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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  マリッジブルー

 ふうっと意識が持ち上げられ、ベッドの中で身じろぎをした。眠りから醒めかけた思考がはっきりするのを待たずに、喉が渇きを訴える。
 ……お水、飲みたい。
 隣で眠る啓也を起こさないよう、そっと身体を起こす。完全に照明を落とした寝室は真っ暗。何時かはわからないけど、まだ夜が明けていないらしい。
 本能的な欲求に突き動かされた私は、ぼうっとしたままベッドから降りてキッチンへと向かった。

 ふらふらしながらキッチンと一体になっているリビングのドアを開ける。無意識に手を伸ばし、壁のスイッチを押すと、天井につけられているダウンライトがパッと灯った。
 普段なら気にならないくらいの明るさだけど、真っ暗な部屋から出てきた私にはまぶしすぎる。きつく目をつぶり、少し時間をおいてからそろそろと瞼を開いた。
 いつもは熟睡している時間に起きてしまったせいか、ひどいドライアイにでもなったみたいに瞼の裏がざらついている。私は何度かまばたきをしてから食器棚の扉を開け、コップを手に取った。
 冷蔵庫の中に作り置きのお茶はあるけど、今はお水が飲みたい。シンクに取りつけられている浄水器のスイッチを押すと、普段使う蛇口とは違う、専用の細い吐水口から水が流れ出した。
 啓也曰く「この浄水器はシンク下のカートリッジで水をろ過して、アルカリイオン水にしてくれる優れもの」らしいけど、初めて聞いた時は必要性に疑問を感じた。普通の水道水で充分だろうと。
 実際、今みたいにちょっと美味しいお水が飲みたい時は、便利と言えば便利だ。あと、お茶やコーヒーを淹れる時とか。
 そんなことをつらつらと考えつつ、水を一口含む。うん、口当たりが柔らかくて美味しい。喉を潤すために残りを一気に飲み干して、はあっと息を吐いた。
 もう一杯飲もうか、止めようかを悩む。飲みたい気はするけど、お腹がたぽたぽになってしまいそう。それに、もし朝方トイレに行きたくなって目が覚めたら困る。寝ている間に何度も起きると、ちゃんと眠った感じがしなくて次の日がつらいのだ。
 やっぱり止めておこうと決めて、コップをシンクに置いた途端、寝室の方から大きな物音がした。ハッとして振り返る。寝相のいい啓也はベッドから落ちたりしないけど、何かあったのかな……
 急に不安を覚え、寝室に戻りかけたところで、リビングのドアが向こうから勢いよく開けられた。乱暴に開かれた扉が音を立てしなる。驚いて身をすくめると、焦りの表情を浮かべた啓也が飛び込んできた。
「汐里っ!」
「えっ」
 何が起きたのか訊く間もなく、思いきり抱き締められる。少しも身動きできないほど、きつく巻きついてくる腕に私は目を白黒させた。
「ちょっ、苦しいっ……啓也、痛いよ」
 腕の中の喚くと、啓也はビクッと震えた。見れば彼は、自分で抱きついておきながら、どうして腕の中に私がいるのかわからないみたいに呆然としている。
「……汐里」
「もう。なんなの一体? ビックリするでしょ」
 私を包む腕はゆるんだけど、そのまま離れずに啓也を見上げた。いつもと違う様子に彼を心配する気持ちがつのる。
 啓也は自分の頭に手を当て、苦しそうに目を閉じた。眩暈を起こした時のように何度かブルブルと頭を振り、息を吐く。
「ごめん、汐里。驚かすつもりじゃなくて……ちょっと、変な夢を見たから」
「夢?」
「ああ。凄く、怖い夢……」
 夢の内容を思い出したのか、啓也はそこで言葉を切り、一度大きく身を震わせた。
 よほど怖ろしい夢だったらしい。今までも仕事が忙しい時などに「おかしな夢を見る」とぼやいていたことはあったけど、こんなに怯えているのは初めてだ。
 彼の背中に手をまわし、ゆっくりと撫でる。もう大丈夫だと知らせるように。
 そうやってしばらく撫で続けていると、強張っていた背中から力が抜けていくのがわかった。
「大丈夫?」
 ぴったりとくっついた姿勢で、啓也の顔を覗き込む。やっと安心できたのか、彼は静かに微笑んだ。
「うん、ありがとう。さっきは汐里と結婚する日の夢を見たんだ」
「へ?」
 思わず声を上げる。
 私と結婚する日の夢が、どうして怯えるほど怖いんだろう。実は無意識に結婚を嫌がっている……とか?
 導き出された可能性に、ちょっとだけ傷ついた。勝手な想像だけど。
 啓也はもう一度、溜息をつくと、私の頬に手を這わせた。まるで私がここにいることを確かめるみたいに。
「夢の中の話だけど、籍を入れる当日になって汐里が急に結婚はできないって言い出したんだ。理由を訊いても教えてくれなくて、ただ結婚はできない、もう一緒には暮らせないって言い張って出て行ってしまって……」
 つらそうに眉を寄せる啓也に向かって、うなずいてみせる。
「それで?」
「もちろん、すぐに追いかけたんだけど、もうどこにもいなくて見つからない。とにかく走って探して、汐里の名前を呼んだところで目が覚めた」
 夢だから、つじつまが合わなくてもしかたないんだけど、なんだかおかしな話だ。
 勘違いで行き違ったり、ケンカしたりで、既に何度か彼の元から逃げ出している私は、何かあれば、まず相談すると約束をしている。
 それに逃げたところでなんの解決にもならないことは、経験した私が一番よくわかっていた。今さら啓也に理由も言わないで出て行くなんて、あるわけがない。
「ふうん。私がそんなこと言うはずないのにね」
「ああ。でも起きてみたら、隣に汐里がいなくて驚いた。ちょっと寝惚けてたんだろうけど」
 なるほど、と心の中で手を打つ。一緒に寝ていたはずの私がいなかったことで、寝起きの彼は夢と現実が曖昧になりパニックを起こしたらしい。
 少しだけ申し訳なく思った私は、シンクに置かれたコップを指差した。
「喉が渇いて起きちゃったの。ごめんね」
 彼はシンクの方をちらっと眺めて、ゆっくりと首を振った。
「いや。汐里は悪くないよ。俺が勝手に変な夢を見ただけだし」
「でもどうして結婚の当日の夢なんだろうね。実はマリッジブルーとか?」
 違うとわかっていたけど、わざと茶化してみる。一瞬きょとんとした啓也は、あからさまに納得していない複雑そうな表情を浮かべた。
「俺がなるわけないでしょ。というか、相手に逃げられるかもって心配するのもマリッジブルーっていうの?」
「さあ、わかんないけど。結婚に対して不安になるっていう意味なら合ってそうじゃない?」
 さらにふざけてクスクス笑うと、彼は少し拗ねたように目をそらした。
「ったく。さっきは本当に焦ったっていうのに……」
 そっぽを向いて文句を言う啓也を、ギュッと抱き締める。さっきのお返しとばかりに思いきり腕に力を込めた。
「大丈夫。もうどこにも行かないから。啓也の傍から離れないし、離してもあげない」
 少しだけ傲慢に宣言する。
 啓也はニッと口の端を上げ、いつもの意地悪い笑みを見せた。
「望むところだよ」
 まっすぐに見つめ合った瞬間、思わず吹き出してしまった。自分でも気づいてしまうくらい、ひどいバカップルだ。
「もー、夜中になんの話をしてるのよ。寝室に戻ろう。明日も仕事なんだから早く寝ないと」
 恥ずかしさとみっともなさが混じり合った感情を、苦笑いでごまかす。普段からクサいセリフに抵抗のない彼は不思議そうにしていたけど、抱き合った姿勢のまま腰を掴まれ、持ち上げられた。
「わっ」
 突然、足が宙に浮いたことに驚き、声を上げる。
「ねえ、寝室に戻るのはいいけどさ。汐里が俺を離さないっていうの、証明してほしいかなー、なんて。そうしたら怖い夢も忘れられそうだし」
「はあ?」
 なんのことを言っているのか……は、薄々わかるけど、わからないふりをしておく。啓也の希望をきいていたら、また朝までコースになってしまう。
 私の重さなんて感じていないみたいに、彼は軽快な足取りで寝室に向かっていく。耳には絶え間なく様々な口説き文句が流れ込んできたけど、無視することに決めた。

「ねー、汐里。ちょっとだけならいいでしょ?」
「……」
「しおりー」
 ベッドに着いてからも続くおねだりのせいで、もう既に寝不足だ。
 ……本気でマリッジブルーになりそう。
 啓也に背を向け耳を塞いだ私は、彼が見た以上の悪夢に襲われていると気づいて、溜息をこぼした。

                                          End


   

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