瞑想・・・・・・ 一心集中と雑念のとり方

 神からの最高の贈り物とは、瞑想のことです。

 瞑想を通して私達は父なる神と一体になれるからです。

 神と一体になることが悟りであり、成仏、覚醒なのです。

 人間に一番大切なことは、一心集中、即ち瞑想することです。

 実在する神への一心集中することです。

 仏教では念仏といっています。

 一心集中できないと、神との対面は不可能です。

 雑念から解放されて、神、仏一元、その他に絶対に何も無い状態です。

 集中してないと偽者が入り、乱れてきます。

 集中力が足りないせいです。

 俗世的なことをあれやこれやと色々考えていては一心集中はできません。

 正思念とは、仏、神の他にはなにもない、神一元に一心を集中することですが、
しかし人間には邪気があり、この世のことにとらわれる雑念があります。

 雑念がある以上、一心集中が出来ておらず、神の念ではありません。

 その人には陰があります。

 神は光です。

 神のみに満たされている、神が支配している状態まで一心集中しないと、
神の知恵と力をあなたのものにすることは出来ません。

 瞑想を通してこのことを行うのです。

 釈迦は五年間瞑想しました。

 最初は様々な雑念がありました。

 情欲がありました。

 悪魔よ退けとこの雑念を追い払ったのです。

 イエスは10年間瞑想しました。

 その後、40日間荒野でさまよい、お前を一国一城の主にしてあげるという誘惑を受けました。

 それは自己概念から来るもので、自分との闘いにイエスは勝って雑念を追い払ったのです。

 瞑想は神一点張りに想うことです。

 神以外のことを考えてはなりません。

 大霊への一心集中です。

 全ては神、霊です。

 神の他に色々なことを考えている、例えば心配ごと、これは雑念そのもので、
これが恐怖や災いの原因となっています。

 光と闇とは同居出来ないのです。

 雑念と神とのどちらを選ぶのかということです。

 神、我が内にあり、神の内に我があるのです。

 常に繰り返し、繰り返し考えることです。

 神以外のものはない。

 神あるのみ。

 人は自分の心を幻影、幻覚、サタンに支配させています。

 神に無我夢中にならないと、一心の集中が出来ません。

 一心集中できると神と対面しています。

 朝の一時間瞑想をして下さい。

 時間があるごとに心を神で満たして下さい。

 油断をすると、サタンに心が支配されてしまい、雑念が出ます。

 神一元、その他に何もない神あるのみ。

 雑念がない状態は空の状態です。

 ヒマな時はたとえ何分間でも良いから神と一体になって下さい。

 小児の三つ子の魂百まで、ということわざは、小児には雑念がないから、
その状態を大人まで続けなさいということです。

 平安、安らぎの心は雑念のない清い心の状態ですから、神の国を見るのです。

 幼児のような雑念のない心にならないと、神の国は見えないのです。

 雑念がなくならない限り、救いはありません。

 どうすれば雑念が消えるのか、神を一心に思う。

 神しか見ない、感じないことを訓練することです。

 影を受け入れる人は闇人間で雑念がいっぱいですから病いとなります。

 聖書でカインがアベルを殺したと書いてありますが、
この意味は自我が神我を殺したということです。

 病弱な人は神経質な人で雑念の多い人です。

 自ら雑念を創っているのです。

 自己放棄が必要です。

 自分を神に全託することです。

 このことを日本神道では神惟らの道といっています。

 自分が働いていて自分が生きていると思っていることが最大の雑念です。

 生きているのは神のみで自分は神に生かされているのです。

 なにかを成そう、何かをやろう・・・自己意識です。

 神に全託していません。

 三度の飯よりも、休眠よりも神への一心集中する方が好きにならないと、一心集中が出来ません。

 一心集中する時間を一日により多く作ることです。

 雑事に追われてはなりません。

 この世のものを取るか、雑事を克服するか、集まっておしゃべりするのか、
自我は意味がありませんし、災いです。

 この世のものも、あの世のものも、と想うならやめた方が良いです。

 真剣勝負なのです。

 真剣でなければ勝利しません。

 天国に入る人は中途半端、生半可な人は一人もいません。

 理解力がつくと無我夢中になります。

 霊的な喜びがないと夢中になれません。

 無我夢中になるのと、ならないのでは天と地の差になります。

 ハートから影が消えます。

 雑念でいっぱいですかと希望がなく、光がないということです。

 親鸞は念仏を説きましたが、念仏とは常に仏を想うこと、今の心に仏を想うことです。

 親鸞は知識を得ても仏にならないことを悟ったのです。

 仏に生きなければなにもならないと解ったから、知識を全部放棄して念仏僧になって、
仏を体験する僧になったです。

 知識は人を救えずです。

 知識は悟りにあらずです。

 イエスの祈りは神の臨在感で満たされ、神との一体が成された状態でした。

 ですからイエスの祈りは即実現されたのです。

 あなたのハートに神が完全に着座するまで、三つ子が母を想う如く神に恋焦がれることが、
神への一心集中です。

 雑念につかっていては雑念は消えません。

 自我で自我は消せないのです。

 逆に自我が多くなるだけです。

 闇で闇が消せないのです。

 光を持ってくること、正規念をもって来ることです。

 偽物を消すには本物を持って来るしかないのです。

 雑念が出ると、雑念を消そう消そうとする、瞑想にならず迷いで終わってしまいます。

 意識すると、それに力を与えるのですから、放っておけば良いのです。

 神のこと以外何も考えないと、雑念は入って来ません。

 外なるものをしめ出し、内なる神への集中力を継続すると、奥深い神との対面を可能とします。

 一度このことを体験すると、ほんの数秒で神への一心集中が出来るようになります。

 神の国にいると意識を集中すると神の国にいます。

 意識そのものが全てを支配しているからです。

 神の国への出入りは簡単なことです。

 誰もいない静かな所で、一心集中すれば効果があります。

 一瞬でも神に意識を向けることです。

 集中力なくして救いはありません。
 
 集中力をつけましょう。

 神は自から救ける者を救ける、汝の救いは汝自身なりです。