林輝太郎相場人生訓

2010/08/13

金を合成しようとした錬金術が化学を生み、永久機関を発明しようとして物理学ができた。不老長寿の薬を作ろうとして医学が発達し、超能力を身につけようとしてオカルトが発生した。人間の際限ない欲望により多くの無駄な努力が行われたが、それで発達したものは、元になる欲望とまったく異なるものであり、それらの欲望はすべて挫折した。相場においても儲けるためにあまりに多くの無駄な努力が行われてきたが、それらはすべて挫折した。相場は経済現象であり、売買は経済行為なのだから、それに見合った利益がある。その利益率さえ低めに見積もっているならばそれほど難しいものではない。あまりに欲張りすぎるのがいけないのだ。

下手な投資家ほど、いろいろな銘柄を持っている。

相場における悪魔は、相場そのものではなく、相場をする人間の貧欲ではないだろうか。

あれこれ理論や方法を取り入れると、どうしても断片の寄せ集めになるので、その人が好きなものになるのは当然である。

罫線に頼る人が増えれば増えるほど、罫線の威力は増してくる。

試し玉や増し玉などの技術も必要だが、もっとも重要なのは損切りである。

技術のひとつも知らないで精神統一をしたところで意味がない。

自分が気に入った記事は記憶に残るが、気に入らない記事は記憶に残らない。

荒れる株に挑戦する勇気があるならば、そのエネルギーを自分の手慣れた株に注げば、より確実な利益が得られる。

「相場が好きなんです。だからプロになりたいのです」ステージにあこがれて家出してきて、有名歌手の玄関先に坐り込む小娘でも、歌わせればそれなりに聴くことができるのに、欲だけは一人前、不勉強で損ばかりしている大の男が、そんなこと言う。

安心して買った建て玉で儲かったためしがない。

いきなり本玉を建てると不利になる。なぜならその時点で損得の確率は五分五分だからだ。しかし、ためし玉で相場の様子がわかれば、次に建てる本玉は利益になる。

相場予測の試みはおそらく原始商業、物々交換のときから行われていたに違いないし、ルネッサンス以後は科学的に多くの形式、あらゆる事物に結びつけて行われ、一九世紀にはダウ理論があらわれひとつの転機(テクニカル分析)となり、コンピユータがでてから精密なオシレーターが数えきれないはど閲発されたが、いまだ決定的なものは出ていないし、これからも発見されないだろう。なぜなら、もし発見されれば市場は崩壊せざるをえないからである。

いくつかの銘柄の場帳をつけて、追っかけでもいいからやってみればいいんだよ。とにかく「やってみる」が大事なんだ。

下手な投資家はど、下手でも儲かる方法を探し、その方法を手に入れるために莫大な金を払う。どこかで勉強の筋道が狂っているのだ。

試し玉ばかりをダラダラと続けていったみたいですね。ちょっとだらしがない。

いちど価格革命の洗礼を受けてしまうと大きなうねりの往来相場を長期間にわたり持続する銘柄が数多くある。こうした銘柄を選びツナギ売買を駆使すれば、成功率が高く、利益率もよい。      

一年間のグラフを見てどこが取れるか考えてみるとよい。うぬぼれが強い人でも取れるところは二、三ケ所ということがわかるだろう。

アマチユアでサヤ取りをはじめる人は理屈っぽい人が多く、うまく出来そうな銘柄を探して、その組合わせばかりを考えている。そして、「これはいける」となると、なんの準備もなく、すぐさま仕掛けて失敗する。これでは進歩がない。

相場観は個人の勝手であるが、売買には厳然なる原則がある。

インテリの悪い癖は、いろいろなことを知っていながら、なにひとつ身についていないことだ。知っているだけで出来ない。頭でっかちなんだな。

一般の投資家は、難しい銘柄を難しいやり方で取ろうとする。プロはやさしい銘柄をやさしいやり方で取る。

いままでオシレーターを使って成功した人を聞いたことがないのは、「迷いが深まる」だけでなく、根本的な理由があるのだ。それは「なにかに頼って儲けよう」とする心である。

罫線を見つめていると我々の感覚になにか訴えかけるものがある。罫線から受けるこの感じは、過去の歴史図といった単純なものでなく、相場を変動させる原動力やその内幕といったものを暗示させてくれる。

いろいろ筋道を変えて考えても、ファンダメンタル分析と相場技法は結びつかない。

「相場師っていうのはね……意外につまらない商売なんですよ。時間が自由になるとか、他人に頭を下げなくてもよい、といったメリットがあるかわりに、すべて自己責任ですから、絶対に冒険ができない、日常生活が地味になる、といった華やかさのない仕事なんですね。忘年会でも酔えませんよ。翌朝の場帳の記入が待ったなしですからね。常に金銭感覚を正しくしていなければなりません。つまり、実利を求めるのですが、浮利を得ようという考えを持てません。考えでも行動でも、どうしても経済原則の範囲内のものになり慎重です。臆病にさえ見えるでしょう。もし、少しでも派手な、あるいは自堕落な生活になるとすぐ売買に波及して破産に直結ですから、常に身を慎んで……」「お坊さんみたいですね」「なまじっかの坊主よりも坊主らしいくらいです」
「おかしいな」という判断は、売買している本人にとって適切で確率の高い「価値ある判断」になる。

買ったつもり、売ったつもりの”つもり商い”に果たして効果があるだろうか。ゴルフボールを一万発打ったつもり、ゴルフの試合に出たつもり。これで上達するだろうか?

株を買ったまま何ケ月も放っておくことは、だらしないのでいけません。

相場研究家が創案した一人一派的なグラフは、それが相当な研究の結果であったとしても、どこか片寄りがあるので、難解なわりに実用的ではない。

ほとんどの競技は勝ち負けを競う。たとえば野球で一〇対一でも五対四でも、勝ちは勝ち、負けは負けなのだがねマネーゲームは点数そのもの(金額)を競うのだ。

「終わり良ければすべて良し」が売買であり、結果オーライでよいのであるが、その「終わり」を良くするために「始め」をどうしたらよいかを論じているのだ。

罫線は単なる相場の変動図ではない。それは売り方と買い方の激しい抗争や強弱の均衡を図解した戦闘表現である。

多くの投資家は相場にスリルと興奮を求め、感情の起伏に酔い痴れながら売買をする。しかし、相場に興奮やロマンのかけらもなく、そこには冷静な判断と意思の強さ、そして平均値を有利にする努力があるだけだ。

相場師の三種の神器とは、資料・場帳・玉帳である。

お荷物になる銘柄を捨てないのは、下手な売買の見本である。

株式投資はバクチではないが、仮にバクチと考えても仕事として賭ける筋道を理論的に正しくすれば利益が得られる。

「買い」には夢があるが、「売り」にはロマンがある。

必ず場帳をつくり、それを見ながらグラフを描きなさい。グラフを見ながらグラフを描いてはいけない。グラフは毎目の終値の折れ線グラフであり、それで流れがわかる。目的は動きの癖を体得することだ。

相場師は死ぬまで夢をもっている。しかし、それが売買の表面に出るような安っぽい感情ではいけない。

株と闘ってはいけませんよ、そうすると逃げます。

変わったことはやらない。なれないやり方は失敗する確率が高く、失敗の処置にさらに失敗を重ねることになる。

「買うのをやめておこう」とするのだから、他人から見たら「そんなに自信がないのか」「臆病だ」と思われる。どう思われても損するよりはいいのである。

相場をやる人はどうしても過去の足取りや相場を参考にする。だから多くの人が知らないうちに「後ろ向き」の姿勢になりやすい。過去は参考にしても溺れてはならず、姿勢は常に「前向き」でなければならない。

簡単なことほど馬鹿にしてやらないものだが、基礎を固めなければならないのは、世の中の常識なのである。

株で一家を養い、数億の資産を築いた投資家がいる。この人は景気をどう読むかなんて無駄なことはまったく知らない。この人は単なる株の技術者なのである。

売買は金儲けなのだから、面白さを迫求してはいけないのに、ほとんどの投資家は面自さを求めて売買をする。

記者は読者に対して故意に不利な記事を書いたわけではない。彼らは人気にもっとも汚染されているので、市場の人気を記事として書いただけなのだ。

株でも出来高が状況判断の重要指針であると言う人がいる。どうかしてるんじゃないか。出来高を指針に売買して儲かるならば、世の中で損をする人などいない。

技術のもとになる知識がチグハグで、技術を身につける努力をしないで上手になりたいというのは筋が適らない。

技術論者の立場からすると、「遅が悪かった」というのは自分の努力が足りないことを「運」で逃げているだけの卑怯である。

窮余の一策としての両建ては、そのポジションを解く腕がないかぎり、「両建ては両損」とか「両建ては地獄の入り口」といわれる結果を招く。

玉を持っていて不安のない人はいない。だからといって、それを口に出したり態度で示すのはよくないことだ。

相場に失敗した人はどナンピンを否定する。ということは成功した人はどナンピンの有効性を認めるということだ。

気楽にやる練習は本当の練習ではない。

グラフが客観的な「資料」であることは確かだが、客観的な「判断」が得られるものではない。

「売買」は純粋に個人的なもだから、個人的に見なければダメなのである。

株式投資における「敵」は戦争の相手と異なり、積極的に秘密をつくることもなく、攻撃をくわえるものでもない。危害がないのであるから、警戒心が薄れて安心する。つまり、敵(値動き)が当方に損害を与えるのではなく、損害は当方がつくるのである。

グラフを見て嫌いな動きの銘柄を外して、好きな動きの銘柄を残す。

罫線以外のものをすべて排除して相場を張っている人がいる。彼らは罫線が末来を語ると考えて、何百種もの罫線を引き続けて同形や類形を探している。これらの行為は単なる形式主義に過ぎない。

賢明な人ほど投機の難しさを知り、危険の平均化に努めるようになる。

自分の好きな銘柄を10個選んで場帳とグラフを書き続けているうちに、だんだんウネリやリズムがわかってくる。そのなかから、取れそうなものをやってみてなるべ早く手仕舞う。10銘柄もあってあれこれやっていると結構できるものだよ。

ゴルフの練習でボールの打ち方はわかるといって繚習をしない人はいないと思う。相場も同じで理解していることと、上手にできることは別間題なのである。

これはと思ってもうまくいかなかったり、危ないと知りつつやったことが意外にうまくいったりする。片張りは百発百中とはいかないが、「うねり取り」の相場師はムラのある波乗りを細かい分割で乗り切っている。

相場とは、その人なりに取れるところを取るものである。

値に目が行く。そこで、「この底で買い天井で売れたらいいなあ」と思い、やがてそれが相場に上達することだと思い込んでしまう。この不可能な理想を迫いかける。グラフの効用は大きいが欠点も多いのである。

これまで多くの投資家や相場師を見てきたが、勢い込んで勝負する人で長続きした人は皆無であり、自分もそういう感覚を持ったときに成功したことがない。

罫線は値動きの記録であり、研究対象としておかしなものではない。しかし、それを売買の道具にすると、馬鹿馬鹿しい神秘性が付与されてしまう。売買に神秘性は百害あって一利なしであることは明白である。

サイコロの丁半バクチでも、競馬でも賭けたあとで変更することはできない。ところが売買においては損切りの我慢でそれができる。これは大事なことだからよく考えていただきたい。何度言っても言い過ぎでないくらいに大切なことなのである。

材料を映して相場が動いたら、相場があと付けなっているのだから、悪材料で下げたら、逆向かいで買うこと。

商品に惚れてはいけない。これは商人としての鉄則である。いかなる立派なものでもそれは「売る」ためのモノである。絶対に惚れてはいけないし、愛着を持ってはいけない。

サヤこそ相場である。サヤに背を向けては相場の第一歩が成り立たない。

グラフを書く目的は、売買をして利益をあげることである。従って売買のやりやすいケイ線でなければ合理的といえない。

三手、五手の上げを狙いながら、天井の感覚をじっと溜めてゆく。

「資料を揃えてグラフをつけなさい」というのだが、面倒くさいといって聞くだけでやらない人がほとんどだ。何百万、何千万円のカネを投下して、家族の運命を背負って売買している自覚など爪の先ほどもない。

道具を持たない無勝手流で儲かるわけがない。

市場は 「理想買い」と「現実売り」で構成される。

ジグザグ相場を強気で行くのに、噴けば売り、押せばナンピンをやっている。相場格言の「利食い千人力」とは、チョコチョコ儲けよと言っているのではない。チョコチョコ儲けは大損のもとなのだ。

サヤ取りの銘柄選びは、まずひとつの銘柄を決めて、その銘柄と合う銘柄を探すとよい。たとえば、AとB、AとMといった具合に、はじめに決めたAは絶対に変えないのがコツだ。

仕事は苦労すればするはど成果があがるが、相場はニコニコしているときが儲かっているときで、苦労しているときは損をしているときなのだ。

相場の上手下手は売買技法で決まる。

静かに買い、静かに売る。忍者ではないが、いつ買い始めたのか、いつ手仕舞いしたのか、損だったのか利益だったのか、わからないぐらい静かな売買がよい。

失敗したと気がついたら、その原因や理由など考えず直ちに手仕舞いするべきだ。

仕手株でも亮りの方法さえ適切ならば大きな利益が得られるのだが、仕手株のカラ売りは現物の利食いより難しく緊張する。そして一般に仕手株のカラ売りの怖さは「青天井の恐怖」と言われるが、そのほとんどは資金不足による恐怖である。

自分が判断した買い場、自分ができる分割法、それをやり遂げようとする意欲。これで成功しなければウソである。

周囲を見回すと相場を当てものとする考えが支配していることに驚くが、その当てものさえ他力本願でやるのだから呆れてしまう。

集約されていながら明快で曖昧なところがなく、それだけに厳しいのが大引けの折れ線グラフである。

小説では薄暗い部屋でグラフをひろげてじっとみる光景が出てくるが、あくまでもそれは小説であって現実的ではない。

失敗であると判明した時点で切ることができる玉でなければならない。

商品で成功した多くの人は、株の人たちと比較して、非常に理論的で現実を重んじる。株から商品に転向した人が新高値をとるのは、彼らは大きな夢を迫いかける株価の動きに慣れているからだ。需給の波に連動する商品は冷静に逆張りの考え方をしなければならない。

自分の得意な銘柄でも、値動きが気に入らなければ拒否しなればいけない。

将来の予測は可能かといわれると、主観的にはいくらでも可能なのである。しかし、主観的に可能でも客観的には誤差がある。

処理しなければならない雑事が多くなると収拾がつかなくなる。したがって、相場や市場についての常識は広く浅く、専門は狭く深く、狭ければ狭いはどよい。

素人は、売買の前後しか研究しないが、玄人は売買をしている間のみを大切にする。

信用取引は危険だからやりません、なんて言いながら、それよりもっと危険な高値を買い、下げ相場になっても手放さないで大損をしている。そんな危険なことをなぜやっているんだよ。そこらへんのオバサン投資家よりまだ悪い。

酔狂だと笑うかもしれないが、売りか買いかを明示するグラフあるいは指標は投機家の永遠の夢なのだ。

商品相場を志すものは、為替の変動相場制が続く限り、円相場から目が離せないし、電卓も手離せない。

相場はひとつの狭い流儀に上達すれば、売買に上達したことになる。間題は広さではなく、水準の高さなのだ。

数年に一度ずつ大きな損をする人もいる。チビチビと損を重ねて、カネがなくなると補給する人もいる。損する型はマチマチである。

罫線の啓示は、その魔力を発揮するほど信者が増える。あとはフイクションの拡大生産で、やがて理想にちかい罫線の型がつくられる。

生活資金を稼ぐ相場師は一攫千金を夢みる危険な売買は絶対にしない。

精神的に楽なことは、なんでもいいことで天国です。天国の気分で儲かる。極端な言い方ですが、これはとても大切なことですよ。

盛衰のリズムは誰でもあるが、大難を小難にするのも、小難を大難にするのも自分次第である。

世間の相場をする人は、あまりに急速な上達と大きな利益を夢みていないか。

千両役者が舞台の「区切り」をつけるために見栄を切るように、見切りをつけることは大事な転機になる。

相場に見栄は不要である。悪い建て玉は直ちに消せ。切って苦境から抜け出せるのならば 「当たり屋」から「曲がり屋」になってもいいじやないか。

たくさんのグラフを描いてみてわかるのは、絶対的な見方や判断法は存在しないということだ。判断とは、要するに「見た感じ」なのである。

相場は結果がわからないから挑戦したくなるものなんだ。

値動きの探り方やその結論の出し方は、過去数百年にわたり研究され続けてきたが、いまだ決定的な結論は出ていない。

投資家は「株のカラ売りはこわい」と言うが、これは仕手株の介入などで急激に上げた株の値惚れでカラ売りをするからである。また、その売りかたも計画的なナンピンではなく、心理的な負担が大きい、担がれたから仕方なくやるものなので、ゲームとしては最悪の状態なのである。

相場は逃げないのだから、タイミングが合わないときはいつまでも待てばよい。

値動きに慣れるためには「普通のグラフ」をたくさん描くことだ。暇さえあればグラフを描いていればよい。描いているうちに「感じ」がわかってくるし、大袈裟に言えば相場の変動感覚が生まれてくる。

相場はワンマンの良い面より、悪い面が出やすい。

相場を張ることは、ひとつの技術仕事であり、本質的に世間の技術や芸事に通じる部分が多い。

そもそも、下手な人は買いでも売りでも新規が早過ぎ、手仕舞いが遅過ぎる。それは欲と焦りによるものだが、どんなグラフを見ても売買はゆっくりでよいのである。

損切りだよ、一に損切り、二に損切り

投資家は、はじめから複雑なツナギをやりたがり、さらに有利だからといって不等分割を試みる。簡単なことから実行して身につけなければならないのに、知識ばかりが先走るのである。

対象銘柄は限定しなければいけない。なんでもやる無差別・無制限なやり方は五目屋と呼ばれる軽蔑される散漫投資であり、成功しない。

大切なのは安定した技術を身につけることであり、利益はその結果に過ぎない。

高いところから売りはじめたのでは利益が少ない。上げの途中で大きなサヤがついたときから、売りはじめるのが最も有利なのである。

相場の社会において成功の第一条件は地味な基礎の勉強だ。兎と亀なら、亀が膠つ。

たくさんの本を読んで、フアンダメンタルズとテクニカルを総合させることやそれぞれの妥協点を見出そうとするあたりから、次第に投資の本筋を外れてゆく。しかし、当人はそれに気づかず、自分の投資に深みが加わったと錯覚する。

正しいレールのうえに乗れば努力の積み重ねで花も咲くが、まちがった方向ではいかなる努力をしても花は咲かない。

試し玉のナンピンや乗せはいけない。玉を入れてみて「感じ」が悪かったら躊躇なく手仕舞いするべきである。

試し玉を発明した人はなんと頭のよい人なのだろう。

相場の社会にはインチキ臭い理諭や科学的裏づけがありそうで実はないものが数多く存在している。パソコンに表示される多くの指数やグラフのほとんどが誤った常識なのである。だから、我々はインチキ臭さを排除するために、確率というモサシの正しい使い方を知り、簡単な数学の基礎によるやさしい理論による価格変動の波に乗る技法を身につければよいのである。

試し玉は「芸が細かい」ものであるのだから、やはり細かくてよいのである。そして、この細かくはすべてのツナギに当てはまるのである。

売買の正しい姿を知る。自分の専門を作る。具体的な技法を重視する。「知る」より「出来る」ようになる。

グラフを見て、最低で買い最高で売りたいと思うのは、その人の技術水準が低いからそうした考え方しかできないのだ。

誰もが大いなる希望に胸をふくらませて相場に挑み、寝る間を惜しんで熱心に研究する。しかし、成果があがらないどころか、努力に比例して損失が増大するのはなぜか? なぜなら相場は技術を身につけて上手になるもので、研究するものではないからだ。

長所を生かすということは、自分のよい面を生かして売買の成果をあげることであり、大切なのはどこに重点をおくかということである。それぞれ特色があるから価値がある。

相場の上手な人は、手が決まっていても一歩一歩と固めながら進んでゆく。誰でも進んでゆくときの不安から「悪手」を打ちやすいものなので、それも計算にいれておくことだ。

ツナギは相場技法の終着点なのだから、美技でなければならず、利益の確保といった気安く大雑把なやり方ではつまらない。

「てめえ一人で相場やってんじゃねえ」
                        
出来高ですか、まったく参考になりません。取組みも駄目ですよ。

出来高や取組高といった市場環境を示す数字は、わかりやすく便利であるが、株で損する人たちは、賽の河原の石積みのようにこの数字を計算して、統計で売買して、そして失意に沈む。まことに罪な数字というほかない。

相場を仕掛けるときは、はじめに必要になる資金と動員できる資力を計算してみる。そこから自分の限界を決めるのだ。

できることをやっても失敗することがあるのだから、できないことを試みる必要はない。

はじめ少し儲かり、たまに大きく儲ける。しかし、一転して大損するか、ジリ貧だ。狙った株が次々と外れて夢はだんだん消えてゆく。

天井圏内での売り手仕舞いと見込み違いの損切り手仕舞いができないのは「売りアレルギー」のためである。

天井をつけた相場が底につくまでは戯れにも買ってはいけない。

統計的基礎と実行能力は車の車輪のようなものであり、どちらか片方では駄目なのである。

投資家として有終の美を飾る〝秘伝″とは、自分の資力、能力に合った「建て玉」をコツコツと積み重ねてゆき、身につけた相場技法を控えめに活用しながら進んで行くことである。

投資雑誌も評論家も〝買い″のみの解説にとどまっているのは、日本だけの珍現象なのである。

独学の欠点は、わがままになること、手間を惜しむこと、まちがった道にのめり込みながら、そのことに気づかないことにある。

とにかく塩漬け株は儲からない。塩漬けは絶対にやってはいけないのである。

相場が逆にいったので、嫌々ながら買い足したり、売り増しするのはナンピンと言わない。

取ろう、取ろうは、取られのもと。

どんなに苦しくとも、すべては計画した資金の範囲内でやる。迫加してもいけないし、引き出しはなおいけない。絶対にいけないのだ。

長いこと相場をやっていると年に一度くらいは「ここは絶対」と思うチヤンスがあり、そのとき大きく仕掛けたい欲望を押さえるのに苦労する。そんなときでさえも「試し玉」で慎重に仕掛けていかなければいけないのである。

なにかと「膵負!」という人がいるが、勝ち負けの世界には悲壮感がただよい、どこかセンチメンタルでそれは運命論にまで進んでしまう。

なにか思いつめたような、その狐つきのような目。あんたはまだ”当てよう”という気持ちが強いみたいだね。儲けたい、儲けようという欲が先立っているからだ。それを売買に上達しようという熟意にしなければね。

なまじ経済をかじった人はどうしても相場を理屈で見てしまう。見るだけなら理屈でいいが、理屈でやってしまう。「知ってる」ことと「出来る」ことはまったく違う。

慣れないうちは「乗りそこなった」という判断ができない。そして、切る決断も慣れである。だから嫌々でも損切りを二、三回やってみる。そういう苦しい経験を積んで徐々に上手になって行く。

難易度の高い値動きに挑戦するよりも、やさしく取れる相場を回数多く取るほうがよいのである。確実性を重んじること。嵐の海では泳がないのである。

ナンピン否定論者のほとんどは評論家や無計画なナンピンで失敗した人である。彼らは計画的に実行してこそナンピンであることを知らないで、とにかくナンピンを否定する。

二兎を追いかけてはいけない。小豆をやるのなら株をおやめなさい。

日本人は自分の玉にある種の愛情を持っている。しかし、アメリカ人は愛情どころか愛着もない。彼らにとっての玉は利益を得るためのステップなのだから、用済みになったらサヨナラだ。

ニユース? 材料? 馬鹿野郎。材料で儲かったことあるかよ。

人間だから心の動揺や恐怖心、そして欲がある。それでも建て玉の処理は、欲に走りながら「区切り」をつけるものでなければならない。

値動きで強気になったり弱気になってはいけない。それでは値動きに振り回されて自主性を失う。

相場の技術とは、上がる下がるの当てものではなく、予知不可能な騰落に対する建て玉の操作である。極言すれば相場の90%は技術であり、頭をつかうのは残りの10%に過ぎない。

「初押しは買い」と言われる。上げ相場になってからはじめての押しは絶好の買い場なのだからあたりまえである。では、どこで下げ相場が上げに転換したのか判断するのかといえば、そんなことがわかればバカでも儲かるのである。

売買の自慢をする人たちと、口をきかないほうがいいですよ。その人たちは相場と喧嘩して勝とうという人ですからね。相場を敵対視すればどうしたって暴力沙汰になってしまいます。

相場をはじめたばかりの人が現物の需給も調べず、欄場の足取りも知らずに他人から聞いた「当てもの的な相場観」を鵜呑みにして資金いっぱいの建て玉をする。この勇敢は実に驚くべきことで、私の及ぶべきところではない。

売買を明示するケイ線による売買は投機家の夢であるが、理論的にそうしたケイ線はない。

下手な投資家は省略が大好きで、労力をかけたがらない。

はじめて悪い銘柄を切るときは非常に抵抗を感じるが、いちどその先礼を受けると、あとはなんでもなく出来るようになる。

必勝ソフトの当たる確率は20%~25%%だと言われている。じょうだんじゃない。デタラメにやっても確率は50%なのだ。

売買の途中でツナギの売り玉を入れても、人間の弱さはすべてカバーできるものではない。こんなときは建て玉を0(ゼロ)にして新鮮な対応策をとるべきだ。

相場のツナギは暴走を引き締める手綱の役割りをする。

「人のゆく裏に道あり花の山」こんな人を馬鹿にした格言など、相場をするうえで役にたつのだろうか。「もうはまだなり」ますます人を馬鹿にしている。「もう」と「まだ」は同じだというのだ。こんな語法を無視した格言など捨てなさい。

必勝法が存在するならば賭けそのものが成立しないのである。ところが賭けのなかに、ごくわずかでもスキルが存在するものは訓練や慣れによって利益を得ることができるのである。

場帖は鉛筆で書かないで、ボールぺンで書きなさい。鉛筆書きは相場に対して安易な取り組み方をしていることのあらわれだ。

相場は他人との競争ではなく、自分自身の欲望に打ち勝つことである。

ひとつ残らず成り行きで売ってしまうのだ。そのあとの爽快感は一生忘れられないだろう。そして、気分のよいところで考える。まことに健全で申し分のない結果が出るにちがいない。

人にはお金の入る器があって、器を大きくしなければ入ってこないし、持ちこたえられない。

評諭家の書いた本のなかにも「儲ける法」とか「儲け方」といった項目があるが、読んでみると「チヤンスに賭ける」ことが記されているだけなのだ。

プラスの結果が得られるシステムはないが、マイナスの結果が得られるシステムはゴマンとある。

下手な人ほど利益目標なる不可解な計画を立てる。しかし、技術で稼ぐものは上手になることが目標なのであり、利益はそれに付随するものである。利益は努力の結果なのであり、努力なくして成果はない。

ほとんどの投資家が焦りと欲から「いま員わないとチヤンスを逃す」と急いでしまう。しかし、往々にして「ここぞ!」と焦るときはチヤンスではない。

ほとんどの投資家は社会のなかでそれぞれの専門分野を持ち、すばらしい知識と能力で活躍しているのに、こと相場になると、どうしてレールを踏み外しているのか。間逮えて理解しているところを是正する。不足している部分を少しでも補う。必要な技術を身につける。これだけで見ちがえるほど変身することができるのだ。

本玉の半分を建てる緊張は日常生活で得られない心地よいスリルである。しかし、スリルを迫いかけたとき投資家は道を誤る。

相場の上手な人は 〝自分をよい環境に置くこと″を心掛ける。「勝ち癖」をつけるのも、そのひとつである。
        
マネーゲームに加わるためには、まずはじめに「高く売る」勉強をしなければならない。これは商売と同じで需要とは自分の好みではなく他人の好みである。多くの投資家が「わかつているよ」と言いながら、まったくわかっていないのがこの「他人の好み」である。そして高く売れる株がいい株であることを頭に叩き込むべきである。

見込みちがいの株を後生大事に持ち、たとえ下がっても希望的観測を持つ。アマチユアは例外なく、お金を大事にしない。

相場は技術である。身につけた技術を正当に行えば、それ相応の利益が確保できる。

売買はどんな名人がやっても百発百中とはいかない。だから当たったときは利益を大きくし、外れたときは損を少なくとどめ、差し引きして利益にもっていってこそ所期の利益を達成したことになる。ところが、外れたときに、悔しさで感情的になったり、情勢が変化したにもかかわらず、そのうち利益になるだろうという希望的観測で外れた玉の処理をせず、大損になるまで持ち続ける。これは「資金管理を忘れた」ことにほかならない。

昔から、二部株・店頭株・仕手株・テーマ株・新規公開株・信用買いに手を出した投資家で資産を残した人はいない。

目移りして不慣れな銘柄をやるよりも、慣れた銘柄のはうが成果があがる。

「目標値は×××円」というのは下級の人がやることだ。冷静にたてた予測や計画は、大筋において正しいものだが、現実の底に直面すると値動きや雑多なニュースに迷わされて、細かいことにくよくよして変更するものだ。
儲かったときそれを横み重ねてゆく人と、浮わついて金をなくす人がいる。

私は長い間、相場で生活してきたが、荒れている株や荒れてきた株はやりません。むしろ荒れてきたら手を引き、買い玉を売っていくのです。

相場は綺麗ごとではなく、汗まみれなものである。

目的は利益であり、行為は株式投資でありながら、まったく異なる考え方を持つ人やグループがいくつもある。それはおなじ仏教でありながら、真言宗、禅宗、日蓮宗といった宗派に分かれているのに似ている。重要なのはどれが正しいかではなく、自分はどれを納得し、実行できるかということなのだ。

相場で本当に大事なのは「売り時」であり、その「売り方」ではないだろうか。

もし、株が半値くらいに下がったときでもあきらめて売っていたら、なんとかビル持ちの資産家でいられたのに、長持ちしたために一家は破減した。いま、いかなることをしても手遅れなのだ。これが手仕舞いが重要な理由である。仕掛け論は面自いが、手仕舞論と比較するとまったく軽いのである。

要所を押さえた売買は、表面上はダラダラに見えても、試し玉と本玉の分割をスムーズにおこない、入れるべきところで入れているのである。

「休むも相場」とは、自分にとって最良の出動場所を待っているのであり、その場所とは少しでも早く目的を達せられるところになり、必然的にチヤンスを狙う期間が長くなる。しかし、チャンスを待つ苦しみは、成果につながる。それではもったいないと何か株をもっていなければ気がすまない人は、売買のスリルを楽しんでいるだけなのである。これでは絶対に上達しない。

やさしい方法は、高級でない気がする。つまらない、バカバカしい、無駄である、といった感じがするが、じつはこれが上達するための最短コースなのである。

安値で現物を買い、急騰してゆく途中でツナギ売りをする。そのあと現物を売り手仕舞いするとカラ売り玉が残る。そして、残ったカラ売り玉で下げを取る。上げは現物、下げは信用取引。これで投資家の夢が実現できるのだ。

相場の失敗は、予測の誤りではなく、建て玉の誤りがほとんどである。

休むということは、何もしないということではない。休んでいるのは売買だけで、場帖をつけ、グラフを描き、環境を調べて、値動きを受け止める作業は休んでいない。自分の出番がくるのを待っているのである。

「利乗せ」は相場について行く積極的な攻撃戦法であるが、自分の相場技術を過信して、知らず知らずのうちに無理な建て玉をする危険性がある。

幼椎な売買理論・不備なグラフ・不完全な分析・一方的な強弱論などなど。アマチユアのやっていることは「売買ごっこ」にすぎない。ならば、カネだって買い物ゴッコに使うオモチヤの札をつかえばいいのに、カネだけは本物を使う。これでは儲からない。

相場を当てようとする「当て屋」から脱皮しなければいけないのだが、ほとんどの人がその一生を「当て屋」のままで終わる。

予備知識もなく、経験もない。そのうえ脳は未熟ときた。それで儲かるのかね?

「理屈はいうが、やらせたら下手」これは喜劇であり、悲劇でもある。「理屈はいわないが、やらせたら上手」にならなければいけない。

利益になる銘柄を売り、引かされている銘柄を残すから、損がますます大きくなる。

我々の相場はひとつの事業と同じなのだ。

「流儀」とか「方法」と呼ばれる売買の方式は1200種類を超えるという。膨大な労力や資金と経験に裏打ちされたこれらの方式においても、人間の能力的な部分はプログラム化されていない。

浮気ばかりしていないで、ひとつの銘柄に本気で取り組むんだね。

場帖は毎日の値動きの「記録」であるが、それとともに値動きを受け止める「情報」でもある。

上げ相場は、いつ崩れるかわからないので、その怖さと緊張の連続で気が疲れる。しかし、下げ相場は急に底を打つことがないので怖くない。

利食いのときは、これぐらいの利幅であきらめて我慢しよう。損切りのときは失敗したのだからあきらめよう。「売り上手」はあきらめるのですよ。

理屈っぽい人もやっているうちに上手になって行く。いままで理屈が先に立っていたものが、要領というかコツを掴むんだ。それでいいと思うよ。

相場は常に先を見ているのに、ほとんどの投資家は原因の迫求に血眼になる。ニュースを探し求めるのはバカバカしいことなのである。

早寝早起、金銭感覚を正しく、深酒をせず、質素な生活で身を慎むのが相場師である。