小説  index



 短縮ダイヤル1

 ふわっふわに酔って気持ちよくなったあと、段々と思考がクリアになっていく感覚が嫌い。なーんにも考えずに、だらだら酔っていたい時ってあるでしょ。例えば……失恋した、とか。
 半分、酔いから覚醒した私は、自分の部屋の座卓に頭を乗っけて、ぼーっとしたまま部屋の隅を見つめた。
 そこにあるのは、畳の上に転がった携帯。一缶目のビールを飲みながら元カレの番号を消したあと、酔いに任せてぶん投げたままになっている。
 すぐにかけられるようにと短縮ダイヤル1に登録されていた彼の番号が、今はもうない。別れた男の番号をいつまでも残しておくような、しみったれた女にはなりたくないと思っていたはずなのに、消して小一時間で既に後悔していた。
 最初の彼氏ってわけじゃないけど、初めて自分から好きになった人だった。結構な期間をかけて、やっとOKをもらえた。それがまさか半年もしないうちに元カノへ戻るとは。怒りを通り越してビックリだ。
 なんとか頭を持ち上げて次のビールを開ける。一口飲んで溜息をついた。
 ……むなしい。
 今さら物凄い虚脱感に襲われて寝転がる。ふにゃふにゃする身体を思いきり伸ばして、携帯を拾った。
 迷いなく、いつもの番号を押す。間違いなくきっちり覚えているからメモリにも登録されていない。数コールで出た悟(さとる)は、私が名前を呼んだ瞬間「うぇっ」とおかしな声を上げた。
「なによー、その態度はぁ」
「だって、お前、酔ってると絡むから……」
「いいから今すぐこーいっ!」
 ごちゃごちゃ言うのをさえぎって叫ぶ。向こうから「えー」だか「あー」だか、声が聞こえていたけれど無視した。
「タダ酒飲ませてあげるし。買い置きたっぷり飲み放題。しかも第三じゃないビールだよー」
 昔はそうでもなかったらしいけど、今日び普通のビールは晩酌にするのをためらうほどの贅沢品だ。タダで飲み放題できる絶好のチャンスだと強調すると、奴は諦めたように溜息をついた。
「わかった。行くからカギ開けといて」
「もう開いてる」
 正確には、ムシャクシャしながら帰宅してカギをかけ忘れたんだけど、そこは言わないでおいた。
 もう一度、長く息を吐く音が聞こえて通話が切れた。アパートの廊下から、隣のドアが開いて閉まる音が響く。間もなく引き開けられたウチのドアの向こうで、悟がムッとしていた。
「お前、あぶねーだろ。カギくらいかけろよ。仮にも女なんだから」
 仮って何よ。
 畳に横になったまま心の中でつっこみを入れる。だるくて身体を起こす気にもならない。
 目だけで抗議すると、悟は私の態度を綺麗に無視して部屋に上がり込んだ。
 挨拶もなく、さっきまで私が寄りかかっていた座卓の前にどっかりと腰を下ろす。奴は手近にあるコンビニの袋からビールを取り出したところで、まわりへ視線を送った。
「つまみとか、ねーの?」
「あるけど冷蔵庫まで取りに行くのだるい」
「だるいって、十歩も歩かねーのに」
 だらしないとか、終わってるとか、ぶちぶち言いながら悟は冷蔵庫へ向かう。開けるなり、中がぐちゃぐちゃだとまた文句を言い、サラミとチーズを持って戻ってきた。
 奴は座卓におつまみを広げて、勝手に飲み始める。私は相変わらず畳の上に伸びているだけ。お互い何も言わずにぼーっとしていると、早々に一缶目を開けた悟が空き缶をペコッとへこませた。
「で? 今日はなんで飲んだくれてんだよ。まあ、ケンカか、浮気か、振られたかのどれかだろうけど」
「なんで男関係って、わかるのよ」
「お前の行動パターンなんて、お見通しだっつの」
 二缶目に手を伸ばした悟は小バカにするような態度で、フンと鼻を鳴らす。友達がいのなさにムカついたけど、今の私に悟とやり合う気力は残っていなかった。
 大学進学と同時に一人暮らしを始めて三年半。学生限定のボロアパートで隣同士になった私たちはすぐに仲良くなり、卒業を控えた今も付き合いが続いている。超うっすい壁一枚隔てただけの部屋に暮らしているからか、友達というより家族のような感じになっていた。
 寝返りを打って、悟に背を向ける。なんとなく顔を見られたくなかった。
「私と付き合ってみて、やっぱ元カノのこと忘れられないって気づいたんだって。なにそれって感じ」
「ふーん」
 悟はどうでもよさそうにあいづちを打つ。奴はいつも私のグチを肯定も否定もせずに受け止めてくれる。ただ聞いてくれることが、素直にありがたかった。
「なら最初から良い顔するなだよねー。流れを合わせただけとかでも、好きだって言われたら期待しちゃうじゃない。私ひとりで浮かれて、バカすぎるし……」
 見慣れたしみだらけの壁が、涙でぼやける。思わず漏れそうになった嗚咽を必死で呑み込んだ。
 ふいに悟が立ち上がる。私のすぐ後ろまできてしゃがんだのが、足音と気配でわかった。
「それ本当?」
「え?」
 とっさに振り向いて、訊き返す。上から降ってきた言葉の意味がわからない。
 悟は私を覗き込むようにしながら、質問をくり返した。
「好きだって言われたら、期待するもんなの?」
「へ……そりゃ、まあ……誰だって、好きって言われたら嬉しいでしょ」
 いまいち悟の言わんとすることがわからないまま答える。奴はニヤリと笑みを浮かべると、さらに身をかがめて私の耳元に口を寄せた。
「好きだ。芙由子(ふゆこ)」
「っ!」
 何を言われたのか考えるよりも早く、身体がビクッと跳ねる。初めて聞いた悟の色っぽい声に全身が粟立った。
「おー、本当だ。顔が真っ赤になってる」
 感心したような声に、悟をギリッと睨みつける。こんなに意地の悪い冗談を言うとは思っていなかった。
「ひどい。ふざけないでよっ」
「ふざけてはいねーけど。お前のこと本当に好きだし」
「な……」
 さりげなく告げられた衝撃の事実に、自分の耳を疑う。冗談の続きかと思い身構えると、悟はぶはっと吹き出した。
「そんな、あからさまに疑ってますって顔しなくても……」
「あ、当たり前でしょ!? いきなり言われても信じられないよ。なんで急に」
「急にじゃねーよ」
 焦って喚く私を、悟の冷静な声がさえぎる。言葉に込められた空気が変わったことに気づいて息を呑んだ。
「ずっと前から、芙由子のことが好きだ」
「や、え……なん……ずっと、て、どうして、黙って……」
 驚きすぎて自分でも何を言っているのかわからない。浮かんだ思いをそのまま声に出すと、悟は切なそうに目を細めた。
「だって、お前、俺のことなんか眼中になかっただろ。飲み友達っつーか、完全に空気扱いだったし。さすがに玉砕前提で告る勇気まではねーよ」
「それ、なら……」
 なんで今は告白したんだろう。表情から私の疑問を察したらしい悟は、視線を外して、まるで自嘲するような笑みを浮かべた。
「まあタイミングが良かったのと、遊ばれてんのに全然気づかないお前を見てらんねーのもあったし。あとは……」
 悟はそこで一度、言葉を切り、まっすぐに私を見下ろした。
「……色々と限界だった」
 あ、まずい。
 吸い込まれそうなほど暗い色をした瞳に光が走る。悟が今何を考えているのか、目を見た瞬間にわかってしまった。
 怒られても、ドン引きされてもいいから、逃げなきゃいけない。このままじゃダメだって、やばいって……でも身体が動かなかった。
 近づいてくる瞳を見つめているうちに、そっと唇が重なる。最初は怖々触れ合うだけ。次に強く押しつけられた。
「ん、う……」
 自分でもびっくりするくらい心臓がバクバクいってる。激しい鼓動に押し出され、声が漏れた。
 角度を変え、何度も口付けられる。驚きと緊張のせいで無意識に息を止めていたらしく、苦しくなってきた。
 悟の肩を押し返すようにして顔を背け、空気を吸う。吐き出すよりも早く頬をつかまれて、またキスされた。
「ふっ、や、さと……!」
 息苦しくて上げた声も吸い取られてしまう。思いきり身をよじって逃れようとすると、唇の隙間から舌が挿し入れられた。
 少しだけ冷たい悟の舌が、口の中を滑る。内側を一通り撫でたあと、私の舌を絡め取った。
 ゾクゾクしてたまらない。身体が勝手に震え、あらぬところが痺れてきてしまう。与えられる快感を逃したくて、悟のシャツを強く握り締め仰け反った。
 チュッと音を立てて唇が離れる。荒く息をつきながら見上げると、悟の顔が滲んでいた。ドキドキしすぎて涙目になってしまっているらしい。
「何、お前、キスに弱いの?」
 かあっと頬が熱くなる。実際、弱いんだけど言われたくない。というか、悟には知られたくなかった。
 恥ずかしくて横を向くと、耳にキスされた。
「あんっ……ちょっと!」
「ヘンな声出すなよ。止まらなくなるだろ」
 まるで私のせいみたいな言い方をしないでほしい。いきなり告白して、キスしてきたのは悟なのに……
 ムッとして横目で睨むと、悟はくくっと小さく笑った。
 身体を起こした悟が腕を伸ばす。まさか本当にしちゃう気なのかと思い、震えてしまった。
「違うよ。さすがにそこまではしねーって。まあ、お前がしたいならいいけど?」
「し、したくないっ」
 悟はニヤニヤ笑いながらわざとらしく舌打ちして、畳の上に落ちてる私の携帯を手に取った。そのまま無断でいじり出す。
「ちょっと、何するのよ!」
 慌てて取り返そうと手を伸ばしたけど、あっさりかわされた。見られて困るようなものが入ってなくても、勝手に触られるのは嫌だ。
「大丈夫だよ、変なことはしねーから。俺の番号登録するだけ」
「は?」
 長く一緒にいる間に、私が悟の携帯番号をメモリに入れていないのは知られている。番号を暗記していて登録する必要がないから入れていないのに、なんでそんな無駄なことをするんだろう。
 私がぽかんとしているうちに入力が終わったらしく、手の中に携帯を戻された。
「お前、付き合ってる男の番号、必ず短縮ダイヤルの1に入れるだろ。俺のそこに登録しといたから、絶対に消すなよ」
「ええっ」
 彼氏用の登録場所まで知られていたことも恥ずかしいけど、なんでそこに悟の番号を入れなきゃいけないのか。思わず抗議の声を上げると、じとりと睨まれた。
「嫌なの?」
「い、嫌っていうか、悟と付き合うとか、言ってないし……」
 向けられる鋭い視線に、居たたまれなくなる。目をそらし、もごもごと言い訳のようなことを口にした。
 また私の頬をつかんだ悟がぐっと顔を近づけてくる。さっきのキスを思い出し身構えたところで、思いきり笑われた。
「そんなに意識してんのに、まだ友達続けるつもり? 無理だろ。さっきあんなにエロい顔してキスしてたくせに」
 ぐっと言葉に詰まる。確かに気持ちよくて流されかかったし、実際にえっちい顔もしてたんだろうけど、事実だからなおさら言われたくない。
「ううー……」
 恥ずかしいやら、悔しいやらで唸り声が漏れてしまう。私の態度を見た悟は、カラカラと笑いながら立ち上がった。
「まあ、好きだってカミングアウトしちまったし、これからは遠慮しないでガンガンに攻めてくから、覚悟しといて」
 普段、穏やかな悟から出たとは思えない言葉にぎょっとする。慌てて身体を起こすと、奴は玄関のドアを開け自室に戻るところだった。
「さと……」
「ああ、カギはちゃんとかけろよ。次に開けっぱなしにしてたら本気で襲うから。ビールごちそーさん」
 攻めるとか、襲うとか、いかがわしい単語に顔がほてる。恥ずかしさの限界を超えた私は、勢い任せに空き缶を拾って投げつけた。
「悟のバカーっ!!」
 缶が届く寸前でドアが閉まる。空のアルミ缶はドアに弾かれ、その重さどおりの軽い音を立てて床を転がった。
 脱力し、肩を落とす。手元の携帯を確認すれば、短縮ダイヤル1に悟の携帯番号が表示されている。
 もう本当にわけがわかんない……今朝まで元カレの番号があったところに、なんで悟のが入っているんだろう……
 突然の告白とキスに驚きすぎて、失恋したのが遠い過去のように感じる。
 ドアのカギをかけるために、よろよろしながら立ち上がった私は、いつの間にか唇に指をあてていたことも、そこが熱を持って脈打っていることにも全く気づいていなかった。

                                          End


   

Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  小説  index
    お気に召しましたら、押していただけると嬉しいです →