月夜の王国 金と銀の少年
一人になりたい時、何もかも投げ出したくなった時、そして……悲しみに苛まれた時、逃げ込む場所はいつも同じと決まっていた。
王城の西の中庭、整えられた木々の根元をくぐり抜けた先の城壁が僅かに崩れている。遠目にはただのひび割れのように見えるが、左右の石は押しただけでも簡単に外れた。全ての石を除ければ、子供が通れるくらいの穴のできあがりだ。
いつからあるのか判らない、この抜け道を、無用心だと思わないでも無い。しかし、小高い丘の上にある王城の西側が崖になっている事は誰もが知っていたし、実際に忍び込もうとする命知らずな輩もいなかったので、放ったらかしでも構わないと考えていた。
いつものように石を退かし、城壁の外へ出た少年は思い切り頭を振る。伸ばし放題にしていた銀色の髪が風を受け、ばさばさと広がった。
そこは子供が走り回れる程の野原。その先が切り立った崖だと知っているから実際に走った事は無いが、王城の中にこんな広い秘密の場所があるだけで嬉しい。
崖のもっともっと先、王城をぐるりと囲むように敷かれた城下町が見えた。そしてそこから伸びる隣国への街道。重要交易都市ファイゴスの姿だった。
これから先の人生のほとんどを王城で過ごすだろう少年は、街並みを一瞥して鼻を鳴らし、ごろりと芝生に寝そべった。
背中や頬に当たる柔らかい草の感触。髪を揺らす風。間近で楽しげに歌う小鳥たち……。
騒がしい城下や、冷たい静けさを纏った城内とは違う、優しい時間に包まれた少年はそっと瞳を閉じ、苦しそうに顔を歪めた。
「……どこか、痛いの？」
ふいに聞こえた幼い声に、少年はばっと飛び起きた。
余りに勢いよく起き上がったせいで、驚いたらしい声の主がよろけて尻餅をついた。
「お前、誰だ？」
眉を寄せて見れば、年端も行かない子供がきょとんとしている。生白い肌に深い青の瞳、薄い金色の髪を顎の辺りで揃えた子供は、身なりからして、どこぞの貴族の子息だろう。
子供は人懐こい笑顔をこちらに向けた。
「ぼく、ラン。お兄ちゃんは？」
「……」
屈託の無い心からの表情に、一瞬怯む。自分には無い純粋さを直視できずに、顔を反らした。
「お兄ちゃん、お名前無いの？」
重ねて問われ、少年は顔をしかめた。
いつだったか忘れるほど遠い昔、両親から「どんな状況であれ自分から名乗ってはいけない」と教えられたのを思い出す。外の名は自分の身を守るもの、内の名は心を守るものだから、と。
（……馬鹿馬鹿しい）
王城に閉じ込められた身で守るべきものなんて無い。大切なもののほとんどを失った今となっては、自分すら疎ましいのに……。
少年はちらりとランを見ると、両親と自分しか知らない本当の名を口にした。
「……アリウス」
「へぇー！ かっこいいね」
「お前は変な名前だな」
ランだなんて、まるで庶民の女のような名だ。はっきり言うと、ランはムッとして唇を尖らせる。
「いいじゃない。母上が付けて下さったんだから……」
「……」
ぷいっと顔を反らし、急に泣きそうな顔をしたランに違和感を覚えたが、こんな子供の事情を詮索して何になるのかと自嘲した。
これまで立場や容姿のせいで大人以外と接した事の無かったアリウスは、涙を浮かべた子供のあやし方など知らない。内心、困惑しながらも、どうにもできずにまた草の上に寝転んだ。
しばらく気まずい沈黙が続いていたが、やがてランはアリウスの隣に腰掛けた。
なよなよした見た目と歳に似合わず気丈な子供らしい。アリウスが意外な心持ちで視線を向けると、ランは既に涙を引っ込めて、遠くの空を眺めていた。
「……母上はね、神様の元へお帰りになったんだ……」
ぽつりと零れた呟き。
ファイゴスで教えられている神教では、人はすべからく神の御子であり、神の意志によって修行の為に現世へと遣わされ、その使命と人生を終えた後はまた神の元へ帰ると信じられていた。
幼くして母親を亡くしているらしいランに、ほんの少し心が動く。
「ふん……でも、父親は元気なんだろう？」
そうでなければ、こんな子供が王城をうろうろしている訳が無い。確信を持って聞いたアリウスの考えに違わず、ランはパッと表情を輝かせて、にっこり笑った。
「うん！ 今日はね、父上のお仕事を見せて貰うために来たんだよ」
嬉しそうなランに苦笑する。
母を亡くして尚こんなに明るく笑えるのは、ランが父親に愛されているからに違いない。全く無いとは言わないが、親に愛された記憶の薄い自分と比べたアリウスは僅かに胸の痛みを覚えた。
「で、お前はこんなところにいて良いのか？ 父親と離れたらまずいだろう」
「んー……よく判らないんだけど、父上は急に大事なお話ができたからって行ってしまったの。それで、ぼくはしばらくこの辺で遊んでいなさいって」
「……」
（大事な話……）
アリウスは鳩尾が氷のように冷え、重くなるのを感じた。
王城の奥まで入るのは伯爵以上の爵位が必要だ。つまりランの父親も公爵か伯爵家の者ということになる。その上級貴族を緊急招集したという事は、今まで自分だけが知っていた……否、知ってしまった、受け入れ難い真実が皆の知るところとなったに違いない。
ランから見えないように身体を反転させたアリウスは、得体の知れない恐怖を消し去るために、ぎゅっと目を瞑った。
「大事なお話って何だろうねぇ？」
暢気なランの声が後ろから響く。何も知らないのだから当たり前だが、無性に苛立った。
八つ当たりしてしまう前に追い払おうと決めたアリウスが口を開きかけた時、先ほどの涙ぐんだランの顔と、その後の笑顔が脳裏に閃いた。
（……片親とはいえ、こいつも大切な者を亡くしている……こんなに幼いのに）
普段の自分であれば「だから何だ」と一蹴したはずなのに、何故かアリウスは追い払う目的と違う言葉を紡いだ。
「……王様が、ご病気なんだよ」
「えっ、そうなの？ 風邪とか？」
（そうだったら、どんなにいいか……）
ランの子供らしい発想に、アリウスは胸の重さが少し和らいだ気がした。
「さあな。風邪じゃ無さそうだけど……」
「そっか……早く治るといいね」
「……ああ」
思わず飛び出しそうになった本音を、ぐっと飲み込む。元老院が緘口令を敷いているであろう事実を、子供とはいえ他言はできないと自分を戒めた。それはもちろん元老院などの為ではなく、不幸な病に冒された大切な人の為に。
詳しい事はよく知らないが、アリウスの母親は精霊族の血を引いていたらしい。
精霊族というのは、太古の昔、心清らかな人間の娘と精霊との間に生まれたという半人半霊の者の一族を指す。実際のところ、そんな神話のような者たちが本当にいたのかは判らないが、精霊族の末裔と謳われる者たちは銀色の髪に、美しい顔立ち。そして魔術の才に長けている者が多かった。
その母の特徴を色濃く受け継いだアリウスは、先祖返りとも言える素質を秘めていた。物心がついた頃から、空を漂う精霊達と意思を交わせる程の力を。
三月ほど前、原因不明の体調不良を訴えたを国王を気遣い、アリウスは精霊に頼んで子細を調べて貰った。だが、その結果は、知らない方が良かったと後悔する位に絶望的なものだった。
精霊達は実体化する事の方が稀で、身体を持つ人とは違うものを見聞きする。故に彼らの言う事は真実であり、絶対に間違う事は無い。これまでも、これからも……。
「父上、まだかなぁ……」
そっけないアリウスとの会話に飽きたらしいランは、立てた膝に顎を乗せ、足元の草を指で弄ぶ。崖下から吹き上がった風が、まっすぐな金色の髪を揺らした。
「お前は、父親が好きか？」
アリウスから話しかけられるとは思っていなかったのだろう。少し驚いた顔をしたランは次の瞬間、鼻の頭に皺が寄るくらい思い切り破顔した。
「うんっ！」
その笑顔の眩しさに、アリウスは少し目を細める。
物心ついた時から病弱で床に伏せている事が多かった母親を支える為に、早く大人の男になりたいと願っていた。身体の成長は時に任せるしか無いとしても、心強くある事を自分に強いた。子供らしい感情を全て殺し、わざと理知的に振舞う。そうする事で周りの大人は喜んでくれたし、両親もまた、そんな自分を望んでいるのだろうと思っていた。
（……こいつのように、素直な思いをぶつけていれば、もっと違う結果になっただろうか）
今となっては、どちらが良かったのか判らない。アリウスの願いが叶う前に、母は病で亡くなり、まるでその後を追うように父も他界した。残されたのは歳の離れた腹違いの兄と自分。兄は母親が違う事を気にもせずに可愛がってくれたが……その兄もまた、両親の元へ旅立とうとしている。
何故あんなに素晴らしい兄が病気になり、役に立ちそうも無い自分だけが健康でいるのだろう。もし本当に神が存在し、今生が修行だと言うのなら、信心深く真面目で良いやつほど早く死に、不真面目なろくでなしが長生きするという事だ。そんな理不尽があっていい訳が無い。
アリウスは、どこにもぶつけようの無い悔しさから唇を噛んだ。
「ぼくね……お父様の力になりたいの。早く大人になって、騎士になって、お父様を手伝いたいんだ」
沈黙に耐えられなくなったのか、ランが呟く。
どうやらランの父親は騎士であるらしい。上級の爵位を持ちながら騎士勤めをしているとなれば、十中八九、近衛騎士だと思った。ファイゴスの近衛騎士は世襲制だ。ランはそれを知っていて、父親の跡を継ぐと言っているのだろう。
「それでもし、父親がいなくなったら、お前は誰の為に生きるんだ？」
既に母親を亡くしているランに向けるには、余りに酷い質問だと判っていた。しかし、愛しいものの全てを失いかけているアリウスのささくれた心が、留めようも無く口から溢れ出る。
（自分を酷い奴だと罵って去るだろうか。あるいは歳相応に泣き喚くか……）
アリウスは寝転がったまま、冷めた目でランを見上げた。
父親がいなくなるという言葉の意味を理解したらしいランは、僅かに表情を固くしたものの、アリウスの予想通りに喚く事も、泣く事もしない。ただ風を受けながら前を見据えていた。
「そうなったら……妹たちの為に、がんばる」
「その妹もいなくなったら？」
これは単なる八つ当たりだと、自分でも思う。だが止められない。
悪意に満ちた質問に、ランはさっとこちらを振り返る。
今度こそ泣いたかと身構えたアリウスは、向けられたランの瞳に聡明な光が宿っている事に気付いて目を見張った。
「それでも、ぼくは騎士になる。母上が言ったんだ……立派な騎士になって、父上を助けてあげてねって。妹たちの事もお願いねって。デュトイ家の長子はあなたなんだからって」
脳裏に、ファイゴスの剣聖とも謳われる近衛騎士副隊長ドレーグスト・デュトイ伯爵の姿が浮かぶ。伯爵ながら、他の公爵家出身の者を実力で凌ぎ、副隊長まで上り詰めた豪傑だ。
なるほど、と思う。ランのこの身の丈に合わない強さも、ドレーグストの息子なら納得できた。
「……お前は、強いな」
思わずこぼれた、自嘲めいた呟き。
ランはそれまで瞳に湛えていた輝きを引っ込めて、急に悲しそうな顔をした。
「違うよ、本当は凄く寂しいの。母上に会いたい……でも、母上が強くなりなさいって……身体は土に、魂は神の元に帰ってしまうけれど、想いはずっと共にある、から……っ」
堪えきれなくなったランの目から、透明の雫が伝い落ちる。誰かが泣くところを間近で見た事の無かったアリウスは、次々とこぼれる涙を瞬きもできずに見つめた。
喉の渇きのような、本能的な焦りを感じる。アリウスは起き上がると、衝動的にランの頭を胸に掻き抱いた。
背中をぎゅっと握る小さな身体から伝わる温もり。くぐもった嗚咽とかすかな震えに、そっと目を閉じた。
……身体は土に、魂は神の元に帰るけれど、想いはずっと共に、ある……。
「そうだな……お前の言う通りだ……」
何も失ってなど、いない。想いはここにあるのだから。
しゃくりあげるランを抱き締めて、アリウスは静かに涙を流した。
自分用の広くて豪奢な寝台に座り、シュウは窓の向こうに光る月を見上げた。
敷布に突いた手のすぐ傍には、向こうを向いて眠るランのむき出しの肩と、美しい金色の髪が広がっている。起こしてしまわぬようにそうっと手を伸ばして、一房持ち上げた。しなやかな金糸は、それだけで月光を映して煌く。
普段であれば、その見た目の美しさに心奪われるのだが、今はこの柔らかな感触を確かめたかった。
……あの日、初めて触れたランの髪は、もっと短くて細く、色も薄かった。でも伝わる温もりは、同じ。
今ではもう遠い昔。既に病に伏してはいたが兄はまだ存命で、国王の責務など負っていなかった頃、一度だけランに会った。
肉親でもない大人に囲まれた閉塞された世界の、唯一の逃げ場所に、彼女は何の遠慮も無く突然現れた。
そこまで思い返したシュウは、口元だけでふっと笑う。
「……ああ、あの頃は、男の子だと思ってたんだっけ」
躊躇無く自分を「ぼく」と言っていたランの姿は、今も目に焼きついている。勝手な想像だがあの時、シュウだけでなくランもまた自分が女である事を知らなかったのでは無いだろうか。それくらい違和感が無かった。
そんなランと出会った自分は、両親を失い、残ったただ一人の血縁である兄をも失う事を知り、自棄を起こしていた。健康なくせに無力な自分と無慈悲な神を呪い、兄を失くす事実に怯え、いっそ後を追おうかとさえ思っていた。
ささくれた心のままに八つ当たりするシュウに、ランはほんの少しだが無二の希望と、素直に涙を流す事を教えてくれた。
あれから、思い出したくも無いような事が沢山あった。
精霊の予見通りに病状は悪化し、衰えていくだけの兄と、やはり無力な自分。折りしも、兄王妃の懐妊が発覚し、次代の国王をどうするのかと騒ぐ家臣たち。兄はまだ生きているのに、どうしてそんな事が言えるのかと悔しくて悔しくて、一人涙を流す度にランを思い出した。
やがて、国と妻子を頼むと言い残して天へと召された兄の想いを継ぐ為、シュウはしたたかになる事を心に決める。元老院に従順な振りをして、母譲りだった銀色の髪を、ファイゴス王家の証とも言える黒色に染めた。精霊族の血縁に与えられるという内なる名、アリウスは自分の中だけに収め、外の名であるシューバートとして国王の座に就いた。
同時に退位宣言をしたせいで大騒ぎになるのだが、それはさておき、ベネートが産まれてから再燃したお家騒動。それに関わる暗殺未遂事件。貴族同士の派閥争いに、小競り合い……数え出したらきりが無い程、本当に色々あった。
全てを治め、うつけの真似をする事で城内が安定してきた頃、シュウはドレーグストがこの世を去った事を知る。
あのしなやかに強く無垢であったランは、今どうしているのだろう……。
気になりだした思いは止められず、シュウは密かにランを探すよう命じた。だが、デュトイ家には息女が三人いるばかりで、男はいないという報告が届いた。
ファイゴスでは手続きと書類保管の都合上、死んだ者の戸籍は抹消され取り置かれる事は無い。家に直接訪ね系譜を見せて貰えば判るかも知れないが、現存している家人が女性ばかりという事は、つまり、そういう事なのだと思うしか無かった。
ランの死。それはシュウに予想外の衝撃を与えた。たった一度、僅かな時間を共にしただけの子供に、何を期待していたのかと自嘲し冷静を装ったものの、数週間どう過ごしたのかも覚えていない程に落ち込んだ。
「それが、こんな風になってるとはね……」
触れていた髪から手を離したシュウは、月明かりに白く浮かび上がるランの首から肩にかけて、ゆっくりと手を這わせた。
「ん……」
すっかり寝入っているらしいランは、小さく呻いて寝返りを打つ。こちらを向いた顔に張り付いた髪をどけてやると、あどけない女の寝顔がそこにあった。
ランが死んだという思い込みから立ち直って一年後、近衛騎士入隊式典に出席したシュウは、これまでの人生の中でも最大の驚きに遭遇する。死んだはずの人間が、新人騎士として立っていたからだ。しかも……近衛騎士隊初の女騎士として。
騙されたという憤りが無かったとは言わない。だが、それ以上に嬉しくて、愉快だった。国王たる自分を、その存在だけで無自覚に翻弄するランに心が沸き立つ。それから、ランの様子を探る事がシュウの唯一の楽しみになった。
ランは全く気付いていなかったようだが、時折、執務室を抜け出して、直接見に行く事までしていた。その点では、うつけ王を演じていて良かったと言える。執務をさぼっても、いつもの事なので誰も気にしなかった。
当時は、単なる興味本位でランに執着しているのだと思っていた。だが今思えば、既に自分は彼女に参っていたのだろう。だからこそ初めてこの部屋で対峙した時、頑ななランに業を煮やし、無理矢理自分のものにした。罪悪感はある。しかし後悔はしていない。もしあの時に戻ったとしても、同じ事を繰り返すと断言できた。
ランに触れるシュウの瞳に、残酷な光が宿る。
「ランが、悪いんだよ……俺に、希望なんてものを、見せるから……」
頬に触れた感触に気付いたのか、ランは無邪気に柔らかく微笑んだ。つられたシュウも、視線を緩めて笑う。
シュウは肌掛けの隙間からするりと横に滑り込むと、少し乱暴にランを抱き寄せた。眠る前に散々苛まれたせいで疲れているらしい彼女は、それでも目を覚まさない。滑らかな首筋に顔を埋めて、溜息をついた。
「ああ、もう……格好悪いくらい、骨抜きだ」
彼女を見る事。共にある事。抱き締める事。喜ばせる事も、泣かせる事も、全てが愛しく、狂おしい。
静かに瞼を下ろしたシュウは、長い長い物思いの最後に、アリウスという名の銀色の少年の事を、ランに覚えていて欲しいと願った。
穏やかに眠り続けるランの腕が背中に触れるのを感じながら、シュウの意識は闇に溶けていく。しっかりと抱き合い眠る二人の姿を、物言わぬ月がただ静かに見下ろしていた。
END
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