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 綺麗じゃない恋

 さて、どうして今ここで彼とこんな話をしているのだろうか……
 と、梢子(しょうこ)は酔った頭を懸命に動かし思い返そうとした。が、初夏の心地良い夜風と、自分に向かって語りかける声に意識がはっきりと定まらなかった。
 普段あまり歩いて移動することがないせいで、今いる正確な場所もわからない。ただ、座っているベンチが、いつもこのあたりを散歩する人達の休憩用だというのは、住宅街の歩道脇に置かれていることから理解できた。
 限りなく円に近い月が、天頂から少し西にかたむいた位置に見える。今さら、時間を確認しようとも思わないが、相当遅い時間だと気づいた。
 ベンチに座る自分を見下ろす目の前の男は、杉井(すぎい)。ちょっと抜けてるところはあるが、明るくてこざっぱりした性格の同僚だ。
 その彼と、何故こんな見知らぬ住宅地の真ん中で、過去の恋バナなどをしているのだろうと梢子は再度、首をかしげた。
 今夜は親睦会という名の飲み会が、社をあげて催されたはずだ。全社員が顔見知りという中小企業だから、これ以上、親睦を深める必要はないのだが、どんな名目でも酒が飲めればいいのだろう。梢子も安価で良い酒が飲めると聞いて、大乗り気で参加した。

(……で、どうなったんだっけ?)
 杉井の学生時代の少し間抜けな恋愛譚にあいづちを打ちながら、霞のかかった記憶を慎重に探っていく。
 向かった飲み屋で、もとから仲の良い若い社員達は大いに盛り上がり、所帯持ち組がちらほらと帰った後も飲み続けた。そして、お開きとなって……それから……
 ここでスッと線のように記憶が繋がり、梢子は心の中で手を打った。
 いまだにおぼろげではあるが、家が同じ方面の者同士、連れ立って店を出たことと、運悪く梢子の乗る路線が車両故障で運休していたこと。タクシーも捕まらず、途中まで同じらしい杉井に伴われてここまで歩いて来たのを思い出した。
「茂木(もぎ)さん?」
「うん?」
 記憶を掘り返すのに集中していた梢子は、苗字を呼ばれ顔を上げた。
「俺の話ばっかりじゃつまらないし、茂木さんの過去も聞きたいなー、と」
「えー……聞いても面白くないよ?」
 何故、最終的にダメになった恋の話など知りたがるのかとうんざりしたが、どういう経緯で話題が恋愛に及んだのか思い出せないため、突っぱねるわけにもいかない。梢子は言いたくない気持ちが伝わるように苦い表情を作ってみせたものの、くったくのない笑顔を返されてしまった。
「面白いかってことじゃなくて、後学のために知りたいなぁ。女心とか、そういうの?」
「私を女の基準にするのは間違いだと思うけど……」
「まぁいいじゃない。先は長いんだし、休憩中の暇つぶしってことで」
 どうあっても話さなければいけない雰囲気に溜息をつく。梢子は自分の膝に肘を乗せて前かがみになると、手のひらで顎を支えた。
「……大学の頃の、話なんだけどね……」

 大学時代、梢子には想いを寄せる人がいた。相手は高校からの同級生。
 それまで、それなりに恋愛らしきものを経験していた梢子ではあったが、高校で出逢った彼に生まれて初めて本気の恋をした。ただひたすらに彼を想い続け、同じ大学に進学までした。
 しかし彼には梢子と出逢う以前からの恋人がいた。傍目にもお似合いな二人。割って入るのはもちろん、諦めるために玉砕覚悟で告白することすら、梢子にはできなかった。

「でもね……本当はいつも思ってた。別れちゃえばいいのにって。彼女がいなくなればいいのにって」

 彼を好きで、彼の幸せを願っているはずの自分。しかし、心は裏腹に二人の破局を望んでいた。
 やがて……まるで神さまが梢子の望みを叶えるかのように、二人の間に亀裂が入る。人づてに聞いただけだが、上昇志向の強い彼女が海外の大学への長期留学を決め、遠距離恋愛になるならと別れを選んだらしい。
 結果的に彼は恋人に捨てられた。
 梢子は彼に同情し悲しみ、彼を切り捨てた彼女を恨んだ。そして破局を心から喜んだ。

「私、身勝手よね。自分から見てもひどい女だと思う。ほんとエゴの塊」
「……それで茂木さんは、その彼と付き合ったの?」
 杉井の問いに梢子は短く笑うと、ゆっくり首を振った。
「振られたの。彼は私の汚いところを全部見抜いてたのね。彼女と別れた途端に告白してくるなんて、気持ち悪いって言われちゃった」
 当時、彼から拒絶された梢子は、ひどく落ち込んだ。しかし、そこに至って初めて、自分の浅ましさに気がついた。
 誰かを愛おしいと想う気持ちは、良くも悪くも強すぎる。梢子は彼に振られたことよりも、自身の身勝手で醜い女の部分に衝撃を受けた。

 ふと、梢子と杉井の間を風が通り抜ける。
 内容が重すぎただろうかと気遣った梢子は、そっと彼を見上げた。ずっと梢子を見ていたらしい杉井は、話を始める前と同様に柔らかく微笑んだ。
「茂木さんはひどくないよ。そんなの、誰でも同じ。俺だって営業の野崎(のざき)が早く転勤しないかなって思ってるし」
 意外な返答に一瞬ぽかんとした梢子は、脳裏に営業課の野崎を思い浮かべた。
 一年後輩の野崎はいわゆるイケメンだ。綺麗な笑顔と丁寧な応対で取引先の覚えも上々。営業課の期待の星で、女子社員の憧れの的だった。
 そんな野崎を勝手にライバル視しているらしい杉井に、梢子は思わず吹き出した。
「なぁにそれ。野崎くんがいなかったら、代わりにモテるかもってこと?」
 目の前の杉井と、脳裏の野崎を比べた梢子は、失礼を承知で無理だろうと思った。
 野崎に熱を上げているコたちは、彼をアイドルのように見ている。たとえ中身が良かったとしても、見た目にパッとしない杉井では、彼女たちのお眼鏡にかなうことはないと断言できた。
「うわ、そこで笑わなくても……あと、別に女の子たちにモテたいとかじゃないから」
「あ、そうなの?」
 てっきりモテ男生活に憧れているのだと思っていた梢子は、また首をひねる。部課の違う野崎と杉井では、仕事上でライバル視しているとも思えなかった。
 色恋抜きで単純に嫌いなだけかもしれないが、果たしてそこまで聞いてしまっていいものか迷う。かける言葉が思いつかない梢子は、黙したまま杉井を見つめた。
 途端にサッとかわされる視線。ちらりと見えた彼の顔には、はっきりと焦りの表情が浮かんでいた。
「……茂木さんだって野崎のこと、いいなあとか思ってるでしょ。いつも、まじまじ見てるじゃない」
 指摘された梢子はぎくりと肩を震わせる。
「そんなに見てないよー。気のせい、気のせい」
「見てるよ」
 軽く笑ってごまかそうとしたものの、真顔できっぱりと否定された。梢子としてはさりげなく見ているつもりだったのに、ばれていたらしい。
「い、いやー……野崎くんて男なのに超お肌キレイなんだもん。つい見ちゃうんだよね。入念にお手入れしてるのかなとか、気になるしさ」
「え、肌?」
「うん。気づいてなかった? 彼の肌つるつるでプリプリなんだよ」
 営業という不規則でストレスの多い仕事をしているはずなのに、野崎はきめの細かい、張りのある肌をしている。逆に規則正しい生活をし、かなり気合いを入れてケアしているのにイマイチな梢子は、いつも彼へ羨望のまなざしを向けていた。
「それじゃ、あいつが好きとか、そういうことじゃないの……?」
「え? ないない。悪いけど全然タイプじゃないもん」
「……」
 からからと笑う梢子の前で、杉井はがっくりとうなだれ、疲れたように長い溜息をついた。
「ん、疲れた? 座る?」
 酔っていた梢子には、どうして彼だけが立っているのか思い出せないが、ゆうに三、四人は座れるベンチだから、座りたければ勝手に座るだろうと今まで思っていた。しかし何かしらの理由で遠慮していたのかもしれない。
 梢子は腰を浮かすと、ほんの気持ち程度ずれて隣を指し示した。
 肩を落としたままの杉井はゆるゆる顔を上げると、至極嫌そうな表情で梢子を見つめ、隣にどっかりと腰を下ろした。
「茂木さん。いい加減、ちょっとは気づいたりしない?」
「は、何が?」
 唐突に不機嫌になった彼と、近づいた距離に梢子は身がまえる。謎かけのような彼の問いを真剣に考えたいのに、酔いが醒めたばかりの頭は動いてくれそうになかった。
 さらにぐっと身を乗り出してきた杉井に気圧され仰け反った梢子は、間近の彼を見上げた。
「あのねぇ。俺さっき遠まわしに告白したつもりなんだけど」
「こく……えっ!?」
 驚きに目を瞠った梢子に、杉井は苦笑いを返した。
「まぁ、気づいてないとは思ってたけどさー。俺、きみが好きなの」
「……」
 軽い言葉からは想像がつかないほど真剣な目で見つめられ、梢子は震える。彼の言葉を理解した途端、心臓が強く鳴りだした。
 息のかかりそうな距離で互いに硬直していると、杉井がふと笑った。
「この近さ、まずいね。キスしたくなる」
「や、それは、困るっ!」
 慌てて飛びのいた梢子に、杉井が肩をゆらした。
「ごめん。冗談……でもないけど、なし崩しに今すぐ返事しろとは言わないから。ちょっと本気で考えてみてよ」
「あ、うん……」
 予想外な展開と向けられた想いに驚き混乱する。呆然としたまま、梢子は首を縦に振った。
 深夜の住宅街。比較的広めの道路に面しているとはいえ、他に歩いている人などいない。静かな闇の中で二人きりだと意識してしまった梢子は、二の句がつげずに押し黙った。
 気まずくなりかけた空気を消すように、杉井が立ち上がる。
 思わずかまえてしまった梢子は、彼の表情にいつも通りのゆるい笑顔を見つけ、ほっと息を吐いた。
「そろそろ行こうか。夜が明ける前には帰りたいし……ああ、でも、茂木さんと朝帰りしたって言えるから、遅くなった方がいいかなぁ」
「……朝帰りっていうか、これ徹夜残業みたいなもんでしょ」
 杉井のバカバカしい冗談に笑いが漏れる。彼が実際どう思っているかはさておき、いくらなんでも朝までには帰りたかった。
「あ、茂木さん」
「うん?」
 歩き出しかけた梢子はかけられた声に振り向く。見れば、杉井がこちらに向けて手を差し出していた。
「手を繋いで行かない?」
「……」
 唐突な提案に梢子はまた少し驚き、彼の顔と手を交互に見返した。相変わらずの笑顔。どうやら冗談の延長らしい。杉井のおふざけに気づいた梢子は、断られると思っているであろう彼の手を取った。
「えっ……!」
 驚きの声にかまわず、強く手を引く。よろめいた彼に向かって、口の端を上げてみせた。
「なに?」
「あ、いや、その……いいの?」
 薄暗いせいで顔色までは確認できないものの、さっき驚かされた分、オロオロする杉井を見るのは気分が良かった。
「言っておくけど、恋愛感情は抜きだからねー。酔ってて危ないから手を借りただけよ」
 今思いついたばかりの適当な言い訳を口にする。杉井を逆に驚かしてやりたいという気持ちは確かにあったが、それだけではない別の理由があるような気がして、本当のところは自分でもわからなかった。
「まぁ、それでもいいけどさ」
 梢子の言葉を鵜呑みにしたらしい杉井が、気の抜けた溜息をついた。
 月明かりの下をゆっくりと歩き出す。寒い訳でもないのに、繋いだ手の熱がじんと沁みた。
 逆光で形作られた淡い影を見つめながら、梢子は過去に心をかたむけた人を思い浮かべる。真面目で、潔癖で……明るくて、さっぱりとした性格のわりに、どこか抜けてる人だった。
 なんとなく似ているから恋愛対象として見ないようにしていたと告げたら、杉井はどう思うのだろう。
 この先どうするのか、どうなるのか、梢子にもまだわからない。ただ、深く考えずに掴んだ温もりを、手放したくないと思い始めていた。

                                          End


   

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