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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  きっと、依存症。

 休日明けの出勤日、会社に着くなり顔を合わせた智絵に、じっと見つめられた。
「え……何?」
 出掛けに姿見でチェックはしてきたけれど、顔に何かついているのだろうか。
 薄ら笑いを浮かべて首をかしげると、智絵は難しい表情で眉を寄せた。
「汐里のカレって絶倫よね」
「はあ!?」
 朝からいきなり何の話かと、目を剥く。
 からかっているわけじゃないらしい彼女は、至極まじめに私を指差した。
「だって汐里、休み明けは必ず疲れた顔してるんだもん。普通に休めてるなら、ゆっくりして元気なはずでしょ。休みだからってしつこく付き合わされてるんじゃないの? お疲れな割には、肌ツヤってるしぃ」
「うっ」
 智絵の指摘に思わず口ごもる。実際その通りだから、何も言い返せなかった。
 毎朝の習慣で新聞をバサバサめくりながら、彼女はデスクに頬杖をついた。奥の席から睨む主任を綺麗に無視して。
「にしてもさー、毎週それって凄いよね。カレいくつだっけ、歳」
「二十九」
 一昨日が誕生日だった啓也は、一つ歳を取った。
「へえ。そろそろ枯れてきてもいい年齢なのにねー」
 意外そうに眉を上げた智絵が、男性の沽券に関わる事をけろりと言う。
 啓也も含め世の男の人にすれば、多分、失礼な話なんだろうけれど、ちょっと枯れてくれてもいいと思っている私は力いっぱいうなずいた。
「ほんとにね」
「でも、あれかなー。汐里に逢うまで、ダサ男街道まっしぐらだったから、若い頃できなかったぶん今張りきってるとか?」
「……かな」
 あけすけな質問に苦笑いを返す。
 ダサ男の時と、今の啓也を見ている智絵も、彼の過去や本性までは知らない。実はドSの肉食だなんて思ってもいないはず。
 休み中、正確には休日前夜からの事を思い返した私は、そっと溜息をついた。
 智絵はわずかに同情をにじませた視線をよこしたあと、また一枚新聞をめくる。
「まあ依存症じゃなきゃ、いいんだけどね」
「うん?」
 何の話かと瞳をまたたく私に、彼女は顔を寄せ、ぐっと声の音量を落とした。
「ゆうべテレビで見たのよ。セックスに依存しちゃう人がいるって」
「え?」
「一種の逃避行動らしいんだけどね。単純にえっちな人って事じゃなく、ストレスとかトラウマとかで精神的に追いつめられて、セックスせずにはいられなくなる症状なんだって。自分でも気づかないうちに深刻な状態になってたり、大変みたい」
 そこまで言うと、智絵は身を引いて、フォローするためにか優しく微笑んだ。
「もちろん、汐里のカレがそうだっていうわけじゃなくてね。世の中には、そんな場合もあるらしいって話よ?」
「あ、うん」
 多分、智絵の事だから、私を心配して言ってくれているんだろう。
 軽くうなずいて微笑み返した私は、話を切り上げ、自分のデスクへ座った。
 パソコンを立ち上げながら、ぼんやりと啓也を思う。
 彼がセックスに依存しているのかどうかは判断できないけれど、私の脳裏に智絵が言った「トラウマ」という言葉がぐるぐるとまわっていた。
 夜、横になった私は、隣でベッドヘッドにもたれて雑誌を読んでいる彼を見上げた。
 間接照明の淡い光に照らされた啓也の横顔は、まだ濡れている髪と相まって、妙に色っぽい。ドキドキする胸のままに、しばらく眺め続けた。
 綺麗だなぁ……
 生活を共にする中で、男性としての彼を格好いいと思う事は多いけれど、今はただ美しいと感じた。彫刻や銅像みたいだとまでは言わない。でも、この風景を写し取った絵があったらいいな、と思うくらいには素敵だった。
 ふと、啓也が苦笑いして、雑誌を閉じる。
「そんなに見られると、穴が開きそうなんだけど。どうしたの、汐里」
「あ、ごめん……なんでもない」
 綺麗で見惚れていたなんて、ちょっと恥ずかしい。そわそわしながら視線をそらすと、雑誌を片づけて隣へすべり込んだ彼に、抱き寄せられた。
「正直に言わないと、イタズラして白状させるけど?」
 冗談ではないと証明するみたいに、啓也の手がパジャマの上から膨らみを撫でる。もちろん、それだけじゃ快感を覚えるまでいかないけれど、不穏な気配を察知して首を振った。
「もう。どうしてすぐ、えっちな事に持っていこうとするの?」
「えー、なんでだろうね。俺にもわからないけど、いつでもどこでも汐里とイチャイチャしていたい」
 彼の言葉に、ビクッと身体が震える。朝に聞いた智絵のセリフが、頭の中で再生された。
 トラウマとかで追いつめられてセックスせずにいられない。自分でも気づかない、深刻な症状……
 啓也が該当しかねない事実に、冷や汗が流れた。
 いつの間にか渇いていた喉を潤すため、ぐっと唾を飲み込んでから口を開いた。
「……啓也は、その……いつでも、えっちしたいと思ってる?」
「ん? そりゃまあ、理想としては毎晩できたらいいけど」
「えっちしないと不安になるとか、できないと思うと昔の事思い出しちゃうとか、ある?」
 嫌な緊張で鼓動が速くなる。変に焦ってしまい、デリケートな問題だというのに言葉を選ぶ事もできなかった。
 彼は一瞬きょとんとしたあと、眉を寄せ、首をかしげた。
「汐里、なんの話をしてる?」
「あ、う……」
 まっすぐに見つめられた私は、よくわからない戸惑いを感じて、ギュッと目をつぶった。

「なるほどね」
 たどたどしい私の説明を根気よく聞き、全てを理解したらしい啓也は、そう言ってうなずいた。
 失礼な事を言うなと、気分を悪くしたかもしれない。口元まで掛け布団を引き上げた私は、おそるおそる彼へ目を向けた。
「お、怒ってる? 疑ったりして」
「いや。汐里はただ俺の事、心配してくれただけでしょ?」
 何でもないという風に、啓也はからりと笑う。
「それに、依存症と言えば、その通りなんだろうし」
 ほっとしかけた私は、続いた言葉にぎょっとした。
「ええっ!?」
 彼は驚く私に向かってニヤリと口の端を上げ、額にキスを落とした。
「まあ、セックスに依存してるんじゃないけどね。なんなら、汐里がいいって言うまで、えっちな事するの我慢しようか?」
「え……えっと、それは」
 突然の提案に驚き、言い淀む。
 はっきり言って啓也のペースに付き合うのは大変だし、もうちょっと自重して欲しいと切実に思ってる。だけど、毎日でもしたいという彼に我慢を重ねさせる事もしたくない。一応、次の日が休みじゃなければ、それほどしつこくされないし、四日に一晩くらいは何もしないで寝ているし。
 どっちつかずな想いを行ったり来たりしていると、静かに頭を撫でられた。
「汐里はちょっと勘違いしてると思うんだけどさ。俺がきみとしたいのは、気持ちよくなりたいからだけじゃないんだよね」
 さらに意外な事を言い出した彼を、じっと見つめる。
 私のびっくりした顔が面白かったのか、啓也は小さく吹き出して苦笑した。
「んー、どう言ったらいいのかな。依存というか、フェチというか……ああ、でも、マニアが近いかも。俺、汐里マニアなの」
「え、何それ」
 啓也作の謎の造語に、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされる。
 優しく頬へ触れた彼の指先が、形を確かめるように輪郭をたどった。
「マニアってさ。好きなものにこだわりまくるでしょ。それと一緒。俺は汐里の事を何もかも知りたくて、見たくて、触って確かめたいんだよ」
「何もかもって……」
「うん。だから、えっちしたいの。汐里が顔赤くして恥ずかしがってるとこも、キスでぼーっとしてるとこも見たいし。身体中どこもかしこも、それこそ汐里が知らないところまで確認したいし。実際に触っていじって、どんな風になるのか知りたいし。気持ちよくなってる時の声も」
「も、もう、わかったからっ」
 恥ずかしい事をべらべら続ける口を、手でふさぐ。けど、待ってましたとばかりに、手のひらを舐められた。
「ひゃっ!?」
 慌てて手をどけると、啓也はまるで狙い通りって感じにクスクス笑った。
 恥ずかしいのと、ムカムカするのが混ざった、おかしな気持ちで顔がほてる。上目遣いで睨むと、なだめるように瞼に口付けられた。
「可愛い」
「うー……」
 あんなに心配したのがバカらしくなってくる。拗ねたのを態度に表して、顔を背けた。
 まだ頬の辺りをうろうろしていた指先が、耳から首、肩を撫でながら下りていく。くすぐったくて息を詰めたのに合わせて、耳の裏に唇を押し当てられた。
「ありがとう、汐里。それから、ごめん」
 優しく告げられた感謝と謝罪に、内心で首をひねる。「ありがとう」はともかく「ごめん」の意味がわからない。
 振り向いて彼の顔を見ながら、どういう事か聞きたかったけれど、耳にキスされているせいで動けなかった。
「自分でも、しすぎだとは思ってた。けど汐里の事が好きすぎて、ちょっとおかしくなってたっていうか、止める気にならなかった。心配かけて、本当にごめんね」
 じっとしている私の耳元で、啓也は懺悔の言葉をぽつぽつとこぼす。
 沈んだ声に、胸の奥が痛んだ。
「あ、あのね。啓也とするのが嫌って言ってるんじゃないからね? トラウマとか、そういうのじゃなければ、別に……」
 惚れた弱みなのか何なのか、自重してほしいという気持ちとは反対の言葉が口から出た。我ながら、おかしいと思うけど、訂正する気にはならなかった。
 ふっと彼が微笑んだ気配が伝わる。
 身じろぎもできずにドキドキしていると、伸びた指に唇をつままれた。
「汐里は優しいね。でも、そういう事言うと、また止まらなくなるよ? それとも、逆にもっとしてほしいって事?」
「んんっ」
 ぎょっとして目を見開く。唇を押さえられたまま、小刻みに首を振った。
 今でも体力の限界ギリギリなのに、これ以上なんて、どう考えても無理。
 私の反応を見た啓也は、カラカラと笑った。
「まあでも、セックスじゃなく、汐里依存症だって事を証明しなきゃいけないからね。汐里がしてって言うまで我慢するよ」
 ……あれ、そういう話だったっけ?
 話題が思ってもいない方向へ流れ出した事に、眉を寄せる。
 軽く混乱し、ぼんやりしているうちに、啓也はまた私の耳へ口付けた。
「そういう気分になったら、ちゃんとしたいって言葉で教えてね。いつまででも待つから」
「ふぇ!?」
 つまり、それってもしかして、私が啓也にえっちしたいって言わなきゃいけないという……
 当たって欲しくない想像を肯定するみたいに、彼が悩ましい溜息をついた。
「……ああ、汐里がどうやって誘ってくれるか楽しみ。今まで俺に合わせてたから、汐里のペースでいいよ。シチュエーションも、体位も好きなのでいいし」
 聞きたくもない単語が、次々と耳に流れ込む。もう既に恥ずかしくて、おかしくなりそうな私は、心の中で叫び声をあげた。
 ほんとにもう、どうしてこんなにえっちでヘンタイなのっ!
 泣きたくなるほど、げんなりした私の耳に、啓也は誘い文句のバリエーションについて延々と語り続けていた。

                                          End


   

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