意 見 書

松 谷 英 子

 私には幼い時の記憶がありません。
 記憶のはじめは、わらぞうりを履く姿です。母がぞうりを私の足にはめ込み、足のかかとに紐をかけ、花緒に渡して結んでくれました。
 私が六才の頃のことです。
 原爆が落ちる前の私は、ものすごく元気な子で、遊びに行く時は日の丸の旗を持って「勝ってくるぞ」と歌いながら出かけた姿が、母の頭にこびりついているような子どもでした。
 あの8月9日、長崎に落とされた原子爆弾は、当時3才5ヶ月だった私の健康も、子どもとしてのよろこびも、青春も、家族をもつ幸せも、そして幼い頃の記憶も奪い去りました。
 記憶は奪われましたが、私は実感し、確信しています。
 あの日の原爆瓦が、私の人生を苦痛と屈辱の人生に陥しいれたことを。

 母のはなしによると、あの日、私は家の庭で飼っていた3羽の鶏が動きまわるのを縁側から見ていました。

 午前11時2分、原爆が投下され、すさまじい爆風、熱線、そして恐ろしい放射線は長崎の街を破壊し、燃やし、7万人を超える人々を殺しました。
 爆心地から2.45キロメートルの稲佐町一帯も爆風、熱線、そして放射線にものすごい勢いで襲われ、飛んできた瓦が私の後頭部に直撃したのです。頭蓋骨陥没骨折を生じさせ、挙げ旬の果てに私を脳孔症にするほどのものだったのです。
 私の頭を襲ったのは、ただの瓦ではないのです。原子爆弾によって飛ばされた原爆瓦でした。爆風よりも熱線よりも早い速度で放射線は走るそうです。何故、私の頭に当った瓦だけ、放射線を浴びていないと言えるのでしょうか。国、厚生省は私の現在の症状が「単に瓦が頭部にあたったことによる脳孔症の結果による」と主張していますが、私はこの主張を許すことはできません。私の頭に当った瓦は原爆の放射線に汚染された瓦です。その瓦の破片を見つけたのは五島富江のお医者さんです。私は2ヶ月以上も原爆瓦を頭の中に入れたまま、ほとんど寝たきりの状態だったのです。
 原爆直後の私は、人形のように手も足もぶらぶらになり、頭からはおびただしい血を出し、意識をなくしていました。
 母が救護所の先生に私を診せると、傷口をのぞきこんだ先生は「手遅れです」と言ったほど重傷だったのです。
 私は体に放射線を浴びただけではありません。原爆瓦が3才5ヶ月の私の頭に食い込んでいたのです。

 私には6才より前の記憶はありません。けれど放射線が私をこのようにしたのだと確信できるのです。傷口は2年半も塞がらず、その間傷口からは魚の腐ったような臭いの膿が出ていたそうです。

 亡くなった渡辺千恵子さんが臨床尋問の時、47年間傷口が塞がることがなかった左太ももの傷を見せて下さいました。そしてこう証言しました。
「なぜ同じ被爆者で、しかも距離もそう変わらないわけでしょう。しかも方向も一緒でしょう。それも彼女は縦に麻痺してますでしょう。それだけの違い。………
傷が治りにくかったということを、お母さまから私も聞かされていましたし、それですごい悪臭だったというような、母親同士でそういう話をしたのを耳にしたことがございました。なぜ、裁判までかけて認定をとらなければならないいような、………
ほんとに国は冷酷だな、と。」
この証言から4ヶ月後、千恵子さんは亡くなりました。千恵子さんは、私の為に、たくさんの被爆者の為に、いのちがけで傷口を見せて訴えて下さったのです。千恵子さんの勇気と深い愛情に応えなければならないと思っています。

  頭の傷口がやっと塞がり、わらぞうりを履いての歩行の練習がはじまったりが6才の時でした。私は右半身不随になっていました。私の記憶はその頃から確かなものとして残っています。
 歩くのが困難なため、1年遅れて小学校に入学しました。
 お天気の日は姉に連れられ学校に通いました。雨が降ると母におぶさって通いました。5年生ぐらいまでそんなでした。
 足がびっこをひくため、子どもたちから真似されました。ちんばとか、ごっちん、ごっちんごごにじゅうごとかはやされました。くやしくて情けなくて、家に帰ってしょんぼりしていると母が、学校で何かあったやろうと言うのです。私は、お母さん、原爆を受けたばっかりに、なんで私がこんなにいじめられんばならんとねと訴えました。
 母はその度に学校に行き子どもたちに、この子はね、原爆でこんな体の不自由になったとだからいじめないでほしいと話に行ってくれました。
 私かわいさにそういうことをやってくれたのです。
 体操も2年生まではびっこをひきながらみんなと一緒にやっていましたが、3年生からは恥ずかしくて見学していました。みんなと一緒に走れたらといつも思いました。
 授業中に頭が痛くなることもしばしばでした。引き付けを起すこどもありました。手も足も痙攣して震え、意識がなくなるのです。そんな時は、稲佐の竹原先生が来て下さって治療してくれました。引き付けは中学生ぐらいまで起こっていました。職場でも気を失ったことがあります。
 つまづいて転びやすいので膝小僧をすりむいてけがをすることがしょっ中です。母はおふろ屋さんで私の手足をマッサージしてくれました。1年生の頃からマッサージ屋さんに連れて行ってもらいました。

 高校2年の時、珠算検定2級に合格しました。
 私の右手はそろばんの役に立ちません。右手はハンカチをつまむことすらできないのです。伝票めくりもそろばんをはじくのも左手でやるのです。
 人より倍も時間がかかります。
 検定試験に何度も落ちました。何度泣いたかわかりません。その度に母が励ましてくれました。検定2級の能力を生かして、高校卒業後、現在の被災協の仕事をするようになりました。

 私の右手は上に上がりません。せいぜい自分の顔の真ん中位しか上がりません。そして指は変形していて右手だけではハンカチや紙もつかむことはできません。左手で持って右手に持たせることはできても、少し重さのある物は長くは持てません。右手関節にハンドバック程度はかけることができますが、重い物は持つ力がありません。だから、左手で何でも動かしたり持ったりするので、左手はまるで子供のグローブのように大きいです。左足も大きいです。
 例えば、リンゴ等の皮をむくのは、まず4分の1に切って、4分の1のものを効かない右手で支えて胸のあたりに当て左手でむきます。それも半分までです。そこで包丁を置いて、半むきにしたリンゴをひっくり返して、右手で支えて胸に当て残り半分の皮をむくのです。
 手元が狂うととても危険ですが、このやり方しか私にはできません。
 もちろん時間がかかります。
 爪切りがまた大変なんです。右手の爪は爪切りを左手に持って切ることができますが、左手はかみそりを右手に支えさせておいて、左手の指を動かしながら切るので、うまくいかない時は指を切ることもあるのです。
 紐を結んだり解いたりも大変不自由します。
 びん等のフタを開ける時は、びんを右の脇の下にはさみ固定して、左手で開けたりします。
 洗濯物を干すのも右手は使えないので苦労します。
 汁物等を台所から食台に運ぶのも左手で持ち、足が悪いので体が揺れるため、こぼさないように注意しなければなりません。
 魚をさばくなど左手だけではしにくいので、魚屋さんに作ってもらいます。

 私の右足は変形してかかとが下に着きません。親指とその次の指も浮き上がっていて、地面に着くのは残りの3本の指だけで、体の重心が三本とその裏側だけにかかるので、その部分が硬くなり、針で刺すような痛みがずっとあります。
 小学校の頃はマッサージやお灸など治療をしていたので、痛みも少なかったし、既製の靴が履けたのですが、だんだん変形もひどくなり、注文して右足の底に厚みをつけた靴が必要なのです。
 その注文の靴を履いても歩く度に体が揺れて、足の裏の痛みは年々強くなり、歩いていない時でも痛みます。
 靴を履いていない畳の上では体の揺れは一層ひどく、部屋の中で少しのものにつまづいてテーブルに顔をぶち当ててケガをしたこともあります。
 道路でつまづいて、前にバッタリ倒れることもあります。
 とにかく、私の場合右手が使えないので、右の方に倒れたら、まるで丸太が倒れるようになってケガもします。
 平成7年の12月31日のことですが、暮れの買物を済ませて帰る途中、つまづいて転んでしまいました。両手が使えない状態だったので倒れた時、アゴを打ち下の歯がダメになって救急病院に行きました。
 最近は、右足の痛みとともに肩こりもひどく具合が悪くなります。さらに、左手左足もこわばってしびれがひどく、痛みもあります。52年間も左手左足を酷使しているせいでしょう。
 歩くのがつらくて仕方がありません。昨年夏以来、裁判の支援の訴えに出かける時は、移動を車椅子でしてもらうようになりました。
 頭痛はやまることがありません。頭の傷がズキンズキンと痛み、首から上を切って捨てたいと思います。

 この4月のことです。
 長崎の新大工町で裁判の訴えと署名集めをしていた時、目の前が真っ暗になり座り込みました。それでも気分が悪く、路上に横になってしまいました。立とうとしても立てず、幸いにも山下兼彦先生の病院の近くだったので、車椅子で病院に運んでもらい、先生に診てもらい点滴を受けました。

 現在は、2週間に一度山下内科に通院し診察を受け、薬をもらっています。狭心症の薬、降圧剤などです。
 大浦診療所にも2週間に一度の割合で針灸をしてもらっています。本当はもっと回数を多くすれば、肩や足の痛みも軽くなるのですが、仕事があるので通うことができないのです。病院では、骨が変形しているからできるだけ治療に来るように言うのですが、生活がかかっているので行けません。
 急に頭が痛くなると、このままどうかなるのでは、明日は生きているのだろうかと不安になります。

 母がいなくなり1人で暮らすようになってからは、家族がほしいと思うようになりました。
 若い頃、結婚の話もありました。好きな人もいました。
 でも、結婚してもうまくゆくはずがない。手足がこんなだから、放射線が体に入ったんだから子供に遺伝しないか、生まれた子どもが五体満足かという不安がつきまとい、あきらめの気持ちになり、結婚しないと自分に言いきかせてきました。
 一人暮らしは淋しいです。年をとるに従ってその想いは強くなります。
 ある時、夢をみました。ハイヒールをはいてさっそうと歩く自分の姿です。わかって下さい。現実に戻った時のつらさ、くやしさを。
 こんなに心と体に苦痛を与え、私の人生を踏みにじった原爆を、私は憎みます。それ以上に、あの原爆瓦の直撃と放射線、爆風そして熱線に曝された3才5ヶ月の幼児をとらえ、脱毛は栄養が悪かったからだとか、ストレスが原因だなどと主張する国、厚生省を絶対に許すことはできません。
 今、私は55才です。この体であと何年働けるでしょうか。
 私は充分な治療を受けたいのです。生活の不安を取り除き治療を受ける為には、原爆症の認定が必要なのです。

 長崎地裁の判決は、私に生きるよろこびを与えてくれました。母の墓前にうれしい報告をすることができました。裁判所が私の原爆被害の本質を理解され、私のこれからの生涯にとって支えになる判断をされるよう訴えます。

1997年6月27日