悔恨
一浩は開け放したままのリビングから、ゆっくりと閉まるドアをただ見ていた。
振り返る事もせずに出て行った恵理子の後姿が、くっきりと脳裏に焼き付いている。
追いかけて連れ戻せばいいだろう!
心の叫びを抑えるように拳を握ると、固く目を瞑った。
閉まりきったドアが立てる掛け金の音が、まるで死刑宣告のように響いた。
そのままどのくらいそうしていたのか、日が落ち辺りが暗くなってから一浩は目を開けた。
短く息を吐いて力なく顔を上げると、テーブルの上にあった照明のリモコンを押す。
すぐに明るくなる室内。
眩しさに顔をしかめて見回し、もう一度息を吐いた。
恵理子のいない見慣れた空間は、なぜか他人の家のように冷たい。
真の寂しさに触れた気がして、一浩は身体を震わせた。
誘われるようにキッチンのキャビネットから愛用のグラスを出す。
途中、カウンターに置かれた夕飯が見えたが、とても手を付ける気にはならなかった。口に入れたが最後、精一杯張り巡らせている理性の壁が壊れてしまう気がした。
いつもなら恵理子が薄めて出してくれるウイスキーを瓶ごとテーブルに持ち出し、そのままグラスに注いだ。
悪酔いした方がいい。動けなくなって恵理子を追いかけられないように。
一浩はグラスを満たした琥珀色の液体を見つめ、口を付けた。
はじめに見初めたのは、自分。
同じ会社に2年遅く入社してきた彼女。部署は違ったものの一目見て手に入れたいと願った。
今になって振り返れば相当、強引だったと思う。入社したてだという事につけ込んで「仕事の面倒を見てくれる良い先輩」面して近付いた。
彼女が自分に思いを寄せるほど親密じゃないのは気付いていたが、説き伏せて交際を始めた。
そのままなし崩しに結婚し、仕事も辞めさせた。完全な自分の独占欲ゆえに。
ウイスキーを舐めながら、一浩は壁に掛けてある写真を眺めた。
新婚旅行で訪れたイギリスで買ったフォトフレーム。丸く切り抜かれた台紙に写真を挟み込んで、何枚かの写真を飾る事ができる物だ。
知り合ってすぐに行ったデートの時の写真、それから結婚式のスナップ。新婚旅行に、その他の旅行のもの。
全て知り合ってから数年以内のものだ。
それ以降の写真は、無い。
自覚していないようだが、恵理子は自分で物事を決めるのが苦手なタイプだ。
だから一浩が押せば、大方の事は思うとおりにしてくれる。自分の気持ちを抑えても。
結婚してしばらくはそれでも良かった。だが、次第に恵理子の表情が硬くなっていくのに気付いた。
恵理子だって主張はしなくても色々と思うところがあったのだろう。1人の人間なのだから当然だ。一浩は自分の想いが勝ち過ぎて、そんな当たり前の事さえ失念していた。
気付いた時が遅すぎたのか、その後何度も恵理子の本音を聞きだそうとしては頑なに拒否された。
「別に」「何でもない」と言い張るばかり。
やがて一浩も無理に聞き出すのを止めた。
折りしも仕事での昇進があり、忙しくてそれどころでは無くなったというのもあった。
少しずつ、ぶれ始めた思考の中で、一浩はぽつりと言葉をこぼした。
「……子供でも、いればな」
予想以上に震えていた声に、ひとり自嘲する。
それはずっと考え、思っていた叶わない願い。一浩を縛り付ける苦しみ。
恵理子が知っていたかは定かでないが、一浩は子供が好きだ。若い時から自分の子が欲しいと思っていた。恵理子との結婚を急いだのも少なからず、そういう意図があった。
だから結婚してからは避妊などしていなかった。だが年を経ても一向にその気配は無く、ふたりを焦らせた。
不審に思っているらしい恵理子には「子供は授かりものだから」と慰めたものの、やはり不安は拭いきれない。一浩は恵理子を傷つけまいと知り合いの病院を訪ね、自身が不妊であると知った。
医師からも説明され、どうしようも無い事なのだと、運命なのだと、頭では判っていても気持ちがついて来ない。
何よりも、事実を知った恵理子が自分の元を去るのでは無いかという恐ろしさが、一浩を苛んだ。
それから……一浩は恵理子に触れる事ができなくなった。
事実を知られる事を考えただけで落ち込み、そんな気分になれない。男のプライドなどという下らないものもあったのだろう。
だが恵理子はやはり何も言わなかった。
愛し合う事さえしなくなったふたりの間には、いつしか冷たい何かが横たわり、やがてその距離も離れていく。
どちらが悪いのかと言えば、自分だ。
実のところ弱いくせにプライドだけ高く、傲慢で自分勝手な男だと罵られれば、いくらか楽だろうに、恵理子はただ黙って一浩の傍にいる。
このままではいつか破綻すると判っていても、一浩はただ先延ばしにする事しかできなかった。
そしてまた時が流れ、相変わらず気持ちを黙秘し続ける恵理子に感化されたのか、一浩もまた無口になっていた。
何かを話しかけても恵理子の瞳が拒絶する。それを見るのが居たたまれず、一浩は疲弊していった。
メル友を紹介するというサイトに出会ったのは、その頃だった。
実際いかがわしい目的に利用している人間ばかりだろうが、一浩は純粋に自分の気持ちを聞いてくれる誰かを求めて登録した。
既婚者で、結婚生活がうまくいかない。
同じような目的で登録している人のほとんどは女性で、自然、女性のメル友が増えていった。
互いの愚痴を言い合ううちに親しくなり、会って欲しいと言われる事があっても、それだけは絶対にしないと自分の中で決めていた。
どんな関係になっても、一浩は変わらず恵理子を愛していたから。
『ユリエ』と知り合ったのは全くの偶然だった。
自分とよく似た悩みを抱える『ユリエ』に共感し、次第に親しくなっていった。彼女はどこか恵理子と似たところがあって、一浩の心を揺さぶる。
冷え切った関係の恵理子から逃げ、似た女に気持ちが動いている自分に愕然とした。
『ユリエ』と連絡を取るのは止めようと思った。
このままでは間違いなく彼女に気持ちを移してしまうだろう。
自分の身勝手を棚に上げて、他の女に想いを寄せるなど許される事ではない。
一浩は中身の少なくなったグラスをテーブルに置くと、着たままだった背広の上着を脱ぎ内ポケットから携帯を取り出した。
皺になる事など構わず上着は投げ捨て、携帯のメールボックスを開く。
『ユリエ』とのメールは全て残してあった。
『こんばんは。
こんな時間にメールするなんて珍しいでしょう? 実は久しぶりに外にいるんです。
今日は母と観劇に来ました。これから会場に入ります。感想はまた後で。ユリエ』
彼女との関係を絶とうと決心した夜に来たメール。
あの日もちょうどこうして1人酒をしている時に、ここで受信したのだと思い出す。
恵理子は上京した母親と舞台を見に行くと出掛けていた。
まさか、と思った。
そんな事があるわけが無い。ただの偶然だ。だいたい彼女は携帯を持っていない。
有り得ないと思いながらも、一浩は慌てて『ユリエ』にこれから観る舞台の演目名を聞いた。
すぐに返ってきたメールには、恵理子が忘れていったパンフレットと同じ名前が書かれていた。
それから何度かメールを交換するうちに、一浩は『ユリエ』が恵理子であると確信した。
密かに携帯を持っているのも気付いた。
恵理子がどういうつもりで携帯をつくり、あのサイトに登録したのかは知らない。しかし咎める気にはならなかった。
まして自分も同じ事をしているのに、何と言ったらいいのか。
本当ならば恵理子に全てを告げるべきなのだろうと思う。しかし、一浩はこのまま恵理子の隠された本音を知りたいと思ってしまった。
何もかも話して、恵理子にも話して欲しいと告げても、きっと彼女はまた口をつぐむだろう。それ程にふたりの関係は捩れてしまっている。
ならばこのまま見知らぬ人間として接しよう。
その先に何があるのかは判らない。でも、事態が好転する何かが得られるかも知れない。
一浩は数年ぶりに触れた恵理子の素顔に心を躍らせた。
残った酒をそのままに、一浩は『ユリエ』からのメールを次々に読んでいく。
数え切れないほどメールを交換したが、最近のメールのほとんどは自分が寄せる気持ちに困惑する内容だった。
我ながら、どうしようもない。
久しぶりに触れた恵理子の核心に、懐かしく狂おしい想いを抱くのに時間はかからなかった。
初恋さながらに気持ちは止められず『ユリエ』に愛を語った。どこまでも我侭で滑稽な自分。
一浩は淡く苦笑すると、『ナナセ』が送った最後のメールを開いた。
『妻とは別れます。君との事を真面目に考えたいから。
こんな事を言ったら困るよね?でも僕の気持ちの問題だから気にしないで欲しい。
ただ君を想う事だけは許してください。ナナセ』
なぜこんな事をしたのかと問われれば、恵理子を試していたのだろうと思う。
想いが強くなればなるほど、一浩は『ユリエ』が愛しているのは『ナナセ』なのか、夫である一浩なのかをはっきりさせたくなった。
全てを終わらせる前に、恵理子の真の声を聞きたい。
だから互いのしがらみを外し、選ばせる方法をとった。酷いのは承知の上で。
『ナナセ』は妻と別れ一人に。恵理子には離婚届を渡す。全ての決定権を彼女に委ねた。
彼女がどちらを選んだとしても、もしくは選ばなかったとしても、一浩は全てを告げるつもりでいた。
夫と浮気相手を演じ続ける事が恵理子にとって良くないのは判りきっていたし、自分の気持ちも限界だった。
本当は離れたくなど無い。
しかし、すがりついて「行くな」と言えば、恵理子はまた自分を殺してここに残るだろう。それでは同じ事の繰り返しだ。
彼女が自分で決め、それを尊重するのが、これまで傷つけ続けてきた男にできる事だと思った。
『あなたが結論を出したのなら私に止める権利はありません。でも私は幻です。
あなたが見ている夢にしか過ぎないのです。それを忘れないで。ユリエ』
……まぼろし。
幻なのは『ユリエ』ではなく自分の方だろうと思った。
恵理子が一浩と『ナナセ』のどちらを選ぶかを考えれば『ナナセ』に分があるのは判っている。それでも僅かな望みを込めて、離婚届と共に婚姻届を入れた。
この後に及んで諦めきれない自分が情けない。
一浩は震える指で送るつもりのないメールを作成した。
『恵理子へ。
僕が今までメールで伝えた事には一つの嘘も無い。
君がメールで言った事に嘘が無いのなら、戻ってきて欲しい。一浩』
偽りの無い一浩の気持ち。
『ナナセ』のアドレスから、このメールが届けば、恵理子はその意味を理解するだろう。
怒るだろうか、それとも騙されたと泣くだろうか。
本当は、送信してしまいたい。万に一つの可能性でも戻って来てくれるのなら。
だが彼女が自分の行く道を決断するまでは、許されない事だ。
一浩はそのまま携帯を置くと、残りの酒を一気に煽りテーブルに突っ伏した。
喉の奥へ流れていく熱を感じながら、目を閉じる。どこかで何かが床へ落ちる音がしたが、もうどうでも良い。
酔いがまわってぼんやりとしている一浩は、床に落ちた携帯からメールが送信された事など気付くはずも無かった。
誰かに呼ばれたような気がして、一浩は身体を起こした。
いつのまにかうとうとしていたらしい。
少し眠ったせいで、だいぶ酔いも醒めている。
見れば、すでに深夜。
……恵理子は今頃、実家に着いて眠っているだろうか。
普通の在来線に乗ったとしても、とうに着いているだろう。
一浩は何度か頭を振ってからゆっくりと立ち上がった。
いつまでもこうしていても仕方が無い。自分でこうなるように仕向けたのだから。
とりあえずシャワーでもあびようと踏み出し、足元に携帯が落ちているのに気付いた。
眠っているうちに落としたらしい携帯を拾いあげるのと同時に、家のインターフォンが鳴った。
無音の室内に響いた音に身体を強張らせ、動けないでいると、今度は携帯が高らかに鳴り出した。
誰からの着信かなんて、見なくても判っている。
一浩はぎこちない手付きで通話ボタンを押し、目を閉じて耳に当てた。
大きく息を吸い込む。
どういう用件で掛けてきたのかは判らない。
インターフォンを鳴らしたのが彼女かも、判らない。
ただこれだけは今伝えたい。
――― ずっと君だけを愛している。
End
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