1.航海情報
A.港の概略(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
長崎(北緯32度43分/東経129度51分)は九州の西海岸に位置する。長崎港は風雨を十分避けられる大きな天然港であり、南側を除いて山に囲まれている。港は5つの区域に分けられる。1番目と2番目は内港に相当し、残りは外港である。
B.進入、灯台など(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
ビューフォートは国防総省地図局水路測量地形測量センター発行159号(第3版1985年)、海図97390(1982年1月、CORR NM 37/86、進入)、海図97391(1986年3月、CORR NM 21/86、港)を利用した。
C.水先案内(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
水先案内人は伊王島灯台の北東1.5マイルで乗り込んだ。水先案内人は英語を話し堪能であった。タグボートは利用できるが使わなかった。
D.入口(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
すべての航海ガイドが海図に記されているわけではない。主要な航路は広く(900ヤード)、比較的風がない。入口から第一区域の松が枝埠頭までは3つのコースがある(270度、244度、221度)。
E.航路(1986年11月)(救難艦ビューフォート) 1D節を参照。
F.投錨(1986年11月)(救難艦ビューフォート) 出版物159号を参照。
G.沈没船、障害物(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
出版物159号、海図97390および97391を参照。
H.潮汐および潮流(1986年11月)(救難艦ビューフォート) 出版物159号を参照。
I.天候および風(1986年11月)(救難艦ビューフォート) 出版物159号を参照。
2.係留および諸施設
A.停泊、波止場など(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
本艦は松が枝桟橋に係留した。オープン桟橋は非常に繁華な観光バスターミナルの真向かいにあり、非常に交通の激しい大通りから約200ヤードである。毎日何百人もの人々が船の前を通っていく。桟橋の長さは366メートル(1,200フィート)で、まわりの深さは12メートル(39.4フィート)である。ここでは電力や蒸気の供給は受けられない。桟橋は固定したゴムの防護材が装備されている。
B.燃料、潤滑油、ディーゼル油(1987年1月) 役立つ情報なし
C.機械取り扱い設備(1987年1月) 役立つ情報なし
D.ドライドックおよび修理施設(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
ほどんどあらゆる種類のまたは大きさの艦船修理は長崎で受け入れられる。3つの乾ドックが三菱長崎造船所にあり、2つのドックは香焼島の東部側の長浜にある。
E.倉庫および貯蔵施設(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
食糧、肥料、一般貨物のための5つの移動格納庫が出島岸壁にある。 また港の区域全体には71の小さな倉庫がある。
F.荷役従業者(1987年1月) 役立つ情報なし
G.港の能力(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
長崎は2隻のフリゲート艦/駆逐艦/ミサイル駆逐艦または1隻のミサイル巡洋艦を収容できる。
H.鉄道、道路および汽船による輸送(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
長崎の鉄道網は県の重要な地域と日本の主要都市まで延びている。また福岡から長崎への長崎新幹線(弾丸列車)建設の努力も続けられている。完成した際には長崎県は全国新幹線網の一部となる。
長崎の一般道は県内中に張り巡らされ、観光地へとつながっている。
長崎県は離島が多いのでよく整備された港がたくさんあり、フェリーは車や旅客の大量輸送に役立っている。長崎はまた中国や東南アジアの国々への西の玄関になろうと努力している。
3.役務、兵站および運用
A.はしけ(1987年1月) 役立つ情報なし
B.給水(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
6.35センチ(2.5インチ)のパイプを通して携帯給水できる。
C.飛行場(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
長崎は2つの滑走路がある:
方向 広さ 表面
140/320 3,000 X 61m (9,840 X 200 feet) アスファルト/コンクリート
180/360 1,201 X 30.5 m (3,940 X 100 feet) アスファルト/コンクリート
上海への国際線以外に、東京や他の大都市への12の主要路線がある。東南アジア、オセアニア、ハワイへのチャーター便も頻繁に出ている。現在、香港、シンガポール、シドニーへの定期便の開設が進められている。
D.通信(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
出版物159号を参照。本艦は港内では18009MHzの高周波を守るよう要求された。
電話線は地元との連絡のためだけに甲板に引かれた。郵便の集配は佐世保艦隊基地司令部と同等にすべきである。
E.医療(1986年9月)(AFMIC)
長崎の一般保健衛生はよい。しかし住宅密集地では、季節によっては水の供給が不十分であったり、汚水処理に加重な負担がかかるなどの問題がある。生魚(刺身と鮨)を食べたり、農業での人糞肥料の使用、特に青空市場で不衛生に食べ物を扱っていることで旅行者に腸の病気を起こすこともある。酒とドラッグの乱用がされている。ヘロインとマリファナが利用できる。
インフルエンザや肝炎、あらゆる種類の赤痢、食中毒、しょう紅熱、トラコーマ、性感染症などの流行性の病気がみられる。結核の発生率も高い。
最寄りの米医療施設は米海軍佐世保診療所支所で、長崎の北60キロメートル(37.3マイル)である。最寄りの民間医療施設は長崎大学病院(ベッド数823)(電話:0958-47-2111)で、すぐれた諸施設を有している。
ねずみ駆除の証明と検疫証明書を要求された。係官が乗船してきた。
(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
港の保健衛生
港の水の工業汚染 − 油
大気汚染の根拠 − 一酸化炭素
艦船とボートの航行 − 普通
都市の状態の一般的印象
ゴミやくずの集積 − なし
汚水の除去/処理 − 効率的
ハエや昆虫による媒介汚染 − なし
迷い出た動物 − 見あたらない
レストラン、バー、露店での衛生遵守 − 高い
非合法ドラッグの使用 − 見あたらない
売春 − 見あたらない
F.ガソリン(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
ガソリンは商業ガソリンスタンドで容易に利用できる。
G.食料品(1987年1月) 役立つ情報なし
H.ゴミ処理(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
ゴミ処理には一日2回トラックが来た。POCは佐世保艦隊基地司令部だった。ゴミ投棄は制限されていないし、くずは分類の必要はなかった。汚水処理にはトラックが来たが、装備が悪かった。排出のためのホースを備えた使い古しのはしけを要求することを勧める。ホースは本艦の排出口に合わせるべきだ。
4.対人関係
A.来訪(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
長崎県知事、長崎市長、日米協会会長/商工会議所
訪問は佐世保艦隊基地司令部と福岡のアメリカ領事が取り計らった。
B.栄誉礼(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
長崎港は表敬を行う港ではない。
5.寄港情報
A.一般情報(1987年1月)(太平洋・艦隊諜報センター)
1571年、長崎の港町は小さな漁村から、日本のすべての海外貿易をになう主要な港へと変わった。長崎の開港とともにキリスト教が急速に、とくに隣接した地域で広まった。長崎周辺のクリスチャンとなった小作農たちが、経済的・宗教弾圧に対して死にものぐるいで反乱したため、クリスチャンへの迫害が起きた。クリスチャンは虐殺され、キリスト教は日本の確固とした宗教としては存在できなくなった。それ以来、鎖国の時代(1629〜1858)の間、長崎は唯一の外国への販路だった。オランダ商人のときどきの来航は外の世界と接触する唯一の機会だった。
19世紀の中頃、西洋文明とキリスト教に出会い、医学・鉱業・造船・印刷・写真・漁業・鉄道輸送の分野の知識は飛躍的に増加した。1857年、東洋で最大の造船所である三菱長崎造船所が建設された。第二次大戦の終わりから長崎市の復興はめざましかった。
長崎の産業は造船、機械、漁業、農業と観光である。毎年、外国から10隻以上の観光船が長崎港に入港する。
(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
人口は45万人である。(毎年の人口調査はわからない)
B.上陸許可(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
陸上パトロールは必要ない。この港には約500〜750人を収容できる。
C.クラブおよびバー(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
市内にはバーはたくさんあるが値段は高かった。例えば席料は2000円で、ビール1杯500円である。
D.レストラン(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
日本料理 中華料理 西洋料理
坂本屋(金屋町) 東亜閣(鍛冶屋町) チサン(万才町)
岡野(本石灰町) 江山楼(新地町) ハルピン(興善町)
ひぐち(銅座町) 京華園(新地町) 銀嶺(鍛冶屋町)
花月(丸山町) 新和楼(新地町) マクドナルド(銅座町)
E.ホテル(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
ホテル 場所 電話
ホリデイイン 銅座町 28-1234
ハーバーイン長崎 樺島町 27-1111
長崎東急ホテル 南山手町 25-1501
国際観光ホテル日昇館 西坂町 24-2151
長崎ビューホテル 大浦町 24-2211
F.運動施設(1987年1月) 役立つ情報なし
G.海水浴場(1987年1月) 役立つ情報なし
H.教会(1987年1月) 役立つ情報なし
I.輸送(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
タクシーは港まで24時間利用可能である。バスは港まで利用でき、6時から20時まで運行している。列車は佐世保まで利用できる。
J.旅行(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
平和公園と原爆資料館を訪問するのに市は45人の役人をつけてくれた。観光している間中、報道代表者数人、テレビカメラ1人、フォトジャーナリスト4名が同行した。
K.買い物(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
主なショッピングセンターは浜町、観光通りおよび鍛冶屋町である。それは出島埠頭および長崎駅の近くに位置する。長崎の生産物は養殖真珠、べっこう、さんご、磁器そして人形である。
L.劇場および映画館(1987年1月) 役立つ情報なし
M.物的保安(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
ビューフォートが係留した松が枝桟橋は、オープン桟橋で非常に繁華な観光バスターミナルの真向かいにあり、非常に交通の激しい大通りから約200ヤードである。毎日何百人もの人々が船の前を通っていく。好奇心以外のなにものでもない。
港のあたりにはフェンスはなくガードマンもいない。
N.その他(1986年11月)(救難艦ビューフォート)
本艦の滞在中の通貨レートは1ドル=168円であった。
(在日米海軍司令官)
19年ぶりの米海軍艦船の長崎への訪問は非常にうまくいった。領事はこの訪問の受け入れで多大な協力をえた。館長も乗組員も彼らが会った役人にも地元の報道関係者にも非常に積極的な影響を与えた。何の抗議もデモもなかったのも良い兆候であった。
編集:MRS. KAY DeVAUL, 22PD 太平洋・艦隊諜報センター(1987年1月)