判決の日は、法廷の席に座り、待つ間、胸はドキドキ、足はガクガクでした。裁判官が判決の主文を読み上げると、傍聴席から拍手がわき起こりました。私は「勝ったんだ」「嬉しい」、思わず涙があふれました。「たたかってきてよかった」「52年間の苦しみはむくわれた」喜びが胸一杯に拡がりました。
この勝利は私ひとりの勝利ではなく、被爆者全体の勝利、そして核兵器をなくそう、平和を愛する人々の勝利です。
「この判決で裁判を確定して欲しい。厚生省はふたたび上告するな。」と私は直ちに上京し、厚生省へ向かいました。すると、厚生省の前では、東京をはじめ首都圏の被爆者や支援する会の皆さんが、座り込みをしてくれていました。また全国の各地からは厚生省に「上告するな」のファックスやハガキを送っていただきました。
にもかかわらず、またもや厚生省は最高裁判所に上告したのです。
裁判を起こして9年になります。
厚生省は血も涙もないのでしょうか。厚生省は被爆者が亡くなってしまうのを待っているのではないかと言いたくなります。
私たち被爆者にとって、あの日からもう53年が経とうとしているのです。
あの日、私は3歳5ヶ月でした。
原爆は、私の健康も、子どもとしての喜びも、青春も、家族を持つ幸せも奪い去りました。
1945年8月9日、午前11時2分、長崎に投下された原爆は、すさまじい爆風、熱線、そして恐ろしい放射能は長崎の街を破壊し、燃やし、7万人を超える人々を殺しました。
このとき、飛んできた瓦が私の後頭部に直撃し、頭蓋骨陥没骨折の果てに私を脳孔症にしたのです。
頭の傷がふさがるのに、2年半かかりました。
そして、ごらんのように私は右半身不随になってしまいました。足がびっこをひくため、小学校の時には、子どもたちにまねをされたり、ゴッチン、ゴゴ二十五などとはやしたてられたり、いやなことがたくさんありました。
私は高校2年生のとき、珠算検定2級に合格しました。私の右手はハンカチすら、つまむことができないのです。伝票めくりも、そろばんをはじくのも、全部左手でやるのです。人より2倍も3倍も時間がかかります。幾度泣いたかわかりません。その度に母に励まされ、合格することができました。
私の身体は、全体が右に傾いています。そのために右足の裏は、親指と人差指が床から浮いているのです。ですから、残りの3本の指でふんばって歩いています。そこに重力がかかるため、右側部分が堅くなって、歩くたび針で刺すような痛みが走ります。
ここ数年は、坂道やでこぼこ道になると、すぐ転びます。特に右の方へころんば場合は、支えることができないため、怪我をすると大きなものになるのです。
最近では、いいほうの左半身に負担がかかりすぎ、疲れやすく、左手や左半身にしびれがきています。階段の上り下りは特に辛く、遠出をするときは車イスで移動するようにしているため介助が必要なのです。
あの日の被害は、私にとって、ますます辛くなっています。戦争さえ、原爆さえなかったら、こんな身体にならなくてすんだのです。
それでも厚生省は、私のこの身体を原爆症だと認めようとせず、我慢しろと言って、最高裁に上告しました。我慢するということは、再び私たちのような被爆者をつくりだすことになると思います。だから、私はぜひこの裁判に勝ちたいのです。長い裁判になっていますが、最後まで私と一緒にたたかってくださいますようお願いいたします。
そして、支援する会の会員さんが1万名に早く到達するよう、皆さん、ご協力ください。
私の勇気は皆さんからのご支援しかありません。どうぞよろしくお願いいたします。
判決の日は、法廷の席に座り、待つ間、胸はドキドキ、足はガクガクでした。裁判長が判決の主文を読み上げると、傍聴席から一斉に拍手がわき上がりました。私は「勝ったんだ」「嬉しい」と思わず涙があふれました。「たたかってきてよかった」「52年間の苦しみは報われた」喜びが胸いっぱいにひろがりました。
私は1942年3月2日長崎で生まれました。昨日で56才になりました。
幼少の私はとても元気で、魚が大好きで「赤い魚、赤い魚」とよくねだったり、日の丸の小旗を振り振り、「勝ってくるぞと勇ましく」などと言っていたそうです。
あの日、私は3歳5ヶ月でした。爆心地から2.4キロ離れた自宅の庭先で被爆。爆風で飛ばされてきた瓦が私の頭を直撃。大けがでした。そのけがのため、このような右半身不全麻痺という身体障害者になってしまいました。
傷口から魚の腐ったような臭いの膿が出続け、ふさがるのに2年半もかかりました。わらぞうりをはいて歩く練習が始まったのは6才のときです。とても入学には間に合いません。1年遅れで入学しました。
皆さまもご存知のように、長崎は坂の町です。私の学校も坂の上にあり、階段を107段ものぼります。雨の日は母や姉におぶられて通いました。
足がびっこをひくため、子どもたちからまねされたり、はやされたり、悔しくて、情けなくて、いやなことがたくさんありました。小学3年からは体操は見学しました。みんなと一緒に走れたらどんなに楽しかったでしょう。
私は高校2年生のとき、珠算検定2級に合格しました。私の右手はハンカチすら、つまめません。伝票めくりも、そろばんをはじくのも、全部左手でやるのです。人より2倍も3倍も時間がかかり、幾度泣いたかわかりません。その度に母に「英子より不自由な人もいるよ」と母に励まされました。
二十歳を過ぎ、女性として最も華やぐ時代は私にとっては少女時代とは違った辛いときでした。
かかとの高くて細いヒールを履いてさっそうと街を歩きたい。好きな人にセーター編んであげたい。そして結婚したい。
すべてが夢でした。身体の不自由な被爆者が結婚してもうまく行くはずがない。手足がこんなだから、放射線が身体に入っているから、子どもに遺伝しないか、五体満足かと不安がつきまとい、あきらめの気持ちになり、結婚はしないと自分に言い聞かせてきました。そして体の不自由なことで人様に迷惑をかけないようにと生きてきました。
母は私の行く末を案じ、自分の生きているうちに、私が原爆症として認定されることを望み、被爆後32年の1977年と、さらに10年後の1987年の2度にわたり、原爆症の認定申請をしました。厚生省は2度とも却下しました。
私は国のこのやり方がどうしても納得いかず、却下処分の取り消しを求める裁判を起こしました。私の身体を1度も見ることもなくたった3分間の審査で関係なしと言いきる厚生省・国に対し我慢できませんでした。10年前の9月26日です。
裁判を始めて、ますます、この国のやり方はひどいと感じました。第1回の法廷で今後の審理は被告・厚生大臣のいる東京でしたいと代理人が言うのです。私はその頃不自由な体で、寝たきりの母の介護をしていました。その上、上京するお金はなく、東京での裁判などとてもできません。裁判をする権利まで奪うというのです。支援する会の皆さまの運動で、どうにか1年後、長崎で裁判できることになりました。
このたたかいの中で私は大事な人を亡くしました。母や渡辺千恵子さんをはじめとする私を支えてくれたのは被爆者の方です。長崎地裁、福岡高裁の勝利を共に喜んでもらえなかったことがとても残念です。
裁判をたたかうということは私にとってとても勇気のいることです。
子どものころから人と話すことがとても苦手でした。皆さまの前でこうやって話すことなど考えてもいませんでした。
この10年間、私はこのたたかいを知って欲しい、わかってほしいと、時間と身体の許すかぎり全国各地へ出かけていき、多くの方々とお会いしました。そして様々な形でご支援いただきました。特に同性の皆さま方や若い方々とお話しする中で目に見えない大きなエネルギーをいただいていることを強く感じ、勇気をもらっていると思っています。
この裁判を通じ、まさに今、「青春」してます。
再び上告した厚生省は全力を上げて上告審をたたかうでしょう。
私も負けられません。
最後の被爆者として、女性として、核兵器を断じて許さないたたかいを最高裁でも勝利させたいと思います。
みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。