愛しい貴女の不埒な誘惑 あ、まずいな……。 と思った時にはもう遅かった。 今しがたまで彼女の口から途切れなく吐き出されていた元恋人への悪態が止まり、涙に濡れた瞳がとろりと濁る。一瞬ふわっとあどけない表情を浮かべて、目の前の人は居酒屋の狭いテーブルに突っ伏した。 「高井さん?」 一応、声をかけて肩を揺らしてみたけど、ぴくりとも反応しない。彼女の顔の近くに耳を寄せると、規則的な呼吸音が聞こえた。 テーブルの上に並ぶ空のグラスへ目を向けて、短く息を吐く。 普段の飲み会では軽めのカクテルしか頼まない彼女が、今日はめちゃくちゃな飲み方をしていた。 気分が悪いとは言っていなかったから、きっと酔い潰れて眠ってしまったに違いない。 彼女は瞼を下ろしたまま鼻をすすり上げ、甘えたように誰かの名を口にする。 ただの寝言だろうけど、会ったこともないその男に、俺ははっきりと殺意を覚えた。 今、向かいの席で眠っている高井彬子さんは……俺が長年想いを寄せている相手だ。 就職先の同じ部署で働く四歳年上のキャリアウーマン。四年前、就職したばかりの俺は、彼女の手を見た瞬間、恋に落ちていた。 たとえば相手の顔やスタイルを見て、一目惚れしたという話はよく聞く。たぶん、それとまったく同じ状況で、俺は彼女の手に惚れたんだろう。 シミひとつない白い肌に、小さめの手のひらから繋がるすらりとした細い指。あわいピンク色の爪は常に美しく整えられていた。 もともとの造りも綺麗だけど、何よりその仕草が目を引く。彬子さんの手は彼女自身のまっすぐな気性を表すように、いつもきびきびと動いていた。 綺麗だな……と眺めているうちに目が離せなくなり、触りたいと思うたびに、触ってほしいと願うようになった。 やがて、いつも一生懸命で生き生きしている彼女のすべてに、心を奪われた。 しかし彬子さんには以前から付き合っている男がいた。 詳しく訊く気がしなくてはっきりした年数は知らないけど、もうかなり長い間一緒にいるようだった。 そんなに深い関係の男が相手では、俺に勝ち目はない。 諦めよう……そう思いはじめた頃、他の同僚から、彼女を奪い取れとけしかけられた。 俺より長く働いている社員は皆知っていることだそうだけど、彬子さんは典型的なダメ男と付き合っているらしい。 一応、相手の男も働いてはいるものの、聞いたことがないような胡散臭い健康器具の販売員だとかで、ノルマ消化のためと言われては、彬子さんが法外な値段のあれやこれやを買わされているという。 それだけでも許せないのに、仕事が忙しいと理由をつけて彼女を放ったらかしにしていた。誕生日だろうが、記念日だろうが、クリスマスだろうがおかまいなし。 気が向いた時と、ノルマが消化できなかった時にだけ彬子さんを頼るという、ろくでなしだった。 人間として素晴らしいことではあるけど、情が深い彼女はまわりがどれだけ忠告しても、盲目的に恋人を信じ続けていた。 手を伸ばして、彬子さんの髪をそっと梳いてやる。 小さく声を上げた彼女の目頭から、透明な滴が流れ落ちた。 同僚と上司の協力を得ながら、彬子さんを振り向かせようとした四年間の努力は結局報われなかったけど、彼女と恋人の関係は夕べ終わりを迎えた。相手の男の浮気によって。 彬子さんを蔑ろにしまくっていたところから考えて、あの男に別の女がいても不思議じゃない。しかし本当に浮気していたとは……まったく呆れたやつだ。 でもこれで彼女も目が覚めるだろう。 俺にならどれだけ愚痴を言ってもいいし、八つ当たりをしてもかまわない。その涙が流れるかぎり慰め続ける。だからどうか、あんな男のことは忘れて立ち直ってほしい。 そしてできれば、少しでいいから俺のことを意識してほしかった。 居酒屋でしばらく彬子さんを休ませてから、彼女をかかえるようにして外へ出た。 失恋と残業で憔悴している身体に、ヤケ酒は相当きつかったようで、声をかけてもふにゃふにゃした答えしか返ってこない。 仕事中はしっかりしすぎているくらいの彼女が、くったりと俺に寄りかかってくるのはなんとも言えず可愛い……じゃなくって、困った。送っていこうにも、家の場所がわからない。 「あの、高井さん? 家どこですか。送っていきますから、住所を教えてください」 軽く頬を突いて、意識を浮上させる。 薄らと目を開けた彬子さんは、焦点の合わない瞳を俺に向け、口を尖らせた。 「やぁだ。教えなーい。まだ帰らないよーだ」 あどない表情で子供っぽく拗ねる彼女の姿に、ドクッと心臓が跳ねる。 何それ……俺のこと煽ってるのか? それとも誘ってる? そんなふうに唇を突き出されたら、キスしたくなるって。本気で。 ほろ酔いでほてった身体が、ますます熱くなる。せわしなく拍動する心臓を持てあまして、溜息をついた。 「そういうことを言うと、俺んちに連れて帰っちゃいますよ……?」 冗談めかして、本音をこぼす。 パッと眉を上げた彼女は、急にカラカラと笑い出した。 「いいねえ。じゃあ間々田くんちで飲み直そー!」 彬子さんは元気よく声を上げ、覚束ない足取りで歩き出す。危なっかしくて思わず腰に腕をまわすと、彼女は嬉しそうに微笑んで身体をすり寄せてきた。 ああ、これは酔っ払ってて全然わかってないパターンだなー……。 いくら恋愛対象外ポジションの俺が相手でも、普段の聡い彬子さんなら、こんなみえみえの誘いに乗ったり、自分から異性に近づいたりはしない。 さっぱりしているように見えて、ろくでもない恋人をいつまでも信じて待っているような人だから。 ふと苦笑いが漏れる。 無邪気で困った愛しい人を支え、俺は客待ちのタクシーに近づいた。 俺の家へ着くなり、彬子さんは完全に寝入ってしまった。 窮屈そうだったので上着だけを脱がせて、ベッドに横たえる。彼女のジャケットは、俺のスーツと一緒に、カーテンレールへ吊っておいた。 部屋着に着替えて振り返ると、彬子さんは少し顔をしかめて喉のあたりを押さえている。 飲みすぎたせいで体調が悪くなったのかもしれない。急いで枕元に近づき、彼女の耳に口を寄せた。 「気持ち悪いですか? 吐きそう?」 眠っていても理解できるよう、端的に問いかける。彼女は眉間の皺を深くして、かすかに首を横に振った。 「ちが、う……喉、かわ……」 どうやら喉が渇いたらしい。俺は少し待ってほしいと声をかけ、近くの床に置いてあったコンビニの袋をたぐり寄せた。 帰ってくる途中、タクシーの運転手に頼んでコンビニに寄ってもらった。 その頃もう既に舟を漕いでいた彬子さんが、宣言どおりに飲み直すとは思えなかったけど、もしこのまま泊まることになったら色々必要になると考えたからだ。 化粧品だの下着だのは俺にはわからないから我慢してもらうことに決め、新しい歯ブラシとタオル、あとはちょっとした食べ物やらを適当に見繕ってきた。 大きめのビニール袋に手を突っ込んで、ミネラルウォーターを探す。ごちゃごちゃに詰められたものをひっくり返しているうち、小さな紙袋が目についた。 無意識にキュッと身体が強張った。 外から見えないように包まれたそれがなんなのかは、買った本人だからわかってる。 ……これは、その……あれだ……望まない妊娠を避けるための……。 震える手で紙袋を破り、中身を確認して溜息をついた。 言い訳にしかならないけど、本当に使うつもりはない。万が一にも彬子さんを傷つけないようにと、自戒の意味を込めて手に取った。 ただ……さっきみたいにすり寄って迫られたら、拒否する自信がまったくなかった。 酔っ払った彼女にまともな判断能力がないと知っていても、最後まで想いを遂げて、恋人になってくれと食い下がるのが容易に想像できた。 視線が自然に彬子さんへ向かう。 静かに上下する胸元、ふっくらした唇、アルコールのせいで上気した頬……閉じられたままの瞼は、夢でも見ているのか時折ぴくりぴくりと震えていた。 もし無理矢理に関係を持ったとしても、今の彼女にはよくわからないだろう。酔いが醒めた時に、合意のうえでしたことだと嘘をついたら、信じてしまうかもしれない。 今のまま、ただの後輩だと思われ続けるくらいなら、いっそ……。 人間として最低な、でもとても甘美な誘惑が心を占めていく。 腰を浮かしかけたところで、彬子さんが呻き声を上げ、寝返りを打った。 「んー……みずぅ」 いよいよ渇きに耐えられなくなったのか、彼女は苦しげに眉を寄せて「水」とくり返している。 俺は慌てて避妊具を袋へ戻し、底に入っていたミネラルウォーターのボトルを引っ掴んで立ち上がった。 「高井さん、水です」 ……って、これどうやって飲ませればいいんだ? 声をかけ、ペットボトルのキャップをねじったところで、今さら気づく。 彬子さんが自分で起き上がって飲んでくれればいいけど、まだ酔いと眠気が勝っているようで、瞼はぴっちりと閉じられたまま。 無理にでも起こした方がいいのか、何か別の方法を考えるべきか。オロオロと悩んでいるうちに彼女の眠りがますます深くなったらしく、とうとう声も上げなくなった。 静かになった彬子さんを見下ろす。 顔色は悪くないし、表情も穏やかだ。ただ眠っているように見える。けど、脱水症状とかで意識を失っていたらどうしよう……。 一度芽生えた不安は、どんどん大きくなっていく。いてもたってもいられなくなった俺は、彼女の頬を指先で軽く叩いた。 「高井さん? 高井さん、ちょっとだけ起きて。水を飲んで」 頬を刺激しても、彬子さんはゆっくり深呼吸をしただけで目覚める気配がない。彼女に手を当てたまま困り果てていると、親指の付け根のあたりをちろりと舐められた。 「っ!」 驚いてとっさに手を引っ込める。 口から飛び出すんじゃないかっていうほど激しく心臓が脈打ち、彼女の舌先が触れた場所はじんじんと痺れていた。 今、何を……? おそるおそる手を広げ、舐められたところを確認する。見下ろした手のひらは、ペットボトルについた結露の水滴で濡れていた。 「あー……」 彬子さんが舐めたものの正体に気づいて、妙に納得してしまった。喉が渇いている彼女は、口の近くにある水分を敏感に感じ取り、本能的に舌を出したのだろう。 ペットボトルの飲み口に指先をつけて濡らし、それを彬子さんの唇に触れさせて水滴を移す。濡れた唇を、彼女はすかさずぺろりと舐めた。 やっぱり。しかし、なんというか、小鳥に餌を与える親の気分。 ちょっと面白くなって何度もくり返していると、彬子さんが俺の指に直接吸いついてきた。 「えっ。た、高井さんっ!?」 夢うつつの彼女には、俺の声が聞こえていないらしい。まるでミルクをねだる赤ん坊みたいに、夢中で指をしゃぶりはじめた。 少し熱っぽい濡れた粘膜が、敏感な指先を包み込み、きゅうっと締めつける。ぽってりした彼女の舌に指の腹を撫でられ、俺は身体を震わせた。 これはかなりくる。腰……いや腹、というか、もっと下の大事な部分に。 だから、まずいって! あらぬところが熱を持ちはじめたのに焦って指を引き抜くと、彬子さんははっきりと不満げな表情を浮かべて薄く目を開いた。 ここぞとばかりに彼女の上半身を抱き起こし、ペットボトルを強引に唇へ押しつける。 反射的に口を開いた彬子さんは、与えられるまま半分ほど水を飲み下し、ぐったりと身体の力を抜いた。 たぶん、また寝入ってしまったんだろう。 彼女をベッドに横たえ、起こさないようそっと離れる。残りのミネラルウォーターを冷蔵庫にしまったところで、顎の先からぽとりと滴が落ちた。 気づかないうちにしたたるほど汗をかいていた。暑いからじゃなく、極度の緊張で。 もう一度ベッドの上の彬子さんを見つめ、強く頭を振った。 ダメだ。このままここにいたら絶対に襲ってしまう。泣かれても喚かれても彼女を犯して、犯罪まがいの方法で繋ぎ止めようとするに違いない。 軟弱すぎる自制心に打ちのめされた俺は、部屋の隅のカラーボックスから下着を引っ張り出して風呂場へ駆け込んだ。 シャワーを浴びて気持ちを切り替えよう。冷たい水で身を清めれば、この醜い欲望も少しは薄まるはずだ。それでも無理なら一人でだってどうにか……。 中途半端に張り詰め、萎える気配のないものを見下ろす。恋ゆえの生理現象だからしかたないけど、情けないやら、みっともないやら。 俺は大きく息を吐いて、シャツの襟に手をかけた。 *** 腕の中で眠る彬子さんの髪を指に絡め、その感触を楽しむ。するりと逃げた毛先は、剥き出しの肩に落ちた。 俺に散々責められ、気を失うように眠ってしまった彼女は、まるで「気に入らない」と言わんばかりに背を向けている。少し肌掛けをずらして中を覗き込めば、肩に背中、腰の下まで口づけの痕が浮かんでいた。 やったのは間違いなく俺……なんだろう。 彬子さんが俺を受け入れてくれたことに感動して、幸せで、愛撫を施しながら夢中でキスをした。 繋がっている最中も届く範囲に唇を押しつけ、彼女の甘い肌を吸ったり、甘噛みしたりした、気がする。もちろん手も舐めまくった。興奮しすぎて、あまり覚えていないけど。 ふと、後ろから責めている場面が思い浮かぶ。彼女の中に深く突き入れて、背中を舐め上げた時の嬌声が蘇り、唾を飲み込んだ。 また起き上がりそうになった自分の分身をなだめつつ、目の前の白い項に視線を落とす。見慣れた後姿と横顔。でもこれからは真正面で彬子さんの笑う顔が見たい、ずっと。 穏やかな寝息を立てる彼女を眺め、この温もりを失わないための策をあれこれと講じる。 彬子さんがどうして俺と関係を持ったのかはわからない。 失恋でヤケになっていた、もしくは酒に酔っていたから? ……ともかく昨日まで恋人がいた彼女に、俺への特別な感情はないだろう。 気持ちで繋ぎ止められない以上、懇願して情に訴えるか、先に手を出した責任を取れと脅すくらいしかできない。自分でも引いてしまうくらいずるくて卑怯な方法だけど、全力で彬子さん捉えると決意した。 彼女の目覚めを促すように、指の背で頬を撫でる。 早く起きて、俺の愛情がどれだけ深いものか思い知ればいい。もう逃げられないのだと、諦めてほしい。 あなたはその綺麗な手で俺の気を引いて、まっすぐな心で縛りつけた。俺が必死に作り上げた良い後輩の姿と、忍耐の壁を、気まぐれな誘惑で壊してしまったのだから。 こんこんと眠り続ける彼女の手を取り、唇を押し当てる。 ――好きです、彬子さん。 心を惹きつけられずにはいられない、美しく愛おしい不埒な手に向かって、そっと愛をささやいた。 END |
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