たった3才の私が受けた原爆の被害はとてつもなく大きなものでした。身体の右半身に障害が残り、その後の人生はこの身体のように辛いことの多いものでした。しかしその人生の中で大変うれしいことがありました。長崎地裁に続く福岡高裁での勝訴です。
裁判長の「控訴人の控訴を棄却する」の申し渡しは、私だけでなく、長年原爆のために苦しんできた多くの被爆者の勝利となりました。
11月7日、福岡高等裁判所には全国から200名余の支援者の方々が駆けつけ、判決の成り行きを見守っていました。そして法廷には駆けつけられなかった多くの被爆者の方々もまた、かたずをのんで見守っていたのです。
私のこの裁判は長崎原爆松谷訴訟と呼ばれ、私を原爆症と認めさせるだけでなく、「国家補償による被爆者援護」、一日も早い「核兵器廃絶」への思いを込めて、たたかわれてきました。だからこそ全国の多くの人々が重大な関心を持ち、福岡高裁始まって以来の53万筆、1万団体に及ぶ「公正判決要請署名」を提出でき、134名からなる弁護団、個人会員9000名、団体会員375の支援する会を組織し、前例のない大きな支援運動へと発展してきました。
53年前の8月9日、当時3才5ヶ月だった私は爆心地から2.45キロ離れた自宅の庭先で被爆。すさまじい爆風、熱線、放射線に襲われ、飛んできた屋根瓦が頭を直撃。その破片は2ヶ月以上も頭の中深く食い込んでいました。
傷口は2年半もふさがらず、その間、傷口からは魚の腐ったような膿が出続け、ようやく傷口がふさがり、わらぞうりをはいて歩く練習が始まったのは6才でした。
よく歩けないため、1年遅れての小学校入学。坂の街・長崎。私の通う学校は階段を107段も上ります。天気の良い日は姉に手を引かれ、雨の日は母に負ぶわれての通学です。足がびっこを引くため、ごっちん(長崎の方言ですが)、ごごにじゅうご、とはやされたり、真似されたり辛く悲しい思いをしました。母に「原爆を受けたばっかりに何で私がこんなにいじめられんばならんとね。」と当たったりもしました。
授業中に頭が痛くなり、引きつけを起こすこともありました。六年生くらいからようやくひとりで通学できるようになりました。ひきつけは中学生まで起きていました。
母の勧めもあって習い始めたソロバン。なかなかうまくいきません。私の右手はソロバンには役に立たないのです。検定試験に何度も落ち、そのたびに母に励まされ、ようやく高校二年の時、二級の検定試験に合格しました。その資格を生かし、高校卒業後は「長崎原爆被災者協議会」で経理の仕事をしていました。
私の右手は肩より上には上がりません。指は変形していてハンカチや紙をつまみ上げることもできないのです。左手ばかり使うのでまるで子どものグローブのように大きいのです。
リンゴの皮などをむくときは、まず四分の一に切って、左手に持たせてお腹に挟んで左手で向きます。手元が狂うととても危険です。また左手の爪を切るときは、カミソリを右手に持たせて左手を動かしながら切りますが、指を切ってしまうこともあります。紐を結ぶ、瓶のふたを開ける、洗濯物を干すなど、みなさんが当たり前にしている生活動作のあらゆる面で不自由さを強いられ、危険な目にあっています。
私の左足は変形していてかかとんが下につきません。親指とその次の指も浮き上がっていて、地面につくのは残りの三本の指だけです。身体の重心がその三本の指と裏側だけにかかるので皮膚が固くなり、針で刺すような痛みがあります。だんだん変形がひどくなり、靴は注文して右足の底に厚みをつけてもらいます。最近は歩くのが辛く、裁判支援の訴えにでかけるときは車椅子を使います。でも東京は車椅子では行動できませんね。
若いころ、結婚の話もあり、好きな人もいました。でも結婚してもうまくいくはずがない、被爆者で身体が不自由ではと、あきらめました。
夢の中でかかとの高いハイヒールを履いてさっそうと歩いている私。でも目覚めて現実の自分に戻ったときのつらさ、くやしさ。こんなに、心と身体に苦痛を与え、私の人生を踏みにじった原爆を憎みます。そして私の身体を診ることもなく、原爆の放射線とは関係がないと言い切る国、厚生省を絶対許すことはできません。
生活の不安がなく十分な治療を受けるためには原爆症の認定が必要なのです。
私は被爆時の頭のケガと放射線の影響による脳孔症のため53年間にわたり右半身不全麻痺という障害に苦しんできました。この障害を原爆症と認めて欲しいという認定申請をしました。ところが厚生省は認定してくれませんでした。私は涙をのんであきらめました。
その10年後、行く末を案じた母が「私が消えてしもうたら、この子はどうなるやろ。私の生きとっうちに認定してほしかとです。」と二度目の申請をしました。本当の姿を見ないと判ってもらえないとスリップ1枚の写真も添えました。しかし厚生省の態度は変わらず申請は通りませんでした。
私は国の二度にわたる冷たい仕打ちにどうしても我慢ができませんでした。国相手に裁判を起こすなんてとんでもないと思いましたが、母の「苦しんでいるのは英子だけじゃなかもんね。」という言葉に決意。1988年9月、厚生大臣を被告とする裁判を起こしたのです。
長崎地裁では母をはじめ、科学者、医師、被爆者として山口仙二さん、渡辺千恵子さんらが証言台に立ち、原爆被害の実相をそれぞれの立場から明らかにしました。
提訴から4年8ヶ月、93年5月、私を原爆症と認めた勝訴判決が言い渡されました。でもこの喜びを分かち合うはずの母はすでになく、私の胸に抱かれていました。
喜びもつかの間、6月、非道にも厚生省は控訴。裁判は福岡高裁へと移りました。4年あまりの裁判を経て、昨年11月、勝訴判決が出されたのです。長崎地裁提訴から9年が経っていました。
「上告するな」の運動は全国に広がり、厚生省に抗議、要請のファクス、はがきが送り付けられました。厚生省前の座り込み行動には連日、百名を越す支援者の方々が全国から参加していただき、私も上京しました。このような中、厚生省はまるで私たちに挑戦するかのように上告したのです。
私たち被爆者はもう待てないのです。
高裁判決以後、長崎市役所の窓口には問い合わせや認定申請書の交付を求める被爆者が増えていると聞いています。
長崎地裁、福岡高裁と二度、勝利できたのは支援して下さったお一人、お一人のお力の賜です。本当にありがとうございました。この9年間いろいろなことがありました。地裁の勝利判決を待たずに逝った母や渡辺千恵子さん。私自身も入院、手術など具合も悪く、つらい、苦しいことも多くありました。不自由な身体なので小さいころから引っ込み思案のうえに親しい人以外とは話をすることすらできませんでした。
そんな私でしたが、この裁判を通じて今日のように多くの方々と出会い、生きる喜びという素晴らしいものを与えてもらいました。私にとって今、これが青春です。
上告されたことは本当に悔しいです。53年間の苦痛をなぜ国はわかってくれないのかと腹立たしくもなります。しかし、上告された以上、三度勝利するまでたたかいます。どうか私と一緒にたたかって下さい。