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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  希望の青

 私は助手席のシートへ身体を預け、運転中の啓也を静かに見つめた。
 タイヤから伝わるかすかな振動に合わせて、彼の前髪が揺れる。その下にある表情は、どことなく沈んで見えた。
 運転席の窓の向こうには、藍色に染まりかけた空と海がどこまでも広がっている。昼間であればまぶしい景色も、夕暮れ時の今は物悲しく感じた。
 楽しくて思い出深かった旅行も終わり、家へ帰る途中。愛おしい気持ちと寂しさが混じり合った複雑な想いが、私から言葉を奪う。それは彼も同じなのか、お互いに無言のままだった。
 運転している彼の疲れをまぎらわすような楽しい話をしてあげたいのに、気持ちは沈むばかり。口を開いたら「帰りたくない」とかワガママを言ってしまいそう。私も啓也も明日は普通に仕事だから、本心を言ったところでどうにもならないことは、わかりきっていた。
 彼の横顔から視線をはずし、助手席の窓枠に肘をついて息を吐く。
 過ぎてしまえば、本当にあっという間の三日間だった。事前の予想どおりに色々されて大変だったけど、それ以上に嬉しくて幸せで。旅行がずっと続けばいいのに、なんて夢みたいなことを思ったりもした。
 もう一泊するのは無理だとしても、少しだけ一緒にいる時間を延ばせないかな……
 そっと彼へ視線を戻す。啓也が困ったように微笑んだ。私が見つめていることに気づいたらしい。
「汐里、そうやって俺のこと見るの禁止。帰したくなくなる」
 冗談めかしているけど、多分、本音なんだろう。彼が私と同じ気持ちでいてくれたことを、嬉しく思った。
「……帰らないのはダメだけど、少しだけなら遅くなってもいいよ」
 自分でも素直じゃないってわかってるけど、想いをそのまま言葉にするのは、ちょっと恥ずかしい。
 遠まわしな私の返事をどう取ったのか、啓也はニヤッと口の端を上げた。
「じゃ、寄り道していこうか」
 私のあいづちも待たずに、彼は走っている車線を変更し、スピードを落とす。段々と近づいてくる看板で、有料道路の降り口が数キロ先にあることを知った。
 さっきの憂鬱な表情からは想像できないくらい機嫌の良くなった彼に不安を覚える。物凄く勘違いをしていそう……たとえば、明日の朝まで一緒にいられる、とか。
 もちろんずっと一緒にいたいとは思うけど、えっちなことはもう無理。啓也の体力にはついていけない。
 青くなった私はあわてて言葉を付け足した。
「いいけど、ほんとに少しだけだよ? 明日、仕事なんだからね?」
 言外にお泊まりはなしだとほのめかす。啓也はわかっているのか、いないのか、楽しそうにカラカラと笑った。
「大丈夫。ちょっと寄り道するだけ。無理させないから安心して」
「んー」
 彼を信じてうなずきかけた私の瞳に、料金所の明かりが映る。ついでに、有料道路のすぐ脇にあるらしいホテル街のド派手なネオンも。
 ……まさか、ね。
 いやーな汗が背中を伝い落ちる。
 私が目を剥き固まっているのに全く気づいていない啓也は「ETCに対応してない有料道路って不便だよね」なんて、のんきなことを言っていた。

 有料道路から一般道へ出て約十分。嫌な緊張でガチガチの私を乗せた車はホテル街を通り過ぎ、浜辺近くの無料駐車場へ入った。
 多分、海水浴客のためにある場所なんだろうけど、日暮れ時のせいか、数台のキャンピングカーが停まっているだけで、ほとんどのスペースが空いていた。
 啓也に促され車を降りる。ドアを開けた瞬間、濃い潮の香りと波の砕ける音を感じた。コンクリートの堤防があるから直接は見えないけれど、すぐ向こう側が海なんだろう。
 ふと左手に何かが触れたのに気づいて顔を上げると、いつの間にか助手席側にまわっていた啓也が手を握っていた。
「ちょっとだけ、海を見ていこう」
「あ、うん」
 手を引かれるまま浜辺へ向かって歩き出す。啓也の寄り道の目的は、ここだったらしい。私はこっそりうつむくと、変な想像をしたことを恥じ、内心で彼に謝った。
 啓也に手伝ってもらって堤防の上へよじのぼる。駐車場側からは大した高さじゃないけれど、砂浜が低い位置にあるせいで、海側は五メートルくらいの落差があった。
 私の手を離した啓也が、下を覗き見る。
「ここから下りられなくもないけど、やめておこうか。戻ってくるのが大変そう」
 彼につられてまわりを見渡せば、浜辺と堤防の内側を行き来する階段が、かなり遠いことに気づいた。下りるのは簡単かもしれないけど、帰ってくるために砂浜をあそこまで歩くのは遠慮したい。
「そうだね」
 うなずいて、その場に腰を下ろす。海から吹きあがった潮風が、私の髪を強くなぶった。
 隣に座った啓也の肩へ、頭を寄りかからせる。お互い何も言わずに、ただ海を見つめた。
 もうだいぶ低い位置まで沈んだ夕日は、私たちの背後にある山陰に隠れてしまっている。上空の青さと雲に反射する紅は残っていたけれど、海は夜を思わせる深い群青に染まっていた。
「……汐里の色だな」
「え?」
 啓也のつぶやきに目を瞠り、横顔を見上げた。
 ハッとした彼は気まずそうに顔を背ける。自分で言ったことに驚いた、と、ばかりに。
「私の色って、なに?」
 啓也の態度から言いたくないことなんだろうと気づいてはいたけれど、自分に関わるのなら知っておきたい。私の追及に遭い、彼はそっぽを向いたまま小さく溜息をついた。
「俺が勝手に思ってる汐里のイメージが、ちょうどこんな感じの海の色なんだ。濃い青っていうか」
「そう、なの?」
 もう一度、遠くの海原へ目を向ける。波打ち際の荒々しさなど感じさせない、穏やかで深い色の水面がゆったりとゆれていた。
 自分自身で思うイメージと比べると、今の海の色はずっと大人っぽくて、落ち着いている気がするんだけど……
 納得しきれずに首をかしげる。後ろから伸びた腕に肩を抱かれ、引き寄せられた。
「汐里の名前は海を表してるだろ。だから基本的に海のイメージなんだけど、透き通ったマリンブルーとは違うんだ。俺の思う汐里はもっと深いんだよ。優しくて強くて、時々荒々しくて、底が見えない。どんなものでも受け止めてくれる感じっていうか」
「な、なに言ってるの、もう!」
 買いかぶりすぎな恥ずかしいたとえに、顔がほてる。
 実際の私は啓也が言うほど優しくないし、怒りっぽいし、弱いし、凄く底が浅いのに、どこを見てそんなことを言うんだろう。恋は盲目なのか、もしくは性質の悪い冗談か。疑いのまなざしを向けると、振り向いた彼にすかさずキスされた。
「俺にはそう見えてるの。ワガママで格好悪い俺を叱って、抱き締めてくれた。もう一度歩き出す勇気をくれた。汐里の色は俺にとって希望の青なんだよ」
 ちょっとオーバーな彼の言葉が心に沁みる。ふいに浮いた涙を見られたくなくて、うつむいた。 「ありがとう、啓也」
「え。なんで汐里がお礼を言うの? 俺が言うところでしょ」
 驚く彼に、首をふってみせる。
 ……きっと、同じ。過去にとらわれて身動きができなくなっていたのも、希望と勇気を与えられたのも。だから、ありがとう。
 心の中で啓也にもう一度、感謝する。これ以上、想いを声に出したら泣いてしまいそうだった。
 瞳に留まる涙で、視界がゆらめく。膝の上に置いた右手のリングに埋められた石は、今の海と同じ色をしていた。

                                          End


   

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