中岡治療院
家の近くにある病院は古くてボロい。
もう30年以上前に建てられたコンクリート打ちっぱなしの建物は見事にヒビ割れてるし、色も汚くて陰気で今にも幽霊が出そうな雰囲気だ。
8年前に隣の市に大きな総合病院ができてからというもの、めっきり患者も減ったとかで、近々閉めるんじゃないかというのが近所の噂になっているくらい。
私は初夏の眩しい陽射しの中を、てくてく歩いてその病院に行き着くと、一度ぐるっと空を仰ぎ見てから前に向き直った。
所々赤く錆びた鉄の看板。診療時間の下に書いてある電話番号が未だに5桁なのに呆れた。
透けないガラス扉の黒くて真四角の取っ手を力いっぱい引っ張ると、ゆっくりと開いていく。重いったらありゃしない。
自分が通れるギリギリの隙間から身体を捩り込むと、すかさず消毒液特有のつんとした臭いがした。
外も陰気だけど、中も相変わらず暗い。絶対的に窓の数が足りないんだと思う。
くすんだエメラルドグリーンのリノリウムの床に、茶色のビニールスリッパ。足を入れる部分には「中岡治療院」と金文字で印刷されている。ブラウン管の小さいテレビと、野暮ったい水槽。中には太った金魚が一匹。昔と全く変わらない景色に一瞬、自分の歳を忘れそうになった。
最後に来たのって小学生の頃?
懐かしいなんてものじゃない。タイムマシンで過去に遡ったら、こんな感じかも知れない。
私はスリッパに履き換えると、見たところ誰もいない待合室をペタペタ歩いた。
誰もいないのは仕方ない。だって今は昼の1時。表向き病院は休憩時間だから。
この病院には、先生と看護婦さん兼受付事務のお婆ちゃんの二人しかいない。お婆ちゃんは12時から3時まで休憩だけど、先生は突然の患者に備えて、ずっと院内にいるって事を私は知っていた。そしてそんな急患がほとんど来ない事も。
受付のカウンターをコンコンと叩いた。元から狭い院内で、診察室と繋がってる受付をノックすれば聞こえるだろうと思った。
どうせ先生は電話や来院に気付かなかったら大変だと、音楽もテレビもかけずに医学書を眺めているんだろう。
想像通り、すぐに診察室が開いて先生がひょっこり首を出した。キョロキョロしてから受付の私を見つけ、ほんの少しだけ、眉を上げた。
先生は受付の奥からカルテを探し出して、診察室の机にポンと置き私を見つめた。
10年くらい来ていないのに、よく残ってたものだと感心する。
「穂乃花(ほのか)ちゃん、今日はどうしたの?」
「胸の辺りが苦しいの。息が詰まる感じ」
私もちろりと先生を見てから、鳩尾の少し上を指で示した。
相槌をうちながら、先生は医者にしか読めない特有の文字で何かをカルテに書いていく。
ひょろっとした細長い体型に長めの白衣。眼鏡と短い髪。昔からよく知っている人。といっても私より10歳も上だけど……。
「……いつくらいから苦しいのかな? 他に症状ある?」
「苦しくなったのは去年くらいから。あと動悸もあるし、時々無性に泣きたくなるかも」
私の言葉に先生は目を見張った。
「そんなに前から放って置いたの? もっと早く来なきゃ駄目でしょう」
先生は私をやんわりと窘めてから、ふうっと溜息をついた。怒られたわけじゃないのに、少し悲しい。
「だって、そのうち治まるって思ってたんだもん。でも、どんどん苦しくなって……」
「うーん、まだ何かは想像つかないけど、ちょっと見てみようか」
柔らかく微笑んで、私の頭にポンポンと手を置いてから、先生は傍らの聴診器に手を延ばした。
それに合わせて、私もごく当たり前にシャツのボタンを外していく。
少し速くなった心臓の音と、震える指。やっぱり緊張する。
ボタンを全て外し、前をはだけさせてから先生を見つめると、一瞬、表情が強張った気がした。
気のせい?
銀色の聴診器が肌に触れると、そこだけが冷たくて、外の暑さに慣れた身体がぞくりと粟立つ。
ぺたり、ぺたり、ぺたり。
当たり前だけど無言で聴診器を使う先生を、こっそり見つめた。
「……ねぇ、先生?」
「ん?」
「お医者さんって、色んな人の下着見れて役得だなぁって思ったりしないの?」
先生は私の質問にきょとんとしてから、ゆっくり苦笑いした。
「それは無いかなぁ。患者さんは辛くて来てるんだし、そんなの気にしてる余裕も無いしね」
「なぁんだ」
一応、気合い入れて選んだ下着だったんだけどな……。
背中も同じようにぺたぺたされた後、もう一度前を向くと、先生はぼんやりしている私に代わってシャツを合わせて下着が見えないようにしてくれた。
「さて、じゃあ、そこに仰向けに寝てくれる?」
「はぁい」
促されるまま、真っ黒なビニール製の長椅子みたいなベッドに寝転がる。
服の上からお腹をあちこち押されて、苦しいような、くすぐったいような感じがした。
「どこか痛いところは無い?」
「平気」
「んー……」
私の手を掴んで引き起こしてくれた先生は、顎に手をあてながら難しい顔でカルテを覗き込む。見える横顔に、どくっと心臓が鳴った。
先生は机に備え付けの、これまたボロくて黒いイスに座ると、カルテを何枚かめくった。
白衣に包まれた大きな背中。女の私とは違う、大人の男の人。
……ねぇ先生、その白衣はいつも誰が洗ってくれているんですか?
ふいに浮かんだ問いを、私はぐっと飲み込んだ。
「いま、病院の中にいるのって、私と先生だけだよね?」
「ん……そうだね」
「ふたりっきりだよ?」
「うん」
ぽつりとつぶやいた私の言葉に、先生は生返事を返した。
無言で何かを書き付けている先生と、ベッドに座る私。オンボロ椅子のギリギリという音に混じって、遠くから廃品回収車の放送が聞こえた。
透けないガラス窓の向こうは眩しいくらいに光ってる。今時エアコンも無くて、その代わり少し新しめの扇風機が置いてあった。
これが、先生の場所。
ゆっくりと見回して、目を細めた。
もともとが健康優良児の私は、小学校以来、特に怪我や病気もせずにこれまで育ってきた。
たまに風邪はひいたけど、それだって市販の薬を飲んで1日寝てれば治るくらいのものだった。
だから、中岡治療院の前の先生が亡くなったという話も人伝で聞いただけ。
小学生の時はおてんばだったせいで、よく怪我をしては病院に行っていた。出てくる先生は少し強面のお爺さんで、痛いなんて言ったら怒鳴られるのでは無いかとビクビクしていた思い出しか無い。実際はとても優しい先生だったそうだけれど……。
隣町の病院の事もあって、きっと閉めるんだろうという噂が近所じゅうで囁かれだした頃、中岡治療院には若い先生がやってきた。
昔、すぐ近くに住んでいた10歳上のお兄ちゃん。
詳しい事はよく知らないけれど、お兄ちゃんは前の先生の親戚だったらしい。
県内の大学病院にいたらしいお兄ちゃんは、前の先生が亡くなったというので、この病院を続けていくために戻ってきたらしかった。
うちのお婆ちゃんが腰を悪くしたのは、ちょうどその頃。
毎週隣町の病院に行くのは大変だからと、月に1度は隣町へ、その他の週は中岡治療院へ通いだした。
いくら医者と言っても中岡治療院は内科・小児科なんだし、どう考えても整形外科に通院しなきゃいけないウチのお婆ちゃんが行ったら迷惑だろうと思ったのに、先生は湿布を出して貼るくらいならできるからと受けてくれた。
そのうち先生は夕飯を買いに、私のバイトしているコンビニに来るようになった。
少しずつ話をするようになって、病院での先生の様子はお婆ちゃんから聞いて、いつの間にか私は先生を好きになっていた。
「穂乃花ちゃん、申し訳ないんだけど、これはちょっとウチでは診れないと思う」
「……」
静かに見上げると、先生は椅子に座ったまま背中を丸めて項垂れた。
「診たところどこも悪く無さそうなんだ。呼吸も脈も熱も正常だし、内臓疾患でも無さそうだし。これ以上はここでは診れないから、大きな病院に……」
「行っても無駄。先生にしか治せないから」
「え?」
すぐに言い返した私は、さっと視線を逸らした。
少しだけ、むかつく。
こんな誰もいない時間狙って突然やってきて、ほのめかすような事言ったらフツー気付くでしょ?
今までだって、バイトとか、外で会った時とか、それらしい事けっこう言ってきたのに、全然気付いてないっぽいし。
鼻の奥がつんとして、目の前の景色がぐにゃぐにゃ揺れだした。
もう……悲しいのかくやしいのか全然判らない。凄いめちゃくちゃだ。
「鈍感なのもいい加減にしてよっ。こんな風に押しかけてるんだよ、ちょっとは好かれてるのかなとか思わないわけ?!」
重力に逆らいきれなくなった涙が、ぽろんとこぼれた。
最低だ。こんなこと言わせるなんて。
私は両手で顔を隠すと、そのまましゃくりあげた。
「……好か……えっ?!」
椅子のきしむ音と、何かにぶつかる音がして、最後に「うわっ」と声が聞こえた。
顔を覆っていても先生のうろたえぶりが判って、更に落ち込む。
そっと腕を下ろすと手で涙をぬぐった。
自分が先生の視界にいない事ぐらい判ってたけど、それでももうちょっと平静を装って欲しかった。
「帰る。ごめんなさい、変なこと言って」
声を出すだけでも、また涙が出そうになる。私は何とか言葉を搾り出して、先生を見ないようにしながら踵を返した。
全然、意識されてないって気付いてたのにな……馬鹿な私。
少しだけ鼻をすすり上げて、診察室のドアの脇に置いておいたバッグを取った。
このまま帰ろう。食い下がったって、きっと先生は振り向いてくれない。……そう、思ったのに。
空いている右手を力強く捉まれて、私は振り向いた。
さっき慌てた時に椅子から転げ落ちたのか、先生は床にへたり込んだまま、私の右手を握っている。俯いているせいで表情は見えなかった。
『どうして?』と私が聞く前に、先生は呻くように呟いた。
「……ここ経営が苦しいんだ。設備も器具も古いし、俺一人食ってくのがやっとで。最新医療の研究や知識からも、どんどん遠ざかっていってる」
話がいきなり過ぎて、一瞬何の事だろうって不思議に思ったけど、項垂れて肩を落とした先生を見ていると、まるで懺悔の様だった。だから、私はただ相槌を打つ事しかできなかった。
「うん……」
「でも、俺はここが好きで、この生活を変えられない。だから……誰かを幸せにするとか、無理なんだ」
繋がったままの手から、かすかな震えを感じた。
先生の言いたい事は判る。病院がボロくて儲かってないから、先生は貧乏で。将来、彼女とか奥さんを養っていけないって事で。つまり私とも付き合えないって言ってるわけで。
言葉だけを信じるなら断られているはず。それなのに、どうして、この手は繋がっているんだろう。
重なった私と先生の手を見ているうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
私を何だと思ってるの。誰かに養われてなきゃダメな女? それとも、お金が無いとダメな女?
「馬鹿にしないで」
立ったまま睨むと、先生はハッと顔を上げて私を見つめ、すぐに辛そうに視線を逸らす。
「ごめん」
何への謝罪なのかは判らないけれど敢えて無視して、私は先生と同じ目線まで身体を屈めた。繋いでいた手を乱暴に振り払い、指を絡めるように握り直す。
「小さい町医者だから、お金無いから、だから何だっていうの?! 先生は私を幸せにできないって言ったけど、私は先生と一緒じゃなきゃ幸せになれない!」
言い切ってやったら、先生はぽかんと私を見つめた。
今までで一番近い位置で見る先生の顔は、やっぱり私の大好きな先生で。馬鹿馬鹿しいくらい真面目で、優しくて、男のくせに線が細いところとか、ずっと病院にいるからやけに青白いところとか。普通に考えたら、あんまり魅力的じゃないところすら愛しくて。
気付いたら、手を解いて抱きついてた。
顔を埋めた白衣からは古臭い消毒薬と、かすかな先生の匂いがする。
「穂乃花ちゃん……」
躊躇しているらしい先生の腕がゆっくりと私の背中に回されたのを感じて、心が震えた。
「先生……好き」
幸せ過ぎて時間の感覚がどっかに行っちゃった私には、どれくらいたったのか判らないけれど、しばらく座ったまま抱き締めあっていた。
先生がゆっくり顔を上げて腕を解いたから慌てて見上げると、顔を赤くしたまま視線を逸らされた。
「凄く嬉しいんだけど……そろそろ服のボタン留めてくれないと、誘われてるのかもって勘違いしそう」
ハッとして見下ろせば、肌蹴た服の間から下着がばっちり見えている。
うそっ、私ボタン留め忘れてたぁ?!
慌てて襟を掻き合わせ後ずさると、先生は困ったように苦笑いした。
「せ、先生のえっち!」
「それはちょっと心外だなぁ、ボタン全開だったのは俺だけのせいじゃないし。それに、俺は穂乃花ちゃんが思ってるよりもおじさんだから、清い交際とかするつもり無いよ。それでもいいの?」
先生の瞳の中に、まだ燻る迷いを見た気がした。
「いいよ」
即答して、見つめ返す。
大人の分別だか何だか知らないけど、疑り深い先生に私の想いを嫌というほど思い知らせてやるんだから。
私は素早く近付いて、先生の頬にキスをした。
「な……」
仰け反る先生に微笑む。
この想い全部かけて全力でぶつかっていくから、覚悟してね。先生。
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