上告受理事件番号 福岡高等裁判所平成九年(行サ)第7号
原爆被爆者医療給付認定申請却下処分取消請求上告事件

上 告 理 由 書

  上告人 厚生大臣
   平成一〇年一月一四日
目  次

前 文
一 原判決における法令の解釈の誤り
 1 はじめに
 2 民事訴訟法と証明の程度
 3 旧原爆二法の各給付の要件とその証明の程度
二 原判決の法令適用の誤り
 1 はじめに
 2 原判決の認定した事案と運用した経験則
 3 原判決が放射線起因性肯定の基礎とした事実及び経験則の問題点
 4 閾値とDS八六に基づく被曝放射線量の評価
  (一) 閾値について
  (二) 原子爆弾により人体が被曝した放射線量の評価
  (三) 本件訴訟におけるDS八六の経験則としての位置付けの検討について
   (1) 原判決におけるDS八六の位置付けの問題点
   (2) DS八六の内包する問題点について
   (3) 放射性障下物及び誘事放射能について
   (4) 各種被爆者調査の結果とDS八六及び昭和三三年行政通知について
 5 小括

上告理由書  上告人は、次のとおり、上告理由を明らかにする。  原判決には、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(昭和三二年法律第四一号、 以下「旧原爆医療法」という。なお、以下、同法と関連する原子爆弾被害者に対 する特別措置に関する法律(昭和四三年法律第五三号)を「旧原爆特別措置法」 といい、両法をあわせて「旧原爆二法」という。)七条一項の要件の証明の程度 を「相当程度の蓋然性の証明があれば足りる」(原判決四八ページ)と解した点 において、同条項及び民事訴訟法(平成八年法律第一〇九号)二四七条(平成八 年法律第一〇九号による改正前の民事訴訟法一八五条参照)の解釈適用を誤った 違法があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄 を免れない。 一 原判決における法令の解釈の誤り  1 はじめに    本件は、被上告人(原告・被控訴人)が、昭和二〇年八月九日に長崎に投   下された原子爆弾の爆風により飛来した屋根瓦により頭頂部外傷を受け、放   射線により治癒能カが奪われ治癒が遷延し、また脳実質が直接放射線により   侵され、これらの相互作用により医療が必要な状態にあるとして、上告人   (被告、控訴人)に対し、旧原爆医療法八条一項の認定を申請したところ、   上告人から右申請を却下する処分(以下「本件処分」という。)をされたた   め、その取消しを求める事案である。    旧原爆医療法八条一項の認定の要件は、同法七条一項の定めるところであ   り、同項本文とただし書の文言の対比から明らかなとおり、被上告人の傷害   又は疾病が、@原子爆弾の放射線(法文上は、「放射能」とあるが、同条で   は放射線の意味で使用されているので、以下「放射線」という。)に起因し、   現に医療を要する状態にあること、又はA原子爆弾の放射線以外の傷害作用   に起因するが、その者の治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けているた   め現に医療を要する状態にあることである。これが、原子爆弾の放射線の作   用と傷害又は疾病にかかり現に医療を要する状態にあることとの間の因果関   係、又は原子爆弾の放射線の作用とその者の治癒能力が低下したこと及び治   癒能力の低下と現に医療を要する状態にあることとの間の因果関係があるこ   とを意味することは、当事者聞に争いがなく、かつ原判決もこれを認めると   ころである。    原判決は、右因果関係(以下「放射線起因性」という。)につき、「原子   爆弾による被害の甚大性、原爆後障害症の特殊性、旧原爆医療法の目的、性   格等を考慮し、認定の要件の証明の程度についてほ、起因性の点についてい   えば、同法七条一項本文の放射能と現疾病との間の困果関係につき、また、   同法七条一項ただし書きの放射能と治癒能力との間の困果関係につき、それ   ぞれ物理的、医学的観点から高度の蓋然性の程度にまで証明されなくても、   被爆者の被爆時の状況、その後の病歴、現症状等を参酌し、現傷病が原子爆   弾の傷害作用に起困する旨の相当程度の蓋然性の証明があれば足りると解す   べきである。」(原判決四七、四八ページ)と判示した。  2 民事訴訟法と証明の程度  (一) 行政訴訟における実体法上の要件に該当する事実の証明の程度について    は、行政事件訴訟法には定めがないから、同法七条により民事訴訟の例に    よることになる。民事訴訟においてほ、民事訴訟法一八八条、二四七条の    対比から明らかなとおり、「証明」と「疎明」とが区別されており、「疎    明」が、裁判官が事実の存否について一応確からしいとの心証を抱かせる    ことで足りるのに対し、「証明」とは、裁判官が事実の存否について確信    を得た状態をいう。通説は、「証明」について、合理的な疑いをいれるこ    とができないほど高度の蓋然性があるものでなければならないが、自然科    学者の用いる実験に基づくいわゆる論理的証明(反証をいれる余地のない    証明)ではなく、歴史的証明であり、通常人なら誰でも疑いを差し挟まな    い程度に真実らしいとの確信で足りるとしている(菊井維大=村松俊夫・    全訂民事訴訟法三六〇ページ、兼子一ほか・条解民事訴訟法五〇七ペー    ジ(竹下守夫)、同九二六ページ(松浦馨))。     判例も、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科    学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が    特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明すること    であり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実牲の確信を持    ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。」    (最高裁昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一四一    七ページ)としているが、これは、右の民事訴訟における「証明」に関す    る通説的見解を因果関係の証明についてそのまま適用したものである。右    判決後言い渡された予防接種国家賠償請求事件に関する最高裁判所昭和五    一年九月三〇日第一小法廷判決(民集三〇巻八号八一六ページ)、同平成    三年四月一九日第二小法廷判決(民集四五巻四号三六七ページ)も、高度    の蓋然性の程度までの立証が必要であるとの前提を採っていると解される    (富越和厚・最高裁判所判例解説民事篇平成三年度一九〇ページ)。これ    に反し、高度の蓋然性が必要であるとの原則に例外を認める最高裁判所の    判例は存在しない。     したがって、行政訴訟においても、実体法上の要件に該当する事実の証    明の程度については、民事訴訟と同様に「高度の蓋然性」が必要であるが、    それは、民事訴訟の「証明」の概念の解釈によっているのである。  (二) 原判決は、「確かに、因果関係については高度の蓋然性が肯定される程    度の証明を要することは、行政事件訴訟法七条が準用する民事訴訟法の原    則ではあるが、解釈によって証明の程度を軽減することは同法の下でも許    されるのである」(原判決五二ページ)と判示する。     しかし、民事訴訟における事実の証明の程度は、実体法の定めるすべて    の要件に共通するものであるから、特定の要件に該当する事実のみについ    て実体法の解釈として証明の程度を軽減することは、「証明」と「疎明」    とを区別している民事訴訟法の下では許されない。また、原判決のいう、    「相当程度の蓋然性の証明」の意義は漠然としており、原判決の論理を採    用すると、証明度の下限に歯止めが利かなくなり、認定がずさんになると    ともに、法的安定性を欠くおそれがある。さらに、原判決の判示するとこ    ろは、ある程度の立証が可能であることを条件として証明責任を転換する    ことにほかならないが、事実の証明の程度を問題とする局面において証明    責任の転換を持ち込むことは、筋違いである。     したがって、民事訴訟法の下でも旧原爆医療法七条一項の要件の証明の    程度を軽減することが許されるとする原判決の判示が誤りであることは明    らかである。  3 旧原爆二法の各給付の要件とその証明の程度  (一) 原判決は、「前示原子爆弾による被害の甚大性、原爆後障害症の特殊性、    旧原爆医療法の目的、性格等を考慮し、証明の程度を軽減することには十    分な理由があるというべきである。」(原判決五二ページ)とし、また    「旧原爆医療法八条一項による認定要件は高度の蓋然性の程度に証明され    なければならないとすれば、医療特別手当、特別手当については、旧原爆    特別措置法による他の給付に比較して必要以上に不均衡で困難な証明を要    求することに帰し、被爆者であって前示『健康上の特別な状態』にあるも    のの救済を図ることを目的とする旧原爆医療法、旧原爆特別措置法の趣旨    に悖ることになるというべきであ」る(原判決五四ないし五五ページ)と    判示する。     しかし、右判決は、訴訟上の証明の程度を、実体法の解釈により軽減で    きるとする点で誤っている。前記のとおり、訴訟上の証明の程度は、実体    法の解釈問題ではなく、行政事件訴訟法七条が準用する民事訴訟法の解釈    問題である。そして、立法者が実質的に証明の程度を変えようとする場合    は、立法に当たり実体法上の要件の内容を変えることによってこれをなし    得るし、またそれ以外の方法によっては、証明の程度の変更をなし得ない    のである。     以下、旧原爆二法の各給付の要件の趣旨を検討して、その要件の証明の    程度との関係を検討する。  (二) 第二次世界大戦により日本国民が甚大な被害を被ったことは、公知の事    実である。しかし、戦時という国の存亡にかかわる非常事態においては、    国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍    ぶことを余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも、戦    争犠牲又は戦争損害として、国民が等しく受忍しなければならない性質の    ものである。したがって、これらに対する国による補償等の措置の要否は、    国の立法政策にゆだねられており、具体的な法律の根拠があって初めて戦    争損害に対する補償等が認められるべきものである(日本国との平和条約    による在外資産の喪失に関する補償請求についての最高裁昭和四三年一一    月二七日大法廷判決・民集二二巻一二号二八〇八ページ、一般民間人被災    者を対象として戦傷病者戦没者遺族等援護法と同等の立法をしなかった立    法不作為の国賠請求に関する最高裁昭和六二年六月二六日第二小法廷判決    ・裁判集民事一五一号一四七ページ、台湾人元日本兵等による補償請求等    に関する最高裁平成四年四月二八日第三小法廷判決・判例時報一四二二号    九一ページ、シベリア抑留者の補償請求等に関する最高裁平成九年三月一    三日第一小法廷判決・民集五一巻三号一二三三ページ)。現在、旧軍人、    軍属など国と特別の関係にあった一定範囲の者に対して給付を行う法律と    して、戦傷病者戦没者遺族等援護法などが存在し、恩給法も、旧軍人の公    務上の傷病に対して一定の給付を定めていることなどから、戦争による被    害が給付の対象になる場合もあるが、空襲による被害一般につき補償等を    認めている法律は存在しない。  (三) 原子爆弾による健康への被害に関しては、旧原爆医療法が、昭和三二年    に制定された。その目的は、被爆後十余年を経過しても、被爆者がなお健    康上特別の状態にあることにかんがみ、被爆者に対して適切な健康診断及    び指導を行うとともに、不幸にして原子爆弾の傷害作用により発病した被    爆者に対して国において医療を行い、その健康の保持向上を図るところに    ある。     さらに、特別の状態にある被爆者に対する施策として、旧原爆特別措置    法が昭和四三年に制定された。その立法趣旨ほ、原子爆弾の傷害作用の影    響を受けた者の中には、身体的、精神的、経済的あるいは社会的に生活能    力が劣っている者や、現に疾病にり患しているため、他の一般国民に見ら    れない特別の支出を余儀なくされている者等の特別な状態にある被爆者が    数多く見られ、その特別の需要を満たし、生活の安定を図るためには、旧    原爆医療法による医療の給付等のみでは十分ではないと判断されたことに    ある。     このように、旧原爆医療法や旧原爆特別措置法は、原子爆弾による特殊    な健康被害の存在を前提として医療の給付等を認めているのであり、原子    爆弾による被害一般について、一般の空襲による被害と同様のものも含め    て給付の対象とする趣旨ではないことに留意する必要がある。このことは、    現行法においても変更はなく、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律    (平成六年法律第一一七号)の前文にも、「原子爆弾の投下の結果として    生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害で    あることにかんがみ……この法律を制定する」とされているところである。  (四) そして、旧原爆二法は、このような立法趣旨を前提として、放射線によ    る健康被害に関し多様な給付をするため、医療の給付、各種手当の支給等    について、放射線の影響の可能性、蓋然性の程度に従って、次のとおり、    その実体法上の要件の規定の仕方について差異を設けているのであって、    各実体法上の要件に該当する事実の訴訟上の証明の程度は、いずれも裁判    官が確信を得ること、すなわち高度の蓋然性が必要であることを当然の前    提としているのである。    @ 被爆当時、一定の区域にあったことを要件とするものがある。特定の     区域内にあった者であることなど(旧原爆医療法二条)を要件とするも     のとしては、被爆者健康手帳の交付(同法三条)、健療診断(同法四条)、     指導(同法六条)、一般疾病医療費の支給(同法一四条の二)がある。     次に、被爆者のうち、原子爆弾が投下された際爆心地から二キロメート     ル以内の区域内にあったことを要件とするものとしては、「保健手当」     の支給(旧原爆特別措置法五条の二)がある。これは、爆心地から一定     の距離にあった者は、被爆後相当期間経過後であっても、放射線に起因     して健康被害が生じる可能性があるため、放射線に起因する疾病等であ     ることの証明を求めず、一定の地域にあったことのみで健康診断等の給     付を受け得るようにしたものである。    A 被爆者であることのほか、一定の障害、疾病にり患したり、死亡した     場合を要件とした上で、原子爆弾の放射線又は傷害作用の影響によるも     のでないことが明らかであるものを除くとするものがある。これに該当     するものとして、造血機能障書等の疾病にり患している者に対する「健     康管理手当」(旧原爆特別措置法五条)、精神上又は身体上の障害によ     り介護を要する状態にある者に対する「介護手当」(同法八条)、被爆     者死亡の場合の「葬祭料」(同法九条の二)の各支給がある。      これらは、前記の旧原爆特別措置法の立法趣旨を前提として、原子爆     弾の放射線の影響を疑わしめる障害を伴う特定の疾病に対する特別の出     費の援助のため(健康管理手当)、原子爆弾との関連性が疑われる事由     により要介護状態にある者の特別の出費の援助のため(介護手当)、死     に対する被爆者の抱く特別の精神的不安の緩和のため(葬祭料)、被爆     者の福祉を目的として支給されるものであるから、放射線起因性の要件     を緩和し、原子爆弾の放射線又は傷害作用の影響によるものでないこと     が明らかである場合を除き、これを支給することとしたものである。    B 原子爆弾の傷害作用に起因すること、あるいは放射線の影響によるこ     とを要件とするものがある。旧原爆医療法七条一項の要件に該当すると     認定されることを要件とするものとして、「医療の給付」(同法七条)     並びに「医療費」(同法一四条)、「医療特別手当」(旧原爆特別措置     法二条)及び「特別手当」(同法三条)の各支給があり、原子爆弾の放     射線の影響によることを要件とするものとして、「原子爆弾小頭症手当」     の支給(同法四条の二)がある。     このように、旧原爆二法は、@については、一定区域内の居住等の事実    があることを、Aについては、障害、疾病にり患したことや死亡したこと    のほか、原子爆弾の放射線又は傷害作用の影響によるものでないことが明    らかである場合でないことを、Bについては、原子爆弾の傷害作用や放射    線と障害・疾病との間に因果関係のあることを実体法上の要件とする、と    いう立法技術を採用しているのである。  (五) ところで、原判決は、右Aの旧原爆特別措置法五条、八条、九条の二に    ついて、「因果関係につき相当程度の蓋然性の証明を肯定するに至らなく    ても、さりとて因果関係を否定するに至らないものについても広く救済の    対象としたものというべきである。したがって、これらの規定が存在する    からといって、旧原爆医療法八条一項による認定要件の証明の程度を前示    のように軽減することの妨げになることはないというべきである。このよ    うに解することによって、旧原爆医療法八条一項による認定を受けること    を要件とすることにより、健康管理手当、介護手当、葬祭料の各給付より    も手厚い救済の内容となっている医療特別手当(略)、特別手当(略)に    あっては、因果関係について相当程度の蓋然性が肯定されなければならな    いのであるから、そこに給付内容に応じ因果関係の証明の程度に相応の差    異を設けることによって、被爆者の救済の実をはかろうとする法の趣旨を    読みとることができる。」(原判決、五三ないし五四ページ)と判示する。     しかし、被爆者の救済を図ろうとする旧原爆二法の立法趣旨は、前記の    Bの類型のみに及ぶのではなく、@、Aの類型すべてに及ぶのであるから、    原判決の判示に従えば、@、Aの類型についても、その証明の程度は相当    程度の蓋然性で足りるとしなければならないが、原判決がわざわざ因果関    係の要件についてのみ、証明の程度が相当程度の蓋然性で足りることに触    れていることからすれば、そのようなことを想定していないようである。    しかし、@、Aの要件については、実体法上の要件として緩和しているか    ら、その訴訟上の証明の程度については高度の蓋然性を要求し、Bについ    ては実体法上の要件が厳格であるから、その訴訟上の証明の程度について    相当程度の蓋然性で足りるとすることは、実体法と手続法の違いを混同す    るものであって全く根拠がなく、かつし意的な解釈との批判を免れない。     しかも、原判決のような解釈を採れば、放射線起因性の存否が明らかで    ない者までを、旧原爆医療法八条一項の認定の対象とすることになりかね    ないが、そのような結果は、要件の規定の仕方を変えて、実質的に放射線    の影響の可能性、蓋然性の程度に差異があることを考慮して、それぞれの    程度に応じた給付を行おうとした法の構造に反することとなる。さらに、    そのことは、放射線起因性を要件とする旧原爆医療法八条一項について、    一般の空襲被害と共通するような被害についても給付の対象とする結果と    なる可能性があり、戦争被害に対し、国と特別な関係にあった一定範囲の    者や原爆の放射線による健康への影響がある者に限り、一定の給付を行う    という現行法体系と整合しない。したがって、原判決の法令解釈は、実定    法の解釈論の域を超えるというほかはない。 二 原判決の法令適用の誤り  1 はじめに    旧原爆医療法七条一項の放射線起因性の証明責任ほ、被上告人にあり、原   判決も「旧原爆医療法及び旧原爆特別措置法は、認定被爆者に対し一般被爆   者より厚い救済を与えているのであるから、認定処分は、国民がこれを受け   ることによって自己の権利、利益の拡張を得られるものであること及び旧原   爆医療法八条一項の条文の規定の仕方に照らし、認定の前示要件を具備して   いることの証明があった場合に初めて認定がなされると解するのが相当であ   る。」(原判決四七ページ)と判示しているから、このことを当然認めてい   るものと解される。したがって、本件においては、被上告人は、前記の放射   線起因性について証拠によって高度の蓋然性の程度まで証明する責任があり、   これに対して上告人のなすべき立証活動の程度は、右高度の蓋然性の程度の   心証を動揺させる反証の程度で足りる。    ところで、本件における事実的因果関係の証明は、その内容がそもそも科   学的・医学的知見によらなければ証明することができない事柄である以上、   科学的・医学的知見を離れて、素人的、あるいは被害者を保護すべきである   といった価値判断をいれたものであってはならず、科学的・医学的知見を総   合して、通常人が疑いを差し挟まない程度に、真実牲の確信をもち得るもの   であることを必要とする。原判決も、放射線起因性の有無の判断においては、   「原子物理学、放射線学、疫学、医学の高度の専門的知見が経験則として重   要な地位を占めることは明らかであるから、これらの因果関係の有無は、こ   れまでに確立された科学的・医学的知見を十分に取り入れ、各知見の提供す   る経験則の確実さを十分検討した上で判断すべきである。」(原判決六、七   ページ)と判示している。    そこで、以下においては、放射線起因性について高度の蓋然性の程度まで   証明する必要があることを前提とした場合、現在判明している科学的・医学   的知見を基礎とすると、原判決の認定した事実関係では、放射線起因性を肯   定することができないことを詳論する。  2 原判決の認定した事実と適用した経験則    原判決の認定によれば、被上告人は、爆心地から約二・四五キロメートル   離れた自宅において、原子爆弾の爆風により飛来した屋根瓦によって左頭頂   部を直撃されて左頭頂部頭蓋骨陥没骨折、一部欠損の重篤な外傷を負い、そ   の後傷口がふさがらず、膿や分泌物が流れ続け、一応の治癒をみたのは被爆   後二年半を経てからであり、現在、右片麻痺(脳委縮)、頭部外傷で、脳孔   症と診断され、右半身不全麻痺、右肘関節屈曲拘縮等の障害がある。    このような事例において、放射線起因性を肯定するために最も有用な経験   則は、被爆者の受けた放射線量と被爆者の受けた傷害、疾病又は治癒遷延の   閾値の理論である。これらが判明し、被爆者の受けた放射線量が閾値を超え   ていれば、放射線起因牲を肯定することができる。この点について、原判決   は、DS八六が内包する問題点、被爆者実態調査結果に見る急性症状の実情、   昭和三三年に厚生省公衆衛生局長が発した「原子爆弾後障害症治療指針につ   いて」及び「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実   施要領について」と題する二通の行政通知(以下「昭和三三年行政通知」と   いう。)の内容を考慮すると、「具体的、個別的被爆者の呈する個々の傷害   又は疾病ないし治癒能力と放射線の影響の有無を検討するにあたって、その   絶対的尺度としてDS八六自体をそのまま適用することを躊躇させる要因が   存在」(原判決一二〇、一二一ページ)するとして、その結果、個々の被爆   者の受けた放射線量を的確に把握することが困難であるとした。    その上で、原判決は、昭和三三年行政通知が「原子爆弾被爆者に関しては、   いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え、被爆時の諸状況、   特に、被爆距離、被爆場所の状況、被爆後の行動等あるいは被爆直後の急性   症状の有無等の健康状態等から、個々の被爆者の被爆線量及びこれによる原   子爆弾後障害症の発現の有無等を推定する等して、放射線の影響の有無を総   合的に判断する必要があるとしている点は、現時点においても、」放射線起   因性の有無を検討するに当たっての「正鵠を得た判断墓準として十分に参酌   されなければならないと認められる」(原判決一二一、一二二ページ)とし   て、原子爆弾被爆者に関しては、いかなる疾患又は症候についても一応被爆   との関係を考え、放射線の影響の有無を総合的に判断する必要があるとした。    そして、被上告人について検討し、放射線起因性を推認できる積極的事実   として、次の事実を挙げている。   @ 被上告人の頭部外傷が広範な脳孔症をもたらしたのは頭部外傷の合併症    というだけでは説明できないまれな状態であるから、屋根瓦による打撃以    外の要因も加味していることを強く推認させること。   A 放射線の影響は幼若なほど感受性が高い上、被上告人は、原子爆弾投下    八日後に爆心地の直近を通過して疎開しているから、残留放射能による被    曝(放射線によるものを以下「被曝」という。)、放射性物質の体内摂取    による体内被曝の影響も無視し得ないこと。   B 頭皮、頭蓋骨、硬膜等が破壊され、脳実質も一部破損した状況での脳細    胞、神経細胞への放射能による影響の有無を神経細胞への閾値で計り得る    かは疑問が残ること。   C 治療期間中に被上告人の頭部の傷口から屋根瓦の破片が摘出されており、    その屋根瓦自体も放射能に汚染されていた可能性が否定できないこと。   D 現実の被爆者は、劣悪な生活環境と栄養状態にあったのであり、このよ    うな状況下での放射線被曝の影響は、近時の医療現場や原子力産業現場に    おける被曝とはおのずから異なるものがあるものと推認されること。   E 被上告人に現実に生じた下痢や脱毛の事実は放射線との関連性を推認さ    せること。   F 原爆症死亡者等の剖検例によると、放射線の影響として脳膜あるいは脳    実質内に浮腫あるいは出血、損傷等が認められ、また脳幹の神経細胞の変    成、脳全域あるいは脳皮質の細胞レベルの傷害が指摘されていること、原    子爆弾による外傷患者で原爆症を併発した場合は治癒が遷延し、肉芽は回    復能力が劣ることがあること。   G 被上告人の症状の経過は、約二・九キロメートルの遠距離で被爆し原爆    症の認定を受けた渡辺千恵子と類似の経過をたどっており、このような症    状の経過、治療の遷延は医療物質の欠乏による治療の下十分、不適切さだ    けでは十分に説明できないこと。    原判決は、右各事実を指摘した上で、被上告人の「脳孔症、右片麻痺等の   現症状は、放射線の影響と関わりなく専ら屋根瓦の直撃という物理的要因に   より生じた事態であると解するのは相当ではなく、屋根瓦の直撃、放射線の   直接的影響、放射線の影響による生体の防御機構としての免疫能の低下、そ   れによる治癒能力の低下等の要因が複合的、相乗的に機能して生じた、少な   くとも放射線の影響により治癒能力が低下したために治癒が遷延しその結果   現在の状態に至ったものと相当程度の蓋然性をもって推認することができる   というべきであるから、旧原爆医療法七条一項前段・後段の一括適用により   あるいは同項後段の適用により起因性の要件を満たすことが認められる。」   (原判決二一八ページ)と判示した。  3 原判決が放射線起因性肯定の基礎とした事実及び経験則の問題点  (一) 原判決が基礎とした経験則のうち、昭和三三年行政通知の一般論は、そ    れがあらゆる事情を考慮して総合判断により因果関係を判断するという限    りでは、それ自体特に否定されるべきものではない。しかし、昭和三三年    行政通知の内容は抽象的であるため、これが特定の地点で被爆した者の放    射線起因牲の有無を判断するに足りる科学的・医学的知見たり得ないこと    は、その内容自体からも明らかである。しかも、原判決の認定によれば、    昭和三三年当時は、原子爆弾により人体が被曝した放射線量の評価として    は暫定線量であるT五七Dが発表された直後にすきず、被爆者の健康調査    としても、昭和二〇年に実施された日米合同調査団や東京帝国大学による    被爆者の実態調査結果しかなく、被爆者の健康と被曝線量との関係につい    ての研究が進んでいなかった。昭和三三年行政通知は、このような原子爆    弾や放射線一般による健康への影響について未解明の部分が多かった段階    に発出されたものである。さらに、その後、長期にわたる広範な疫学研究    や放射線による治療のデータ等が積み重なり、閾値の理論は極めて進化し、    また、被曝線量の評価も、T六五D、DS八六まで進化しているのである。     そして、本訴の争点は、科学的知見が大部分未解明で、経験則としては    前記の被爆直後の実態調査結果しかなかった状況における放射線起因性で    はなく、閾値や被曝放射線量についての研究が進んだ現時点において、爆    心地から二キロメートルを超える地点で、原子爆弾の放射線の健康影響を    認めることができるか否かである。したがって、その点について放射線起    因性を肯定するための経験則として、被爆の距離関係や被曝線量と健康影    響との関係が全く明らかではなかった状況下で発出された昭和三三年行政    通知を持ち出すのでは全く不十分であることは明らかである。  (二) また、個別の@ないしGについてみても、まず、@及びAについては、    被上告人が受傷した広範な脳孔症の治癒遷延は、当時の貧困な医療措置や    劣悪な栄養・生活状態によって十分に説明が可能であるので、そのこと自    体が放射線起因性を基礎づける事実とはなり得ない。特に、Dは、むしろ    被上告人の受傷した広範な脳孔症の治癒遷延の主たる理由となる。原判決    は、被上告人が受けた、現在では到底医療と呼ぶことができない、被爆後    の粗末な初期医療や治療について触れることがなく、また、なぜ「治癒の    遷延は医療物質の欠乏による治癒の不十分、不適切さだけでは十分に説明    できない」(原判決一二七ページ)のかも説明していない。     Aのうち、被上告人が被爆当時幼児であったことについては、閾値は小    児を含めた個体によって感受性に差があることを考慮して決められている    のであり、幼児であることから閾値が大きく低下するものではない。     次に、残留放射能による被曝、放射性物質の体内摂取による体内被曝の    影響について、原判決は、DS八六に反するいくつかの報告ないし研究を    挙げるが、本件においては、被上告人は、被爆の一週間後に爆心地付近を    列車で通過したにすきず、その居住した地域を考慮しても、DS八六が推    定する値からはるかに低い程度の放射線の被曝があったにすきないと推認    される。そして、DS八六を疑問視する文献からは、具体的にどの程度の    放射線の被曝があったかについて具体的数値を概算でも示すことができな    いのであるから、被上告人に対するこれらの影響を肯定できるだけの経験    則はいまだ示されていないというほかはない。     Bの脳細胞、神経細胞への放射能による影響については、閾値の問題で    あるが、原判決の示した問題点については、閾値の理論の中で十分考慮さ    れているのであるから、影響がある可能性の存在すら疑問といわざるを得    ず、到底放射線起因性を肯定する事由とはなり得ない。     Cの屋根瓦の放射線の汚染についてほ、原判決はそのような事実を認定    しているわけではなく、その可能性があると推測しているにすぎないので    あり、かつその推測の根拠も明確ではない。また、被上告人の頭部に衝突    した屋根瓦の破片の放射線に汚染された可能性については、結局被上告人    居住地における放射線の線量評価の問題とほとんど同様であるから、放射    線起因性を肯定する場合特に意味のあるものとは考えられない。     Eの下痢や脱毛があったことについては、これらの症状は、それが存在    しただけでは放射線起因性を推認できる事実ということはできず、少なく    ともその症状の経過等が放射線による急性症状としての医学的知見に合致    する必要がある。原判決は、上告人がこれらの点を指摘していたにもかか    わらず、その点についての検討を怠っている。よって、Eの事実は放射線    起因性を肯定する根拠としては不十分といわざるを得ない。     Fで挙げられた剖検例については、その具体的な被爆地点が明らかにさ    れていない以上、被上告人の放射線起因性を推認することは困難である。     Gの渡辺千恵子の事例については、同人は、前記の昭和三三年行政通知    が出された直後の昭和三四年六月に認定されたものであり、昭和三三年行    政通知について述べたとおり、認定当時は、原子爆弾の放射線の人体の被    曝線量及び放射線の人体に対する影響についての研究は未解明の部分が多    かったから、そのような時期に認定された事例をもって被上告人について    の放射線起因性を肯定する根拠として十分でないことは明らかである。  (三) 以上によれば、原判決の基礎とした経験則は、科学的・医学的知見と呼    べるものではなく、原判決挙示の事案関係も放射線起因性を推認するには    あまりにも根拠が薄弱であり、放射線起因性の証明の程度としては著しく    低いものというほかない。結局のところ、原判決は、放射線起因性の証明    の程度がおよそ高度の蓋然性の程度に達していないため、放射線起因性の    証明の程度を「相当程度の蓋然性で足りる」と解し、実質的には証明の程    度を著しく低くすることにより放射線起因性を肯定したものである。した    がって、訴訟上の証明の程度に関し、高度の蓋然性が必要であれば、原判    決挙示の事実関係によっては放射線起因性を肯定することができないこと    は明らかである。  4 閾値とDS八六に基づく被曝放射線量の評価    以上によれば、原判決の証明の程度に関する法令の解釈適用の誤りは、判   決に影響を及ぼすことが明らかである。しかし、本件では、放射線被曝の人   体に対する影響についての閾値の理論とDS八六に基づく被曝放射線量の評   価が経験則として本件に適用できるか否かが主たる争点として争われ、原判   決はこれを実質的に否定しているので、念のため、この点についても触れて   おく。  (一) 閾値について     原判決の認定によれば、放射線被曝の人体に及ぼす影響には、確率的影    響と確定的影響(非確率的影響)とがあり、癌の誘発や遺伝的影響といっ    た確率的影響以外の確定的影響の範ちゅうでは、一定線量以上の放射線を    浴びないと影響が起こらない閾値がある。現在の科学的・医学的知見に基    づき確立した閾値とされている値は、白血球減少は五〇ラド、吐気は一〇    〇ラド、脱毛は三〇〇ないし五〇〇ラド、脳神経の傷害は一〇〇〇ラド、    リンパ球の障害による免疫能の低下については、影響が検出されないとい    う意味での閾値は一〇ラドより少し上程度とされている。原判決は、近年、    一般集団における個人間の放射線感受性についても、細胞致死量に外掃す    れば一〇倍もの違いがあるという指摘もあるとしているが、本件全証拠に    よっても、そのような個人の感受性の大きな違いから閾値の数値自体に異    論を呈するものは見当たらない。  (二) 原子爆弾により人体が被曝した放射線量の評価     原判決は、DS八六は、純粋の学問的見地から放射線影響研究の基礎と    したり、被爆者を大量的、概括的に被爆者群として把握して問題を検討す    る場合には有力な専門的知見、経験則としてこれを用いることにさして問    題はないと考えられているように受け止められているとしている。そして、    DS八六によれば、被上告人が被爆した地点は爆心地から約二・四五キロ    メートルであるから、この地点の空中線量は三ないし二・一ラドであり、    その地点における人体の被曝線量は当然これより低くなる。残留放射線に    よる被曝線量は評価するに足りず、不確定性の推定は、空中線量で二二パ    ーセント、臓器線量で二五ないし三五パーセントである。そうすると、放    射線の人体影響の閾値及びDS八六に基づく放射線量を総合すれば、被上    告人に対する放射線の影響は考えられず、前記のとおり本件における被上    告人の現症状の放射線起因性を積極的に肯定するだけの事実が乏しいこと    からしても、右閾値と被曝線量の評価の値は、被上告人の放射線起因牲の    立証に対して、十分すぎるほどの反証となることは明らかである。  (三) 本件訴訟におけるDS八六の経験則としての位置付けの検討について    (1) 原判決におけるDS八六の位置付けの問題点      原判決は、被爆の状況を客観的証拠によって必ずしも明らかにするこ     とができない具体的、個別的な被爆者に対する放射線の影響を検討する     場合に、DS八六を「絶対的尺度」として用いることが許されるかとい     うことが問われているとして、DS八六が内包する問題点、被爆者実態     調査結果にみる急性症状の実情、昭和三三年行政通知を根拠として、具     体的、個別的被爆者の呈する個々の傷害又は疾病ないし治癒能力と放射     線の影響の有無を検討するに当たって、その「絶対的尺度」としてDS     八六自体をそのまま適用することを「躊躇させる要因」が存在するから、     その結果個々の被爆者の受けた放射線量を的確に把握することが困難で     あるとの結論を導いている(原判決八五ないし一二一ページ)。      しかし、第一に、DS八六は、種々の問題点があるとしても、原判決     が挙げる前記@ないしGの事由に比べれば、比較するまでもなく科学的     で、その内容についても十分検証され、かつその限界についても十分議     論がされているのである。この点については、原判決も、DS八六は、     純粋の学問的見地から放射線影響研究の基礎としたり、被爆者を大量的、     概括的に被爆者群として把握して問題を検討する場合には有力な専門的     知見、経験則としてこれを用いることにさして問題はないと考えられて     いるように受け止められていると認定しているところである。それだけ     の評価を受けた科学的知見が、個別的、具体的被爆者の呈する個々の傷     害又は疾病ないし治癒能力と放射線の影響の有無を検討する際には、全     く無視され、それよりはるかに信頼性が低く、いまだ科学的知見とはい     えない程度の事由によって、放射線起因牲を肯定することは、経験則の     し意的な取捨選択であって、自由心証の範囲を超えたものといわざるを     得ず、原判決の論理は既にその点で破たんしている。      第二に、DS八六による被曝線量評価や放射線による人体影響の閾値     の理論は、放射線起因性の証明においては、反証として位置づけられる     ものである。したがって、ここでは、このような科学的知見の存在が放     射線起困性の存在に関する高度の蓋然性の程度の証明に対して合理的な     疑いを容れる要因となるかどうかが問われているのであって、DS八六     が絶対的尺度として信頼性があるか否かが直接問題となるものではない。    (2) DS八六の内包する問題点について      DS八六の問題点として、原判決が指摘しているのは、@DS八六自     体にもいくつかの問題点が内包されていて、その評価をめぐって研究者     間に論争があり、被曝計算式の修正が検討されている状況であること、     A殊にコバルト六〇の分析による中性子線量の測定値と比較すると、D     S八六の計算値は遠距離になるに従って測定値を下回り、一・一八キロ     メートル地点では四分の一になるという系統的食い違いが生じ、この不     一致の原因は説明されておらず、未解決のままに残されており、また、     岩石中のユーロピウム二五二の測定値と比較すると、DS八六の計算値     は誤差がひどく大きく、一キロメートルの地上距離における計算結果の     妥当性を確認するには不確かさが大きく、測定機関の間でも誤差が認め     られていることである。      しかし、科学的知見は、科学の進歩によって時代と共に更新されてい     くのが通常であるから、右のような事由を理由に科学的経験則を用いる     ことを拒否していれば、多くの科学的知見は裁判における適用を拒否さ     れてしまうことになる。問題は、DS八六の評価線量の信頼性とその限     界なのであって、これまでの線量評価システムが常に見直されてきた歴     史があるか否かは、直接その信頼性に関連するものではない。      また、原判決が、DS八六の評価をめぐって研究者間で論争があると     して念頭に置いているのは、主としてガンマ線量及び中性子線量の評価     であると考えられる。しかし、長崎においては遠距離におけるガンマ線     の実測値はDS八六による計算値より低い傾向を示しており、最近の長     崎におけるガンマ線の実測値はDS八六の計算値に合致しているのであ     って、少なくとも長崎においてはガンマ線に関する原判決の指摘は根拠     がない。また、中性子線についてみると、原判決が認定するとおり、被     上告人の被爆地点における空中線量は、三ないし二・一ラドであり、そ     の内訳を細かく記載すると、ガンマ線が二・九六ないし二・〇九ラド、     中性子線が〇・〇〇三ないし〇・〇〇二ラドである。したがって、全線     量に占める中性子線の割合は極めて低く、原子爆弾放射線カーマへの中     性子線の寄与は、ガンマ縁に比して極めて小さいものであり、かつ測定     値と計算値の不一致が問題となっている熱中性子線カーマの中性子線カ     ーマ全体への寄与は数パーセント程度にすぎないから、このような実測     値と計算値との差異の原因を学問的に追求する必要があるとしても、被     曝線量評価の上で考慮しなければならない問題をはらむものではない。     したがって、原判決が指摘する問題点は、本件に関する限り、DS八六     の有用性、信頼性を揺るがすことにはならず、DS八六を始めとする科     学的経験則を無視する根拠とはならない。    (3) 放射性降下物及び誘導放射能について      原判決は、DS八六に反するいくつかの報告ないし研究を挙げるが、     DS八六との優劣について触れるところはない。しかし、放射性降下物     及び誘導放射能について、DS八六の内容を批判する報告等は種々の問     題を含んでおり、そのまま無批判に受け入れられるものではなく、その     ことによってDS八六の有用性、信頼性を揺るがすことにならない点は、     (2)と同様である。    (4) 各種被爆者調査の結果とDS八六及び昭和三三年行政通知について      各種の被爆者調査については、原判決が引用するとおり、疫学的観点     からみた場合、調査対象の偏りや急性症状が発症したとされる交絡因子     に関する分析が不十分なため、これらの数値によって爆心地から二キロ     メートルを超える場合でも、放射線による急性症状が発症していると結     論づけることは医学的・科学的見地からは適切ではないのであって、二     キロメートル以遠で発症した脱毛等の急性症状は、栄養障害、肉体的衰     弱、精神的ストレス、熱線による影響が主たる原因であることは、関係     証拠から十分認定できるところである。原判決も、右各種調査が、厳密     な意味での疫学的観点からは調査方法にある程度の偏りが存在すること     を否定していないところである。      本件におけるDS八六による線量評価の反証としての位置付けを考え     れば、このような調査結果とDS八六に基づく被曝線量の推定が矛盾す     るものであっても、そのことから直ちにDS八六に基づく被曝線量推定     の反証としての価値を否定できるものではない。      最後に、昭和三三年行政通知については、発出された昭和三三年の時     点と現在とでは放射線の被曝線量や健康影響の科学的医学的知見に大き     な差があるから、昭和三三年行政通知がDS八六の適用を「躊躇させる     要因」になることはあり得ないというべきである。    (5) 以上の検討によれば、原判決が挙示する問題点は、少なくともDS八     六の経験則としての適用を全く否定し、被上告人の被曝線量を的確に把     握することが困難であるとするに足りるものでないことは明らかである。      そして、原判決の認定によれば、DS八六は、その推定被曝線量の誤     差について、十分検討しているのであり、誤差の範囲についても示して     いる。そして、既に述べたように、DS八六に対して指摘されている問     題点で解決されていないのは、中性子線に関するものであるが、前記の     とおり、被上告人の被爆地点における空中線量に占める中性子線の割合     は極めて低く、仮に中性子線量に対する批判が正しく、その点に大幅な     誤差があったとしても、全空中線量を大きく変えるものでないことは明     らかである。そして、DS八六に対する批判は、実際にどの程度の誤差     があるかについて明確に示しているものではないし、また、そもそも全     空中線量に占める中性子線量の割合自体についてもこれを変更するに至     る知見は見当たらないのである。      これらの点は、上告人が詳細に主張立証していたところであるにもか     かわらず、原判決はこれについて何ら検討しておらず、この点も不当で     あるが、何よりもDS八六は一定の誤差を見ることによって十分に経験     則として適用可能なものであり、少なくとも、放射線起因性を認める本     証に対し重要な反証となり得ることは明らかである。      したがって、この点を無視して、DS八六を反証としても重要視しな     かった原判決には経験則の取捨選択の誤りがあり、放射線起因性の証明     について高度の蓋然性が要求される場合には、現在の確立した閾値の理     論及びDS八六による空中線量の推定が反証として十分に働き、放射線     起因性を肯定する余地がなくなることは明らかである。  5 小括    以上の検討によれば、原判決の認定した事実を前提としても、被上告人の   現在の症状についての放射線起因性が高度の蓋然性の程度まで証明されてい   ないことは明らかである。したがって、原判決の証明の程度に関する法令の   解釈適用の誤りは、判決に影響を及ぼすことが明らかである。