秘密
世界が緋色に染まる夕暮れ時、女はいつもの通り夕飯の支度をしていた。
もうそろそろ夫が帰ってくる。
それまでには、夕飯と風呂の準備を終えなければ……。
せわしなく動く女の背後で、最近はやっている新人歌手の曲が流れた。
好きなわけでは無いけれど流行っているというだけの理由で設定した着メロだ。
女は飛びあがると作りかけの夕飯を放り出し、あわててカバンから携帯を取り出した。
『新着メール 1件』
手慣れた操作でメールを開封してゆく。
送信者は見なくたってわかる……『ナナセ』
『こんな時間にメールしてごめん。どうしても君と連絡が取りたくて。
今仕事が終わった。いつか君と待ち合わせできたらいいのに。
いつも君の事を考えている。おかしいよね。
また夜にメールする。いつでも良いから返事を下さい。ナナセ』
携帯メールにありがちな、とりとめもまとまりもない文章。
それでも溢れている想いは伝わってくる。
女はにっこりと微笑むと、すばやく返事を作成した。
『メールありがとう。お仕事お疲れ様。あなたの気持ちはとても嬉しい。
でも私は会えない。会えばあなたを傷つけてしまう。ごめんなさい。ユリエ』
ユリエは全くの偽名だった。
夫に内緒で購入した携帯電話、軽い気持ちで入会したサイトで知り合った『ナナセ』とは同年代でよく話が合った。
互いに既婚者で、最初は既婚者にありがちな悩みを相談しあう友人だった。
だが『ナナセ』は自然、ユリエを愛するようになり、最近では昼も夜もなく頻繁にメールをよこすようになっていた。
女はぱちんと携帯を折り畳むと、ジーンズのポケットにしまいこんだ。
とにかく夕飯を作ってしまわなければ。
本当の自分は『ナナセ』には想像がつかないような、平凡でどこにでもいる主婦なのだから……。
溜め息をつきながら、テーブルに座ってテレビのリモコンをいじる。
どこのチャンネルも似たような内容の番組ばかりで見る気がしない。
女はテレビを消して、携帯を取り出した。
あれから幾度か着メロが流れていた。
『ナナセ』からの着信の時だけは音を変えてあるので、彼からのメールだという事はわかっていた。
『君に会いたい。どうか会って欲しい。ただ話をするだけでいい。
それだけで僕は救われる。君に迷惑はかけないから』
『家に帰りたくない。今外で君のことばかり考えている。今なにをしているんだろう?
君がそばにいてくれればいいのに』
『メールだけじゃなくて、君の声が聞きたいよ。無謀な望みかな?
君はこんな男を軽蔑するかな』
『ナナセ』からのメールは、日を追う事に増え、内容も真剣なものになっていた。
すでに何人かのメル友がいた『ナナセ』はいつもの通りメールだけの関係で、相手の事を追及したりはしないつもりだったらしい。
ましてや愛などと。互いに嫌気はさしていても既婚者だというのに……。
彼はいつの間に『ユリエ』を愛してしまったのだろう?
『ユリエ』の一体どこが彼を本気にさせたのだろう?
それともこれが彼の手なのだろうか?
何にせよ、女が『ナナセ』に会うわけにはいかなかった。
彼を愛しているから、夫を愛していたから。
彼女が彼に会う時は、全てを捨て去る覚悟ができた時。
女は可も不可も無い返事を送信した。
玄関を開けて入ってきた男は、少しやつれた顔をしていた。
付き合っていた頃は周りから相当羨ましがられたものだが、今では見る影も無い。
無言で通勤カバンと背広を受け取ってハンガーにかけた。
挨拶すらまともにしなくなった関係は、妻にとっては苦痛以外の何物でも無かった。
一体いつからこんな風になってしまったんだろう?
女は味もよくわからない夕飯を咀嚼しながら『ナナセ』のことを考えていた。
彼は興味のある事に関してはとても饒舌だ。今の夫とは違う。
自分の考えや想いを包み隠さず熱っぽく女に語った。
ふと、昔、夫が言ってくれた言葉を思い出す。
「絶対に幸せにするから」
妻のどこがいけなかったのか、夫のどこがいけなかったのか。
女はかぶりを振った。考えたところで時間も関係も戻りはしない。
ただ……二度と同じ過ちは繰り返さない……それだけを強く思った。
翌朝、夫は朝食も摂らずに出ていった。
珍しく「行ってくる」と挨拶した時の顔が真剣だったから、女は少しだけ笑ってみせた。
この生活の終焉が近づいている……。
『ナナセ』の想いが真剣な事は薄々感づいていた。そして破滅の時が近い事も。
自分でまいた種は自分で刈り取らなければいけない。
夫の気持ちが更に離れていく事を承知で、『ナナセ』との関係を断ち切らなかったのは自分なのだから。
『妻とは別れます。君との事を真面目に考えたいから。
こんな事を言ったら困るよね? でも僕の気持ちの問題だから気にしないで欲しい。
ただ君を想う事だけは許してください。』
昼過ぎに『ナナセ』からのメールを受け取った女は、荷物の整理をしていた手を止めて返事を返した。
『あなたが結論を出したのなら私に止める権利はありません。でも私は幻です。
あなたが見ている夢にしか過ぎないのです。それを忘れないで。』
送信しながら、がらにも無く手が震えた。
最初に自分から目をそらしたのは夫、女が他に心を動かしたとしても文句を言われる筋合いじゃない。
……いい気味だと思っていた。
それなのに胸が痛む。妻の裏切りを知った夫の事を思うと平静ではいられなかった。
いくら気持ちが冷めていても、共に過ごした時間はごまかせない。
しかし、流れる時間を止める事もできない。
ほぼ全ての荷物を実家へと送り返して、一息ついたのは既に陽も傾いた頃だった。
妻は今夜この家を出て行く事を決めていた。
最後の夕飯を夫の分だけ作りラップをかけておく。
食べる気なんてしないかもしれないけれど、捨てるならそれでも良かった。
夫の為にしてあげられる最後の事がしたかっただけだから、妻は満足だった。
自分の為に紅茶を入れて、テーブルへと腰掛ける。
昼からずっと『ナナセ』からのメールは来ていなかった。
もともと、くどくど説明するタイプじゃないけれど、今日のメールが少ないのは、それだけ彼が本気だという事なのだろう。
女は携帯をテーブルの上に置くと、静かに廊下を見つめた。
かすかにカギを外す音が聞こえた。
ドアを開けて入ってきた男は、開け放たれたリビングから妻が見つめている事に驚いたようだった。
しかし、それも束の間。
言葉もかわさずに近づいた夫は、胸の内ポケットから見慣れない封筒を出した。
表面には納税を促す標語と区役所の名前……。
少し膨らんだ封筒の中身が何かなんて、聞かなくてもわかった。
「全部書いておいた。後はお前に任せる」
「……そう」
声がかすれた。
全てわかっていたはずなのに、こうなる事を望んだはずなのに、こんなに気持ちになるはずがないのに……!
自分を包んでいた世界が全て崩れていくような感覚に翻弄されながら、女は震える手で封筒を受け取った。
涙も泣き言もあてつけも見せないで部屋を去ることができたのは、ただ女の意地がそうさせた。
去り際、夫がつぶやいた「自分が幸せになる道を選んでくれ」という言葉だけが脳裏に焼き付いて耳の奥にこだましていた。
どこをどう歩いて駅へ着いたのか定かではないが、女は目的の電車へ乗りこんでいた。
運良く座ることができたおかげでいくらか休む事ができる。
背もたれに体重を預け意識を手放そうとした瞬間、女のジャケットから紙の擦れる音がした。
はっとして手をあてたそこには、夫が持ってきた厚い封筒が収まっていた。
気が動転する余り、受け取ってから何も考えずにポケットに突っ込んだらしい。
何の変哲も無いただの封筒。封はされていなかった。
中の書類をそっと取り出し広げてみる。
初めて見る離婚届。
まるで物語か何かの、全くの他人事のようだった。
夫の分だけ書かれているクセのある署名。
『七瀬 一浩』
夫が去年の頭くらいから何か様子がおかしい事には気付いていた。
それでも、すでにお互い干渉しない関係になりすぎていたから、咎める気にもならなかった。
酔って帰ってきた日、背広のポケットに入っていた携帯を取り出そうとした妻は偶然、メールを開いてしまった。
中には誰とも知れない女性達との楽しげな会話が記録されていた。
夫の裏切り。
初めて目の当たりにした浮気に妻は悲しみや怒りよりも「ずるい」と感じた。
自分を家の中に閉じ込めて放っておくくせに自分だけ楽しむのは、ずるい。
だから夫に内緒で新しい携帯を買った。
それから、携帯会社が勧めているようなサイトに登録した。その方が安全な気がしたから。
見た事も無い相手との気軽な会話。
下世話な話も多かったけれど、それなりに暇つぶしにはなった。
そんな時だった『ナナセ』が現れたのは……。
もしかしてと思いながらメールを交換した。お互いの相手の事、家庭の事、環境の事、好きな物、嫌いな物。
全ての情報は共に暮らす夫に繋がっていた。
止めようと思った。こんなのは性質が悪すぎる。
でも、踏ん切りがつかなかった。
メールの中の夫は、若い頃そのままに思った事を素直に伝えてくれた。
女は彼を愛していた。
何か冷たいものが伝う感触に気付いて、女はそっと頬に触れた。
泣いてる?
自分が愛していた人の面影を追って、追い続けて、その先が無いと知りながら……。
そっと目を伏せた。瞳の中に溜まっていた涙が立て続けに落ちていく。
馬鹿な女……どこかで振り返れば良かったのに。
そこまで考えて女は少しだけ笑った。
振り返ったところで、自分が元に戻る選択をするとは思えなかった。
ハンドバックからハンカチを出して涙をぬぐった。
情けないけれど、来るべき時が早まったんだと思おう。
『ナナセ』と過ごした時間は、ただ無為に流れていくだけの時間の何倍も輝いていたから。
女はいつのまにやら床に落としていた封筒を手に取った。
涙でにじんだ離婚届を丁寧にたたんで、封筒に入れようとする。
と、そこにはもう1枚何かが入っていた。
不思議に思いつつ開いてみる。
「……婚姻届……」
夫の欄にはひどいクセ字の署名。
どう……して?
女がそれぞれの書類を見比べたその時、ハンドバックの中の携帯がけたたましく流行歌を奏でだした。
『ナナセ』からのメール。
あわてて取り出して開く。
『恵理子へ。
僕が今までメールで伝えた事には一つの嘘も無い。
君がメールで言った事に嘘が無いのなら、戻ってきて欲しい。一浩』
恵理子は呆然とディスプレイを見つめた。
「知って、いたの」
どうして……どうして……。
たくさんの疑問が次々と浮かんでは答えが出せないまま頭の隅にたまってゆく。
おりしも、停車駅から出発する時間。
耳障りな発車の合図と車掌のアナウンスに顔を上げ、恵理子は電車を飛び出した。
驚いた数人の乗客が振りかえる。
もう、最寄駅からだいぶ来てしまったし、時間も遅い。
折り返しの電車があるのかどうかもわからない。
それでも……恵理子はホームの階段を駆け上がった。
会ってどうするのか、戻るのか、戻らないのか、自分の気持ちは、彼は……。
何もわからない。だが、恵理子は一浩に会いたかった。
長い年月に隠されてしまっていた、昔のままの彼に……。
End
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