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 はじまりの鍵

 少しの緊張感を持って、静かに自宅の鍵を掛けた一花は、掛け金が下りる音にほうっと息を吐いた。
 後ろを振り返り微笑むと、こちらを見ていた父親も笑顔を返してくれる。
「……すまないね、一花」
 亮平の言葉に首を振った。
 顔で笑っていても、寂しいのはお互い判りきっている。
「私よりも、お父さんの方が思い出多いし、つらいでしょ」
 愛用のキーホルダーから鍵を外し、手渡した。受け取った亮平はそれをバッグにしまってから、陰りの無い笑顔を見せた。
「いいんだよ。思い出は全部、私の中にある。家が無くたって一花やお母さんの顔を見れば、すぐに思い出せるからね」
 見た目に合わない気障なセリフも、今ならおかしくない。一花は静かに頷いて、胸を押さえた。
「ちょっとは寂しいけど、再出発だもんね」
「ああ、そうだよ。特に一花は、晴れの門出だ」
 亮平の言わんとしている事を理解した一花は、さっと頬を染めた。

 以前から言っていた通り、気候の温暖な土地に家を買った両親は、少し前にそちらへ居を移した。海と山、自然豊かな土地は響子の心を癒す力になってくれるはずだ。
 一方、一花は自宅に残り、家財や自分の荷物の整理をしていた。家が人手に渡るのはまだ先だが、先にやっておかなければならない事は沢山あった。
 3月に再会した小野里は、その翌週に東京へと引越した。転勤も引越しも、決まっていた事だから仕方が無い。
 別れる前に「東京に来て欲しい」と言われたが、家の整理やらに時間がかかり、ふたりは遠距離恋愛を余儀なくされていた。
 転勤したばかりの彼はやはり忙しいらしく、こちらに戻る暇も無かったから、もう二月も会っていない。

 腕時計を見た亮平が眉を上げ、一花を促す。もう一度だけ家を見上げ、踵を返した。
「荷物は、小野里くんが受け取ってくれるのかい?」
「……うん。私より早く着くと思うから」
 今更なのに気恥ずかしくて、俯く。
 彼と一緒に暮らす事は、誰よりも先に亮平に相談していた。反対されても従う気は無かったが、響子の事があるので言わない訳にはいかなかった。
 去年の年始に会ったときから、小野里を買っていた亮平は賛成してくれたものの、響子には隠しておく方が良いだろうという事になった。
 そして、今日。全てを片付け終えた一花は、小野里の元へと向かう。
 喜びと期待、それから不安。全てを胸に秘めて、一花は一歩を踏み出す。
 それは、長かった1年半の終わりを意味していた。

 新居近くの施設へ響子を預け、駆けつけてくれた亮平とは、東京駅で別れた。
 最寄り駅まで迎えに来てくれるはずの小野里に会って行くのかと思っていた一花は、一刻も早く母の元に帰りたいらしい父に苦笑した。
 初めての土地、初めての電車。
(……どんな所に住んでいるのかな。会わなかった間に、どこか変わったかな)
 もうすぐ会えると思うと緊張する。凄く嬉しいのに、少し怖い、不思議な気持ちになった。
 指定された駅で降り、携帯に電話を掛けた。すでに改札にいると聞いてそちらに向かう。一歩一歩コンクリートの階段を降りる度に足が震えた。
 降りきった正面、自動改札の横に立つ小野里が一花を見て、片手を挙げる。
 最後に会った時と、何一つ変わっていない。2ヶ月しか経っていないのだから当たり前の事なのに、ほっとした。
 湧き上がる喜びに泣きそうになった一花は、涙をこらえて近付いた。
「ごめんね、待たせちゃった……?」
 会えなかった時間を確認するようで「久しぶり」とは言いたく無い。あえて挨拶を抜いた一花に、小野里はにやりと笑った。
「ああ、1年と2ヶ月も待った」
「もう。それは言わないでよ……私だって、会いたかったんだから」
 少し拗ねて見せる。
 時々、小野里はこうして嫌味ともつかない冗談を言う。
 一花にも事情があったのだし仕方ないだろうという軽い憤りを感じつつ、それだけ彼に求められている事が嬉しかった。
 ごく自然に伸ばされた手が、一花のバッグをさらい、代わりに空いた方の手を絡められる。2ヶ月ぶりに触れ合った事に、胸が高鳴った。
 駅から10分ほどかかるというマンションまで、話をしながら歩く。目に映る景色が、これから暮らす街かと思うと嬉しくなった。
「ここ」
 立ち止まった小野里に合わせて、目の前の建物を見上げる。
「けっこう立派なんだね」
「そうか?」
 実際は比較的新しいだけの、よくある中層マンションなのだが、これまで一戸建てにしか住んだ事の無い一花の目には、都会的で格好良く映った。
(……ここで、小野里くんと暮らす……)
 今更ながら、どきどきしてくる。鍵を取り出して、オートロックを解除した小野里を見ながら、一花はこくっと喉を鳴らした。
 エレベーターで6階へ上がり、その一番奥が目指す部屋だった。
 ドアを開けてくれた小野里に促され、先に入る。突き当たりのドアから光が入っているものの薄暗い廊下は、新しい家の匂いに混じって、かすかな彼の香りがした。
「ねぇ、引越しの荷物って……」
 さっきから心臓が鳴りっぱなしなのを悟られないように、わざと明るく話しかける。しかし、最後まで言い終わらないうちに、後ろからきつく抱き締められた。
「一花、会いたかった」
 耳元に聞こえる吐息交じりの声。一花はぎゅっと目を瞑って、小野里の腕に触れた。
「……私も、だよ」
 後ろから覆いかぶさる温もり。同じくらいうるさい心臓の音が、重なって混じり合う。
 少し身じろぎすると、腕の力が緩んだ。一花は身体を反転させて向かい合い、彼を抱き締め返した。驚いた小野里に視線を合わせて微笑む。
 示し合わせたように触れる唇。久しぶりのキスに身を固くしたのは最初だけで、あっという間に熱に呑まれた。
 何度も交わされる口付けに胸が苦しくなった一花は、顔を逸らして息を吐く。追いかけてきた小野里の手に顔を包まれたかと思うと、次の瞬間には、重なった唇に舌が挿し入れられた。
 驚いた一花が、大きく震える。彼と離れるまでの短い間に、キスは数え切れないほどしたが、こんなに深いものは初めてだった。
 口腔内をなぶられる感触に背中が粟立つ。震えながらも受け止めた一花は、小野里が離れた後も荒い呼吸を繰り返していた。
「大丈夫か?」
「……うん」
 心配そうに覗き込む彼に頷いて見せる。本当は動悸が激しすぎて、くらくらしていたが、恥ずかしくて言えなかった。
「俺は、あんまり大丈夫じゃねぇけど」
「え?」
 肩を竦めて苦笑いした小野里は、最後に触れるだけのキスをして、リビングに繋がっているらしいドアを開けた。
 言われた意味がさっぱり判らない一花は、ただぼんやりと離れていく背中を見つめる。
「荷物こっちに入れといたけど、どうする?」
「あ、うん。ありがと」
 掛けられた声にハッとして、彼の後を追いかけた。
 さっきの言葉は何だったのだろう。
 不思議に思いながら、なんとなく聞くのが怖かった。

(……ど、どうしよう)
 夜、リビングの床にへたりこんだパジャマ姿の一花は、落ち着き無くそわそわしていた。小野里は入浴中で傍にいない。
 引越しと移動で朝から働き通しだった一花を気遣って、小野里が早めに風呂を用意してくれた。彼に勧められ先に入らせて貰ったところで、急に緊張してしまい、上がった後も動悸が治まらない。
 恋愛経験と知識の乏しい一花にだって、今夜起きるであろう事は想像がつく。
 同棲する中にそれが含まれているのも判っていて、一緒に暮らす事を決めたのだから、今更、嫌だとは思っていない。しかし、判っていても緊張するのは仕方のない事だった。
 遠距離恋愛は2ヶ月続けたが、直接の付き合いは1週間ちょっとしかしていない。キスをするのも腰が引けてしまうのに、一緒に寝るなんて刺激が強すぎる。
 ぎゅっと目を瞑って、首をぶんぶん振った。何か別の事をしていないと、倒れてしまいそうだ。
 一花は昨日会った志織に、餞別だと言って渡されたプレゼントを思い出し、おたおたしながら荷物を開けた。
 淡いピンクのラッピングペーパーで包まれたそれは、意外に軽い。絶対に今日中に開けるように指定されていたから、食べ物かと思ったのにそうでも無いらしい。
 リボンを解いて開いた一花は、出てきた物に目を見開いた。
 そこにあったのは、絶対に自分では買わないような、フリルとレースのふんだんについた下着。薄紫で大人っぽく清楚だが、ショーツの脇がリボンになっているのを見て眩暈がした。
(し、志織っ……!)
 にやにやと笑う志織の顔が脳裏に浮かぶ。
 いくらなんでも、こんな下着をつけるのは恥ずかしくて無理だ。とりあえず隠そうと取り上げると、下着の隙間から小箱が転がり落ちた。
「何これ?」
 何の気なしに拾い上げ、まじまじと箱裏の商品説明を読んだ一花は、用途と目的を悟って青ざめた。
(な、な、なんで?!)
 とにかく急いで下着と小箱をラッピングペーパーで巻きなおし、一緒に入れられていたカードをめくる。

『 Dear 一花
    可愛くて グッとくる勝負下着 選んでおいたよ
    これで 小野里くんと ラブラブしてね♪
    あとヒニンはちゃんとすること 家族計画は大事だよん
    ガンバレー!
                    Flom しおり 』

 読み終えた一花は、がっくりと項垂れた。
 確かに、付き合う上で大切な事だと判っているが、恥ずかしすぎる。今の一花には直視できない代物だった。贈ってくれた志織に申し訳なく思いつつ、手早く鞄に戻して蓋を閉じた。
 突然響いたドアの開く音に、ビクッと身体が震える。驚いて見れば、いつの間にか上がっていたらしい小野里が、リビングに戻ってきたところだった。
 パジャマ代わりらしいハーフパンツを穿いているが、上は裸で首にタオルを掛けただけという格好に一花は飛び上がる。
 あからさまに挙動不審な一花に、不思議そうな顔をした小野里は、自分の姿を見下ろして首を傾げた。
「あー……もしかして、ちゃんとしたパジャマとか着ないとダメか?」
「えっ! ううん、だ、大丈夫」
 一花にすれば、裸を見てしまった事が問題なのであって、着ている物の違いはどうでもいい。極力、小野里を視界に入れないように視線を逸らした。
 首から提げたタオルで髪をがしがしと拭いた小野里は、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「一花も飲むか?」
「う、うん。貰う」
 小野里がこちらに向けて缶を掲げてくれたが、銘柄も何も見ずに頷いた。
(……お酒の力を借りてしまおう。それがいい。酔ってしまえば、緊張も解けるはず)
 俯いたまま震える胸を押さえる。気付かれないように、そうっと吐き出した息すら、震えているような気がした。

 少しでも酔ってしまえば緊張や不安や怖さが、いくらか軽くなるだろうと思っていたのに、受け取った一缶全部を飲んでも一花は全く酔えなかった。余りに緊張しすぎてアルコールが回らないらしい。
 他愛の無い話で気を紛らわせながら、自分の体質を恨んだ。
 飲み終わった一花は、小野里に言われるまま寝る支度を整え、寝室に連れて来られた。当たり前だが一つしかないベッドに身を固くする。どきどきしすぎて、耳まで熱い。
「セミダブルだから2人でも平気だと思うけど、一花が隣に誰かいると寝れねえって言うなら、俺しばらく向こうで寝てもいいぜ?」
 クローゼットからTシャツを引っ張り出した小野里が、さりげなく言った。
(向こう? リビングで?)
 リビングに少し大きめのソファが置いてあったのを思い出した一花は、シャツを着ている小野里を見つめた。
 彼の真意が判らない。一花は少なからず男女の関係を意識して同棲を決意したのだが、小野里はそうでは無いのだろうか。
(……それとも、試されてる?)
 一花にとって小野里が初めてできた彼氏だという事は、とうに知られていた。優しい彼は、そんな一花に逃げ道を作ってくれたのかも知れない。
「……ううん、大丈夫。ありがと」
 ぐっと顎に力を入れて答えると、一花は先にベッドに潜り込んだ。ふわりと彼の香りに包まれる。
(大好きだから、平気)
 ベッドの反対側がきしみ、小野里が近付いた気配がした。騒がしい心臓の音を聞きながら、一花は彼の温もりをじっと待つ。伸びた手に、ゆっくりと頭を撫でられた。
「今日は疲れただろ。まだ慣れねえだろうけど、ちゃんと寝ろよ」
「? うん」
「じゃ、おやすみ」
 ごろんと寝返りを打った小野里は、向こうを向いてしまう。訪れた静寂に、一花は呆然とした。
(これは……どういうこと?)
 何もかもが初めてな一花は、展開が読めずに慌てる。
 余り考えたくは無いが、こういう事は小野里の方が詳しいのだろうし、お任せすればいいのかと思っていた。
 軽くパニックを起こした一花は、女性から誘うという暗黙のルールでもあるのだろうかと馬鹿な事を考え、即座に否定した。
 早々に眠ってしまったのか、目の前の小野里の背中はぴくりとも動かない。覚悟したはずの気持ちがしぼむのと共に、悲しくなった。
 もしかしたら、想像していたよりも全然魅力の無い一花に呆れたのかも知れない。考えてみれば、ここに着いた時にして以来、一度もキスをしていなかった。
 気付いてしまった事実に愕然とする。すぐ近くの彼の背中が急に遠のいた気がして、一花は慌てて手を伸ばした。
 手が触れた事に気付いた小野里が、首を回してこちらを見た。まだ眠っていなかったらしい。
「どうした? ……て、何でそんな顔してんだ?」
 鏡が無いから判らないが、自分でも情けない顔をしていると思う。
 驚いた小野里が身体を反転させて、一花に向き直った。
「だって……小野里くんが、おやすみとか言うし」
「え?」
「キスも全然してないし。自分でも魅力無いとか判ってるけど……」
 つい恨み言が出る。言いながら、更に悲しくなってしまった。
 一花の言葉を聞いた小野里は、虚を突かれたようにぽかんとした。
「それって、誘ってんのか?」
「えっ!」
 そんなつもりは無かったので、逆に驚いた。しかし、よくよく考えれば、そうじゃないとも言い切れない。
 口をつぐんで頬を染める。一花から目を逸らした小野里は、溜息をついて緩く苦笑した。
「ほんっとお前って、読めないわ」
「?」
「あのな、俺だってお前の事抱きたいって思ってるけど、我慢してんだよ。引越しに移動で疲れてるだろうし、慣れないとこにきて、いきなりは辛いかと思ってさ」
 少し恥ずかしそうに、小野里は自分の考えを述べた。
 判りにくい彼の優しさが、一花の心を暖める。ふいに浮いた涙が、ぽつりとシーツに落ちた。
「小野里くん……!」
 間近にあった彼の首に腕を回す。思い切り抱き締めると、小野里の身体がかすかに震えた。
「つか、人の話聞いてねえだろ……離れないと、襲っちまうぞ?」
 耳元で囁かれる低い声に背中が粟立つ。身体の一番奥が、強く脈打った。
 一花は少しだけ身を引いて、小野里の瞳を真っ直ぐに見つめる。欲望に炙られた瞳が、鈍く光った気がした。
「いいよ」
 溜息と共に吐き出した言葉に、小野里が息を呑む。
(覚悟なんて最初からいらなかった。この想いさえあれば、何も怖くない)
 近付いた小野里の唇が触れる直前、一花はそっと目を閉じた。
 彼の隣にいる幸せが、身体を包み込んでいた。

 どこか遠くでドアの閉まる音を聞いた一花は、そうっと瞼を上げた。
 見慣れない室内と寝具に一瞬困惑したが、何度か視線を動かして、ここがどこであるかを思い出した。
 カーテンの向こうはすでに明るくなっている。時間を確認しようと身を起こし、全身のだるさに息を吐いた。
 酷くは無いが、昨夜、小野里を受け入れたところがじわじわと痛む。覚えている限りの事を頭に浮かべた一花は、恥ずかしさに頬を染めた。
 また寝転がって、隣の空いているスペースを撫でる。彼がどこに行ったのかは知らないが、戻ってくるまでこうしていようと思った。
 何度もキスをして、気持ちを伝えた。うわ言のように彼の名を呼んだ。初めての一花には比較できないが、小野里はとても優しくしてくれたんだと思う。
 想いも身体も全部一つに混じり合った時の幸せを噛み締めるように、一花は自分を抱き締めた。
 そのままじっとしていると、静かにドアノブの回る音がした。
 そっと顔を覗かせた小野里は、一花が起きているとは思っていなかったらしく、少し驚いてから微笑んだ。
「まだ寝てると思った」
「……さっき起きたの」
 直接、顔を見るのが照れくさい。一花は手近な肌掛けを口元まで引き寄せた。
 すぐ傍に来た小野里が、一花の頭を撫でる。くすぐったくて目を閉じると、軽いキスをされた。
「身体、しんどくねえか?」
 手を引かれて起き上がり、ベッドに座った。
 心配そうに覗き込む小野里に、笑顔を向ける。気遣ってくれる優しさが嬉しかった。
「うん。ちょっとだるいけど、平気」
「そうか? 一応、できるだけ自重したつもりだけど、最後の方、理性飛んだっつーか……無理させたんじゃねえかと思って」
 曖昧だった記憶を具体的に思い出してしまった一花は赤面し、身を縮める。それでも、やはり自分の為に我慢してくれていたのだと知り、申し訳なく思った。
 ベッドに腰掛けたまま、彼に腕を伸ばす。一花に合わせて屈んでくれた小野里を抱き締めた。
「ありがとう、大好き」
 精一杯の気持ちを込めて言う。小野里はわずかに驚いたものの、眉を寄せて短く嘆息した。
「そうやって無自覚に煽るの止めてくれ。心臓に悪い」
「え?」
「ま、いいわ。後で責任取って貰うし。とりあえず飯食おうぜ、さっき買ってきたから」
「う、うん……?」
(責任って、何だろう)
 嫌な予感がする。が、聞く事もできずに、一花は手を引かれるまま寝室を後にした。

 昨夜は出前で済ませたし、朝食くらい何か作ろうかと思っていたのだが、調理器具が包丁1本しかないと言われ断念した。
 面倒くさいという理由で料理をしない小野里は、いつぞやに「ファーストフードは、ちゃんとしたご飯」と言っていた通りの生活を送っていたらしい。
 せめて鍋とフライパンくらいは今日中に買って来ようと心に決め、ふたりでコンビニのサンドイッチを食べた。
 もともと生活用品を買いに行く予定だったので用意をしていると、小野里に呼ばれた。
「悪い、渡すの忘れてた。これ」
 手の平に乗せられた、銀色の鍵。
「……ここの?」
「ここ以外に、どこの鍵があるんだ?」
「判ってたけど、聞いてみたかったの。これから一緒に暮らすなんて、何だか嘘みたいで」
 手の中の鍵を弄ぶ。何の変哲も無いよくある形なのに、特別な気がした。
 小野里はポケットに入れていたキーケースから1つの鍵を選び取り、一花の手に重ねる。
「ほら、同じだろ」
「……うん、そうだね」
 手の平を覗き込んだ小野里を見上げると、当然のように唇が触れ合った。
「嘘でも夢でもねえし、『これから』じゃなくて『もう』一緒に暮らしてるんだよ」
 きょとんと見返した一花に、小野里は口の端を上げる。
「そっか」
「ああ」
 一花は鍵を握り、そのまま背伸びをして小野里に腕を伸ばした。驚いた彼がよろけるの構わずに抱き締める。
「嬉しい」
 顔を埋めて呟くと、小野里の胸がぴくりと震えた。上から聞こえる大げさな溜息。
「だから……昨日の今日は辛いんだって」
「え、なに?」
 不思議そうに首を傾げた一花を引き剥がし、小野里は低く唸る。
「あー、くそ。明日も休みなら出掛けねえのに!」
「だめだよ、それじゃ夕飯作れないもの。今日は、小野里くんが好きな物作るね」
 キーケースを小野里に返した一花は、これまで自宅の鍵につけていたキーホルダーを合鍵に通した。
 鞄の中身をチェックしながら、献立をあれやこれやと頭に描く。この2ヶ月内緒で通っていた料理教室の成果を、やっと発揮できる事が嬉しい。
 鼻歌でも出そうな気分の一花は、ふいに手を掴まれ顔を上げた。視線の先には、眉間に皺を寄せた彼がいる。
「……いいか、今すぐ出掛けて、速攻買い物終わらして帰ってくるからな」
「えーっ?! せっかくのお出掛けなんだよ? 色んなとこ行きた……」
 半ば引き摺られていく一花の抗議と提案は、勢いよく閉まったドアに遮られた。
(……な、なんなのー?)
 手を引かれる一花のバッグの中では、見慣れたキーホルダーと目新しい鍵がぶつかり、楽しげな音を奏でていた。

                                          End

   

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