実)として進み、着々として行うの人なり。故に投機界に雲を起こし、雨を呼ぶていの荘観は彼に期し難しといえども、松柏の如く、うつ然として千古に茂れる概は中央輸贏(ゆえい、投機)市場において、ただ1人彼に見るを得る」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・生来、派手を尊ばず、着実を主とし、営業方針は急進主義にによらず、漸進主義で、まず客種を吟味し、客の取引に対しては忠実な仲次人となり、絶対に思惑を試みない(「兜街繁昌記」)
・謹厚着実、温良恭倹譲の徳はおのずから彼の風ぼうに現れ、常に春風駘蕩(たいとう)たる感あり(「財界100人」)
(いまい やすたろう 1873―1942)
  明治6年1月18日新潟県高田市(現上越市)で今井金作の長男として生まれ、高田中学を卒業(一説には中退)、東株仲買人久星商店に入る。同43年東京株式取引所仲買人の三五屋商店を開業するが、大正4年廃業、同11年東株の実物取引員となり、同13年短期取引員の免許を得て開業。昭和3年東京実物取引員組合副委員長、東株商議員をつとめた。(写真の出所は「大正人名辞典」)

相場師列伝

寸分の狂いなく当たり続けたインテリ買い占め屋、曽根啓介氏(08/11/10)

月島機械や鐘渕機械で巨利
  曽根啓介は「相場師評論家」と呼ばれる。相場師として数々の買い占め戦を展開する一方、株式評論家としても一時代を築いた。自著「新・お金の儲かる本」の中で述べている。
  「これからの株式投資で大きな可能性をつかむためには、新しい投資態度、投資方針を身につける必要がある。株式投資で成功する秘訣はただ1つ“時の流れを正しく理解し、それに応じた態度と方針で臨むこと”にあるからです。この前提を立てて、つまり日本の株を信頼し、そういう信頼の中から新しい可能性をつかんでいかなければならない」
  第2次大戦後の兜町で買い占め王としては藤綱久二郎、横井英樹、鈴木一弘の愛知県出身トリオがよく知られるが、曽根啓介は一橋大学出身のため、“インテリ買い占め屋”とも呼ばれる。曽根を語る時、必ず取り上げられるのが、昭和35年の月島機械の買い占めである。曽根は世間が買い占め屋と呼ぶことに大いに不満である。「おれは買い占め屋でもなければ、乗っ取り屋でもない。時代の先端をゆく集中投資家だ」と言い張るが、買い占めと集中投資の境界はあいまいである。
  横井や鈴木とのやり口の違いについて地場筋では「狙いをつけて株をひそかに買い集めるまでは同じだが、ある程度集め終わると、ムードをかもして値をつり上げ、そこを市場で売り抜けようというのが曽根の使う手だ」と分析する。確かに岩崎通信機や昭和護謨の場合は、うまく売り抜けて巨利を手にしたが、月島機械や鐘渕機械のケースは買い占め株を第三者に肩代わりさせることによってもうけた。
  曽根が買い占め史や相場師列伝に名を残すきっかけになる月島機械。昭和34年7月ごろの株価は100円前後だったが、8月に入って急上昇、200円をつける。市場では倍額増資期待、小松製作所との業務提携などをはやして買われている、とみていた。株価は230円にまで高騰する。株主総会前の名義書き換え停止期日がきて、会社側は驚いた。曽根啓介名義で120万株が株主名簿に記載されていたのだ。
  当時月島機械の発行済み株数は480万株だったから、その25%を曽根に買い占められていたことになる。実は買い占めの途中で曽根は2度、会社側に引き取るよう要請していたが、役員会は2度とも突っぱねていた。月島機械株の65%は安定株主であるという安心感と、曽根啓介の名がまだ横井英樹のようには知られていなかったこともあっただろう。
  黒板駿策社長は幹事証券会社の野村証券に相談した。野村は荏原製作所に肩代わりしてもらうよう動いた。先代社長の黒崎傳作が荏原製作所の経営トップとじっ懇な間柄であったことで、曽根の持ち株はそっくり荏原が引き取った。「月島機械のほうではこの肩代わりについて相当な条件を覚悟していた。しかし、荏原製作所はいっさい条件をつけなかった」(高橋弘著「買占め」)
  この取引で曽根は莫大な利益を上げ、名は兜町にとどろいた。
  曽根啓介は本名が曽根孝嗣。大正7年1月1日生まれで、昭和15年一橋大学を卒業、同24年東光証券(現三菱UFJ証券)に入社、東光証券は大物相場師が機関店としてよく使う店で、五島慶太や横井英樹ともここで知り合った。同34年日山興業を創立、社長に就任する。
  月島機械で初陣を飾った格好の曽根は、次に岩崎通信機を大量に買い集め、見事に売り抜けた。「さらに昭和護謨を62万株買い占めて大和証券の仲介で明治不動産に肩代わりさせて大儲けした曽根氏。そして、次が株界史上に残る鐘渕機械の買い占めである。曽根氏は持ち株93万6000株で親会社鐘紡をしのぐ大株主になった」(久保木賢二著「踊る仕手株」)
  曽根は鐘機の相談役に就任すると、再三鐘紡を訪ねては持ち株の肩代わりを田中豊副社長に迫り、1株110円で肩代りが決まる。このニュースで昭和35年11月2日の株価は80円高をつけ300円台に乗せた。曽根のもうけは数千万円にのぼった。
  紡績株が全盛期のころ、天下の鐘紡を相手に大勝負をして巨利を占めた曽根の名声はいやがうえにも高まる。久保木によると、「以来、曽根の相場観は寸分の狂いもなく当たり続けた。いわば相場の常勝将軍」の勢いで、週刊誌に連載コラムを持つなど曽根の人気は急上昇。このころ雑誌記者に語っている。「もう個人の力ではどうにもならない時代。これからはグループ投資だ。その頭々立つのがこれからの相場師だ」
  曽根の買い占め事件を契機に鐘機は鐘紡の支配下から離れ、トヨタの石田退三の手によって再建が図られることになる。当時、トヨタ自動車工業の社長で同時に豊田自動織機製作所の社長でもあった石田は、今橋クラブで「こんな会社の株価が300円もつけるというのは無茶だ。内容をみてびっくりした。わたしの名を貸して株価が上がるのなら名義貸し屋でも始めますか」と冗談を飛ばした。今、国会図書館には曽根の著作が11冊あり、これは曽根が評論家としても活発だったことを物語っている。今年90歳になった曽根は「私もジジイになって……相場はやっていません」と元気そうだった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・それぞれの時代の指標株をよく見極めてそれについていく銘柄に投資する
・間違いないということで投資対象を選ぶなら、公社債でも買えばいい
・できるだけ資本金の小さい株を選ぶ
・株に専門家はいない。だれもが同じような煩悩で株をみ、株を考える。もうけるチャンスは平等である
(そね けいすけ 1918~ )
  大正7年1月1日、神奈川県出身、本名孝嗣、昭和15年一橋大学を卒業、日本曹達に入社、同24年東光証券に入社、調査企画部長、取締役営業部長、常務を経て同34年日山興業を設立、月島機械買い占めで注目を集める。岩崎通信機の大量買いで巨利を占め同35年鐘渕機械を買い占め、鐘紡に肩代わりさせる。清水一行の「買占め」のモデル。著書に「お金の儲かる本」「新・お金の儲かる本」「株は儲かる」など。
(写真は森川哲郎著「兜町覇者列伝」=久保書店より)

相場師列伝

勘も手伝い次々と相場を的中、加藤清治氏(08/11/17)

岡三の創業社長は親兄弟も相場師
  「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」という。昭和36年5月、岡三証券の創業社長、加藤清治は証券界に尽力した功績で、藍綬褒章を受章した。同29日の伝達式のあと、大阪や津などで立て続けに祝賀パーティーを開いた。さらに、忙しくも受章記念の胸像を製作することになり、彫塑家、本郷新のアトリエを訪ねた。
  その翌日の6月26日、長男でもある加藤精一専務(現岡三ホールディングス会長)の東京・杉並の自宅で倒れ、清治は不帰の客となる。そのとき、長男の精一は日本生産性本部の「投資信託視察団」に加わり、渡米中のため留守であった。ボストンの空港へ向かう途中で父の死を知った精一は、急きょ予定を変更して帰国、緊急取締役会で第二代社長に就任する。
  加藤清治は三重県出身。最盛期には県下に株屋が50軒もあったという相場の盛んな土地柄だ。実父の柳助も茶や生糸相場を手広くやり、長兄は盛んに米や株を張っていた。そんな相場師の血が清治にも色濃く流れていたのであろう。養父の家業を継ぎ、大工としての道を選んだかにみえた清治だったが、大正7年、欧州大戦景気に乗じた投機熱が最高潮に達しようという時、血は争えず相場の世界に身を投じることになる。大阪北浜で株屋街に職を求めた。
  「しかし、事、志と違った。当時、株屋は文字通り相場師の世界であり、相場の『勘』を養うには小僧からこの世界に飛び込み、相場の荒波に揉み抜かれなければ駄目と言われ、すでに25歳になっていた清治を真面目に相手にしてくれる店は1軒もなかった」(岡三証券編「躍進 株価と岡三50年史」)
  結局、郷里の津で小さな株屋から第一歩を踏み出す。だが、大正9年3月のガラで勤務先の中尾商店はあえなく倒産、米や株相場を細々とやりながら、1日も早く自分の店を持ちたいと念じていた。そうしたとき資産家の岡副鯉三を知り、3000円相当の株券を借り受け、開店の運びとなる。大正12年4月のことだ。店名を岡三商店としたのにはわけがある。「出資者岡副への恩義を忘れぬため『岡』の一字をとり、清治の兄弟3人が力を合わせて店を盛り立てていこうとの願いを込めて名づけた」(同)
  開店ほどなく店員の5000円持ち逃げ事件で大穴が開くが、相場で取り戻した。その手口は、相場師としては少し面はゆいものがあった。なぜなら、お客にちょうちんをつけて手にしたもうけだったからだ。ある客から大阪商船を買いたいと注文を受けたときに清治は「これだ」と直感、自らも12円50銭で500株ほど買って23円でそっくり手じまう。5~6年かけて穴を埋めようと思っていたのが、わずか2カ月余りで埋め合わせたことになる。
  このように加藤はすぐれた相場“勘”の持ち主であった。昭和2年の金融恐慌による暴落、昭和5~6年にかけての暴騰・暴落を見事に当てて、店は潤った。加藤は「買い」より「売り」を得意としたが、その理由を次のように語っている。
  「資力のないものが、有力な業者と競争していくには、上げ相場では勝てない。資力の充分な店は、持ち株の値上がり益だけでも多い。私達のような無資力で持ち株できないものは、上げ相場では相撲にならないが、相場が下がる時には資力のある店は持ち株の値下がりで何ほどか資産が少なくなる。こういう下げ相場でもうければ、いつか追いつけるという心構えでやってきた」
  昭和4年、すぐ上の兄の伊藤邦吉が退社するが、翌年にはおいの伊藤徳三、伊藤忠雄が入社する。忠雄は岡三時代に清治の下で鍛えられた相場観にものをいわせ、第2次大戦後の商品先物界で剛腕をふるい「戦後最強の相場師」と称される。
  昭和5年、浜口雄幸内閣での金解禁による暴落、翌年の犬養毅内閣での金輸出再禁止による株暴騰で、清治は下げでも上げでも相場観を的中させ、店の新築費7000円を支払ってなお、3万円もの利益を出した。昭和7年も清治の相場観は冴えた。「この年ほど調子よくいった年はありません。5月末の下落にも少々利益はありましたが、後半の上げ相場はよく当たりました」と書き残している。
  戦後、東証が再開される前の集団取引でも加藤は当たり屋だった。東洋紡に着眼、資金の続く限り買いまくった。この時の成果について「東洋紡買いで私個人でも1000万円位のもうけとなり、店もその位の利益があった」と記している。岡三証券50年の歩みは加藤清治の闘魂の譜でもある。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・不況、逆境に強く、どんな辛いことも顔に出さなかった。金はあまり残していないだろうが、情けに厚い人だった(藍沢弥八)
・資力のないものが有力業者と競争していくには、上げ相場では勝てない。下げ相場でもうければいつか追いつける
・株屋もやがては銀行並みにならなければならない。その時期は近い将来必ずくる
(かとう せいじ 1893―1961)
  明治26年1月2日、三重県一志郡豊地村(現松坂市)で伊藤柳助、はるの七男に生まれた。同34年伊勢神宮の宮大工加藤菊治郎の養子となる。大正2年早稲田工手学校卒業、同7年津の株屋中尾清三商店に入る。同12年岡三商店を開業、昭和8年株式会社に組織変更、同19年同業2社を吸収合併、岡三証券社長、同23年東京進出、同26年商品取引の岡藤商事を創設、社長を兼務。同36年藍綬褒章受章、伝達式の1カ月後に他界、長男精一が第2代社長となる。
(写真は岡藤商事編「Revolution」より)

相場師列伝

兜町から蛎殻町をまたに掛け、川口佐一郎氏(08/11/24)

顧客に向かわず信用博す  
  鎧橋をはさんで南岸の兜町と北岸の蛎殻町を束ねて、昔の人は「兜蛎二街」(とうれいにがい)と称した。株の兜町と米の蛎殻町は日本を代表する投機街として130年の歴史を刻む。ルポルタージュ作家の草分け、横山源之助は「景気不景気と関係深く、世界の金融と交錯しているのは、鎧橋両岸の熱闘である」とし、次のように描いている。
  「来往の人を見るに、意気揚々たる者あり、心気沮喪(そそう)せる者あり、ここにも一団、かしこにも一団、相集まり、その間に裂帛(れっぱく)をつんざくが如く(原文ママ)聞こゆるのは、3円ヤリ、2円カイの声である。取引所内に入れば宣々擾々(けんけんじょうじょう)、真に一面の活劇場である!」(「鎧橋両岸の光景」)
  かつて鎧橋を往来し「兜蛎二街」に活躍した相場師は、松村辰三郎、株谷元三郎、山崎種二などと数多いが、川口佐一郎もその一人だ。川口は初め貿易業で身を立てるつもりであったという。それが、にわかに志をひるがえし仲買業を始める。唐突な行動の背景には何があったのか。察するに父川口関之助が体調を崩し、一時帰郷することになったため、図らずも父の跡を継ぐ羽目に陥ったからではないだろうか。
  関之助は明治後期の鎧橋周辺では、屋号にちなんで「合(あわせ)の関さん」と呼ばれた。また、大胆な相場戦術から「ドテン砲」と恐れられていた。佐一郎は父に代わって合印の経営に乗り出すや、東京米穀取引所理事長の根津嘉一郎は、その若武者ぶりに目を見張った。売買高第1位を記録、銀製の花瓶が贈られた。
  当時、仲買人は相場師の同義語であり、毀誉褒貶(きよほうへん)が相半ばするのが当たり前であった。しかし、佐一郎は褒められてばかりだった。
  「右手で米穀市場の覇権を握り、左手で株式市場の牛耳を執り、兜蛎二街に軍容雄々しく出陣せり。合の声望の厚きは、厳父関之助氏の機略縦横にして商機に敏慧なるによるも、彼が着実勤勉なるの功やあずかって力なくんばあらず」
  佐一郎は相場の機敏さでは先代に一歩を譲るにしても、店の経営の堅実さでは父をしのいだ。顧客の売買注文をのみ込んでしまう「呑み屋」や「ポンキ屋」が横行していた時代に、「のみ行為はこの街の恥辱」と吐き捨て、顧客と勝負することを排除し、声望を高めた。同時代評は佐一郎に拍手を惜しまない。
  「波瀾重畳、高低常なき投機界に没頭して、直実正明を主義とし、少しも曖昧模糊(あいまいもこ)のなきをもって、大いに顧客の信用を博し、業務の発展するや、営業所を兜町及び蛎殻町の2カ所に設け、自ら数多くの店員を指揮し、奮闘怠ることなし。商戦場裏における君の奮闘振りを目撃すれば、なんびともその手腕の敏活なるに一驚を喫せざらんや」(「大正人名辞典」)
  当時の投機市場では悪智恵を働かせ、邪悪な手段をもてあそび、顧客に損をさせ、市場の信用を失墜させることがしばしばみられたが、佐一郎は「正直」「律義」を貫いた。明治末期の財界人100人を俎上に乗せた人物月旦集「財界一百人」(達間平一朗著)も佐一郎をベタ褒めしている。
  「規律整然としてなんらの情実をはさまず、時に堂々たる応戦振りを示し、市場を震駭(しんがい)することあるも、常に仲買人たるの責務を全うしてやまず。彼が浮沈定めなき投機界に巨然として兜蛎二街を睥睨(へいげい)し、いまだ非難の声に接せざる」
  佐一郎は自分から戦争を仕掛けることはめったにないが、攻め込まれると敢然と応戦する。日ごろの温厚篤実さからは想像もつかない別人のような激しい戦いぶりで市場をゆるがした。「兜街繁昌記」はいう。
  「市場にあっては苦労人と呼ばれ、紳士として交際場裏に入っては、慈善家と称されている」。また、「米屋町繁昌記」はこうコメントする。
  「蛎街におけるまずは第一の店で、昨年(大正元年)の下期の成績を見るに売買高は第2位にある」
  先代関之助は市場で大勝負を試み、変幻自在の戦いぶりで、創業の人であったとすれば、佐一郎は相場ぶりも営業ぶりも穏健着実で守成の人といえよう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・資性、温和敦厚(とんこう)少しも圭角(かど)なし。常に徳義を説き、猪突?勇(きゆう)を戒める(「財界一百人」)
・直実正明を主義とし、腹中を披瀝、へだたりなし(「大正人名辞典」)
・温厚着実、いちど商戦場裏の武将としてたった武者振りの勇猛さと対照すると別人の観(「兜街繁昌記」)
(かわぐち さいちろう 1876―没年不詳)
  明治9年4月16日、川口関之助の長男として三重県津市に生まれる。関之助は蛎殻町や兜町で大物相場師として名を馳せたが、同32年ころから父を助けて合印(あわせじるし)川口商店の経営に参画、明治末年には家督を相続、大正7年の米騒動では自宅が焼打ちにあう。
(写真出所は「大正人名辞典」)

相場師列伝

家産蕩尽で奮起し、店立ち上げ、田村市三郎氏(08/12/1)

顧客は店外にまであふれ、門前市を成す賑わい
  田村市三郎が腸チフスで急逝した時、東京米穀商品取引所(東米商)の取引員組合は異例の組合葬とした。当時、田村は同組合の綿糸部委員長として人絹糸の上場に奮闘していたが、新聞は次のようにその逝去を悼んだ。
  「公平無私、ただ市場のため粉骨砕心し、その放つ一言にはさすが口うるさい市場人も服したといわれる。氏の市場における功績は枚挙にいとまがない。特に長年月、取引所幹部、各委員とともに苦心惨憺、近く上場の運びにまでした人絹糸取引の撃柝(げきたく)の音を耳にせず、この世を去ったことは氏の奮闘の余りに明らかであっただけに一層涙ぐましいものがある。…1日も早く人絹糸を上場せしむることが最上の慰霊である」(昭和7年12月8日付都新聞)
  田村が執念を燃やした人絹糸上場は5年がかりの難事業だったが、田村の死から2カ月後に実現する。そのころの東米商は1部(米穀、蛎殻町)、2部(繊維、掘留)、3部(肥料、佐賀町)の3部構成だったが、田村は第2部のリーダーだった。
  田村市三郎は栃木県の産、若い時は「王侯になれなければ豪奢な宰相になる」と意気盛んで、米、株、生糸相場などに挑戦、一攫(いっかく)千金を狙って格闘した。しかし、そうそう簡単には相場で勝利者になれるものではない。「成功の神はいまだ容易に彼に幸福を与えず、失敗、また失敗、遂に家産を蕩尽するになんなんとす」
  この時、田村は投機界から逃げ出すどころか、今井商店に入り、生涯投機の世界に身を置くことを決断する。明治19年、22歳のことだ。今井商店といえば、当時の米屋町では大手の今井善蔵の店だったとみられる。今井は「相場は目先じゃ張らない。大勢に合致するよう心掛け、独特の罫線法や十干十二支をにらみ、需給関係や値ごろなどを研究しなければならない」と口癖のように言う研究熱心な相場師であった。この男のもとで鍛えられると、めきめきと上達し、「のう中の錐(きり)は漸く、その鋒鋩(ほうぼう、鋭いきっ先)を現した」と同時代評にある。
  明治32年カネ一印・田村市三郎商店を立ち上げる。「組織ある営業法によりて、秩序ある発達をなし、顧客及び社会の信用を基礎とし、この強固なる地盤の上に今日のカネ一商店を建設したる者は斯界の奇材、田村市三郎なり」とマスコミは書いている。田村の営業ぶりは顧客に対し、「同情を経(たていと)とし、厳格を緯(よこいと)」とした。ルールには厳しかったが、常に顧客の立場に立って営業した結果、田村の店は常に店の外まで顧客があふれ、まさに門前市をなす賑(にぎ)わいぶりであった。蛎殻町界わいを常時ウオッチしていた毎夕新聞は田村の将来性について、「終生一仲買人で甘んじる男ではない。大きな翼を張って、天空に飛び立つ姿を見るのは楽しみだ」と太鼓判を押した。
  東米商の仲買人組合における地位は衆望を裏切らず部長から委員、副委員長とせり上がり、大正3年には委員長に推される。田村のもとで右腕として働いたのが細川久助。通称「細久」は田村とは同い年だが、「売ることを知らない先天的強気で火の玉屋の本家」と称されるが、顧客には絶大な人気があった。
  大正7年5月、米価は高騰を続ける。中外商業新報(現日本経済新聞)は「米価特集号」を組む。この時田村は「値は実を呼ぶの理において、高値にて米を集めて、その反動として米価の低落をもたらすものと想像すべきである」とし、ここで無理に価格を抑え込むと、下期に米不足が深刻化すると警告する。
  政府は田村の警告に耳を貸さず、抑え込みにきゅうきゅうとし、その結果は田村の予告通り米価は暴騰、米騒動が勃発する。その直前、田村は暴利取締令違反で警告されたのに憤慨して委員長を辞任する。その後、田村は軸足を米穀から繊維に移し、冒頭に記した綿糸部委員長として繊維市場の振興に力を尽くした。
  明治後半から大正時代の新聞を見ると、株のカネ万・南波礼吉、米のカネ二・有松尚龍、カネ一・田村の3社は連合広告を連日のように打っている。南波と有松は慶応義塾の同窓、田村はそうではなかったが、“三田の拝金宗徒”と称された福沢諭吉の門弟たちとは波長があったのだろう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場に臨むには腹八分目をモットーにすべし
・順境の時、逆境を忘れず、逆境にいてもおのれを捨てずという精神で進退すれば敗者たるの悔いを残すことはない
・世の中のことはすべて戦いであって、戦いのうちに進歩する
(たむら いちさぶろう 1864―1932)
  元治元年12月、栃木県安蘇郡常盤村(現佐野市)に生まれる。今井商店で相場の腕を磨き、明治32年東京米穀取引所の仲買人の権利を取得、南波礼吉、有松尚龍とチェーン店を結成、3社連合広告で顧客は店外にあふれる繁栄ぶり。大正3年東米商の取引員組合委員長に就任、同7年米価高騰に際し、暴利取締令で警告され、辞任。同8年東米商の綿糸部取引員組合委員長に就任。人絹糸の上場に尽力。
(写真は毎夕新聞社編「大海上の米」より)

相場師列伝

日露反動相場で巨損の民権家、大矢正夫氏(08/12/8)

相場の損は相場で取り戻す
  大矢正夫は蒼海と号し、若き日、文学者の北村透谷とともに自由民権運動に情熱を傾けたことがある。透谷は大矢のことを「淡白洗ふが如き孤剣の快男児」と評し、「むかしわれ蒼海とともにかの幻境に隠れしころ、山に入りて炭焼、薪木樵の業を助くるをこよなき漫興となせし…」(「三日幻境」)と記し、炭焼きやたきぎ作りが楽しかったと述懐している。
  大矢は還暦を迎えた時、「政海に浮沈すること20年、功を立て位を得る能(あた)わざりし。投機市場に馳駆することまた20年、利を博し富を積む能わざりし。全く人間の落伍者となり果てぬ」と自嘲の弁を述べる。政治家としても相場師としても名を成すことができなかったと口惜しそうである。
  大矢は生まれながら博才に恵まれていて、15歳の時、近所の若者たちの誘いで賭博場に出入りするようになる。正夫をカモにしようと博打に誘い入れたものの、正夫が連戦連勝、「常に正夫の勝ちに帰し、もはや彼等に復しゅう戦を試みる力なきに至る。正夫の得意たとえるに物なく、その勝利品、約20円に及ぶ」(「大矢正夫自徐伝」)。
  この時、正夫はひそかに考えた。
  「小学生のころ金持ちの息子たちに軽蔑されたのは貧乏だったためだ。おれの博才をもって賭博場に通えば、2000円や3000円の資産は数年を経ずしてつかむことができるだろう。そうすれば、おれを侮辱していた連中の鼻をあかすことができる」
  博打でもうけた20円が母親にバレた時、正夫は必死で訴える。「賭博は天から私に与えられた妙技です。この技を利用して一家の再興を図りたいと思います」。母親は「とんでもない」と首を横に振り、こう言い渡す。
  「お前のお父さんは律義者だったけれど賭博にはまってしまい、家業そっちのけで賭場に入りびたり、財産をすり減らし、今のような貧乏になった。今またお前が一六勝負の道に入るとは何という因縁ぞ」
  母虎の涙の説得で大矢は賭博師の道を断念する。明治18年、大矢は大阪事件(大井憲太郎ら自由党左派が朝鮮の内政改革を企てた事件)に連座して禁固6年の刑に処せられるなど有為天変ののち、日露戦争景気の大相場で一攫千金を狙って参戦、株で巨利を博した。この時は買いさえすれば大もうけできるバブル景気で大矢もこれまでの負債を一掃した。しかし、明治40年の大暴落でまたも4万円の大借金を抱える。相場の損は相場で取り戻してみせると投機界入りを決断する。「年歯正に四十有六、自ら進んで丁稚たらん」とするが、受け入れてくれるところはない。
  進退極まった大矢は、多摩自由民権運動を共に闘った青木正太郎に相談する。青木は当時、東京米穀商品取引所の理事長であったが、じっ懇な山栗の店主、栗生武右衛門に大矢を使ってくれるよう依頼する。理事長じきじきの口利きで、四十過ぎの新入歩合外交員の誕生となる。大矢は以前、東京市街鉄道の株主総会で栗生翁の勇姿を遠くから見ていた。「翁の風采、見識、その議論、実に堂々たるものだった」と記しているが、その栗生の下で働けることで、「相場をうんと勉強して、借金も10年後には返済してみせる」と闘志をみなぎらせた。
  当時山栗商店は「経済新聞」の発行人で相場師の小泉策太郎(三申)が総支配人として采配をふるい、営業網を北は酒田から西は和歌山まで張りめぐらせる絶頂期で、大矢はほどなく金沢出張所主任を命じられる。そのころ北陸では沢商店が羽振りを利かしていたが、大矢の営業努力が実ってようやく北陸の覇権を握った途端、政府は株式仲買人の支店、出張所の閉鎖を命じ、大矢にはまさに青天の霹靂(へきれき)、憤然と帰京する。
  日露バブル後の長引く不況、積極経営の裏目が出て、山栗商店も破綻、再生と苦難の時代を経験する。大正バブルで息を吹き返すが、大正12年9月1日の関東大震災で壊滅的打撃をこうむる。店の経営も浮沈が激しかったが、大矢の相場歴も苦しく、入社する時、10年間で負債を返済する計画は見事に外れてしまった。「相場師トシテ市場ニ出入スルコト20年、100万ノ富ヲ作リ得ザリシ」と自伝では繰り返し悔しがっている。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場の失敗は相場にて回復するの外なし
・相場の駆け引き、売買の呼吸等を研究、実験して、しかる後、機に乗ぜば、一攫万金の僥倖、望みなきに非ざるべし
・毎朝6時の列車にて上京、10時頃帰宅、2年有半、風雨の日も降雪の時もその時間を過ちしことかつてなし
(おおや まさお 1863-1928)
  文久3年、神奈川県座間市栗原で中農の家に生まれ。明治14年小学校教員、同17年上京し自由民権運動に投じる一方、北村透谷を知る。同18年大井憲太郎の大阪事件に連座して禁固6年に処せられ入獄、同24年特赦で出獄、日露戦争景気で巨利を占める。同41年大物相場師栗生武右衛門の山栗商店に入り株式部金沢出張所主任、以来、昭和2年病気で退社するまで20年近く、山栗で相場に従事した。
(写真は大畑哲編「続よみがえる群像 神奈川の民権家列伝」より

相場師列伝

借金して「無配・王子株」にすべて賭ける、藤原銀次郎氏(08/12/15)

書画骨董類の「裏資産」も巧みに利用、
王子株で成した財、「慶大工学部」生む
  明治44年、藤原銀次郎が三井物産木材部長から王子製紙専務に就任した時、一世一代の運だめしに王子製紙を大量に買い込んだ。当時の株価は50円払い込みの親株でも30円か35円、12円50銭払い込みの新株は10円の安値に沈んでいた。要するにボロ株の典型であった。藤原は当時の心境を語っている。
  「全財産をこれに投入し、イチかバチかの背水の陣を敷くことにしたのです。すなわち、貯金の全額を引き出して王子株を買ったばかりでなく、貯金といってもどうせ高の知れたものであるから、同じ買うなら、少しまとまった株数にしたい考え、幸い自分の持ち家になっていた住居まで、鴻池の原田二郎氏へ担保に持ち込み、資金をこしらえた」(私の処世観)
  値ザヤ目当ての投機ではなく、自ら専務として乗り込み、改革、再建に命を賭けようとする自社株に大胆に投資したのである。
  「王子の盛衰はまた私自身の浮沈、自分の働きが悪くて王子が倒れればそれまでのこと、王子株を買うのは、つまり藤原が藤原自身を買うに等しい――。こんな確かなことはない、という見解で思い切って断行した。いわば小心翼々の私に似合わぬ大慾を出した」
  藤原が王子に入るに際しては、三井物産の社長益田孝から「犠牲になるつもりで王子製紙の経営を引き受けてくれ。今、この難局を切り開くには、君のほかには見当たらない。その代わり、どんな問題が起きても、井上馨侯とわしが必ず責任を負う」と言質はもらってはいた。だが、日露戦争景気後の長引く不況下、穴水要七の富士製紙や大川平三郎の樺太工業など、天才、奇才を相手に激しい競争を勝ち抜いていかなければ生き残れない。
  藤原は三井物産時代の部下だった足立正や高島菊次郎を呼び寄せる一方、社内からの人材発掘・登用で起死回生を図る。藤原の人物主義は学閥、派閥を一切無視するもので、優秀な外国人技師には思い切った高給を払って雇い入れた。大手紙商、博進社の大橋新太郎の資金面の支援も大きかった。業績は次第に回復に向かっていく。
  「無配当続きだった王子の株が、業績が上がるにつれ、初めて5分の配当がつき、やがて6分、7分と増配するようになるにつれて、藤原さんの名声も上がっていった。ボロ株だった王子株が花形株になるにつれ、藤原さんの財産もぐんぐん増えた」(桑原忠夫著「藤原銀次郎」)
  懐具合がよくなった藤原は、益田孝(鈍翁)にすすめられて茶道に手を染め、茶道具いじりが始まる。
  「お茶に凝り出して道具を買う段になると、一種の気狂いのようになって、欲しいなァと思ったら、矢も楯もたまらず買ってしまった。お茶に凝れば凝るだけ、生活の方はいよいよ地味に、倹約を旨とすることになり、知らず知らずのうちに、茶道具の形で貯金する結果になってしまったのです」
  藤原は預金、株、不動産など「表資産」が増加する一方、書画骨董(こっとう)類の「裏資産」も膨らんでいった。そしてこう語っている。「不動産などは値上がりの点では諸道具に勝るものがあろうが、管理や担税にやっかいで、いざ換金しようとなると面倒が多いのに引き換え、この裏資産はすこぶる便利、重宝、いつでも容易に処分できる」と「裏資産」への投資を重視する。
  昭和13年、70歳になった藤原は社長を高島菊次郎に譲り、自らは会長に就任した。翌14年私財800万円を投じて藤原工業大学を創立、同19年同大学を慶応義塾に寄付した。慶応大学工学部のルーツは藤原が王子製紙と命運をともにしようと投じたボロ株が大化けした結果といえなくもない。藤原は後年、語っている。
  「私は自分で工業大学を創立した際、ありったけの財産を投げ出してそれに当てた。それが皆王子製紙の株であった。つまり私の財産はほとんど王子株であった」
  維持費のため残しておいた王子株が第2次大戦後、相次ぐ増資、株価上昇、3社分割、配当等で増殖を重ね、「株式投資をなさる方にもご参考までに申し上げて、株もまたなかなか面白いものですよと、言い添えたい」と翁は快心の笑みを浮かべている。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・若いころ無理して集めた道具が、思うさま使って、楽しんだうえに、何十倍、何百倍の値上がりをみた(道具投資のすすめ)
・人間にはなにか1つ、道楽がなくてはならぬというのなら、ちゅうちょなくお茶をすすめる
・古書のコレクション、古美術、絵画、陶器趣味、なんでもいい。どちらに転んでも大した間違いはない
(ふじわら ぎんじろう 1869-1960)
  明治2年長野県上水内郡安茂里村(現長野市安茂里)に生まれ、同22年慶応義塾卒、同23年松江日報主筆、同26年社長、同28年三井銀行に入る。富岡製糸所や王子製紙会社支配人の後、同32年三井物産に移り、台湾支店長、木材部長を経て同44年王子製紙専務、大正9年専務取締役社長、昭和8年王子、富士、樺太工業合併で「大王子製紙」社長、同13年会長、同15年米内光政内閣で商工大臣、同18年東条英機内閣で国務大臣、同19年藤原工業大学を慶応大学に寄付、同35年他界。
(写真は自著「世渡り九十年」より)

相場師列伝

大和証券のルーツで明治中期の米穀商、藤本清兵衛氏(08/12/22)

三井抜き全国一の取扱高
  大和証券のルーツをたどると藤本清兵衛に行き着く。明治中期の米穀商として、桑名の諸戸静六、堂島の阿部彦太郎、そして藤本清兵衛は3大巨商であった。藤本は相場師であると同時に政商としての才覚にも恵まれ、政府所管の輸入米の取扱高では「東の三井、西の藤本」と並称された。
  北浜通で知られる松永定一によると、「明治中期の藤本商店は関西における御用商人の雄であった」。同時に北浜で羽振りを利かしていた株の島徳仲買店最大の得意先でもあった。藤本は本拠を堂島におき、米穀を本業としながらも北浜の島徳の顧客として、米と株の両刀遣いでのし上がっていった。
  「財界物故傑物伝」はこう伝えている。
  「米穀は彼の生命であったが、明治15年に日本銀行条例、手形条例が発布されるや、進んで日本銀行の株式200株を引き受けた。まだ株式知識も乏しく、引き受け者は寥々(りょうりょう)たるありさまであったし、約束手形も条例は発動されても3、4年間はその利用法を知る者なく空文同様であった。彼が阿部彦太郎にあてた『金十万円也』の手形1枚を第一銀行に持参し、割り引きを受けたのが、手形使用の嚆矢(こうし)であった」
  藤本清兵衛は京都亀山の小作農、川勝文左衛門の5男に生まれた。11歳の時、大阪天満の雑穀商で丁稚となる。売買の駆け引きにすぐれ、主人に気に入られ、19歳で番頭格に出世、24歳で曽根崎の米穀商住吉屋清兵衛の養子となり、そこの娘と結婚、藤本清兵衛を名乗る。
  一本立ちした直後に幕末の動乱期に遭遇し、米相場は大荒れ、老練の米商人たちも翻弄(ほんろう)されるが、藤本は見事に初陣を飾る。が、そのあとがいけなかった。
  「十余年修業錬磨の功をもってそれを免るるのみならず、しばしの間に多くの金を貯える身となりしが、勝って兜の緒を締め時、心の緩るみか、時見違えしか、弘法の筆誤りて、ひとかたならぬ失敗をなし、いかにしてよからんやとその方向を失いけり」(梅原忠造著「帝国実業家立志編」)
  初勝利に自己の力を過信したのか、自分を見失ってしまい、大やけどを負う。普通の人なら再起の意志もくじけるところだが、藤本は耐え忍んだ。生来、強気の性格で、闊達(かったつ)さが持ち前であったから、上昇志向は揺るがなかった。
  「鳥羽伏見戦争のため一時打撃をこうむったが、翌年米価高騰して利潤を上げ、禍を転じて福とするに至った。明治4年、高麗橋詰所に移り、店の規模を拡大して、堂島仲買店のほか、京都七条にも同様仲買店を設け、京都米会所とも関係を結んだ」(「財界物故傑物伝」)
  明治14年、松方正義の財政引き締めで米価は暴落、多くの米穀商が相場に撃たれる中、藤本は上手に乗り切り、さらなる飛躍の糧とした。政府は米価浮揚のため市場から在庫を買い上げることを決めるが、この取り扱いを東は三井、西は藤本に命じた。政府が阿部彦太郎でなく、藤本に西日本での買い上げを任せた理由ははっきりしないが、阿部彦は買い占め、売り崩しに派手に動き過ぎていたので、穏健な藤本に白羽の矢が立ったのではないだろうか。
  明治22年の凶作による米価高騰に際しては、外米の積極輸入で利潤を拡大していった。翌23年には藤本商店の取扱高が全国一を記録、藤本の一挙手一投足が市場の焦点となる。「その動静が直ちに市場に波動を与えた」という。米穀市場を席巻するばかりか、金融市場にも大きな影響を及ぼした。藤本商店の入出金状況によって大阪市場の金利まで上下したと伝えられる。
  まさに藤本清兵衛の絶頂期、だが好事魔多しという。翌24年10月、突如腸チフスにかかり急逝、50歳だった。藤本には実子がなかった。実兄八木重助の娘を養女にもらい、店員の柳為之助を婿にしていたが、急きょ2代目藤本清兵衛を名乗る。先代にもまして進取の気性に富み、米穀業のほか、金融業に進出、わが国初の手形の売買業務に乗り出していく。明治35年藤本ビルブローカーが誕生、大和証券の始まりである。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・資性温厚、親切、営業には細心、大胆。人を遇するに常に温情、信を腹中において疑わず(「財界物故傑物伝」)
・毎朝、早起きして寒熱、風雨をいとわず、天満天神へ参詣を欠かさなかった(同)
・都会は大学校なり。貧苦は良師友なり(「帝国実業家立志編」)(ふじもと せいべえ 1841-1891)
  天保12年丹波国南桑田郡旭村(現京都府亀山市旭町)生まれ、嘉永4年大阪の雑穀商に丁稚奉公、慶応元年曽根崎の米商住吉屋清兵衛の養子となり、その娘まこと結婚、清兵衛を名乗る。明治元年堂島米会所に加入、同4年京都米会所にも加入、米穀商として地歩築く。同14年政府米の取り扱いを命ぜらる。同22年外米の輸入命ぜらる。同24年、50歳で他界。
(写真は宮本又次著「大阪商人太平記」より)

相場師列伝

全財産かけ絹買い占め、蚕卵紙焼却事件の仕掛け人、原善三郎氏(08/12/29)

声望高騰、横浜政財界の大御所
  「横浜は善くも悪しくも亀善のはら一つにて事決まるなり」――。明治のころ、横浜ではこんな戯歌(ざれうた)が流行した。原善三郎の店は屋号が「亀屋」だったため、亀屋の善三郎、つづめて亀善と呼ばれた。その孫娘の養子が原富太郎で、三渓と号し、茶人、パトロンとして知られ、名勝「三渓園」を市民に開放するが、そのルーツは善三郎の別邸である。
  横浜商工会議所が創立100周年記念に出版した「横浜経済物語」でも亀善のことを、「東京の渋沢栄一、大阪の五代友厚に伍(ご)して『横浜の原善三郎』と称してなんらヒケをとるものではない」と持ち上げている。
  原善三郎は埼玉県出身、生家は農業のかたわら製糸、製材業も手掛けた。商売熱心で前橋、高崎、本庄などで「糸市」が立つと足繁く参加した。安政6年、横浜開港と同時に横浜に本格進出、生糸の売り込み問屋(輸出商)、亀屋を開業する。商人にお世辞と追従(ついしょう)は必須のものとされていたが、亀善には無縁である。「原善三郎伝」によると――。
  「品を見せて、まず価値を言い、煙草くゆらせて先方の挨拶を待つ。『価高し、負けよ』と言えば、これに答えて『よく品を見よ』と言い、さらに『負けよ』と言わるれば、すぐに風呂敷を広げてその品を収めんとす。いわく『相手は既に品良きを知れり、しかもその値を引かしめんとす。これわが共に語るべからざるもの』であると」(石井光太郎他編「横浜どんたく」所収)
  品質の良さは認めながら、値引きを迫るような顧客とは話し合っても時間の無駄、長居は無用と席を立つのだから剛腹である。
  開港期の横浜は天下の糸平・田中平八に代表される「冒険的投機商人」が席巻する中で亀善は手数料収入を旨とする堅実派に分類されるが、それでも時には糸平もびっくりの投機心をむき出しにする。生糸相場が暴落した時、全財産を投下して生糸を買い占める。
  「絹物の下落するを見て、しきりにこれを買い入れて多々益々喜びし。善三郎は売買の自由、己が心に任せ、他に制肘(せいちゅう)する者なかりしならば、資産の全部を挙げてことごとく絹物買い入れに用いしやも知れず。…自己の信用をもってできん限り他の金を借りて絹物買収をなせり」(同)
  またある時は、あり金をはたいて油の買い占めを図るが、容器の樽から油がもれ、父の金まで使い込む。しかし、この穴埋めのため再び油に挑戦、油相場の動きをにらんで買い出動、資金は取引先の絹問屋に借りて背水の陣で臨むと、見事に的中、先の失敗を取り戻した。
  歴史に名高い明治7年の蚕卵紙(蚕の卵である蚕種が産み付けられた紙)の焼却事件の仕掛け人は渋沢栄一説、天下の糸平説をはじめ「おれがやった」と自慢話が多く流布している。しかし、最有力は亀善・糸平合作説である。ことの次第はこうだ。この年、生糸の原料となる蚕卵紙が大量に売れ残り、外国人バイヤーの買いたたきで養蚕農家は窮地に追い込まれていた。相場を回復させる非常手段として焼却作戦に出た。
  場所は横浜公園というから、現在の横浜スタジアム辺りに40万枚の蚕卵紙を積み上げて火を放つ。この歴史的場面は土師清二のドキュメント「生糸」による。
  「数日のうちに集まった蚕卵紙は四十数万枚にのぼった。『いよいよ火葬に取り掛かりましょう』『結構ですね。臭いかも知れませんね』。原善三郎は洋服であった。天下の糸平は前垂れ掛けであった(中略)、吉原の空き地に運ばれ火をつけた。これを見た外国商人たちは『日本商人、無茶をする』と驚き、あきれた」
  これまで買い付けを見送っていた外国のバイヤーが一斉に買い始めると、相場は急上昇する。作戦は成功したかに見えたが、高値をみて、国内業者が争って売りに出た。せっかく立ち直りかけた生糸相場がまた崩れ始める。亀善と糸平は顔を見合わせ、「士魂商才は崩れましたね」と苦笑いするばかりだった。だが、この一件で、亀善の声望はますます高騰し、横浜市議会の初代議長に推されるなど、横浜政財界の大御所として、押しも押されもせぬ存在になっていく。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・資性豪胆不羈、情宣に厚く、横浜第一の声望家(「財界物故傑物伝」)
・商売の道は戦陣に臨むに等し。安を貪りて、みずから全うせんと図る者、必ず勝ちを得べきにあらず(「原善三郎伝」)
・多年社会の波風にもまれ、肝っ玉のすわりがよかった(「よこはま人物伝」)
(はら ぜんざぶろう 1827―99)
  文政10年、埼玉県の渡瀬村(現神川町)生まれ。嘉永年間から郷里と横浜の間を頻繁に往来、安政6年横浜に店舗を構え、明治初め横浜財界の中枢を占め、同6年第二国立銀行頭取、同14年横浜商法会議所会頭、同19年横浜蚕糸販売業組合長、同28年埼玉県から衆議院議員に当選、同27年横浜蚕糸外四品取引所理事長、同30年貴族院議員、同32年他界。
(写真は実業之世界社編「財界物故傑物伝」より)

相場師列伝

失敗続きの師匠の逆張り大もうけ、笹川良一氏(09/1/5)

相場やるにも「大義」求める
  笹川良一が初めて相場を張ったのは、大阪府下、豊川村の村会議員当時だ。堂島の米相場師、「池梅」こと池田梅蔵の店でのことだった。笹川は、父鶴吉が残した3万円という多額の遺産を池梅に管理・運用してもらっていた。ある日、笹川は池梅に相場をやってみたいと申し出る。
  だが、池梅は「あかん、あかん、いっぺんに裸にされてしまう。長年やっているわしだって損をしているくらいだから、絶対やったらいかん」とつれない。笹川が「いっぺんだけでええ。やらせてくれんか」と懇願するのには訳がある。池梅が相場でよく損をしていることを知っている笹川は、池梅の反対をやればもうかるはずだ、とひそかに確信していたのだ。山岡荘八が「破天荒 人間笹川良一」の中で書いている。
  「池梅は商売人なのに、相場を張ってよく負けている。そこで笹川は『おっさん、あんた、今売っとるのか、買っとるのか、どっちや』と聞いて、『売っとるのや』と答えると、池梅の主人の逆をいって、“買い”に出るのだった。買うといえば売りに出て、池梅の逆、逆といった」
  ある時、池梅から「アスオイデマツ」と電報が届く。笹川の建て玉が大もうけになったので手じまいをすすめられる。だが、笹川は応じない。笹川が売れば下がり、買えば上がる。「金なんて、こんなに簡単にもうかるもんかいな」。そう思うとなんだか、急に心の張りがなくなって、手を引いた。笹川は相場のもうけと父の遺産をつぎ込んで国粋大衆党の運動に没頭、相場界から遠のいていく。
  第二次大戦後、笹川の名が商品相場の世界で出没するようになる。「人はみな相場を金もうけのためにやるが、笹川はもうけること自体にはさして興味も関心もない。生産者や消費者を守るため、つまり大衆の生活を安定させるための調整を図るのが狙いだった」。山岡はこう評価するが、少々持ち上げ過ぎではないか。強引な買い占めや売り崩しによって市場支配を狙う仕手筋たちをぶっつぶすことが、義侠(ぎきょう)の相場師、笹川良一の行動原理であったように思える。仕手筋を撃つための錦の御旗が時に生産者のためであり、消費者のためであったのだろう。笹川はとにもかくにも「大義」を必要とする男だった。
  元日本経済新聞記者の米良周が穀物相場担当のころ、笹川を訪ね「なぜ、いま小豆を買うのですか」とただした。
  笹川「私は農民の味方、こんなでは北海道や肥後の小豆生産者が気の毒ではないか」
  やがて笹川はドテン売り越しに転じる。「なぜ売ったのですか」
  笹川「私は消費者の味方でもある。高過ぎてあんこの値段も上がってきた。赤飯も遠くなる」
  新聞記者を相手にきじ丼をつっつく笹川は好々爺(こうこうや)のように映るが、時には凄味(すごみ)を利かせる。沖縄産黒砂糖相場が大波乱、立会停止になった昭和34年のことだ。30キロ当たり2300円のドロ沼に陥っていたが、伊藤忠雄の買い占めや、台風襲来で4990円まで噴き上げた。買い方の黒幕、笹川は大阪砂糖取引所を突如訪問する。
  「1店100枚の建て玉制限を撤廃されたい。現に相場で事実上負けている売り力で解合を望むなら応じる準備がある。その価格もさして不当なものは要求しない。さもなくば取引所のルールに従って立会場で闘うことも辞せず」
  あわてた取引所幹部は急きょ上京、福田赳夫農林大臣を訪問、善後策を協議するひと幕もあった。納会値(最終決済値)は4970円で落着、笹川にすれば、「青天井のところを穏当な線で納めてやった」との思いであっただろう。
  昭和46年、中山製鋼株の仕手戦に笹川が登場する。甥の糸山英太郎が近藤紡社長の近藤信男の売り攻勢でピンチに陥り、笹川に応援を求める。
  「近藤紡ならおれが相手になってやる。しかし、おれは現在、船舶振興会の会長で忙しすぎる。相場などやっている暇がない。裏で智恵と力を貸してやるから私の指示通りにやれ。采配はおれが振る」
  暴騰に次ぐ暴騰で、近藤紡から解け合いが申し込まれ、笹川―糸山連合の大勝利に終わる。近藤紡の損は50億円とも90億円ともいわれた。この時、調停に当たった沢村正鹿大阪証券取引所理事長につぶやいた。
  「わしは昔から相場はやるが、人生の大事と考えたことはない。金もうけが目的で生命を賭けるなど次元が低い。相場は何かをなす手段に過ぎんのだ」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・金権エゴ(仕手)と対決する
・わたしは相場では法律、規則を守る
・天性の勝負カンに従い、安い時に買い、高くなったら売る
・相場は男の世界かもしれんが、世の中にお返しせんからやがて元の木阿弥(もくあみ)になる
・もうけたら人に施せば確実に残るんや
(ささかわ りょういち 1899―1995)
  明治32年5月4日、大阪府三島郡豊川村(現箕面市)で生まれた。家業の造り酒屋を手伝ったあと、大阪に出る株や米相場で資産を形成、昭和6年結成の国粋大衆党の顧問、総裁を務め、同17年翼賛選挙で当選、第二次大戦後、A級戦犯に問われ収監されるが、起訴されないまま釈放、同30年全国モーターボート競走会連合会会長、同37年日本船舶振興会会長、同57年国連平和賞を受賞、ノーベル平和賞にも意欲をみせた。平成7年7月18日没。
(写真は山岡荘八著「破天荒 人間笹川良一」より)

相場師列伝

強気押し通し巨億の富、勝田銀次郎氏(09/1/12)

最後に大損、神戸市長に
  第1次世界大戦の戦況を巡って船成り金の間でも判断が割れた。山下汽船の山下亀三郎は短期終結と考えたのに対し、勝田商会の勝田銀次郎は長期化するとにらんだ。だから勝田は船賃やチャーター料金の契約も3カ月単位とし、長期契約を避けた。生形要が「兜町百年」の中で書いている。
  「運賃や傭船料は今後暴騰するし、それも相当長期にわたって上昇するものと勝田は信じていた。作戦は功を奏し、資産は大正7年のころ5000万円を超えるだろうといわれた。勝田は強気一点張りで、戦争の波を鮮やかに乗り切ったが、その強気が災いとなって、大正9年3月のパニックを乗り切ることができなかった」
  いくたの歴史書は大正バブル景気の象徴として船成り金を取り上げ、山下や勝田の名は必ず登場する。他に内田信也、「虎大尽」山本唯三郎、金貸し乾新兵衛、北海の板谷宮吉、佐世保の橋本喜造等々五指に余る。多彩な船成り金の中で、勝田は後年神戸市長として、市政を担当した点で異彩を放っている。
  勝田は松山市で米穀商の長男に生まれ、松山中学を経て明治24年、東京英和学校(後の青山学院)に進む。同27年日清戦争がぼっ発すると従軍記者にあこがれて中退するが、記者志願はかなわず、貿易界に入る。同33年神戸市内で勝田商会を旗揚げ、船舶ブローカー業のかたわらウラジオストクや天津から雑貨や豆粕の輸入を始める。
  やがて日露戦争に突入、神戸では岡崎藤吉、金子直吉など船成り金を生むが、勝田が活躍した記録はない。勝田が大きな働きをするのはその10年後である。「第1次世界大戦が勃発するまで、勝田商会は、あたかもその日に備えるかの如く、実力を蓄え、日清、日露両戦役の経験に徴して、万全の体制を布き、満を持していた観があった」(松田重夫著「評伝勝田銀次郎」)
  大正3年7月、世界大戦が始まると、時を移さず、新船の建造、古船の買収、チャーターなど勝田の動きが激しくなる。翌5年には勝田商会を勝田汽船株式会社に改め、社長に就任、陣頭に立って采配をふるった。
  「ワンマン肌で気っぷのよい彼が真っ先に『巨船主義』のラッパを高々と吹くのだから世間受けもよく、動きも派手でたたみかけるような手を次々と打って、それがことごとく当たったので、たちまち神戸船主のリーダー株となった」(同)
  勝田の動きはよほど派手だったとみえる。このころ勝田は神戸の市議会議員として政界にも足を突っ込み始めていたが、先輩格の山下亀三郎や三井物産を辞めて新規参入の内田信也を圧倒、「勝田は3人の中で1番ハデに動き、1度に10隻もの船を買い入れ、1億円の船価に手付け金として1000万円も払う気前のよさ」(読売新聞神戸支局編「神戸開港百年」)で、この時、ざっと1億円の金を握った。現在の価値に直せば、優に1000億円を超すだろう。大正7年には貴族院の多額納税者議員に選ばれる。
  かつて神戸新聞社長を努めた進藤信義が全盛期の勝田の姿を鮮やかに描いている。勝田は慶応義塾を出たばかりの上西亀之助と肝胆相照らす仲だった。
  「両人とも一クセも二クセもあり、人とそりが合わないので海岸に店舗を借り、2階に上西が陣取り、階下に勝田が頑張って一種の空気を発散させている。両人とも抱え車というので人力車で駆け回る。上西は36貫と称する大兵肥満、勝田は痩躯長身の隼のような若者で、両人とも人目を引いて海岸の名物となり…」(「銕翁秘録」)
  船舶業に携わる者は相場師と同様、激しい浮沈にさらされ、板子一枚下は地獄である。
  勝田は強気を張り通していただけに大正9年のバブル崩壊では巨損をこうむる。大戦終結直前に買った5隻の思惑外れが大きく響いた。巨億の富が一朝で消え失せるはずもないが、勝田の軸足は以降、政界に移り、昭和5年衆院議員、同8年神戸市長に就任。同27年他界、市民葬が営まれる。法名は興源院正覚積善得山大居士。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・金銭に恬淡、儲かってもさして嬉しいようにも見えず、儲からなくても意に介さず
・挙措(きょそ)常に男性的で、節度を重んじて、古式士の風格があり、竹を割った性格(万代順四郎)
・緻密に計り、堅実に進む。剛健の気性は眉宇の間に溢れ、シンプルライフを愛好する。動作があかぬけしている(「現代実業家大観」)
(かつた ぎんじろう 1873~1952)
  明治6年、松山市生まれ、松山中学から東京英和学校(後に青山学院)中退、同29年大阪の吉田貿易店入社、同33年勝田商会を創立、大正5年勝田汽船創設、同5年神戸市議、同7年勅選貴族院議員に選ばれる。青山学院に勝田館(勝田ホール)を寄贈、同8年神戸商船社長。昭和5年衆院議員、同8年神戸市長(同16年まで)、同27年死去、市民葬が執り行われる。
(写真出所は松田重夫著「評伝勝田銀次郎」より)

相場師列伝

見切り鮮やか、巨利の船成り金、乾新兵衛(09/1/19)

日露開戦前に猛然ボロ船買い
保険やリスクヘッジを否定、生活は質素
  横浜の平沼専蔵、大阪の木村権右衛門、神戸の乾新兵衛は3大金貸しと呼ばれた。日露間の雲行きが険悪になった明治35年、乾はイギリス製の中古船を買い込んだ。世間では、あんなボロ船を買って、どうするつもりだろうとうわさした。乾はひと通り修繕すると「第一乾坤丸」と命名した。日露開戦で汽船と名がつきさえすれば、引っ張りだこで、第一乾坤丸もめきめき価値を高めた。乾の船舶相場観は図星だった。
  乾は乾坤丸を香港航路に仕向ける計画で荷主と積み荷を契約してしまったが、何分にもボロ船のため、船員が怖がって下船してしまった。「仕方がないので命知らずの船員をかき集めて、船名通り乾坤一擲の冒険を試みた。これがうまく当たって予想以上の大金をもうけた」(佐藤善郎著「株屋町五十年と算盤哲学」)
  乾は八方尽くして蛮勇船長を探し出し、香港行きが決まるが、船長が妻子と水杯を交わす姿を見た時、男泣きに泣いたという。だが、この時の大もうけで味をしめると、ボロ船を値切りに値切って次々と買い込んでいった。「金貸しもボロいが、船はもっとボロい」とすっかり船舶熱に冒され、十数隻の乾坤丸を所有する船成り金の仲間入りをする。
  欧州大戦中、乾の所有する船舶は3万5000トンに達した。いずれも買いたたいたボロ船を修理し、目いっぱい稼がせるのが乾流だったが、大正7年に突如、持ち船を売り放してしまう。多くの船成り金たちが「まだまだこれから大もうけするぞ」と力こぶを入れているのを尻目に、「欧州大戦の山は見えた」と手じまい売りに踏み切った。
  果たして休戦、船価暴落の道をたどり、乾の相場観は的中した。大正9年、元の「歩」に逆戻りする船成り金が続出する中で、5000万円という大金をつかむと、さっさと海運界に別れを告げる。結果的には鮮やかな見切り千両をやってのけた。
  「船成り金連中がまだまだと夢中になっている最中に、こうあっさり見切りをつけたのは、ちょっと異様に感じられぬでもないが、長年の間、金貸し業者として人心の機微、世相の転変に独特の洞察眼を養った彼の頭の働きが、どれほど俊敏であり、先鋭であるかをうかがえる資料となろう」(佐藤善郎)
  いったんは船舶業から足を洗った乾が、昭和に入って、再び所有船を増やし、2万5000トンを誇るようになる。それというのも、船舶パニックでかつての船成り金たちが投げ売りした船を安値で着々と買い戻していったからである。見事な相場師ぶりに世間は改めて乾の神髄を見たのだった。
  乾は船舶に保険をかけたことがない。船舶ブローカーたちは「船に保険をつけないなんて、そんな無茶な話があるか」とあきれるが、乾は平気の平左でこう述べている。
  「私は商売は命のやり取りやと心得とります。命が惜しいさかい、船長の人選にはできるだけ注意を払う。いったんこの人ならと採用した以上、私の命をその船長に託しますのや。そこで船長と私の気持ちがピタリと合う。保険なんて、人様の金を頼りにするような卑屈な考えが持てますか」
  乾はリスク・ヘッジの考えを真っ向うから否定、全身全霊でリスクを背負い勝負する姿は投機師そのものの人生だった。
  昭和5年の「全国金満家大番付」を見ると、資産は5000万円で、岩崎、住友、三井、安田など大財閥の面々に次いで堂々東の前頭8枚目にランクされる。それでいて生活は質素だった。乾の事務所には扇風機など1台も備え付けていない。狭苦しい部屋が4つあるが、電燈はたった1つぶら下がっている。ただし、ひもだけは長くて、どの部屋にも自由につるすことができる仕掛けになっている。抵当流れの自動車を1台持っていたが、運転手を待たせておくのは不経済千万だと言って、長男の自動車をやり繰りして使う深謀遠慮ぶりであった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・私は生来、富を好みます。好む富をこしらえるため一生懸命働きます
・法律は社会正義の権化であり、社会正義の身代わり
・利子を高くしておくと貸し倒れが少ない。人は低利の借金返済は後回しにして、高利のほうから先に返す
・金で名誉職(貴族院議員や爵位)を買うのは罪悪だ
(いぬい しんべえ 1862―1934)
  文久2年兵庫県八部郡北野村(現神戸市生田区)で生まれ、幼名は鹿蔵。10歳の時酒造家乾新兵衛の丁稚となり、やがて乾新兵衛の養子となる。酒蔵業から金貸し業に転じ、さらに海運業に手を伸ばす。日露戦争景気で巨利を博し、第1次世界大戦景気で資産5000万円(現在ならざっと1000億円か)を誇る。昭和9年他界。茶屋遊びを嫌い、広大な邸宅でソロバンをぱちぱち弾くのが何よりの愉悦だったという。
(写真は講談社編「全国金満家大番付」より)

相場師列伝

巨利と吐き出し繰り返す、利光鶴松氏(09/1/26)
リスクと闘う小田急の創業者

 利光鶴松の波乱の生涯で大きな出来事の1つに小田原急行鉄道の創立がある。新宿・小田原間が開通するのが昭和2年、そのころ「東京行進曲」が大ヒットする。その一節に「シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか」とある。あたかも小田急のCMソングのようだが、「明治の気骨」でのしてきた利光には「小田急が恋の逃避行に使われてたまるか」とレコード会社に厳重抗議したという。
  利光が最初に相場の世界とかかわりを持つのは、明治27年、東京米穀取引所の改革事件の時である。当時、同取引所の理事長は米倉一平という傑物であったが、市場運営が売り方に味方したり、買い方に味方したりするというので、米倉退治を企図する"改革派"から法律顧問を依頼された。早くに代言人(弁護士)の資格を持っていた利光は同取引所の株主総会で大いに奮戦、改革派が理事長を占め、この紛争を勝利に導いた。
  東京市街鉄道(街鉄)の権利株が暴騰し、大もうけするのは明治32年ころのことだ。この鉄道創立を巡っては三井派、雨宮敬次郎の雨敬派、野中万助の地主派が競い合っていたが、これの一本化に奔走したのが利光だった。3派の調印が終わり、新聞が書き立てると、ほとんど価値のなかった権利株が3円になり、5円になり、ついに10円に暴騰、兜町が騒然となる。利光は初めての大もうけを満喫するが、日清戦争後の恐慌が襲来し、街鉄株は暴落、50銭でも買い手のない惨状を呈した。この時、利光は紙切れ同然になった株を買い拾い、秘かに将来を期した。
  果たして、明治37年、日露戦争がぼっ発、諸株が暴騰し、利光は未曾有のもうけを手にした。
  「なかんずく街鉄は営業開始の勢いもあって、株式界の人気が集中し、その株価も他の株式に比べれば猛烈なものがあった。利光は特許取得のときから多数の株を持ち、その後、悲境のとき多数の株を買収し、その後も5倍の増資によって、ますます株式は増加し、戦争による株価暴騰で、自称『日本富豪の1人』となった。若い立志のころは『内閣総理大臣』が夢であったが、これは叶わずとも、思わぬ大金持ちとなって満足したのである」(渡辺行男著「明治の気骨 利光鶴松伝」)
  この時、利光は自伝に「嗚呼 人生ハ寔(まこと)ニ是レ夢ナルカナ」と記した。
  明治38年2月、江東区の中村楼に地元民や政財界から大勢の人を招いて旅順陥落大祝賀会を開いて、大散財をやってのけた。
  大富豪を気取ったのも束の間、厳しいしっぺ返しを食らう。それは3銭均一の運賃を経営不振から5銭均一に値上げを目論んだのが発端。東京市議会ではわずか1票差で値上げ案が通るが、市民の間に値上げ反対の動きが出てくると、政府は値上げ案を却下してしまう。街鉄の株価は暴落、利光は家屋敷、書画骨董(こっとう)をことごとく投げ出して金策に走り、破綻だけは免れた。
  当時、東京には街鉄のほか、東京電車鉄道、東京電気鉄道の3路線が走っていたが、窮余の末、東京鉄道株式会社(東鉄)に一本化、利光は取締役に就く。社長は牟田口元学だった。
  明治40年1月、日露戦後バブル景気は頂点を極める。この時、利光は株式仲買人渡辺某の勧めもあって、そっくり利食いし、巨利を博す。だが、その金をじっと、お守りするというタイプではない。折しも経済界を挙げて新規事業ぼっ興熱が高まる中、利光は電車事業と縁の深い鬼怒川水力電気の創設に資金を注ぎ込む。
  「利光流の肝っ玉で、大いに株を買収する計画を立て、盛んに株式仲買人を激励して、権利株を買い集めた。初めは2、3円の株が次第に騰貴して、5円になり、10円になり…ついには25円、30円を唱えるに至った」(前出)
  利光が5、6万株を買収したところで財界を恐慌が襲い、鬼怒川水電は成立をみず、解散に至る。利光のこうむった損害は莫大なものだった。この鬼怒川水電は明治43年に復活、利光は社長に就任する。そして翌44年には懸案だった東鉄の市有化が実現する。この時のもうけについては利光は口をつぐむが、東鉄の市有化で鬼怒川水電株が暴騰したのが大きく、4度目の大成り金となる。
  「今度ハ果タシテ永続スルヤ否ヤ、見物ナリ」と冷静に自伝に記した。これから利光の投機人生は後半戦に移るが、昭和8年に中国山東省で金山の開発に手を染め、これの誤算が小田急電鉄を五島慶太に譲る遠因となったという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・予ニ取ルベキ所アリトセバ、唯ソレ、予ノ熱心ソノモノカ
・政治上、大望ヲ達スルノ手段トシテ、事業ニ関係セシナリ
・人ノ警戒ヲ要スルハ逆境ノ時ヨリモ却テ得意ノ時ニ在リ(利光鶴松翁手記)
・大政治家とならん野望は、いつの間にか世界屈指の大実業家たらん野望となった(渡辺行男)
(としみつ つるまつ 1863―1945)
  文久3年大分県大分郡稙田(わさだ)村字粟野(現大分市大字稙田)生まれ、明治17年叔父と徒歩で上京、明治法律学校を経て同20年代言人事務所開設、同29年東京市会議員、同31年衆院議員に当選、憲政党幹事、同38年東京市街鉄道取締役、同43年鬼怒川水電を創立、社長、大正12年小田原急行鉄道を創立し、社長、昭和15年小田急電鉄社長、同20年永眠。(写真は小田急電鉄編「利光鶴松翁手記」より)

相場師列伝

狂乱物価時の寵児、板崎喜内人氏(09/2/2)

仲買店経営に手を出し失敗
  板崎喜内人は相場の盛んな三重県桑名に本拠を構え、商品相場で巨利を占め、「桑名筋」と称された。その一挙一動に衆目が引き寄せられたものだ。板崎がマスコミの寵児(ちょうじ)となるのは、第1次石油危機の当時である。一般紙が1人の相場師のために大きなスペースを割くのは異例のこと。繊維相場のもうけが50億円に及んだとなれば、マスコミも放ってはおけなかったろう。記者のインタビューにこう胸を張る。
  「この道18年間、あらゆるものを手掛け苦労してきたが、上向いたのは昭和44年の小豆からだ。46年末に国税庁に財産を調べてもらったら5億円あった。公明正大にもうけた50億円のうち60%の法人税を払えば、残りは晴れて国家が認めた財産になる」
  この時、板崎は38歳。桑名のすぐそば、近鉄沿線の益生近くに住んでいた。「利益が生まれる町」とは縁起のいい町名で、会社名はズバリ大益商事。相場でもうけた大利益を管理、運用する会社の社長である。
  狂乱物価がいわれ始めた昭和48年春ころのことだが、相場師の介入で騰貴したのではないかとの問いには「需給関係を映した相場だ」と真っ向から反論する。
  「相場は人為的にどうなるもんでもない。取引所がなくても上がるし、取引所がなかったら、このスピードで収まったか、どうか。こうなる事態を予測して手を打たなかった政府の無策のほうが問題だ」
  大正米騒動の時、怪傑増田貫一が「米相場が高騰しているのは相場師のせいではない。需給がひっ迫しているためだ。取引所の相場は人為的に動かせるものじゃない」と、時の農商務大臣に凄(すご)んでみせる場面が二重写しに見えてくる。
  週刊誌が「儲けたぞ50億円! 妻忘れ、子忘れ、親忘れ、…相場一筋のおとこの道」などと書き立てると、板崎は開き直る。
  「マスコミの報道は実に心外ですな。私は非合法で儲けたわけじゃない。正々堂々と儲けたんだ! 世間の人は商品相場をバクチ同然、アブク銭だとか言って非難しますが、これほど辛い商売もないんですよ。血の出る思いで稼いだんです」
  板崎の相場師としての出発点は、岡藤商事時代で、大阪穀物取引所の場立ちのかたわら「手張り」の味を覚えた時だ。当時、専務取締役として采配をふるっていた伊藤忠雄は大物相場師として、商品市場を睥睨(へいげい)していた。板崎にとっては夢のような存在であった。板崎は枕元に伊藤忠雄の写真を置いて毎晩寝る前には写真に向かって手を合わせ、「伊藤さんのようになれますように」と拝んだという。
  板崎の前半生は文字通り「相場漬け」の日々であった。新婚旅行の時、突然、駅のホームから姿を消したかと思うと、駅前食堂のラジオの相場放送に聞き入っていた、と詠子夫人が証言している。
  大もうけしたからといって、板崎の生活は質素だった。60坪の敷地に10坪のプレハブが2棟、朝は6時に起き、味噌汁とお新香で済ませ、グロリア72年型で出勤、社員7人を指揮して相場と格闘する。
  ノンフィクション作家の沢木耕太郎が最初に板崎を訪ねたのは「桑名筋」の全盛期で、沢木は1年ほどユーラシア大陸を放浪したあと、再び板崎に会うが、その時、板崎は仲買店のオーナーに変身、張り子が胴元になっていた。沢木は失望を隠さない。
  「彼は、彼こそは、金がたった10万円になっても『ピンバリ』で相場にしがみついていく相場バカかと思ったが、意外に分別があった。それを知った時、彼に裏切られたような気がした」(鼠たちの祭)
  やがて、仲買店は人手に渡り、相場師板崎喜内人の名も遠のいていった。今でも細々と相場をやっているとの話は聞くが、現在、桑名に大益商事は存在しない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・板崎は、相場は神聖で、人為で動かすなどもってのほか、との考えから大勢に逆らわず、読みの的確さで成功した(森川直司)
・玄人と素人の差は利が乗った時、どこまで辛抱できるかということです。100円で利食うか、1000円まで待てるか。そして、どこで見切るか、だけです。
(いたざき きなんど 1935― )
  昭和10年三重県一志郡三雲村(現松阪市)で神主の子として生まれ、同29年県立津高校を卒業、岡三証券に入社、穀物取引に従事、証券・商品分離に伴い同証券の兄弟会社岡藤商事に移籍、大阪穀物取引所(現関西商品取引所)の場立ちとなる。手張りの味を覚え、やがて、相場師として独立、相場会社大益商事を創設、社長となり、「桑名筋」と称される。商品取引の川村商事や京丹穀物を買収、オーナーになったこともある。
(写真は藤野洵氏提供)

相場師列伝

“役人あがり”豪胆にリスク取る、早川鉄冶氏(09/2/9)

東株の買い占めには失敗
  明治11年に始まる東京株式取引所(東株)の長い歴史のなかで、東株自体の買い占めをもくろんだ投機師で成功したのは草創期の岩崎弥太郎ただ1人である。早川鉄冶も見事に敗北した。
  郷誠之助理事長の跡を継いだ岡崎国臣理事長の時代、市場は沈滞し、取引員の経営も不況色を強める中、早川が岡崎理事長をはじめ重役陣を追放、刷新すべく乗っ取りに着手する。
  「東株がわれらの手に入れば、早速資本金を1億円に増資し、増資新株のプレミアムで取引員の借金を棒引きにしてやるぞ。2限月に短縮された限月制をもとの3限月に戻してやる。取引員の付帯業務を認可して諸君の商売を楽にしてやろう。こうした計画はすでに西園寺公望公や田中義一首相の了解も取り付けているのだ」
  取引員を味方につけて、東株を乗っ取るという策略だが、資金源は福島県選出の金豪代議士紺野九右衛門らで、大手取引員南波礼吉が参謀役を務めた。早川は着々と株集めを進め、「成功疑いなし」というところまでこぎつけた。が、突如横やりが入る。
  「小泉策太郎並びに松本孫右衛門、窪田四郎、鈴木茂兵衛、沼間敏郎などの乗っ取り運動である。『早川などにしてやられてたまるものか』と、万事小利口に働く沼間を手先に、早速、郷誠之助を抱き込み、孤立無援でやきもきしている岡崎内閣の連中にも巧みに合流気分をほのめかしつつ、早川陣営にも朝駆け・夜襲を試みて金穴(金主)の紺野や鈴木寅彦らをいつの間にか分解させてしまった」(佐藤善郎著「株屋町50年と算盤哲学」)
  ジャーナリストから相場師に転じ、さらに政界に入ってからは「政友会の策士」と称された小泉策太郎のほうが役者が上だったということか、早川の思惑は失敗してしまう。
  早川は札幌農学校(現北大)を出てから役人になり、海外に3年留学、大隈重信の知遇を得、外務省政務局長から内閣書記官として行政整理にらつ腕をふるい、「頑鉄」の名をほしいままにする。国政への進出が言われていたが、大隈が下野すると、早川もこれに殉じた形で一転実業界に入る。“役人上がり”に似ず、実業の世界でもやることなすこと大胆で「財界の要注意人物」のレッテルを張られる。その割に失敗が多い。日露戦後の新規事業ぼっ興期に数多くの企業の株を持つが、そのほとんどがつぶれてしまう。
  「小樽木材、帝国肥料、共同電燈、中央精錬所など20余社の発起人になったが、今では小樽木材が残っているばかり。他のものはそっくり合併やら解散で何も残らずじまいだった。わが輩の失敗するのは、いつも武士気質を出して然諾(承諾)を重んじるからである。新会社勃興の時でも普通の人のように払い込みもせず、権利売買でもすれば、損どころではない、儲かっていたに違いない。わが輩は正直に払い込んだものだから、今でもから株をウンと背負い込んでいるような始末だ」(毎夕新聞社編「財界名士失敗談」)
  明治39年、東京電燈の社債500万円を引き受けるというので勇名を馳(は)せた。ロンドンの資本家との間に話ができていたが、日本興業銀行の添田寿一頭取から譲渡を依頼されると、あっさり譲る義侠の人でもある。一方、その蛮勇ぶりがマスコミにはすこぶる人気だった。
  「活力辣腕、“役人上がり”とは思えぬ元気をデブデブした図体に包んで、それを至るところに押し回し、大風呂敷を広げて怪気炎を吐き、不甲斐ない今の実業家を吹きまくろうとする勢いはすさまじい」
  ある時、銀座で観相家に見てもらうと、「未来の大臣の相を帯びています」といわれ、喜ぶまいことか。有頂天になって会う人ごとに自慢したというから憎めない。「家の者には早くも『御前さま』と呼ばせている」などとゴシップも流れる。「山本達雄蔵相が予算難航で辞任すると、おれの出番だな」などと吹聴してはばからなかったとか。
  政界と実業界とをまたにかけたこの快男児は失敗のたびに、「まさかこれ以上の失敗はなかろう」と常に楽天的でリスクを恐れない。相場界で鼻つまみ者の天一坊、松谷元三郎をかばうなど清濁併せのむ気概で押し通した。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・清濁併せのむの慨あり。びん乱した会社の整現に妙を得、発展の実を上げる
・全身コレ胆、一度口を開けば議論風発、舌端雲を起こすの慨あり(遠間平一朗)
・“役人上がり”は勇気がなさ過ぎる。事業家となるには勇気がいる
・野猪的に猛進せよ。石橋をたたいて大成した人が何人いるか
(はやかわ てつや 1863―1941)
  文久3年5月東京都出身、明治17年札幌農学校を卒業後、米国ハスティング法律学校及びベルリン大学に学ぶ。外務省に入り、後農商務大臣秘書官、外務省政務局長、内閣書記官を歴任。同31年実業界に入り日本倉庫、日本防腐木材、日本硫安肥料各社長をつとめ、同45年長崎県対馬から衆院議員に当選、立憲同志会に所属、昭和16年6月5日死去。
(写真は「歴代国会議員名鑑」より)

相場師列伝

休むことを知らない風雲児、五十棲宗一氏(09/2/16)

毛糸相場で再三大勝負
  繊維産業が日本経済の中軸に位置していた昭和30年代のことである。絹は早くから世界の首座を占め、綿は英国ランカシャーを片隅に追いやり、化繊では米国と覇を競い、毛だけは欧米の後じんを拝していた。だが、30年代後半には、世界屈指の羊毛工業国に名乗り出る。相場変動の激しい羊毛の買い付け戦で日本人の博才が図に当たって、先発諸国に対する優位性が確立した――といった見方もされている。
  そのころ名古屋繊維取引所に上場されていた毛糸は投機商品として「赤いダイヤ」の小豆をしのぐ人気があった。年中、相場師が仕手戦を挑み、乱高下を繰り返していたが、五十棲宗一はその時代の風雲児である。
  四日市商業時代は相撲部に所属していたというが、丸紅で毛糸取引のコツを覚えると、やがて独立、毛織原料商「丸宗株式会社」を旗揚げする。そのころ繊維の先物市場は近藤紡社長の近藤信男の天下であったが、五十棲は敢然と近藤に立ち向かう。
  昭和37年、毛糸は供給過剰で戦後の最安値に沈み、倒産する商社も相次いだ。採算点を大幅に割り込んだ毛糸をせっせと買い進む近藤は、私設買い上げ機関と呼ばれた。同年暮れには流れが変わって急反騰に転じるが、利食い足の速いのが近藤流で、キロ100円ほど利が乗ったところで1万枚の大玉を利食ってしまう。
  近藤の利食い売りに買い向かったのが五十棲。その買い玉は1万数千枚に膨らみ、キロ300円の利益が出ても簡単には利食いに動かない。取引所からは毎日莫大な値洗い差金が流れ込む。五十棲は後年、回想して呵々大笑(かかたいしょう)する。
  「1カ月間寝ても覚めても1分間5000円の割でカネが転げ込んできたよ」
  近藤が1年掛かりで育てた毛糸相場の芽を五十棲が素手でもぎ取っていく観があるが、翌38年、五十棲は得意の絶頂から奈落(ならく)の底にたたき込まれる。五十棲は膨大な買い玉を利食いしたあと、普通なら「休むも相場」とひと息入れるところだが、今度はドテン売りに転じる。ケイ線論者が戒める「損切り後のドテンはいいが、利食い後のドテンはやってはいけない」禁じ手を強行する。売り玉が膨らんでいくと、地元の専門商社豊島がこれに狙いをつける。豊島の機関店万栄が着々と買い進む。五十棲の踏みを取ろうとしているのは明らかである。
  五十棲の後日談として「利食いのドテンはいけない。それは私の信条でもあった。昭和38年相場の大失敗は、これこそ天井とみて利食いドテンして売り上がったことです」と敗戦の弁が伝わっている。
  万栄―豊島の買いで11月限は暴騰、取引所は売買規制を強化、売り方は倉荷証券、買い方は丸代金の納付が義務付けられる。ドタン場で大波乱が待ち構えていた。買い方の万栄が新規売買自粛の申し合わせに反して大量の新規買いを強行、そのための売買証拠金48億円の調達に手間取り、規定時間を大幅に遅れて取引所に納入する事態になる。立会停止、解け合いという最悪事態を迎える。この問題は後に国会でも取り上げられ、五十棲は裁判に訴えるが、巨額の損失で前年のもうけはそっくり吐き出してしまう。
  これだけなら、37年の利益を38年の損で帳消しにしただけで済むところだが、休むことを知らないこの勝負師は次の年、致命傷を負う。この時は林紡績の林茂が売り方で五十棲は三井物産と連合して買い方に陣取る。五十棲の作戦は成功し、売り方の大量踏み上げが1週間後に迫ったところで大逆転劇が起こった。三井物産が社長命令と称して、この買い占め作戦から撤退したからである。窮地に追い詰められた林が三井物産上層部に、総合商社の買い占め戦の非を訴えたのが奏功したと伝えられている。林の起死回生は五十棲の頓死を意味する。
  戦後を代表する相場記者、岩本巌はこう回想している。
  「五十棲のことを思い出すたびに、私は彼の男にしては珍しいほど睫(まつげ)の長い、切れ長の黒くて美しい瞳と、そしてずっしりと身にこたえる野太い声を思う」
  大手商社を利用したり、されたりしながら巨利と巨損を繰り返し、消えていった五十棲。半世紀たってもあやしい光芒を放ち続ける。存命ならもう米寿のはずである。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人に頼まれて相場を張るものじゃない
・私は相場を張る時は少なくとも半年前からいろいろ考え、大体の方向が決まったら作戦を練り、タイム・スケジュールを作り手を下す段階を迎える
・手を振り始めた時はことは半ば以上済んだようなものですね
・利食い後のドテンはやってはいけない
(いそずみ そういち 1920― )
  大正9年(一説には7年)三重県四日市出身、県立四日市商業を卒業、丸紅に入社、昭和24年独立して毛織原料商、丸宗株式会社を名古屋に創立、社長として采配をふるう。毛糸相場で再三仕手戦を演じた。同37年近藤紡の売りに向かって大量思惑買いで巨利、翌38年売り方に立って豊島の買い占めに遭い大敗、同39年には三井物産と組んで買い占めを図るが、売り方林紡の策動で敗北、以後相場界から姿を消した。
(写真は藤野洵氏提供)

相場師列伝

炭価の暴騰・暴落を乗り切る、貝島太助氏(09/2/23)

石炭王は胆力で勝負
  石炭がエネルギー資源の最右翼に君臨していた時代に輩出した石炭界の巨人が貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎の3人。いずれも九州男児だが、中でも貝島の実力と人気は図抜けていた。
  「東に銅山王古河市兵衛あり、西に石炭王貝島太助がいる。いずれも徒手空拳より奮闘して遂に東洋一の大鉱業と畏敬せらるるに至った。波瀾甚だしき貝島の境遇は、あたかも小説の如く、幾多の災いを転じて福とせる彼の勇気と機敏、先見に富める氏の活躍ぶりは当代の実業界では稀有であろう」(岩崎錦城著「現代富豪奮闘成功録」)
  世間では貝島のことを「石炭王」と呼んだ。炭価の乱高下にさらされて有為転変の激しい石炭界で、一時的に貝島をしのぐ人材が出たこともあるが、だれ1人として「石炭王」の称号を貝島から奪ったものはいない。53歳の時早くも「貝島太助君伝」と題する奮闘物語が出版され、鉄腸石心、鉄のような腹わたと石の心臓を併せ持つ怪物だと称している。
  太助は8歳の時から坑内にもぐり、少しずつ資金を蓄えていった。明治3年には念願の鉱区を手に入れ、太助自ら頭領兼抗夫として先頭に立って堀り続けた。西南戦争のぼっ発で炭価は暴騰、昼夜兼行で堀りまくり、2500円という大金をつかむが、戦争の終結で一転暴落、鉱区を手放し元の出稼ぎ人夫に戻る。失意の太助に幸運の女神がほほ笑みかける。東京の金満家が筑豊地区で炭坑を買収、共同経営しないか、と願ってもない話が舞い込む。
  明治17年には筑豊随一といわれた大之浦炭坑を手に入れる。折からの鉄道開発ブームで石炭需要はうなぎ登り。同22年太助は5万坪の土地に3階建て700坪の豪邸を建て「百合野山荘」と名付けた。この大見栄を切った邸宅が意外な幸運を呼び込む。太助は実に運に恵まれた男である。井上馨伯が耶馬渓見物の途中、太助の豪邸が目に入る。2人の出会いのシーンを評論家内橋克人はこう描く。
  「行く手の山あいに忽然と現れたのが、幻のような館である。井上は驚愕し、いったい何者の住居かと、山荘の門をたたいてみた。折しも邸内では太助の次男、栄三郎の結婚披露宴の真っ盛りであった。上機嫌の太助は井上を3階の大広間に迎え、大いに接待した」(「破天荒企業人列伝」)
  井上は初対面で、太助が尋常一様の投機師ではないことを見抜いた。井上自身、相場ごとは大好きだったし、何よりも太助の人柄が飾り気なく温順な点が気に入った。同時に太助が将来金づるに育つことを見透かしていたに違いない。
  早速井上の口添えで毛利家や三井物産との間に太い金融のパイプができていく。明治25年の炭価暴落は毛利家からの緊急融資で切り抜けると、同27年には日清戦争で一転暴騰、「若門(若松と門司)両港の間、黄金積んで山を成し、各炭坑とも争って事業の拡張を図った」と歴史書は伝えている。
  そんな時、井上馨の姪と太助の四男太市との婚約が整う。出自が低く、「山師」呼ばわりされてきた貝島が権門の閨閥につらなることになる。
  日露戦争では日清戦争時に輪をかけて炭価は噴き上げ、貝島グループの従業員は2万人を突破する。1年間の出炭額は100万トンを超え、日本の総出炭額の8分の1を占めた。いまや天下の石炭王となった貝島太助だが、目を閉じて往時を振り返ると、丁半バクチに明け暮れた時期もあった。
  「達賀堤行きゃ雁が鳴く 家じゃ妻子が泣きすがる ケンカばくちですねた身を 川筋男の意気の良さ」
  バクチ好きの渡世人から巻き上げた金であばら家と化していた生家を修復したこともある。後年その家を譲り受けた米穀商は途端に大もうけ、「太助さんの博才にあやかったのや」と触れて回ったという。
  大正5年、欧州大戦景気で炭価が暴騰する中、石炭王は72歳の生涯を閉じた。跡を継いだ太市ができぶつで、大正9年のパニックを乗り切り、昭和2年には資産を1億円に膨らませ、全国ランキング5位にのし上がるが、このころが貝島家のピークであった。石炭が斜陽の道をたどるのと軌を一にして衰運に向かう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・真摯(しんし)謙譲の徳を慕われ、社会公共のために奉じた(財界物故傑物伝)
・胆力はひときわ大きく、度量は海の如く広し(貝島太助君伝)
・機敏で先見性に富み、災いを転じて福となす勇気の人(現代富豪奮闘成功録)
・大きな袋のような男だ(井上馨談)
(かいじま たすけ 1844―1916)
  弘化元年福岡県直方市生まれ、8歳の時から炭坑夫となり家計を助けた。23歳で妻を迎え、共働きで少しずつ資金を蓄えていった。西南戦争で炭価暴騰し巨利をつかんだ。明治17年大之浦炭坑を入手、同22年豪邸を建て、これが機縁で井上馨を知る。井上の紹介で三井物産、毛利家など資金ルートが太る。大正5年11月1日他界。太市が家督を継ぎ、昭和2年資産は1億円に達し、全国5位。
(写真は「貝島太助―炭礦王立志成功物語」より)

相場師列伝

大豆買い、陣頭指揮の杉山金太郎氏(09/3/2)

4つの相場にらむ
  杉山金太郎が時の大蔵大臣井上準之助に呼ばれ、麻布三河台の井上邸を訪ねたのは大正12年暮れのことだった。そこで鈴木商店の総帥、金子直吉を紹介される。要件は鈴木商店の3大事業の1つといわれた豊年製油の経営を引き受けてくれないかという相談だった。「ようがす」と引き受けてみたものの、豊年製油の財務内容はボロボロの状態だった。後年、日本経済新聞記者・筒井芳太郎のインタビュ-に答えてこう語っている。
  「整理といっても、どこから手をつけていいか判らないほどの乱脈ぶりだったよ。そこへもってきて、製油という仕事がまた大変な仕事でね。なにしろそのころは大豆の相場、大豆油の相場、大豆粕の相場、銀の相場と、バクチの関門が4つもあるんだ。それはえらい苦労したものだ」
  杉山は相場のことをバクチと表現した。確かに共通する要素もあるが、基本的に全く異質のものであるのはいうまでもない。
  杉山が井上準之助の目に留まったのにはわけがある。杉山はそれまで日本綿花の喜多又蔵と組んで中外貿易という会社を経営していたが、大正10年、バブル景気の反動で破綻。私財いっさいを投げ出し、まる裸になって後処理に当たった。その結末のつけ方がいいと井上から豊年製油の再建を頼まれたのである。
  杉山金太郎は多くの有名投機師が輩出した和歌山の出身。大阪商業学校(現大阪市立大学)を卒業すると、得意の英語を生かすべく、米国貿易会社(アメリカン・トレーディング・カンパニー)の神戸支店に入社し、貿易業務に従事した。綿糸の輸出で先べんをつけるが、友人から「外国人の会社にいても、重役にはなれないよ。一緒に会社を作ろうじゃないか」と誘われ、心が動いた。
  その友人とは、大阪商業時代の同級生であった喜多又蔵で、当時日本綿花の社長だった。投機の才にも秀でていた。こうしてできたのが中外貿易会社だった。喜多が社長、杉山が専務である。大正6年、杉山が42歳のときだった。
  折からの第一次大戦景気で業績は滑り出し好調、ハイリスク・ハイリターンの世界に乗り出し、北海道のナラ材や硫黄の取り扱いでは全国一にのし上がる。だが、大正9年のパニックに遭遇するとひとたまりもない。
  「世界的商況の大激変を来たした。すべての物価は暴落に次ぐ暴落で、いわゆるパニック状態を現出した。商社という商社で打撃を受けなかったところはなく、横浜では増田屋、茂木などの一流問屋、大阪の久原商事、神戸の鈴木商店、湯浅貿易などみな、整理を発表した」(「私の履歴書」)
  杉山は全財産を投げ出し、負債の一部を埋める羽目に陥った。この時、杉山の商才がモノをいう。横浜正金銀行に担保に入っていた大量の商品が担保切れでもて余しているのを知ると、これを売りさばき、帝都復興院が鋼材、木材などが必要になると、買い付けに走り、ブローカーのような仕事で食いつなぐ。
  そして冒頭の豊年製油で投機師兼経営者として活躍が始まる。
  「この事業は非常に投機的なものであった。豆の買い付けはすべて銀で買うのだが、大連には銀相場の『銭荘』という取引所があって時々刻々、相場が変動する。また、大豆、油、粕はいずれも取引所があって『定期』(先物)が立っているので、これも時々刻々相場が変わるという、一刻も目を離せない、難しい仕事であった」(同)
  新豆の出回る12月から1月にかけては自ら満州に乗り込み、集荷状況を視察したり、大豆を買いつけたりする。また船の上から大連支店に電信で買い付けを指示するなど、原料の買い付けでは陣頭に立って指図もした。ライバル日清製油の坂口幸雄大連支社長(後に社長)は大連時代を回想して、「大連五品取引所で商売を競い合った。それに多数の中国人と競争があり、すこぶる賑やかであった」と語っている。
  杉山は社長業30年に及び、97歳の天寿を全うする。そして坂口は101歳。大連取引所でもまれると長命を保つのだろうか、あるいは大豆蛋白(たんぱく)の賜(たまもの)だろうか。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明)
信条
・事業の盛衰は原料の買い付けの巧拙が最も重要である
・私は会社に出るのが唯一無二の楽しみで、それ意外に趣味もなにもない。会長になってからも毎日、社員のだれよりも早く出社する
・私は自分の性格があまりに潔癖であると自覚しておる。しかし一度深く相知れば永久にお付き合いを続ける
(すぎやま きんたろう 1875―1973)
  明治8年和歌山県海草郡川永村永穂の農家の長男に生まれ、同27年大阪商業学校(現大阪市立大)を卒業、米国貿易会社(アメリカン・トレーディング・カンパニー)の神戸支店に入社、大正4年には輸出部支配人となる。同6年日本綿花の喜多又蔵社長と中外貿易会社を創立、専務に就任、同10年破綻して退任、同13年豊年製油(現J-オイルミルズ)社長。以来30年間社長をつとめ、息子の元太郎に譲り会長。昭和48年3月10日、97歳で他界。
(写真は「私の履歴書」より)

相場師列伝

相場好きの血統、曲がり屋の父に向かう、西田三郎氏(09/3/9)

関東大震災時には売り越し銘柄が暴落
  作家の沙羅双樹が西田三郎の伝記を書いたのは昭和37年のこと。当時、西田は大阪穀穀物取引所の仲買人協会会長で、翌年同取引所の第2代理事長に就任した。沙羅は書いている。
  「投機界の歴戦の士で、現在は西田三郎商店と万富証券の社長を兼ねているが、関西、四国、九州、北海道に37カ所の支店、出張所を持っている。大成することの困難な投機界で、大小幾多の闘いを経て、いま穀物、商品界での売買高も随一というのは、正に勝者である。一見華奢で、近頃枯淡の色を加えてきた氏ではあるが、その体内に流れているのは野武士の血である」(「勝者の記録」)
  沙羅が西田を野武士に見立てたのは、西田家の先祖が岐阜県南部の赤坂の出身で、ルーツは熊坂長範の一族だと聞かされたからだ。熊坂長範とは平安末期の大盗賊で、奥州に赴く金売吉次を赤坂の宿に襲い、牛若丸に討たれたという伝説の人物。西田は物腰は柔らかいが、闘争心では人に負けていない。猛者ぞろいの大阪の商品先物界を束ねて10年間も理事長のいすに座ったのは、タダものではないあかしである。やはり野武士の血を引いているのであろう。
  西田家は石灰業で財を成した。祖父藤五郎は米相場をよくやっていた。父友三郎も相場が好きで、岐阜市内に両替商を開業するほどだった。そして三郎も小さいころから相場に手を出すが、祖父はとがめるようなことはしなかった。それどころか、「西田家の相場好きは血統だ」といって笑い飛ばしていたという。
  父はやがて相場につまずき、両替店をたたみ、京都に出て米屋を始める。「三郎にとっては学問よりも商売の方がおもしろかった。青い顔して机にかじりついているよりも、父と一緒に米穀の買い付けに地方へ回ったり、大阪堂島の米市場へ出入りしている方が、はるかに生き甲斐があり、楽しかった」(同)
  欧州大戦のころは、父と一緒になって相場に没頭した。父の負けが込んでくると、父に向かって売買するようになる。父が買えば、三郎は売り、父が売れば三郎は買った。「当たり屋には付け、曲がり屋には向かえという格言がある。当たり屋には付かんでも曲がり屋に向かうのは定石や」と、公然と父子対決した。
  「オヤジには悪いけど、相場というものは非情やからな。ぼくが取らんでも誰かが取るのや」。三郎はそう割り切って向かっていった。当時は北浜、堂島の全盛期で石井定七や八馬兼介といった剛の者がのし歩いていた。
  大正12年夏、三郎は当時人気の新東、新鐘を売り越して悪戦苦闘していた時、関東大震災の発生で暴落、窮地を脱するばかりか、今の金で数千万円もうける。やがて北浜の広田啓次郎商店で株のセールスに従事、1カ月で1足靴をはきつぶし、広田商店のトップセールスマンになる。
  第2次大戦後、北浜で万富証券を旗揚げする。縁起のいい店名の由来について、「大阪駅で買った鉄道地図から取ってつけました。岡山に万富という町があるのを見つけ、これだと思いました」と語っている。株と商品をまたにかけて西田の快進撃が始まる。昭和34年には史上空前といわれた黒糖の大仕手戦にも買い方陣営に加わって勇名をはせた。
  このころが西田の絶頂期だった。北浜の名物でもあった赤れんが造りの西田の居城には浪花の投機師の心意気が漂っていた。そして一気に時間は飛ぶ。
  平成13年2月17日付日本経済新聞夕刊(大阪版)は、「北浜株屋街の面影を残す明治の建築物、旧西田三郎商店」の写真とともに旧西田商店が取り壊しの危機にひんしている、と報じた。
  「このビルは、株を扱う島商会の社屋として明治43年12月に完成、戦後、同業の西田三郎商店の所有に移った。ネオ・ルネサンスという欧風の3階建てで、外壁はれんが造り、1階の基礎は花こう岩。内部も天井や手すり、柱などがトスカーナ風と呼ばれる曲線主体の彫り模様で…」
  三郎の後を継いだ長男主税、次男主計と3代続いたところで、西田の名は途絶えた。明治時代の著名な建築家、船越欽哉の作品といわれた西田三郎商店のビルも今はない。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場は人間づくりの1つの手段です
・相場である以上、有為転変は当然で、それを切り抜け、目的を達成することが必要。途中で挫折したものが敗者であり、百折不撓(ひゃくせつふとう)の勇猛心をもって目的を達成したものが勝者である
・曲がり屋に向かえ
(にしだ さぶろう 1899―1982)
  明治32年岐阜県出身、父友三郎は両替商を営み小さい時から相場に親しむ。大正12年夏、新東、新鐘を大量にカラ売りし苦戦していた時、関東大震災の発生で暴落、巨利を得た。北浜の広田啓次郎商店に入り、株のセールスに奔走、取締役となる。第2次大戦後、万富証券を開業、昭和27年商品取引の西田三郎商店を創設、38年大阪穀物取引所(現関西商品取引所)第2代理事長に就任。
(写真は「大阪穀物取引所四十年史」より)

相場師列伝

地味に稼ぐ兜町の異材、関谷兵助氏(09/3/16)

東株役員を20年余
  投機の世界に身を置く者は毀誉褒貶(きよほうへん)を覚悟しなければならないが、関谷兵助の同時代評は賛辞一色である。
  「金権万能の今は、利名に狂奔するは、やむを得ざるの現象、いわんや、瞬間分秒の差、もって万金の輸贏(ゆえい=勝負)を決する投機界においておや。わが関谷氏にありては、毫も悪傾向に浸染せず、常に商機の標準を人道の上に求めて、真に投機界裏の一異材(逸材)たらずんばあらず」(遠間平一郎著「財界一百人」)
  投機師が金もうけを追求するのは当然のことだが、関谷は人道的見地に立って、やっていいこと、やってはいけないことを峻別(しゅんべつ)していた。今日、盛んにいわれるコンプライアンスを徹底した相場師であった。渋沢栄一にならって「論語」を学んでいたのかもしれない。「兜街繁昌記」でも関谷株はすこぶる高値を呼ぶ。
  「万事が派手なのは、投機社会の常であるが関谷氏に至りては、毫もこの傾向がなく、斯界稀に見る人物である。風雲を叱咤し、龍虎を撃攘(げきじょう。追い払う)するていの、いわゆる当たり屋的な壮観は見なかったけれども、発展の地歩はおのずから強固に赴き、今日の盛運を招くに至った」
  関谷が兜町で養父から引き継いだ株仲買「ヤマボシ」を始めるのは明治22年のことだが、わずか3年で廃業する。それというのが店員が手張りに失敗し、店に巨額の穴をあけられたためで、以後しばらくは手堅い公債の現物売買に従事した。当時は現物屋といっても三五屋・今井安太郎、紅葉屋・神田雷蔵など錚々たるメンバーがいた。後年、現物屋というと仲買人になれない小さい店を指したり、お客の注文をガブ呑(の)みする呑み屋仲買の別称であったりするが、明治期の現物屋は信用が厚かった。
  明治39年、関谷は東株仲買人として復帰するが、思惑は極力避け、顧客本位の営業をモットーとした。龍虎と格闘してこれを圧倒するような花々しさがない代わりに、着実に手数料収入を主体とする営業を心掛けた。前出の遠間は「暖日、穏波に帆を揚げ、流れに従って一路千里の長江を過ぎるが如し」と評している。なんとも穏やかな光景であり、切った、張ったの兜町とは別世界のようでもあるが、明治40年の日露戦争後のパニックを無事乗り切ったことで、世間の目には、関谷の店は順風満帆の航海に映ったようである。
  関谷の自慢は店員教育だった。晩年語っている。
  「中学以下の店員に対して大学の講師などを招いて夜学をさせたのはわたしです。後で取引所も採用しました。夜学といっても浪花節、相撲などなんでもいいから一つ得意な芸を覚えさせるというのが狙いで、学力をつけるというよりは遊ばせることが主眼でした」
  その昔、店員が悪事を働き、閉店のやむなきに至った苦い経験から生まれたものであろう。
  関谷の経歴に長年にわたり東京瓦斯の監査役が記されているのにはわけがある。かつて東京瓦斯の新株募集に際し、福島浪蔵、小池国三、神田雷蔵のいわゆる、「三ぞう」たちと競って引き受け、募集成績で第1位を占めた名残りである。
  最晩年の関谷は湘南片瀬に隠遁(いんとん)したが、月1回兜町の古老たちが集まる「不老会」に出るのが楽しみだったという。そして草創期の東株のことなど懐かしそうに語るのだった。
  「東株の仲買人には兜町にあった正米屋や両替屋を営業している漬物屋、砂糖屋など100人くらいになりました。公債の売買が2000枚できると取引所はお祝いにモリソバを出しました。これが続くと弁松の弁当を出し、もっと後には大入り袋に5銭白銅を入れて皆に配りました。…株の売買が盛んになるのは明治22年ごろで、実際には買い占めもしない癖に、買い占めだ、買い占めだといってはやしたて高低の材料にしたものですヨ」
  春日遅々、翁の懐古談の周りにはいつの間にか人の輪ができていったことだろう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・斯界稀にみるところの人物。斯界の通弊なる思惑を避け、顧客を本位に置き、着実を旨とした営業方針を貫いた
・店員養成に家庭教師を招き、修学を奨励、勤怠表を作って賞罰を明らかにした(兜町繁昌記)
・公明、着実を営業の本旨とする漸進主義(財界一百人)
(せきや ひょうすけ 1868―1958)
  明治元年9月5日、信州生まれ、関谷善八の養子となる。善八は東京で株式仲買店「ダイボシ」を開いていたが、同22年兵助が家督を継ぎ、東京株式取引所仲買人となる。店員に穴をあけられて3年で廃業、あとは現物売買に徹した。同39年仲買人に復帰、定期(先物)部を構えた。大正3年東株監査役に就任。昭和8年監査役を辞め、理事に就任。北海道瓦斯、東京瓦斯の監査役も長くつとめた。(写真は「東京株式取引所五十年史」より)

相場師列伝

一生を相場で貫いた、寺塚岩次郎氏(09/3/23)
ガンとも闘う、全身これ相場
  「寺塚岩次郎は、串田万蔵の愛妾の弟ということであり、それからか、屋号を串(ツラヌキ)という。道楽に兜町に店を出しているが、大した活躍をしていないようだ。しかし、背後に三菱の大立者を有しているとあっては大したもの。そのうち、大活躍するかも知れず、いや、現在でも、思惑をちょいちょいやるという話」(根本十郎著「兜町」)
  寺塚岩次郎は通称「岩ちゃん」、それが昭和の初め金輸出再禁止で兜町が激動する中、一躍、天下に名を成し、皆から「寺塚さん」と呼ばれるようになる。

寺塚の活躍を報じる中外商業新報
  昭和6年、浜口雄幸内閣の金解禁でデフレ色が強まる中、金輸出再禁止は必至とみて、兜町で強気を張ったのが串印の寺塚。「度胸骨の太い、時には無茶と思われるような大胆な態度に出ることもありました」(長谷川光太郎著「兜町盛衰記」)。
  この時、寺塚は新東を25万株から30万株も買いまくった。これには訳があった。「天才相場師の出現」と世間を騒がせた伊東ハンニが寺塚の店にやってきて、新東に大量の買い注文を出したのだ。そして「バックには政友会の大物、久原房之助がついている」といったようなことを寺塚に触れ込んだからである。政友会内閣になればきっと金輸出再禁止は実施されるとみて、寺塚も久原一伊東買いにちょうちんをつけた格好である。
  寺塚は90円台から買い進み、東京市場だけでなく、大阪、名古屋でも手当たり次第に買いまくった。これに対し、全国の相場師が売り向かった。昭和6年12月13日、犬養毅政友会内閣が成立、組閣の第一声が金輸出再禁止で、不振の経済打開策として積極方針をとるというものだった。14日の市場は狂乱的踏み上げ相場となり160円買い、170円買い、200円の声まで呼び出して立会停止となる。この時寺塚は大もうけしたうえに男をあげた。15日付中外商業新報が「男を上げた串君、遣(や)った買い玉3万枚」と題し、売り方からの「泣き」(解け合い申し入れ)に気前よく応じる寺塚を称えた。
「相場師はかくありたいもので敵が降参したら快く汝の敵を愛する雅量が欲しい。相場師の中の相場師はこのところまず串君にとどめを刺す」。
  また長谷川光太郎は次のように証言している。
  「東京のほか、大阪、名古屋から売り方がツラヌキ印・寺塚さんの店にワンサと押しかけて、解け合ってくれと、頼む者が跡を断たなかった。寺塚さんは会社にも、牛込の邸にもあらわれず、熱海に雲隠れしたともいわれました」
  このころが寺塚の相場師人生の絶頂期であった。寺塚とは無二の親友だった由利亀一(金十証券会長、東京証券取引所理事)が語っている。
  「こうして日本中に名を売りまいた。寺塚のやったのは、買い占めではなく、買い思惑ですが、新東の仕手戦として最も華やかだったでしょう。ところが寺塚は42歳の厄年に曲がりました」
  相場の世界は一夜にしてお大尽にもなれば物乞いにもなる。金輸出再禁止で怪物伊東ハンニと巨利を分かち取った翌年、2人は米の買い占めを策し、山種の売り浴びせにあえなく破綻する。大手から「マバラ」に転落しても相場は張り続けた。そしてガンに侵され、食道ガンの大手術で食道を切り取ったあとも相場はやめなかった。「2度目の手術では腹を裂いて胃袋を引き上げ、のどへすぐくっつけ、のどをしばらないと、食物は胃袋に入らないんです。こんなになっても、寺塚はまだ相場をやっていました」(由利亀一)。
  昭和25年、旭硝子のヘタ株(未発行株の権利売買)を巡る大仕手戦がぼっ発すると、寺塚は買い方に立って最後の戦いを試みる。戦国武将が死に場所を求めて突撃するかのように買い進むが、相場は意に反して下落、下がったところでドテン売り方に回ると、一転530円まで踏み上げ相場となる。この暴騰落の過程で寺塚は300万円の巨損を出し、体調をすっかり悪化させた。「兜町80年」(野田全治著)は「売り落城で痛手を受けた1人に寺塚岩次郎がいた」と記している。
  寺塚は死ぬ5日前まで由利のところに電話をかけてきて「何かいい株はないか」などといいながら相場をやめなかった。由利は追懐して語る。
  「寺塚は人に会ってもロクに話もできぬほど内気なところもありましたが、全身これ相場です。取引員として店を出していた時の屋号は串(ツラヌキ)でしたが、これは意思を貫くという意味です。文字通り彼は一生を相場で貫きました」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場を始める時は、まず最初に手じまうところを決めてかかる
・金的命中、大相場に乗り当たった時は懸軍長駆(後方に連絡なく敵地に入り込む)、ある程度は敵を急追しますが、足元の用心が肝心。8分目でさっと兵を引く
・相場というやつは、1人でもうけようなどと考えると大変な目に遭う、物8分目にけがはない
(てらづか いわじろう 1891―1950?)
  明治24年生まれ、東京株式取引所の仲買人木村栄次郎商店の小僧となる。木村は米穀や洋銀相場で盛衰を重ね、株の川島商店に転じるなど振幅の激しい人であったが、寺塚も20歳に自殺しようとしたこともあった。35歳ころ取引員となり、昭和6年の金輸出再禁止で巨利を占めるが翌7年、米買い占めに失敗して大損、同25年旭硝子のヘタ株仕手戦で敗北、終世、相場師を貫徹した。(写真は昭和6年12月15日付中外商業新報)

相場師列伝

気長く、手堅くの山内卯之助氏(09/3/30)

思惑当たれば積極的に「乗せる」
  「相場の花道に、並んだ古い北浜の有名人といえば、まず世話好きで知られた『禿山』こと井上徳三郎翁があり、北浜の元老で委員長を13年間も勤め、常に仲買人救済に尽力された山内卯之助老があった」(松永定一著「北浜盛衰記」)
  山内は日ごろから「他人の世話にはならぬ代わりに他人の世話はしない」をモットーにし、仲間内からはエゴイスト呼ばわりされていた。その山内が宗旨替えして北浜のために奮迅の活躍をするのは大正9年のパニックの時だ。
  そのころ山内は大阪株式取引所の仲買人組合委員長という立ち場にあったが、北浜市場が壊滅的状態に陥った時、シンジケートを組んで共同責任のもと、救済資金、千数百万円(現在の価値にして数千億円)の調達に成功、北浜を救った。そのことで山内は引退する時、仲買人組合からプラチナの時計が贈られ、取引所からは金盃が贈呈されるという名誉に浴した。だから松永定一のように山内を「北浜の恩人」と称する声が多いが、山内の吝嗇(りんしょく)性をヤリ玉に挙げ、神戸の船成り金乾新兵衛と並ぶ阪神の二大ケチンボと呼ぶ評者もいる。藤山一二が「大阪財閥論」で山内を俎上(そじょう)に載せる。
  「富豪番付で天下の前頭格である野村徳七はさておき、北浜村の千万長者として小川平助翁に次いでは山内卯之助翁に指を屈せずばなるまい。山内老の面白いところは、終始一貫徹底的にエゴイズムを遵奉(じゅんぽう)してきたことである。老は大阪人の伝統的ケチな採算的性格をいかんなく表現している。なまじっかな小金を投げてバクチ屋を喜ばすが如き児戯に類する小虚名欲から脱却して徹底的に先天性格を守るところに無量の面白味がある」
  藤山は北浜市場での評判をもとに書いたといっているが、半端なケチンボではなさそうである。
  山内卯之助は堂島生まれの北浜育ち。相場の申し子のような環境のもとで名を成していく。相当大きな思惑もやったが、乾坤一鄭(けんこんいってき)の大相場を張るようなことは決してやらなかった。徒手空拳で相場界に乗り出してきた連中と違って、山内の場合は、明治29年に北浜で仲買人の看板を揚げた時、すでに財力では北浜でも指折りの資産をこしらえていたので、危ない芸当をやる必要はなかった。先代も相場師であったが、大もうけしたというより、稼ぎを積み上げるタイプで、山内もこれにならった。俗に「金持ちケンカせず」というが、山内の相場ぶりは見る人が手に汗握るといった危険な道に立つことはなかった。
  「気長うに、手堅うに。これが山内の歩む常道であったらしく、すこぶる平の凡なるが如きも、この間よく1000万円の小遣い銭を稼ぎ出したのだから、平凡豈(あに)排すべけんやである」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  昭和の初め、新聞記者のインタビューに答えて、相場の極意を披露した。「作戦は臨機応変をもって良しとするもので、相場の足取りやアヤによって定めます。それに財界の大局も見誤らぬように細心の注意がいります。何ごとによらず、まず仕掛けが肝腎です。値ごろをみて第一、第二、第三の方策を立てて進まないといけません。第一でいけなかったら第二、それでもダメなら第三という具合に、そして行き過ぎた時の反動を狙うのです」
  このころ山内は67歳、坂口彦三郎、松井伊助、小川平助とともに大株切っての老将と呼ばれていたが、若者をしのぐ元気で、はつらつと相場を張った。
  「私はいつも腹八分に戦います。大阪から京都まで行くのにまず枚方(ひらかた)程度という方針です。力一杯、腹十分に戦うと思惑が外れた場合、取り返しがつきません」
  山内は当時「国宝」と称された高配当の鐘紡株を得意にしていたという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・他人様のお世話にならぬ。その代わりに他人の世話はしない
・思惑通りの相場が出たら、積極的に売り乗せ、または買い乗せます
・ナンピンは相当大きな資産を持つ者が投資的意味でやるもので投機者がやるものではない
・勝敗は兵家の常です。万一思惑が外れたら機を見て投げ出し、気を抜いて出直します。現株を引いたりなんかはしません。
(やまうち うのすけ 1861―没年不詳)
  文久元年大阪堂島の米問屋に生まれ、明治29年大阪株式取引所(大株)の仲買人となる。大正4年第8代大株仲買人組合の委員長に就任、通算13年間つとめた。大正9年のパニックで北浜株式街が未曾有の窮地に陥った時、シンジケートを結成、救済資金の引き出しに成功、以来、「北浜の恩人」と称される。晩年大株相談役をつとめた。
(写真は「大株五十年史」より)

相場師列伝

男気でボロ株投資の大谷米太郎氏(09/4/6)

星製薬の再建で悪戦苦闘
  大谷米太郎は安田善次郎、浅野総一郎とともに富山県出身の3大富豪と呼ばれるかと思えば、南俊二、菊池寛実と束ねて“戦後の3大億万長者”とも称される。南や菊池と同様、大谷も戦前すでに相当の身代を築いていたが、第2次大戦後に爆発的にその富を太らせた。
  「戦後のドサクサで3人ともそれぞれもうけたが、南、菊池がそのもうけで主として優良株の大量買いをしたのに対し大谷は元宮邸とか、不動産を買い、さらに星製薬、不二越鉱業、川南工業等のボロ株に手を出した」(三鬼陽之助)
  大谷が日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆するのは、昭和39年3月のことだが、盛んに「男気」が顔をのぞかせる。当時、紀尾井町の元伏見宮邸跡に「ホテルニューオータニ」を建設中だったが、大谷がこの土地を購入したのも男気からだった。安井誠一郎東京都知事から「大谷さん、一つ買ってくれないか。日本の玄関先に外国人の町を作られては困るんで……」と頼まれると、将来どうするアテがあったわけではないが、買い取った。
  大谷が戦中から戦後にかけてつぶれた会社を8社ほど面倒みているのも男気からである。
「私があくまで金もうけ主義の男に過ぎぬのなら、こんな金のかかるややこしい仕事に手を出すことはしないだろう。金をもうけようとするなら、いい会社の株を買い占めて乗っ取ればいいのだから」(私の履歴書)
  故郷の山にちなんだしこ名、鷲尾嶽で幕下筆頭までいった大谷は生涯を「男気」で貫いた。
  星製薬の再建を引き受けたのも男気が触発されたためだった。星一社長(当時、参議院議員)が資金調達の途中、ペルーで客死、額面25円の株価が5、6円に暴落していた。そんな時、広川弘弾農林大臣から頼まれる。
  「星のおやじさんは参議院選挙で最高点をとった人だが、外国で亡くなってしまった。息子はまだ若いので、あとはやっていけない。資本金は1億円で借金は1億円ある。大谷さん、あんた一つこれをやってもらえないかね」
  この時、大谷は「引き受けてもいいが、株を半分以上持たないことには、思うようにいかないから、それだけの株が手に入ることが先決だな」と答えた。
  広川はすぐ証券会社の役員と星製薬の副社長を呼んだ。
  証券会社「株価は5、6円といっても半分以上集めるには15円以上みてください」
  星製薬「あなたがすぐ社長に入ってくると、社員が動揺するから3ヵ月待ってください」
  大谷は株集めをやりながら、星製薬側の返事を待った。10ヵ月後、社長に就任、帳簿を調べて驚いた。広川が1億円だといっていた借金が実は10億円もあるではないか。だが、乗りかけた船は簡単に降りられない。そして、星製薬の株をあらかた集めたと思っていた直後、大谷の目の前に新たに100万株も現れたのである。
  「社長になる前に調べればよかったのだが、前任者たちがひそかに予備株券を流したらしい。それがわかった時には時効になっていたので、私は仕方なく、これを約100円(1株25円)で引き取らざるを得なくなってしまった」
  折から朝鮮動乱特需で本業の大谷重工業が活況を呈し、星製薬の再建資金にはこと欠かない。兜町ウオッチャーの三鬼が冒頭で、南や菊池は優良株に投資、大谷はボロ株買いと指摘していたが、大谷はボロ会社の再建を意気に感じ、あえてボロ株を好んで買う。
  東京オリンピックの年、「ホテルニューオータニ」は開業するが、その直後に襲来した不況で大谷重工業の経営不振が露呈、社長の座を追われる。大谷は「わが社には帝大出の法学士や工学士が百何十人いるから」と口癖のように自慢していたが、音をたてて崩れた。大谷は戦前、「鉄鋼王」などと呼ばれた時期もあるが、大谷重工業のように鉄スクラップから鋼材を作る「平炉メーカー」の場合、鋼材相場の動きが激しいうえに原料の鉄スクラップの値動きが製品の輪をかけて大きいため、リスクはことのほか大きい。
  裸一貫から巨富を築き、無に帰したとはいえ、数多くの企業を再建し、社会貢献にも資金を惜しまず、ずうたいも大きかったが、肝っ玉もでかい男気一路の軌跡は消えない。三鬼が書いている。「70歳の坂を越してなおボロ工場を買い集めて、冥土で浅野、安田の両先輩に威張るのだと意気まいている」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・タネ銭をつくれ。いたずらに金を残すのを楽しめということではない。苦しみながらタネ銭をためていくと、そこにいろんな知恵と知識が生まれてくる
・つぶれた会社の再建に乗り出すか、否かは倒産会社に行ってみた時、ひらめいてくるのがカンである。ビーンとくるものがあった時、私は引き受ける
・いくら金を稼いでもその金に苦しみが加わっていない以上、いつの間にか、消えてしまう
(おおたに よねたろう 1881―1968)
  明治14年富山県小矢部市出身、貧農に生まれ、小作農に従事、同44年30歳のときに上京、日雇い人夫となる。同45年大相撲の稲川部屋に入り、郷里の山にちなんで鷲尾嶽のしこ名で幕下筆頭まで上がるが、けがで幕入りは断念。東京ロール製作所を創立、大正12年関東大震災で工場が全焼するが、大谷製鋼所を設立、昭和15年傘下の3社を合併、大谷重工業を設立、同39年「ホテルニューオータニ」を建設、その直後の鉄鋼不況で大谷重工業は八幡製鉄の支配下に入る。
(写真は「私の履歴書」より)

相場師列伝

政情不安を逆手にとる初代・伊藤忠兵衛氏(09/4/13)

相場観測に合議制
  安政5年(1958)、日本はアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスの5カ国と修好条約を結び、開国にカジを切った。軌を一にして初代伊藤忠兵衛は「持ち下り業」に乗り出す。伊藤忠商事、丸紅両社ともこの年を創業の年とする。「持ち下り業」とは行商ではない。「Traveling Wholesale Merchant」と英訳した人もいるが、数人の荷持ちを従えて全国を出張販売して回る商人のこと。
  翌6年忠兵衛は長崎を訪れ、めくるめくにぎわいを実地に体験する。「これが同じ日本の国だろうか。彼はしばし呆然と立ち尽くした。停泊する黒船、町を往来する異国人、立ち並ぶ外国商館、見慣れぬ船載品…。彼は動転する感動にふるえた」(江南良三著「近江商人列伝」)
  忠兵衛はこの時、北九州を営業の主戦場と定めた。長崎港の目を見張る活況、豊富なエネルギー資源(石炭)を背景に北九州一帯の底知れぬ購買力を見抜いていた。同業者の多くが、開港に沸く横浜をはじめ東へ向かう時、忠兵衛は「人の行く裏に道あり」と逆張りに出た。万延元年、井伊大老が桜田門外で倒れ、政情は騒然となる。繊維品相場も激しく乱高下するが、忠兵衛は機敏に対応し、予期せぬ大もうけ。幸運というより、非凡な商才のたまもので、デビュー戦を飾った。時に18歳。
  この後も長州征伐、西南戦争、秩父騒動など政治、経済の激動のたびに老舗が倒産していく中で忠兵衛は地歩を築いた。いってみれば乱世が似合う男である。
  慶応2年、薩長同盟が成立、長州は風雲急を告げるが、馬関(下関)だけは商人の出入りが許された。忠兵衛はこの商機を見逃すはずがない。麻布1万反余を持ち下り、わずか10日間で1500両という奇利を占める。
  明治5年、忠兵衛は大阪、本町2丁目で呉服商「紅忠」を開店する。大阪を代表する老舗が織物相場の暴落などで相次いで倒産するが、薄利多売で突っ走る。「船場の太閤さん」と呼ばれる快進撃が始まる。
  同9年、甥の田附政次郎が入店する。後に大相場師として「三品将軍」と称される男だが、忠兵衛は身内だからといって甘やかすことはなかった。
  同10年西南戦争がぼっ発すると、政府は紙幣を乱発、諸物価は急騰する。政府軍の勝利を確信して強気で臨んだ忠兵衛の戦略で大成功する。忠兵衛はこのころ、「現金取引主義」を掲げる。手元の資金繰りに余裕ができると、公債の売買に乗り出す。明治の改革で家禄、賞典禄に代わって莫大(ばくだい)な額の公債が発行され、市場では額面100円、年10%の利付き公債が60~70円の安値で売買されているのに目をつける。日頃繊維市場で培った相場勘が働いて公債売買でもうけを膨らませる。
  明治17年、本店を伊藤本店と改称するとともに京都に伊藤京店を開設する。この年「財政緊急政策で諸物価は大暴落し、またまた同業者の倒産が相次いだが、忠兵衛は、その対策よろしきを得て打撃をこうむることなく、むしろ相当な利益を上げて、この大反動期を無事に乗り切った。同18年、彼は将来の需要を見越して、ラシャ、ビロードの輸入に踏み切り、伊藤海外組を神戸に設立した」(同)。
  大阪本町の伊藤本店、京都の伊藤京店に続いて、3つの営業拠点を持つ。そして同26年大阪安土町に伊藤糸店を開業、綿糸卸売業を始める。
  忠兵衛は開業以来、合議制を採り、みずから議長となり、若者の意見に耳を傾けた。景気観測、相場動向、取引商品の選択など、営業全般にわたる自由な意見交換で伊藤各店の業績を伸ばしていった。人を信じ、有能なものは思い切って登用した。20歳にもならない店員を濃尾や武甲に派遣し、巨額の取り引きを任せた。
  明治36年、忠兵衛は須磨の別邸で死去、通夜の席で議長格となって後継者指名を行ったのは未亡人の八重だった。数え年18歳の精一が2代目忠兵衛を襲名することに反対する者は誰1人いなかった。当時精一は滋賀県立商業学校(後の八幡商業)の生徒だったが、半年後に同校を卒業すると伊藤本店に入り、丁稚小僧扱いで商売を覚えることとなる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・勤倹を肉とし、忍耐を骨とする近江商人の中で錚々たる者(財界物故傑物伝)
・利益を本家納め、本店積み立て、店員配分に3等分する(後5:3:2と改める)
・毎月1、6の日に店内スキヤキパーティー
・合議制で景気、相場観測を検討
・売買について大胆に若手の自由裁量に任せる
(いとう ちゅうべえ 1842―1903)
  天保13年滋賀県犬上郡豊郷村八目で生まれた。生家は「紅長」の屋号で繊維品の販売に従事していた。安政5年、持ち下り業を始め、全国行脚、長崎、下関の発展ぶりを見て、北九州を商域とする。明治5年大阪に拠点を構え、呉服商、紅忠を開店。同10年西南戦争のぼっ発で大商いとなる。同36年急逝、通夜の席で次男精一が18歳で2代目伊藤忠兵衛を襲名。
(写真は「伊藤忠商事100年」より)

相場師列伝

現物米で奇利博す、若林喜太郎氏(09/4/20)

先物で大勝負に出て苦杯か
  若林喜太郎が米売買で大もうけして日本橋蛎殻町で念願の米穀仲買、若林商店を開業するのは明治42年春のことだ。
  若林は14歳で三重県津から上京して以来、ずっと米の正米(現物)の売買に従事してきた。初め兜町の正米問屋、米又に入り、三井物産の正米方を経て丸三精米と24年間、正米の商いで実力を蓄えてきた。最初の大もうけは明治38、39年の松村辰次郎、松谷元三郎の買い占め戦の時である。
  松村・松谷とも大物相場師として知られ、米株両市場を賑わしてきたが、日露戦勝景気を背景に米市場を揺るがす大仕手戦を展開する。松村、松谷とも期米(先物)市場の方が得意で、正米市場には精通しているわけではなかった。そこで正米市場のベテラン若林の出番となる。
  米相場の場合、先物市場で買い占めに成功しても、心ならずも引き取った現物米の処理で苦心惨胆、結局敗北するというケースが多い。この時も、松村、松谷連合軍が現引きした東北米15万俵の処分で苦労し、若林が勤務する丸三精米合資が引き取った。この米を上手に売りさばいて、丸三精米は巨利を博し、おかしくなっていた屋台骨を建て直すことができた。新聞はこう伝えている。
  「1石につき9円以上の奇利を占有せしめたるは一に、若林喜太郎が活動の結果に外ならずして、彼が今日雄飛の実力もまた、この時において養成せられたり」
  この時、若林は1石3円15銭で買い取り、なんと12円50銭で売却したというから、世間で「暴利を壟断(ろうだん)した」と非難したのも無理からぬところだろう。
  後年、相場の神様、山種が横堀将軍・石井定七の買い占めた正米を安値で引き取って、高値で売りさばいて大もうけする話はよく知られている。先物相場師は先物でのもうけを、現物市場ではき出し、最終的にどれだけ手元に残ったか、で勝負が決まる。そして仕手戦の残滓(ざんし)ともいうべき現物の取り扱いには品質の識別眼、販売力、相場観等を要し、機敏に立ち回ることが要求される。同時に、大仕手の背中にくっついて商売をやる“小判鮫”商法とのそしりを覚悟しなければならない。
  松辰こと松村辰次郎は当時、鎧橋周辺では並ぶ者なき大仕手であったから、松辰と組めば商機はいっぱいころがっている。明治41年、松辰が売り方に陣取り、買い方の木善こと木村善三郎を圧倒した時は、若林が買い付けていた現物米が大きな力を発揮した。100車ばかりの加賀米を現物市場に破格の安値でぶつけ、現物相場を崩し、これに引きずられて先物相場にもひびが入り、松村を勝利に導いた。若林は松村の信頼をつかむと同時に資金もこしらえ、「今や、百尺竿頭(かんとう)一歩進めて、仲買店を開業し、定期師として大成功を収むべく奮然として立てり(西洲居士)」。
  若林が正米師という地味な商売から定期師という派手な舞台に立った途端、新聞は「硬軍(強気派)の急先鉾となり、花々しき勇戦を試みつつあり」と報じた。買い方の先頭に立って采配をふるう点に、マスコミも若干の危惧(きぐ)をかくせないようである。
  「正米事情に通ぜざるは、定期師の弊なり。正米の知識あり、経験ある彼が、多年鍛錬し来たるその鉄腕をふるうて奮闘せば、斯界の覇権を掌握すること必ずしも難事に非ず。ただ、壮鋭・剛邁の気、おのずから禁ずる能わずして、長駆して敵地に深入し、ハンニバル式の軽挙なからんことを戒しむのみ」
  前年(明治41年)はまだ丸三精米合資に属し、オーナーの内海喜一とともに売り方に座り、独立するや買い方に転じ、内海と相対峙する。相場の世界は非情である。
  この年、若林が強気派に転じたのは、需給関係のほかに敬愛する松辰将軍にチョウチンをつけた節がうかがえる。新聞記者のインタビューに答えて、「今回の買い方は資力、胆力をもって絶倫、超凡の松村氏ではないか。買い方の勝利は疑いなし」と語っている。若林の前途をローマと戦い続けたカルタゴの名将ハンニバルに見立てた新聞もある。ハンニバルがあまりにも戦線を拡大、遂に敗軍の将になった故事を引き合いに若林の深入りを警告するが、はやる気持ちを抑えることのできないのが若林の持って生まれた気性でもあるのだ。この年の秋、松辰は大敗を喫し市場を去った。若林の命運は記録にないが、松辰と運命を共にした可能性は大きい。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・精悍(せいかん)、雄剛の気、躍如として眉宇の間に表れ、奇才奔逸、活動的人物
・壮鋭(血気盛んで鋭敏)、剛邁(気性が強くすぐれている)の気、禁ずる能わず(西洲居士)
(わかばやし きたろう 1870-没年不詳)
  明治3年11月、三重県津市に生まれ、同17年上京して兜町の米問屋・米又の小僧となり、同19年兜町正米市場が深川区佐賀町に移転すると、三井物産の正米(現物米)担当となり、2年間勤務。同21年久都和組、丸三精米の社員として活躍、同42年丸久商店の看板を継いで若林商店を開業、東京米穀商品取引所仲買人となる。
(写真は征矢徳三編「大海上の米」より)

相場師列伝

銭五にあこがれ、失敗続きの浅野総一郎氏(09/4/27)

石炭暴騰を機に財閥築く
  浅野総一郎・サクの金婚を祝って長男・泰治郎と次男・良三が父に伝記を献呈した時、各界の名士が祝辞を寄せた。大隈重信はこう称えた。
  「浅野氏は実業界の一奇傑である。平々坦々たる無臭輩と異り、山なれば妙義、榛名の如く、奇巌怪石、妙趣に富み、川ならば玖磨、富士の如く、流水飛瀑(ひばく)して、珠玉を飛ばすに似たり。70余年のその足跡は、豪快の風貌、躍如として展開さるるをみる。ある時は一家を挙げて歓楽境に遊ぶが如く、ある時は湍水(たんすい。急流)の如くして、真にこれ端倪(たんげい=推し測る)を許さぜるものがある」
  また高橋是清はこう評した。
  「浅野君は常に毀誉褒貶(きよほうへん)の外に立って、超然と自分の信ずるところに向かって猛進する徹底した事業界の勇者だ。目的を達成するまでは、いくどでも転んでは起き、転んでは起きてぶつかって行き、決して意志を捨てない。その勇気と努力とが今日の浅野君を大成したと思う」
  浅野総一郎は安田善次郎と並ぶ富山県が生んだ巨豪である。幼少のときから「北国一の豪商銭屋五兵衛のようになりたい」と大志を抱いていた。17歳の時、稲扱(いねこき)器を貸し付けてひともうけしようと考えた。母親、親戚、知人を説得して250両の金を集め、稲扱器を買い占めて、農家に貸し付けたまではよかったが、その年が凶作のため思惑は外れ、不義理な借金だけが残った。
  2年後、近村の豪農鎌仲惣右衛門の養子となり、「銭五」を真似た大勝負に出る。
  「加能越3州の産物の販路を北海道その他に開かんとする物産会社で、年歯わずか20歳の商人として舌を巻かせるほどの腕前を見せたが、明治維新の世変わりの動乱に際会したため、物価の高低常ならず、これまた失敗の憂き目に…」(「財界物故傑物伝」)
  一時は「物産会社の総一郎」と北陸一帯に名を広めたが、激しい相場変動に勝てなかった。そして富山地方の大凶作を当て込み、新潟米を買い占め起死回生を図るが、商運にも見放される。ある商人の奸計(かんけい)にはまり、積み込んだ籾(もみ)の大半が空籾であったため、致命傷を負った。
  養家を離縁された総一郎は氷見町に浅野商店の看板を揚げ、再挙を図る。このころ総一郎の借金は500~600両に膨れ上がり、「総一郎ではなく、損一郎だ」とやゆされた。能登の有名な「金貸しお熊」から300両を借りたのもこのころだ。お熊ばあさんは無担保で貸す代わりに高利で知られ、取り立てが厳しいことでも有名。だれもが尻込みするが、窮地に立たされた総一郎はお熊に頼むしかなかった。
  総一郎は300両の軍資金を得て猪突猛進し、正面突破を図るが、高利には勝てなかった。返済期日の朝、お熊は2人の屈強な息子を伴って総一郎を訪ねた。明治4年5月5日のことだった。だが、総一郎はいない。前夜のうちに東京に向けて夜逃げした後だった。応対に出た母はお熊一家の乱暴狼藉にじっと耐えるしかなかった。
  そして、浅野総一郎の出世物語には必ず登場する「水」と「竹の皮」商法で、それまで曲がりっ放しだった勝負師の流れが変わる。お茶の水の清水を汲んで砂糖を入れ、日本橋辺りに出掛けて「ヒヤッコイ、ヒヤッコイ」と呼び掛けると、結構いい商売になった。次には横浜へ出て竹の皮を売った。千葉で1両出せば35貫もの竹の皮が買える。これが横浜では3貫目1両で売れる。計算するまでもないが、千葉の1両が横浜で11両に化け、まだ2貫目の竹の皮が残る。
  だが銭五を夢見る男がいつまでも竹の皮の商いで満足するはずがない。明治7年石炭商となる。同10年西南戦争のぼっ発で石炭相場が暴騰、初めて巨利を占める。同14年コレラの大流行をいち早く察知すると、コールタールをただ同然で横浜市から払い下げを受け、石炭酸水を作ってまたまた巨利、あとは一瀉千里(いっしゃせんり)で浅野財閥へと発展していく。
  数え切れない事業の中でただ1つ記すとすれば、安田善次郎と組んで行った京浜臨海工業地帯の大造成か。いまもJR鶴見線にはその名もズバリ「浅野駅」があり、隣りに「安善駅」がある。安田善次郎は語る。「あれだけの仕事をする男を援助して、仮に資金が丸つぶれになっても、私は遺憾とは存じません」。
  リスクを恐れない明治男の気概がほとばしる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明)
信条
・稼ぐに追い付く貧乏なし
・雨宮敬次郎より計画が大きい。浅野以上に金を使う人はいなかった(安田善次郎)
・百折不撓(ふとう)の勇猛心とあきるを知らぬ事業欲(松方幸次郎)
・浅野君は事業に淫する人。浅野君はエンジンで、安田君は石炭であった(徳富猪一郎)
(あさの そういちろう 1848―1930)
  嘉永元年越中国氷見出身、明治6年横浜で薪炭商を旗揚げ、同10年西南戦役で石炭相場が暴騰して巨利、同14年コレラ流行、コールタールでもうけ、同17年官営深川セメント工場の払い下げを受ける。同29年東洋汽船を創立、同41年安田善次郎と鶴見海岸の埋め立てに着手、大正2年セメント工場を浅野セメントと改称、同7年浅野物産創立、同12年関東大震災で100万円を寄付、昭和5年没。鶴見総持寺に眠る。法名は積功院殿偉業総成大居士。
(写真は浅野総一郎、良三著「浅野総一郎」より)

相場師列伝

株暴落と日糖事件で破綻、投機に恵まれず 2代目藤本清兵衛氏(09/5/4)
再起、土地会社の開山

 昭和24年1月7日、2代目藤本清兵衛は波乱の生涯を閉じた。新聞にその死亡記事は出なかった。1月16日、40年来の交遊である小林一三が堺市浜寺の藤本家を弔問に訪れた。その日の日記に書いた。
  「藤本君ぐらい相場好きで、一生を通じて投機に恵まれなかったのは気の毒なくらい悲境であった。ただ、人柄がいかにも善良で、何人からも憎まれない性質が長い悲境を一貫して同情者によって庇護されてきたように思う。御霊前を去るのがいと惜しまれたのも近来にない感想であった」
  小林の生涯の事業であった京阪神急行電鉄(現阪急電鉄)の発起人の1人が藤本であり、設立当初は取締役をつとめていた。
  2代目藤本清兵衛は投機の盛んな紀州の出身である。米穀商のかたわら紡績業を営んでいた25歳の時、合資会社藤本銀行を設立する。この時、義兄に当たる八木与三郎(後に八木商店社長)にも銀行入りを勧めるが、断られた。八木は藤本の性急とも思える拡大路線に不安を抱いていたという。「堂島、北浜の相場師の内幕や惨たんたるその末路を余りに知り抜いているので、どうも投機的なことは嫌だ」と、藤本とは距離を置くようになる。
  藤本銀行の顧客は北浜や堂島の相場関係者が多かったが、無名の石炭商・福松商会に融資し、後年「電力の鬼」と称される松永安左ヱ門を感激させた。福松商会は大物相場師福沢桃介とその弟子松永の2人の名前からつけられた。松永は後に東邦電力を主宰するが、藤本ビルブローカー銀行をメーンバンクにしたのは、この時の感謝の思いからだという。
  藤本が藤本銀行の一室で藤本ビルブローカーを旗揚げするのは明治35年5月1日のことだ。
  「手形仲買にとどまらず、金融機関と事業会社等の間に介在して資金の仲介を行う本格的ビルブローカー業を藤本ビルブローカーの名のもと、清兵衛自身の無限責任による個人事業として開始した」(「大和証券百年史」)
  5月4日、藤本は大園遊会を開いた。鶴原定吉大阪市長をはじめ京阪神の名士300名が招かれた。藤本はユーモアたっぷりにこうあいさつした。
  「ビルブローカーは現今、ロンドンにおいて盛んに流行せる演芸なり。今回未熟なる藤本一座が菲才短識を顧みず、これを演出し、諸君に喝采を博せんこと、固より思い及ばざるところして、ロンドンのビルブローカーの模型を描出し、諸君の瞥見(べっけん)を得ば幸いはなはだし」(「藤本ビルブローカー証券三十年史」)
  藤本は開業翌年には神戸、京都、名古屋、東京とたて続けに支店網を広げた。日露戦争の戦費調達のため大量発行された国債を底値で買い集め、巨利を博した。それいけ、どんどんの積極策が奏功、同40年には銀行業務も始め、藤本ビルブローカー銀行と改称する。
  このころ藤本は「大阪の3名士」と称された。
  が、いいことばかりは続かない。大口融資先の大日本製糖(日糖)の倒産に連鎖して破綻。これより先、日露戦争景気の反動で指標銘柄の東株が780円から120円に暴落するなど諸株一斉安で痛打を浴びていたうえのダブルパンチで、実弟の柳広蔵に会長の座を譲った。だが、このまま消えてしまう男ではない。
  明治から大正に代わるころ、土地に着目、浪速土地を設立したのを皮切りに次々と土地会社を興し、「土地会社の開山」と呼ばれる。北浜の語り部で相場師の松永定一は、「とにかく当時、土地会社の創立には藤本さんの名がなければ株が売れんくらい有名だった」と語っており、「藤本土地王」との尊株もあったという。
  大正バブル景気とともに土地王は炭坑にも手を広げるが、大正9年バブル崩壊で、失墜し、昭和4年には財界の表舞台を去る。北浜の相場師、薮田忠次郎の事務所によく出入りし、得意の株取引はそれなりにやっていたくらい。洋服の上にトンビという異様ないでたちで薮忠と呵々(かか)大笑いしていた姿が目撃されている。おそらく株の行方を語り合っていたに違いない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・(日糖事件で破綻した時)どこまでも男らしく、自家の全財産を債主に差し出した(戸山銃声)
・山が崩れてもビクともせぬ男のひとり。暴勇猪突に過ぎた(松永定一)
・大阪財界に躍り出したころは才気と機略、手腕と度胸は大向うをうならせた(岡村蒼天)
(ふじもと せいべえ 1870-1949)
  明治3年10月15日和歌山県日方(現海南市)で米穀商柳仁兵衛の長男為之助として生まれた。同20年大阪に出て藤本商店に入り、藤本家の養嗣子となり、2代目藤本清兵衛を名乗る。同28年藤本銀行を設立、同35年藤本ビルブローカーを開業、同42年大日本製糖の経営難に連鎖して破綻、会長を辞任、同45年浪速土地を創業、大正6年紀陽銀行頭取に就任、同9年藤本ビルブローカーの大株主に復帰、このころ鉱山業にも関与、昭和24年1月7日他界。
(写真は宮本又次著「大阪商人太平記」より)

相場師列伝

兜町連を怖気さす「石油王」中野忠太郎氏(09/5/11)
買い一貫、損すれば現引き

 昭和10年度の長者番付(所得税納付額)をみると、中野忠太郎の財力のすごさが一目で分かる。三菱の総帥岩崎久弥を筆頭に、岩崎小弥太、住友吉左衛門、三井高公、服部玄三、大倉喜八郎、岩崎彦弥太、竹尾年助、そして第9位に中野、続いて野村証券の野村徳七が顔を出す。中野の収入は親譲りの石油業での収入が大半を占めるが、相場師として兜町から吸い上げた金も巨額にのぼった。
  中野が「株界に躍る3人男」とし、マスコミをにぎわすのは昭和7年のことだ。当時の有力経済誌「実業之日本」によると、「最近中野の活躍は大したもの。巨大な財力を擁して出陣するところ、疾風迅雷向かうところ敵なしさ。過去1、2年間に彼は億に近い金を兜町でもうけたという噂さえある。白銅将軍のニックネームもあるほどで、利が乗れば5銭でも10銭でも利食いするという手堅い手法を用い、市場もまさに彼の動向に左右される」と。
  思惑が外れると、2万株でも3万株でも引き取って、じっと時を持つという作戦に出る。
  中野が初めて兜町にやってきた時、兜町の地場連は、「それ、カモがネギを背負ってきた」とばかりに向かっていった。中野が買うと地場連がどっと売る。地場の連合軍の前にはたいがいの相場師は降参してしまうが、中野は平気である。売ってくれば、いくらでも買う。ナンピン買い下がりでどこまでも踏んばる。「中野は相場がうまいわけじゃない。金力で相場を操るのがうまいだけの相場師」――地場連はこういって悔しがるしかなかった。
  中野の金力とは、忠太郎が先代貫一を助けて油田開発に取り組み「石油王」と呼ばれる巨万の富を築いていたことを指す。中野家は新潟県中蒲原郡金津村で300年来の旧家で邸内には石油がにじみ出ていた。それを明治7年から掘り出し、小さな精油所を作り、販売していたが、大したもうけはなかった。ところが同19年、忠太郎の夢見が当たって、大量出油に成功した途端、坑法違反で県庁から操業中止を命じられた。
  「中野は権利のない鉱区を掘っている」という理由で停止命令を受けたが、納得できない中野親子は県庁や政府の鉱山局に陳情する。ラチが明かないとみると、裁判に訴える。「陳情8年、訴訟8年」、役所相手に16年間の闘争の末、先祖伝来の家産を失ったが、勝訴する。
  実は中野家の成功をねたんで県庁や中央政府に策動したある利権屋の陰謀によるものだった。3万5000円の賠償金を手にすると、この金をもとに再び庭先を掘り始めた。米国輸入の新鋭鑿井(さくせい)機で堀り進めると、100メートルほどで大噴油を見た。明治36年のことだ。
  勢いに乗った貫一と忠太郎は新津や秋田も掘り、石油成り金と称される。貫一はもうけた金で不動産を買い、株をやった。だが、相場は下手でたいがい損をしていた。昭和3年に貫一が他界すると、忠太郎が後を継ぎ、石油業のかたわら、相場師として兜町を席巻した。当時の兜町事情に精しい石山賢吉が証言している。
  「中野二世は地場連が売り向かってきても一向に驚かない。売れば売るほど買う。こうされると、地場連が参ってしまう。彼らはカラ売りだから踏まねばならない。そうすると相場が上がる。それを見て忠太郎はニヤリと笑い、買い玉を悠々と利食いする。それで地場連はすっかりやられてしまった。こういうことが兜町で幾度も繰り返された。しまいには、中野の買いとなれば怖気づいてだれも売り向かうものがなくなった」
  そのころ、目黒に中華料理で評判の雅叙園ができると、新しいもの好きの兜町の連中が競い合って出掛けた。その資金源が中野忠太郎と聞いて、ぼやくことしきり。
  「建物はもちろんのこと、庭石、泉水、床の間の置き物から送り迎えの自動車まで、皆われわれの負けた金でできているのか。チクショウ。おれたちが雅叙園を献上したようなものじゃ」。
  新潟市の旧宅は「中野邸美術館」として公開され、2代にわたって収集した一流美術品を展示、もみじ園でも知られる。
信条
・彼は人に会うことがきらいだ。独断専行はもちろんだが、人の意見など耳にしようとしない。自己の信念に向かって邁進する。これも相場道からはいいことだ(実業之日本)
・豊富な余力で兜町の群小雑輩を締め上げたところは痛快じゃが、小さくもうけて大きく引っかかる危険性を過分に持っている。素人共通の癖として引かれ腰がバカに強いからじゃ(石山賢吉)
(なかの ちゅうたろう 1862-1939)
  文久2年、新潟県中蒲原郡金津村の旧家で、後に「石油王」と呼ばれる中野貫一の長男として生まれる。新潟師範学校を卒業したあと、教職にあったが、明治19年石油の掘削に成功する夢を見た。その時、教鞭を投げうって、父とともに掘削に専念、日産10石の出油をみた。昭和3年貫一の死で家督を継いだ忠太郎は豊富な資金力を背景に株界に進出、兜町の地場連が怖気づくほどの威力を発揮する。昭和10年度の所得納付額は21万2111円で全国第9位。
(写真は講談社編「全国金満家大番付」昭和6年1月刊より)

相場師列伝

手掛けたM&Aは20社超、高橋高見氏(09/5/18)

三協精機の買収は失敗
  「提携、合併で日本の縦構造を突破するミネベア・グループは、今日なおベンチャービジネスの寄り合いです。ベアリングを出発点に次々と新たな分野に事業を拡大しています」
  昭和61年、高橋高見はハーバード・ビジネス・スクールの講師に招かれ、こう語った。同34年、父精一郎が創設した日本ミネチュアベアリングに入社したとき会社は、従業員50名、年商4200万円の町工場だった。しかし30年後、3000人の従業員を抱え、1500億円の売上高を誇る大企業に成長していた。いくら日本経済が勢いよく右肩上がりの時期に当たったとはいえ、このような目を見張る変身は、本業のベアリング業だけで達成できるものではない。
  高橋は株式市場をフルに活用して株買い占め、企業買収を繰り返してきた。高橋の一代記ともいうべき「われ闘えり」は、雑誌「経済界」主幹の佐藤正忠との対話の形をとっている。
  「昭和50年代に入ると、高橋はモノに憑(つ)かれたかのように国内企業を次々と買収していく。東京螺子製作所、新中央工業、大阪車輪製造、加藤貿易、北斗音響、ハタ通信機製作所、かねもり、帝国ダイカスト工業、西日本工業といった具合である。その目的は、呉服商社のかねもりを除き、ベアリングの周辺分野への進出である。高橋はオイルショックの苦い経験を生かし、来たるべき淘汰の時代を意識し、ミネベアの構造改革に取り組んだのである」――。
  高橋が手掛けたM&A(合併・買収)は国内企業14社、海外企業11社(工場買収も含む)に達した。買収には至らなくても、株の買い占めで話題を呼んだ会社も多い。東京計器、コパル、蛇の目ミシン、三協精機などだ。
  M&Aだとか、TOB(株式の公開買い付け)という言葉がまだ一般的でなかったころに、いち早くM&Aに着目、「M&Aの元祖」とも呼ばれる。高橋はM&Aをリストラクチャリング(企業再構築)の一手段と考えていたフシがあり、「M&Aの目的はリストラなんです」と語っている。
  日本におけるM&Aの草分けである高橋が皮肉にも米英の企業から敵対的買収を仕掛けられたのは昭和60年のこと。米トラファルガー社、英グレン社がミネベア株の23%を握って買収に乗り出してきたのである。ちょうどそのころ、高橋は三協精機の株を買い占め、合併を申し込んだ直後だったため、マスコミの好餌となる。
  「これは株式の高値買い取りを迫るグリーンメールであり、TOBとは見ていませんでした」と高橋は語っている。この時、高橋は証券大手2社のトップと会談、買い戻しの事態を想定して協力を要請した。果たして彼等はグリーンメールの正体をみせた。1株750円で買い取りを迫ってきたのだ。
  これに対し、高橋は620円を主張した。高橋は交渉に先立ち、トラファルガー・グレン連合が資金不足であることと、買い付け原価をさぐり当てていたので620円を1円たりとも譲らなかった。2日後、高橋の言い値で一件落着となった。
  トラファルガー・グレン騒動が決着して2年後、昭和63年3月、ミネベアは三協精機株全株を売却したと発表した。こう着状態に陥っていた買収劇を動かしたのは、日本合同ファイナンスの後藤光男専務(後に社長)だった。後藤は「1100円なら売ってもいいが…」と高橋がつぶやいたのを聞き漏らさなかった。三協精機のメーンバンクである八十二銀行の小林春男頭取に話をつけ、高橋のもとに「1100円ならいいんだね」というダメ押しの電話が入る。
  買い付け原価からみると40億円の赤字になるが、高橋はその時の心境を語っている。「これだけ世間を騒がせた以上、株で儲けるわけにはいかない。やはり応分の損は出さなければというのが私の基本的な考え方でした」。
  佐藤正忠は高橋との対談のあと、「今日まで高橋氏はかなり体を酷使している。2、3年前にも大病している。このうえは体を大切にして長生きすることである」と気遣いをみせたが、その直後、高橋は他界する。60歳。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・男っぽくて、涙があって、決断力が速い。そして何よりチャーミングな人物(佐藤正忠)
・M&Aのいいところは嘘やごまかしを全部オープンにするところにある
・経営者の力量は不測の事態にどう対応するかで決まる
・社長の仕事で大切なことは大きな読みは絶対にはずさないこと
(たかはし たかみ 1928―1989)
昭和3年東京都出身、同20年府立九中(現都立北園高校)を卒業、慶応大学経済学部に入学、卒業の時は応援団長としての指導性が評価され総代に選ばれる。同26年卒業、鐘紡に入社、人事部に勤務、同34年父・精一郎の経営する日本ミネチュアベアリング(資本金1000万円、従業員50人)に取締役として入社、同年12月専務取締役、同41年社長、同62年会長、平成元年没。
(写真は日刊工業新聞編「経営のこころ」No.9より)

相場師列伝

採算上回る高値、売りの山口玄洞氏(09/5/25)

もうけを片っ端から寄進「寄付王」
  大正年間、相場師たちは競って、もうけを社会に還元した。岩本栄之助、野村徳七、田附政次郎らが相次いで大口寄付を申し出た。こうした中、山口玄洞は100万円で山口厚生病院(現大阪大学附属病院)を作ったのをはじめ、郷里の尾道市に上水道や実業補習学校を創設した。
  「山口玄洞は明治後期から大正にかけての大阪洋反物業界の巨頭であるが、彼の真価はむしろ大正から昭和にかけての“日本一の寄付王”であった点にある。彼は40年にわたって、育英、公益、慈善、そして仏教界に惜しみない寄付を続けた。総額はそのころの金で7、800万円に及ぶという」(原田伴彦著「近代数寄者太平記」)
  山口玄洞は、12歳の時父を亡くし、16歳で大阪の土居善洋反物店に住み込む。店では清助と呼ばれた。19歳の時、閉店となり、「山口清助商店」(山セ)を開業する。
  日清戦争のぼっ発で、毛布や服地が軍需品として買い上げられ、大きな利益をもたらした。そのもうけで川崎兵太郎が経営する日本カタン糸会社を買収、3年後にタバコ王・村井吉兵衛に転売したり、派手に動いた。土地を買ったり、株にも手を出した。日露戦争景気でも巨利を博した山口は貴族院議員に選ばれるが、商人が政治に関与するのは好ましくないと2年でやめた。
  山口が糸へん相場の激変に遭遇するのは欧州大戦の時だ。そのころの糸商は皆思惑売買をやり、先物取引を避けて通ることはできなかった。春ごろに12月物の取引をし、常に大きなリスクと向き合って商売した。山口は「採算点を大きく上回る高値は長続きしない」と考え、バブル景気による異常高値はどんどん売っていった。
  一方、買い方は、先行きに不安感を抱きながらも売り惜しみ、容易に手じまいしようとはしなかった。山口のカラ売りはどんどん膨らんでいった。そして、一時は1円20銭という高値を付けていたモスリンが60銭と半値に暴落、山口は大きなもうけを手にしたはずだが、「山口はこの暴落の時にも、わずかではあったが、利益を上げることができた。しかし、余りにも激しい転変や、弟の山嘉商店の倒産などは、仏心を抱いていた山口玄洞には大きな打撃であり、世の無常を感じ、ついに大正6年11月、引退を決心した」(宮本又次著「大阪商人太平記」)。
  大きくカラ売りしていて小さな利益にとどまった点は、解せないが、義侠心の強い山口のことだから、買い方の苦衷(くちゅう)を察して解け合い(解約)の申し入れには「ああ、いいよ、いいよ」と高値で解け合ったためではないだろうか。
  弟山口嘉蔵の倒産は玄洞にはショックだった。嘉蔵はこの時、強気の筆頭格で、三品市場では綿糸を買いまくり、「山嘉相場」と呼ばれる高値を現出していた。嘉蔵が青天井を夢見て買い進んだのは、兄玄洞の店で、中国市場に出していた綿布が驚くほどよく売れていたからである。嘉蔵は世界大戦が長引き、日本製品が綿業大国イギリスのシェアを食えると踏んだのが誤算となった。
  「嘉蔵は買いあおり、群衆が従った。嘉蔵の強引な買いによって時には目を見張る戻りをみせたが、結局はいけなかった。嘉蔵に従って思惑に走った小さな問屋は軒を並べて倒産した」(同)。
  弟が窮地に陥った時、玄洞が拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していたとは考えられない。思い切った支援をしただろうが、いったんヒビが入った相場を元の軌道に戻すことはできなかった。玄洞の損害も相当な額にのぼったに違いない。
  玄洞は繊維市場の凄惨な場面を目の当たりにして、有為転変の相場界から絶縁、冒頭に記した「寄付金王」への道をひた走る。紅葉の名所、京都神護寺の金堂をはじめ、玄洞が寄進したお寺の堂舎は100に近いという。
  地元の尾道では玄洞の功績に報いるため銅像建立を計画したが、「銅像はいったん緩急の時は人を殺す材料になる」と断った。先の大戦での銅像供出を見すかしていたかのようである。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・名利にかかわることはすべて断る
・寄進の条件は、寺の由緒が正しいこと、住職の人物がすぐれていること、景勝の地であること(「近代数寄者太平記」)
・信用を重んじ、小さな得意先も差別しない。現金取引をモットーとし、一生、手形を使わなかった
・妙好人(行状の立派な在家念仏者)的な行き方を貫いた
(やまぐち げんどう 1863―1937)
  文久3年広島尾道の医家に生まれ、12歳の時、父親の死にあい、16歳で大阪の洋反物店に住み込む。19歳で独立、現金取引をモットーとする。同37年貴族院議員となる。後に三十四銀行取締役、大阪織物同業組合の初代組合長、泉尾土地、尼崎紡績、モスリン紡織各社の経営に関与、大正6年事業から引退、昭和12年没。生前、公共事業や神社仏閣に莫大な寄進を行い、寄付金王と呼ばれる。(写真は原田伴彦著「近代数寄者太平記」より)

相場師列伝

大量の株押さえ、次々と再建に乗り込む 大山梅雄氏(09/6/1)
宮入バルブ、ツガミ、東洋電機…

 大山梅雄が東洋製鋼の定款を変更、事業目的に「有価証券の売買業務」を加えたのは昭和47年11月のことだ。当時、大山は「仕手」「買い占め王」「再建屋」「大山機関」などさまざまな異称でマスコミを賑わしていた。
  「大山の信条は『株式投資は資産運用の効率化のためには銀行預金より有利』、したがって『政策投資も純投資も行う』ということである。政策投資とはとりもなおさず、経営参加であり、純投資とは株式売買による利ザヤ稼ぎ、配当取りと受け取ってよかろう」(水野清文著「現代の相場師」)
  大山のいう「政策投資」を真っ先に実践したのは宮入バルブである。宮入バルブは当時、経営不振で苦しんでいた。宮入敏社長は日本トムソンを追われた「ベアリングの雄」、寺町博を専務に迎えて再建に奔走していたが、意のままにならなかった。そんな時、新日本証券社長の三ツ本常彦が間に入って、大山と宮入が会談、大山は200万株の第三者割当増資を引き受けることになる。
  さらに寺町が持っていた100万株も引き取り、筆頭株主になった大山は信条とする「出ずるを制す」を実行すると、わずか1年で黒字を計上、復配をやってのける。宮入バルブ株は昭和48年につけた安値81円から、翌49年3月には6倍強の505円に暴騰する。再建屋の面目躍如である。
  「大山機関」の実態は複雑だ。根幹にあるのが東洋製鋼であり、他に横浜商事(電機販売)、富国地所(宅地造成)、日新工業(鋳物)など大山が代表をつとめる別動隊がある。さらに大山の取引先である横浜、川崎地区の中小企業のオーナー11人が「大山グループ」を形成し、大山の号令一つで動く金は当時の価値で200億円と評された。
  宮入バルブで奇跡的なスピード再建を実現した大山は、続いて東洋電機製造の株集めに乗り出す。東洋電機といえば、その昔、「カラーテレビ事件」で話題を呼んだ会社だが、長期無配が続いていた。48年2月下旬に140円だった株価が4月に入って270円台にハネ上がった。「大山機関の出動」のうわさでチョウチンがついて、カラーテレビ事件当時の高値(昭和38年の238円)を抜いて新高値をつけた。
  同4月13日、大山は記者会見で東洋電機株を約1000万株買い集めたことを明らかにした。「東洋電機は優秀な技術を持っている。優秀な人材がいるにもかかわらず、無配が続いている。それは、経営者が無能だからだ。経営者を変える必要がある」。株集めの狙いをこう説明した。
  大山が取得した株の名義変更の準備に入った時、東洋製鋼の取引先である三井物産、三井銀行首脳から「上場会社が敵対的買収を仕掛けるのは好ましくない…」と、横ヤリが入り、未遂に終わる。
  津上(現ツガミ)再建にも取り組んだ。組合問題などがこじれ、途中で身を引こうとすると、工場所在地の市長や下請け業者から工場従業員らの直訴を受け、社長を引き受け再建を果たした。大山が再建を手掛けた会社は最初の日出製鋼(後の東洋製鋼)から池貝鉄工まで17社に及んだ。
  日出製鋼は“ひでえ製鋼”とまでいわれるほどのボロ会社だったが、大山流のドラスチックな改革で再建に成功する。そのあたりを長男大山龍一が書いている。
  「父はまず、日出製鋼の株を60%取得することから始めた。その金は自分の家を売って充てた。株を持てば、会社が再建できなかったり、経営が思わしくなければ自分も大損をすることになる。必死にならざるを得ない。『みずから進んで背水の陣を敷く』という信念に基づいた『まず再建会社の株を取得する』方式は、その後の長い再建請負人の人生街道でも忠実に実行されていく」(「わが父、大山梅雄」)
  平成2年他界したあとは長男龍一が東洋製鋼の後を継ぐが、長引く建設不況下、同12年民事再生法を申請、事実上倒産する。これには泉下の再建王・大山梅雄も切歯扼腕(せっしやくわん)したことだろう。「逆境を最大の教師にして危機を乗り越えよ」と危機管理の要諦(ようてい)を教えた大山語録の数々は龍一の身にも染み込んでいたはずだったが…。
  今は大山健康財団にその名を残す。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条 
・五感六力。使命感、正義感、責任感、危機感、満足感。知力、判断力、説得力、行動力、包容力、忍耐力
・まず再建会社の株を取得、みずから背水の陣を敷く
・石橋の上に鉄橋を架けて渡る
・私は再建に乗り込むとき、1人で乗り込み、○年以内に復配してみせると宣言する。有言実行で自分自身をしばるためだ
(おおやま うめお 1910―1990)
  明治43年1月5日生まれ、昭和11年個人経営のバルブ屋、大山製作所設立、同15年大山バルブ工業に改組、社長就任、同31年東洋製鋼社長、同48年宮入バルブの筆頭株主となり、社長に就任、わずか1年で復配。同49年大山健康財団を設立、同50年ツガミ社長、同59年池貝鉄工社長就任、平成2年死去。
(写真は愛用のクルーザー「大雄」号で、大山龍一著「わが父、大山梅雄」より)

相場師列伝

東株買い占め三井追い出す、岩崎弥太郎氏(09/6/8)
再三株買い占めに成功

 三菱財閥の始祖岩崎弥太郎が東京株式取引所株を買い占め、三井グループで占められていた役員陣を追い出してしまうのは明治13年のことだ。当時、頭取は渋沢栄一の従兄、渋沢喜作で、胆煎(きもいり、理事)に三井物産社長の益田孝、福地源一郎などが座り、言ってみれば渋沢栄一の息のかかった面々が取引所運営に携わっていた。そんな三井色の濃い東株を乗っ取り、頭取には傀儡(かいらい)の井関盛艮を据え、配当は12年下期に15%だったものを13年下期には一挙に45%に引き上げる強引さ。株価は130円台から320円台にハネ上がる。一体岩崎はなにが目的で乗っ取ったのか。
  岩崎が東株を買い占め、乗っ取ったのは、東京風帆船会社設立に対する意趣返しのように思われる。西南戦争で巨利を占めた岩崎の海上運輸独占にブレーキを掛けるため、三井の最高顧問格である渋沢栄一と益田孝は手を結び、東京風帆船会社を設立、地方都市の豪商も引き入れて一大海運会社にしようという作戦である。これは、渋沢栄一の証言だ。
  「三菱が海運業を独占してからは、商売敵を倒すに手段を選ばず、その横暴ぶりを見かねて、渋沢や益田もとうとう弥太郎君の金城鉄壁に鏑矢(かぶらや)を打ちこむこととなったから面白い。渋沢は当時年少気鋭、生意気盛りの頃には横浜を焼き払って毛唐を追っ払う計画さえ立てた男だ。渋沢は益田を引っ張り出し、さらに伊勢の諸戸清六、越後の鍵富三作、越中の藤井熊三など地方の富豪をわが党に入れて…」(「青淵回顧録」)
  渋沢、益田の東京風帆船創立に危機感を抱いた岩崎は、側近の川田小一郎らを地方に派遣、豪商たちを懐柔、三菱側に寝返りを打たせたり、手練手管の乱戦となる。「渋沢が相場で損を出して、その穴埋めのため会社をこしらえ、金集めを始めた」とか、「渋沢は自殺を図ったが、一命は取り止めた」などといった怪情報を流したり…。
  そんな中で岩崎は三井の牙城東株を乗っ取ると同時に渋沢のドル箱と称されたお米の取引所、東京米商会所(東米)の乗っ取りを画策した。渋沢の本陣である第一銀行の大口預金者が東米であることを突き止めると、岩崎は側近の朝吹英二を使って株を買い集め、総会前日までに過半数にあと1株のところまでこぎつけてくる。
  根岸の未亡人が1株持っていることが分かると、朝吹を深夜に訪ねさせて買い取る。総会当日、何も知らない福地源一郎が議長席につき、議事を進める中、一代の見せ場がくる。渋沢は1票に泣き、岩崎は笑った。朝吹英二伝には「大岩崎はうっ憤を晴らした思いで英二君の功績をほめそやした」とある。
  岩崎と渋沢・三井との戦いが最も深刻かつ長期戦に及ぶのは郵便汽船三菱会社と共同運輸会社との戦いである。東京風帆船の挑戦に失敗した渋沢は政府を巻き込んで巨大海運会社、共同運輸を設立する。資本金600万円でうち政府が260万円、三井をはじめ民間から340円の出資を募った。株のはめ込みのためには農商務大輔(たいふ、次官)の品川弥二郎が率先して、全国を飛び回り、半官半民の国策会社としてスタートする。両社の競争は日を追って激しさを増し、今や伝説になっているが、神戸―横浜間の運賃が下等船客5円50銭であったのが、1円50銭になり、1円になり、とうとう55銭まで下がった。
  「競争を続けること2年、両社にようやく疲労の色が濃くなってきた。特に共同運輸では寄り合い所帯の通弊たる内訌(ないこう)の兆しが見え始め、株も低落するにつれ市場に流れ、これを知った弥太郎は風帆船会社の時の例にならい、ひそかに株の買い占めを計画し、明治17年末までにはその過半数を制するに至った」(入交好脩著「岩崎弥太郎」)
  設立当初はプレミアムが付いていた共同運輸の株価も額面を割り込んできた。やがて両社は合併の流れになっていく。共同運輸600万円、郵便汽船三菱会社500万円、資本金1100万円の巨大会社、日本郵船の誕生である。表向き三菱の出資比率は過半数に届かないが、共同運輸の株主の過半数が実質三菱側に回っていたので、岩崎が待ち望んでいた両社の合併は圧倒的多数で可決される。
  が、この時、弥太郎はすでに世を去り、弟弥之助が第2代社長を名乗っている。合併とは表面上のことで、実質は三菱による吸収であった。社長も初代こそ共同側の森岡昌純であったが、2代目吉川泰二郎、3代目近藤廉平と岩崎の子飼いたちが占め、三菱閥の中核企業の色を濃くしていく。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・小事にあくせくするものは大事成らず
・よく人格、技能を鑑別し、適材を適所に用いよ
・創業は大胆に、守成には小心なれ(「岩崎家の家憲」)
・会社ノ利益ハ全ク社長ノ一身ニ帰シ、会社ノ損失ハ社長ノ一身ニ帰スベシ(郵船汽船三菱会社の社則)
・江戸表ニ上リ、死力尽シ一旗上ゲ、コノ恥辱ハ目前ニ雪(スス)ギ申スベシ(獄中書簡)
(いわさき やたろう 1834-1885)
  天保5年土佐国井ノ口(現高知県安芸市井ノ口)に生まれ、安政5年吉田東洋の門下生となる。慶應3年長崎土佐商会主任、明治2年大阪土佐商会主任、同3年土佐開成社を創設、九十九商会、三川商会と改称を重ね、同6年三菱商会と改称、同10年西南戦争で巨利を占め、同14年高島炭坑を買収、同15年半官半民の共同運輸が出現、激しい運賃競争のさなか、同18年他界、後を継いだ弟弥之助のもとで合併、日本郵船が誕生。
(写真は入交好脩著「岩崎弥太郎」より)

相場師列伝

大阪の商いトップ常連、岩本房吉氏(09/6/15)
買い屋の番頭と唇歯輔車

 「取引所は財界の心臓であり、景気、不景気に最も敏感な触角である。大阪北浜の株式街は得意と失意の極端な人生の縮図であり、男商売乗るか反るかの度胸の見せどころ。因襲と意気と度胸の北浜にも滔々たる時代の流れが侵入する。科学的商法と堅実の基礎の上に立ってこそ、将来の発展が約束される」(登尾源一著「財界の前線に踊る人々」)
  昭和10年ころの北浜で毎年のように大阪株式取引所の売買高ランキング1位を占めたのは岩本房吉商店であった。その昔、大阪市に中央公会堂の建設資金にポンと100万円を投じ、つち音高く工事が進んでいた時、相場に失敗してピストル自殺した岩本栄之助の従弟に当たるのが岩本房吉。初代岩本栄蔵、2代目栄之助の2代に仕えた後、独立して岩本房吉商店を開業する。「君の名声天下に鳴るの盛時なく、存在を危ぶまれる悲境にも立たなかった」との評もあり、栄之助のような派手さはないが、機を見れば大胆に勝負を挑んだ。
  「岩房商店の今日の繁栄は堅実なる基礎の上に立つこともちろんだが、房吉氏の豪快奔放の商法と機を見るに敏なる天才的才能によるものである。しかし、事業というものは、一個の天才や俊秀の英雄的活躍のみでは真の大成を期することはできない。そこには必ずよき女房役、信頼すべき協同者がなければならない」(同)
  岩本房吉の場合、浜名治男という名支配人を得て、業績を急上昇させることができた。浜名は一見、容貌魁偉(かいい)だが、頑丈な体力と気力にものを言わせて、営業活動に当たった。大会社や大銀行、大資産家の間を奔走し、北浜市場のベテランたちが驚くような大口注文をどんどん取ってくる、天才的なセールスマンである。その秘訣は歯切れのいい相場観と顧客への対応ぶりにあった。基本的には買い屋であった。たとえばこんな調子。
  「そうですね。私はあくまで悪目買い方針でいきたいと思います。欧州の戦乱が免れないとすれば、それこそ意想外の大相場をみせることになりましょう。戦争がないとなれば、少なからず売られるところもありましょうが、そこは唯一の買い場ですよ」
  岩本と浜名の間は「唇歯輔車」の関係にたとえられる。2人が密接に助け合い、歯と唇、車と添え木の関係を保ちながら岩房商店の繁栄をもたらしていった。岩本が浜名を信じることは、ほとんど自らを信じるようだ、といわれるくらい全幅の信頼を与え、店内の統一と結束にかけては北浜随一と評される。
  かつて岩栄商店の支配人時代にオーナーの栄之助は房吉に一切を任せる度量の宏大さであったが、いまや房吉が当時の栄之助を彷彿させる懐の深さをみせている。
  房吉は「誠実」を店是とし、顧客本位の経営方針を貫いた。全国に2万5000人近い顧客を誇っているのは、営業広告に重点を置き全国にその名が浸透しているからだ。一切の誇大広告を排し、内容を引き締めて、顧客本位に徹した。人はそれを「小心翼々」と呼んだが、信仰心厚い房吉はそんな世評を甘受した。フットワーク抜群の浜名支配人の対面営業で大口客をつかみ、広告政策によって全国の一般投資家の心をつかまえて、岩房商店の倉庫は取引所から売買高上位会社に贈られる三つ重ねの金盃が山を成すありさまだった。
  70歳でなお前線に立つ房吉の唯一の気掛かりは後継問題であったろう。房吉には男児がなく、女婿七郎に後事を託すつもりだった。浜名支配人との呼吸が合えば、株式取引員の平均寿命4年足らずという有為転変の激しい北浜投機街にあって、岩本の名をさらに高めることができただろうが……。
=敬称略(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・店是は誠実、神前に祈る気持ちで顧客に接する
・広告政策を重視、北浜の岩房商店から天下の岩房商店を目標とする
・店内の統一と結束は店の運命を決定する重要な鍵、店員の趣味、健康に対しては絶えず、理解ある寛容な態度で臨む
・人の長所、短所を明敏に観察し、適材適所主義を実行
(いわもと ふさきち 生没年不詳)
  和歌山県出身、大阪市に中央公会堂を寄贈した大相場師岩本栄之助の経営する岩栄商店の支配人を務めたあと、大正2年独立して大阪株式取引所(大株)の仲買人、岩本房吉商店を開業、ドラッグ王有田音松のもとで大番頭の浜名治男を支配人に譲り受け、全権を任せる一方、広告政策を重視、大株の売買ランキングの上位を占める常連となる。
(写真は登尾源一著「財界の前線に踊る人々」より)

相場師列伝

2度の「東京落ち」、永田達之助氏(09/6/22)

浮沈繰り返す北浜の世話人
  北浜市場が全盛期のころ、福徳円満を絵にかいたようなニコニコ顔で歩き回っている男がいた。黄金降る北浜村の世話人としてあちこちから持ち掛けられる相談事に手のすく暇もない。それが永田達之助である。
  「彼は苦労人だ。青年時代からの半生を七転び八起きでやり上げて、酸いも甘いもすべてを経験している。気持ちのさっぱりとした、至極分かりのいいオッサンで、性格がまことに円転滑脱な、世話好きときている。だが、甘く見てはいけない。ここという時には、まことに腰骨の強い人なんだ。されば人は、二代目の幡随院長兵衛などともいう」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  永田のかもし出す雰囲気がどことなく奥ゆかしいのは由緒ある家系のせいなのかも知れない。祖父の久兵衛は大阪西区本田で左海屋という両替商を手広くやっていた。名門鴻池家の一門で雑喉場方面の大手魚問屋に出資し、うしろだてと仰がれていた。ところが明治18年の金融恐慌に巻き込まれ、行き詰まる。この時の整理人永田安兵衛の養子となる。
  達之助が北浜の老舗木村幸七の店で相場と出合うのは明治29年のことだ。店主の友人には水谷鶴松、帯谷伝三郎といった剛の者がいたし、店の兄貴株には福政将軍こと福田政之助という腕利きの相場師がいた。永田は後年、述懐している。
  「明治31年松方内閣が金貨本位の財政策を立てた時には、東株買いで1万5000円の儲けをやらかした。丁稚仲間としては一躍の成り金であり、福政君等と共に麒麟児とはやされたものですよ」
  華々しいデビューを飾ったものの、ビギナーズ・ラックだったのか、21歳の時には数千円の借金を抱えた。木村幸七の店がサヤ取り一本の手堅い商いに徹していたことにあきたらず、ハイリスク・ハイリターンを求め、福政ともども東京に転進する。当時、北浜や堂島には「東京落ち」という言葉があった。大阪で失敗すると、東京で再起を図る人々のことだが、永田も北浜の敵を兜町で取る算段である。
  ところが、郵船株の直取引で返り討ちにあって素っ裸にされてしまう。知り合いの洋服屋を訪ね、職人として小遣い稼ぎを思い立ったが、居合わせた海軍士官から義和団事変ぼっ発近しと知らされる。永田は北浜の仲間に「外交情勢悪し、強気するな」と電報を打つと同時に、下宿屋で暇を持てあましていた福政や中村秀五郎にこの早耳情報を教える。そして旧知の加賀豊三郎商店に走り、急いで株をカラ売りする。証拠金は加賀に立て替えてもらったらしい。3万円近い大金を手にするが、売ったり、買ったりしているうち、雲散霧消する。永田の相場人生は浮沈の連続だが、至って楽天的である。
  この時も盟友福政とやはり「東京落ち」の西川信三郎と3人が所有財産一切合切を持ち寄って質屋に持っていくと締めて2円70銭なり。この金を元手に神田の学生街で屋台の夜なきうどん屋を開業する。ところが、ばったり出会った堂島の長老田中丑松から「株屋は株で稼げ」と説教され、兜町に戻る。当時の鎧橋周辺には「東京落ち」が40人もいたが、彼らを束ねて「浪速会」を結成する。
  ほどなく、京都に転じる。知人の島本徳三郎が京都株式取引所の仲買人になったため、支配人として手伝う。明治33年の財界恐慌時に高野鉄道のカラ売りでもうける。
  高野鉄道がタダの60銭に落ち込むや、永田は田中源太郎理事長に直談判する。「買い方に対し2円の証拠金は不当ではないか。売買双方1円ずつの証拠金とし、売り方に2円増証とすべきだ」。
  この永田提案が受け入れられると高野鉄道株は7円80銭に暴騰、島本からは功労金1万5000円をもらった。今の価格に直すとざっと1億円か。
  大正時代に入り、「太閤さん」こと松井伊助と共同して10万円をもうけ、欧州大戦では100万円を超す利益をつかむが、同9年のパニックで吐き出す。その後も石井定七や静藤治郎など名うての相場師と丁々発止、浮沈を繰り返す。生涯2度「東京落ち」をやったともいわれるが、大正末年には北浜の世話役として重きを成していた。最期ははっきりしない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・博覧強記、話の種が多く、市場の裏表に通じる生き字引として北浜中で引っ張りだこ
・筋道の立った議論の確かな人
・侠骨発するところ、時に水火も辞せぬ慨がある
・常に中和を忘れぬ人(岡村周量)
(ながた たつのすけ 生没年不詳)
  大阪府出身、両替商の家に生まれ、明治18年永田安兵衛の養子となる。北浜の株仲買木村幸七の店で家庭教師をやりながら、同29年、大阪商業学校(大阪市立大の前身)を卒業、同店に勤務、新進相場師福田政之助の知遇を得る。福政とともに兜町に転じ、義和団事変ぼっ発の早耳情報で大もうけ、同33年財界恐慌時に高野鉄道の売りでまたもうけ、大正7年大株の仲買人となるが、同9年のバブル崩壊で大損、その後も浮沈を繰り返す。
(写真は明治32年ころの大阪株式取引所、松永定一著「新・北浜盛衰記」より)

相場師列伝

調子いいとき掃くほどもうかる、安藤竹次郎氏(09/6/29)
夫人の嫁入り衣装まで売り払い、開業資金

 安藤竹次郎は名古屋株式取引所の仲買人免許を取るとたちまち同取引所の売買高ランキングの首位に躍り出た。
  「安藤商店では金杯受章が度重なったので、その自祝の宴を張ることになった。場所は料亭河文の大広間、客座の背後には菊花壇をつくり、その上に『カネ本』ののれんを掛けつらね、中央に金杯を飾って名株取引所の仲買人全員を招待した。開業以来わずか数年目である。『やっぱり仲買人になってよかった』と彼はほっと胸をなで下ろしたであろうし、同業者は意外に早い金杯祝いに羨望(せんぼう)の的となった」(岡戸武平著「伊勢町物語」)
  早く両親を亡くした安藤竹次郎は薬種商を営む叔父に引き取られ、商売を手伝っていた。小学校時代、受け持ちの先生から算数は天才的と折り紙を付けられるが、薬種商で一生を過ごすつもりはなかった。ある時株式相場を初体験する。親の遺産としてもらった第百十九国立銀行株が7枚あり、50円払い込みの株が75円に値上がりした。
  「相場というものはおもしろいもんだ。いずれまた値下がりすることもあろうが、今売れば1枚で25円もうかる。これが100枚、1000枚あったらたちまち百万長者だ」
  銀行預金の利子にあきたらない竹次郎少年は、まず手堅く公債の売買を始め、やがて株に乗り出していった。朝起きると、まっ先に新聞の相場欄に目がいくようになる。同じ銘柄が東京と大阪で相場が異なるのはなぜか、疑問を抱いたのが、後年「サヤ取り」で「名古屋に安藤あり」と言われる端緒となる。薬種業のかたわら副業に株式店を始めたいと思い、叔父に相談すると、竹次郎の商才に信頼をおく叔父からすぐOKが出て、薬種商亀屋の玄関にささやかな株式店の看板を出した。
  やがて、名古屋に出て名株の仲買人の免許を取り、宿題を果たす。けい夫人の嫁入り衣装まで売り払って開業資金をひねり出した。33歳のことだ。初商いの日、安藤は「大もうけは大損の元、冒険さえしなければ株屋は損するものではない。あくまで堅実一方でいく」とサヤ取り主義を宣言した。だが、商売が軌道に乗ってくると、サヤ取りにはあき足らなくなって、現物部と定期部(先物)に分離、これぞと思う株の思惑売買にも手を染めていった。定期部の采配をふるうのは大番頭の宮川儀三郎である。
  「宮川は天才的な相場師的頭脳の持ち主で、定期部を任されると、縦横にその鋭才を働かせて活躍し、安藤商店は日を経るに従って伊勢町の花形となった」(同)
  伊勢町は兜町や北浜に次ぐ株の町である。安藤は瞬時の判断を要するサヤ取りで稼ぎまくり、定期部で思惑を張って急膨張すると、銀行も設立する。大垣にあった第六十五銀行を買収し、三井銀行の万代順四郎の推薦で大番頭を迎え一切の業務を任せた。「伊勢町は極楽と地獄が背中合わせしている」と言われるが、安藤の足跡には浮沈の落差は小さい。
  「私ども決して成功したものとは思っておりませんが、私は常に商売を控え目にやっている。世の中では八分目がいいというが、私は六分目でいくのが適当と考えております。その結果、一攫千金の大成功もないが、血を吐くほどの苦しい失敗もありません」。
  大正12年、関東大震災で株価が暴落した時には底値で買いまくって当時の金で100万円の巨利を博し、米国車ビュイックを買って市内の目抜き通りをところ狭しと乗り回したという。
  大正14年、安藤銀行を野村徳七に売却、証券業に専念する。瞬時のうちに安い市場を買い、高い市場を売ったり、少しでも利ザヤのあるところで間髪を入れず売買をしなければならない。サヤ取りは安藤みずから采配を振るう。若い社員たちがソロバンに頼るのに対し、安藤は暗算で一分の狂いもなかったという。
  創業から100年経った安藤証券は伝統のサヤ取りで屈指の成績を残している。竹次郎の曾孫にあたる安藤暢章常務は「いまシンガポールと東京間のサヤ取りでは負けません」と伝統の重みを強調する一方、投資がアフリカの幼い生命を救う「ワクチン債」の営業を熱っぽく語り、革新の旗も掲げる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・算数的頭脳は天才的
・大もうけは大損の元、堅実一方でいく
・東西の利ザヤを稼ぐことを主眼に置く
・腹八分でも危険、腹六分でいく
・金というものは、調子のいい時はほうきで掃くほどもうかるものだ
(「伊勢町物語」より)
(あんどう たけじろう 1875-1941)
  明治8年岐阜県大垣市出身、同41年名古屋株式取引所の仲買人となり安藤商店を開業。同43年以降数回にわたり同取引所の売買高首位となる。大正7年、第六十五銀行を買収し安藤銀行を設立。同14年野村銀行の頭取、野村徳七に売却。昭和10年還暦を機に女婿安藤俊三に家督を譲り引退。同時に名古屋株式取引所商議員を辞任、同16年4月11日熱海で急逝。
(写真は「安藤証券100周年記念誌」より)

相場師列伝

「重役屋」とも呼ばれる、田中市兵衛氏(09/7/6)
倹約を旨、旅行でも中等以上乗らず

 明治期の大阪財界の巨頭、田中市兵衛は大阪商人の常として投機と深くかかわった。住友の大番頭、広瀬宰平と組んで設立した大阪商船株の買い占め事件と大阪株式取引所の売り崩しは今も語り継がれている。
  「彼の財界生活中の波乱は大阪商船株の買い占め事件であろう。日清戦役の当初、株価が低落して市場皆売るの時に乗じ、彼は進んで大阪商船株の買い占めを策し、ついに2万5000株を一手に集めたのち、日本軍連戦連勝して株式活況をもたらし巨利を占めた。また大株の買い占め連合軍に対抗して売り崩しを図り、連戦屈せず、期日迫りて受け渡しすべき株式なきの時、藤田伝三郎に走って、その所有株を借り、買い方に渡し、売り崩しの目的を達成するなど意志頑強、百難至るも屈する色がなかった」(「財界物故傑物伝」)
  同時代評には「彼が投機市場に臨むや意気天を衝(つ)く、常に背水の陣を敷きて決戦する趣あり」とある。商船株の買い占めで巨利を博したとはいえ、それは帳簿上の利益であって、社長である田中の懐を肥やしたわけではなかった。それどころか、日清戦争バブルの崩壊で巨損をこうむる。「市兵衛の損失は数十万円に上り、彼の勢力の根拠地たる大阪商船はもちろん、わずらいは第2の根拠地たる第四十二国立銀行に及び、彼の資金は烏有(うゆう)に帰するに至り、彼をして遂に敗軍の将たらしめ、その盛名はまた旧日の如くならず…」(実業之日本社編「当代の実業家 人物の解剖」)。
  この時田中は急きょ上京して旧知の松方正義や岩崎弥之助にすがり、「田中新田」と称する土地を担保に100万円を調達し、辛うじて破綻を免れたが、大阪商船社長のポストは逓信省鉄道局長だった女婿の中橋徳五郎に譲る。中橋が商才を発揮、にわかに社業が好転、株価は反騰に転じる。また岩崎家の抵当に入っていた土地も大阪築港計画の進展で地価が急上昇に向かうなど深傷は癒やされていく。
  田中市兵衛は大阪の豪商先代田中市兵衛の長男として生まれ、生来、太っ腹で家業の肥料問屋を守るという消極策には満足せず、積極策に出る。明治13年大阪江戸堀に第四十二国立銀行を創立して頭取に就任する。同17年には大阪商船を設立する。当時の海運界は三菱の岩崎弥太郎が突出していて、余りにも肥大化し専横が目に余った。このため渋沢栄一は三井の益田孝らと組んで、政府資金も引き出し、共同運輸を設立し、し烈な戦いが繰り広げられていた。そこに割って入っていったのが大阪商船だが、初めは鳴かず飛ばずだった。田中が社長になる明治28年ごろから目覚ましい活況を呈した。
  これより先、田中は日本綿花の創立に参画する。当時、綿花の輸入は外国商館の手に握られ、暴利を貪られていたため、なんとか直輸入をするべく、紡績会社、糸商に呼び掛けて日綿をつくるが、為替相場の変動で綿花相場が暴落し、出鼻をくじかれた。同28年田中が社長に就くと快調に滑り出す。
  このころ田中は「重役屋」と呼ばれるくらい数多くの会社にかかわっていた。東京では渋沢栄一がいく多の会社創立に引っ張り出され、その肩書きは数え切れないほどであったが、大阪では田中がその役目を負っていた。渋沢は直接投機に手出すことはなかったが、田中は率先して投機界に陣取った。
  明治34年に長男市太郎に日本綿花社長等のポストを譲ったのを機に表舞台を去り、趣味の世界に入った。囲碁、書、義太夫など多趣味だったが、大阪商人らしく、衣服や飲食、住居などは倹約を旨とし、旅行の際は中等以上には乗らなかった。旅館の茶代も節約し、世の重役屋のように、浮華の風はなく、万事質実を重んじた。
  同41年、長男市太郎が43歳の若さで客死したのは痛恨の極みであった。家督は16歳の孫市蔵が継いだ。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・不屈者必勝
・寡黙実行、気宇宏大、生まれながらの楽天的財力の雄
・意志が強固で辣腕無比、いったん決意したことは百難を排して敢行(「財界物故傑物伝」)
・曲がったことが嫌いで阪堺鉄道を作る時「線路は一直線にせよ」と主張した(「大阪商人太平記」)
(たなか いちべえ 1838―1910)
  天保9年大阪で肥料問屋を営む先代市兵衛の長男としても生まれる。明治13年大阪で第四十二国立銀行頭取、同16年住友の広瀬宰平と図って大阪商船を創立、同18年大阪商法会議所会頭、同25年日本綿花を設立、同28年社長、同29年松本重太郎と南海鉄道を設立、この間、衆議院議員に当選、同43年死去。家督は18歳の市太郎の長男市蔵が引き継いだ。
(写真は「財界物故傑物伝」より)

相場師列伝

株価は会社の軍旗、辰巳旭氏(09/7/13)
大和ハウス株で100億円もうけた

 辰巳旭は、昭和40年代の株式市場で旋風を巻き起こした“怪物”。昭和48年当時、辰巳は片倉工業の株を大量に買い集めた。筆頭株主の三井物産(770万株)に次いで500万株、全発行株数の14.3%を占めた。週刊誌の取材に答えてこう語っている。
  「経営者は株価にもっと関心を持たなあきまへん。株価が高くなればなるほど責任を感じ、社員の営業姿勢も刺激されます。わたしは片倉の株を買い、株価が高うなったところで売り抜けるようなスペキュレーターの真似はようしません。製糸業界の名門、片倉があんな安値にいるのはおかしいのです。富岡、大宮など何カ所かの工場の資産だって大変なものです。株価はその会社の軍旗です」(昭和48年4月14日付週刊読売)
  当時、辰巳はマスコミに追い駆けられていたが、なかなか会おうとはしなかった。うまく会見に成功すれば「北浜第一の大相場師」とか「吉野ダラーの元締め会見記」などと大見出しが躍ることになる。辰巳は今流にいえば、ヘッジファンドなどの敵対的買収から企業を守る「ホワイト・ナイト」(白馬の騎士)を志していたフシがある。前出のインタビューに続き――。
  「国際的なスペキュレーターは日本企業の安い株を買いまくるでしょう。第2次世界大戦時のB29以上の猛爆がやってくるんです。みんなして株を買うて、株価を高くして外資の襲来を防がないかんのです。ですから、株を買うたら売ってはあきまへん」
  辰巳旭は昭和元年、奈良県吉野郡川上村で生まれ、旧制吉野林業学校を卒業すると陸軍少年航空隊に入った。先輩、友人が大勢特攻隊で命を落とした。こうした戦争体験が「株価軍旗論」を生み、外資による乗っ取りから会社を守ることを説いた「企業防衛論」の根幹を成すのだろう。復員すると父親から150万円という大金を出してもらい、吉野町で辰巳木材店を開業、双眼鏡を片手に吉野の山中を駆け巡り、山と木を買い漁った。復興需要を当て込んだこの思惑はズバリ的中、木材相場は暴騰に次ぐ暴騰を演じる。
  日本一のセールスマンを自任するのもこのころだ。株と出合うのはもう少し後である。
  辰巳と同じ村にプレハブ住宅で知られる「大和ハウス工業」の石橋一族がいた。辰巳は創業社長の石橋信夫とは幼な友だちだし、石橋家の長兄、石橋義一郎には姉が嫁いだ。そんな親密な関係だったから、まだ上場する前の大和ハウス株を手に入れた。これが機縁となって、北浜で相場を張るようになるが、損するばかりだったという。
  昭和41年、証券不況下、大和ハウス工業が経営危機に陥る。この時、辰巳は大和ハウス工業の救済に乗り出す。近所の資産家も集めて、「山を全部売っても買いまくれ。こんないい会社をつぶしたら国家の損失や」とハッパをかける一方、みずからは12億円をつぎ込んで大和ハウス株を買った。だが、買っても、買っても株価は一向に上がらない。それもそのはず、「売り将軍」と称される名古屋の相場師、近藤信男が売り浴びせていたからだ。近藤にすれば「吉野の山ザルに相場が分かるか」といった思いだろう。
  長い低迷の後、大和ハウス工業株はようやく上向き、同43年には500円の大台を突破する。ざっと100億円の大もうけである。続いてリコー、立石電機、ソニー、東洋工業…と手を広げ、44年には年間、400億円を動かす勢いだった。このころ、“吉野ダラー”という言葉が新聞、雑誌に頻繁に登場するようになる。
  吉野の山持ちを中心とした投資グループのことで、総帥は水井伊三郎説もあるが、やはり辰巳が“本尊”である。辰巳が出動となるとでっかいチョウチンが付くから勢いは倍加する。辰巳をよく知る証券ジャーナリストが語っている。
  「仕手戦の主役は5年と続かないものだが、20年もやっている。すさまじい気迫とバイタリティーですよ。彼こそは“最後の最も偉大な相場師”じゃないですか」(昭和51年8月26日付週刊ポスト)
  そして三十余年の歳月は流れ、吉野ダラーや今いずこ。吉野町の辰巳木材店では「吉野町いうても広いし、辰巳姓は多いですからね」と、辰巳旭の手掛かりはつかめなかった。今年83歳のはずである。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・株価はその会社の“軍旗”である。一部の者が独占したら企業は前進できない
・投資の対象を山林、土地(開発地)、有価証券に3等分する
・わしは勝負師じゃない。もうけることは小さいこと、もうけるだけじゃ、投資の世界で長続きしない
・株は買ったら売ってはいけない
(たつみ あきら 1926~)
昭和元年奈良県吉野郡川上村出身。吉野林業学校を卒業、同21年吉野町で辰巳木材を創立、木材販売で全国を飛び回る。同28年には吉野随一の木材問屋となり、同30年代には年間13億円の商いをやる。大和ハウス工業の創業者石橋信夫とは幼な友だちで、姉が石橋家の長兄に嫁ぐ。姻戚関係を背景に大和ハウス工業株を大量に買い込み、同41年の暴落で巨損、同43年の高騰で巨利を挙げる。40年代後半、「吉野ダラーの元締め」と称される。
(写真は昭和50年12月12日付「週刊ポスト」より)

相場師列伝

一攫万金、あとは堅実一路にひょう変、今井又治郎氏(09/7/20)
胆根略の3拍子揃った相場師

 今井又治郎は胆力、根気、智略の3拍子揃った兜町には打ってつけの逸材であった。
  「巧名、富貴を求むるの途は多岐あるに非ず。胆、根、略の3要件を備うれば足れり。ことに活動の本源、ほとんど生き馬の目も抜きかねまじき株式市場にありては、活発機敏、果断敢行、憶せず、屈せず、百難に遭うては意気いよいよ壮ならざるべからず。一事の難しきにたちまちくじけるが如き人物は到底何事もなす能わざるべし。今井君の如きはこの3要件を備えて、よくその進路を誤らざるものというべし」(「大正人名辞典」)
  今井は商人になりたくて上京、数々の店で小僧として住み込むが、小売業をやるつもりは端からなかった。一攫千金どころか、一攫万金を狙っていたというから株式仲買人に生まれついたような気風の男だった。明治41年、角丸印「今井商店」を継承する。
  「いささかも他の庇護(ひご)をこうむらず、独立独行、縦横の才略を用い、たちまち斯界の評判男となり、顧客は門前に蝟集(いしゅう)す。君の平生を知るも知らざるも、君の不可測なる成功に驚かざるなし」(同)
  思うに日露戦争時の大相場で想像を絶する大勝利を収めたのであろう。当時は鈴久こと鈴木久五郎が兜町の活題を独占、連日連夜の大盤振る舞いが語り継がれているが、名門「角丸」の今井も勝ち組に名をつらね、勝ち馬に乗ろうと、素人客が門前市を成す盛況であった。
  昭和の初め、今井はすでに50歳代半ばに達し長老の仲間入りをしていたが、新聞記者に相場の奥義を聞かれると、長年のうんちくを傾けた。
  「由来、相場ほど入るに易く、成業することの難しいものはまずないでしょう。昔のように市場の狭かった時代には、一か八かの投機で思わぬ成功をした人もありましたが、今日のように経済組織が整然としてきては一攫千金もそう簡単には参りません。で、初めから大欲を起こしてかかることは失敗の基です。一歩一歩確実に少なくもうけていくことを心掛けるのが第一です」
  若いころに一攫万金を狙った男が、功成り名遂げたあと、堅実一路に転じることはよくあること。19世紀最強の相場師と称された「天下の糸平」にしてから臨終の言葉は「投機に手を出すな」であった。そして今井は、相場志願の若者を念頭に置きながら、「調査研究」なくして成功はないと強調する。
  「それからどこまでも戒めねばならぬことは、人気に雷同することで、多くの人が好況到来を叫んだ時には、既に一歩の先に反落の渕が迫っているものです。これらの場合も平素調査研究を主眼として、市場に臨んでおりさえすれば、訳なく分かるものです」
  今井が代表をつとめる今井商店のルーツをたどると、明治11年の東京株式取引所創立時にさかのぼる。東株の設立発起人であった今村清之助は今村銀行創設者であると同時に生糸や為替の大相場師としても知られる。その今村と井上銀行の創設者でシガレット・ペーパの開発で有名な井上保次郎の2人の名にちなんで「今井商店」と命名されたという。今村と井上は後に縁戚にもなる間柄だが、名門を継いだ今井又治郎の店は呑み屋全盛期の兜町で評判は上々であった。
  「もっぱら顧客の利益を図るをもって準縄(じゅんじょう、規則)とする同店は、いまだかつて思惑を試みたり、客を相手に勝負を試みるようなことはないので、銀行でも会社でも一般資産家でも安心して取り扱わしてよい。とにかくちょっと異彩を放っている」(「兜街繁昌記」)
  今井商店は昭和12年角丸証券に改称、第2次大戦後は日本勧業証券と合併して日本勧業角丸証券、その後も合併を繰り返し、現在ではみずほインベスターズ証券。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・ボロ株には絶対手を出さない(ボロ株には金融の方途もない。同じ鑑識眼を働かせるなら一流株)
・上手に損をするようになれば相場師として第一資格ができたといえる
・何かことがあった時、直往邁進徹底する。のべつ相場を弄(ろう)していると判別力が鈍り失敗する
・人の買えないところを進んで買い、一般が逆上し連日高騰を続ける時は売る
  (いまい またじろう 1873~没年不詳)
  明治6年8月5日、千葉県山武郡東金町出身。今井新右衛門の次男で、早くに商業を志して上京、数店で小僧をつとめ、同27年東京簿記専門教習所を卒業、同33年東株仲買人藤田英次郎の今井商店に入り市場代理人となる。同41年今井商店を継承、今井合資会社を創立、大正6年角丸商店専務、昭和12年資本金を300万円に増資のうえ、角丸証券株式会社と改称、専務に就任。
(写真は「大正人名辞典」による)

相場師列伝

株買う銀行家、中上川彦次郎氏(09/7/27)
三菱の買収攻勢に対抗

 三井合名の常務理事から日銀総裁、大蔵大臣になった池田成彬が舅(しゅうと)中上川彦次郎について語っている。中上川は銀行家時代、大胆にリスクを取った。
  「いつも支店長会議で『預金は借金なり、諸君は借金万能ではいかん』と言っており、工業のことには相当熱心だったとみえて、我々の時代の考え方では銀行家のなすべからざることを相当やっておりました。ヨーロッパの銀行だって、炭坑の株を買うなんていうことは絶対ありませんからね」(「財界回顧」)
  大手株式仲買「丸上」こと半田庸太郎は、独眼龍将軍と呼ばれ、明治30年代の兜町では群雄たちを見おろしていた。明治32年8月、半田が北海道炭礦鉄道(北炭)の株を買い始めた。当時は日清戦争景気の反動で不況色を強め、指標となる東京株式取引所(東株)は200円台に落ちていた。そんな中での独眼龍の出陣で市場はざわめき始めた。買い本尊はだれか、なんの目的で北炭を買うのか。
  当限、中限、先限の各限月を買うばかりか現物も盛んに買い入れるため、揣摩(しま)憶測を呼んだ。先物で買った分は期限がくると片っ端から現株で引き取るので、ますます風説は広がっていった。実はその前年、明治31年3月には北炭株の大仕手戦が展開され、解け合いに発展し、東株が24日間も臨時休業を余儀なくされたばかりだった。今度の買い占め戦の黒幕探しは兜町の話題をひとり占めした。
  やがて丸上商店から北炭に対し名義書き替え請求が提出され、三井銀行社長、三井高保の名前が出てきた。「これで買い手が三井であることが初めて一般にも知れ渡り、株式市場はもとより、三井部内の者まで呆然として、ただ驚きの目を見張るのみであった」(白柳秀湖著「中上川彦次郎伝」)。
  北炭株買い占めは当時三井銀行専務理事の中上川彦次郎の指図によるものだった。中上川は初め北炭の大株主雨宮敬次郎から場外で直接3万株を買い付けるつもりでいた。市場で多くの株を買い付けると相場を刺激して得策でないと考えたからだ。そのため義弟に当たる朝吹英二に交渉役を命じた。朝吹は三菱時代に岩崎弥太郎の命で東株や米穀取引所株の買い占めで成功した男だが、そのころは三井に籍を置き枢要な地位を占めていた。
  朝吹の交渉の結果雨宮の名義にはなっているが、実権は安田財閥の総帥、安田善次郎に握られていることが分かる。そして安田は法外な高値を吹っかけてラチがあかない。中上川はやむを得ず、市場からの買い付け策に切り替えるが、三井の買い占めを露呈させないよう細心の注意を払った。
  「密かに三井銀行所有の公債証書を半田の手に渡し、半田はこれを当座の抵当とし、3カ所の銀行に預け入れ、必要に応じ随時に小切手を出していたので、買い主が三井銀行であることを気付くものは1人もなかったのだそうである」(同)
  この時、中上川が買い占めた北炭株は4万3800株で総株数の24万株に対し、6分の1強に達した。
  中上川が北炭買い占めを思い立ったのは、三菱への強い対抗心によるものだった。従来九州における炭坑業の覇権は三井が握っていた。ところが、三菱が次々に有力炭坑を買収するばかりか、九州鉄道をその傘下に収めた。この時、中上川は九州の炭田はやがて枯渇するとみて、北海道での主導権を求めて北炭の買い占めを決断したのだった。
  もともと中上川は、銀行業と商業中心に発展してきた三井閥に「鉱工業」を新しい柱に据えたいとの思惑もあった。三井閥の最高責任者としての中上川の株式投資の基本は、株を取得して会社の経営権を握ることだった。だから「経営上の実権を三井の手に掌握できない株式は、どんな有利、有望なものでも、片っ端から手放してしまった」(白柳秀湖)。三井と渋沢栄一との古い関係にも頓着せず、第一銀行の株はそっくり売却して財界をびっくりさせたこともある。
  中上川は漢詩、和歌、俳句、狂歌などを詠み、詞藻に富んでいた。
  「食ふて寝て死ぬを待つ間の世渡りは 士農工商人のまにまに」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・不良株式の処分に際し、根底が薄弱で見込みのないやくざな株式はどしどし売り払う
・やくざでないにしても実権が他の経営者の手にあり、三井はただ大旦那にとどまるような株はどんな因縁の深い株でも売り払う
・(銀行にとって)預金は借金である。借金万能ではいけない
(なかみがわ ひこじろう 1854―1901)
  安政元年豊前国中津(現大分県中津市)藩士の家に生まれ、明治2年福沢諭吉邸に住み、慶應義塾に学ぶ。同7年英国遊学、同10年帰国、慶應で教鞭をとる。同12年外務省に入る、同15年叔父福沢諭吉が時事新報を創刊すると、求められ社長に就任、同20年山陽鉄道社長、同24年三井銀行理事、同26年三井銀行常務理事、鐘紡社長、同27年三井銀行専務理事、同34年10月7日死去。
(写真は白柳秀湖著「中上川彦次郎伝」より)

相場師列伝

絵筆を持つ投機師、中島粂象氏(09/8/3)
マスコミ好評、地場不評

 明治40年代の兜町で中島粂象は異彩を放っていた。突如兜町に中島株式商店を開いたかと思うと、悪評ふんぷんで廃業の危機に瀕していた沢印の看板を引き取り、東京株式取引所の仲買人となる。そのころ沢印の采配を振るっていたのは森戸鈊太郎という新聞記者上がりの変わり種で、世評はすこぶる悪かった。
  「森戸が宏量海の如く、遂に客筋より数十万金の損害をこうむりたることと、一部店員の辛辣なる行為に基づくもの」(兜街繁昌記より)。
  一部店員による悪辣な営業で客の信用を落としたうえ、森戸の大風呂敷経営のとがめで沢商店の命運が尽きかかっていたところへ、「白馬の騎士」のように中島が駆け込んできた。中島は森戸の美点と長所を見て取り、世評など気にも留めずに、名門「沢印」の復活を目指すことになる。「沢印」はもと、大沢幸次郎という相場師が経営していたが、大金をつかむとさっさと転業、そのあとを森戸が引き継いでいた。
  中島はこれまで振幅の激しい半生を送ってきた。生家が栃木県足利で織物業を営んでいたため、東京高等工業(現東京工大)に学ぶが、起業家心が旺盛だった。日清戦争の勃発を見越して軍服の製造に乗り出す。「栃木、群馬、茨城各県の在監囚人を利用して大いに供給を充たせり。従来在監囚人の工場は単に縄、提灯等の製造に過ぎざりしを、彼が当局に建議し、実行なさしめ…」(「財界一百人」)。
  しかし、後発組が出てきて、利益を奪われると、同29年合資組織の天海商社を起こし、綿織物の輸出を始める。中国、インド、米国などからどっと注文が飛び込んで10割配当するほどの好況を満喫するが、同33年の経済不況であっけなく破綻。そして異彩を放つのは、両毛労働者同盟という組織を立ち上げ、「大阪事件」で有名な自由民権家、大井憲太郎と呼応して、労働運動に足を突っ込む。
  かと思えば、足利地方の青年たちの悪弊を矯正しようと志し、渡辺洪基(東京府知事から東大総長、衆院議員)、田口卯吉(ジャーナリスト)と図って雑誌「矯風」を発行、地方青年のために気を吐く。
  やがて相場界とかかわりを持つ。栃木町米麻麦取引所の仲買人となり、相場師を目指すが、同34年、農商務省の命令で弱小資本の取引所は解散させられ、廃業する。そして一転、米国に渡る。サンフランシスコで美術品店を聞くと同時に、パプキンス美術学校に入り、水彩画の勉強を始める。ある時、スケッチクラブで美術論を講ずると大評判になり、サンフランシスコ・クロニクルなど2、3の新聞が肖像写真付きで大いに称賛した。ところが、中島は相場師修業で渡米したことを思い出したとみえ、ニューヨークに向かうが、中島の事跡をよく知る遠間平一郎はこう評する。
  「世の相場師なるものは錙銖(ししゅ、わずかなこと)を争う以外には、なんらの趣味、なんらの気品なきものしばしば。しかるに氏や、品性群を抜くのみならず、凡俗を超脱し、今や閑あれば丹青(絵の具)に親しむがごとき雅趣あるは、誠に枯野に芳香を放つ梅花一輪の感なくんばあらず」。
  中島は絵筆を持ったままウォール街へやってくる。スミス・ブラザーズ商会に入り、株取引を1年余り修業すると、フィラデルフィアでまたまた美術学校に入る。ナイアガラ瀑布の美術館に感激した中島は帰国後、日光華厳滝のそばに美術館を造り、専務理事に納まる。二足、三足のわらじを平気ではきこなす中島は、日露戦争後の大相場に乗じて兜町で巨利を占め、東株の仲買人の看板を持つとともに信託部門も設ける。中島は、日本の株式取引所制度の欠陥、不備を嘆きながら相場を張っていたというから、地場のベテランたちにとっては、鼻持ちならない洋行帰りに映ったことであろう。
  空前の大相場が終わったあとは、相場らしい相場がなかったにもかかわらず、中島は多くの先輩たちを差しおいて頭角を現す。「沢印」を買ったことも手伝って、地場の評判を落とすが、そんなことには頓着しないのが中島流。
  この時38歳の春秋に富む中島だが、「前途遼遠、必ずや天下の耳目を聳動(しょうどう)せん」とのマスコミの期待をよそに大正期に入ると、兜町から足跡が途絶える。またまた美術界に行ってしまったのだろうか。
=敬称略
信条
・身を諸種の事業に投じ、苦汁をなめ、進むこと決河(堤を破った勢い)の如し。成功に近づいてつまずくや、これを捨てること弊履のごとし(「兜街繁昌記」)
・識見あり、うん蓄あり、抱負あり、尋常平凡の仲買に非ず
・鳳雛(ほうすう、将来大人物と期待される青年)たる彼が大空を雄飛する時、天下の耳目を驚かすだろう(「財界一百人」)
(なかじま くめぞう 1875―没年不詳)
明治8年、栃木県足利郡北郷村出身、家業が織物業であったため足利工業学校から東京高等工業学校(東工大の前身)に学ぶ。明治29年合資会社天海商社を創立、綿織物の輸出で巨利を博すが破綻、同34年米国に渡り、美術品店を開業、後ニューヨークで株式仲買店に入る。帰国後同41年中島株式商店を開き、同44年東京株式取引所仲買人となる。東京有価証券仲立人組合を組織し、理事に就任。
(写真は遠間平一郎著「財界一百人」より)

相場師列伝

バブル景気継続を信じ敗北、加島安治郎氏(09/8/10)
紡績株を買い続け巨利

 大正時代の北浜市場で飛将軍と呼ばれた男に加島安治郎がいる。
  「才気煥発(さいきかんぱつ)、北浜村に一番の人気男だった。芝田大吉商店の丁稚からたたき上げ、最初は尼紡信者として、株の値上がり、続いての増資でたちまち巨万の富を作り、独立開店してからは、トントン拍子で欧州大戦景気に乗って、豪胆、細心の売りと買いで獲った金は、またたく間に1000万円」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  若いころの順調ぶりが伝わってくる。しかし、加島の不幸は苦言を呈してくれる師や友人を持たないことだった。
  「彼の周囲の者どもは、巧言令色、膝行(しっこう、ひざまずいて進退すること)し、その援助を求むる者ばかりで、あれにもこれにもと、限りなく関係せしめられて、諸会社の重役の肩書きで、浮かれ過ぎたきらいがあった」(同)
  加島の欧州大戦時のもうけは、別の資料で5000万円とあるが、北浜では野村徳七と並ぶ株成り金と称された。
  大正株成り金のもとには言葉巧みにもうけ話や各種寄金の依頼が舞い込んでくる。加島はこれらに気前よく付き合っていたが、大正バブルの反動で厳しいしっぺ返しを食らった。相場師加島の出世の糸口ともいうべき尼崎紡績(現ユニチカ)が、摂津紡績と合併、大日本紡績となった際、売り放って大阪商船に乗り換えたことも傷口を大きくした。
  マスコミは「成り金が元の歩に戻る近道となった」「海運界の活況を万年の寿命ありとみたものか、100万円の商船株を抱擁せる君の懐は冷え込んだ」などと報じた。やはりもうけさせてもらった株を古ぞうりを脱ぎ捨てるように手じまうのは、古来よくないとされる。
  加島安治郎は兵庫県西宮の酒造家に生まれ、酒は滅法強く、1升くらいは平気、2升で多少乱れる程度、というほどの酒豪だった。
  加島は北浜の芝大商店で相場道を仕込まれた。店主の芝田大吉といえば、大阪商業(大阪市大の前身)を出て、大阪財界の第1人者の松本重太郎や、桑名の巨豪、諸戸清六と交遊を結び、彼らの大口注文で店は大賑わい、三菱の岩崎家からも注文をもらっていたという。その芝大親分の薫陶を受けて育った。給料やボーナスを貯めて尼崎紡績をまず10株買い、漸次増やしていった。明治41年に独立する時の資金も尼紡株の値上がり益によるものだった。
  「市場に手を振れば必ず利する。その利はことごとく尼紡株に投じ、遂に圧倒的大株主となり、資産は便腹(太鼓腹)と共にますます膨張した。欧州大戦による株界黄金時代は、君のためにもまた黄金時代であった。野村と並んで市場を席巻し、威風斯界を圧した」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  勝負師加島安治郎の分水嶺は大正8年。尼紡株を大阪商船株に乗り替え、株数は過半数に達した。この方向転換は旧主人の芝田大吉と軌を一にしている。芝大にチョウチンを付けたのか、逆に飛将軍と言われ、大出世の加島に老雄が追随したのかは、はっきりしないが、師弟ともども船株でやられた。
  一時は再起不能説もささやかれた加島だったが、底力を発揮し、再び北浜の雄将として、闘魂をみなぎらせる日々を送る。大株取引員組合委員長への復帰を狙った。しかし、次第に消息は途切れていく。
  加島の人付き合いの良さを物語るエピソードがある。バブル期に粗製濫造の泡沫会社の株券が数十貫も、荒縄でしばって、土蔵に投げ込まれていたという。
  加島の風貌を当時の新聞が伝えている。「霞を隔てて巨象を望むが如き、茫乎(ぼうこ)なる風貌、歩むこと春日を牛のごとく悠々遅々、便腹はさながらふとん巻きの太鼓のごとく、セメント樽と並立したるごとき下肢にうがつところのズボンは、優に兵隊さんが2人入るとか」
  趣味は仕舞で、夫人の鼓に合わせて舞う姿は「黒き牛が地震に遭ったようだ」などと書き残されている。
信条
・投資を主として投機を従としています。しかし、投機を離れて投資はあり得ない
・取引所の保険作用を利用して持ち株を清算市場へつないだり、外したりします
・将来有望とみた株は親株を売って新株を買います
・私は常に資力に相応して順を追って利を乗せていく方針です
・「天は自ら助くるものを助く」を信じて努めています
(かじま やすじろう 1880―没年不詳)
  明治13年4月25日兵庫県西宮の酒造家に生まれ、大阪株式取引所(大株)の大手仲買芝田大吉商店で丁稚から修業を積み、尼崎紡績株で大もうけ、同41年独立。第1次世界大戦では1000万円(一説には5000万円)の巨利を博す。大株の取引員組合委員長をつとめる。大正9年のパニックでは大阪商船株で大損し、委員長を辞任。
(写真は「大阪株式取引所沿革史」より)

相場師列伝

北海のギューちゃん、鈴木樹氏(09/8/17)
生産者の味方というスタンスで相場張る

 鈴木樹が「北海のギューちゃん」とマスコミを賑わすのは平成5年5月のことだ。前年度の納税額が5億円に達し高額納税者全道1位に躍り出た。全国ランキングでは32位だったが、土地や株の譲渡益などを除く稼ぎとしては山内溥任天堂社長(21位)、上原昭二大正製薬会長(31位)に次いで全国3位になる。「赤いダイヤ」との代名詞を持つ小豆が不作で相場が高騰、売買益が10億円にも膨らんだのである。
  地元紙のインタビューに答えて10億円もの利益を生んだ小豆相場のメカニズムや「十勝農業」への思いを語る。
  「相場の基本は需給バランス。小豆の国内年間消費量は約12万トンですが、昨年の道内収穫量は作付け減と8分作で5万2000トン。前の年からの繰り越しを含めても8万4000トン程度でした。輸入物が早く入ることはありますが、やはり北海小豆の絶対量が不足です。これがスタートラインでした」(平成5年5月25日付十勝毎日新聞)
  相場師鈴木の基本スタンスは「生産者の味方に立って、価格形成の一翼を担う」という点で貫徹している。根っからの買い屋である。十勝という小豆の大産地を背に投機界を闊歩(かっぽ)しようという鈴木が売り仕手などやろうものなら、それこそ「石もて追われる」に違いない。「タツルさんのおかげでもうかった」。農家のそんな声を聞きたくて買い玉をはわす。
  鈴木は平成3年暮れに1俵(60キロ)1万7000円台に低迷していた小豆を買い、相場浮揚を図る。こんな安値では生産農家がやっていけないと、買い進む。同4年春には2万5000円にまでハネ上がる。鈴木の読みは的中してさらに4万7000円まで高騰する。
  「私が平成4年に扱った小豆の量は1万8000トンで全道の生産量(5万2000トン)を考えると、量的な想像がつくと思います。よく『先物でもうけている』と誤解されますが、私は相場の世界を経済行為として企業化、現物の流通を担っているという自負があります。今回の利益も流通の過程で利幅を得たに過ぎません」
  鈴木は先物取引と現物取引を上手に使い分けながら存在感を高め、「北海道筋」「帯広筋」という異称を冠される。静岡筋(栗田嘉記)、桑名筋(板崎喜内人)、「マムシの本忠」(本田忠)、ヤマシヨウ(霜村昭平)らとともに小豆相場の黄金期に踊る。
  鈴木樹は樺太生まれで幼いころ父親を亡くし、第二次大戦後、帯広に引き揚げて、新聞配達、納豆売り、畑の草取りなどのアルバイトで家計を助けた。昭和30年高校を卒業して雑穀問屋に入り、小豆の取り扱いを体験する。
  当時、週刊朝日で獅子文六の連載小説「大番」が人気を呼んでいたが、主人公のギューちゃんにあこがれて相場の道に入る。持ち前のバイタリティーで頭角を現し、週刊誌で「北海に鈴木あり」と取り上げられる。
  商品取引の大手明治物産の子会社北海道明治物産の帯広営業所長から取締役、社長とトントン拍手で出世する。この時、北海道明治物産の株も全量取得、完全独立を果たす。若いころ、鈴木の1日は午前6時、シカゴの穀物相場の情報収集から始まり、就寝は午前2時、睡眠時間はわずか4時間という猛烈相場師であった。
  鈴木の政治好きは有名で、かつて「北海のヒグマ」と称された闘将中川一郎代議士後援会の青年部長や遊説隊長をつとめたり、道議選に自ら打って出ようとしたこともある。政界進出を断念して相場と経営に専念するようになって長者番付全道1位という快挙をやってのけた。
  鈴木の邸宅は土地が480坪、建て坪150坪、居間が40畳もあって吹き抜けだという。いかにもギューちゃんの好み。地元名士が所有する土地を譲ってくれるよう頼んだら、「贅沢なやつだ」と一蹴(いっしゅう)され、あきらめていると、「贅沢ができん奴は出世できない」と譲ってくれたらしい。
  当時のマスコミは、「広い情報網と緻密な分析で相場を科学する鈴木さん独特のやり方から生まれる自信に満ちた言葉だ。『念ずれば花ひらく』。和紙づくり人間国宝の安部栄四郎氏の言葉。直筆の書が社長室の壁を飾っている」と伝えている。
  そして16年の年月は流れ、小豆の先物取引は石油、金などライバル投機商品の台頭、売買規制等で昔日の面影はない。「今は趣味で大豆やコーンを少しやってる程度ですが、FX取引をやっているので寝るのはやっぱり深夜2時ごろです」。鈴木は帯広を思う気持ちではだれにも負けないという。近くオープンする超大型スケートリンクの建設には資金集めに奔走した。「11カ月で2億1500万円集めましたからね」。鈴木はスケートリンクが帯広経済の起爆剤になるのを願っている。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場は博打(ばくち)ではない。科学だ
・念ずれば花ひらく
・十勝圏農業の確立と十勝経済の発展に寄与する
・常に生産者の味方に立って、価格形成の一翼を担う
(すずき たつる 1936― )
  昭和11年6月28日樺太生まれ、帯広三条高校卒業、帯広の雑穀問屋蓑浦商店に勤務したあと、日東物産を設立、東京共栄商事取締役を経て昭和46年から商品先物取引の北海道明治物産を経営、同51年にタツル総業を設立、帯広商工会議所議員会長、北海道東部農産物移出協組理事、平原太鼓保存会会長、帯広三条高校常磐同窓会最高顧問など幅広い分野で活躍する。
(写真は「タツル総業」提供)

相場師列伝

炭価暴落で金脈に的絞る、成清博愛氏(09/8/24)
借金王から一転金山王

 成清博愛は投機の権化のような男であった。雅号を「的山」といったが、文字通り「山を的中させる」の意味。初め石炭でひと山当てようと奔走した。成清の周りでは貝島太助、安川敬一郎、麻生太吉、蔵内治郎作、伊藤伝右衛門といった石炭成り金が輩出したのに刺激され、山師を目指すが、失敗に次ぐ失敗の末、見事に金鉱脈を掘り当て宿志を果たす。
  「博愛は自分のさぐり当てた金山を『馬上金山』と命名したが、同金山のたぐいまれな豊饒さは、たとえば採鉱天の振るツルハシの先が、しばしば『トジ金』の層(石そのものが金無垢の帯になっている)にブチ当たり、ツルハシによって砕かれた金塊が地底の坑道にちらばって燦然とするほどだった」(内橋克人著「破天荒企業人列伝」)
  やがて産金高日本一を誇り、超富豪となる。相場師の十倍もリスクの大きいといわれる山師、その中で成清は慶應義塾に学んだインテリ山師。
  成清は父の後を継いで郷里の村長をやっていた時、日清戦争ぼっ発で石炭ブームが巻き起こると、生来山っ気たっぷりの成清は、村長をやっている場合か、と山師に転じ、筑豊炭田の一角で炭坑を買収する。順調に採掘が進展していたが、日清戦争バブル景気が弾けて石炭相場が暴落する。1万斤(6トン)当たり41円だった相場が21円と半値に崩れ、石炭恐慌の様相を呈した。ブームの時手を広げていた成清の打撃は大きかった。成清は手帳に「周囲から山師、事業狂とののしられ、奈落の底にあった」とつづった。
  石炭で苦杯を喫した成清が次に目をつけたのは金鉱だった。金本位制への転換で金需要が一気に高まってくるとみて山々を駆けずり回った。国内では数少ないドイツのカール・ツァイス社製の双眼鏡をぶら下げて金脈を探して回るが、容易には見つからない。成清は生涯に26回も差し押えを食ったという。だが、借金をバネにした成清の投機心は萎えることはない。
  そしてついに馬山金山を堀り当てる。成清みずから採鉱夫の先頭に立ってツルハシを振るい、突き当たったのが「トジ金」あるいは「流れ藻」と呼ばれる超高純度の金塊の山だった。
  当時の金相場は1匁(もんめ、3.75グラム)当たり5円だったが、毎月、いまのカネにして1億5000万円から2億円もの金塊を掘り出し、作業員たちのわらじからも相当量の金が出たので坑内の警戒は厳重を極めた。
  成清は当時早稲田の学生だった長男の信愛を退学させて事務長に据えた。次男は早くからツルハシを振るっていた。成清一家総出の快進撃が始まる。
  「鉱区も次々と広げて十鉱区を超え、その面積は1250ヘクタールに達し、延長10キロメートルにわたった。中山香、立石両駅のほぼ中間に、高い煙突を取り巻く工場群が建ち並んだ。農家もまばらな集落が活気で溢れる沿線の一名所となり、成清はいつしか“金山王”と呼ばれた」(「大分県の産業先覚者」)
  大正4年成清は衆院選に出馬、当選するが、半年で辞職する。この結果、盟友松田源治(後に拓務大臣)が繰り上げ当選する。
  成清の辞職を巡っては松田を当選させるための友情説もあったが、成清の手記には、自分は立法にたずさわるより、金鉱に徹するのが己を生かす道と考えたことが記されているという。そして、その2カ月後に他界する。成清の葬儀は僧侶400名、葬列の長さは数キロに及び、臨時列車が仕立てられる豪奢なものだった。
  その後の馬上金山について地元の研究家白藤みのるは書いている。「政友会の総裁であり、日本鉱業の代表であった久原房之助に成清鉱山を譲渡した。その金額は世人の想像を絶する莫大な金額であったのは間違いない」(「的山」)
=敬称略
市場経済研究所代表 鍋島高明氏
信条
・同じ“山”で苦労するなら石炭より金だ。掘り当てれば、そのものズバリ国富の増進になるし、一身一家の浮かぶのも早い
・目先の利益を追わず、操業の基盤をじっくり整備したことが成功に結び付いた
・的山(山を当てる)
・おれの登った山は険しかったが、お前は自分の山を登れ(長男信愛への遺言)
(なりきよ ひろえ 1864~1916)
元治元年福岡県小川村(現みやま市)に生まれ、東雲館中学から慶應義塾に入る。病気で中退、村議、村長を経て炭坑や金鉱の発掘に奔走、明治36年大分県の馬上金山に目を付け、同45年富脈を掘り当てる。日本一の高品位と産金量を誇り、巨富を築く。大正4年衆院選に出馬し当選するが、半年で辞職、翌年死去。
(写真は中川郁二著「馬山金山 的山荘物語」より)

相場師列伝

禁じ手・利食い後のドテンでも取る、武田次七氏(09/8/31)
“将軍”石井定七に大勝利
  武田次七は昭和初め、米相場の戦術を語った。
「味方の多い戦いはいけませんな。味方が多いとみたら手じまうに限ります。それと資金は控え目に用いることです。僕などは米相場に対しては投機というより実業の気分でいます。もうけようとせず、損をしない方針で臨みます。力一杯に華やかに張ると失敗しやすい。僕は神経質だから利の乗った玉は長く持ちますが、悪い時はさっと退却します」
  当時、武田は東京株式取引所の短期取引員だったが、米相場の大仕手として名が通っていた。横浜の生糸相場で修業を重ね、蛎殻町に進出、平井文三商店の総支配人として盛んに米相場を手掛けた。やがて鎧橋を渡り兜町に転進するが、武田の名がとどろくのは大正10年のことだ。この年は「横堀将軍」こと石井定七が大凶作を当て込んで大思惑を張り、3月に1石(150キロ)当たり24円60銭だった米が10月には44円90銭にまで暴騰し、売り方は惨敗する。この暴騰相場を明らかに行き過ぎとみた武田は売り出動のタイミングを計っていた。年末ころから売り玉を増やしていたが、崩れそうにない。翌年7月になってやっと下げがはっきりしてきた。
  「石井が東西で受けた巨額の正米の祟(たた)りと、天候の回復と、財界の下り坂と、弱材料が揃って7月の40円から下げ始めたが、武田は力を入れて売り進んだ。10月末には24円台の安値に崩れるという大下げ相場で…」(青江治良著「仕手物語」)
  石井定七の投げに合わせて利食いすると同時に、ドテン買いに転じた。「利食い後のドテン」は禁じ手とされているが、勢いに乗った武田は総売り人気の中を買い進む。武田は後年、述懐している。
  「わずか3カ月間で半値に近い瓦落(がら)を演じたのですから、人気はすっかり腐って…。野も山もこう弱くなってはたいてい陰陽の転機と見るものです。私は26円からドテンを決意、買い方に回りました」
  武田のドテン買い作戦は的中、翌12年3月には30円台を回復、6月には38円台にハネ上がる。「相場は味方が多いといけません」という武田だが、この時は塚越斧太郎、平井文三、田辺卯助、伊藤久太郎、加藤紀太郎と5人の意見が一致、同盟をつくって買い方針を確認する。5人組の買い玉は一時30万石に膨れた。5人は同盟とはいっても売買は個々人の自由裁量という緩い連合軍だった。武田と田辺は30円台で利食いしたあと2人連れで関西方面へ旅行するが、堂島の相場師村岡金一に会って「西路で買い玉を仕込んだ」というから旅行中も相場のことが頭から離れなかった。
  7月に入って塚越が早耳情報をつかんできた。「政府は米価対策として近く米を買い上げるらしい」。この情報で相場は再び騰勢を盛り返すが、すでに弱気に転じていた武田は同調せず逆に売って出た。売りで取って、買いで取って、また売りでーと狙っていた矢先、9月1日の関東大震災で総解け合いとなる。
  大正14年、武田はまた同志たちと同盟軍を結成、買い出動する。
  「われわれ同志の意見は期せずして端境期高に一致した。大阪の村岡君や田辺、三橋(益蔵)、伊藤久、渡辺(徳次郎)、加藤紀、それに私と7、8名が一団となって東西市場に手を染め、『興廃はこの一挙にあり』とばかり全部で40万石くらい買ったでしよう。相場はいわゆる寸退尺進という奴ですこぶる順調でした」
  50円相場を目標において、納会ごとに現物を引き取りながら強気方針を崩さなかったが、12月には35円台に下落、同盟軍の中には再起不能に陥る連中も出て、同盟は消滅した。
  「私は大正15年も再び買い思惑を試みたが、これも見込みが違って投げ出し、以来、大思惑はやらぬことにしました」。武田が兄事していた蛎殻町の平井文三は常々「迷った時は休むこと」と言っていたが、武田は休みなく戦い、そのとがめも出てきたのであろう。それまでに米相場でもうけた金で東株の短期取引員の資格を取る。さらに一般取引員の資格もとり、米相場とはすっかり縁を切った。
  昭和12年当時は54歳で山文商店社長に収まっていたが、その後の消息ははっきりしない。第2次大戦後、兜町で結成された木曜会、五日会、東会、銀星会、三和会など地場証券の各種グループに武田次七の名はみられない。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人気のすう向をよく観察して裏を行くのが上等と思う
・資金を控え目に米相場を張るときは投機というより実業の気分でやる
・もうけるのは第2段、損をしない方針で臨む
・味方というか同調の多いのは好まない(実戦となるとそうもいかぬが)
(たけだ じしち 1881~没年不詳)
  明治14年1月、神奈川県出身、成美小学校に学び、幼くして横浜取引所仲買人広瀬商店、萩原保太郎商店に入り仲買業を見習う。その後上京して東京米穀商品取引所の仲買人平井文三商店の総支配人となり、大正15年4月、東株短期取引員の免許を取得、昭和8年さらに東株一般取引員の免許を取る。同9年社名を株式会社山文商店と改め社長就任。

相場師列伝

けがしない相場師、吉岡為次郎(09/9/7)
満腹の仕手の横槍をつく
  大阪堂島の米穀先物市場が最もにぎわったのは明治時代末から大正期のこと。この時代、本拠地にちなんで「中の谷将軍」と呼ばれ、戦法によって「横槍将軍」とも称された名勝負師が吉岡為次郎だ。

 勝負師としての実力は堂島でも際立っていたうえ、人品骨格卑しからぬ人物で、取引所の理事長に就くべきだといった声も上がった。北浜の梟雄(きょうゆう=残忍で強い人)といわれた島徳蔵が堂島米穀取引所を乗っ取ろうと策動したとき、防戦のため吉岡を担ぎ出そうという動きもあったくらいだ。
  しかし、あくまで控え目な吉岡は、理事には渋々なったものの理事長として采配を振るおうとはしなかった。「桃李言わざれど、下おのずから蹊(みち)を成す」の故事通り、全国から有名、無名の勝負師が吉岡のもとを訪れ、強弱論に花を咲かせた。その戦いの跡を聞かれると「どんな大戦争にでも飛び込んで、怪我もなくやってこれたのが功名といえば、いえますがね」と笑った。
  けがをしない相場師は競走馬にたとえれば名馬であり、投機界の名将といえよう。「今や功成り、名を遂げて、和順(やわらぎ従うこと)よく産を守り、中ノ谷に悠遊して、堂島の元老と冠せられている。風浪激しき米界を乗り切って、慈光の春に、陽気な悠遊はうれしい限りではないか。しかし、この古老こそは、青年時代から一騎抜け駆けの決戦武者として、名をとどろかせた」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  吉岡は奈良県出身。大阪に出て、初めは北浜で相場を試み、機敏な戦いぶりで耳目を集めた。25歳のときに仲買店を興し、最年少店主の記録を塗り替えて話題を呼んだ。日清戦争後、株式市場が低迷期に入ると、米の堂島の人となる。
  ここで先代吉岡新六に見込まれ、養子に迎えられる。義父の新六は相場師としても一流で堂島の顔利きであり、任侠の風格で知られていた。
  為次郎は相場の駆け引きでは義父をしのぎ、2万石、3万石といった大玉を建て、父をしばしばあわてさせた。「吉岡さんは、冷静透徹の頭の持ち主で、決して人には同ぜず、満腹の仕手を見つけては、神速機敏の兵をやり、出没自在、竜騎兵のごとく、短槍で敵陣をつくのが得意だった」(同)。
  吉岡は自ら相場を仕掛けるよりは、売り玉にしろ、買い玉にしろ目いっぱいに持ち高を建てているような満腹状態の相場師を見つけると、これに向かって横槍を入れる戦法を得意とした。仕手が満腹になれば落城寸前である。第2次大戦後の商品先物市場で鳴らした本田忠の張り方がこの方法だった。
  吉岡は採算を重視し、手堅い相場を旨とし、固く約束を守った。相場師にとって最大の恥辱は形勢不利と見て相手に「解け合い」を申し入れることだが、吉岡はただの一度もなかった。
  吉岡がからむ仕手戦で今日に語り継がれるのが明治44年の籾(もみ)入れ朝鮮米事件。この戦いは堂島のほか、蛎殻町、米屋町(名古屋)の3大市場を股にかけて全国の大相場師を総動員する形で攻防が繰り広げられた。買い方には中京の雄小菅剣之助、伊勢の岡半右衛門、堂島の古門九右衛門のほか、堂島の理事長磯野小右衛門も加わったといわれる。
  一方、売り方には賀田金三郎、高見丑松、沢田米蔵、そして吉岡が参謀をつとめた。双方必死の大決戦で、吉岡は渡し米の調達のため正米師(現物問屋)を産地に派遣するが、買い方の手が回っていて簡単には米を調達できそうにないことが分かった。
  窮余の一策、朝鮮で籾のまま保管されている古米を見付ける。この籾を混入して買い方にぶつけた。取引所のルールで籾は受け渡しに供用できなかったが、吉岡は「なあに、かまうものか」。買い方は「籾入り米など渡してとんでもない」と取引所にねじ込む。それより先、吉岡らは「中立であるべき磯野理事長まで買い方に回っているらしいですね」と“脅し”をかける。取引所はこの籾入り米問題を取り上げると、やぶ蛇になると判断、20%まで籾を混入しても渡し米として通用するとの裁定を下し、売り方の大勝利に終わった。藤山一二が「大阪財閥論」に書いている。
  「すったもんだの挙げ句、相手を屈服せしめ凱歌を挙げ、いかにも強情不屈の精神を現したものだ。あの謹厳なる吉岡老にもこんな痛快事があったのだ」
  吉岡門下には上田楠太郎、林伝、伊東肆一など名相場師が多い。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・腰骨が強く、敢為決行の勇を持っている
・資金いっぱいに建玉を張ってしまった仕手を見つけ、横槍を入れ、相手を倒す
・常に採算を重視、約束を守る
・長年戦って一度も解け合いを申し入れなかった
・冷静透徹、人に同調しない
(よしおか ためじろう、生没年不詳)
奈良県出身、朝和郡の郷士、出口家に生まれ、10歳代で大阪に出、最初北浜の株式市場で腕を磨き、25歳の時仲買店を開業、日清戦争後、北浜を見限って堂島に転じ、吉岡新六の養子となり、横槍将軍の異名をとる。「約束を守る」ことをモットーに堂島米穀取引所理事に推されるが、理事長職は辞退した。
(写真は大正時代の大阪堂島米穀取引所、青江治良著「仕手物語」より)

相場師列伝

周りは相場のお手本ばかり、山本条太郎氏(09/9/14)
物産株暴落で自宅に債鬼満つ

 山本条太郎は三井物産に入社して6年目の明治19年、馬越恭平常務の秘書役として北海道出張に随行する幸運をつかんだ。大抜擢(ばってき)に応えてよく働いた。馬越恭平は「ビール王」と後年称されたほどで遊びの方でもケタ外れ、出張費だけではまかない切れず、山本がせっせと自分の金で尻ぬぐいをした。こんなこともあろうと、軍資金はたっぷり用意してあった。「どうせ相場でもうけた金だ」と気前よく払った。ここで常務に貸しを作っておけば…という下心などあろうはずがない。
  馬越は「山本のヤツ、薄給の身で何百円という大金を持っているのはおかしい」とにらんだ。折から山本の行状について内部告発があった。抜擢人事をうらやむ若手の間では、「山本は相場をやっている」とのうわさが高かった。馬越は会計主任に内部調査を命じた。
  「山本青年はかねがね相場に手を出し、北海道旅行前、運よくひともうけしたので、そっくり持参したことを正直に告白した。相場といえば、叔父の吉田健三氏も、馬越翁も、ドル相場をやって、手本を示しているのである。また東京本店では相場の連絡係として、兜町に常に出入りさせられていた。人並みに優れて慧敏な山本青年がそういう雰囲気に浸染して、自らも輸贏(ゆえい=勝負)を争うことは当然とも言ってよいことである」(小島直記監修「山本条太郎」)
  引用文中の叔父吉田健三とは横浜の豪商で吉田茂元首相の養父に当たる。「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会の番頭として生糸やドル相場を手掛けた。馬越も生来相場が好きで山本はお手本に事欠かなかった。
  だが、三井物産では店員が相場に手を出すことはご法度であった。禁を犯した山本は三井物産所有の石炭運搬船、頼朝丸に荷物係として乗り込む羽目になる。後年、山本は「あの懲罰は自分には却って大きな賜物だった」と語っている。イギリス人の船長に実践英語を習うことができたからだ。人間万事塞翁(さいおう)が馬である。
  山本条太郎は5歳の時、一家とともに上京、大学予備門(東大の前身)を受験しようとしていた矢先病気になり断念、明治14年、14歳で三井物産横浜支店に奉公する。当時の横浜支店長は前出の馬越恭平。「条どん」の働き振りが印象に残っていて、後年、北海道出張に随行させたのであろう。
  明治16年、政府は米価の下落を防止するため、三井物産に市中からの買い上げを命じた。そして下総方面での買い上げ担当に指名されたのが山本だった。
  「店から渡された3000円の大金を腹巻きに入れ、みぞれ混じりの晩に番傘一本で厩橋の河岸から通運丸という船に乗り込み…(中略)まだ小僧だから羽織は着られず、木綿縞の筒袖に角帯を締めた姿は貧相だったが、意気だけは支配人にでもなったかのように揚々たるものだった」(野沢嘉哉著「大成功者 出世の緒口」)
  山本は毎日、米の商況と買い付け作戦を書いて本店に送った。山本の報告書は異彩を放ち、1カ月後に帰京すると社長の益田孝に呼ばれる。小僧が差しで社長に面談するのは異例で、月給は2円50銭から一気に5円(一説には7円50銭)にはね上がった。
  明治23年、三井物産は満州の大豆事業に着手、山本が駐在員に選ばれる。南船北馬の活躍で、事業拡張に大いに寄与、特に大豆、大豆粕(かす)の取引では三井物産が圧倒的シェアを握った。米、大豆と相場商品で成果を上げると次はこれまた相場変動の激しい綿糸。
  同30年、山本は本社綿花部長になる。傘下に九州紡績や合同紡績を抱え、花形役者であった。その功に対し報奨の意味で欧米視察に出掛ける。が、好事魔多し。外遊中、九州紡績の支配人守山又三が綿糸相場で大掛かりな買い占め戦に失敗、大穴を開けてしまう。市場では、山本条太郎や岩下清周(北浜銀行頭取)の口利きで三井銀行大阪支店が守山に融資したとのうわさが立っていた。
  「守山のバックに山本あり」と喧伝(けんでん)されていたため、山本が横浜港に着くと、本店から留守宅に待命の通知書が来ていて、まるで犯罪人扱い。守山の失敗がたたって三井物産の株価が暴落、帰朝早々株主に短刀で脅迫された。嫌疑が晴れると本店参事に昇格するが、自社株の暴落で山本の懐具合いはにわかに悪化、「債鬼門に満つ」ありさまで夫人を一時実家に預けるなど、“守山相場”の余燼(よじん)はくすぶり続けた。
  明治42年常務取締役に就任、大正3年シーメンス事件に連座、懲役1年6ヵ月(執行猶予4年)に処せられたが、起訴された時点で三井物産を退社、のち政界に転じ、政友会の幹事長に就任、再三大臣候補になるが、ならずじまいで「政界の七不思議」といわれた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・株式市場の一隅で将棋を差しながら一瞬で市場の空気を感知する敏捷さは、天賦の霊感という外はない
・翁の眼は平凡な眼前的の常識を超越して、いつもその先の先を、見透していた
・挫折を契機に自らの人生の新しい局面に挑戦できる
(やまもと じょうたろう 1867~1936)
  慶応3年、福井市内の藩士の家に生まれ、5歳の時上京、神田共立学校で高橋是清に英語を習う。明治14年三井物産に入社、横浜支店で馬越恭平のもとで働く。同16年本店で米穀担当、同23年満州駐在員、同33年大阪支店副長、同34年上海支店長、同42年常務就任、大正3年シーメンス事件に連座、三井物産を退社、同9年福井から衆院選に出馬、以後5回連続当選、政友会幹事長、昭和2年満鉄総裁、同11年没。
(写真は小島直記監修「山本条太郎」より)

相場師列伝

切手は貼っても相場は張らない、畑中伝兵衛氏(09/9/21)
米相場界の大御所、息の長い相場師

 「明治富豪史」などで知られる社会派ジャーナリストのさきがけ横山源之助は、明治末年の「鎧橋両岸の光景」を人物中心に描いている。
  「蛎殻町で最も看板が古く、かつ衆望を集めているのは谷崎久兵衛、同じく切手屋で目立っているのは、67歳の年齢をもって元気、壮者に譲らない畑中老人で、老熟の中に不屈の気性があり、円満の間に志操が潜んでいる。覆雨翻雲のこの街では珍とすべきものである」(一部抜粋)。
  当時の蛎殻町は米屋街とも呼ばれ、米の先物取引で賑わっていた。変わり身の早い連中が多い中で畑中は意志が強固だった。仲買と一言でいってもタイプは二色あり、お客の注文に向かって勝負する呑み屋と、お客の注文を忠実に取引所につなぐ向きがあった。後者の、郵便配達夫のように几帳面で「切手は貼っても相場は張らない」手数料主義の仲買のことを「切手屋」と呼んだ。
  谷崎潤一郎の伯父である谷崎久兵衛は、蛎殻町切っての指導者として知られるが、畑中は谷崎と双璧を成す人物であった。相場報道に力を入れていた東京毎夕新聞の記者が、天候相場期の米相場観を取材に出掛けたときも、畑中はこう語っている。
  「私は定期米市場が兜蛎(兜町と蛎殻町)両街に分設せられた時代から米相場に従事してきた斯界の一老骨ですが、顧客本位を主義とするので、米の思惑に関しては、甚だしく頭脳を悩ます必要もなく、自然本年の大海上(天候相場)については、確たる成算を持たないのは遺憾です」
  畑中は「私はお客の注文を場につなぐだけだから、相場変動の激しいこの天候相場期でも頭を悩ますことはありません」といいながら、米相場の先行きについて蘊蓄(うんちく)を傾けた。
  「これまでの天候は大変順調ですが、今後の天候を心配する人は少なくありません。現に松村辰次郎氏一派は大仕掛けの買い占めに動いて、相場は尺進寸退の強さです。新米の出回りで本来なら売られる10月限が、30銭以上も上ザヤを買われているのは米相場界では未曾有の珍現象で、歴史上特筆大書すべきことです。この買い人気が自然のものか、不自然偽勢のものか…。今後は上下500丁(1丁=1銭)幅の動きで上手にやれば大金を儲けるチャンスがありますが、私は立場上、これ以上のことを話すわけには参りません」
  肝心なところは逃げてしまう新聞記者泣かせの老獪振り。この時、大掛かりな買い思惑を張った「イ(ニンベン)将軍」松村辰次郎は失敗し、没落してしまう。
  畑中は息の長い相場師である。蛎殻町と兜町に分かれて米の取引所があった当時から相場と親しんでいるという。鎧橋を挟んで両岸に米穀取引所があったのは明治7年から同16年までである。「天下の糸平」、田中平八が相場街に君臨していた時代から米穀仲買だったことになる。畑中は若いころは大胆に相場を張ったが、歳とともに手堅いブローカーに変わっていった。
  畑中は弘化2年6月日本橋に生まれ、水道で産湯を使った生粋の江戸っ子。祖先は泉州堺の人で代々諸大名の御用商人をつとめていた。「しかし、時勢の変遷に鑑み、早くから敢然と身を相場界に投じ、往年の斯界の名士である故高山氏と協同して仲買業を開き、独特の堅実な営業振りを示し、蛎街に欠くべからざる模範的仲買人たるの観がある」(「米屋町繁昌記」)。
  毎夕新聞記者の西州居士は「予は仲買人の三大元老として畑中、及び吉野、谷崎の両氏を挙げ、三氏のために乾盃してその健康を祝福せんとす」と持ち上げる。
  谷崎は前出の久兵衛のことで、吉野は甚三郎と言い、その息子、富十郎とともに業界の世話役として蛎殻町の発展に尽くした人物。江戸っ子相場師は独眼竜将軍の半田庸太郎、高島嘉右衛門を除いては地味だが、畑中も渋味の相場師だった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・不屈の気性に高み、閑を偸(ぬす)みて、書画骨董を楽しむ余裕を存す(「米屋町繁昌記」)
・真面目に天職を突き進み声名、全国に冠絶せる亀鑑(模範)的大家なり(「日本米界人名辞彙」)
・顧客本位を標榜し、その信用、努力は同業者を圧倒した(西州居士)
(はたなか でんべえ 1845~没年不詳)
  弘化2年6月1日江戸日本橋生まれ、兜町で米相場に従事していたが、明治16年、兜町米商会所と蛎殻町米商会所が合併、東京米商会所になったのを機に蛎殻町に移り、高山商店で高山と共同経営に当たっていたが、同30年独立、毎年のように大商いを続け、同41年には東京米穀取引所から銀製の恵比須大黒様を贈られた。
(写真は西州居士編「大海上の米」より)

相場師列伝

一介の工務店主の買い占め劇、戸栗亨氏(09/9/27)
殖産住宅株足がかりに三井鉱山25%買い占め

 一介の工務店主、戸栗亨が名門三井鉱山株に狙いをつけ、買い占めに着手するのは昭和47年ごろ。ずっと無配が続いていた三井鉱山株を買い占めた動機について、戸栗は「資産株として買った」と後日語っている。当時の週刊誌などは 「子供を三井グループに就職させたかったから」と、“親バカ買い占め説”をとっている。それにしても3年後には1500万株(全発行済み株式数の25%)を買い占め、筆頭株主に躍り出る資金源はどこにあったのか。
  戸栗は昭和38年、殖産住宅の指定下請け業者になってから工事代金として支払われる殖産住宅株を大事に保有する一方、辞めていく殖産住宅の役員や社員の所有株を譲り受け、持ち株を増やしていった。
  「昭和46年8月、保有している殖産住宅株の中から二百数十万株を大和証券に譲渡した。この間に入ったのは国際興業の小佐野賢治だった。この時、戸栗名義で4億数千万円の金がH銀行馬喰町支店に預けられていたといわれている。ちょうど渋谷区松濤町の豪邸を買収するころだろう」(水野清文著「現代の相場師」)
  大和証券に譲渡した後も、戸栗は大量の殖産住宅株を保有しており、上場直前の47年10月の時点で148万株を持っていた。
  引用文中の小佐野賢治は、田中角栄元首相の「刎頸(ふんけい)の友」と知られる政商で、戸栗にとっては郷党の先輩に当たる。ある時期、東京における山梨県人会の会長、副会長の間柄であったという。そんなことから戸栗の背後には梟雄(きょうゆう)小佐野賢治の名がついて回り、プラスにも、時にはマイナスにも作用した。マスコミは「小佐野賢治氏に近いT氏の買い占め」とか「小佐野・戸栗連合軍団」などと書き立てた。また高級住宅街松濤の邸宅とは元日本長期信用銀行頭取、浜口巖根の持ち物だった。
  だが、好事魔多し。昭和48年5月31日、脱税容疑で逮捕される。同45年から47年にかけての3年間で株取引の利益が18億円に上ったのに対し、2億7000万円しか申告しなかったためで、脱税額は13億円余りで、ネズミ講の内村健一・第一相互経済研究所長に次ぐ史上2番目の巨額にのぼった。
  株取引の利益は年間50回以上、20万株以上の場合は課税対象になることを知らなかったそうだ。この時、戸栗は「株というものは取引税だけと思っていた。それで今回こんなバカなことになった。犯意はない。税金は払う余裕があるから払いますよ」と、悪びれずに語ったという。
  そして2年半後、昭和50年12月、戸栗は有吉新吾・三井鉱山社長の名において感謝状を贈られる。それにはこう記されている。「貴殿は当社の筆頭株主として当社発展のため多大の貢献をされました。ここにその功績を称え記念品を贈呈して謝意を表します」。
  戸栗が取材に訪れた経済誌記者に「わが家の宝物です」といって誇らし気に見せたのもむべなるかな、である。
  株を買い占められた会社が、買い占めの“本尊”に感謝状を出す、それも誇り高い三井閥の有力構成企業のトップからのもの。どのような事情があったのか。
  昭和47年11月、有吉が三井鉱山の社長に就任した時、戸栗は有吉を訪ね、「全面的に協力します」と極めて友好的で、この株は子孫に受け継いで他人に譲る気は全くありませんと語り、戸栗と三井は蜜月ムードだった。しかし、三井鉱山と三井セメントの合併問題が具体化してから怪しくなる。合併によって戸栗の持ち株のシェアが低くなるので、戸栗が困るといい出した。「ある財界の大物にも、もっとがめつくやれといわれて考え直しました」。これはもちろん小佐野のことであろう。
  「ここから三井グループと戸栗氏の丁々発止の株式攻防戦が始まった。有吉社長は小山五郎三井銀行会長、江戸英雄三井不動産会長ら三井グループ首脳と鳩首協議をした」(「財界」)
  結局、三井グループで買い取るしかないとの結論に至る。戸栗は平均買い値に3年余の金利を上乗せした額を主張する。決して法外な価格ではないが、株数が1500万株とも2000万株ともいわれ、75億円から100億円の巨額にのぼった模様だ。戸栗はこの時、三井系の昭和飛行機株を200万株持っていて、一括引き取りを迫ったという。これらの取引の収支バランスは当事者にしか分からないが、戸栗には相当なもうけとなったに違いない。
  株の売却問題が一件落着し、三井の首脳は「いや、解決するまでは夜もオチオチ眠れなかったが、胸のつかえがとれた」と安堵の胸をなでおろし、前出の感謝状贈呈となった。
  そして10年後の昭和62年、渋谷区松濤の鍋島藩屋敷跡に戸栗美術館をオープンする。長年にわたり収集してきた鍋島焼など、内外の陶磁器7000点を所蔵する。平成19年10月没、もうすぐ3回忌がくる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・業績の悪い会社は、潰れるか、回復するか2つの道がある。大きな資産を目減りさせないためには業績は悪いが、堅実な会社の株を買って資産として持ち続ければ安全だ
・親分肌の人、情に通じて情に生きる人
・機をみるに敏、利殖の道に長けた人
・正義感の強い人、筋を通す人
(とぐり とおる 1926―2007)
  大正15年山梨県南巨摩郡の資産家に生まれ、早稲田大学専門部建築科中退、一時郷里に帰っていたが、昭和26年上京、31年戸栗工業を設立、同37年三和実業と社名変更と同時に池袋で富士工務店を開業、翌年殖産住宅の指定下請け業者となる。工事代金を殖産住宅株で支払われたこともあるが、同社の上場で大もうけ、同48年脱税で逮捕される。同47年ころから三井鉱山株を買い始め、同50年には1500万株に達し、三井グループに肩代わり、巨利を占めた。同62年、東洋陶磁器の戸栗美術館を開設。
(写真出所は「週刊サンケイ」昭和52年6月2日号より)

相場師列伝

「休むも相場」の金言無用、林治作氏(09/10/4)
ニックネームは「華族さん」

 林治作は四六時中、何か相場を仕掛けていないと気が済まない男だった。林には「休むも相場」などという金言は無用であった。堂島広しといえども、林をしのぐほどの相場好きはいなかった。「相場なんて、毎朝思いついたままに張っておればいいのさ。売りと買いと2つしか道はないのだから」などとうそぶいていた。
  「年がら年中、自己を張り通して瞬時も休む暇がない。単にこの村(堂島)に自己を張るのみならず、株式、綿糸、砂糖の各市場に巨手を伸べるところは、正に馬触れば馬を斬り、人触れば人を斬り、手当たり次第にねじ伏せて、切り倒す八面縦横、四面無碍(むげ)の観がある。しかも、しゃくしゃくとして余裕あり。はつらつたる余勢あり。あな恐ろしや。あな凄まじや」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  林を称して「商胆、斗(ます)の如し」とか「度量、海の如し」などといった評もある。兄、林大策が明治42年、堂島で米穀仲買、角大商店を開業、治作に経営を任せてから、彼の相場師人生がスタートする。兄が率先して仲買業を始めたというより、治作が兄を説いて「これからの金もうけは相場に限る。私がやるから仲買店を開いてくれないか」と迫ったというのが真相らしい。
  林家は淡路島の名家で、明治32年大阪高商(現大阪市立大)を卒業した後、貿易商岩井商店に勤務、岩井勝次郎のもとで商魂をたたきこまれる。日露戦争で召集されるが、戦後大連で独立して貿易商を旗揚げ、野望にまかせて手を広げるが、失敗ばかりだった。
  「満州の野ッ原で、吹きさらされて来た彼は、大阪に帰ってからも、再び会社や商店入りはしなかった。金をもうけるなら相場だと、堂島に目をつけ、兄大策に薦め、仲買店を開かせた」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  一脚のいすと灰皿を乗せた小さな丸テーブル一台という粗末な店構えでスタートしたが千客万来で繁盛した。その賑わいぶりは森儀こと森岡儀蔵の店と双璧を成した。林の人柄が開放的で、だれとでも親しく交わったからだろう。次のような同時代評が残っている。
  「人生至るところに知己多しとは、けだし君の如きをいうのであろう。その知己が畏友であるか、また悪友であるかは詮議の要なし。君は宏量闊達、財を散ずること、有益たると、無益たるとを問わず、屁とも思わぬ観があるが、なかなかどうして…。瓢箪(ひょうたん)ではないが、肚にしっかり締めくくりがある」
  治作が最初に巨利を占めるのは大正に入って神吉なる大相場師の買いに同調した時だ。神吉の買いで1石20円台にはね上がると皆売り向かう。それでも神吉は買い進む。24円台にまで上がり、「当限高、先限安」の逆ザヤになったところで治作はそっくり手じまった。買い本尊の神吉はなおも頑張って、もうけを吐き出すが、治作は20万円の巨額を手にした。大正10年の石井定七の買い占めには売り向かってもうけを膨らませた。治作はあまり細部にわたって考えるタイプの相場師ではない。大づかみにとらえて、大局観から相場に臨んだ。相場を軽く考えて仕掛けも手じまいも早かった。
  治作は人一倍商売熱心だが、正午から1時まで相場が立っていない間は昼寝を欠かさなかった。そして夜は酒をあおった。「斗酒なお辞せず」というよりも、「巨鯨百川を吸う」鯨飲ぶりで、底なしの酒豪だった。
  夫人が治作の健康を気遣って酒量を制限していたから、酒楼に通い、夜を徹して痛飲した。酒の席では商売や相場の話は一切持ち出さず、芸者を相手に賑やかに遊んだ。なかなかの芸達者であった。
  「もし興旺(勢いが盛んになる)せんか、モーニングコートの瀟洒(しょうしゃ)なオンいでたちのまま、槍錆と称する体操を開始し、どじょうすくいと称する室内運動をおっ始める奇観を呈するとか」(「市場の人」)
  治作は当時の堂島では数少ない高商出で、「新知識」と期待された。大正15年には堂島米穀取引所の取引員組合委員長に就任、55人の猛者たちを束ねることになるが1期務めただけで須々木庄平にバトンを渡す。
  林に「華族さん」というニックネームがついていたのは「雲上人」の雰囲気を漂わせていたためという。林家は徳島藩蜂須賀氏の重臣で、代々淡路島を治め、治作で実に13代目だという。そんな家柄のせいかもしれない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・覇気満々、元気凛々(りんりん)、ゴムまりの如(ごと)くなんでも弾き飛ばす男性的な強さを持つ
・世事百般には虹のような気を吐くが、人事、利害に関することでははなはだ要領を得ない。老かいで凡庸の人に非ず(「市場の人」)
・大胆にして細心、投機界の人としては完成に近い
・見込みの立たぬ者を助けるのはかえって害になる(「黄金の渦巻へ」)
(はやし じさく 生没年不詳)
  兵庫県洲本の出身、大阪高商(現大阪市立大)を卒業、兵役に服したあと、23歳で貿易商岩井勝次郎商店に入る。日露戦争に従軍後、大連で貿易商を開業するが、失敗に帰す。明治42年、兄、林大策が開業した堂島米穀取引所の仲買店角大商店に従事、大正10年兄が亡くなったあとは治作が代表者となり、同取引所の取引員組合委員長を務める。
(写真は大正時代の大阪堂島米穀取引所、宮本又次著「大阪商人太平記」より)

相場師列伝

ウワバミに売り向かう、森戸鈊太郎氏(09/10/12)
筆をソロバンに持ち替えた異色の経歴
「森戸殺し」の包囲網を撃破

 歴史家の山路愛山が「現代富豪論」を著すのは大正初めのこと。中で「株式市場の英雄」の章を設け、こう論じた。
  「帝国議会よりも、さらに大なる影響を国民の生活に及ぼすべき大金持ち、小金持ちの参会所あり。株式市場これなり。株式市場を支配するものは人民の給金を支配し、人民の給金を支配するものは人民の生命を支配するものなり」
  そのころ株式市場を牛耳っていた人物として、小池国三、福島浪蔵、神田雷蔵のいわゆる「三ぞう」を挙げると同時に、森戸鈊太郎を英雄の一人に推している。
  森戸は新聞記者から株式市場に入り大成功を収め、築地に豪邸を構える。東京株式取引所の売買高ランキングで森戸が率いる沢商店はしばしば1等賞を占めた。「東京株式取引所五十年史」には、その凄さが記録されている。明治41年下期から同44年下期まで7期のうち6回まで1位で1回だけ2位だった。
  「沢商店は村上貞吉氏の名義なれども、まことの主人は森戸氏なり。この人はやまと新聞社長松下軍治氏の店たる三輪商会が盛んに東株を買いし時、森戸は初めは買い方で、一転売りに回り、それより売り方針を続けて大いにもうけ、一蹴して富豪の列に入らんとしたりしたが…」(「現代富豪論」)
  「ウワバミ」と称された松下軍治の東株買い占めに売り向かって勝利を収めた森戸は、桂太郎内閣が公債政策で景気浮揚を図るのを軽視して売り方針を変えなかった。このため、ウワバミ軍治を蹴飛ばして挙げたもうけをかなり吐き出すことになる。愛山は「さすがの猛将も時利あらず、騅(すい、あしげの馬)往かず、という悲惨の光景に陥りたれども、捲土(けんど)重来の勇気は、なお有せりという」と駿馬の再起を期待したが、再び立つことはなかった。
  森戸鈊太郎が新聞記者をなげうって投機界に転じるのには訳があった。森戸は万朝報(一説に改進新聞)の編集局にこもり、10年余にわたり政論を書き続ける。だが世に益することは何もできない、子孫に自慢できるような業績もない、と空虚な気持ちに襲われる。そして筆をソロバンに持ち替えるのは明治35年ころのことだ。記者時代の智略と先見性が投機界で発揮される。起業熱の高まる中、権利株で巨利を握り、仲買人の権利を手にする。「兜町盛衰記」の著者、長谷川光太郎は次のように述べている。
  「大沢幸次郎さんの沢印の看板を継いだのが森戸鈊太郎さんです。(中略)『もうけて引退した看板だから縁起がいい』というので、取引所の重役に渡りをつけて、その看板を買ったわけです。ずば抜けて慧敏な頭の持ち主でしたし、沢商店を引き受けるくらいですから、日露戦争の相場では、これまた相当もうけていたはずです。その後、数年にわたって極めて派手な営業振りを示し、月々の売買高にしても、断然群を抜いていて…」
  引用文中の大沢幸次郎は、明治後期の兜町を彩る大相場師で、日露戦争後のバブル相場崩壊で売り越し、巨利を収めると、さっさと引退した点は福沢桃介と共通している。
  沢商店は森戸の積極策で風雲を呼んだが、長続きはしなかった。ライバルの山栗商店に籍を置いていた自由民権運動の生き残り大矢正夫が自伝で証言している。大矢が山栗の金沢出張所主任として成績を上げていた時のことだ。「沢商店主、森戸鈊太郎氏、思惑相場に失敗して、京浜間にては融通全く途絶せしをもって、辣腕を有せる店員、泉文治氏を北国に派し、富山、金沢、福井に沢商店出張所を開始し、客より入る証拠金の半額を充てて…」(大矢正夫自徐伝)。
  森戸の全盛期に兜町では「森戸殺し」という言葉がはやるほど地場の標的にされた。
「多数の仲買人を敵として市場に勝負を争いし際の如き、真に虚々実々の妙手を極め、『森戸殺し』の攻囲軍を駁撃し、かえって数十万円の奇利を博せるは市場の逸話として、彼の男振りを上げることその幾段なるや知るべからず」(達間平一郎著「財界一百人」)
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・社会の表裏に通じ、人情の機微をうがつ
・性快活にして気宇宏大、覇気に富む
・人を御するに妙を得るは、よく万金を散ずるによるといえども、偉ならずや
・権門、富豪と交りて、政財界の消息に通じ、会社の内情を知悉して、常に機先を制す
(もりと しんたろう 生没年不詳)
  広島県出身、初め万朝報(一説には改進新聞)に籍を置いていたが、国家の利益になることが少ないと、投機界に入る。明治38、39年の起業ブームに際し、権利株で大もうけし、同40年東京株式取引所仲買人、大沢幸次郎の沢印を買い取り、積極営業で評判を呼ぶ。浮沈を繰り返すが、破綻、兜町での栄華は短かった。
(写真出所は「財界一百人」)

相場師列伝

証券会社幹部の身で相場師の影響力、斉藤博司氏(09/10/18)

人呼んで「斉藤相場」、チョウチンも
  昭和35年当時の兜町では、佐渡島金属社長の木村磊三、花月園観光社長の松尾嘉右衛門、近藤紡績所社長の近藤信男らが大仕手としてマスコミを賑わせていた。これら豊富な財力にものいわす一匹狼の相場師に伍(ご)して、証券会社に所属し、大きな資金を動かす相場師が登場する。その代表格が山一証券の山瀬正則であり、日興証券の斉藤博司であった。北浜には大井証券の大井治がいた。
  証券各社が推奨銘柄を競い合った時代、山瀬がつくり出す山瀬相場には多くの信者が集まったが、斉藤相場にも追随買いの大きなチョウチンがつき、「斉藤機関」と呼ばれるほどの巨大資金を動かした。山瀬よりもひと回りスケールが大きく豪快だったとの評価も残っている。
  「斉藤博司は日興証券の一幹部に過ぎないが、“斉藤相場”といわれる名をつくらせるほどの威力を持っている。山瀬は目先が見え過ぎて豪快さに欠ける。その点、斉藤は組織を見事に活用し、日興証券好業績の大きな歯車の役割を果している。日興証券は昭和34年9月期の決算で、表面利益26億円を計上し、トップを切った。これには斉藤氏個人の力に与って余りあるという評判だ」(「週刊株式」)
  斉藤が本腰を入れれば当時のカネで2、3億円を動員することができたという。相当大きな客が付いていたことを物語る。
  「昭和33年11月、日興証券は機構改革を行って、本店営業部は第一営業部と第二営業部に分割された。第二営業部は本店直接の大手投資家を掌握する部門であり、斉藤はこの部長に昇進した。この時期から、兜町では“斉藤相場”とか“斉藤機関”説が、いかにもまことらしく流布されるようになっていく」(水野清文著「現代の相場師」)
  斉藤博司は昭和4年、遠山元一の川島屋商店に入社、働きながら大倉高商を卒業する苦学力行の士で東新株の場立ちをやっていた。株屋に入った若者のあこがれの職場は場立ちであり、中でも人気銘柄東新の場立ちは花形役者で将来の出世が約束されたようなものだった。だが、第2次世界大戦で回り道を余儀なくされた。
  戦後は郷里で商売をやっていたが、昭和27年遠山の意向を受けた吉野岳三副社長(後に社長)に呼ばれて日興証券に入社する。36歳の遅れてやってきた青年は営業の見習いから受渡係を経て、めきめき頭角を現す。
  同30年には営業部第一課長に昇進、早くも中小企業主、中小金融機関をがっちり押さえて斉藤ファンをつくり上げた。同31年の船株相場で大きく勝利したあと、33年7月に始まる岩戸景気では、斉藤は本田技研(現ホンダ)を前面に押し立てる一方、新三菱重工の大々的な推奨販売にも乗り出す。同年7月には日興は東証売買高ランキングのトップに躍り出し、入社から6年で部長職に就いた。
  同34年に入ると、新しい夢の銘柄の発掘に努める。「それが市村清の理研光学だった。彼は取り巻きの大口投資家に火種を抱かせ、買い上がり始めた。株価はみるみるうちに上昇、7月には200円の関門を抜いた。10月末には500円を抜いた。現物人気株の花形となった」(同)。
  本田、理研で大勝利の斉藤は日本水産、報国水産など水産株でも成功を収め、次なる目標を八幡鋼管に絞る。継ぎ目なし鋼管の将来性、特にソ連の石油パイプラインへの期待で勝負に出るが、株価全体が調整期に入っていたこともあって、失敗に帰した。数々の大勝利は1回の敗北で帳消しにされる。花の営業部長から得意先部長に移され、歩合外務員たちを統轄する。ほどなく日興証券系列下の大興証券に移籍する。
  この証券会社は旧日産コンツェルンの始祖、鮎川義介の秘書役をつとめた人物が社長をやっていたことも手伝って、鮎川の威光をちらつかせながら、日満興業株で再び勝負に出る。60円から買い始め、またたく間に200円にハネ上がるが、同39年に入って株価の雲行きが怪しくなる。
  実は日満興業の経営幹部が、持ち株を担保に街の高利に手を出していることが分かり、大手銀行が手を引いたためだった。ほどなく日満は倒産する。数々の勝利を挙げたものの、日満興業1社の失敗で大興を退社する。
  その後の斉藤は、日興系の山加証券に身を寄せていたが、充電期間を経て株式評論家に転じた。昭和60年代に入ると「金脈株」「仕手株」など、相次いで著作を発表するが、近年の消息はつかめない。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・豪放型であり、真っ正直、熱血漢である。相場を張る時はまさに豪華、華麗、一直線型の相場を張った(水野清文)
・思ったように進展しないとみたら、できるだけ早く退かせる。逆にいけると思ったら相場全般の水準とにらみ合わせ最終目標点まで突っ張る
・金の成る木は兜町にしかない(本人談)
(さいとう ひろし 1915~ )
  大正4年千葉県の網元に生まれ、昭和4年川島屋商店(後の日興証券)に入社、苦学して同9年大倉高商(現東京経済大)を卒業、兵役を経て、第2次大戦後は千葉県小湊で海産物の販売に従事、同27年、日興証券の創業者遠山元一の意向を受けて再入社、同30年本店営業課長、同33年第2営業部長、同37年大興証券取締役、のち株式評論家に転じた。著書に「金脈株」「仕手株」「日本経済新聞で儲ける法」など。
(写真出所は「週刊株式」昭和35年新春号より)

相場師列伝

易断信じ破滅した相場師、馬場金助氏(09/10/25)
鈴久に無担保融資した侠気

 日露戦争バブル相場の崩壊で、相場師の命運を断たれた相場師の代表格は、「鈴久」こと鈴木久五郎であった。鈴久と親密な間柄にあった馬場金助も破滅した。馬場の抱える大玉が投げられるまでは、この相場は底なし沼のように下げが続くとみられていた。実際、馬場の投げ完了により相場は底値に届いた。
  「市場でこのガラは、馬場討死相場と唱えられた。というのは、同氏は熱狂時代からの思惑を、この時、初めて投げたからである。熱狂当時からの玉を維持したものは、同氏以外には恐らく一人もいなかったようである。どうして氏は、そんなに頑強に思惑を継続したのか。刀折れ矢尽きて、最期のドタン場まで踏ん張ったなど、大胆か、馬鹿か、ちょっと見当が付かなかった」(長谷川光太郎著「財界盛衰記」)
  横浜の大富豪、平沼専蔵が経営していた横浜銀行の支配人兼東京支店長であった馬場金助は、3度の飯よりも相場が好きで、大きな建て玉を動かしていた。当時の兜町でスーパースターの存在であった鈴久を、窮地から救い出した「義侠の人」としても知られていた。鈴久は後年、馬場について語っている。
  「私は今でも馬場金助氏を徳としている。氏の恩は永久に忘れぬ。氏は私とは一面識もない人であった。たとえ一敗地にまみれても、私の目の黒いうちは、決して貴下にご迷惑をかけませぬ、と誓うと、大いにやれと励ましてくれ、早速45日の期限付きで20万円を貸してくれた。天下の銀行のすべてが私を危険視している際に、馬場氏1人は義侠心をもって私を救済してくれた。氏は私の永久に記憶すべき人である」
  その鈴久は、日露戦争の勝利を見越して大きな買い玉を建てていた。折しも、日露戦争の講和を決めたポーツマス条約に反対する民衆による明治38年9月の「日比谷焼き討ち事件」などを機に株価が暴落。馬場は追い証責めにあった鈴久に対し、無担保で融資を実行、これをバネに鈴久は伝説的大勝利を収める。このことで、幾多の鈴久伝に馬場は命の恩人として登場する。当時の20万円は現在の価値に直すと、ざっと10億円。馬場の融資がきっかけとなって、80万円がまたたく間に集まった。
  馬場金助は埼玉県出身で、平沼専蔵の甥に当たる。相場が好きで毎日のように京阪間を往復していた。
  明治39年後半からの熱狂相場を、利乗せ(既にある買い建て玉を増やす相場戦略)を重ねて買い進み、約200万円の利益を計上するが、利食い売りすることはなかった。翌40年1月にピークアウトした後も買い下がって買い玉はそのまま維持していた。
  自己資金だけでなく、銀行の資金もつぎ込んで、北海道炭鑛汽船株を中心に買い思惑を継続していた。友人は、「君、そんなに無理しない方がいいぞ」などと忠告したし、仲買店主の中にも「この相場を買い下がるのは乱暴じゃないか」などと苦言を呈する者がいた。
  しかし、馬場は聞き入れなかった。易学を信じ、容易に方針を変えなかった。前出の長谷川光太郎は「兜町盛衰記」で述べている。
  「遠からず北炭株は250円になりますという、ある易断師の言葉を信じてやっていたということでした。あきれた話です。易者の言葉を信じて、最期のドタン場まで頑張った馬場さんの度外れた行為には、誰しも唖然としましたが、馬場さんの討死で、熱狂時代も一段落を告げました」
  暴落で因果玉となり、売り方の標的にされていた馬場の買い玉が市場に投げ出され、さすがの大ガラ相場もひと区切りをつけた。
「馬場討死相場」の凄惨の足跡を当時の指標銘価である東株(旧株)でみておこう。
1月 526.95
2月 555.00
3月 357.00
4月 207.00
5月 145.05
6月 147.95(月間終値、単位円)
  この間のピークは1月21日の755円、ボトムは6月18日の125円という崩落振りであった。馬場にとってつらかったのは、自らの破綻よりも、馬場が手ほどきした平沼専蔵の婿養子、平沼延治郎横浜株式米穀取引所理事長が相場に討たれ、耶馬渓で投身自殺したことであったろう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・追い証に責められ、進退に窮した時、馬場氏の義気に訴えて金を借り、難関を切り抜けた。私の永久に記憶すべき人である(鈴木久五郎談)
・観相家の託宣で河野広中が天下の宰相になる人物だと確信し借金を肩代わり、自宅に住まわせ支援した(「実業之世界」)
・明治40年5月の暴落を前にしてドタン場で、周囲の忠告には耳を貸さず、ある易占師の言葉を信じてやっていたという、あきれた話(「兜町盛衰記」)
(ばば きんすけ 1866―没年不詳)
  埼玉県出身。横浜の富豪で横浜銀行頭取平沼専蔵の甥に当たる。同行支配人兼東京支店長を務めるかたわら株式売買を手掛けた。明治38年9月、日比谷焼き討ち事件などを機に株式相場が暴落した際、追い証責めに遭う鈴木久五郎を救済、終生の恩人とあがめられる。同40年のバブル崩壊下で買い方針を貫き、破綻する。大正時代には王城炭鑛取締役を勤める。
(写真は「実業之世界」32巻、5号、「日露戦争成金物語」より)

相場師列伝

笹川良一の反面教師、池田梅蔵氏(09/11/1)
大阪堂島全盛期に隠然たる力

 大正時代の堂島で「池梅の親爺さん」と親しまれていた池田梅蔵は笹川良一の父、鶴吉の遺産を管理・運用していた。笹川が相場をやってみたいと申し出るが、池梅は「相場は甘いものじゃない。おれだって損をするくらいだからやめておけ」と受け付けない。だが、笹川は是非にと懇願する。池梅が相場でよく損をしていることを知っている笹川は、池梅の反対をやればもうかるはずと確信した。
  「池梅は商売人なのに、相場を張ってよく負けている。そこで笹川は『おっさん、あんた、今売っとるのか、買っとるのか、どっちや』と聞いて、『売っとるのや』と答えると、池梅の主人の逆をいって買いに出るのだった。買うといえば売りに出て、池梅の逆、逆といった」(山岡荘八著「破天荒 人間笹川良一」)
  後に相場師としても名を成す笹川良一にとって、池梅はまさに反面教師であった。池梅の相場下手は堂島界隈では定評があったとみえる。大阪毎夕新聞の岡村周量記者も書いている。
  「池梅の親爺は相場師としては、誠に下手なのである。下手であるから、手が合わない(損をする)。手が合わないから下手であるのか、知れぬが、たいてい、その逆を張っておくと、われ等に小遣いをもうけさせてくれたものだ。『親爺さん、この頃、どうな』と、買いか、売りかの見当探りを立てると、彼は古曽部焼きのような顔をすくめ、頭をかいて『やめた、やめた』と大笑いした」(「黄金の渦巻へ」)
  池梅は大きな相場では損ばかりしていたが、小相場を取るのはうまかったという。そして堂島の黄金期を築いた高倉藤平とは「莫逆の友」であった。高倉を堂島米穀取引所の理事長に担ぎ上げたのは池梅の腕力であったし、高倉が志半ばで病に倒れた後、養子の高倉為三が後継理事長となるが、この時も池梅が後見人の役目を果たした。
  歳を取ってからは相場師としての生彩を欠いたが、若き日は大胆に立ち回った。19歳のときに大相場を張り、磯野小右衛門の目に留まる。奈良米穀取引所がオープンする際には、磯野に頼まれ同取引所の仲買人として奈良まで出掛けた。当時24歳、仲買人には25歳以上という年齢制限があったのだが、磯野の特別のはからいで認められた。若き日の勇壮振りを物語る資料がある。
  「買い占め、売り崩しの乾坤一擲式の快挙が周期的に敢行されるごとに、その首魁たる者はいずれも池梅の鼻息をうかがわなければ、ことを挙げ得ざるほど、池梅の勢力は隠然として大を成していた。高見某なる者が、無謀なる大思惑を試みて、市場を混乱に陥れ、時の理事長・高倉藤平に累を及ぼした際、池梅は高倉のためにみずから犠牲になって、仲買人の地位を棒に振り、市場の危機を救うた任侠の所為は、今なお語り伝えられ世人の推奨するところ」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  父親が関西で名高い侠客であったから、その血を受け継いだのか、胆力を養うために石槌山にこもって荒行もした。ある時、池梅が農商務省に鶴見商務局長を訪ね、名刺を差し出すと、鶴見は「かねてよりお名前を承っておりました。取引員にこのようなお方がおいでになるのは、はなはだ心強いところで…」と、どきまぎした。名刺には「国粋会大阪本部副会長」とあったのだ。黒龍会の頭目、内田良平も可愛がっていた。犬養木堂は「勇猛精進之心 堅貞永固之力」と書いて池梅を称えた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・剛毅の人である。一面温情の人であり、涙の人でもある。正義を貫くためには万人を敵として、ビクともしないのは、その剛であり、社会的に陰徳を施すのはその情である。君を仰いで来たる弱者を抱擁するは涙である(「市場の人」)
・ソロバンだけの親爺ではなかった。全生涯を任侠の気をもって押し通した(「黄金の渦巻へ」)
(いけだ うめぞう 1872~没年不詳)
  明治5年大阪府出身、父は鼈甲屋万吉という侠客であったが、5歳で父を亡くし、7歳で鍛冶屋の小僧となる。10歳で水野沢斉の塾に入り、15歳で上本町の米穀商大忠商店に入り、米つきの頭領となる。19歳の時、堂島で大相場を張り、同27年奈良米穀取引所設立に際し、磯野堂島米穀取引所理事長の勧めで、奈良に出向き仲買人となる。同29年堂島に戻り、仕手として活躍、一時全国を遊侠し、鉱山業を手掛け、同40年再び堂島で仲買業を開く。
(写真出所は大阪今日新聞社編「市場の人」より)

相場師列伝

商品のリスクを株の銘柄に転嫁、安部幸兵衛氏(09/11/8)
超文明的と呼ばれた横浜の巨商

 安部幸こと安部幸兵衛は横浜を代表する巨商である。
「生き馬の目を抜くどころか、人間1人くらい殺すのはなんとも思っていないほど競争の激しい開港場の横浜で、君は日本有数の大商人だけあってそのやり方は凡人と異なる。君の如きは文明的商人というよりも、超文明的商人という方が適当であろう」(「実業之世界」)
  安部幸が超文明的と評されたのは、株式市場を積極的に利用してその財を増やしていった相場師の先駆けだったからであろう。砂糖、小麦粉、外米、石油といった値動きの激しい商品を扱い、そこで生じるリスクを、砂糖会社、製粉会社などの株式で逆ポジションをとり、上手に保険つなぎを実践した。同時に横浜蚕糸外四品取引所の仲買も兼ね、相場師としても積極的に手を広げた。
  日露戦争景気で大もうけし、成り金が続出するが、その後の反動安で元の歩に逆戻りする連中が後を絶たず、命まで絶つ人も出た。「安部幸も今度ばかりはアベコベだろう」「2、3年来の大もうけは、そっくり吐き出しただろう」などと市場では、安部幸没落説も流れたが、安部幸はビクともしない。それには訳がある。
  「当の幸兵衛さんは、平気の平左、店の大火鉢を前に、例によって、にやにや、薄気味悪い笑いをもらしていた。それもそのはず、彼は青木台町の別荘から、東京の丸上(半田庸太郎)、山一(小池国三)、時には富倉林蔵といった仲買と連絡を取り、横浜の倉庫に積まれたストックを考慮して、台糖、日糖株の先限に売り玉を建て、さらには東株、郵船、東洋汽船、鐘紡の先限をも売っていた」(倉沢増吉著「兜町太平記」)
  安部幸は手持ち商品の値下がりを、関連株にリスクヘッジするばかりか、日露戦争バブル景気の反動を見越してカラ売りを重ねていた。店の電話は使わず別邸から指令を出していたので、周りの者はだれも気付かなかったという。多くの成り金を直撃したガラは、安部幸にとっては、ヘルメスであり、マーキュリーであった。「ガラよ来たれ」と熱烈歓迎だった。
  日露景気の上げでもうけ、下げでもうけた安部幸は取扱商品を綿糸布、木材、樟脳(しょうのう)、薄荷(はっか)、雑貨、船舶、石炭……と手を広げ、本店を横浜から東京に移し、国内支店網を次々と増やす。さらには台湾、中国大陸各地、香港、シンガポール、バンコクと縦横に営業ネットを張り巡らした。「小三井」とも呼ばれた。
  大正期の横浜で茂木合名、増田屋、と並んで安部幸は天馬空を行く勢いがあったが、安部幸はリスクヘッジを忘れない点で独特だった。
  「安部は有力な株主として、多くの株式会社の株を所有していた。たとえば日糖、明治製糖、郵船などの株式を東株市場における長期清算の先限につないでおいて、先へ先へと乗り換え、乗り換えして、手数料程度のものは損しても、場合によっては手持ちの株全部を渡してしまうつもりで常に市場に売り建てていたことであろう」(同)
  ところが、大正バブル景気の絶頂で安部幸兵衛は他界する。家督を継いだ長男の幸之助をはじめ、リスクヘッジの思想が継承されていなかったため、大正9年のバブル崩壊で安部幸兵衛商店は破綻する。茂木合名も増田屋も没落する。横浜経済の黄金期に輝いた巨星は相次いで地上に落ちた。
  横浜商工会議所百年史編集室がまとめた「横浜経済物語」という本に次のような記述がある。「あの華やかで豪勢だった茂木、増田という浜の中心貿易商が、今くつわを並べて倒壊した」。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・君の如きはよく財貨を蓄積し、よく散財するに時機をもってす。真の国士と称すべし(大正人名辞典)
・脚で働いたのは昔のことである。時代の進歩で手で働くようになり、今日では頭脳で働く時代となった。君はそのよき模範である(実業之世界)
・慧眼(けいがん)にしてよく商機をとらえ、事を処するに果断、奢侈(しゃし)を遠ざけ、簡素を旨とし、深く情誼(じょうぎ)に富んだ(財界物故傑物伝)
(あべ こうべえ 1847~1919)
  弘化4年富山(一説には東京)出身、安政6年開港とともに横浜に出て海産物商に勤め、のち増田嘉兵衛と共同で砂糖、小麦粉商を営む。明治17年増田と合意の上、増田屋安部幸兵衛商店として独立。同27年鈴木藤三郎らとわが国初の製糖会社、日本製糖(後に大日本製糖)を創業、大正2年日清紡社長、同7年安部幸兵衛商店を株式組織に改め社長就任、翌8年没、家督は長男、幸之助が相続。
(写真出所は「財界物故傑物伝」より)

相場師列伝

「赤いダイヤ」のモデル、柴源一郎氏(09/11/15)
徹底調査、足で稼ぐ男

 梶山季之の「赤いダイヤ」は今も読み継がれる相場小説の傑作である。草創期の東京穀物商品取引所を舞台に小豆の買い占め戦を描いたこの作品は、映画やテレビドラマにもなった。当時、同取引所の理事長であった「売りの山種」こと山崎種二(小説では松崎辰治)を相手に買い占めに出るのが柴源一郎(小説では森玄一郎)。梶山季之はこう描写している。
  「この男は、森玄一郎という、大陸浪人上がりの相場師であった。すこぶる向こう気の強い男で、相場師仲間でも『買い』一本槍の男として有名である。彼には売り方は生涯の敵である。そこで彼は車のシートのみならず、家の応接間でも、売り方を象徴する<熊>の毛皮を敷いているのであった。行住座臥(ぎょうじゅうざが)、売り方を尻の下に敷き、闘魂をかき立てているわけである」
  柴源一郎はかつて「あの小説はほとんど本当にあったことです。ただし、わたしに彼女がいたことになっていますが、あれはフィクションです。おかげで家内に痛くもないハラをさぐられて…」と笑った。
  130万円の資金で小豆を買い、第一ラウンドで5500万円もうけた。勢いを得た柴は建て玉を大きく膨らませ、一時は10億円もの利益を得た。しかし、買い占めた現物を処分する段になって、もうけをはき出す。それでも3億円近いもうけが残った。昭和27年に東京穀物商品取引所が創立されて間もないころの3億円は、現在の価値にすれば数十億円に達する巨額で、後に甘栗商「甘栗太郎」の開業資金となる。
  小豆を買い占めるに当たって柴は、徹底的に気象と海流を調べ、産地北海道の作況調査のために足を棒にして十勝平野を駆けずり回った。北海道の気象と近いといわれる富士山の頂上にも登った。そして不作と断定して買い占めに取りかかる。
  仕手戦の最中に現物の裏付けのない倉荷証券(カラ荷証券)が出回っていることが発覚し、山種は責任を取って取引所の理事長を辞任、これを機に柴も相場から手を引いた。「あのままやっていたら裸にされていたかも知れません」と、意味あり気に笑った顔が思い出されるが、柴は晩年になっても相場をやめなかったと担当外務員が話していた。
  柴源一郎は中学校から大学まで夜学に通い続け、しかも「右総代」を貫いた根性男である。柴が終世の本業となる甘栗との出合いは昭和11年、しかしすぐ兵役に従い、ブランクの後、同17年本格的にかかわっていく。第2次大戦末期の中国市場は、激しいインフレ下にあった。当然、「カネ」よりも「モノ」が物を言う。種苗の取引も手掛ける。満州政府に納める種苗の代金はカネではなく、獲れた作物でもらうことにした。バーター取引によりもうけは一層膨らんだ。広い中国大陸をロバにまたがり奥地に行くほど安い値段で手当てできた。
  カラ売りの恐さを知らされたのもそのころだ。満州政府に納入契約したあとで種子の相場が暴騰した。密告するものがいて、中国が値上げしたとの説もある。「品物を手当てする前に売る約束をしてしまった。そんなことをすれば、足元を見られるに決まっている。カラ売りのトガメですな」。100万円(現在の貨幣価値で10億円超)を超す損を被った。確かに天津市内の相場では100万円の赤字が発生するが、柴青年は現物の手当てに奔走し、命がけで奥地へ入り込み、安い種子を見付けるのに腐心した。巨損を抱えるはずが、逆にもうけが出たという。リスクを冒し、足を使って稼ぎ出した。
  後年、「相場の神様」山種を相手に小豆相場で東奔西走する素地は、中国大陸で培われたのかも知れない。第2次大戦後、甘栗太郎の店舗を次々と拡充するに当たって、自らの足で立地条件を調べることを心掛けた。朝昼晩、晴れの日、雨の日、平日休日、街角に立って人の流れを読んだのも、中国大陸時代の学習効果に違いない。
  愚直に生きてきた柴源一郎。かと思うと「商売の『商』の字はロハで立つと読めます」といって高笑いする。「現代の怪物」と称された柴が88歳の長寿を全うして4年余り、今は女婿が2代目として采配をふるう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・あわてるな、明日があるさ
・これはと見込んだ人とはトコトン付き合う。しかし、カネは貸さない
・流れに逆らうな、引きところは引く
・約束を守る。ごまかさない。相手の儲けも考える
・カラ売りは怖い。徹底的に実地調査
・弾みがついていたら攻めまくれ
・罫線は過去のもの、将来は読めない
(しば げんいちろう 1917~2005)
  大正6年、茨城県下館市で農家の長男に生まれ、13歳で上京。運送店に勤めながら中央商業から中央大学に学ぶ。昭和11年北沢洋行に入社、兵役のあと同17年復職、甘栗・種苗の貿易業務にかかわり、同21年郷里に引き揚げる。ヤミ屋などを経て同27年東京穀物商品取引所創設に参加。同30年甘栗太郎を創設、社長就任。同37年日本甘栗加工商業組合理事長(同52年まで)に就任、平成17年他界。
(写真は経済ルック社提供)

相場師列伝

株、米、土地なんでもござれの田中貞二氏(09/11/22)
代議士と相場師、2足のわらじ、「定石の逆」で大成功

 田中貞二は昭和7年の総選挙で愛知3区から立候補し、見事当選を果たした。周りの者は「これで田中も相場を忘れるだろう」とうわさした。ところが、当人は「ナンノ、ナンノ、本職は相場師じゃ。相場を忘れて生きていけるか」と代議士と相場師という2足のわらじをはくことになる。
  当時の投機界において「名古屋に田貞(でんてい)在り」と盛名を上げた田中貞二は、株から米から片っ端に手掛けた。「米に株に綿糸に綿花に生糸、砂糖、ゴムでござれ、毛糸でござれ、不動産であれ、盛んに輸贏(ゆえい、勝負)を争ったものだが、株式で最も成功した」(柴田専之助著「相場街の秘話」)。
  田中貞二は織物業の盛んな尾西一宮の出身で明治末期に堂島に出て米相場の「両建てのかけ外し」(サヤ取り)で成功し、大正時代に入って名古屋株式取引所(名株)を主戦場にして株界の花形役者となる。欧州大戦ぼっ発で株価が動意付くと、中村慶吾、後藤新十郎、安藤竹次郎といったつわものどもと渡り合った。
  初めての大勝利は横浜取引所株だった。同取引所の株が70円前後のとき、欧州大戦が終われば米国の景気が好転、生糸が大いに売れるに違いないと読んだ。横浜へ出掛けて取引所幹部に会い、12%の配当は十分可能と判断し、現物、先物合わせて2万株買い占めた。果たして株価は上昇を続け、200円を突破したところで、そっくり売り抜けた。田中は後年語っている。「意外の暴騰を演じて、私が今までに一番もうかったのはこの浜取の株です」
  これより先、大正7年に名株の取引員の権利を取得、田中貞二商店を開業するが、顧客はほとんど取らず、もっぱら自己思惑売買一点張りの店だった。浜取株で巨利を占めると、雑株をかれこれ2万株売り建て、ドテン売り方に回った。株価は天井知らずに上げ続け、追い証攻めにあうが、大正9年春の大暴落で助かった。だが、田中は「買い方の総投げに向かって全部の玉を手じまったが、半分を残しておいたら、その後の引き続く暴落でドエライもうけができていたのに…」と欲の深いことをいう。
  大正12年には名株取引員組合委員長に就任するが、組合内のゴタゴタでいや気がさし、同14年12月25日、取引員を廃業してしまう。店は閉めても相場はますます盛ん。新東を3万5000株もカラ売り、暴騰を食らった時には「田貞は自殺しないか」と周りを心配させた。
  昭和4年には米相場を手掛ける。名古屋、東京、大阪の3市場で合計20万石(1石=150キロ)も買い建てた。ところが、政権交代で民政党の浜口雄幸内閣が出現して緊縮政策を打ち出し、米価は暴落する。20万~30万円の損失をこうむった。翌5年にはこりずにまた15万石買い建て、今度は見込みは的中する。
  「8月の暴騰で40万~50万円の利益が入り、そこで手を締めていたらうまいのですが、ずうずうしいから、今度は吉村の大売り玉においで、おいでをされ、戦線を延長したところが、未曽有の豊作予想数字の発表で土崩瓦解の暴落となり、いっぺんに前の利益を吐き出しました」(同)
  このころは手じまうタイミングを失することが多かったが、昭和6年12月の金輸出再禁止で大勝利を収める。大量に抱えていた手持ち米を高騰した先物市場に売りつないでいった。
  浜口、若槻内閣に続く、犬養毅政友会内閣の出現で、積極政策への期待から皆が熱狂して買うのを見て、田中は一緒になって買う気になれなかったのであろう。現物米を大上ザヤの先物に売りつなげば損のしようがない。総選挙の費用などこの時のもうけからみれば小さなものだったはず。昭和11年、堀久作が日活株買い占め戦で苦境に陥ったとき、田中が支援し、それが機縁となって日活副社長に就任する。
  投機師「田貞」の血は、長男である岡地貞一に受け継がれ、第2次大戦後、岡地証券、商品取引の岡地を創設する。
  ところで田中は美声の持ち主で、名古屋発祥の「源氏節」が得意だった。名古屋放送局ができた時、名株の後藤新十郎理事長が推薦人となって放送局に出演願いを出すほどだった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
  信条
・私は生来、引かれ腰が強く、引かれるとどこまでも辛抱するが、利乗せは絶対にやらない。相場の定石にはまるきり外れているが改める気はありません
・太っ腹のずば抜けた大玉も張れば受け渡しもやる。大ざっぱかといえば、至ってソロバンに明るい。サヤ取り商いにかけては正米師顔負けで、駆け引きは堂に入ったものだ。誠に器用な男だ(「仕手物語」)
(たなか ていじ 1881~1951)
  明治14年愛知県今伊勢村高野島(現一宮市)出身、大正7年名古屋株式取引所仲買人、カネニ印田中貞二商店を開業、同8年日東護謨製造社長、同12年名株一般取引員組合委員長、同14年いったん仲買人を廃業、静岡倉庫社長に就任、昭和7年愛知3区から衆議院選に立候補し当選。政友会所属、同11年日活副社長、同26年死去。
(写真は「歴代国会議員名鑑」より)

相場師列伝

ビール会社の大合同を実現、馬越恭平氏(09/11/29)
三井物産の前身で相場に取り組む

 馬越恭平が初めて相場とかかわるのは、大阪の富豪、鴻池家で両替業にたずさわるときだが、丁稚奉公の身では神髄に触れるまでには至らない。本格的に相場と取り組むのは、明治6年、井上馨が創設した先収会社(三井物産の前身)に勤めるようになってからだ。井上のもとで副社長をつとめた益田孝(後の三井物産初代社長)が先収会社と馬越について述べている。
  「先収会社(せんしゅう)は主に外国貿易をやった。輸出は米、後に生糸、茶、輸入は武器、ラシャ、米、肥料、古銅などを取り扱った…私が造幣権頭を辞して東京へ帰る時、馬越が是非東京へ連れて行ってもらいたいと言うから、承諾して先収会社へ入れた」
  益田副社長のもとで本店番頭として米の売買に従事した。東北地方で1石(150キロ)2~3円で買った米が、東京では5~6円で売れ大いにもうけた。また秩禄公債の買い占めにも成功した。
  だが、収入的には悲哀もかみしめた。益田孝の月給が250円に対し、馬越のそれはわずか4円60銭。益田は前職の造幣権頭時代の給料に準じて支給されたのと、先収会社に出資していたのに対し、馬越は一切出資していなかったことも響いた。
  井上が政府高官に復帰すると、先収会社は三井国産方と合併、三井物産に生まれ変わる。益田が社長に就任、馬越は売買方を担当した。米の売買と三池炭の販売が主たる仕事であったが、明治10年、本店売買方のまま横浜支店長を兼ねる。「輸出の大宗」生糸の売買も手掛けるようになって、ドル相場とも深くかかわるようになる。
  「外国との取引に際しドルの先売り、先買いをやっておかないと、心を安んじて取引を行うことはできなかった。つまり相場の変動いかんによって、利益があったと思っていても、かえって損をしている場合があるので、横浜支店でもドルの先売り、先買いに非常に重きを置いた次第である」(馬越恭平翁伝)
  相場には一家言ある馬越が口癖のように言っていた。「日々の変動はドル相場、月々の変動は米相場、1年の変動は株式だ」。ドル相場の変動がほかの相場に比べてそれだけ激しかったという意味だろう。短期指標はドル、中期指標は米、長期指標は株という意味もありそうだ。馬越はドル相場で巨利を占め、三井物産の社業に貢献しようと、思惑売買にも力を入れた。
  明治14年ころのことだ。馬越はドル売買で大きな利益が出たと思い込み、会計主任の石光真澄に計算を命じた。石光は「肥後もっこす」の硬骨漢で知られていたが、帳簿を調べてみると、利益が出るどころか、大きな損になっていることが分かった。石光が帳面を見せると、馬越は烈火の如く怒った。
  「そんなはずがない。貴様の計算が間違っておる。おれが頭の中で勘定したところでは大きな利益が出ているはずだ」
  そう言いながら、かたわらにあった筆を取って帳簿に太く棒を引いた。この時、石光は馬越をにらみつけながら静かに陳述した。
  「計算は決して間違うことのできない仕組みになっております。株式会社の会計元帳は神聖にして犯すべからざるものです。いかなる地位の人でもそれを傷つけたり、無視することはできません」
  剛腹な馬越もこの時ばかりは参った。黙思すること約10分。「いや、おれが悪かった」と非を認めたが、石光は「この帳面に対して謝ることだ」と引かない。
  「ここにおいて馬越翁も自分の軽挙を悔い、その帳簿をささげてて神棚の上に置き、畳に頭をすり付けて丁重にお辞儀をした」(同)
  馬越は生糸の売買でも大胆だった。生糸主任の磯清五郎が生糸の買い占めを進言、「もし、間違ったら腹を切って責任を取る」と自信満々。磯の建策を入れて生糸を買い占めるが、見込みが狂って大損してしまった。この時、馬越は「約束通り切腹してもらおうか」と詰め寄ると、磯はかねて用意の短刀を腹に突き刺した。馬越は驚いて短刀を抜き取り、医者を呼んだ。幸い急所を外れていたため、致命傷とはならなかったが、馬越は不明をわびた。「君がそこまで覚悟を決めて生糸の売買に従事していることに感謝する」。
  石光と言い、磯と言い、文字通り命懸けで商売に取り組んだ三井物産横浜支店の猛者たち。そこにもう1人、投機好きの朝吹英二が加わって、横浜支店はますますにぎわう。
  だが、時代は変わり、風雲に乗じ巨万の富を握る天才肌の馬越には居づらい会社となる。三井物産を退社したあとは、日本麦酒醸造の経営に専念。ライバル企業を相次いで買収し、シェア70%の大日本麦酒の社長となり、「東洋のビール王」と呼ばれるようになる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・天才的商人肌で、商機を見るの明あり。群雄並び立たずとみれば、潮時を見て相和合する機略を蔵していた
・粋人をもって自認し、紀文、奈良茂以来のお大尽を気取ったこともある
・金銭勘定が極めて細かく、わずかな出入りもあいまいにしない(馬越恭平翁伝)
・驚くべき精力主義で90年の生涯を終え、奮闘した。周蜜、機敏、任侠、皆備わる(財界物故傑物伝)
(まごし きょうへい 1844~1933)
  弘化元年、備中後月郡木之子村(現岡山県井原市)の医家に生まれ、15歳の時、大阪の富商鴻池家に丁稚奉公し、両替業を習う。明治6年上京、井上馨の先収会社に勤め、同9年三井物産に入り社長の益田孝の知遇を得る。同29年三井物産を退社、「ヱビスビール」の日本麦酒醸造に入る。ビール会社を次々に買収、東洋のビール王、と称される。この間、衆院議員、帝国商業銀行頭取、日本工業倶楽部会長などに就任、昭和8年他界。
(写真は「馬越恭平翁伝」より)

相場師列伝

処世術巧みな北浜の相場師、伊藤銀三氏(09/12/6)
投機厳禁、波瀾(はらん)万丈なしで資産積む

 林芙美子の絶筆「めし」の主人公は北浜の株屋に勤めるサラリーマンである。「めし」が映画化された時、成瀬巳喜男監督がロケ先に選んだのが伊藤銀証券だった。戦後の北浜を代表する伊藤銀証券は堅実経営で知られていたが、地場証券として生き延びる道はけわしく、平成元年に野村証券の傘下に入り、エース証券と名を改めて今日に至る。
  伊藤銀三は若いころ、北浜の名門、高木又次郎商店(現高木証券)にいた。北浜通の中村光行は「昔、北浜でメシを食うことは、高木でメシを食うことだといわれた時代があった」と語っている。「めし」の中にも「あの時代(明治末期)、黒川、竹原、野村、高木と、この4軒が500万円の資本で、125万ずつ持ち寄り、現物団をこしらえ…」といったくだりがある。
  名門高木で相場修業の後、大正3年、大阪株式取引所の仲買人、伊藤商店を開業する。伊藤に華々しい仕手戦のエピソードはない。同時代評は「如才なき人物、世に泳ぐ妙術を持つ」とし、以下のように述べている。
  「世の中を泳ぐのが上手である。従って人の見るところ以上に資産を積んでもいる。これが信用の土台をなし、如才なくぺこつき回るのと相まって、純玄人筋の注文が入る。現物商の組合みたいな株和会の肝いりをつとめ得るに至ったのは、この玄人筋の注文を握って骨のある商いをすることが重きを成したゆえんである」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  リスクの大きい長期取引員の資格を持っているにもかかわらず、リスクの小さい現物商いを主にしていた。恐らく若い時は大きな思惑を張ったに違いないが、失敗を糧に堅実主義を標榜(ひょうぼう)するようになったのであろう。「天下の糸平」田中平八が遺言で息子たちに「投機厳禁」を申し渡したのはよく知られるところ。投機で辛酸を味わった人は異口同音に投機厳禁を言う。伊藤銀三の甥(おい)で、松下電器産業の広報部長を長く勤めた伊藤清助が今もよく覚えているのは「手数料主義に徹し、投機は厳禁」という銀三の戒めだ。「相場で大もうけしたとか、大損したという相場師らしい波瀾万丈物語は伯父から聞いたことがない」と言う。
  伊藤銀三は堅実主義だったが、営業を担当する坂岡勇治専務は相場師肌の豪胆な男だった。伊藤は北浜に店舗を構え、ほど近い石町に邸宅を持ち、週末には住吉区田辺町の別邸に帰ってくる。当時、この辺りは菜の花に蝶(ちょう)が飛び交う田園風景が広がっていたが、銀三は丹精込めて牡丹(ボタン)作りに励んだ。それは趣味と実益を兼ねていた。毎年牡丹の時期には顧客や仲間を呼んで園遊会を催した。人は「牡丹園を金もうけに利用している」と揶揄(やゆ)したり、「自ら楽しむとともに人をも楽します高士の人」とほめたりした。
  銀三独特の処世術、営業手法で伊藤銀証券は北浜を代表する堅実な店として知られるようになる。戦後は大阪証券取引所理事会議長という大御所のポストをつかむ。
  銀三には5人の子供がいた。30歳代半ばで妻を亡くし、終生やもめ暮らしを通した。若い時は北浜人種の通有として、南地、新町の花街に精力的に通った銀三だったが、妻を失ってからは人が変わったように享楽欲を断ち、禁欲的後半生を送った。後年、株式界に入ったいきさつを語っている。
  「姉婿の伊藤大助が高木又次郎商店にいた関係で、子供のころその店のお世話になり、株式仲買に興味を覚え、その後店を開いて今日に及んでいますが、養父が勤めた会社の主人が五代友厚さんで株式取引所の生みの親であり、その証券業にたずさわったことは、何かの縁といえましょう」
  今、大阪証券取引所の玄関には「大阪の恩人」五代友厚の立像がそびえている。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・黄金万能主義の信奉者であり、この信条に忠実、徹底主義者であった
・世の中の遊泳術が上手であること、余人を待たない(中村光行)
・ペコつくことにかけては傑出している。これが有力者のお引き立てをこうむるもこととなって相当にかわいがられもする
・手数料主義に徹し、投機は厳禁(伊藤清助)
(いとう ぎんぞう 1890~1967)
  明治23年北海道出身、伊藤豹三郎の養子となる。大阪の高木又次郎商店に勤務、大正3年独立して同取引所の仲買人、伊藤商店を開業。昭和19年伊藤銀証券と商号変更、第2次大戦後、大阪証券取引所理事会議長をつとめる。昭和42年他界、謡曲が趣味だったことからか、戒名は高謡院銀嶺月清大居士。長男清兵衛が後を継ぎ、第2代社長に就任する、同45年弟勇吉が第3代社長、孫の伊藤博夫が第4代社長の時、野村証券の傘下に入り、平成元年エース証券に変更。
(写真は河本寛編「史蹟花外楼物語」より)

相場師列伝

緒戦数十億円相当の損も「かすり傷」、竹原友三郎氏(09/12/13)
小池国三のもとで修業、昭和金融大混乱で破綻

 昭和2年秋、2代目竹原友三郎は日本電力の外債交渉のため渡米し、ミルウォーキー鉄道でシアトルからシカゴに向かう車窓の景色を楽しんでいた。ふと新聞の市況欄をみると、ミルウォーキー鉄道の株価がわずか11ドルという安値をつけていた。ウォール街でたずねてみると、クーン・ローブ商会が中心になって会社整理の最中だという。この時、竹原の好奇心が頭をもたげた。
  「西も東も分からぬニューヨークで赤毛布の田舎者が成り金志願などと大それた野心は元よりなかったが、せっかく出掛けてきたみやげ話の種に面白半分、少し買い入れ込みようという気持ちが動いたものだ」
  ニューヨーク株式取引所のメーボン理事長に会社の内容をたずねると、「一定の割合で同社の社債を額面で引き受ける義務が付帯した株式だからややこしいぞ」という話だった。竹原はややこしい方が勉強になると買い込んで、自分の名義に書き換えた。翌年2月帰朝した時には、これが約2倍に値上がりしていた。ウォール街で勝ち取った金だから記念にと、バンガローを買って名前をどうするか、鹿子見沖(シカゴミルウォーキー)荘とするか、などと思いを巡らす稚気に富む男であった。
  2代目竹原友三郎(幼名は義一)は先代友三郎の甥として大阪に生まれた。大阪高商(現大阪市立大)時代は成績抜群で、卒業すると東京株式界の第一人者、小池国三(山一証券の始祖)のもとで修業し、商魂を鍛えられた。相場の心を学ぶだけでなく、風呂たきから庭そうじまで厳しい体験を通じ、人間学を教えられた。「君の今日の識見、手腕は、多くこの時期に研鑽(けんさん)され、広く東西に有力なる知己を有するに至った」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  東京での修業を終えて北浜に帰ると、今度は伯父、友三郎のもとで相場の道をたたき込まれた。実子がなかった初代友三郎は、このころから甥の義一を跡継ぎにしようと思っていたのかもしれない。先に養子に入っていた荘治郎は実直な男だったが、少し線が細かった。
  小池国三、先代友三郎という東西投機界の巨人から仕込まれた義一だが、みずから相場師として名乗り出るのは、大正7年9月、友三郎と、「竹原商店の柱石」と称された叔父の竹原久吉が相次いで他界し、義一が家督を相続し、2代目竹原友三郎を襲名してからである。時に27歳。
  これまでひそかに勝負に打って出る機会をうかがっていた2代目が狙いを定めたのは、投機株の代表銘柄、大新(大阪株式取引所新株)だった。兜町の東新(東京株式取引所新株)と対を成す大新は仕手株として数多くの相場師があこがれる株である。事実上の緒戦で大新を選択したのは、少々荷が重過ぎたか、天運は白面の青年相場師には味方しなかった。
  この時の損は100万円、現在なら数十億円にのぼる巨額になった。しかし、竹原は「ちょっぴりかすっただけ」と負けん気の強いところをみせつけた。先代から受け継いだ数千万円と称される巨億の富からみれば、本当にかすり傷程度のものだったかも知れない。
  この100万円は投機界への受験料と考えれば高いものではなかったようだ。勝敗は相場師の常であり、以降は2代目友三郎の豪胆な勇姿を天下に幾度もみせつけたからだ。
  「君敗れたりといえども、放胆大度(度量)と非凡の雄志は世のすねかじりどもが持ち合わせざるところ、広く世に示し、人をして瞠目(どうもく)させ、他日の雄飛を思わしめた。百万両惜しからず、試験料として安いぞ、安いぞ」(同)
  2代目友三郎はやがて帝国信託を興し、数千万円の社債を引き受け、銀行や先輩証券業者をあっといわせたかと思うと、土地会社を買収して「土地王」を目指したり、天馬空を行く勢い。唯一の気掛かりは腺病質であったことと、胆の太さであったが、志半ばで挫折する。報知新報編「相場実話」(昭和7年刊)は「積極的に東京にも進出したが、不幸政変のために蹉跌(さてつ)した」と記している。金解禁、金輸出再禁止に伴う金融大混乱の渦にのみ込まれてしまったのか。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・博識、敏腕、放胆、侠骨をもって鳴る(「市場の人」)
・小池国三のもとで苦行を積んできたために、年少にかかわらず人間学を修め、抱擁の雅量を体得。大所帯を切り回していくことができた
・内にあっては店員の慈父たり。外にあっては他人の困苦に一肌脱ぐ親分肌の気象を養成したのは先代の賜物(「大阪財閥論」)
(たけはら ともさぶろう 1891~没年不詳)
明治24年大阪府出身、先代竹原友三郎の弟の長男で幼名は義一、同39年先代友三郎の養子となり、同41年大阪高商を卒業、東京に出て小池国三のもとで修業、同43年大阪に戻り、伯父竹原友三郎の店で店務を学ぶ。大正7年友三郎と叔父竹原久吉が相次いで他界したため家督を相続、2代目竹原友三郎を襲名。帝国信託、城南土地、岸和田紡績などの役員をつとめる。竹原家の養嗣子竹原荘治郎が専務として2代目の片腕となる。秀夫人は岸和田の富豪寺田甚与茂の二女。

相場師列伝

人に使われていては一生棒にと…、 石橋健蔵氏(09/12/20)
4つの上場会社などの経営権握る

 「九州の石橋」といっても、久留米から身を起こしたブリヂストンの石橋一族とは何ら関係ない。石橋健蔵は火野葦平の「花と龍」の世界から石橋グループを築いた一代の風雲児である。
  昭和40年代の兜町では横井英樹や鈴木一弘、高橋高見、大山梅雄など、多々済々の勝負師が、虎視眈々(たんたん)と獲物を狙っていた。石橋は買収の対象企業が小ぶりであったため、横井たちに比べると、やや地味ではあったが、着実に地歩を高めていた。
  石橋の活動が一番マスコミに注目されたのは、狂乱物価に沸いた昭和48年ころだ。東京目黒の石橋ビルに関連会社を集結させ、九州と東京を頻繁に往来する日々だった。かねもりに続いて、東京帽子(現・オーベクス)を傘下に収めたころで、経済誌は石橋グループの近況をこう伝えている。
  「“石橋経営”の牙城は、東京下目黒の石橋ビルにある。ここに若築建設の東京本部をはじめ、昭和化学工業、かねもりの本社があるほか、石橋グループの基盤があり、現在持ち株会社的存在の石橋鉱業も収まっている。他に石橋氏が役員をやっている未上場会社が詰め込まれておる。松居織物、福博鉱業、国峯鉱化工業、東興パーライト工業、若築不動産、白山工業等々だ…」
  石橋健蔵は、明治44年、北九州市八幡区に生まれた。昭和16年、太平洋戦争が始まった年に、二瀬鉱業(のちの石橋鉱業、石橋産業)を立ち上げ、社長に就任する。時に30歳。8年後には若松商工会議所会頭に推された。元日本経済新聞記者で日本株式新聞社を創設した久保木賢二はこう記している。
  「とにかく筑豊は乱世の雄がひしめいた日本資本主義の表舞台であった。が、時代が変わったとはいえ、戦前に彼は『人に使われていては一生を棒にふる』と独立を決意し、先輩たちに共通する不屈の闘志と機略で立ち上がった。それは明治生まれの男の意地といっていい」
  まずは石橋鉱業を拠点にして株の買い占め、企業買収によって勢力拡張を図ってきたが、昭和48年からは、若築建設を買収の第2拠点とした。若築建設は東証一部上場企業で、土木、しゅんせつ・埋め立てを事業目的としていたが、会社定款に「株式売買」の1項目を加え、石橋の株価戦略の先陣を務めることになった。
  このころ、時価発行増資が盛んになった。石橋も立て続けに、若築建設、かねもり、昭和化学工業の時価発行増資により巨額の資金調達に成功する。しかし、いずれもその後の株価が公募価格を下回り、株主軽視の批判を浴びる。
  石橋は「配当政策には意を払い、発行価格についても慎重を期しましたが…。幸い3社とも業績はよいので、持っておれば株主に損をさせるようなことはないと考えています」と苦しい弁明をせざるを得なかった。
  かねもり、東京帽子の買収に続いて繊維商社、立川に目をつける。営業不振に陥っていた立川の株を買い占める。「東京帽子とかねもりの生産、販売に、立川の商品企画が加わり、石橋グループの繊維製品部門はこれで一段と強化される」と、当時のマスコミは伝えている。
  石橋の買い占め戦はマスコミの大向こうをうならすようなハデなものは少ない。静かに深く潜航する。しかも、対象企業が小粒でビッグネームではない。久保木賢二が石橋流隠密作戦について述べている。
  「ハデな動きがない。だから狙っている銘柄が分からない。石橋グループ傘下の会社名義を使ったり、重役名で気づかれないように買い出動する。その買い方はあくまでコツコツとマイペースに少しずつ仕込んでいく。だから株の値動きもよほど注意していないと分からない」
  音無しの構えで仕込み、いざ名義書き替えの段になって正体をあらわにする。日華油脂、日本鉄塔工業なども、この戦法で買い占めたが、見込みがないと判断すれば、あっさり手放す。
  石炭小僧から身を立て、4つの上場会社をはじめ、数多くの事業会社の経営権を握った昭和49年、マスコミの寵児に突然異変が起こる。長男の石橋浩(石橋産業社長)が語る。
  「それは私の妹の結婚式当日の深夜のことでした。心筋梗塞で、花嫁の父のまま、旅立ちました」。経済誌が「株を武器にする経営者」特集で、大山梅雄、岡庭博、高橋高見らとともに石橋を俎上(そじょう)に乗せた直後の死であった。
  石橋が昭和32年に設立した「石橋奨学会」は50周年を迎えたが、毎年お盆のころ博多で総会を開き、全国からOBも集まってきて英気を養う。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・緻密で地味にコツコツとのし上がっていく努力家(久保木賢二)
・人に使われていては一生を棒にふる
・株式市場をうまく利用する経営といっても株式運用というより、取得すなわち経営参加、支配というやり方である
・まじめ一本槍で石橋をたたいて渡る一方、株集めで使った金は早期に回収して経営権をがっちり握り利益を吸い上げる(週刊株式)
・ぜいたくをしても無駄はするなと聞かされました(石橋浩)
(いしばし けんぞう 1911-1974)
  明治44年福岡県出身、若松中学卒業後、筑豊炭鉱で働き、昭和16年二瀬鉱業を創設、同18年石橋鉱業と改称、同21年松居織物を買収、同24年若松商工会議所会頭に就任、同25年若築建設を買収、社長就任の後、義弟の有田一寿に社長を譲る。企業買収を繰り返し、かねもり、東京帽子、昭和化学工業などを傘下に収め、石橋グループを構成。この間、昭和32年に石橋奨学会を創設。同49年急逝。
(写真は石橋産業提供)

相場師列伝

歴史的ガラ乗り越え再起 後藤新十郎氏(09/12/27)
豪快な機関銃買いで圧倒

 大正11年、東京株式取引所と名古屋株式取引所の合併が急に具体化する。東株理事長の郷誠之助と、名株理事長の高橋彦次郎が箱根で会談し話がまとまった。名株仲買人組合に対しては「合併することになった」という通告が高橋から伝えられた。組合員にとっては青天の霹靂(へきれき)である。
  当時、組合の委員長をつとめていたのが後藤新十郎である。後藤は当時の混乱ぶりをこう振り返る。
  「取引所側と仲買人組合は、勢いの赴くところ抗争激化の余儀なき成り行きに陥った。戦いは強弱を離れて肉弾戦となった。株主協議会の会場は、さながら戒厳令が敷かれた闘争劇を見るかのよう、理事者が『合併理由』を説明しようとすれば、反対側から『独立性あるものを売る必要があるか』とヤジが飛んだ。ついに鉄拳が飛び、流血の惨を招くに至った」
  この時、後藤は反対運動の先頭に立ち、県知事や市長、銀行等も抱き込んで、「名古屋市の面目として、はたまた歴史ある中京財界として、名株の売却には絶対反対である」と猛運動を展開する。結局、合併話はご破算となり、高橋理事長は辞任する。
  後藤新十郎は明治12年の愛知県生まれ、14歳の時、村周こと村瀬周輔が営むこうもり傘屋に丁稚奉公する。後藤は一時、貿易商を夢見て横浜に赴くが、こと志と異り、再び村周のもとに舞い戻った。このころ村周は株仲買のかたわら相場師として株式取引所のある伊勢町周辺で大した勢いを持っていた。
  「村周は後藤の商魂のたくましさと奇才縦横を認めているので、喜んでこれを迎え、株式店の店員とした。目先のきく彼はたちまち“株”の何ものであるかを理解し、株の恐しさも知ったが、また男子ひとたび金もうけを志すならば、株に限るとも思った」(岡戸武平著「伊勢町物語」)
  ほどなく番頭にのし上がるが、いつまでも人に使われている男ではなかった。明治36年、後藤は慰留を振り切って独立、株の現物店を開業する。24歳の時だ。後藤の独立を支援したのは杉野喜精であった。後藤の商魂と気概、才知を見込んで相当の資金を提供したといわれる。杉野は後に山一証券社長から東株理事長に登り詰める逸才だが、当時は名古屋銀行の支配人をしていた。後藤は杉野というこの上ない後盾を得て、日露戦勝景気に乗り、大胆に買いまくった。後藤の買い思惑はことごとく的中した。たちまち数十万円の大金をつかみ、同39年5月には念願の名株仲買人の免許を得た。店舗も一新した。「店前にはちりめん織りの紅白の幕を引き回し、屋上にはイルミネーションをしつらえ、夜ともなると、幾百の電灯がきらめいて見物人が集まったほどである」(同)
  派手好きの伊勢町連中のど肝を抜いた。30歳前の青年が株で大もうけしたといううわさは町の話題を集め、伊勢町には新顔の客がにわかに増えた。地場の株屋は「カモがネギをしょってきた」とばかり、客と勝負に出たが、津波のような買い人気の前には地元のプロたちが敗北する羽目に陥った。兜町では白面の青年相場師、鈴久が話題を1人占めしていたころだが、伊勢町では後藤の人気が抜群だった。後藤は新聞広告を打ちまくり、「後藤」といえば株屋の代名詞になるほどだった。明治40年の正月、後藤は、晴着姿の芸者を十数台の人力車に分乗させ、かつての主人、村周に新年のあいさつに出向いた。
  ところが、その直後の1月21日、歴史的ガラが襲来、大きな買い玉を張っていた後藤はあっさり破綻、店の始末は兄富太郎に任せ、東京へ逃げる。伊勢町で飛ぶ鳥をも落とす勢いだった後藤が、今や窮鳥と化し杉野のもとへ頼った。
  1年余り杉野に仕え、隠忍自重している間に名古屋の後始末も済み、再び仲買人免許を取り直し再起を果たした。復活ののろしを上げた後藤は「機関銃買い」とか「ツケロ売り」と呼ばれる豪快な張り方で、みずから場に立って手を振った。あまりの激しい手振りに周りの者がおじ気づき「大将を場に立たせるな」と、後藤を場外につれ出し、後藤は場に立つことを封じ込まれた。
  明治43年には仲買人組合の委員に就き、副委員長、委員長、そして理事長に進むが、2年半後に他界する。愛知県が清算取引の売買差益に税金(差金税)をかける動きに、そんなことは絶対認めないと反対運動で大阪に出張した旅先での死であった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・私の店で修業したが、本当に頭の良い人で天才的でした(村瀬庸二郎)
・鋭い勘と不退転の信念をもって、1万株でも2万株でも持ってこいと、敵にうしろを見せなかった
・商魂たくましい気概と、一をもって万を知る才知の人(岡戸武平)
(ごとう しんじゅうろう 1879~1932)
  明治12年愛知県西春日井郡西原村の酒造家に生まれるが、父の代に家運が傾き、大物相場師村瀬周輔が営む株仲買の小僧となる。同36年独立して株の現物店を開業、同39年名古屋株式取引所の仲買人となる。同取引所仲買人組合委員長を経て、昭和4年12月第4代同取引所理事長に就任、同7年6月理事長在任のまま他界。
(写真は「株式会社名古屋株式取引所史」より)

相場師列伝

大もうけ狙わない相場師、大沢龍次郎氏(10/1/3)
株の世界に入って早々、バブルとガラを経験

 昭和の初め、大沢龍次郎の評判はあまり芳しいものではなかった。「欧州戦争好況時、東洋モス株の思惑が当たり、それからとんとん拍子に発展、一時は相当鳴らしたが、近年は一向に振るわず、平々凡々組の一人」などと評された。新聞記者に相場戦術の極意を聞かれても、平凡な答えしか返ってこない。
  「私は開業以来、お客さまのお守りに専念して、自分ではあんまり思惑はやりません。つまり、取引員という天職に忠実なんですなハハハ…。相場勝敗の根本は、その人の運にあるのですが、根もなければならず、鈍なところも加味した人でないと大きい成功はできない」
  運根鈍の元祖、古河財閥の古河市兵衛を信奉しているような口ぶりである。「むやみに相場に熱中するような人は、決して勝者たるの栄冠はいただけない」とは、この道25年のベテランらしい。大沢の実戦歴に華々しい仕手(主役)として活躍した跡はない。
  それはそうだろう。大沢が日ごろ心掛けているのは、「大きな値幅は狙わない」ことだった。マスコミを喜ばすような発言も飛び出さない。そして20年たっても大沢のスタンスは一定不変だった。第二次大戦後、東京証券取引所が再開された直後、野田経済研究所企画部の加田泰のインタビューに答えてこう言った。
  「私は創業以来30数年、誠に平々凡々、誠実をモットーとして、お客さま本位にやってまいりまして、自分ではあまり思惑をやりません。つまりコミッション・マーチャントとして…。天職を尽しているだけです」。見事に20年前と同じことを述べている。地道に手堅く、大もうけを狙わなかったからこそ、大沢証券は平成11年まで、東株仲買人時代を含め「大沢」の名を80年間も貫くことができたのであろう。その後会社は、イー・トレード証券を経てSBI証券となった。
  大沢龍次郎が株の世界に入ったのは、明治39年秋、日露戦勝景気で沸き返っていたころだ。兜町の大手仲買、中沢安麓商店に入る。その直後の同40年正月、バブル景気崩壊で大ガラに見舞われる。「入店早々熱狂的な上げ相場と、その大反動を身をもって体験し、波瀾(はらん)万丈の株式界のコツを体得することができた」(大沢俊吉著、大沢龍次郎翁伝)
  同42年暮れ、2年間の兵役を終えた大沢は中沢商店に復帰、株式界にも明るさが見えてくるとともに、終世の恩人となる小泉策太郎の知遇を得ることになる。小泉は当時、蛎殻町で週刊経済新聞を発行するかたわら、相場師としても活躍していた。小泉は経営不振に陥っていた山栗印栗生武右衛門商店の総支配人に就任、経営再建に取り組むが、手足になって働いてくれる秘書役として、大沢が指名される。中沢安麓は渋ったが、小泉が強引に引き抜いた。
  当時の山栗は鎧橋際で洋風3階建て、兜町きっての立派な建物だった。豪華な真鍮(しんちゅう)のカウンターが偉観を誇っていた。小泉が政治活動に入っていくと、大沢も株屋と政治面と両面をこなさなくてはならない。大沢は若さにものをいわせて大活躍、小泉の期待に応えた。小泉と大沢との交わりは、「親子の情というか、表裏一体というか、人間の交わりの最高、最深の問題、人倫の極、至情の交わり」と伝記作者は口を極める。
  大正8年、大沢は東株の仲買人として投機界に本格的に進出する。空前の灼熱(しゃくねつ)相場に続く翌9年3月15日の崩落相場は、13年前の日露戦争バブル崩壊の再来であった。50人を超す店員を従え、一国一城の主として名乗り出した矢先の衝撃であった。多くの成り金が元の歩に逆戻りするが、堅実主義をモットーにしていただけに被害は比較的軽微で済んだ。堅実一路といっても、兜町人のことだからリスクにさらされ、四六時中戦場に身を置いているようなもの。息抜きに花街を訪ねる。若くて男ぶりのいい大沢が花柳の巷(ちまた)でもてないはずはなかった。
  大沢は店員教育にも熱心だった。永代橋の中央商業学校や大倉商業学校に店員を通わせた。兜町商業学校の設立には格別熱心だった。若者が暇をもて余すとろくなことはないと、書道を勧めた。門限に遅れた店員は大沢の機嫌が気になった。仲間が手サインで合図を送った。親指を立て「買い」のサインは機嫌が良く、「売り」のサインは機嫌が悪いのを意味し、叱られるのを覚悟しなければならなかった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・あらゆる方面から社会の大勢を注視して逆らわず、その売買に無理のないよう心掛ける
・「敵を知り、己を知る者は百戦危うからず」は相場道においても至妙な言である
・いったん確信して出発したなら、たとえ道程において多少のトラブルが生じようとも、心を動揺させず、信念によって取るという勇猛心を持つことです
(おおさわ りゅうじろう 1887~1974)
  明治20年埼玉県行田に生まれ、同33年高等小学校卒、東京橘町の綿布商安田商店の小僧となる。同39年兜町の中沢安麓商店に入り株式界に進む。同43年小泉策太郎が栗生武右衛門商店総支配人になったのに伴い、小泉の秘書となる。大正6年現物問屋を開業、同8年東京株式取引所仲買人、昭和6年東株商議員、同19年大沢証券社長。同33年行田市名誉市民。
(写真は大沢俊吉著「大沢龍次郎翁伝」より)

相場師列伝

「投資は投機、投機は投資」で戦術立てる、溝口庄太郎氏(10/1/11)
確信したら突き進んだ相場師、みずほ証券の前身築く

 第2次大戦後の北浜で、顔役的存在だったのが溝口庄太郎だ。大阪証券取引所が復活する前の集団取引を仕切っていたのは不破証券の不破福造、伊藤銀証券の伊藤銀三、斉藤卯証券の伊藤磯次郎、そして大阪商事の溝口庄太郎の4人である。大阪商事は大商証券となり、新日本証券から新光証券へと、合併を重ねながら商号を変更し、現在はみずほ証券。
  溝口は大阪の富商、初代竹原友三郎のもとで商才を磨き、商魂を鍛えられた。初代友三郎は頑固と傲慢(ごうまん)で鳴った人である。友三郎にあごで使われる点は、溝口も他の店員たちと同じだが、仕事が終わった後の扱いが、同僚たちとはまるで違っていた。友三郎は溝口の素質を見抜いていたに違いない。
  溝口を部屋に呼び、夕食を共にするのだが、その時、「溝口君」などと敬称で呼んだ。あたかも友人のように扱うものだから、周りの者は不思議そうに目を見張った。
  溝口は24歳の若さで竹原商店の現物商いの部門を統括することになるが、こうして人の心をつかむ竹原の老かいさも一方では見逃せない。「大竹原」の現物主任に登用された溝口は、粉骨砕身、主人の恩に報いようと働いた。後に、溝口は先輩の村地久治郎や高木雄吉らとともに竹原商店を退社し、大阪商事を設立するが、辞めてからも毎月1日には竹原商店を訪ね、いまは亡き主人の霊前に額(ぬか)ずき、謝意を述べるのを常とした。
  大阪商事で溝口は、村地専務のもとで常務として社内をがっちりまとめた。当時の新聞はこう評している。
  「溝口君は“内務大臣”として社内を統轄し、1日何万株、何十万株という大量の現物商いを整理していくのみならず、長期取引員として、また短期取引員として清算市場の複雑極まりない駆け引きを号令し、二つながら水ももらさぬ冴えた腕で万全の功を収め、いまだかつて一度も失敗苦の経験を持たぬ手腕家である。同社が今日の大を成して、第一流の名を博しつつあるは、村地専務の外交と相まって、溝口君の内務を統轄する非凡な力によるものに外ならぬ」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  昭和の初め、溝口は新聞記者に相場戦術を語る。
  「投機家はあくまで投資的でなくてはなりません。投資という観念をなくした投機は賭博である。しかし、投機を離れた投資もない。この意味において、いかなる投資も投機であると信じ、戦術もこれから出発するのです」
  投資と投機は密接不可分であるという信念に立って、一度こうと決めたらどこまでも食らいついていくのが溝口流、大正11年のことだが、綿業不況が深まる中、綿紡株を終始一貫強気一点張りで押し通し成功した。
  溝口はサヤ取りも得意である。「少しでもサヤがあれば、どんなことをしてもサヤを取る方針です。それにはごく細心な注意が必要ですが、ソロバンを片手に手を振る心掛けでさえあれば大丈夫です」。
  長い相場人生で最大の快心事は関東大震災勃発(ぼっぱつ)で株価が暴落、立ち会い停止になった時のことだ。黒川、高木、竹原、野村などの有力者の協力のもと、伊藤銀三、山田初治郎、吉川重三たちと鳩首会談の結果、タダ同然の株券を震災前の約定値で引き受けることにしたのだ。知人は「そんなバカなことして大丈夫か」と心配してくれる人もいたが、溝口は約束を順守した。大株の取引員で構成する株和会の総会の冒頭、「私たちは有形の財産を失ったが、無形の財産を得た」と大見得を切った。
  溝口は大阪商事の常務のかたわら株和会幹事長として取引員のまとめ役をつとめ、男振りもよかったから艶聞(えんぶん)、情話の種もまきちらした。美妓(びぎ)数十人をはべらして痛飲、夜は汽車で京都の家へ帰るのだが、寝込んでは米原辺りまでしばしば運ばれた。溝口の父は俳諧を好み、暁雨と号したが、溝口も木生と号した。先代をしのぐ俳人といわれた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・明敏にして商機を誤らず、達識にして事を断ずるに速く、情諠に厚くして人と絶たず、その才とその徳とは共に推称に価す(大阪今日新聞社)
・北浜の現物取引では指導性を発揮し、一方の旗頭であった(中村光行)
・私は常に金融事情を重大視します
・投げるべき時に投げ渋るようではダメです
・スペキュレーター独特のインスピレーションによって機敏に立ち回らなければならない
(みぞぐち しょうたろう 1891~没年不詳)
  明治24年京都府出身、竹原友三郎商店に入り、株の現物商いを担当、村地久治郎、高木雄吉たちとともに大阪商事(後に大商証券、新日本証券、新光証券、みずほ証券)を創設、常務に就任、のち社長。大阪株式取引所の仲買人で組織する株和会幹事長。第2次大戦後の北浜では顔役的存在。
(写真は大阪証券取引所十年史より)

相場師列伝

「つけろ買い」で鳴らす、堀川忠三郎氏(10/1/17)
ナンピン、さや取り戦術には否定的

 堀川忠三郎が経営する堀川株式店は、屋号を「五一印」と称した。これは支配人をつとめる小島文次郎が背丈五尺一寸の小兵だったためだ。店主の堀川より支配人の小島のほうが有名人で、兜町攻防史には必ず「郵船株つけろ買いの文次郎」として登場する。
  それは明治45年、天皇の病状の悪化が伝えられる中、皇室銘柄と称された日本郵船株が急落した時だ。売ったのは天才相場師、福沢桃介とその追従者とされている。
  この時、1人の場立ちをつれて立会場に現れたのが文次郎で、市場の売り物を一切引き受けて値下がりを食い止めるべく、つけろ買い、つまり一定の値段で相手が売りたいだけいくらでも買う行為に出たのである。天皇の容体悪化を早耳して売りたたくなど国賊的行為だとし、立会場で五尺一寸の体を仁王立ちにして文次郎は買いまくった。
  立ち会いが終わって、文次郎の手には、2万数千株という想像を絶する売り物が集まった。翌日には証拠金を納入しなければならない。文次郎は東株の角田真平理事長代行を訪れて居直った。
  「おれの買い玉は意外に多くなった。証拠金を一時に調達することはできかねるから、しばらく猶予してもらいたい」
  これには角田も頭を抱えた。天皇ご不例の折も折、違約騒動は起こしたくない。角田以下、東株の役員連中が個人の形で文次郎の証拠金を立て替えるという超法規措置をとった。部外者には極秘に行われ、「東京株式取引所五十年史」にも出てこない話だが、「五一印に金融機関がついたらしい」とのうわさが広がると、郵船株は急反騰に転じた。マスコミは、「不敬の天罰てき面」と、文次郎の肩を持ち、桃介一派を不敬の罰と笑った。以来、「つけろ買いの文次郎は侠気の相場師」として今日に語り継がれる。
  「相場は驚くべき反動高となり、小島はこの機をはずさず、手にある玉を売って数十万円の利益を収めた。郵船のつけろ買いは五尺一寸に名を成さしめた」(狩野雅郎著「買占物語」)
  文次郎の主人だった堀川忠三郎は長崎県出身で、北浜で相場の腕を磨いた。後の人から「北浜の大番」と称された高倉藤平のもとで修業した。その時の弟分が小島文次郎だ。
  北浜から名古屋に転じ、伊勢町周辺で売った、買ったをやっていた時、高野鉄道の買い占めで名を知られるようになり、兜町に進出する。経歴書では大正13年に東株の一般取引員になっているが、明治末年にはすでに東京に拠点を構えていたとみられる。ただ、地場の評価はあまりぱっとしない。「高倉藤平の子分として鳴らした男だけに、よほど活躍しそうなものであるが、どうした訳か東京に来てからは往年の活躍振りがない」(根本十郎著「兜町」)と期待外れのような声も聞かれた。
  だが、堀川は東株一般取引員組合の委員から副委員長をつとめるほどの実力者で、相場を語らしたらなかなか含蓄に富む。
  「投機的には長期より短期に興味が深く、出陣に当たっては、まず十分な肚(はら)を作ってかかり、目安を立てることが必要です。たとえば、新東が大もちあいの時代なら、天底5円か10円幅と押さえてかかり、中規模の値動きの時なら20円か30円幅と、目安を臨機に変えることです」
  見込みが外れた場合は、相場に裏切られたわけだから、深追いせずに、早くにあきらめ、見切ることを説く。
  「古来、名将といわれる人ほど、必ず第2段から第3段の戦術を用いたもの。資力に余裕を残し、二の矢、三の矢の用意を怠ってはいけません。進むことのみで、退くことを知らない猪武者にも困りますが、利の乗った場合は資力相応に玉を増やし、八合目くらいまで突き進むことです」
  また、サヤ取りについてこう述べている。
  「資金力が要るうえ、小相場では値ザヤがないので、業者なら場口銭(取引所が取引員から徴収する手数料)で済むから仕事ができるけれども、客は手数料に食われ、結局出費勝ちになる」
  そして、「ナンピン」については「痴人の夢」と決め付ける。おそらく北浜、伊勢町時代に「へたなナンピン、素寒貧」の辛い体験に基づくものであろう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・投資的に市場を利用するのであれば、目先の小高下には拘泥せず、3年なり5年の長期計画のもと、会社の内容を厳密に調べて進むことが肝心で、器用に立ち回るのは避けなければならない
・現在の相場が「大・中・小」どの程度の波動の過程にいるかを確認して出動する
・ナンピンは資力がないと成功は難しい。痴人に夢を説くようなもの
(ほりかわ ちゅうざぶろう 1871~没年不詳)
  明治4年長崎県南高来郡杉谷村出身、大阪に出て関西法律学校に学ぶ。同30年堺市で米穀仲買人となり、同41年大阪株式取引所仲買人となる。大正5年大株の白州長平商店相談役となり、同13年東株一般取引員となり、堀川株式店を開業、一般取引員組合副委員長となる。
(写真は「東京株式取引所五十年史」より)

相場師列伝

文字に弱いが非凡の才磨き相場制す、福井寅吉氏(10/1/24)
名相場師にお百度参り、ノウハウ伝授

 米相場の街、大阪堂島のすずめたちはよくしゃべる。
  「おい、福寅の親父さんは新聞を逆さに読んでいたぜ」「目に一丁字なくても相場はうまいもんだ」
  福寅は平然として答える。「ワイには四角い字が分からぬ」。帳簿をごまかされても「さようか」で済ますというから、相場欄もちんぷんかんぷんらしい。口べたで字は読めなくても、堂島周辺では「米界博士」と称される。容貌(ようぼう)が当代の碩学(せきがく)、三宅雪嶺博士に似ていることから「堂島村の雪嶺翁」と呼んだ人もいる。
  「彼は天下にワイとオマエの呼称しかないほどだが、巧言令色の世にこの老人の如きこそ、聖人に近い。そのうえ、さすがに、文字読まずで押し通してきただけあって、耳から聞いた学問は、決して間違ったことをいわず、理屈も立てば、ものも分かっている」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  福寅の自慢は「ワイは47銭の元手で今日まで仕手として相場を張ってきた男だ」ということ。相場界に数多くの名将、知将を送り出してきた播州(現兵庫県)の産で、若いころは天秤(てんびん)棒をかついで讃岐名物の砂糖を売り歩いていた。やがて、投機界を志し、兵庫米穀肥料市場に出没するようになる。
  初戦は、貯(た)めてあった小金を投じて米相場に挑戦するが、あっさりすってしまう。福寅はだれかしかるべき相場のプロに師事したいと思い、易を見てもらうと、九紫火性の玄人を探せという卦(け)が出た。
  福寅は堂島の大手仲買に師と仰ぐべき人を見出し、お百度を踏む。だが、店員不要と断られる。それでも「無給でもいい」と頼み込んで入れてもらった。世の中には生まれながら商才がありながら、師匠につくことを潔しとせず、大成しないまま終わる人が多いが、福寅はまず良き師を見つけることを心掛けた。良師のもとで切磋琢磨(せっさたくま)しながら相場師としての腕を磨いた。名将軍から直に教わる耳学問が福寅を一流の相場師に仕上げていった。福寅は青年時代を振り返りながらこう語る。
  「ワイは、神戸ではある仲買店に入れてもらおうと日参し、場立ちをしていたころには大阪の和久伊さんにお百度踏んだものだ。日曜ごとに出掛けた。だが、名もない若輩の悲しさ、会ってもらえず、すごすご帰ったものです。そんなことが、半年も続いたある日、『寅やんか、まああがれ』と、初めて言葉をかけてもらった。そして段々、相場の見込みの立て方を教えてもらったよ」
  大手筋の戦法を聞くためにはお百度参りで、ねばり強く通い詰めるのが福寅流である。そんな福寅からみると、罫(けい)線や本に頼るような若い相場師たちのやることは「畑水練」と決めつけ、そんなことで大もうけしようなんて、どだい無理だよ、と一笑に付す。
  先師を得て、非凡の才を磨くにつれ、福寅の舞台も兵庫穀肥市場から大阪堂島のひのき舞台へと階段を登っていく。そして西ノ谷に蟠踞(ばんきょ)する相場師群の謀将となり、全国の大手筋を従え、画策するようになる。
  大正9、10年の横堀将軍こと石井定七の米買い占め戦では買い方陣営に加わり「知謀の相場師」との尊称を贈られる。三品市場、大株市場で完全勝利を収めた石井が堂島に乗り込んでの武者振りはものすごかった。石井の背後には日銀が付いているとか、政府が後押ししているとか、うわさがうわさを呼ぶほどだった。この戦いが中盤に差し掛かったころ、福寅は石井の無謀を諫(いさ)めたのだが、石井は聞く耳を持たず、50万石という未曽有の受け米を敢行し、無残にも討ち死にした。福寅は石井を見切り、売り方に回ったため買いで取り、売りで取り、西ノ谷相場師連盟のもうけ頭となった。
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・米界の大通博士として心眼透徹、すべてを胸三寸にたたみ込んでいる
・良師を求めお百度を踏む
・罫線や本に頼るのは畑水練、大もうけしようという気持ちがおかしい
・旗幟(きし)を鮮明にして堂々と戦う
・機微を見ること神の如し
・彼の世界は米がすべて(岡村周量)
(ふくい とらきち 生没年不詳)
  播州網干出身、兵庫穀肥市場で場立ちをやっていたが、仲買人となり、大正元年ころ堂島で仲買人を開業、同9~10年石井定七の米50万石買い占め戦に連合して、巨利を占める。途中で石井の無謀を見抜き、方向転換を促すが聞き入れられず、連合軍を離れ、西ノ谷を根城とする仲買人で結成する売り同盟の旗頭となり、石井の投げで大勝利を収めた。
(写真は神戸穀物商品取引所編「兵庫穀肥物語」より)

相場師列伝

「きしめんダラー」と呼ばれた仕手、竹内富一氏(10/1/31)
定款変更、株式売買を事業目的に加えた企業のはしり

 狂乱物価の昭和48年当時、名古屋の株式街、伊勢町で暴れ回った男が丸茂工業の竹内富一である。マスコミは「中京のM工業」とか「きしめんダラー」などと呼んだ。当時のカネで200億円の大金を動かして買い占め、高値肩代わりを狙った。竹内の相場観を信奉する中小企業のオーナー経営者たちは竹内家の茶の間に集まり、作戦を練り、集中投資で成果を分かち合った。当時の名古屋市場では三愛経済研究所を根城とする三愛グループ、桑名に本拠を構える板崎喜内人、そして丸茂グループが動かないと火が消えたようだった。全盛期の竹内を取材した証券ジャーナリストの水野清文は書いている。
  「彼の性格はからっとして、気風はよく、土性骨(どしょうぼね)は座っている。今は何を仕込んでいますかとの問いに、明快に『酒伊繊維だけ』とか『大同毛織と日本毛織』などと答えが返ってくる。大体、相場師と名のつく人たちは現在、何を手掛けているか、なかなか言わないものである。しかし、彼の場合は、自分のやることに自信を持っている。資金量も大きく、豪快な株集めをやるだけに、彼の動きは看過できない」
  名古屋を代表する相場師としては近藤紡績所の近藤信男がつとに有名だが、昭和48年に近藤が他界したあとは、横井英樹、鈴木一弘、林紡の林茂などが派手に動いていた。そこに割って入っていったのが竹内富一。株好きな自動車鍛工(たんこう)部品メーカー、丸茂工業のオーナー社長が会社の定款を改定して、事業目的に株式売買を加え、本格的に株式投資に乗り出した。昭和46年のことだ。三光汽船の岡庭博が同じように事業目的に株式売買を加える1年前のことだ。
  同47年、竹内は狙う銘柄がことごとく的中し、「株ってこんなにもうかるものか」と、我が目を疑い、本業を忘れかかったほどである。竹内の名を広めたのは、トヨタ系の愛知製鋼株の買い占めで大成功を収めた時だ。自社と目と鼻の先にある愛知製鋼株が低迷しているのに目を付け、買い始める。同47年7月に70円前後だったのが、同年10月には240円に暴騰する。筆頭株主のトヨタ自工、2位の新日鉄もあわてて、買い本尊を調べると、丸茂工業の仕業と判明、竹内の集めた株数は1550万株にも達した。当時の経済誌は竹内の手口についてこう記している。
  「いかにも背後にライバルの日産自が控えているかのように見せ、トヨタ系をあわてさせた。そういったうわさにかき回された投機筋の追随買いに株価の上昇スピードがいやがうえにも上がり、当の愛知鋼を慌てさせたが、裏面では竹内の持ち株の高値買い取り交渉が進められ、竹内ペースで、丸茂の持ち株がトヨタに買い取られた」
  トヨタは220円で肩代わりし、傘下の企業にはめ込んだ。竹内がトヨタに挑戦したのは、以前トヨタ紡織の前身、岐阜紡績の買い占めを巡って一敗地にまみれたことの意趣返しを狙ったもの、という説もある。竹内の利益は8億円にのぼり、以来、竹内の一挙一動に視線が集まるようになる。
  愛知製鋼に続いては、新日鉄系のトピー工業や三協アルミ、日本金属工業、富士紡績、グンゼ、丸全昭和運輸などに手を出し、もくろみ通り、肩代わりさせるのに成功したものもあるが、不調に終わって市場で売却したことも少なくない。
  昭和50年ころ、竹内による酒伊繊維乗っ取りがやかましくいわれた。522万株を手中に収め、筆頭株主に躍り出た。チョウチンが付いて丸茂グループ全体で1000万株(20%)を占めるが、株価は259円をピークに下げ続け、74円まで下落する。竹内は高値近辺で大半を利食うが、チョウチン筋はぶら下がったまま。竹内は水野清文の取材に答えてこう語った。
  「わしが買ったというと、知多から三河にかけての投資家がわしにつく。いま、株価は下がっているので責任を感じる。このまま退いては信用の失墜ですわ」
  豪放磊落(らいらく)で義理人情に厚い竹内は、チョウチン連中のふところ具合も計算しながら、闘いを進める義侠(ぎきょう)の相場師。酒伊繊維に代わって日本証券金融の筆頭株主になって以降、「きしめんダラー」の消息は途絶えがちとなる。
  創業から60年近くになる丸茂工業は今、長男富彦が社長を務める。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・従業員とともに生きよう。従業員を家族と考える
・人情深く、よく人の面倒をみる
・相手が強く出れば、こちらも強く出る
・自分を取り巻く投資家をもうけさせなければ、やめるわけにはいかない
・地味に、コツコツと安いところを仕込む戦術は巧妙で、怖い感じ(久保木賢二)
(たけうち とみいち 1912~没年不詳)
  大正元年愛知県出身、昭和26年8月常滑市蒲池で鍛工部品の丸茂工業を創設、製品は自動車メーカーに納める。同46年定款を変更、株式売買を事業目的に加える。トヨタ系の愛知製鋼の株集めで、当時のカネで8億円という巨利を占め、中京の怪物と恐れられる。以来、数多くの仕手戦を展開するかたわら、商事、運輸、建設会社や病院を経営、社会人野球の丸茂球団を持つ企業集団のオーナーとなる。
(写真出所は「週刊株式」1976年7月15日号)

相場師列伝

ドル相場で巨富築いた宰相の父、吉田健三氏(10/2/7)
新聞、英語塾…天下国家のビジネスにも奔走、有名な蘇生譚も

 ワンマン宰相吉田茂には2人の父がいる。実父が竹内綱、養父が吉田健三で、ともに幕末の志士から維新後は自由民権運動に加わり、そして商才に長(た)けていた点で2人には共通項がある。
  吉田茂は義父について回顧録の中で書いている。
  「最初はジャーディン・マセソンという英国の船会社の支店に勤めていた。それから自分で船問屋を始め、他の事業にも手を出し、何年かのうちに産を成して、新聞をやったり、英語塾を作ったりした。実業が天下国家のことだったので、国事に奔走するという気概と真剣味が、商売にも向けられたのだと思う」
  吉田健三の家系図を見ると、祖父に江戸後期の著名な儒学者佐藤一斎がいる。三井物産常務から満鉄総裁をつとめた山本条太郎は甥(おい)に当たる。山本の義兄が向井忠晴で、三井物産会長から大蔵大臣を務めた。華麗な系類である。山本が三井物産に入ったのは、叔父の吉田健三の口利きによるものだった。
  吉田健三が財を成したのは明治元年、英国から帰国し、横浜一番商館(英一番館)に事務所を構える英国の貿易商、ジャーディン・マセソン商会の支店長時代のことだ。大胆にドル相場を張った。山本は自伝の中でこう述べている。
  「相場といえば、叔父の吉田健三氏も、馬越(恭平)翁も、ドル相場をやって手本を示しているのである」
  「健三叔父や馬越支店長などがドル買いをするのを見て、見よう見まねで、小僧のくせに相場に手を出した」。猪木正道は「評伝吉田茂」の中で、健三の商才について「円貨がドルやポンドに対して値下がりすると、抜け目なく為替市場で大いにもうけていた」と記した。
  三井物産の初代社長、益田孝によると、明治初年における横浜ドル相場は大変な賑わい振りで、大手は田中平八(天下の糸平)や香港上海銀行のフィードンなどであったというが、彼らに混じって、吉田健三も大きな売買をやっていたようだ。細かい手口までは分からないが、ドル相場で大きな成果を得たからこそ、3年後に退職する時、1万円の特別賞与が贈られたのだろう。今の価値に直せば億を超す大金である。
  前出の馬越恭平は、三井物産の後、ビール業界に転じ、「ビール王」と称された。転身のきっかけは、吉田健三にご馳走になったビールの美味しさが忘れられなかったためともいう。
  ジャーディン・マセソン商会を辞めた健三は、醤油の醸造所を買収する一方、横浜の丘陵地を買い取り、宅地の造成に乗り出す。久我山一帯に1万3000坪の土地を購入し、開発したかと思えば、大磯に海水浴場を作ったのも健三だ。09年に焼失した大磯の吉田御殿は健三の遺産である。
  竹内綱が計画する事業は大き過ぎて失敗することが多かったが、吉田健三はやることなすこと、ことごとく当たった。
  健三の事業欲はとどまるところを知らず、東京日日新聞の創刊に参画、絵入自由新聞も創刊する。自由民権運動に加わり、自由党の結成にはまとまった金を出し、板垣退助が岐阜で遊説中に遭難した時は真っ先に駆け付けた。明治22年、39歳で永眠した時、11歳の吉田茂に遺された金は50万円にのぼった。そのころの富豪の資産、たとえば大倉喜八郎(70万円)、安田善次郎(60万円)に迫る額で、経済ジャーナリストの梶原英之は「事業家の資産は遺産にまとめれば減るものだが、健三の実業家としての実力は大倉、安田に匹敵していた」と述べている。
  健三には有名な蘇生譚がある。葬式の準備でごった返している時、眼をぱっちり開けて「たくさんの鳥や動物が突っついて、この世に追い返された」と語った。それから25日間生き延びたという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・吉田健三は遺産を茂にまとめるため、執念で蘇生し、2度死んだ。健三がいなければ茂の大宰相への階段は遠かった(梶原英之)
・国事に奔走する気概と真剣味で商売に取り組んだ(吉田茂)
・自分の遺言を公正証書として正式に作らせた点でも時代の先端をいった(猪木正道)
(よしだ けんぞう 1849~1889)
嘉永2年福井藩士渡辺謙七の長男として生まれ、16歳の時、大阪に出て医学を学び、慶応2年、英国の軍艦に便乗し欧米に遊ぶ。明治元年帰国、横浜のジャーディン・マセソン商会に入り、支店長として采配をふるい、同5年東京日日新聞の創刊に参画、同14年絵入自由新聞を創刊、自由党の結成にも加わる。同22年他界。この間友人の民権家竹内綱の息子、茂を養子に迎える。
(写真は1982年初版・原書房版「山本条太郎伝記」より)

相場師列伝

権謀術数弄しないのが相場師の品格、田中喜三治氏(10/2/14)
買い占めや売り崩しの反対側に立つ

 播州(現兵庫県)は古来、投機界に数多くの名将を輩出している。田中喜三治は播州曽根の出身で、大物相場師「古九将軍」こと、古門九右衛門の甥(おい)に当たる。19歳で大阪に出てきた。
  「堂島で、北平(北野平兵衛)、橋伊(橋井伊助)、古九と呼ばれた全盛時代に彼は伯父、古九の店で、うんと厳しく鍛えられた。古九の兵法は、買い占めや売り崩しの向こうに回り、大戦争をとる名人、そして相場に意地を張らない。これなら投機界に申し分はない」(岡村周量著「黄金の渦巻へ」)
  田中は老将古九からこの戦法を伝授されると、25歳の時から市場代理人として場に立って、機敏に立ち回り、実力を付けていった。明治42年の大阪市北区の大火の時、売りで大勝すると、以来連戦連勝して財を成した。古九が引退したあとは実弟大虎が跡を継ぎ、大虎商店となるが、田中はここで支配人をつとめる。店主はお茶屋暮らしで、遊びほうけていたが、田中の采配よろしきを得て、大虎商店は大いに繁盛した。
  いずれは田中に店を譲るだろうとみられていたが、養子を迎えたため、田中は思い切って独立を果たす。大正2年9月のことだ。相場師はよく、権謀術数に陥りやすい。そして計略を巡らし、人をあざむくことを日常と心得るようになるといわれる。そうなると、その性格や言動まで、かどが立って人望を失うことにもなりかねない。当時の大阪投機界では「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた島徳蔵が政治家を動かしたりして術策をろうしていたが、田中は島徳を反面教師として振る舞ったフシがある。「大阪財閥論」(藤山一二著)は田中を次のように持ち上げている。
  「島徳氏をはじめ政治の虚に乗じて大陰謀を策せんとの士が策動しているではないか。しかるにわが田中君はかかる投機界の陰険者流の間にあって、これにくみせず、堂々と所信を天下に声明して政界に打って出たのである。さすがは古九老将軍の流れをくむ天真流露の大人物を思わせる」
  相場師として成功し、仲買店経営では古門系ということで大口顧客を有し、さらには市政にも関わる。大阪政財界の巨頭、中橋徳五郎(大阪商船社長から衆議院議員。文相、商工相、内相を歴任)の参謀として政界に比重がかかっていくにつれ、店の方は弟寿三に任せ、もう1人の弟には北浜に店を持たせた。
  田中の祖先は「北面の武士」をつとめた名門で、のちに医を業とし、田中原沢は幕末には浪速の名医として知られる。ところが、そねみを受け、そばに毒を盛られ、殺される。このため、田中家には毎月命日にそばを口にしないという仕来たりがあった。
  父喜八郎は文人墨客と交遊を持つ風流人で、相場はきらっていた。だが、喜三治が小学校を終え、相場界入りを言い出した時、やめておけとはいわなかった。それは兄、古九が相場で成功していたからだ。早速、大阪に行って兄と相談した結果はゴーサインだった。
  「オマエは次男坊だから、何をして身を立てるのもよかろう。相場が好きならその道に入るのもよかろう。しかし、古九の兄は、伯父・甥の間だからといってお前を甘やかすようなことはしないだろう。かえって人一倍、ほかの小僧よりも、こき使うといっていたぞ。それでもよいな」
  そして幾星霜、堂島から北浜にかけて浮沈極まりない勝負の世界でひとつひとつ階段を上り詰め、市場では「君は一個の戦士というより、一方の主将たる貫禄、実力、手腕、見識を有して市場を馳駆(ちく)しつつある腕の人、力の人であるとともに円満なる人格者である」と評した。
  晩年は書画骨董(こっとう)に親しみ、とりわけ茶道に長じ、人は「今の世に千利休在らしめば、恐らくは君の前に気死(気絶)せんか」と称えた。これはいくらなんでも褒め過ぎだろう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・買い占めや売り崩しの反対側に立つ
・相場に意地を張るな
・常に正々堂々と公道を直歩し、権道を行かず、邪路を踏まず。徳望厚く、高士長者の風がある(大阪今日新聞社編「市場の人」)
・腕の人、力の人、円満なる人格者(青江治良著「仕手物語」)
(たなか きさんじ 生没年不詳)
播州曽根出身。大相場師、古門九右衛門の甥に当たり、19歳で大阪に出て古九の代理人として場立ちをつとめる。大正2年独立して大阪堂島米穀取引所の仲買人となり、田中喜商店を開業、同11年同取引所仲買人組合委員長となり、のちに取引所商議員に就任。この間同10年政友本党から大阪市会議員に当選して、市政に参画、店は弟の寿三に任す。
(写真は藤山一二著「大阪財閥論」より)

相場師列伝

けなり売買戒め、自分の性格に即し成功、成瀬省一氏(10/2/21)

 成瀬省一は兜町では「横浜系の最後の相場師」と称される。「天下の糸平」田中平八、「投機界の魔王」雨宮敬次郎、「島清」こと今村清之助、初代・小布施新三郎、「独眼龍将軍」半田庸太郎――彼らは横浜市場で鳴らしたあと、東京に進出して数々の仕手戦で主役を演じた。成瀬は愛知県の出身だが、横浜で生糸や洋銀(ドル)相場でもまれ、兜町にやってきたので「横浜系」に色分けされる。
  21歳の時、林小兵衛商店に入り、株と本格的に取り組む。店主の林小兵衛は「兜町の隠君子」と呼ばれる徳望の士であった。取引所の本来的役割を十分認識したうえで、法規を順守し、商業道徳に固執した。同時代評では「真に文明的模範仲買人たるの素質を有し、瀰漫(びまん)せる投機界の悪弊を洗浄するの一偉材たり」とし、一面の緑の中に咲く一輪の赤い花とたたえた。
  林の長男、小三郎も慶応義塾の理財科を卒業後、欧米の株式取引所や仲買業を実地に研究し、当時の兜町では異彩を放っていた。そんな林父子のもとで修業した成瀬が独立、株の現物商を開業するのは、欧州大戦景気に沸く大正6年のことだ。そして、同9年東株の仲買人になった時点が成瀬証券のルーツとされる。以来、90年にわたって浮沈極まりない兜町で「成瀬」の名を守り続けるのは、成瀬が若き日、林父子の堅実な仲買人経営を間近に見て学んだことと無縁ではあるまい。
  現物商から東株の仲買人に昇格し、業界の中堅にのし上がってきた昭和初め、相場道の神髄を語る。
  「相場というものは決して年中いじくっているものじゃありません。日常小さい相場にあくせくしていると、本当の相場が動き出した時が分からず、思わぬケガをするものです。相場では投げと利食い場所が一番大切で、仕掛け場はその次とみてよいでしょう」
  成瀬は仕掛けよりも仕切りを重視、肝心な手じまいのタイミングを具体的に指摘する。
  「仕上げの呼吸は、上げ相場でも下げ相場でも同じこと。ジリジリと小刻みにやってきたものが急にドカッと3円、5円と飛び始めてくれば警戒点で、そこは構わず、手じまわないといけません」
  投げ、踏みで相場が一段安(高)を付けたところはすかさず手じまいすべしと説く。投げや踏みは、相手方が負けましたと、ボクシングでいえばタオルを投げ込んだ場面であり、そこは素直にほこを収めるところという。
  そして成瀬が最も戒めるのは「けなり売買」。「だれそれがあんなにもうけたのだから、おれも1つ取ってやろう」などと他人のもうけをうらやんで売買することは厳禁だという。相場の神様・本間宗久も「三昧伝」の第62章で「人の商いをうらやましく思うべからず」と諭している。
  第2次大戦後、成瀬は遠山証券の遠山芳三が会長をつとめる証券業者の集まり、火曜会に属した。山二証券の二階で「うなぎでも食って栄養をつけようではないか」と、近くのうなぎ屋からうなぎを取り寄せ、ヤミ米で舌つづみを打ったのが始まりという。メンバーには大沢龍次郎(大沢証券)、南波次郎(金万証券)、梅原穣(共和証券)、小布施新太郎(小布施証券)、松井武(松井証券)、片岡晴次(山二証券)らがいた。
  成瀬は対外活動は余り得意ではなく、静かに店を守り、相場の秘訣など聞かれれば、喜んで語った。
  「株の動きは微妙なものがあり、一口に秘訣といったようなことはいえないが、結局はその人の性格と体験に合致した戦法でなければならないと思います。私が行っている戦法は、仕掛ける時は損は覚悟で行うことです。この平凡なことを平凡に行うところに安全で有利な道が開けるのではなかろうか。自分で決め、自分で損を覚悟して自分の資力と体力に合った方法でない限り、我慢ができずナンピンの途中で投げ出したり、見込みのあるのが分かっていながら周囲の空気や自己の都合に左右されて投げてしまうことが多い」
  成瀬家の本家は愛知県犬山市にある国宝犬山城主を12代にわたって務めた名門として知られる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
  信条 
・仕掛ける時は損を覚悟で行うこと
・鵜が烏のまねをしたようなことにならぬよう心掛ける
・株の選び方は常に市中金利と利回りが重要である
・株は年中いじくるものではない。真に腰を入れて乗り出すのは年に3、4回くらいのものじゃないか
・他人のもうけを羨望(せんぼう)しないこと
(なるせ しょういち 1891-没年不詳)
  明治24年愛知県出身、同39年名古屋キリスト教青年会で英語を修める。横浜の生糸仲買岡田商店の販売主任を経て、同45年から東京株式取引所仲買人、林小兵衛商店に勤め、大正6年独立して現物商・成瀬省一商店を開業。同9年、上甲信弘商店の権利を取得東株の仲買人、同13年東株実物取引員組合副委員長、後委員長となる。昭和19年株式組織の成瀬証券に改組、社長就任。
(写真は経済日報社編「全国株式取引所 同株式取引員総覧」より)

相場師列伝

社会インフラ株が大化けし巨利、浜崎健吉氏(10/2/28)
臨終間際まで相場をやった先代の血を継ぐ

 相場好きの浜崎健吉を語る場合、その血を伝えた先代浜崎永三郎から入らなければなるまい。永三郎は大阪株式取引所の理事長であると同時に、大阪堂島米穀取引所の理事長も兼ねた数少ない人物である。昔の理事長は相場をこよなく愛した。永三郎は特に相場が好きで、理事長室から、売った、買ったと指令を発していたという。
  「浜崎永三郎君は中興の祖といわれ、磯野小右衛門君も相当の事跡をあげている。ところが、この両君の時代は取引所法も改正前の旧式な代物で、重役も大手を振って相場が張れた。そこへ両君がいずれ劣らぬ相場好きであったからたまらぬ。重役室にがんばって給仕をしかり飛ばしながら、それ売れ、やれ買えと血眼になってスペキュッたそうな」(時事新報社編「ビジネス・センター」)
  大阪投機界の大御所として財界ににらみをきかせた永三郎がいまわの際に枕辺に長男健吉を呼び寄せ、たずねた。
  「米はどうじゃ」
  「新甫(しんぽ)は50丁(1丁=銭)ほど上放れました」
  「うん、えらい上ザヤじゃ、買っておけ」
  臨終の床で買い建てた玉で葬式代が出たといわれる。
  健吉も先代に負けない相場好きで、慶応義塾に在学中から兜町近辺に出入りし、卒業する時は預金通帳に1万円余りが積まれていたという伝説が残っている。今の価値に直すと数千万円にのぼるから1ケタ多いのかもしれないが、「大阪財界人物史」(国勢協会編)は「ああこの父、ああこの子。大阪北浜村の浜崎親子は、徹頭徹尾、相場に終始するものなりき」とあきれ返る。
  永三郎が永眠したあと家督を継いだ健吉は、浜崎商店の第2代社長に就くが、茶屋遊びが忙しく、社業のほうは弟の弁之助に任せていた。弁之助も慶応義塾に学ぶが、堅実な相場師で、愚兄賢弟の典型のようにいわれた時期もある。「大阪財閥論」(藤山一二著)は厳しく健吉を責め立てる。
  「翁はなぜ遺産の全部を不肖の豚児健吉に譲ったのか。名理事長としての栄光も、哀ればか息子の放蕩罵倒(ほうとうばとう)の声に煙滅してしまった。生まれながらのドン・ジュアン(漁色家)を産める翁こそ気の毒である」
  だが、ドラ息子はいつまでも放蕩ざんまいではなかった。ある時から浜健株は急上昇する。前出の「大阪財界人物史」によると、「大阪財界に幅を利かせるもの多しといえども、財力、声望、信用の三つを兼備せるものはわずか数名にすぎず、浜崎健吉氏のごときはこれを代表する第一人者」と持ち上げ、以下のように述べている。
  「氏は円転滑脱(自由自在)の人、頭をなでて、笑みを含みつつ語るところ、人をそらさず、その処世術の巧妙は父君より伝わるものなるべき…要領を得るがごとくして得ざるところの妙諦(すぐれた真理)を有す。この点は敬服に価す。氏の今日の声望は全くこれによる」
  当時、大株の理事長は辣腕家(らつわんか)の島徳蔵であったが、悪弊も目に付いてきたため、代わりに浜健を推す声が高まってくるが、健吉は謙譲の美徳を発揮して勧めを断った。社業のほうも弟とのコンビで順調に進展、北浜屈指の繁盛振りを誇る。業界活動は固辞し続けた浜健だったが、昭和6年(1931年)、大株と堂島両取引所の理事長に就任、先代に続いて大阪投機界の采配を一手に握るに至る。
  かつて遊蕩にふけっていた健吉が一念発起して社業に専念するに至ったのはなぜか。それは、茶屋遊びに疲れ果て、うつらうつらしていた時、夢枕に現れた永三郎の一喝であったらしい。
  「健吉よ、お前は何たるばか者じゃ。即座に改心して社会事業に尽くすのだ。明日とはいわず今、大半を公共事業に投じてくれ。公会堂を建てた岩本栄之助さんを見習え」
  以来、各種事業に目を向けるようになり、南海電鉄、京阪電車、伊勢電軌などから出資を頼まれると株を持つようになる。すると、これらの株が大化けして図らずも巨利を博す。
  健吉は店内には自分の机もなく、古ぼけたいすが一脚あるだけでいすにもたれて夜来の遊び疲れを癒やしているかと思うと、突然当たり散らすことがあるが、店員を信頼して、帳簿を点検したりすることはなかった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・率直、温醇(おんじゅん)にして果断
・いったん胸中に定めたる方針は断固として屈せず、強きことにはあくまで強き大阪商人の長所を有す
・謙譲の徳を備えているのは常に守成に留意した結果であろう(「大阪財界人物史」)
(はまさき けんきち 1873~没年不詳)
  明治6年(1873年)大阪府出身、浜崎永三郎の長男として生まれ、慶応義塾に学び、大阪株式取引所、大阪堂島米穀取引所の仲買人、浜崎商店の2代目社長に就任、一時、社業は弟弁之助に任せ花街で遊びにふけっていたが、一念発起して社業に精進、浜崎商店は大阪屈指の仲買人となる。昭和6年(1931年)大株と堂島両取引所の理事長に就任。
  (写真は「大株五十年史」より)

相場師列伝

買い占めては銀行に肩代わりさせる、角谷慶市氏(10/3/7)
日本曹達、三越、新三菱重工を手掛ける

 相場に常勝将軍はないはずである。が、角谷慶市は「常勝将軍」と呼ばれた。
  「江口証券の東京支店といえば、なんといっても角谷慶市。鴨川化工、日本曹達、三越などの仕手戦を展開、“角谷将軍”の名を天下にとどろかせた。昭和30年代は、まだ市場規模も小さく、株式担当部長間の仕切りで、100万株程度動かせば大きい方に入った。各社の株式部長と懇意だったので、山一の山瀬正則、大和の松橋栄、江口の角谷株式部長を神楽坂に招いて新三菱重工のクロスをまとめた思い出もある」(上原敬之典著「戦後兜町風雲録」)
  角谷慶市が根城とした江口証券は、明治20年に北浜で産声を上げた江口商店がルーツの老舗証券会社だ。昭和8年には江口証券と改称、第2次世界大戦後は野村証券OBの高橋要が社長として采配をふるう。高橋はのちに大阪証券取引所の理事長に就任する人物だが、角谷は高橋のもとで頭角を現す。
  角谷が初陣を飾るのは江口証券東京支店次長に就任して間もないころ。鴨川化工を手掛けた。この会社はカーバイド、溶解アセチレン、フェロニッケルなど主力にしていたが、折からの朝鮮動乱景気で業績が急浮上した。角谷は市場を通じて30万株ほど買い集めた。発行済み株式100万株のうち30万株を角谷に握られ、主要取引銀行が慌てて防戦買いに出る。相場は当然高騰する。角谷は高値で大和証券に肩代わり、住友グループに割り当てる。
  鴨川化工の株集めで買い占めの味を覚えた角谷は、次の照準を日本曹達に合わせた。角谷が本格的に買い始めたのは昭和28年春ころ。調査部員を会社に差し向け調べてみると「四塩化チタン、スポンジチタンなど新事業と取り組みつつあり、新潟では天然ガスの採掘を続けていた。夢のある会社ということで日本曹達を取り上げ推奨した」(水野清文著「現代の相場師」)。
  昭和28年3月末には8万株だった江口の持ち株は、同31年9月末には524万7000株にまで膨らんで、筆頭株主に躍り出た。翌32年、そっくり大和銀行に肩代わりさせて巨利を占めた。
  そのころ人気の新三菱重工を最初に取り上げたのは角谷だった。昭和29年から同31年にかけて、3年間で1000万株を推奨販売した。あまり大きな利幅は取れなかったといわれるが、量で稼いだ。鴨川化工、日本曹達の思惑買いに成功していたため、「江口の角谷」の名は全国に知れ渡り、江口の推す新三菱重工株はよく売れた。
  江口のあとは、日興証券が新三菱重工の大量推奨販売で成功、さらに山一証券がその後を引き継ぎ、最後は野村証券が売りまくり、長期にわたる新三菱重工人気が続く。その端緒は角谷だった。
  連戦連勝の角谷は三越に目を付け、昭和32年には359万6000株の名義書き換えをやって、意気盛んなところを見せつけた。この時、山一証券の吉見俊彦(後に日本テクニカルアナリスト協会会長)は角谷に売り向かった。社長の大神一から「うちは三越の幹事証券じゃないか」と一喝されるが、以降大神にかわいがられたという。
  角谷は三越の仕手戦を演ずる一方で、鴨川化工に再挑戦、これが角谷の命取りとなる。後からなら言えることではあるが、少し調子に乗り過ぎていた。緒戦のうま味を忘れかねたのか、江口証券は昭和33年3月末までに鴨川化工の株を226万株(第1位)買い、姉妹会社で商品取引の江口商事が87万8000株(第3位)を買い占めるが、その途中で鴨川化工が不渡りを出し、株価は129円の高値からたった14円に暴落、角谷の命運は尽きた。
  既に三越の仕手戦を続行する力もうせ、最安値で野村証券に肩代わりしてもらうしかなかった。角谷は江口を辞め、しばらくは大阪で逼塞(ひっそく)していたが、昭和34年、唐沢繁雄率いる東光証券役員として、カムバックを果たす。ここにはインテリ相場師、曽根啓介が専務として陣取っていて勝負師の店と評判を取っていた。早速、日本電気冶金、佐世保重工業、新東宝などを手掛けるが、見るべき成果を得られないまま株界を去り、業界紙や事業経営に乗り出す。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・豪放な半面、非常に緻密(ちみつ)な人。豪快な相場を張るが、ここというところでは打つべき手は打っていた
・情報を先取りして、目立たぬように仕込み、陽動作戦を展開しながら、チョウチン筋を巻き込む(水野清文)
(すみたに けいいち 1916~没年不詳)
  大正5年(1916年)和歌山県出身、昭和9年野村証券に入社、同12年関西大学専門部商科卒、同16年大阪金属に転じ、同20年三信商会に入り、同24年江口証券に入る。鴨川化工等の買い占め成功で同31年に常務に昇進するが、再度鴨川化工に挑戦して大やけどを負い、責任を取って退任。同34年東光証券役員として復帰、同38年市場新聞社常務、同42年屋久島パインを設立して社長に就任。

相場師列伝

会社を徹底的に調査し長期戦、栗田英男氏(10/3/14)
ホンダのもうけで買い占め、美術品集めも

 相場師は美術品の収集を好む。そして自らの名を冠した美術館を建て後の世に名を残す人が多い。根津嘉一郎、山崎種二、五島慶太、菊池寛実、足立全康、遠山元一、戸栗亨…。栗田英男もこうした相場師の1人で、郷里の足利市に伊万里、鍋島焼のコレクションを誇る壮大な美術館を建てた。
  栗田英男の名がマスコミをにぎわすのは昭和37年、上毛撚糸の株買い占め戦の時だ。同社は大正元年設立の高級絹織物用ねん糸の名門で、前橋市に本社を置き株式を公開したばかりで、発行株数450万株の小型企業。横浜生糸取引所の仲買人として業務も行っている。
  同年7月11日に91円の安値を付けたあと、28日には187円に急騰。以来、買い占め説で波乱を続ける中、9月29日に会社側は防衛策として「3対1の有償増資」を発表する。ところが、株価の急騰で役員や安定株主の株が大量に市場に売却される。ここ数年、生糸市況の悪化で輸出が低迷し、株主配当も15%から12%、8%へと減配が続いていたから、「やれやれの売り物」が出ても不思議ではなかった。
  そんな中、買い本尊と目される栗田英男が怪気炎を上げた。
  「私は本田技研の株を持っているので、昨年(昭和36年)末、埼玉製作所の工場見学をした。その時、近くの上毛撚糸は55円だった。50年間の波乱を乗り越えてきた、たくましい実力を持っている会社なのに、1株がただの55円では余りにも安いと思った。経営者の頭脳を取り換えれば、国際株として大飛躍する会社になるはずだ。役員を送り込むため必要な3分の1(150万株)は取得する。私が直接、経営に参加することはない。専門家に任す方がいいだろう。権利落ち後の株価は250円くらいが妥当か」
  栗田は上毛撚糸の株集めに乗り出すに当たっては、徹底的に調査し、本田技研の株を一部手放し、そこで得たもうけを上毛撚糸に投下することにした。栗田が本田技研に着目したのは昭和28年当時というから、10年近くかけて持ち株を60万株に増やした。「私は目先の売買はやりません」というだけあって長期投資のタイプと見受けられる。時価にしてざっと5億円、これを上毛撚糸の買い占めに充てると公言する。
  上毛撚糸は創業50年史の編さんを急いでいる最中に買い占め騒ぎとなるが、創業者は日比谷焼き打ち事件(明治38年9月、ポーツマス講和条約反対の暴動事件)で勇名をはせた、代議士で相場師としても知られる細野次郎。昭和13年鐘紡の傘下に入るが、戦後は集中排除法の適用を受け独立を果たす。
  栗田英男は市役所のボーイから中央大学法学部に進むが中退、昭和22年の総選挙に出馬、馬に乗って選挙演説をやって名を上げ、当選を果たす。その後は東京毎夕新聞社長のかたわら書画骨董(こっとう)の収集に力を注ぐ。色絵鍋島、古伊万里を中心に集めてきたが、株のもうけが膨らんでくると、いい物も手に入る。当時の時価で1億円と称された。
  そのころの栗田評は概して好意的である。
  「曙ブレーキ、保谷硝子といった株式の投資戦術は今まで当たり続けているし、本田技研を早くから買い続けた先見性と美術品収集に対するねばり、一貫性から上毛撚糸に打ち込む態度は株式を会社側に売り付ける買い占め常習戦法とは性格を異にしているようでもある」
  上毛撚糸買い占め戦の結末は、はっきりしないが、上毛撚糸で名を売った栗田は次第に、いわゆる特殊株主(総会屋)の言動を帯びてくる。だが、「おれは総会屋ではないぞ」と、雑誌記者のインタビューにこう答える。
  「総会屋と呼ばれるのは心外だが、世間で僕をそう呼ぶのなら、呼ぶ人の自由だから、いちいち訂正させようとは思わない。しかし、総会屋というのは会社から金をもらい、株主総会の議事進行をそつなくやり、発言する株主を取り押さえて、なんでもかんでも会社についてやる連中をいうのではないか。僕のところにも今度の総会をよろしくなどと、金を持ってくる者もいるが、一応受け取っておいて、必ず翌日には送り返している」(昭和42年5月15日付、週刊株式)
  翌43年には栗田美術館東京本館をオープンし、同50年には足利本館を設立した。栗田は様々な顔を持つが、「私が野火の熱く盛んなる如く情熱の限りを尽くして作り上げたこの美術館が…」とみずからの美術館を語る時、27歳から美術館づくりを夢に見てきたという初一念を全うした充足感が漂っていた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・投資をするに当たっては会社を徹底的に調査する
・これはと思ったものは長期戦でやる。目先のソロバンでは売買しない
・私は総会屋ではない。なんでもかんでも短時間で株主総会を終わらせてしまおうということはナンセンスだ
・美術品を求めて40年余り、ただひと筋の思想と信念に徹した
(くりた ひでお 1912~1996)
  大正元年(1912年)栃木県出身、中央大学法学部中退、埼玉高等工科学校教授、栗田産業、猿沢鉱業社長。昭和22年衆院議員に当選、民主党、改進党に属し、旧栃木2区から計3回当選、独占禁止法を研究。同30年、33年の総選挙で連続して落選、政界を引退。「理論家総会屋の巨魁(きょかい)」と恐れられる一方、同50年、足利市に3万坪の敷地を誇る栗田美術館を開館。
(写真は「歴代国会議員名鑑」より)

相場師列伝

震災復興需要の思惑外れる 高田釜吉氏(10/3/21)
一技師から経営者に 商品、為替を読み違え

 「天下の糸平」田中平八の次男である釜吉は、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ。滞欧9年、帰国後は芝浦製作所の技師となり、さらに東京電灯に招かれる。やがて大手機械貿易商、高田商会の創業者、高田慎蔵に見込まれて、その婿養子となる。
  そのころ高田商会は日露戦争景気で羽振りを利かせていた。「陸軍省の御用を受けた大倉喜八郎と、海軍省の御用を受けた高田慎蔵は東西の両大関じゃ」と評判を取ったものだ。一技術者から今を時めく高田商会の副社長に就任した釜吉は遊びを覚え、“釜大尽”と呼ばれるほど派手に遊んだ。
  「新橋といわず、柳橋といわず、赤坂といわず、一流の待合や料理店での豪奢(ごうしゃ)な振る舞いは、素晴らしいものであった。芸者も女将も、女中も、すべて『釜大尽』と称すほどで、一宵の浅酌に千金をなげうつくらいの芸当は珍しいともなかったであろう」(谷孫六著「財界興亡史」)
  釜吉はもっぱら夜の世界で名を売ったように伝えられてはいるが、高田商会の業容拡大にも手腕を発揮した。当時の経済誌はこう記している。
  「君は単にその力量において優越なるのみならず、社交界の花形で、その端麗な風貌(ふうぼう)と瀟洒(しょうしゃ)な容姿は交際場裏に一点の美観を添える。君は千軍万馬の間を駆馳した勇士だけあって、何人に対してもそらさず、よくその意のあるところを洞見して調和、円滑を保つところに君の識見と人格のひらめきがほの見える」(「実業之世界」)
  高田慎蔵は釜吉の才覚を信じて副社長に据えたあとは経営には一切口をはさまず、釜吉に思う存分腕を振るわせるように仕向けた。釜吉は語っている。
  「大いに仕事して大いにもうけようという考えは無論持っている。しかし本当に愉快なことは父慎蔵が私を信用して、私にすべて任せてくれることです。だから高田商会の事業は私が思う存分専制的に左右することができる」
  高田商会は機械類の輸入で業績を伸ばし、ウエスチングハウス社の日本総代理店として利益を膨らませていたが、釜吉は生糸輸出にも手を伸ばした。厳父の初代田中平八が生糸相場で産を成したことを聞かされている釜吉は生糸取引に力を入れ、最盛期には年商の20%近くを生糸で占めるようになる。だが、相場変動の激しい生糸取引では大きな成果を上げられなかった。
  第1次世界大戦後の不況期に入っても釜吉の積極方針は変わらず、相場にも手を出し、損失を重ねた。大正10年には秩父木材事業会社を設立して、総合商社への道をひた走る。
  歴史に名高い1920年代における3大経営破綻は、茂木合名(大正9年)、鈴木商店(昭和2年)、そして高田商会(大正14年)の行き詰まりをいうが、高田の場合、大正12年の関東大震災での被災が大きな痛手となった。
  この時釜吉は形勢挽回(ばんかい)を狙って秩父の山林を買い占め、帝都復興には膨大な木材が必要とにらんで思惑買いを強行するが、これが裏目に出た。米国から予想もつかぬほどの木材が日本に流入、しかも内地産に比べ非常に安かったため、秩父の木材は大赤字となる。
  加えて、復興需要を見込んで欧米から思惑輸入した各種物資が、その後の円相場急騰によって暴落、巨損をこうむった。この辺りから高田商会の経営危機がささやかれるようになる。2月21日、銀座に本拠を構える高田商会の機関銀行、永楽銀行が突如休業に入り、高田慎蔵が一代で築いた高田商会の歴史は終わった。慎蔵が他界して4年後のことだった。
  「明治大正成金没落史」はこう伝えている。
  「兄の田中銀行頭取、2代目田中平八の勧めで、高田慎蔵の養子となり、いわゆる養子成金となり、好景気時代になって機械成り金となり、そして最後には没落して元の技術者となって終わらんとするのである」
  東大出の女優でタレントの高田万由子は曽孫に当たる。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・人間の一生、多くは運である
・余は単に運に任せてじっとしていさえすればよいというのではない
・十のもの、七までは考えてかかる。しかも決して最初から成功を期しておらぬ
・成功は人間の力以上のあるもの、すなわち運というものの力であることを信じておる
(たかた かまきち 1876~1957)
  明治9年、大相場師田中平八の次男(一説には三男)として横浜に生まれ、同25年ドイツに留学、ベルリン工科大学に学ぶ。同34年帰国後は芝浦製作所に入社、東京電灯(現東京電力)に転じ、技術部副部長に就くが、同39年機械貿易商高田商会の創立者、高田慎蔵の婿養子となり、次女雪子と結婚、同42年副社長、大正6年社長就任。同14年高田商会の経営破綻、社長を退任。
(写真は「実業之世界」より)

相場師列伝

投資クラブ主宰の先駆け、木村徳兵衛氏(10/3/28)
サヤ取りに徹し大もうけ、“爪長筋”と呼ばれる

 株の黒川木徳証券と米の木徳神糧のルーツをたどると、明治米穀界の大御所、初代木村徳兵衛にたどり着く。
  かつて東京の米取引は深川の正米(現物)市場と蛎殻町の期米(先物)市場が車の両輪となって、互いに影響し合いながら全国の指標となる相場を形成していた。昭和の初め、深川市場のボスが木徳こと木村徳兵衛であった。東京の米問屋で組織する東京廻米問屋組合では理事長のことを総行事と呼んでいた。
  「総行事の木村徳兵衛さんは、今では300万円からの大分限者、市場を見下す五層楼の大店に納まってカキガラ町の相場もカキ回してござるが、この町の利け者としてともかく随一の評を得ておる。大震災後、何とかの局(つぼね)を後添いにちょうだいしたが、ソロバンが取れぬとあって離縁したくらい商売熱心であるからもちろん商売も繁盛」(時事新報編「ビジネス・センター」)
  木徳は後年、サヤ取りを専門に手堅い商いで知られるが、若いころは「片張り」で大胆に相場を仕掛けた。しかし、明治31年の米相場を買いまくって失敗したのがきっかけとなり、サヤ取りに転じた。木徳は当時を述懐している。
  「私はその時、古満金、若秀と3人が仲間になって、正米の買い付けも行い、定期(先物)米にも買い建てた。その年の秋に岩崎清七(後に東京ガス社長)さんの先代などと越後へ行った。豊作で越後の新米が東京着11円(1石当たり)、越中米が10円80銭でしたが、東京の時価が18~19円だったので、これを十何万石買い付けた。ところが、それが入ってくると、相場の低落に遭遇し、9~10円で売り放ち、すっかり損をした」
  この時、「片張り」の怖さを身をもって体験した木徳は、サヤ取りに方向転換する。以来、長い間の米問屋稼業で、天災のあった年は別にして、ほとんど損をしたことがないという。蛎殻町では木徳や木徳一派のことを「爪長筋」(つめながすじ)と呼んだ。市場用語で、たくさんの利益がなければ手じまいせぬ欲張り、あるいはサヤ取り主義のことをいう。リスクの少ないサヤ取りでじっくり利益を太らせないことには手じまいしなかった。蛎殻町の連中は口惜しまぎれに木徳たちのことを「長いつめを伸ばしやがって」と歯がみしたに違いない。
  現物市場と先物市場との値差をにらんでやるサヤ取りは結構やっかいなこともあって先物市場の限月間のサヤ取りを重視するようになる。木徳は語る。
  「全国の定期米相場の間で正米事情を十分知り尽くしてサヤ取りするのは妙味のあるものです。当限、中限、先限のサヤ関係も、見込みで張る人(思惑師)の玉で往々支配される場合があるから、割取り(サヤ取り)の意味で、すかさず向かって出るのもサヤ取りの一種です」
  思惑で相場を張る人の向こうを張ることを、普通はサヤ取りとは呼ばないが、木徳は思惑屋の買いで割高になったところを売り、逆に売りで割安になったら買いを入れる戦法を取った。木徳は交和会と称するサヤ取りクラブを組織し、そのリーダーに収まった。木徳が熱海に持っていた別荘で総会を開き、全国の有力正米師(現物米の売買を行う業者)が集まって気勢を上げた。「朝鮮人も台湾人もいて、各自何万円かの金を出して組織したもので、その土地の事情を報告し合い、胸襟を開いて話し合いするのみか、割安地を買い、割高地を売るというような戦法で共同の玉を建てるのですが、同業者が腹蔵なく話をすることの利益は大きい」
  会員は35人程度に増え、そこには株屋も加わるほどだった。当時の新聞は木徳について「老いても精力旺盛な点で老人仲間がひそかに恐れ入っているそうだが、今日の大を成したのも、やはり精力に負うところが多いのだろう」とたたえる。古満金こと松村金兵衛と木徳が「正米師の双璧(そうへき)」とされていた。そして木徳の3男福三郎が出来物で、大阪株界の老舗、黒川幸七商店の養子に迎えられ、大阪株式取引所の取引員組合委員長として北浜市場の采配をふるった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・片張りは危険だからやらない
・正米を買い付ければすぐに定期につなぐ
・正米と定期米とのサヤ取りは難しいので定期市場間のサヤ取りや限月間のサヤ取りに妙味がある
・自信の強い男として彼の存在は米界に光を発している(「仕手物語」)
(きむら とくべえ 1864-1941)
  元治元年神奈川県横須賀出身、明治15年東京兜町で米穀商木村徳兵衛商店を開業、同19年東京廻米問屋組合が結成されると、同組合に加盟、輸入米の取り扱いも始め、貿易商となる。大正9年資本金100万円の株式会社に組織変更し社長就任。昭和7年木徳製粉社長を兼ねる。同8年紺綬褒章を受ける。東京廻米問屋組合総行事、深川区会議長をつとめる。
(写真は「東京廻米問屋組合深川正米市場五十年史」より)

相場師列伝

自分のカネを自分のものと考えない、石橋治郎八氏(10/4/4)
好況では休み、不況を狙い動く

 欧州大戦景気で生糸の街、横浜が沸き立っていたころの話だ。全国から生糸相場に賭ける勝負師たちが集まっていた。
  紀州の吉村(友之進)将軍、その参謀格である熊本の坂本覚平、郡山の松葉(喜助)将軍、地元を代表する田(でんた)将軍、電光将軍・小島兼太郎――。こうした相場師が入り乱れ、思惑を競っていた。
  そんな時、生糸仲買の雄・神栄生糸に籍を置く石橋治郎八は「天馬空を行く」と題し、生糸相場の分析・展望を語った。60キロ2000円台の時、「大正8年暮れには5000円に暴騰するが、翌年上半期には一転、1000円に暴落するだろう」と大予言を唱えた。
  石橋の予言に相場師の“将軍”たちが飛び付いた。田将軍などは「5000円相場とは、石橋君もなかなかえらいことをいう。でも1000円はないだろう。証拠金はいらないから、おれの店で先物を買えよ」と、最上客待遇で手を差し伸べてくれた。将軍たちが一斉に買いまくったため、相場は急上昇、大正9年1月には4440円にはね上がった。
  このころ、米龍という横浜関内で名妓(めいぎ)の誉れ高い芸者が当たり屋治郎八のうわさを聞きつけて、「石橋さん、わたしにももうけさしてよ」とすり寄ってきた。1000円(現在なら数百万円)持ってきて買った。先物取引特有のレバレッジ(テコの原理)が働いてすぐ倍になった。
  石橋「姐(ねえ)さん、この辺でやめたほうがいいですよ」
  米龍「あなたは5000円になるといったじゃないの。あたしゃやめませんよ」
  空前の4440円という高値をつけたあと、相場は石橋の予言通り、急降下していった。米龍は欲をかいたばかりに、手じまい時を失って1000円の証拠金を無にしたうえに、1000円の足を出してしまった。「年の暮れともなって、商売柄金は要るし、金はなしで、わたしのところへ泣きついてきたので、わたしが相場を張って、損した分の面倒をみてやりました」(石橋談)。
  大天井から1年後の大正10年1月には1570円の安値をつけ、生糸取引所は「総解け合い」という異常事態に。石橋はみずからの予言に従って、2000円から売り込んで大もうけ。売りの根拠はソ連の経済学者、ヴァルガの経済理論。この理論を生糸相場に当てはめ、勝利をものにした。このころには石橋の相場見通しはよく当たるとハマの評判になる。
  相場観測に絶対的な自信を持ち始めた折しも、神戸本店への転勤を命じられる。しかし、横浜に来て20年、すっかりこの地に人脈も築いた石橋は転勤を断り、1万円の退職金で石橋商店を設立、独立する。昭和3年、40歳のことだ。
  昭和7年、世界恐慌のあおりで生糸相場は暴落、6月1日には400円の安値をつける。大正バブル相場からみると、実に10分の1に暴落した。これより先、アメリカの生糸輸入商で相場師のジャーリーが、神戸の旭シルクを通じて一手に買いに入るが、日本の相場師たちが売りたたき、とうとう400円の最安値をつけた。さすがのジャーリーも先の買い契約の解約を申し込んでくるほどだった。
  この恐慌下で、石橋は積極策に出る。
  「人が見向きもせぬときに沼津工場を20万円で買い、我孫子工場を二束三文で買いました」
  不況に耐えかねて製糸工場を打ち壊すような時代に、工場を買うなど狂気のさただが、「製糸家なんかに嫁をやるな」とまでいわれた製糸不況をも尻目に、石橋はあえて製糸業に進出、逆張り戦法に出る。後年、「農村救済の理想を掲げて製糸業を始めた」と語っているのは、大向こうをうならせようと意気がったきらいがある。石橋は自伝「シルク紳士まかり通る」で述懐している。
  「相場を張るということは、大変なエネルギーを要する仕事である。普通の神経では、相場の上り下がりのたびに、のぼせ上がったり、蒼(あお)ざめたりで、ノイローゼになってしまう。私は生涯の大部分をこの道に精出しながら、相場の動きが心配で眠れないということはなかった。健康と、もう一つ秘訣がある」
  それは、もうけた金は他人様から預かったもの、損した分は他人様に預けたものだという考えに徹してきたからである。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・基礎調査を相当やり、自分のカンを生かす。これはいくら大学を出ていてもダメです。相当苦労しなければ、このカンとコツは出てこない
・自分のものやカネを、自分のものと考えない。預かっているものと考える。自分のものだと思うから神経衰弱になって頭が狂ってしまう
・好況の時は仕事をやらない。不況、不況を狙ってやる
(いしばし じろはち 1888~1971)
  明治21年石橋作太郎の長男として兵庫県氷上郡黒井町に生まれる。同38年大阪商業学校卒、ライジングサン石油会社に勤め、同41年神栄生糸入社、昭和3年独立し、横浜で石橋商店を開業、同8年沼津に石橋製糸所を設ける。第2次大戦中、神津牧場などを買収し、水陸興産財団理事長、同23年沼津商工会議所会頭、同33年横浜生糸取引所理事長。
(写真は自伝「シルク紳士まかり通る」より)

相場師列伝

小学校中退で辛酸なめ、19歳で財成す、木本一馬氏(10/4/18)
常に母国を意識、「第2の糸山英太郎」との評判も
  木本一馬が株の町、北浜で話題を呼ぶのは、第1次石油危機に日本列島がぐらりと揺らいだ昭和48年のことだ。
  小林一三ゆかりの中堅地方銀行・池田銀行の株集めで、3000円台だった同行の株価が4000円を超える急騰を演じた。池田銀行の株を買い続けたのは、北浜に本拠を置く中井証券で、同証券の島昌雄常務は「名前はいえないが、確かに池田銀行株を、ある不動産業者からの注文で買い続けている。そのお客の話では、買い占めではないとのことだった。ただ、売り物が少なく、いまのところ株数はまとまらない」と語っている。
  このように、機関店では株集めをしている人物の名を明かさなかったが、7万株を名義書き換えに出したので、“本尊”はすぐに判明した。大阪府豊中市に本社を構える新興不動産業の日本土地(資本金2800万円)で、社長は木本一馬、当時39歳。年商120億円、従業員65人、宅地売買で急速に業績を伸ばしてきた。木本が株集めの動機を語る。
  「池田銀行の株式は3月ごろから市場を通じて買った。理由は池田銀行の経営に新風を吹き込んで、一流の銀行に育て上げたいからだ。7万株弱を名義書き換えに出したが、その後も株を集めている。今では合計で10万株を超えている。場合によっては発行済み株式の4分の1を集めて役員を送り込むことも考えている。これは5年でも10年でも時間をかけてやる。集めた株を売るつもりはない」(昭和48年9月13日付、サンケイ新聞)
  当の銀行では白戸光矩常務が「株集めは名義書き換えで初めて知った。すぐさま木本社長に会った」とし、以下のように語っている。
  「木本氏の説明は『地元の銀行なので安定株主になりたい』ということだった。日本土地とは、これまで取引関係がなかったので融資取引を狙った株集めかと考えたが、そのようでもない。現在の株価は業績からみて高過ぎるとはみていない」(同)
  木本は銀行側に向かっては「安定株主うんぬん」といいながら、周りのものには「池田銀行は田舎大名的で経営陣の空気が沈滞している。新風を吹き込みたい」と語っている。
  ところが、この買い占め事件は急転直下、銀行に肩代わりさせるという、よくあるパターンで落着する。実は木本が東急グループの東急土地開発と関係があり、同社の竹林八郎社長が仲介に乗り出し、池田銀行の清瀧幸次郎頭取と京都大学の同級生であったことからトントン拍子で終局を迎える。木本は池田銀行の株集めの理由について「韓国人に金を貸さないというので買った」という反骨心から買い始める。だが、途中で尊敬する竹林の説得で断念したのであった。
  木本一馬は在日韓国人として辛酸をなめて育った。
  「小学校を5年で中退して社会に出た。仕事といえばブタを飼い、ホルモンを売ることであった。起床4時、就寝0時、それでも足りなければ、2日間ぶっ通しで仕事をした。食うものも満足に食えずじっと歯を食いしばってやり抜いた。こうした辛酸をなめ、19歳の時にはすでに1億円の財を成していた」(水野清文著「現代の相場師」)
  木本は池田銀行買いと並行して京阪神不動産に目を付け、200円前後から買い始める。昭和48年9月末に100万株の名義書き換えをやってあっさり正体を現した。本尊が木本であることが分かると投機筋のチョウチン買いで株価は920円の高値をつける。騎虎の勢いに乗った木本は、松尾橋梁にも手を出し、130円前後の株価は320円の高値をつける。この時、木本はマスコミに「松尾橋梁は母国韓国復興のために技術が欲しい会社だ。技術提携を狙って株を集めている」と語る。木本の頭の中には常に母国のことがあった。彼は日ごろ「祖国は韓国、故郷は豊中」と話していた。
  同49年夏には江崎グリコに「木本買い出動説」が流れて株価は1000円台に奔騰、同50年秋には伊藤ハムにも触手を伸ばすなど、その貪欲(どんよく)さはとどまるところを知らなかった。木本が主戦場とする北浜市場では「第2の糸山英太郎」との評価が定まりつつあったが、平成バブル景気が弾けてほどなく、志半ばで急逝する。
  当時の株式市場では、吉野ダラー、笹川・糸山グループ、キシメンダラー、イグサダラー、キリコグループなどと、集団で行動する仕手筋が目立った中で、木本は一匹狼(おおかみ)に徹した。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・金融業の本来の姿は零細企業の保護、育成である
・株の取得に際し、韓国経済の発展を基礎に考える
・恵まれない人たちに何かをしてあげないといけない
・出自が彼の反骨心を高めた(久保木賢二)
(きもと かずま 1934~1991)
  昭和9年大阪府豊中市出身、韓国籍で韓国名は孫圭鎬。同30年金融・不動産業の木本商事を設立、同42年日本土地を創設、同48年ころ池田銀行、京阪神不動産、松尾橋梁などの買い占め戦で話題を呼ぶ。関連会社に木本興産、日本金融、国際地所などがある。同48年から50年にかけて、北浜市場を中心に仕手としてあばれ、暴力団とのかかわりを取りざたされたこともある。

相場師列伝

投資は「理屈3・人気3・ケイ線3に1分の直感」、吉田虎禅氏(10/4/25)
教祖と拝まれ、盗人とけなされ…

 吉田虎禅が畢生(ひっせい)の書、「虎禅・決断の譜」を昭和53年に発刊した時、定価が5万円と聞いて兜町はびっくり仰天、週刊誌も取り上げるほどだった。波瀾(はらん)万丈の半生記とともに、株価予測の秘伝を公開したということで全国の虎禅ファンは飛び付いた。30年強たった今、インターネット上でこの古書価が8000円程度となっているときがあるのは、虎禅にすれば、少々不満かもしれない。
  吉田虎禅が株で初めての大勝利を収めるのは昭和16年12月8日のことだ。当時虎禅は満州で鉄工所を経営するかたわら、日米開戦必至とみて「戦争と株価」について調べていた。「遠方の戦争は買い、自国の戦争は売り」というのが定説だったが、虎禅は別の考えで臨んでいた。
  「戦争に負けたら財産も株もへちまもあるものか。日露戦争が始まった時、彼我の力の差の大きさに日本の敗戦を覚悟し、売りに回った大相場師が戦後没落したことが頭をかすめた」(「虎禅・決断の譜」)
  「買いだ。買い一本やりだ」と確信すると、当時の仕手株、新東を徹底的に買い始めた。寄り付きでまず2000株買った。売買単位が10株の時だから思い切った株数である。証拠金が時価の10%の先物取引だからできたことだ。相場は開戦をいや気して軟調に始まったが、正午の臨時ニュースでハワイ真珠湾での戦果が大本営から発表されると、後場急反騰に転じた。
  虎禅はがむしゃらに買い増した。この日だけでものすごいもうけとなる。当時は株屋が客の注文をのむのが当たり前といわれた時代で、すさまじい勢いで買い一辺倒の虎禅に対し、株屋の方が尻込みし、注文を受けてくれない。
  「私は店頭でどなりつけ、ハッパをかけた。しまいには証券屋頼りにならずと、自身でわざわざ奉天(瀋陽)・青葉町にある満州取引所にまで乗り込んだ。そして場立ちと一緒になってカイの手を振った」(同)
  ところが、翌17年1月5日、満州取引所の大発会当日から相場は下降線をたどり始める。原因ははっきりしている。時の大蔵大臣、賀屋興宣が施政方針演説で軍事費捻出(ねんしゅつ)のため「株式の利益にも課税する」と発表したからだ。新東は年末の160円を天井に下がり続け、もうけはやがて雲散霧消する。
  虎禅が再び株界に姿を現すのは9年後の昭和26年のことだ。福岡に本社を構える平野証券にセールスマンとして入社する。大分出張所を任されるが、折から朝鮮動乱の特需景気で株価は奔騰、「不老会」と称する投資ファンドのようなものをつくると、お客が押し寄せてくる。会員は130人ほどに膨らみ、配当を渡す日には、15畳くらいの事務所で廊下まで人があふれ、さながら新興宗教の道場のような光景を呈した。虎禅はさしずめ教祖さまである。
  福岡証券取引所の出来高の約10%を、虎禅とその信奉者で占めるほどだったが、ガラも早かった。証券史上に残るスターリン暴落の襲来で、四面楚歌(そか)、教祖が盗人呼ばわりされる。死を考えたことさえあるが、夫人の励ましで再起を期すことになる。
  九州最大手であった平野証券の社長は、福岡証券取引所の理事長を兼ねていたから、社業は虎禅が采配を振るうまでになっていたが、昭和35年正月、突如倒産する。折しも岩戸景気で証券会社は未曽有の好況を満喫していたのに、お客の買い注文に店が向かっていたため、破綻したのだ。虎禅は述懐する。
  「客にもうけさせていたつもりが、逆に平野証券を苦境に追い込んでいたとは、なんたる皮肉であろう。もとはといえば、客の買い玉を店でのむという前近代的な商法が、こっそりまかり通っていたことが、今度の倒産劇の一大原因なのだ」
  従業員の大半は大阪屋証券に移るが、同35年3月、虎禅は野村系の江口証券の歩合セールスマンとなる。大卒の初任給が1万2000円当時に、月給80万~100万円のすご腕セールスマンである。江口の商品取引部門である江口商事の顧問兼外務員も兼ねていた。
  ところが、翌36年、証券と商品の兼業ができなくなる。この時、虎禅は株を捨て、商品を取った。理由は明快、「株は天井が近い」と読んだからだ。福岡市で「最後の相場を勝ち取れ」と題して講演、天井近しを繰り返した。3カ月後、株式相場は大雪崩に見舞われ、5年間に及ぶ下降局面に移行する。
  株価低迷を尻目に江口商事の外務員として先物取引のセールスで稼ぎまくり、月額50万円から100万円の歩合手数料を福岡の歓楽街、中州に運び込む日々だった。しかし翌朝には「江口のヨーさん」変じて厳しい虎禅の目で黒板の数字を凝視していた。
  昭和38年3月、虎禅は新しい株価循環の時が近づいたのを感じると、単身東京に拠点を移し、日本橋茅場町の一角に経済分析研究所の看板を掲げる、時に49歳。以来、日本短波放送を通じて虎禅の名が全国に広がっていく。
  次男の滋が亡き父の投資哲学を継承、発展させ、テクニカルアナリストとしてかつやくしている。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・王道を歩もう。小手先の器用さでものごとに対処してはならぬ
・理論3分、人気3分、ケイ線3分、直感1分
・仕事、友人、女に心からほれよ
・人生を逃げず、ごまかさずに生きる
・証券セールスは人間の真心をセールスする商売である
(よしだ こぜん 1914~2002)
  大正3年山口県出身、昭和7年山口鴻城高校卒。高島屋、田辺製薬(当時)に勤務後、同12年満州ハルビン鉄道局へ就職、野球部に在籍、同14年ハルビン市で吉田鉄工所を設立。終戦後、製畳会社、貿易会社を経営、同26年福岡市の平野証券に入り、同35年江口証券。同36年に東京で経済分析研究所を開設、同47、48年紺綬褒章を受ける。同53年「虎禅、決断の譜」を出版。
(写真は自著より)

相場師列伝

5年続けて10割配当、怪物と呼ばれた相場師、木村磊三氏(10/5/2)
暗算が得意で計算に明るい、土地でも利益

 戦後の北浜市場を中心に「木村旋風」とか「佐渡島台風」と呼ばれる大相場を演出した男がいる。佐渡島金属社長の木村磊三(らいぞう)がその人だ。本業の金属商は専務以下に任せて、木村自身は相場師として采配をふるう。高額所得者番付に名を連ねたことも珍しくない。本社とは別のところに私設調査機関を設け、証券会社顔負けのスタッフを5、6人抱えた。スタッフは相場分析をやり、情報を仕入れては木村に報告する。証券業界紙にいわせると、「ヘタな証券会社よりはるかに情報が早い」。
  そのころ東京市場では投信、外国人、法人が主役であったのに対し、大阪市場では木村のような仕手と呼ばれる個人投資家の活動が目立った。この点について、株式ジャーナリスト久保木賢二はこう述べている。
  「大阪市場は個人投資家の比率を高くしてその特性を守っている。これも関西人の利にさとい直接行動が、名を捨てて金に生きる理屈抜きの経済を突っ走るからだ。このような環境だからこそ、個人投資家が育つ。木村磊三氏もその1人、年齢は70歳を超える。相場暦は40年というから相当なものだ」(「踊る仕手株」)
  木村が初めて株で大勝利を収めるのは関東大震災の直後だ。往時を回想して語る。
  「関東大震災で東京株式取引所が焼けて、再開して初めて場が立った時、寄り付きから新東を買ったものです。これが当たった。最初から強気でということが私の信条であり、薫陶を受けた2代目佐渡島伊兵衛氏もその主義でした」
  木村磊三は少年店員として、佐渡島商店に入った。荷造り、なわ掛けから商売の道まで教わったのが二代目佐渡島伊兵衛で、三代目伊兵衛も相次ぎ亡くなり、木村が事実上の経営トップとなる。
  戦時中は統制経済下でわずかの手数料収入に甘んじるしかなかったが、終戦と同時に、統制されていた価格が自由な相場としてよみがえる。この時を待ち構えていたかのように、木村は機を見るに敏な大阪商人として本領を発揮し、もうけは雪だるま式にふくれ上がっていく。
  本業のかたわら、取引先を拡充するために始めた証券投資が当たりに当たって、昭和25年から5年続けて10割配当を実施、周りを驚かせた。ケタ外れの配当、増資はその後も続いた。
  このころ木村が仕掛けたのは中山製鋼で、100円台から買いまくり、535円まで高騰させた。平均買値は220円前後というから莫大(ばくだい)な利益だ。
  日本アルミでは筆頭株主に収まる一方、レジャーブームを見越して千土地興行の株を10年かけて買い続け、120万株保有する筆頭株主にのし上がった。千土地は松竹の大谷竹次郎会長の双生児の弟、白井松次郎が創業した会社で、松次郎が亡くなった後は実弟の白井信太郎が経営していた。
  昭和27年、千土地が労働争議でお手上げになっていた時、木村が陣中見舞いにやってきた。包みを開けると800万円の大金が出てきた。信太郎はびっくり仰天。「ありがたいが辞退します」という信太郎を尻目に、木村はもうひと包みを差し出し、「合わせて1500万円あります。ご自由にお使いください」。こう畳みかけられ、信太郎は受け取った。
  だが、そこは大阪商人の木村磊三、抜け目がない。代償に大阪にある松竹の土地を譲り受けた。そして後からそれが大化け、10年足らずで20倍に膨れ上がった。
  木村をよく知る中村貞二・久保田鉄工(現クボタ)監査役が一風変わった木村流投資哲学について語っている。
  「暗算が得意で計算に明るい。決して乗っ取りとか策謀ではなく、常に利潤を計算した投資だった。しかし、スケールが大きいうえ、買って上がらなければ『銀行に預けて利子がつかぬと思えばよい』といった調子だから、普通の人間はついていけない」
  怪物と称された男の正体を探りたくて木村を訪問した財界記者がかつてこのように書いている。「田夫野人めいたオッサンである。しかも何の警戒心もなく、てらいもなく淡々と語る物腰には、一種の親しみを感じさせる」
  洋服を野良着に替えたらお百姓さんだというが、なかなかどうして、れっきとした老練相場師なのだ。「手数料で稼ぐというのは本当ではありません。相場変動があってこそ、妙味があるのです」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場の変動があってこそ、商売の妙味がある
・アタック・アンド・アタックの強気を真正面からむき出しにした乱世の雄(財界)
・相場師としては文句なしの一匹オオカミ、老練であるだけに“大オオカミ”といっていい(久保木賢二)
・買って上がらなければ1年間、新聞の株式欄など見なければいい
(きむら らいぞう 1897~1985)
  明治30年、大阪市鰻谷生まれ、明星商業を2年で中退、同45年地金商・佐渡島商店の少年店員となる。昭和7年(1932年)上海事変を機とする景気に乗り、佐渡島商店は株式会社化する。同23年社長に就任。朝鮮動乱ブームでもうけた金を北浜に注ぎ込み、仕手として名を成す。
(写真は「財界」昭和31年11月15日号)

相場師列伝

横浜開港、生糸売買で巨利、中居屋重兵衛氏(10/5/9)
「見本取引」が「先物取引」に発展

 安政6年(1859年)の横浜開港に際しては全国各地から一騎当千の強者どもが押し寄せ、一獲千金の夢を追った。天下の糸平、雨敬、原善三郎、茂木惣兵衛、高島嘉右衛門といった相場師をはじめ、後年、歴史に名を刻む英傑たちが競う中で、真っ先に抜け出たのが中居屋重兵衛だ。
  重兵衛は開港に先立ち、間口30間(54メートル)の総銅瓦葺(かわらぶき)の豪壮な邸宅を新築した。数奇をこらした庭の中央には大きい池を造り、橋が店舗と邸宅との渡り廊下の役目を果たし、回遊式の庭園はたちまち横浜の新名所となった。人々は銅(あかがね)御殿と呼んだ。店は外国商人が靴ばきのまま自由に出入りできるように、外商たちを意識した造りになっていた。この狙いは図星だった。
  「外国商でも大取引をする屈指の英一番館、米国二番館、和蘭(オランダ)七番館などは、中居屋を最も信用して欧州へ大量に送る生糸の買い付けに際しては中居屋を真っ先に選び発注した」(佐々木杜太郎著「開国の先覚者-中居屋重兵衛」)
  時代はさかのぼる。日本橋の書店で重兵衛が手代として働いていた時だ。父親が上京してくる。この時、重兵衛は商売で身を立てる決意を父に語る。
   重兵衛「私の本筋は商人じゃないかと思います。商売の面白さといったらこたえられません。何ものにも勝ります」
   父「これからは商売が世の中を動かしていく。侍だって金の力にはかなわない。世の中の中心に座るのが商売だ。だから商売を制した者が天下を制することになるだろう」
   重兵衛「商売こそ男がやるに最もふさわしい仕事です」(南原幹雄著「疾風来り去る」)
  嘉永2年(1849年)、重兵衛は独立して日本橋で火薬の製造、販売を始めた。これに成功すると夢はさらに膨らんだ。時代は横浜だ。横浜は生糸だ。生糸は相場だ。ハイリスク・ハイリターン、乱高下の激しい生糸相場に挑戦する。
  このころ1両につき145匁(もんめ、1匁=3.75グラム)だった生糸は、同4年には1両につき200匁に暴落する。翌5年には1両につき145匁に急反騰したかと思うと、冒頭で紹介した安政6年(1859年)の開港時には、1両=120匁の高値をつけた。そして、文久元年(1861年)には1両=55匁の異常ともいえる高値をつける。こうした波乱相場こそ、重兵衛の天性にはぴったりの商売であった。
  前橋で買い付けた生糸を3倍の値段で外国人のバイヤーに売り込む醍醐味(だいごみ)に重兵衛は酔いしれた。
  重兵衛と外国商館との間は、初めは現物取引であったが、やがて見本取引となり、これが先物取引へと発展していく。重兵衛は信用で買い付けもやれば、品物後渡しの売り込みもできるようになる。信用が商売の幅を一段と広げてくれた。
  取扱商品は生糸ばかりではない。諸藩大名から信頼されて外国製の武器、弾薬もひそかに買い入れるようになると、莫大(ばくだい)な利益が転がり込み、重兵衛の快進撃が続く。前出の南原幹雄が「大いなる志と怒とうのごとき生きざま。大商人の枠におさまり切れなかった男」と評した重兵衛だが、行く手に思わぬ落とし穴が待ち構えていた。
  生糸相場が1両=55匁のとっぴな高値を付けた文久元年(1861年)には、幕府は1日の輸出量を500斤(1斤=160匁=600グラム)に限り、それを超えて輸出すると厳罰に処するとの達しを出していた。重兵衛はこの決定を無視する。生糸をどんどん輸出して金銀を増やすことこそ緊急の課題だ。重兵衛は禁輸策をあざ笑うかのように輸出を続けた。重兵衛はついに捕らわれの身となり、時を同じくして銅御殿が不審火で焼失してしまう。この年の8月2日、獄中に死す。
  JR万座鹿沢口駅前に徳富蘇峰の筆になる「中居重兵衛」(碑の表記ママ)の巨碑がそびえ立つ。蘇峰は大著「近世日本国民史」の中で「大厦高楼(たいかこうろう)も一朝にして焦土と化し去った。中居屋自らもいくばくもなく逝った。しかし、彼の横浜開拓の功績は没すべからざるものがある」と重兵衛をたたえた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・大きな商取引のためには常に(高級料亭の)岩亀楼で接待した
・義をもって利とするという根本的自覚に立ち、集まってくる金は自分の金ではなく国の宝であると考えていた。従って、よく散じた
・世のため、人のためになることは少しも惜しまなかった
(なかいや じゅうべえ 1820~1861)
  文政3年(1820年)、群馬県嬬恋村の名門に生まれる。嘉永2年(1849年)、29歳で東京日本橋で火薬の製造、販売を始める。横浜に出て生糸の売買を手掛け巨富をつかみ、安政6年(1859年)、横浜開港に合わせて、豪華な邸宅兼店舗を建築、豪商への道を歩む。文久元年(1861年)、幕府の生糸輸出禁止令を破った罪で投獄され、獄中死。
(写真は萩原進著「炎の生糸商中居屋重兵衛」より)

相場師列伝

業績低迷の「ヘチ株」売買で本領発揮、辻楠松氏(10/5/16)
シャントリ株で巨富

 かつて北浜で「上取(シャントリ)成り金」と呼ばれた男が辻楠松である。大阪株式取引所理事長の島徳蔵が政治家と結託して、でっち上げた「上海取引所」の株が暴騰した時、これを買いまくって巨利を占めたからだ。
  「北浜の“村長”、島さんが小遣い銭稼ぎのため一夜作りでこしらえた上海取引所は、臭いばかりで実体のつかめない屁のような会社であったが、投機熱とかいうバクチの盛行時代である大正8年(1919年)には、50円株が260何円かの珍高値に噴き上がった」(大阪今日新聞社編「市場の人」) 
  この時、上取株を買って、買って、買いまくった辻は、ざっと100万円(現在なら20億円が30億円)の大もうけで、相場師連中から羨望(せんぼう)のまなざしを浴びた。飛ぶ鳥を落とすまでには至らなくてもコウモリくらいは落とせる、などと地場ではやっかみ半分にうわさし合った。大阪府下の岸和田に堂々たる邸宅を建てると、人々は「シャントリ御殿」と称した。大正9年のガラでは、成り金たちが相次いで元の「歩」に逆戻りする中、辻は踏みとどまった。
  「普通のヒョコ(歩)とはヒョコが違う。斜め飛びの桂馬や一本突きの香車より融通のきくこと数等上。成り金時代の余勢、余威を保って縦横に活躍する。主力株も随分思い切った思惑の手を伸べるが、それよりもヘチ株を狙って奇襲を試みるところに君の本領がよく現れている」(「市場の人」より)
  ちなみに「ヘチ株」の「ヘチ」とは、「はずれ」「縁(ふち)」を意味する。業績や企業内容がぱっとしない株を指すが、いつも注文が少なく、少しの売り買いで値が動く株を指すこともある。
  辻楠松は滋賀県の豪農に生まれたが、政治家か、相場師になりたいとの夢を描いていた。どちらも機敏な才智と度胸を必要とするが、一か八かの肝っ玉次第で一獲千金を狙える相場師の道を歩むことになる。
  北浜の松村彰株式店で顧客として売買をやっているうちに、相場のコツを覚え、市場の空気にも慣れて小資本で開業できる現物店を始めた。一説には杉本章商店で場立ちをやっていたともいうが、確証はない。いずれにしても岸和田で開業した現物店が北浜の雄、辻楠松商店へのスタートである。
  このころ、人気芸者・照葉と結婚して話題を呼ぶ北浜の相場師小田末造と出会う。そして小田が仲買を廃業した時、その権利を買い受け、念願の北浜に進出を果たす。
  時あたかも欧州大戦のぼっ発による株界混乱期であったが、辻は巧妙に泳いで上々の成果を上げた。そして冒頭に記した上海取引所株の暴騰で大もうけ、辻楠松商店の基礎が固まる。
  大正バブル景気の反動期には一時、岸和田の店に避難したが、間もなく、岸和田の方は子飼いの店員に譲り、みずからは北浜の陣地を拡充し、積極的に顧客開拓に乗り出す。これまではもっぱら自己張りで熨(の)してきたが、少しずつ客受け(客の注文を受託すること)に重点を移すようになる。
  昭和7~8年に景気回復をはやして株価が高騰すると巧妙に立ち回って巨利を博し、大株の売買高ランキングでも常時5、6位を占める盛況を示した。辻商店躍進のかげには辻の生来機敏な決断がズバズバ的中したことのほかに、支配人の中井房一の尽力を見逃すわけにはいかない。中井は名門竹原友三郎商店で采配をふるっていた逸材で、相場研究の著書もある相場道の評論家で、辻をよく支えた。
  「辻氏は果断、剛腹、全身これ胆の人である。一度決心したことに対しては、いささかの躊躇(ちゅうちょ)、逡巡(しゅんじゅん)もない。度胸と押しの一の手でぐんぐんと進めていく。不幸にして不成功に終わった場合でも呵々(かか)大笑して何ら後悔めいた愚痴をこぼさないところは相場道に徹した古強物」(登尾源一著「財界の前線に踊る人々」)
  「機を見るに敏なること隼(はやぶさ)の如く、相場を張るに鋭きこと鷲(わし)の如し」などといった評も残っているが、昭和8年の大株での売買高が上期、下期とも短期取引の部門で1位を占めたあとは、上位5社には名をつらねていないが、少々気になるところ。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・生まれながらの士魂商才、正々堂々の商道をもってよく商機をつかむ先天的な機敏さ
・度胸と人格、しかも堅実無比、石橋をたたいて渡る
・男子事を成すに当たっては決死の覚悟がなければならぬ
・武士道的精神があればこそ大胆、虚心の行動がとれる(登尾源一)
(つじ くすまつ 1878~没年不詳)
  明治11年、滋賀県高島郡出身、家は代々農業を営み羽振りを利かしていたが、中学卒業後、松村株式店に出入りして株の売買をやっていた。岸和田で株の現物店を開くが、北浜の名物相場師、小田末造が廃業したため、その権利を買い受け、大阪株式取引所短期取引員となる。上海取引所株の暴騰で巨利を占め同一般取引員となる。
(写真は「財界の前線に踊る人々」より)

相場師列伝

ニッカウヰスキーの前身を設立した相場師、加賀正太郎氏(10/5/22)
けしかけられても大勝負はしない

 加賀正太郎は相場界よりも数寄者の世界で名が通っているようだ。数寄者研究家の大塚融が書いている。
  「茨木カンツリー倶楽部を設計し、天王山の中腹にある大山崎山荘の建築と作庭に30年をかけ、しかも途方もなく高価な洋ランを1万鉢も栽培、うち83点を6年がかりで京都の絵師に精密に描かせ、京都と東京の浮世絵職人に木版画に仕立てさせ、敗戦直後というのに『蘭花譜』の名で刊行、マッカーサー元帥に寄贈している」
  古美術売買の牙城、大阪美術倶楽部がGHQ(連合国軍総司令部)に接収された時には、高麗橋の自邸を倶楽部として提供した。
  加賀正太郎は北浜屈指の株式仲買、加賀市太郎の長男として生まれるが、12歳で父が他界すると、叔父加賀豊三郎を頼って上京する。
  豊三郎は、兄の市太郎を助けて加賀商店の躍進に尽力したのち、東京に出て東京株式取引所の仲買人となり、『大一商店』を経営していた。豊三郎は兜町に身を置きながら、小島烏水など一流の浮世絵収集家と親交を結び、「金色夜叉」で知られる尾崎紅葉のパトロンでもあった。正太郎の生き方にも影響を与えた。
  正太郎は日本橋の有馬小学校から府立三中(両国高校)、東京高商(一橋大学)に進むが、在学中の明治43年にヨーロッパを旅行、アルプスに登る。「スイスの主峰ユングフラウの頂上を極めたるもの、日本人として余が最初の記録であることを知って、むしろ奇異の感に打たれた」(「蘭花譜序」)。
  卒業後、父の株式仲買業を継ぐが、心底からは北浜の人にはなり切れなかったようである。
  「賭博場のように言われるこの村(北浜)で仲買人たることは、大家の若様の沽券(こけん)を傷つけるもの、第一かわいい日本一の美人の細君を遇するゆえんに非ず、てなことから大正7年に実弟たる慶之助君の名義に切り替えてしまった。しかし、弟は年が若い。十分に監督する必要があるというので、以来1日も欠かさず、1度ずつは必ず店に来て監督している」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  百戦錬磨の策士や業師が「切った張った」する北浜で、学校出たての2人のおいっ子では、大所帯を切り盛りするのは大変とみた叔父豊三郎が東京から目を光らせていた。毎日のように電話で指示が飛んできたという。
  当時の北浜では大阪高商出の竹原友三郎と東京高商出の加賀正太郎がともにインテリ仲買として対比されることが多かった。「仕事狂の竹原、遊蕩(ゆうとう)名人の加賀」などと評されたこともある。正太郎が弟に加賀商店の代表者名義を変更したことについても世間では「小心翼々、学校出の度胸なしの甲斐性なし」などと辛らつな罵声(ばせい)を浴びせたうえに、こう発破をかけた。
  「朝から晩までノラノラと遊びで続けるのがいけないというのだ。ひとつ親の財産をたたきつぶすくらいまで大仕事をやってみろというんだよ。お高く構えなさったところで、一個の相場師じゃないか。一か八かやってみるんだ。若いうちにひとつ倒れてみるんだ。大きなしくじりをやって初めて真の人生が見い出され、再生の曙光(しょこう)が現れてくるんだ」(藤山一二著「大阪財閥論」)
  そのころ、北浜では岩本栄之助、梅原亀七、島徳蔵、浜崎健吉、そして加賀正太郎を加えて5大仲買と称されていた。正太郎については「蛟竜(こうりょう)の雲雨を望むが如く機会をうかがいつつあり。その将来や誠に期して待つべく、真に如意棒を持てるが如き結果を思うに十分なり」と世間の期待も高まる。
  一個の相場師として大勝負をしてみろと、そそのかされても正太郎が仕手戦に加わった形跡はない。竜が風雲を得て池中から九天に昇る時は近いとおだてられようとも、大向こうをうならす挙に出ることはなかった。週末ともなると大阪と京都の府境、大山崎に建てた山荘で洋ランの栽培に打ち込んだ。電灯がつき、電話が開通すると、ここ大山崎から大阪の加賀商店に通うようになる。
  正太郎には子供がいなかったため、叔父豊三郎の三男、行三を養子にもらう。行三は正太郎の一橋時代の同期生、速水量平の次女郁と結婚する。郁の弟が第28代日銀総裁、速水優であることはあまり知られていない。
  正太郎が竹鶴政孝と大日本果汁を設立、ある計画に失敗していや気がさした正太郎が「もう会社は解散や」といった時、「社長、この金で麦を買ってください」と申し出たのが、加賀商店証券部の総支配人、秋山千治。場立ちから専務に栄進したこの男が相場で大もうけをしていたのだ。
  この時正太郎は「そうしてくれるか。よっしゃ、やろう」と再出発した。これが、大日本果汁を略した「日果」が社名の由来であるニッカウヰスキーだ。のちにアサヒビールグループの傘下企業となった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・加賀正は小心翼々党の1人だが、まだまだ改善の余地があり、望みは十分ある。親の財産を米国流に社会事業に使えと言いたい(藤山一二)
・株式仲買人の主人に納まっている時でも加賀の美の火は消えることはなかった(大塚融)
・日本は美しい国である。国は破れても山河は旧態依然として存する。美しき日本は必ず生まれ出る。これが余の最も大きな希望である
(かが しょうたろう 1888~1954)
  明治21年先代加賀市太郎、母レイの長男として大阪府で生まれる。同33年家督を継ぎ、同40年東京府立第三中学(現両国高校)を卒、同44年東京高商(現一橋大学)卒、大阪株式取引所仲買人を経て加賀商店を再開、45年大山崎山荘の建築に着手、大正3年蘭花の栽培開始、同14年茨木カンツリー倶楽部完成、昭和8年加賀行三(叔父加賀豊三郎の三男)と養子縁組、同9年大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)設立に参画、同29年死去。

相場師列伝

風邪きっかけに売り転換、暴落で巨利、小島周氏(10/5/29)
楽観ムード支配する中、売りまくる

 商品市場で語り継がれる大正9年(1920年)のガラ(相場暴落)は株式市場の暴落も伴い「大正パニック」と呼ばれたが、このガラは横浜の豪商たちを直撃した。
  最大手の商社、茂木合名が破綻、砂糖問屋の増田商店や安部幸商店も行き詰まった。そのような中で、生糸の石橋治郎八と小島周はもうけ頭の双璧(そうへき)と称された。先物市場を上手に利用していた人たちがガラを逆手に取って身代を築いた。
  小島商店は明治9年(1876年)、養父の源次郎が生糸の売り込み商(輸出商)として開業、ランキングでは中堅に位置していたが、同41年、周が横浜生糸取引所の仲買人の権利を取得、「て」印の屋号で先物取引部門を設けると、業績が大きく伸びた。先物取引では大正年間に4年連続でナンバーワンの快挙を達成した。
  相場師には縁起をかついだり、信心深い人が多いが、周も信仰心があつかった。次男の周次郎が自伝の中で書いている。
  「毎月1日、15日、28日は精進料理で、肉類など生臭いものは一切食べさせず、野菜類ばかり食べさせられた。母はいきつけの占師から相場の話なども聞いてくるらしく、時には相場について父に進言し、それが当たった時もあったようだ。そうすると父も母の信心深さを信用して『おい、相場がどうなるか聞いてこい』などと、母を占師のもとへ行かせることもあった」
  周が一世一代の大もうけをやってのける大正9年の生糸相場を振り返ってみると、前年の4月に162円(10斤=6キロ)だったものが、同9年1月には444円という空前の高値をつけた。周は終始強気方針で臨み、客と一緒に買い進んでいたが、2月になるとジリジリ値下がりに転じた。そのころ風邪を引いて3日ほど寝込んでしまったが、回復すると一転、売り方に回った。何を根拠に売り方に転じたかははっきりしないが、とにかく売りまくり、顧客にも売りを勧めた。しかし、先行き再び高騰するとの市場の空気が支配的で、顧客たちは「ドテン」するに至らず、周は心ならずも顧客の買いに売り向かうことになる。やがて崩落局面を迎えるが、この時の激変ぶりを横浜取引所の営業報告書から抜き出すと――。
  「1月下旬ニ至リテ遂ニ444円ノ珍値ヲ示スニ至レリ。シカルニコノ希有ノ高値ハ俄然(がぜん)現物ノ買渋リトナリ反動的趨勢(すうせい)ニ一変シ、特ニ米穀ニオケル在荷堆積ヲ伝エラレ相場ハ漸次下押シ…株式市場ノ一大暴落ニ遭遇シ、サナキダニ軟風ノ満々タル蚕糸界ハ急落ニ次グ激落ヲモッテスルノ惨状ニ陥リ、タメニ市場ヲ閉鎖スルコト前後3回、日数ニオイテ13日間ヲ算セリ」
  6カ月後には111円とピークの4分の1に崩れ落ちた。この暴騰落を往復で取った周のもうけは、当時の金で200万円(現在なら数十億円か)に達し、生糸成り金と称せられる。生糸取引所の売買高ご三家と呼ばれるようになると、新聞記者の出入りも激しくなる。
  巨利を博した相場師の常として豪邸を構える。横浜市中区竹之丸に住んでいた東条某なる鉄成り金が元の歩に逆戻りして手放した敷地、ざっと1000坪の広大な土地と100坪の屋敷ともども買い取った。総額6万円なり。
  だが、禍福はあざなえる縄のごとし。大正12年に長男源一郎が腸チフスで急逝する。さらに関東大震災の襲来で20万円ほどの生糸を消失した。それ以上にこたえたのは、市場機能がマヒ状態に陥ったことだ。横浜市場の前途に絶望して神戸へ転進しようという連中が続出する中、横浜公園で蚕糸大会が開かれ、「渡辺文七は蚕糸貿易商組合長として大会の趣旨と復興の急務を述べ、小島周は訥々(とつとつ)たる熱弁を振るった」と記録にある。
  周は以前から心臓に持病があり、高血圧に悩まされ「正気自彊(じきょう)療法」をやっていたが、心労が重なって不帰の客となる。次男の周次郎が書いている。
  「昭和2年(1927年)1月14日、料亭千登世で父と私の2人でジャーディン商会の外国人をもてなし、車で帰る途中、発作を起こした…。翌日の10時まで苦しみ、そのまま息を引き取った」
  周は新聞記者を大切にし、年1回、牛肉屋に招待して、盛大な宴会を行った。元日には賀詞交換という名目で小島邸に大勢の記者が集まった。当時は生糸記者が40人もいた。世界の指標価格は横浜から発信された時代である。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・商才にたけていたと同時に第1次世界大戦という希有(けう)の好機をとらえ、小島商店の基礎を盤石なものにした
・信心深い人だった
・関東大震災後、生糸貿易復興の中心人物として活躍した
・1日、15日、28日が精進日で、家庭では精進料理を食べ、店では高級和菓子を山盛りにして従業員や記者にふるまった(次男の小島周次郎述)
(こじま しゅう 1875~1927)
  明治8年愛知県中島郡千代田村の農家に生まれる。横浜でトップクラスの売り込み商、原合名に勤め、番頭になる。同32年、小島商店を営んでいた初代小島源次郎が他界すると、婿養子となる。同40年横浜取引所の仲買人の資格を取り、「て」印の仲買店を開業、第1次大戦中から戦後にかけての暴騰落で巨利を占めた。昭和2年没、次男周次郎(後に横浜生糸取引所理事長)が跡を継いだ。(写真は小島周次郎著「生糸と共に」より)

相場師列伝

売り買い即決で損しない男、寺田甚与茂氏(10/6/5)
車に乗らない倹約家、財界巨頭へ出世

 寺田甚与茂は生前、「貨殖の鬼才」として、「東に安田善次郎あり、西に寺田甚与茂あり」と並称された。安田が大阪に来ると、加賀屋という質素な旅館を定宿とし、2人はそこで世事を談ずるのを楽しみにしていた。
  寺田の帰り際、仲居さんが「お車を呼びましょうか」とたずねると、かたわらの安田が即座に引き取って、「いらん。いらん。寺田さんはわしと同じで歩くのがお好きで、歩いて帰られるんじゃ」と車を断った。寺田の長男甚吉(元南海電鉄社長)は「英雄、英雄を知るとでも言いますか、父はすっかりうれしくなったそうです」と語っている。岸和田駅から自宅まで20分以上あるのに決して車には乗らなかった。雨の日などは傘とちょうちんを持って迎えに行くのが甚吉たち子供の役目であった。
  数々の節倹(せっけん)伝説に包まれている甚与茂だが、投資に際しては大胆だった。新しい会社の創立話が持ち込まれたような時、確実なものと見込みが立てば、説明を開き終わるや、その場で1万株でも2万株でも無造作に引き受けたといわれる。
  「余りあっけなく承知されるので冗談ではないかと思われる場合もあるそうだが、冗談などいう人ではないから、一度引き受けると言ったら間違いない。そして、いかに簡単に約束した株でも、かつて損をした試しがないそうである」(谷孫六著「財界興亡実話」)
  かつて大阪株式取引所理事長の島徳蔵が、上海取引所を設立するに際し、甚与茂に出資話を持ち込んだ。甚与茂がその場で賛同したので、島は自分の持ち株を譲った。すると、ほどなく恐慌が襲来、誰もが損勘定になった因果玉を抱え、弱り切っていた。
  そんな時でも甚与茂はパニックが来る前にすかさず株を売ってしまっていたので、ろうばいする人々を尻目に200万円の巨利を手にしたという。甚与茂は「損を知らぬ男」と評されるが、幸運と機敏さの賜物(たまもの)とされる。
  「昭和2年(1927年)の金融恐慌時にも台湾銀行や近江銀行とは密接な取引関係があって、大きな預金をしていたのを、休業を発表する直前に全部引き出して一文の損害も被らずに済ませた」(同)。
  寺田甚与茂の生家は、「銘酒玉の井」で知られる酒造家だった。若いころから機略に富んでいた。寺田財閥の牙城となる岸和田紡績(後に大日本紡からユニチカへ発展)を設立したのが明治25年。資本金は25万円だった。これが、大正12年には同975万円に膨れ上がった。企業買収では機敏に立ち回り、泉州紡績を買収した時などは紡績業が不況のドン底にあったので、世間は甚与茂の大胆な決断に驚いたという。
  紡績業のかたわら鉄道事業にも乗り出し、大阪財界の巨頭、松本重太郎と紀摂鉄道(現南海電鉄)を設立する。さらには、和泉貯蓄銀行も立ち上げ、「大阪財界では北浜銀行の岩下清周と並び称せられ、旭日昇天(きょくじつしょうてん)の勢いを示した」と伝記にある。
  甚与茂の獅子奮迅の源は、「働け宗」だ。「働け、働け、もっと働け」の「働け宗」は母から伝授されたものだ。甚与茂は道楽の1つもやってみてはと勧められても、「道楽はせがれどもに任せておけばたくさんですわ。わたしには仕事ほど面白いものはない」と取り合わなかった。
  大正13年(1924年)に次男の利吉らに送った手紙には、いろいろ注意を与えたうえ、「221円73銭也」の小切手が封入されていた。この小切手の額は3人の子供が依頼してきた学費と1銭1厘違わない端数のままの金額が記載されていた。甚与茂の人柄がしのばれる。
  昭和6年甚与茂が亡くなった年の元旦に発行された「全国金満家大番付」によると、甚与茂は資産3000万円で野村徳七(野村証券)、伊藤次郎左衛門(松坂屋)らと肩を並べ、久原房之助、益田孝、浅野総一郎、原富太郎らを圧倒していた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・規律のある生活と「働け主義」、毎朝5時に起床、冷水浴をとり庭園を掃除する
・本社、工場を徒歩で巡回視察、車は利用しない
・貨殖主義を奉じつつも社会事業への還元に努める
(てらだ じんよも 1853~1931)
  嘉永6年泉州岸和田の酒造家に生まれ、明治元年(1868年)家督を相続、同11年第51国立銀行創立に参画、取締役支配人、同25年岸和田紡績を設立、同28年紀摂鉄道を創立、同30年和泉貯金銀行社長に就任、同40年高野鉄道社長、大正4年大阪府に寺田済美館を設立、昭和6年急性肺炎で他界。岸和田市民の6人に1人は寺田財閥の各種事業によって生活しているといわれた。
(写真は講談社編「全国金満家大番付」より)

相場師列伝

「相場」を選べ、目先で進退するな、渡辺善十郎氏(10/6/12)
いざかかわったら長期戦を覚悟

 昭和の初め、渡辺善十郎は新聞記者に「相場の極意」を問われた時、こう謙遜(けんそん)してみせた。
  「わたしは総領の甚六で、ただ父の跡を過ちのないようにやっているだけ。えらい思惑をしたこともなければ、ひどい失敗の経験もないのですから、相場の秘訣なんて語る資格はありません。ただ強いていえば、資本の運用にはサヤ取りが第一だと考えています。また確固たる見込みのついた時があったらできるだけ現物を買って、半年でも1年でも持つことですかね」
  渡辺の先代、平吉は、明治30年に東京株式取引所の仲買になり、同41年に日露戦争バブル景気がはじけたところで父からバトンを受け、最前線に乗り出す。25歳の時だ。このころの地場の渡辺に対する評判はあまり芳しいものではなかった。なぜなら「手張り専門の店」のひと言で片づけられていたからだ。当時の仲買はお客の注文を取る店と、オーナーがみずから自己玉を張って、そのもうけで店を運営する仲買とあったが、渡辺は後者に当たる。いずれにしても、あまり存在感のある店ではなかった。
  先代の方針をそのままに、「寸を得て寸を守り、尺を得て尺を守る」式の細々とした商いをやってきたが、大正期に入ると、にわかに頭角を現し、世間の注目を集める。大正7年から12年にかけては東株の売買高ランキングのトップ3の常連となる。下記は大正時代の売買高ランキングで1位となった取引員の一覧だ(一部、代表者ではなく店名となっている)。カッコ内の数字が、当該期間における渡辺善十郎の順位。トップとなったのは大正7年と11年。
元年下期 栗生武右衛門(15) 9年上期 北島亘(4)
2年上期 〃(18) 9年下期 杉野喜精(3)
2年下期 小池国三(11) 10年上期 〃(2)
3年上期 今井安太郎(13) 10年下期 〃(2)
3年下期 小池国三(11) 11年上期 〃(2)
4年上期 〃(10) 11年下期 渡辺善十郎(1)
4年下期 〃(9) 12年上期 杉野喜精(2)
5年上期 〃(10) 12年下期 〃(2)
5年下期 〃(11) 13年上期 〃(4)
6年上期 北島亘(9) 13年下期 小布施新三郎(4)
6年下期 〃(6) 14年上期 杉野喜精(6)
7年上期 玉塚栄次郎(2) 14年下期 〃(11)
7年下期 渡辺善十郎(1) 15年上期 角丸商会(7)
8年上期 杉野喜精(3) 15年下期 岩井猪三(5)
8年下期 〃(4)
  当時は山一の黄金期で、小池国三と彼の後継である杉野喜精が売買高ランキングのトップを半ば独占するふうであった。1位になると取引所から大型の銀盞(ぎんせん)6個組が贈られ、2位は中型の銀盞3個組が贈られるしきたりになっていたので、「山一には、銀盞が大、中、小を取り交ぜて100個はある」などと評判になったものだ。
  渡辺も着実に銀盞を積み上げ、大正13年には東株の商議員に推された。さらには東株推薦で日本橋区議に就く。このころには地場の評価もうなぎ登りで「近年の成績ぶりは誠に鮮やかなものがある。押しも押されもせぬ一流取引員となった」と太鼓判を押される。
  さて、冒頭の相場談議もだんだんと熱が入ってくる。
  「とにかく相場は、大勢に立脚し、時の金融事情を見極めてかかるのが一番で、目先観だけで進退することは禁物です。殊に定期(先物)の相場はガラス箱の上から中を見透かしているような気のするものですから。よほど注意をもって臨まぬといけません。要するに相場に淫(いん)することは失敗の一大原因です」
  真に出動すべき相場は3カ月に1度か、半年に1度くらいのもので、しょっちゅう建玉を持っているのは禁物だと強調する。
  渡辺は若い時、桂太郎首相に面談する機会があったが、その時、桂公に「君たち株式の世界に生きる者はとかく攻めたがるが、守勢(受け身の態勢)を第一にせにゃいかん。急がば回れだ」といわれたことを肝に銘じて終生手堅い戦いに徹した。
  第2次大戦後は老舗の集まりである火曜会や、鈴木由郎率いる「二十日会」に属して活動を続けた。昭和40年不況は乗り切ったが、同42年他界、翌同43年に2代続いた証券業を廃業、当時の店の名前、「丸水証券」はここで消えた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場の大則は運根鈍の3字に尽きる
・相場に淫するのは失敗のもと
・大勢観に立って、金融事情を見極めてから仕掛ける。真に出動するのは3カ月に1回か、半年に1回くらいのもの
・機を見て「ここぞ」という時、長期戦の覚悟で出動する
(わたなべ ぜんじゅうろう 1883-1967)
  明治16年東京都出身、同41年亡父平吉の店舗を継承して東京株式取引所仲買人の免許を受ける。大正11年株式会社に組織変更、丸水渡辺商会社長、同13年東株商議員に就任。さらに東株より推されて日本橋区会議員、区会議長となる。ほかに第三銀行監査役、東京煙草取締役、日本橋女学館理事、有馬小学校後援会長などをつとめ、昭和17年衆議院議員に当選、日本進歩党に所属。(写真は「有馬小学校創立60周年記念誌」より)

相場師列伝

もうからない時にもうける秘訣は、桑原小三郎氏(10/6/19)
入院中も病院に専用電話、注文出す執念

 「もうかる時にはだれでももうかる。もうからぬ時もうけるのが真の相場師だ」といい、名古屋の株式街である伊勢町にさっそうと現れた猛者がいる。桑原小三郎といって静岡米穀株式取引所の取引員組合委員長をつとめた男。大正末期のことである。
  桑原は従来、米相場を本業としていたが、名古屋株式取引所の一般取引員、井村鶴吉商店を機関店として、伊勢町でもかなり大きな玉を張っていた。井村には、売買注文を出すだけではなく、資金面でも融資をしていたらしい。そのうち井村の経営がおかしくなって、大口顧客である桑原が引き受ける流れとなっていく。
  継承するに際し、三ツ輪商店と改称するとともに、静岡米株取の取引員は廃業して、伊勢町に本格的に乗り込むことになる。これより先、大正12年春から同年秋の関東大震災にかけて井村商店はかなり損をした。この時も桑原が融資をして破綻を免れた。それだけで事が済んでいれば、名古屋進出とはならなかったであろうが、その後も2000円、3000円と融資を重ねて、合計約1万2000円を注ぎ込んだ。その揚げ句に井村がおかしくなる。
  これら一連の行動からは、桑原の任侠(にんきょう)心と豪放な一面を知ることができるが、1万2000円の借用証を見せつけられて後には引けず、伊勢町の人となる。
  もとはといえば、株で相場の味を覚えた。
  桑原の最初の相場との遭遇は、ある相場師に教えられた北海道炭礦汽船株だ。この株を210円で10株買ったら300円に高騰した。実は人から教えられた銘柄でこうして味をしめたのだ。それ以来、相場漬けの人生となる。だからこそ折あらば静岡よりスケールの大きい名古屋に転進したいと願っていたのかもしれない。伊勢町の人となるや、桑原は相場師の本領を発揮する。
  「昭和2年のモラトリアム(支払い猶予)にひっかかった桑原は例の“ねばり”と、機を見るに敏な相場師的な勘によって、この危機を巧みに切り抜けた。そして翌3年のチャンスをつかむと、飛燕(ひえん)の如く身をひるがえし、買いから売りに回り、人々が暴落に呆然(ぼうぜん)としている間に相当額の利を得た。この時の新東相場は6月に195円の高値をみたものが、12月には160円に暴落している」(岡戸武平著「伊勢町物語」)
  この時、後に名株理事長に就任する後藤新十郎が社長をつとめる名古屋証券の株価が33円から27円に下落する。それでも売り物が止まらず、後藤が頭を抱えていた時、桑原が持ち前のおとこ気を発揮、「よし、おれが買ってやる」と買い出動、いくらでも売ってこいと市場で仁王立ちして買いまくった。地場では桑原がなにを根拠に名古屋証券を買いまくるのか分からないまま、株価は反騰に転じ、30円台を回復したあとも上がり続け、37円にまで上昇する。
  当時、名株による名古屋証券買収説が表面化、桑原の買い根拠がはっきりしてくる。桑原はこの買い作戦で大もうけするが、人から「やっぱり合併を見越して買ったのですか」と聞かれた時、桑原は「合併もヘチマもあるものですか。あれじゃ後藤さんがかわいそうじゃありませんか」と答えたという。
  この一件について「株式会社名古屋株式取引所史」は、ただの1行も触れていないが、伊勢町史にくわしい岡戸武平は、「この合併計画は、両者の間で協議が進められ、当局の認可さえあれば実現可能な線に達していた。現に、昭和3年12月初めに高橋彦次郎・名株理事長、後藤新十郎・名古屋証券社長、河瀬文一・長期取引員組合委員長の3人は、商工省に出向いてこの計画遂行のために、名株の資本金を700万円に増資することを申し入れていた」と証言している。結果的には見送られたが、計画はあったらしい。
  昭和7年、桑原は新東株の買い作戦に出る。売り方は伊勢町でも荒武者の寺尾哲兄弟で双方とも10万株を超す食い合いで大勝負である。5.15事件で犬養毅首相が暗殺され、世情騒然たる中、16、17日の市場は立ち会いを休止した。18日に再開されると株価は崩落する。この時、桑原は不覚にも脳貧血を起こし倒れる。慌てた市場代理人の中村幸次郎は解け合いしかないと、寺尾兄弟が陣取る待合に出掛け、解け合いを申し出る。寺尾兄弟は「病気ならしょうがない」と、解け合いを了とした。
  そんな妥協が成立しているとは知らない地場の連中は、果たしてどう決着するかと、翌日の市場を固唾(かたず)をのんで見守るが、桑原の投げに寺尾兄弟がすんなり合わせて買い戻しに出たので、平穏のうちに大きな玉が解け合った。やじ馬連中はがっかりしたが、解け合いの成立により桑原の損失は20万円ほどに収まった。日ごろ、相手をトコトン追い詰めるような男ではなかったので、みずから窮地に立った時、温情にあずかることができた。
  昭和12年には腎臓をわずらい、名古屋大病院に入院するが、そんな時でも病院に直通電話を引いて相場を張り続けた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・もうかる時はだれでももうかる。もうからぬ時にもうけるのが真の相場師の腕だ
・株のもうけを故郷の優秀な学生たちの奨学資金に提供、義挙と称された
・全盛期には長男の嫁の葬儀で出したふるまい酒が、1斗や2斗では足りず、隣の銭湯の風呂桶(おけ)でカンをしたためた。あとで「桑原の風呂カン」と話題を呼んだ
(くわばら こさぶろう 1877-1940)
  明治10年、静岡県出身、足袋屋の丁稚(でっち)奉公のあと、18歳の時、遠州木綿の行商を始める。数年後、西ケ崎村で機屋を始める。綿織物業のかたわら、株式売買を始めると大もうけ、地元に電話が架設されたのを機に桑原株式店を開業、次いで静岡米穀株式取引所の取引員となって丸小商店を始め、大正7年の米騒動で100万円の大金を握る。機関店だった名株取の井村鶴吉商店を買収、三ツ輪商店と改称してしばしば大きな勝負を演じた。
(写真は岡戸武平著「伊勢町物語」より)

相場師列伝

投資の失敗、いかに巻き返したか、森岡儀蔵氏(10/6/26)
「受け方」に徹し、仲買で大成

 森岡儀蔵は父業を受け継いで長兄の鹿太とともに岡山米穀取引所の仲買を営み、隆盛を誇っていた。「麒麟児(きりんじ)現れる」などと地元紙に書き立てられ、同僚や先輩たちのそねみを買った。
  ある時、取引所の帳簿検査を受け、不備をとがめられて50円の罰金を命じられた。日ごろから取引所運営のえこひいき振りを苦々しく思っていた森岡は、「こんなちっぽけな市場ではやってられない」と、天下の堂島行きを決断する。
  この時、森岡の背中を押してくれたのが、新進の県会議員、佐藤晋一。彼の資金援助もあって、堂島で開業、岡山市場の連中の鼻をあかすことができた。
  時に31歳。森岡の得意や思うべし。天下の大市場に飛び出した森岡は、勢いにまかせて大相場を張った。ところが、全国の剛腕相場師たちが集まる堂島は、岡山市場とは訳が違う。まんまと大失敗してしまう。「以来、自己思惑(自分の資金で投機すること)はやめました。自己は損するものだから」と観念したという。そして、客の注文を受けることに専念するが、これもすぐに順風満帆に運んだわけではなかった。
  「森岡の運命は決してトントン拍子に進展したるに非ず。一栄一枯は斯界(しかい)の常にして、その後の10年ほどは相当の波乱あり、ついに、かの高見丑松の2度にわたる買い占めに際し、その機関店たりし池梅、雨森、中清、今村の諸店とともに旗を巻かざるを得ない非運もあった。この時ばかりは、さすが剛毅(ごうき)な森岡も、一度故郷に退去しようと決心したほどなり」(国勢協会編「大阪財界人物史」)
  堂島を引き揚げるに際し、盟友の宮谷惣右衛門にあいさつに出掛けた。この時、この宮惣は言った。「逃げ出したいのは君ばかりではない。おれも惨敗して逃げ出すほかない状況だよ。だけど、なんとか踏みとどまっているのだ。お互いに負けた者同士だ。おれの店に来て、再建を手伝ってくれないか」
  宮惣と森儀、敗軍の両将の握手は、沈痛悲愴(そう)の極みであったと語り継がれている。
  「宮惣もまた聞こえたる投機界の猛者なりしが、森岡の境遇に同情すること一層深きものあり。いかにしてもその帰郷は思いとどまらしめんと、言を尽くして諫止(かんし)し、同時に今後の提携を約し、捲土(けんど)重来の意気を鼓舞せり」(同)
  宮惣の店の再建が軌道に乗ると、宮惣が名古屋で経営する岩間商店を、わずか半年で復活させ、売買を3倍にするなど、すご腕を発揮する。
  やがて第1次世界大戦の景気に乗り、森岡は自前の仲買店を再開する。大正12年(1923年)には大阪堂島取引所の売買高ランキング第1位にのし上がり、宮崎敬介理事長から特別賞を贈られた。
  大阪投機界の快傑と称された高倉藤平ですら、「後世恐るべきは森岡だ」と舌を巻いた。この高倉発言を巡っては「森岡たちに担がれて堂島取引所の理事長になれた。さすがの高倉も頭が上がらなかった」といった見方もある。
  当時、仲買といっても2タイプあった。オーナーみずからが相場を張り、仕手として名を成す「張り方」と、受託業務に徹して店の経営を得意とする「受け方」の2つだ。張り方は華々しく、受け方は地味だが、森岡は受け方の代表的人物である。
  「現在60有余の取引員中、最も多くの顧客を有し、その顧客に満足を与える懇切振りは、君においてのみ可能である。顧客は四方より集まり、店前市を成す盛況を呈す。君は受け度胸がいい。大概の無理な注文にも、いやな顔をみせない。顧客の無理も聞いてやる。詰まり太っ腹であって、気前が男らしいのだ」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  森岡は日ごろ「米100石の自己玉を張っているより、お客の注文1万石を受けているほうが気楽ですよ」といっていたが、お客の中には、証拠金の立て替えを強いる者、損して足を出す連中もいたので、決して気楽な稼業ではなかったはず。
  森岡は晩年、語っている。「おれがいじめられて、飛び出してきた岡山米穀市場の仲買27軒全体の取引高よりも、森岡の店1軒の方が大きいことは愉快だ。さすが堂島だね。けちなそねみやねたみがないから気持ちがいいよ」
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・投機界は一度倒れたら立ち直りは難しいが、ねばり腰の強さには感心する
・仲買業は同一手数料、同一商品を取引しているから、熱心と敏速さで精根尽くすより他はない(岡村周量)
・受け度胸がいい。無理な注文もいやな顔を見せない。営業に熱心なあまり、寝食を忘れる
・来る者を拒まず、懐に抱き、清濁合わせのむ気概がある(大阪今日新聞)
・金権主導の市場にあって金権に拘泥せず、義理、人情に厚い
・若い時は胆略の人と称されたが、品格を高めるよう努めた
・自己売買より受託売買中心に切り替えた(大阪財界人物史)
・「頼まりゃ越後からでも米つきに来る」といわれるくらい世話好きである(青江治良)
(もりおか ぎぞう 1876~没年不詳)
  明治9年岡山県和気郡藤野村生まれ。父、平米は岡山米穀取引所創立以来の仲買人であった。父没後は兄、鹿太を助けて父業を継いでいたが、同39年堂島に出て仲買業を営む。大物相場師、高見丑松の機関店を務めていたが、高見の買い占め失敗のあおりで、一時廃業を余儀なくされた。大正8年再び開業、同12年には堂島取引所売買高ランキングで首位を占める。
(写真は国勢協会編「大阪財界人物史」より)

相場師列伝

床の間の掛け軸は株価のチャート、土井賢一氏(10/7/3)
東大野球部主将からサラリーマン経て相場師、夫人も山っ気

 かつて証券会社の店頭には碁、将棋盤が必ずといっていいほど備えてあり、客同士が打ったり、指したり、大引け後には店員も加わって一戦交える光景がみられた。証券会社の社長である土井賢一は名古屋伊勢町で屈指の棋力を誇っていた。土井の趣味はマージャン、競馬などすべて勝負につながるものばかりであった。
  「土井と話をしていると肩が凝る」。親しくする者がついこんな感想を漏らすほど、相場や勝負事の話には熱がこもった。その日も証券会社へ来た客と熱く語っていたのだろう、碁を打っていて急に頭痛に襲われ、脳溢血(いっけつ)で不帰の客となる。「いかにも相場師らしい最期だった」と語り継がれ、「これで伊勢町には相場師といえる人がいなくなってしまった」と惜しまれた。
  後には30頭を超すサラブレッドの競走馬が残された。これらの競走馬は、賢一が在世中に大レースを制覇することはついになかったのだが、弟、宏二の時代になって開花した。ヤマニンモアという馬が昭和35年のダービーで2着に入り、翌年春の天皇賞で栄冠を勝ち取ったのだ。弟が兄の墓前に報告したのはいうまでもない。ヤマニンモアの「ヤマニン」は土井一族が経営する大万証券と、商品取引の土井商事の屋号である。
  土井賢一には生来、相場師の血が脈々と流れている。父、兼次郎は名古屋米穀取引所の取引員であった。賢一は愛知一中(現旭丘高校)、三高を経て東大法科を出ると日本車輌に入った。父は会社員から重役コースへの道を着々と歩んでくれることを期待したかもしれないが、賢一は2年でサラリーマン生活を辞め、伊勢町に入り浸り、勝負の世界に没頭する。
  土井が好んだのは、長期清算取引の中でも格別人気の高い「新東」。リスクも大きいが、面白みも抜群であった。勝っても、負けても家に帰ると熱心にケイ線を引いた。ケイ線を、あらゆる情報や市場心理の結晶と位置付け、相場を科学的に予測しようと心掛けた。土井は後年、名古屋市内の八事あたりに宏荘な本邸を新築するが、床の間の掛け軸は、横山大観でも竹内栖鳳でもなく、新東のケイ線だったと伝えられる。
  5年間ほど株や綿糸、米相場で得失を繰り返したあと、株の取引員の資格を取る。昭和10年12月、やまにんべん印の土井賢一商店がオープンする。時に31歳。この時の開業資金はみずから稼ぎ出したかというと、残念ながら父親から援助してもらったものだった。翌11年に新東は、2・26事件のぼっ発で119円50銭に暴落するなど前途多難を思わせる。昭和18年に全国の証券取引所は日本証券取引所に一本化され、店のほうは桑原小三郎の三ツ輪、村瀬庸二郎の二引などと合併、日東証券となる。
  第2次大戦後、土井は鎌倉で脾肉(ひにく)の嘆をかこつことになるが、加代子夫人ともども商才を発揮する。
  「進駐軍のみやげ物に宝石類、美術品、七宝製品などが買い漁られて払底するであろう。払底すれば当然騰貴するから買い集めることにした。宝石類や美術品は東京で、七宝焼は名古屋で、大げさにいえば根こそぎさらえて鎌倉の家に収蔵した。そして社交家の加代子夫人は巧みに総司令部の幹部を通じ、これをさばいて莫大(ばくだい)な利益を得たといわれる」(岡戸武平著「伊勢町物語」)。
  やがて証券取引所復活へ胎動し始めると、夫人を鎌倉に残して単身名古屋に帰ってきた。新法下で取引所が再開されたが、土井が願っていた先物取引は禁止され、落胆した。それでも朝鮮動乱特需で株価が急騰し始めると、大沢重右衛門の大万証券を買収、社長に就任する。このころ、土井は東京海上を買いまくり、つなぎに平和不動産を売って、大もうけした。
  当時、兜町ではブーちゃんこと佐藤和三郎合同証券社長が市場のもうけ頭として脚光を浴びていたが、土井は「名古屋のブーちゃん」と称されるほど、大もうけをやってのける。そして、もうけた金で、冒頭に紹介したような競走馬を買いまくった。土井の競馬熱は三高生時代にさかのぼるといわれ、「ヤマニン」を冠した名馬の数々が弟の代に大レースをにぎわした。弟、宏二も兄と同じく愛知一中から慶応義塾に進み、ともに相場が大好き。人々は「兄はカミソリ、弟はナタ」と評した。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・相場即人生
・相場師の血を受けているうえに、子供のころから相場の何物かを知り、天下の相場師になろうと、ひそかに期した
・戦前は新東、戦後は平均株価のケイ線をみずから克明に引いて、売買判断の手がかりとした
・三高生時代から馬を所有したいとの念願を持ち続けていた(岡戸武平)
(どい けんいち 1904~1958)
  明治37年名古屋生まれ、父兼次郎は名古屋米穀取引所の取引員だった。愛知一中、三高を経て昭和3年東大法科卒、日本車輌へ入社、同10年名古屋株式取引所の取引員(やまにんべん印土井賢一商店)を開業、同18年企業統合で日東証券となる。同24年大万証券を買収、社長に就任、商品取引の土井商事社長も兼ねる。中学から大学まで野球部に所属し、東大では遊撃手でキャプテンを務めた。同33年急逝。
(写真は岡戸武平著「伊勢町物語」より)

 

相場師列伝

胃潰瘍と称し、買いからの離脱探る、八馬兼介氏(10/7/10)
大物買い連合、仲間で腹の探りあい

 神戸の船成り金、八馬兼介が横堀将軍・石井定七を参謀に従えて米の買い占めに乗り出すのは大正5年(1916年)、早稲田大学を出た直後のことだ。大阪堂島の丸山商店からまとまった買い物がコンスタントに入るため、地場では、プロの買い占めではないかとのうわさが広がり、本尊が分からないままチョウチンがつくありさまだった。
  日露戦争バブル景気が崩壊して以来、米相場は長期低迷を続け、大正4年秋には1石(150キロ)当たり11円台にまで落ち込んでいた。それだけに、強力な買い占め屋の登場は、相場ファンが等しく渇望していたことでもあった。仕手筋が買い進むにつれて相場は騰貴する。さらに買う。さらに上がるという足取りで、14円前後にまで上昇してくる。そして、15円を抜き、16円台に迫る勢いであった。
  「買いっ振りからみて相当な資力のある玄人筋と見当をつけられていたが、ついに神戸の船成り金、八馬兼介であることが明らかにされた。しかも参謀が石井定七と分かったので、堂島の相場師連中の中にも、その有力なる買い仕手にチョウチン買いを始める者もあり、丸山商店では5月限を8万何千石受け米して、買い方資力の豊富なところを誇示した」(南波礼吉著「日本買占史」)
  ところが、これまで猛烈に買い進んできた八馬が胃潰瘍(かいよう)のため倒れ、これ以上の闘いは難しく建玉を売り飛ばすと言い出した。この時、石井はあわてた。実は、「石井が八馬の参謀」であるとは名ばかりで、石井自身が八馬以上の大思惑で買っていたからだ。ここで八馬に投げ出されたら大暴落は必至、石井の命運は尽きてしまう。
  石井は夜遅く八馬邸を訪ね、「あなたの買い玉をそっくり私が肩代わりしたい。ついては20万円資金を貸してくれませんか」と申し入れた。だが、八馬は体よく石井の申し出を断った。
  これは推測だが、石井が言葉巧みに八馬を米相場に誘い、「八馬大将・石井参謀」というコンビで快調に飛ばしていたが、8万石の受け米を強行したあたりから2人の間には溝ができ、八馬は胃潰瘍と称して買い占め戦からの撤退を決めたのではないだろうか。この買い占め戦は、数々の買い占め事件を収録した本には必ず取り上げられる一件だ。「八馬の買い占め事件」と記されており、途中からは石井の買い占め事件と呼んだ方がいいような展開になっていく。
  八馬に出資を断られた石井は、はやぶさのような機敏さで、「北浜の太閤さん」こと、松井伊助の元へ駆け込む。松井の知恵を借りて起死回生を狙おうとしたが、そんな石井のろうばい振りを見て、チョウチン買いの筆頭、高見丑松は相場の先行きを見限り、買い玉をそっくり転売する構えをみせる。もう1人の石田卯兵衛も、戦線離脱の動きを鮮明にする。石井は「もし投げ出されるようなら私が肩代わりします。追い証が必要なら融通しますから、いましばらく買い玉を持っていてください。高見さんもその意見ですから」と拝んで回った。
  松井に石田と、大手の買い方に転売を思いとどまらせた石井は、なんとその足で堂島の仲買店を1軒、1軒回り、売り玉をはわせた。そして、一夜のうちに7.8万石の売り建てをこしらえた。これを称して「カゴ抜け事件」と人は呼ぶ。まさか、松井伊助がこんな悪知恵を授けたわけではあるまい。石井自身、窮鼠(きゅうそ)猫をかむ思いで、人の道を踏み外すことになったのであろう。
  「一夜明けくれば八馬の玉が節毎に売られたから、みるみる相場は崩れて一気に170丁(1円70銭)のガラ、場は鼎沸(ていふつ)的混乱に陥り、立ち会いは中止となった。うんと買い玉を背負い込んでいるはずの定公は、人の知らぬ間に重荷をおろし、逃げ遅れた買い方のあほうな顔を気の毒そうに眺めていた」(狩野正夫著「商戦秘話」)
  収まらない高見や石卯は石井の詐欺的行為や理事長の高倉藤平が売り方に陣取っていた事実などを暴露し、告訴ざたとなる。が、松井伊助や静藤治郎が調停に入り、うやむやのうちに幕引きとなる。石井がカゴ抜け同然に売り建てでもうけた金はさすがに自分の懐には入れず、買い方チョウチン筋の損金の穴埋めに差し出したという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・八馬家は室町時代から西宮一帯の豪族として聞こえた家柄で、兼介の祖父、兼翁の代から一段と家運が高まる。兼翁は明治初年米穀問屋から海運業に進出し、船腹の増強につとめた
・兼翁の死後、兼介が家業を継ぎ、欧州大戦後の不況を巧みに乗り切る
(はちうま かねすけ 1894-1960)
  明治27年兵庫県西宮市出身、大正5年早大商学部卒、家業の海運、酒造業を継いで八馬汽船社長。この年、横堀将軍・石井定七を参謀に米の買い占めを策し、「買い占め史」に名を残す。武庫、西宮両銀行頭取、西宮酒造、日清火災海上などの役員をつとめる。多聞酒造の代表社員となり、昭和3年から同7年まで貴族院議員。同11年神戸銀行の発足に伴い初代頭取。22年頭取を辞任、八馬汽船会長に専念。
(写真出所は「歴代国会議員名鑑」より)

 

相場師列伝

50歳で叶えた宿願、遅咲きの相場師、土屋鋭太郎氏(10/7/17)
「これからは株が有望」と母の判断で転職

 第2次大戦後の証券界で風雲を呼んだ1人に三洋証券社長、土屋陽三郎がいる。その父、土屋鋭太郎の相場人生をたどる時、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」の感がひとしおである。
  土屋が宿願を果たして東京株式取引所の「実物取引員」の金看板を獲得するのは、大正11年(1922年)、50歳の時である。当時の兜町は「生きた小僧の捨てどころ」などと呼ばれ、株屋に身を投じた若者たちは皆一様に相場を張り、勝ったり負けたりしながら酒色におぼれ、揚げ句は寂しい晩年を迎える連中が多かった。
  そんな中、辛酸の果てにあこがれの東株取引員の地位を勝ち取った土屋には、感慨深いものがあったであろう。だが、感慨にふける間もなく、翌12年9月1日、関東大震災に襲われる。兜町一帯は壊滅状態となり、「久星土屋鋭太郎商店」も金庫を1つを残しただけで全焼し、取引所は2カ月半にも及ぶ休会へ追い込まれる。
  「その間、六鹿証券の裏通りの店舗へ移って営業を再開した。もちろん、急ごしらえのバラック建てであった。そこに1年ほどいて、次に兜橋際にある兜橋ビルの3階に移り、昭和11年(1936年)東株ビル(現在の日証館)に移転するまで、約20坪くらいの貸し事務室が久星の店舗であった」(「父子二代――日東証券の五十年」)
  土屋鋭太郎は初め、蛎殻町の米穀仲買、カネニ印有松尚龍商店に入る。弟の堅里も、やはり米穀仲買、カネイチ印田村市三郎商店に入る。ところが、母、とくが「これからは株の仲買が有望らしい」と聞き込んできて、2人を株屋に移した。鋭太郎が入ったのはマルロク印伴田六之助商店で、熱心に商売に打ち込んだ。
  日本橋の石川という繊維問屋に早朝から出向いて株の注文をもらっているうちに熱心さを買われて、「うちの親せきにいい娘がいるが、もらわないか」と薦められて結婚したのが、茨城県結城市の大手米問屋の長女、木下ふさであった。ふさは浮沈の激しい相場師の妻には打って付けの気丈な女性であった。鋭太郎が落ち込んでいる時など、「倒されし竹はしだいに立ち上がり、倒せし雪は跡かたもなし」などと、古歌を示して夫を勇気付けた。
  土屋が伴田のもとから独立、日本橋小網町の自宅を改造し、間口二間の久星土屋鋭太郎商店を開業するのは、明治43年(1910年)1月のことだ。すでに38歳になろうとしており、遅ればせながらの旗揚げといえる。27歳の番頭と2人だけ、電話1台という株の現物屋。仲買人ではないから取引所で直接売買はできない。そこで、東株仲買人の加登実蔵の看板を借りて、取引所に通う。土屋が手掛けるのは、少ない証拠金で張れる「直(じき)取引」と呼ばれる短期決戦型の取引であり、銘柄は仕手株の新東1本やりであった。開業から1カ月後には妻の弟、木下米蔵(後に日東証券専務)を呼び寄せるにぎわい振りであった。
  ところが、「ウワバミ軍治」こと松下軍治による東株買い占め騒動がぼっ発、「直取引」中止を命じられる。せっかく旗揚げした土屋商店だったが、これでは商売にならない。土屋は中国へ渡り、永里洋行という雑貨店を開業する。だが、端から長居するつもりはなかった。東株の直取引復活の動きを伝え聞いた土屋は、実弟の堅里に経営を任せひと足先に帰国する。帰途、上海で、袁世凱(えんせいがい)の軍票をつかまされて大損をしたそうで、ほとんど無一文で戻った(木下米蔵談)。
  大正3年、第1次世界大戦の突発で株式市場は活況期を迎えた。同5年12月、ドイツの臨時議会が講和を決議し株価が暴落、恐慌状態となり、10日間立ち会いがストップする。しかし、土屋の被害は幸いにも小さく、同6年には芝白金猿町に本宅を新築する。
  当時、土屋を支えた大口顧客が3人いた。浅草の3人組と称され、質商の桜井三右衛門、地主の松崎英太郎、仲見世の銀花堂の3人だ。土屋は週に数回、注文取りに浅草に通った。朝5時半に家を出て7時半に戻る。市電の往復切符は7銭だが、早朝割引だと5銭。土屋の節倹主義は成功してからも変わらなかった。このころには久星の店員も8人に増え、電話も3台に増設された。
  そして、冒頭に記した東株の実物取引員(大正11年の取引所法改正で仲買人を取引員と改称)の資格を取得する。2年後の大正13年には短期取引員の免許も取った。ただ、先物取引を行うことができる一般取引員より、実物取引員・短期取引員は、数段格下にみられた。
  土屋の店が一般取引員に昇格するのは昭和15年のことだ。宿志を果たし、采配を次男、陽三郎に譲った鋭太郎は、3年後の昭和18年に永眠、葬儀委員長は飯田清三・野村証券社長が務めた。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・毎朝7時40分には出勤、自分より出社の早い店員には笑顔で会釈し、遅い者にはあいさつされても無言であった
・手張りは行われず、ブローカー型で、注文を受ける度胸はよく地場の玄人筋や地方の業者の注文に対しては危険を承知で商売した
・若いときは不信心家であったが、晩年は毎朝仏壇に灯明を供え、苦労をかけた亡妻のために祈った
・葬式は派手にするな。親せき、知人、地場筋等へ貸しがあるが、証文はすべて焼却して催促しないこと(遺言)
(つちや えいたろう 1872~1943)
  明治5年(一説には同7年)千葉県野田市出身、同21年高等小学校卒業、東京神田の越前屋(砂糖屋)の少年店員に。医者の書生を経て蛎殻町の米穀仲買有松商店に入る。のち兜町の株仲買伴田六之助商店に入り、場立ちとなる。同43年公債、株式の現物店(久星)を開業、東株仲買加登実蔵商店の看板を借りて直取引(短期清算取引)を行う。一時中国に渡り、帰国後大正4年東株仲買上野勝啓商店に入り、同8年株式現物店を再開、同11年東株実物取引員の資格を取得、同13年には短期清算取引開始、昭和15年店務を次男、陽三郎に譲る。
(写真は「父子二代-日東証券の五十年」より)

相場師列伝

売りで勝ち、買いで勝つ、山田留吉氏(10/7/24)
列車仕立てて極秘裏に現物を調達

 大阪三品取引所(現在の中部大阪商品取引所)が創立されて10年たった明治36年(1903年)。「綿糸」「綿花」「綿布」の三品の1つである綿糸の買い占め戦がぼっ発する。
  北浜の株で勝利し、その勢いで堂島の米相場をも制した石蔵卯之助が、今度は三品市場に乗り込んで人気の綿糸に照準を合わせたのだ。石蔵は買い出動に当たり、金力にモノをいわせて大部分の仲買人を自分の陣営に抱き込んだ。このとき、最後まで同調しなかったのが、山田留吉と八木重兵衛であった。
  八木重兵衛は、綿糸布業界の巨商だった八木与三郎と義兄弟の間柄にある名門の一員であり、山田留吉は取引所開所以来の仲買人で、当時は仲買人組合の委員長を務めていた。そんな2人だから、「新興成り金の石蔵ごときに、われらが三品市場を蹂躙(じゅうりん)させるわけにはいかない」との思いを共有していた。
  109円だった綿糸相場は、石蔵の買いあおりで128円にハネ上がるが、老将山田は敢然と売り向かった。石蔵はやみくもに買い占めを図ったわけではない。大阪市内の倉庫を調べ、綿糸の在庫をきっちり把握したうえで買い占めに着手した。その後も絶えず要所要所に手下を派遣し、綿糸の入荷状況を監視していた。納会が迫ったある夜、石蔵は山田家を訪ねた。
  当時、三品取引所では、売り方に品不足が生じると、時価の20%相当を違約金として買い方に支払うことになっていた。この時、石蔵の買った数量は、三品取引所開設以来の大量にのぼっていたので、石蔵は自信満々、「山田さん、今のうちに解け合っておいた方が身のためですよ」とおためごかしに解け合いを勧めた。
  ところが、山田は強情な男で、人の足元を見透かしたような石蔵の言葉にはカチンときたらしく、言下に拒絶してしまった。石蔵は「あとで吠(ほ)え面かくな」と捨てゼリフを残して引き揚げた。
  石蔵は、山田が現物不足に陥るのを計算し、確信していたが、とはいえ、万が一にも大量の玉をそっくり渡された場合には、受け切るだけの現金の用意など、できそうにないのも事実である。自分で仕掛けた買い占め戦ではあったが、そうした事態を考えて、なんとしても解け合いに持ち込みたい立場の石蔵は、仲間の買い方を使い「仲買有志」の名で、再度山田に解け合いを勧告する。
  「万一、わずかでも渡し物不足の場合は、全部を違約処分とするが、それでいいか」と山田を脅しにかかる。が、山田は頑強そのもの。
  「よし。従来は受け渡しを円満にすることをモットーにしてきた三品取引所だが、君がそこまで規定を厳格に振り回すのなら、私も要求する。私は売り方だから現物をお渡しするが、同時に受け代金は規定通り現金でちょうだいする。そう心得てもらいたい」
  この時、同席していた今西林三郎理事長が口をはさんで「現ナマではなく、銀行預金ではダメかね」と言ったが、山田は「いけません」ときっぱり。この時山田は、石蔵の受け代金不足をきちんと見抜いており、石蔵にぶつける現物が自分の側にそろったことも同時に確信していたのである。
  山田は東京の大手綿糸商、薩摩治兵衛と電報で交渉し、大阪に現物を至急送ってもらう手はずを整える一方、名古屋市場で現物を買いあさり、綿糸列車を仕立てて極秘裏に梅田に運び込んでいた。さらにもう1人の売り方である八木は、先に上海に輸出した綿糸を逆輸入して万全を期した。
  さて、最終受け渡しの当日。それまで自信満々だった石蔵は、山田や八木がかき集めた綿糸在庫の山を見せつけられ、顔色なし。
  石蔵「受け代金が間に合いません。ここは円満な処置を願いたい。そうでないと多数の仲買が破綻してしまいます」
  石蔵の訴えに山田はおとこ気をみせた。頑固一徹のはずが、泣きつかれると、たちどころに温情を発揮する柔軟さを備えていた。
  山田「お困りの事情は分かりました。しかし、規定の励行を約束した以上は現金でお支払いいただきたい。…私の手元に時価50万円の証券があるから、これを持っていって現金をこしらえて来なさい」
  山田の、このいきなはからいに石蔵はひたすら平身低頭するのみだった。この一件は山田の強情と温情を物語る仕手戦として100年後にも語り継がれる。
  「石蔵買い」に向かってその名をとどろかせた山田留吉が、今度は買い方に回って大勝利を収めるのは2年後のことだ。明治38年6月15日、144円と新高値を付けるが、この高値出現で売り物が続々現れ、大量の現物をぶつけられる。2年前とは完全に逆の立場に追い詰められた格好だ。
  現物を引き受ける代金の調達に際し、住友銀行の岡支配人に事情を話すと、二つ返事で受けてくれた。銀行は、2年前の石蔵との戦いで、山田があえて敵に塩を送ったことを知っていて、100万円をポンと出したのだ。引き取った現物は、インドのパパニー商会を通じて海外へ輸出、ビジネスとしても成功する。売りで勝ち、買いで勝ち、山田の名声は一段と高みに向かう。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・兄弟3夫婦が1つの家庭で起居をともにし、協力、精励して産を成した(大阪今日新聞)
・すこぶる付きの強情な男、頑強そのもの
・これまで相場で激しく対立していた相手でも、赤裸々に窮状を訴えられると侠客(きょうかく)のように、たちまち「よろしい」と胸をたたくような男(「買占物語」)
(やまだ とめきち 1862~1922)
  滋賀県彦根出身、11歳で大阪に出て中村惣兵衛(後に大阪三品取引所初代理事長)の経営する仲善商店に奉公、明治14年山田喜市の養子となり同16年家督を継ぐ。明治26年大阪三品取引所創設とともに仲買人となり、同30年仲買人組合委員長に就任。以来、大正11年に他界するまで25年間、まとめ役を務めた。明治43年から大正3年(1914年)まで取引所の監査役、同11年商議員。この間、浪速紡績支配人、泉尾綿毛製糸会社社長を務めた。大正11年没、店は長男の晴次郎が継いだ。
(写真は草創期の大阪三品取引所「三品小誌」より

 

相場師列伝

相場分かる店、新聞記者のたまり場に、村地久治郎氏(10/7/31)
株取引を虚業ではなく実業に、製紙大合同では大仕事

 「現物団」。公債、社債、株式等の有価証券を募集する証券業者の一団をかつてこう呼んだ。兜町では山一(小池国三)、山叶(福島浪蔵)、紅葉屋(神田雷蔵)などがその走りで、日露戦争費調達のため公債を大量に引き受け、世間を驚かせた。北浜では野村、竹原、高木、黒川の4社がよく知られる。
  「大阪の現物団を代表するのは、野村徳七、竹原友三郎、高木又次郎、黒川幸七の4店なり。彼らは去る3月と4月に前後合わせて1000万円の新公債の下請けを申し込み、今また箕面電鉄社債200万円を引き受けて世間の耳目を驚かせり。現物団の名声いよいよ高まりぬ。彼らの意気、真に壮というべし」(近藤泥牛著「旧人物と新人物」)
  大阪では上記の4社が底力を発揮していたが、そこに割って入ったのが大阪商事(後に大商証券、現みずほ証券のルーツ)の村地久治郎である。村地は初め初代竹原友三郎のもとで修業を積み重ね、一時は竹原の養子になり、将来を期待されていたが、大正6年(1917年)独立し、大阪商事を創業する。厳格と節倹を旨とする竹原家の家風になじめなかったためといわれる。
  「家風だとか、格式だとか、七面倒臭い因習のきずなに制約されるには、君は余りに性格が奔放で、意思の自由が強過ぎた。錯雑な家庭事情の束縛からのがれるべく竹原と絶って自由の境地に飛び出してしまった」(大阪今日新聞社編「市場の人」)
  独立に際しては事前に僚友溝口庄太郎、高木雄吉と3人で謀議をこらした。その結果、村地が専務として営業を担当、溝口と高木が常務で社内を固めるという役割分担のもと、現物界に名乗り出る。社長には有力顧客の上田源三郎(上田鉱業社長)を担いだが、16年間の在任中、上田が出社したのはわずか数日で、村地が実質的な采配をふるった。
  当時の株屋の多くは商店を名乗っていたのに対し「大阪商事」と命名したのは、将来、綿糸布など商品取引に進出する狙いがあったためといわれるが、「大商証券史」は次のように記している。
  「『商事』とするについては、要するに清算取引ではなく、実株を取り扱い、一般の商事会社と同じく、虚業ではなく、株式を仕入れて株式を売る、すなわち実業として商売するという願いが込められていたともいわれる」
  若き3人の脱藩者たちが謀議の過程で、「証券」を名乗る案は出なかった。当時、証券というと、公社債を指し、株式を含まなかったからだ。ちなみに証券を最初に社名として使うのは山一で、9年後の大正15年のことだ。
  村地は営業では北浜屈指の才を持っていた。
  「大会社、大銀行、大資産家の間を東西に奔走し、南北に馳駆(ちく)して寧日(平穏無事な日)なし。市人が驚異の眼をみはるのは大量注文を連続的に引き受けたり、大仕事を無造作にやってのけるためで君の外交手腕の非凡を反映するものだ」(「市場の人」)
  村地は天才肌の営業で大きな資産家や相場師を次々と顧客にしていくが、中でも最大の恩人は山口玄洞だった。村地は後年、語っている。
  「頭の冴え、豪胆、見切りの早さという相場師としての資格を完備していた点で、山口さんの右に出る人はいないといっていい。山口さんは将来大阪の玄関となるのは西大阪であるとの信念から泉尾土地の株を買い占めた」
  山口の買い占めの先兵を務めるのはいうまでもなく村地だ。現物団の中でも株売買に一番熱心だった大阪商事は「株の相場が分かる店」として新聞記者のたまり場ともなる。昭和8年、村地は社長に就任する。当時大きな活躍を呼んだ王子製紙、樺太工業、富士製紙の合併で、村地は王子製紙の藤原銀次郎の片腕となって大きな働きをやった。
  「藤原氏からいっさい任されて富士製紙と樺太工業の株式をひそかに買い占め、極秘裏に合併を実現させた一大事件であった。この一件で村地は経営者として藤原氏に認められ、村地が当社社長を退任したあと、王子製紙の子会社、王子証券の役員に就任したのもこの時の功績によるといわれる」(大商証券史)
  藤原は村地を評して「天野屋利兵衛のように口のかたい商人の模範」とたたえた。このことに気をよくした村地は、大阪本町橋詰の西奉行所あとに近衛文麿の筆による「天野屋利兵衛之碑」を建てた。昭和9年、帝人事件に連座して逮捕されるが、無罪放免となる。同16年、盟友の溝口庄太郎に社長の座を譲る。脱藩組のもう1人、高木雄吉が37歳で他界したのは痛恨の極みであったろう。村地ら3人は、竹原商店をしのぐ勢いになっても毎年元旦には竹原家にあいさつを欠かさなかったという。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・円転洒脱(しゃだつ)な言行、縦横の機略、不屈不とうの気力で東西南北に駆け回り、芝居を語り、義太夫を話している間に、業界をあっと言わせる大量注文を引き受ける(報知新聞経済部)
・天野屋利兵衛のように口のかたい商人の模範(藤原銀次郎)
・村地君に理屈は無用だ。口八丁手八丁、ともかく北浜の惑星である。外交(営業)手腕にかけては右に出る者なし(同時代評)
・俳優、芸者、義太夫、力士などの間にたこのように手を伸ばしている(大阪今日新聞)
(むらち きゅうじろう 1878~1945)
  明治11年滋賀県出身、本籍は兵庫県武庫郡精道村、同25年滋賀県蒲生郡馬渕小学校卒、同32年大阪の私立泰成学館で簿記を学ぶ。同41年大株の仲買人竹原友三郎商店に入り、大正6年大阪商事を創設、専務に就任、同8年大株一般取引員の免許を取る。昭和8年社長に就任、同12年兜町に東京支店開設、同16年社長退任、この間中外商事監査役、六麓荘取締役などを務めた。
(写真は経済日報社編「全国株式取引所」より)

 

相場師列伝

酒もたばこもやらない株長者、坪田喜雄氏(10/8/7)
含み資産株と海運株に重点投資

1980年夏号日経会社情報、平和不動産の欄。株主5位に坪田の名がみえる
  昭和55年夏、雅叙園観光(松尾国三社長)の株が一気に3倍にハネ上がった。株集めに走っている仕手の仕業であるのは明らかだ。やがて株集めの本尊は、大阪の富豪、坪田喜雄だと判明する。坪田は当時、平和不動産の個人筆頭株主(194万株、2.4%)として名乗り出た直後で、週刊誌の標的にされていた。坪田は日ごろ新聞、雑誌は読んだことがないといわれ、まして取材を受けることなど絶えてなかったが、とうとう経済誌につかまり、雅叙園観光買いの根拠をこう語った。
  「ごく最近、同社の取締役に高橋幹夫氏が就任した。彼は元警視総監だった人でよく知っていますが、彼が役員に入ったことがきっかけで、約100万株買いました」
  坪田は日本ドリーム観光も約400万株持っていた。日本ドリームの社長も雅叙園と同様、松尾国三であり、坪田は両社の合併に期待を寄せていたフシがある。
  「雅叙園は東京上場、日本ドリームは大阪単独上場ですが、東京上場の期待が前々からあります。それよりも両社が合併することもあるのではと考えています」
  当時、坪田が大量に株式を保有していた銘柄は、「含み資産の大きい株」と「本業に直結する海運株」に2分されていた。平和不動産、日本ドリーム、雅叙園のほかに、大和団地、三光汽船、阪急百貨店、東宝、ジャパンライン、大阪商船三井船舶、東京海上火災保険、住友林業、青木建設などといった銘柄だ。一説には125銘柄も保有するといわれた。
  このころ坪田は、既に91歳の高齢に達していた。高級住宅地として知られる阿倍野区松虫通に本宅を構え、悠々自適のはずだが、堺市の別宅を資産運用の拠点に、その活動はいささかも衰えない。かつて北浜で鳴らした証券マンである長尾安雄を参謀か執事に従えていたのは間違いない。
  坪田の莫大(ばくだい)な資産運用の源泉は、海運ブローカー、坪田商店によって蓄積されたものである。経済企画庁長官で三光汽船のオーナー、河本敏夫でさえ、坪田には一目も二目も置くといわれ、戦前からの超ベテラン海上商人である。北浜通の中村光行は「こちら北浜」の中で書いている。
  「坪田商店は各社の輸送を担当したが、特に終戦後は安宅産業関係を一手に仕切って、朝鮮の仁川へ何十回となく配船している。当然、膨大な利益が安宅産業のものとなり、その利益で収集したのが安宅産業の東洋陶磁器だ。安宅コレクションの収集基金は坪田商店の配船の妙がもたらしたものだ」
  坪田が初めて相場に興味を持ったのは20歳ころというから、日露戦争景気の大相場がはじけた時分である。親せきの肥料店の主人が砂糖相場の名人だったことが相場と出合うきっかけとなる。見よう見まねで相場の面白さを覚えた。だが、思わぬ大失敗もあった。
  今里に新地ができるとの情報を元に、その土地を所有する大東土地の株に狙いを付け、1万円(現在の数千万円に相当)の証拠金を大株の仲買、石井竹三郎商店の営業マンに預けた。石井竹三郎は横堀将軍と呼ばれた石井定七の義弟で、彼の店は石井の機関店でもあった。そのころ石井は新鐘(鐘紡新株)の買い占めに動いていたのだが、それを知っていた営業マンは、坪田から預かった金の半分を、この買い占めに乗じた自己張りに流用してしまった。
  しかし、竹三郎商店の不渡りがきっかけで、やがて石井のもくろんだ買い占めは破綻、この営業マンも朝鮮に逃げ、坪田も結果として大損を被った。
  そんな経験をしても、坪田は保険という考え方が大きらいだった。生命保険はもとより、豪邸の火災保険にも入らなかった。富岡鉄斎、横山大観、伊東深水、橋本関雪、三谷十糸子…といった大家の美術品を集めるはいいが、軸物が百十本も納戸に無造作に山積みされていた。客間には鉄斎の「藻刈り」が掛かっている。「鉄齋の他人にへつらわん生き方がええ。それに闊達(かったつ)な文字がよろしいわな」――。こうした高額美術品も同様で、ビタ一文保険金を掛けない。理由がふるっている。
  「大体、保険会社は、零細な掛け金を集めて大きなビルを建てるが、あのようなこと、まともにできるはずがおまへんやろ。第一、株式相場には保険がついてないやおまへんか」
  そのくせ、坪田は東京海上など大手損保の大株主でもある。その点を突かれると、「保険嫌いは哲学やなしに、主義ですわ」と煙に巻いて大笑い。中村は前出の「こちら北浜」で書いている。
  「この豪邸は野村総研と野村投資顧問社長の重責にある木上兵衛の父上が建てられたもので、坪田社長は奥村綱雄の世話で入手した。書斎には高村光太郎の『智恵子抄』や、ボードレールの『悪の華』、ランボーの詩集『酩酊船』の背文字が見えたりするが、実は文学好きの木上社長の蔵書である」
  巨億の富を手に入れた坪田だが、酒もたばこもやらない。取引先に自動車で送ってもらった時も地下鉄の入り口で下車する質実さを失わなかった。
=敬称略、社名は当時
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・見せびらかしはアカン
・気の強さは表に見せずに肚(はら)で持つ
・こうと決めたら絶対に守らなあきまへん
・何より大切なのは人間と人間の関係や。これより強いものはおまへん
・坪田には独特の第六感というか、テレパシーがある(中村光行)
・保険に入らないのは、焼け太りなどとかげ口をきかれてもかなわんからだ
(つぼた よしお 1889~没年不詳)
  明治22年大阪府出身。母親は陸奥宗光の甥(おい)を婿養子にした投機心あふれる紀州人。尋常高等小学校時代は全学年を通して級長を務めた。坪田商店を設立、海運ブローカーで財を成し、その運用で株式投資を始めた。

相場師列伝

55億円のもうけ一転、14億円の損、栗田嘉記氏(10/8/14)
浮沈大きかった昭和47年

 昭和40年代は小豆や生糸の商品相場が最もにぎわった時代である。当時、静岡に根城を構え、大相場を張ったのが栗田嘉記。通称「静岡筋」。桑名の本陣に立てこもる「桑名筋」こと板崎喜内人と双璧(そうへき)である。
  栗田は日ごろ「私から相場を取ったらなにも残らない」と口癖のように言っていた。栗田にとって相場は生きている証しであり、建玉は栗田を夢見心地にしてくれる。建玉には無限の可能性があるが、ひとたび決済すれば、そこで夢は終わり、益金か損金か確定するだけだ。栗田にとっては、それは「排せつ物」でしかない。栗田は言う。
  「自分はお金が欲しくて相場を張っているのではありません。金もうけが目的なら株の買い占め屋のようにやりますよ。好きなんです、相場が。相場でもうけたら、また新たな相場を張るのです。これ以外にありません」
  浮沈極まりない栗田の相場人生で最も振幅の激しかったのは昭和47年(1972年)のことだ。生糸相場の買いで25億円の現金を手にし、未決済の計算上の利益を含めると、55億円を稼いだ男が、1カ月後には14億円の損を抱え込む。
  同年11月16日、静岡市内の栗田の事務所には債権者が大挙して訪れた。東京、大阪、名古屋から大手商品取引員の幹部十数人が集まった。彼らはいずれも栗田の機関店で、足を出した金額は、中井繊維の4億7000万円、角田2億8000万円、明治物産2億2000万円など、合計18億円に達した。これに対し、栗田の資産は野村証券、資生堂、月島機械などの株券が4億円あり、差し引き14億円の負債が残った。
  債権者たちを迎える栗田は、マンションの入り口で直立不動、表情は憔悴(しょうすい)し切っていた。
  「彼が次の瞬間、ガクっとひざを折り、頭部を畳にすりつけて陳謝した。『皆様には、まことに大変なご迷惑をおかけ致しました。お許しいただけるものであれば、どんな処置でも甘受致す覚悟であります』。そして栗田は全身で慟哭(どうこく)、懸命に苦しみに耐えていたのであった。その姿に債権団は人間的な誠実さを感じた」(藤野洵著「群伝七人の相場師」)
  巨額の負債を抱えて破綻した栗田を、週刊誌記者が襲うのは債権者会議からほどなくのことだ。栗田は悔しさをにじませながらこう振り返った。
  「長期的な展望に誤りはなかったが、中期的な展望を間違えました。…あとはご覧の通り、自ら渦中の人となり、火事を起こした当人が消すことを忘れたような次第で、追い証切れで負けました」(「週刊サンケイ」昭和47年12月8日号)
  空前の仕手戦に敗北し、債権者に土下座してわびた栗田が半年後にはよみがえるのだから、相場は「一夜大尽、一夜乞食」の世界である。実は前出の債権者の中から「栗田を殺すな」と資金援助の動きが出てきたのだ。中井繊維の中井幸太郎や、角田の角田純一の助けを借りて、再び商品先物市場に「静岡筋」の名が登場する。
  若い時、迷惑をかけた明治物産のオーナー社長の鈴木四郎は「あいつは今に偉いことをする男になる」と期待を寄せていたが、栗田の復活劇はド派手で、2年後の昭和49年には乾繭で数十億円といわれる利益を上げ、さらには大手亡豆(白いんげん豆)の売買では、戦後最大の仕手戦で主役を演じた。
  相場記者の大御所、鏑木繁翁が「(商品先物の世界で)戦後最大の相場師は、やっぱり栗田かな」と語ったことがある。還暦を迎え円熟味を醸すかと期待されていた矢先、栗田の訃報(ふほう)が流れた。日曜の昼下がり、自宅の庭で鯉(こい)に餌をやろうとして足を滑らせて急逝した。
  他界して18年たったが、今も商品先物市場関係者の間で栗田の人気が高いのは、栗田が莫大(ばくだい)な額の手数料を業界に落とした黄金力だけではない。接した人が共通していうのは「知的な人で何をするにも誠意があった。人間的魅力が大きかった」――。たぐいまれな人間力の相場師であった。
  前出の週刊誌の記者が取材を終えての帰途、「ちょっと寄っていきましょうか」と栗田に誘われてパチンコ屋に入ると、「追い証は自分でネ」とニコニコしながらパチンコ玉を分けてくれたという。パチンコの腕はプロ級だったそうだが、小市民感覚の大相場師だった。
=敬称略
(市場経済研究所代表 鍋島高明氏)
信条
・自分の推理、推論が実際の相場で実証されれば、それで満足であり、真の喜びを感じる
・いつも潔い世界を形作り、金もうけ的なにおいがしない。雅び(みやび)の投機師の生きがいであり、人柄もいい(同時代評)
・相場界のソクラテス。透徹した論理でファンダメンタルズを読み解き、建玉する(藤野洵)
(くりた よしのり 1932~1992)
  昭和7年静岡県出身、同34年商品取引業界に入り、大手仲買明治物産に所属、営業マン兼相場師として活躍するが、同38年、小豆相場で大損して退社。同41年に生糸専門の取引員共同蚕糸に入り、「静岡筋」と称して頭角を現し、同47年週刊誌に「昭和の糸平」と書かれる。その直後に生糸相場の暴落で大損。その後も浮沈を繰り返す。平成4年没。
(写真は藤野洵氏提供)