第1 DS86について
一 甲第119号証について
この論文は、F値が放射線の種類を反映するかどうか、すなわち、線量指標になるかどうかを放射線生物学の立場から検討した論文である。
結論として、「線量が高いとF値は線量に関係なく一定の値(F=6)に収斂するが、低線量域(<1Gy)ではF値は線量によって差があり、Brennerらの理論は本質的には正しいと考えてよかろうということである。」とされている(甲第119号証)。
この論文でもブレンナーの指摘を本質的に正しいとしており、この面からも、DS86の信用性は、根本的にくずれている。
二 澤田意見書について(被告第17準備書面に対する反論)
1 ガンマー線のデータについて
被告は、「ある一つの測定値と計算値のずれをもって、DS八六の線量評価に正確性がないとすることは明らかに誤りである」(被告第一七準備書面八頁)、「数あるデータのうちの一つにすぎない長友らのデータを絶対的な尺度としてDS八六の線量評価を批判するものであり、かかる批判が科学的根拠のないものであることは明らかである。」(同準備書面一〇、一一頁)などと述べている。
しかし、澤田意見書は、長友らのデータにだけ依拠しているものではない。甲第八七号証図1a、bで明らかなように長友らの研究成果を含む多くの測定データを基に解析したものである。被告の主張は、澤田意見書の内容をねじ曲げ、批判するものであって、まるで相手を黒く塗ってからその黒さを批判するようなものであり、悪質きわまりない。澤田意見書において長友らの測定結果の論文が文中で特に引用されているのは、この論文が当時の最新の測定データであり、かつ、それまでのガンマー線の測定結果をふまえた総合的な見地から研究されたものであったからにすぎない。
2 バックグランドについて
被告は澤田意見書のバックグランドに関する記述について、
「論理に飛躍があり、極めてご都合主義的な解釈である」と批判する。しかし、澤田意見書はご都合主義的な解釈などしていない。遠距離の線量を測定する場合、バックグランドの線量を考慮するのは当然である。長友らは、バックグランドの評価が過小評価とならないようわざわざ2.45kmの地点における線量を測定して、2.05kmの線量と比較し過大評価とならないよう慎重に検討しているのである。2.05kmと2.45kmとでは400mの差があり、減衰距離を300mとすると2.45kmでは2.05kmの線量の約1/4に減少する、そこで、2.45kmでは原爆による線量がバックグランドとして考えた線量の4〜3割になって、マイナスになったのである。このことは、長友らの想定したバックグランドの値がむしろ過大であったことを示すものであり、実際の原爆による線量が長友らが測定したもの以上であることはあっても、過大評価ではないことを示すものである。これは、この研究が極めて信頼性の高いものであることを示すものであって、被告らの批判は、科学的なものではない。
3 中性子線による放射化データの解析について
被告らは、澤田意見書が系統的に実測値が得られているユーロピウム152のデータに基づいて解析したのに対して、ユーロピウムのデータだけで解析するのはおかしいと主張する。
しかし、系統的にデータのない測定値に基づいて解析すると誤差がでやすく、また、被告第17準備書面16頁のように1050mや1150mのデータでは遠距離の誤差の多い地点の評価をすることができず、澤田意見書のように考えるのがもっとも科学的態度である。
4 減衰因子について
被告は、澤田意見書が二つの減衰因子があるモデルを使ってフィットさせたことについて、ただ2つの減衰因子があるわけではないと批判する。
しかし、減衰因子が2つだけでないことなど当然の前提である。澤田意見書は、多くのファクターの中で重要な意味を持つ少なくとも二つの減衰因子を考えてフィットさせ、被爆線量の特徴を分析したものである。多くの因子を考慮すると称して意味のない結果を出してもその現象を理解することにはならないのである。このことは、例えば、象の形を理解するのに、象に細胞がたくさんあるからと言って細胞全部を考慮しなくても、象の形はわかることを考えれば容易に理解できることである。
5 スカイシャイン効果について
被告は、「原子核に吸収されないで散乱した中性子とは、要するに人体にも影響を与えなかった中性子のことであり」などと主張する(同準備書面23頁)。この記述はおよそ理解できない。そもそも放射線についておよそ無知としか考えられない。被告がこのような有様であるからまともな認定ができないことをまさしく示すものである。
澤田意見書が述べているのは、人体に到達するまでの中性子の伝播についてである。水分の少ない上空に向けて飛び出した中性子は、空気中の水分などの原子核(もちろん人体ではない)に吸収されずに遠方に伝播しやすい。それが遠方の上空に存在する空気中の水蒸気などの原子核に当たりはねとばされて散乱し、地上にいる人体に当たり、人体の中の原子咳に当たって吸収されたり陽子をはねとばしたりして人体に悪影響を与えるのである。
6 ブレンナー論文について
被告は、バウチンガーの論文に基づいて批判を展開しているが、一項で述べたように最近ブレンナー論文を支持する研究もでており、ブレンナーが指摘した問題の重要性は高まってきており、いずれにしろDS86については多方面から批判されている。
三 まとめ
被告は、原告の指摘のあげ足取りをしているにすぎず、DS86自体を支持する研究成果については何ら示すことができていない。DS86については、今やその信用性は完全にくずれている。
第二 厚生省原爆医療審議会の「認定基準」(甲第120号証)について
一 毎日新聞は、1997年(平成9)年8月5日付の「どこへ、どこまでー95夏平和の情景」という連載記事[1997年(平成9年)9月10日付上申書添付資料]の中で、原爆被爆者医療審議会の委員を二期八年努めた元委員(医師)が、「認定は、政治的な力が働くことが多い。委員長の意向や、国の財政状況が色濃く反映される」という考えを述べたことを明らかにするとともに、次の事実を明らかにした。
「毎日新聞が入手した厚生省の認定基準(内規)には、爆心地から1.2〜2.5キロメートルの範囲で50〜100メートル刻みの距離に応じた放射線量、疾病の種類などに応じた影響評価が明記されている」。
また、本件訴訟において、右審議会の委員である野村武夫証人は、厚生省内に被曝線量と距離の関係を一覧表にした基準が存在し、これに照らして判断したことを認める旨の証言をしており、右の毎日新聞記事は、信頼性の高いものであった。
二 そもそも、原告の申請を却下した厚生大臣の判断がどのような基準でなされたのかは、本件の重要な争点である。国が法律によって、一定の要件を備えた被爆者に対して給付を行うと定めている以上、いかなる基準によって認定されるのか、もしくは認定されないのかが事前に公開されていなければならない。そうでなければ、申請者は国の決定に対して有効に争う方法がなく、きわめて不当かつ不公平である。
したがって、原告は、1997年(平成9年)9月10日付上申書をもって、右新聞記事によってその存在が明らかとなった「認定基準」を、被告らが自ら任意に開示及び提出するよう求めた。
しかし、被告らは未だにこれを開示も提出もしない。被告らは、この「認定基準」を、長年にわたって使用してきたにもかかわらず、その存在が明らかになって、なお、これを秘匿しようとするのは、主権者たる国民の権利を侵害し、国の責任を果たさない、きわめて不当な態度である。
三 原告は、今般、独自の調査によって、右新聞記事で報道された「認定基準」を入手したので甲120号証として提出する。
この「認定基準」は、一見して明らかなとおり「爆心地からの距離」と「遮蔽の有無」のみによって被曝線量を評価し、この線量評価を疾病にあてはめた、きわめて簡単かつ画一的な一覧表である。
なお、「残留放射線による被爆を考慮する」とあるが、これもまた、距離と時間による画一的な一覧表になっているもののみである。
野村武夫証人は、長年にわたって同審議会の委員をしていたというのに、審査における認定基準を法廷で自ら証言することができずに、机の上に「一覧表」があり、これに照らして判断したと言うのみであった。甲120号証の「認定基準」が、野村証人のいう「一覧表」であることは明らかである。たしかに、「認定基準」がこのようなものであるとすれば、委員は自らの責任で個々の申請を判断する必要はなく、事務局が、この「認定基準」に照らして、仕分けしたものをそのまま通せば足りる。このような審議会とは、単に公平な第三者機関を装った厚生省の内部機関にしかすぎず、それも、できる限り認定しないが為に設けられた機関という外はない。国の審議会が、決して公平な第三者機関ではなく、このような実情にあることは、既に水俣病においても、また、HIVにおいても明らかになっているが、原爆症の認定においても全く同様なのである。
原告をはじめとする被爆者は、病気の身体をおして、申請書をつくり、診断書その他の資料を揃えて、わらをもつかむ気持で申請をしている。しかし、その労苦も気持も、委員には全く通じることなく、被爆者の個別具体的な症状の経過、被爆前後の状況など長崎原爆松谷訴訟控訴審判決で検討された事実は全く検討されることなく、一片の「認定基準」によって却下されているのである。
四 また、この認定基準によれば、被告らが今日になって、全くの付け焼き刃で法廷で主張しているような、DS86についての熱中性子の計算値と測定値の不一致の検討結果、コバルト60の実測値と計算値の違いなどの問題点についてすらも、全く考慮に入れず、形式的画一的にDS86のみを基準としていることも明らかである。
またこの基準では、「ウィルスマーカー陽性の慢性肝炎、肝硬変」については、「1000rad」の被曝線量が必要であるとしているが、その科学的根拠も全く不明である。
さらに、本件において、原告が被爆時に受けた黒い灰の降下による被曝、被曝後の負傷者の手当等の作業に伴う残留放射能による被曝、さらには、これに伴い必然的に発生する放射性降下物の摂取に伴う内部被曝などの個別事情については、一顧だにされていないことがわかる。
五 しかも、被告らは、このような「認定基準」すら、国民の前に公表しようとしない。もし、これが公表されていれば、その不当・不合理をただすことができる。しかし、被告らはこれを公表すれば、そのあまりのお粗末さに非難が集中することをおそれて、不都合なものはあくまで隠し、ただひたすら密室での審査に固執してしているのであろう。
このような不当・不合理な「認定基準」によって、委員すらその審査内容を具体的には証言することのできないような短時間の、かつ、形式的な審査によって、原告の切実な願いがいとも簡単にふみにじられたのである。許すことはできない。
水俣病問題に、医師としての良心に基づき、長く関与を続けている熊本大学医学部の原田正純助教授は、近著「裁かれるのは誰か」(世議書房)の中で、水俣病における「専門家」の責任についてふれ、各省庁に設置される審議会について、「公平にみえるこれらの手続きは、そのいくつかは単なる儀式にすぎない、しかも、そこでの議論が未公開であり、その人選も官僚の思うままである。とすると専門家による専門的事項という理由で議会の議論を経ていないから議会制民主主義を破壊していることになりはしないか。」と述べている、さらに、学者については、「何故か学者たちもこの種の会にはいりたがる人が多い。しかし、選ぶのは官僚であるから日頃から過激な(官僚に批判的な)ことはいわない。結局、官僚に都合のいい人が多く集められるから、緒論は最初から決まっている。ただ官僚の決めたことを追認することになる。これではこんな会なんか不要で議会なら議会で国民に見えるように議論すべきである。」と述べ、あわせて、「そして、その決めた結果について専門家たちは絶対に責任をとらない。誤ちを犯そうが、とんでもない結果がでようが、専門家たちは無責任にいいっぱなしである。このような構造が変らない限り問題は解決しない。そして、このような専門家がいる限り民衆は専門家を信頼しない。水俣病事件はその典型である。最初から意見の異なるものを半分入れておいて、そこで十分議論しておけば、その後はかえって円滑に進むはずである。」と批判しているが、本件の原爆医療法に基づく認定についても、全く同じことが言えるのである。
六 なお、この「認定基準」によれば、「要医療性評価」については、「原則として、ほぼ毎月、保険医療を受療している状態であること」と記載されている。少なくとも被告らの「認定基準」によっても、原告の「要医療性」は、全く問題にならず認められることも明らかである。