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 星空通信

 夜、誰も彼もが寝入っているような時間。
 そっとベッドから起き出した女は、ベッドサイドに置いてあった携帯電話を手に取り、傍らの窓を開けた。
 かすかに蛙の声が聞こえるだけの静かな闇の中に、アルミサッシの立てる音が響く。昼間なら全く気にならないその音が、やけに大きく聞こえた。
 驚いた女はビクッと肩を震わせ、後ろのベッドで寝ているはずの夫を振り返った。
 彼の身体に合わせて膨らんでいる布団はぴくりとも動かない。息を詰め、規則的な寝息を確認すると、ベランダに用意していたサンダルに足を入れて、慎重に網戸を閉めた。
 夏とはいえ人家もまばらな田舎住まいのせいで、ヒートアイランドとは縁がない。比較的暑いところで育った女に、ここの夜の風は少し冷たく感じた。
 戻って上着を取って来ようかとも思ったが、夫を起こしてしまうのは困る。どうせメールをするだけの、わずかな時間だからと我慢することにした。
 夏の夜特有の湿気た空気と匂いに包まれながら、ベランダの手すりにつかまって天頂を見上げる。新月の今日、見上げた女の目の前には、数えきれない星々が煌いていた。
 ……煙る天の川。ベガ。アルタイル。デネブ。
 それぞれの組する星座を一つずつ確認した女は、幸せそうに微笑んだ。
 もともとは東京に住んでいた両親が、自然の中で暮らしたいと結婚を機にIターンし、そこで生まれた娘に星来(せいら)という名を与えた。
 目新しい娯楽はなかったものの、自然の中で健やかに育った星来が、自分の名前の由来になった星空に興味を示したのは、当然の成り行きだったのかも知れない。中学、高校と天文部に所属し、天体観測を趣味にしていた星来は、今でも星を見るのが何よりも好きだった。
 一通りの星座を眺めた星来は、手に持っていた携帯を開いた。
 自動で点灯したバックライトが、闇に慣れた目に痛い。何度かまばたきをして目を慣らすと、星来は手馴れた操作でメールのボタンを押した。
 新規作成。宛先は『メルクス』 題名は『星空通信』

 ***

 待ちに待った新月。ちょっと空気は湿気ているけど、星は綺麗です。
 夏の大三角ばっちり見えてるよ。天の川も。写メできないのが、残念。
 時間ができたら、いつか一緒にゆっくり見たいね。
 星も、あなたも、大好き。

 ***

 夜空の様子を書くだけのつもりだったのに、ラブレターのようになってしまった文面に頬を染める。しかし、星の美しさに感動した気持ちと、同時に溢れた彼への想いを伝えたくて、そのまま送信ボタンを押した。
 まぶしく光る画面を見つめ、送信されたのを確認した星来は、そのままメールボックスを開く。これまで彼とどれほどの『星空通信』をやり取りしたのかを、きまぐれに振り返ってみたかった。
 最近は彼の仕事が忙しいので、一方的にこちらから送るだけになっているが、それでも受信が二四一通。送信は四一五通にもなっていた。この携帯に機種変更してから、もうすぐ二年。一日に何通も送ることがあったから一概には言えないが、単純に計算して二日に一度以上は送っていたのかと、自分のことながら笑ってしまった。
 『メルクス』と知り合ったのは、今から五年前。最初は携帯電話のコミュニティサイトの星座サークルに、お互いメッセージを書き込むだけの仲だった。しかし半年もするうちに、星来は彼が気になって仕方なくなった。彼の書き込む内容はいつも宇宙への尊敬と感動、そして知識に溢れていた。
 ……彼ともっと星について、深く詳しく語り合いたい。
 学校を卒業して以来、まわりに同じ趣味を持つ友人のいなかった星来は、彼と個人的にメールをやり取りするようになった。
 その日見た星空の様子を『星空通信』という題名をつけて送り合う。ふたりの住む場所が離れているぶん、その交流は興味深いものだった。
 最初の年は、ただ星のことばかり。二年目は互いの現状報告を交えて。三年目にこれまでの境遇や夢を伝えたところで、星来は自分が彼を愛し始めていると気づいた。それは彼にとっても同じだったようで、メールの内容はごくゆっくりと甘やかに変化していった。
 だが星来と彼は、日本の両極端に住んでいると言っても過言ではないほど、遠く離れていた。互いに社会人で仕事もある。煮え切らないまま時は流れ、また一年が過ぎた。

 ふいに、すぐ後ろで金属のこすれる音がする。ハッとして振り向いた先には、眠っていたはずの夫が網戸を開けて立っていた。
「もう……また、星を見てるの?」
「洸(こう)さん」
 寝惚け眼の夫がふわっと欠伸するのを見た星来は、見つかったのをごまかすために苦笑いを返す。
 結婚する前から妻の星好きを嫌というほど知っていた夫は、渋い顔をしたものの怒らずに、星来を後ろから抱いて指先を握った。
「ほら、冷たくなってる。星を見たらダメとは言わないけど、上着を着なさいって言ったでしょう」
「う……ごめんね」
 メールをするだけのつもりだったのに、いつの間にか物思いに耽っていたせいで冷えてしまっている。星来が素直に謝ると、洸は覆いかぶさるようにギュッと妻の身体を抱き締めた。
「星来に、ここの気候は寒すぎるんだよ。何年かすれば慣れるだろうけど……暖かい?」
「うん」
 包み込む腕から、じわじわと熱が伝わる。身体だけでなく、心も温かくなった星来は静かに口元を綻ばせた。
「……ああ。今日は新月だったのか……」
 星来を抱き締めたまま空を見上げた洸が、溜息と共につぶやく。
 月光の影響を受けない星々は、力強く輝いていた。
 しばらく何も言わず、同じように星を見ていた星来は、頬に触れた指先に気づいて振り返った。
 待ち構えていた彼の唇が、自分のものに重なる。優しいキスに微笑むと、離れた洸は星来のこめかみに頬を押し当てた。
「洸さん?」
「ごめんな。忙しいからって放ったらかして……新月も忘れてた」
 触れた場所から、くぐもって伝わる声に小さく首を振る。
「ううん。いいの」
 長く離れていた時を思えば、こうしてハンドルネームではない彼の名前を呼べるだけで幸せだった。
 思わず笑みがこぼれる。
「ん?」
 不思議そうな声を上げる洸に、星来はなんでもないと、もう一度首を振ってみせた。
 今さっきメールで送ったばかりの望みが、すぐに叶ってしまった。嬉しいけれど、あとであのメールを見られることを考えると恥ずかしくてくすぐったい。
 くるりと身体を反転させた星来は、背伸びをして洸の首に腕をまわす。背の低い妻に合わせ、かがんでくれた夫の頬に口付けた。
「愛してる」
「ああ。俺も愛してるよ。星来」
 耳に届く甘い言葉に、お互い微笑んだ。
 窓辺で抱き合うふたりの近く、ベッドサイドに置かれた携帯のLEDが点滅している。ささやかにまたたく光は、まるで星明かりのようだった。

                                          End


   

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