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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  選ぶ幸せ

 休日の午後、よく晴れているけれど冷たい風の吹くなかを、待ち合わせのカフェへと向かう。
 近年よく言われている異常気象のせいか、今年の冬はやけに寒い。三月も末だというのに冬用のコートが手放せずにいた。
 吐く息の白さに、今から会う人の体調が気にかかる。
 あんまり詳しくないけど、妊婦さんに冷えは大敵だって聞くし……
 信号待ちの間に、通りの反対に建つカフェへ目を向けた。大きなガラス窓の向こうから、文緒さんが手を振っている。
 今日は彼女とお茶をする約束をしていた。文緒さんのお腹にいる赤ちゃんが、啓也の子供じゃないかと疑われた一件の時に、ふたりきりで会いたいと言われたとおりに。

 先に席へ案内されていた文緒さんに近づくと、前よりもゆったりしたラインのスーツを着た彼女は、軽く腰を上げ会釈をした。
「お呼び立てして、ごめんなさいね」
「あ、いいんです。それより座っていてください」
 少し苦しそうな中腰の姿勢に驚き、慌てて手を振る。うろたえる私に気づいた文緒さんが、ふんわりと笑った。
「気遣ってくれて、ありがとう。でも、そんなに大事にしてくれなくても平気よ」
「そうなんですか」
 思わずほうっと息を吐く。文緒さんが優しくお腹を撫でるのにつられて、目を向けた。
「もう安定期にも入っているし。今、六ヶ月目なの。そろそろ目立ってきたかしら」
 確かに先月会った時よりも、お腹がふっくらしている。誰の目にも妊婦さんだとわかるくらいになっていた。
「もう動いたりするんですか?」
「ええ。最近はちょっと元気すぎるくらい。まだ性別はわからないけど、わんぱくなのよ」
 困ったようにしながら微笑む文緒さんの表情は幸せそのもので、見ている私も嬉しくなる。心が温かくなるのと同時に、羨ましく思った。
 私にはまだ想像もできないけれど、愛している人の子供を産む幸せは、きっと凄く大きいんだろう。
「いいなあ」
 つい気持ちが声に出てしまった。
 一瞬、驚いたように眉を跳ね上げた文緒さんは小首をかしげる。
「あら。汐里さんには啓也さんがいるじゃない。早く結婚すればいいのに」
「あ……それは、ちょっと保留というか……」
 はっきりと答えられない私の態度に、文緒さんの瞳がキラリと光った。
「なにか事情がありそうね。それは聞いても?」
 少し身を乗り出した彼女から、熱いまなざしを向けられる。別に隠すほどのことでもないけど、有無を言わせない雰囲気にたじろいだ。
 私は曖昧にうなずきながら、いつかの夜に啓也がグチっていた「見た目に合わず、やり手で強引」という文緒さんの人物評価を思い出していた。

 他人が聞いても興味ないはずの私の葛藤というか、中途半端な気持ちを、文緒さんは呆れることなく真面目に聞いてくれた。仕事も、結婚も子供も、諦められない私を、欲張りだと断じることもしなかった。
「その気持ち、わかるわ」
 聞き終えた文緒さんが、遠い目をしてぽつりとつぶやく。さっきまでとは違う物憂い態度に違和感を覚え、心がゆれた。
「文緒さん?」
「私も結局、孝輝(こうき)のことを諦めきれなかったもの……ああ、矢木のことよ」
 少し照れくさそうに、文緒さんは肩をすくめた。
 うちに押しかけてきた春日さんを矢木さんの家へ送っていく時に聞いた、彼女と矢木さんの複雑な関係が思い出される。あの場に居合わせた私が事情を知ってしまったことは、当然、文緒さんもわかっていた。
「お家のために諦めようとしていたんですか?」
 私の質問に、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。もちろん、そのことも枷にはなっていたけれど、それ以上に自信がなかったの」
 彼女の漏らした意外な言葉に目を瞠る。外見も性格も羨んでしまうほど素敵で、大企業の社長として成功している文緒さんが、不安を口にするとは思っていなかった。
「自信?」
「ええ。忠誠心のかたまりみたいな彼が、私を対等な女として愛してくれるのか。もし想いが通じたとしても、仕事と家庭の両立ができるのか。職場にも迷惑がかかるでしょうし、私が今の仕事を続ける以上、家族に大きな負担をかけるのは、わかりきっていたから……」
 家のこと以外は何も問題ないように見える影で、文緒さんは密かに悩んでいたらしい。今まさに結婚と仕事の狭間でゆれている私には、その苦悩が痛いほど理解できた。
 つい目を伏せてしまう。私を見た文緒さんが、ふっと微笑んだ。
「いいの。沢山悩んでつらかったのも無駄ではないし、今は幸せよ。まあ……少しだけ汐里さんが羨ましいけれど、ね」
「え?」
 不思議なことを言う彼女に、首をかしげる。全てが円満に解決した今、私に羨ましがられるところがあるとは思えない。
 文緒さんは穏やかな表情を浮かべ、またお腹に手を当てた。
「自分の選択を後悔してはいないわ。もしやり直せるとしても、私は必ず孝輝の手を取る。でもね、私には仕事を捨てて、家族のためだけに生きることができないの。社内の新体制がやっと確立したところだから、新たな社長交代はひどい混乱を招いてしまう。育児休暇もほとんど取れないし、この子の世話も彼とベビーシッターに任せることになるでしょうね」
「あ……」
 さっき彼女が言った「家族への大きな負担」の意味に胸をつかれる。子供のいない私にだって、それがどんなに寂しいことかはわかった。
「もちろん仕事が嫌というわけじゃないのよ。でも、結婚だけを選べるあなたが羨ましいとも思うの。嫌味だとか、その選択肢を推しているというのではなくてね。勝手なことを言って、ごめんなさい」
 文緒さんの謝罪を受け、大丈夫という意味を込めて首を振った。
 仕事と結婚を両立せざるをえない彼女と、仕事か結婚のどちらかしか選べない私。立場も状況もまるで反対なのに、同じように悩んでいる……
 内容はそれぞれ違っても、生き方の選択を迫られるのは皆同じなんだと今になって気づいた。そして誰しもが、得たものの代わりに何かを失う。人生とは、そういうものなんだろう。
 黙りこんでしまった私をどう思ったのか、文緒さんが優しく目を細めた。
「納得できるまでとことん考えて、決めるといいわ。もし啓也さんが何か文句を言うようなら、いつでも連絡をちょうだい。味方になるから」
 驚いて彼女を見つめる。
 文緒さんは茶目っ気たっぷりに、パチッと片目をつぶった。
「ごちゃごちゃ言うなら取引減らすぞ、って脅かすとかね」
「ええっ!」
 あからさまな職権乱用だ。焦る私をよそに文緒さんはカラカラと笑う。
「まあ、それは冗談だけど。今、私が孝輝と一緒にいられるのは汐里さんと啓也さんのおかげだから。おふたりも幸せになってくれるように願っているわ」
 心強い言葉に、胸の奥がじわりと温かくなった。
「……はい。ありがとうございます」
 見つめ合い、微笑み合う。まだ何も決めてはいないのに、強く背中を押されたような気がした。

 文緒さんと別れたあと、カフェから次の目的地へ行く途中で、大きな梅の樹を見つけた。
 こぢんまりした平面駐車場の片隅に立つ古木は、厳冬のせいで、やっと蕾をほころばせたところだ。開きかけた蕾の間から覗く白い花びらに春を感じた。
 頬を撫でる風はまだ冷たいけれど、いつの間にか季節変わりを迎えていたらしい。足を止めた私は、少しの間、梅の蕾に見入った。
 ふいに携帯が鳴り出す。啓也からの着信の時にだけ流れる曲。
 今日出かけることはあらかじめ話してあったから、いつもと違う場所にいる私を気にして、かけてきたんだろう。嬉しいけど子供じゃないんだし、いくらなんでも心配しすぎだと苦笑した。
「啓也、どうしたの?」
「あ、汐里。今どこにいる?」
「んー……さっき文緒さんと別れて、歩いてる」
 あえて場所は教えずに、状況だけを説明した。
 私が現在地をごまかしたことに気づいていないのか、啓也は普通にあいづちを打った。
「そっか。俺もうちょっとで仕事が終わるんだけど、迎えに行こうか?」
「でも、まだ会社にいるんでしょう」
 啓也が定時で帰ってくるのは、夕べのうちにこっそりチェック済み。私の仕事が休みで、外まわりや接待が入っていない日は、できるだけ早く帰れるよう彼が仕事を調整していると、お父さん経由で聞いていた。
「ああ。でも車だし、遠くても行けるよ」
「ううん、いい。もうすぐだから」
「え?」
 会話が繋がらないことに気づいた啓也は、不思議そうな声をあげた。
 電話口でほくそ笑む。
「私が行くから。そこで待ってて」
「汐里?」
 驚く彼にクスクスと笑いながら、梅の樹の横に立てられた案内板を見上げた。そこには「守崎エンジニアリング株式会社 来客用駐車場」と表示されている。
「今、啓也の会社の駐車場にいるの。来客用の方のね。驚かせたくて勝手に来ちゃった」
「え……本当に?」
「うん。角の梅が咲きかけてて、可愛いよ」
 疑っていたわけじゃないだろうけど、見慣れた景色を説明されたことで冗談ではないと気づいたらしい。電話の向こうの啓也が急に慌て出した。
「え、ちょ、そこで……は危ないから、入り口にある守衛室で待ってて。すぐ行く」
 思わず吹き出す。真夜中でもあるまいし、人目のある駐車場が危ないなんて大げさだ。啓也の会社のまわりだけ治安が悪いのかと心の中でつっこみを入れた。
「大丈夫。でも入り口の前まで行っておくね。ゆっくりでいいから」
 一方的に告げて、返事を待たずに通話を終えた。溜息混じりにもう一度、苦笑いを浮かべ、梅花を見上げる。
 大事にされすぎるのも、なかなか大変だ。仕事を辞めたら束縛がひどくなりそうな気がして、ちょっとだけ憂鬱になった。
 ……必要以上に束縛しないことも、結婚の条件に入れておかないと、ね。
 かたむいた陽の光のなかで、白く浮かぶ花を目に焼きつけ足を踏み出す。歩道のアスファルトにぶつかったヒールが、カツンと小気味いい音を立てた。

                                          End


   

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