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 名前の距離   金色、ひらり 4

余りの緊張に、早起きし過ぎてしまった日曜の朝。
早々に身支度を終えた私は、落ち着かない気分のまま部屋の中を歩き回っていた。自分でも、そわそわし過ぎって思うんだけど、どうしたらいいか判らない。
先週の約束から、ちょうど10日。今日は崎田係長と初めて出掛ける日、だったりする。
出掛ける目的をはっきり確認した訳じゃないけど、やっぱりデートに違いないと思うし、つい身構えてしまう。どういう風に挨拶したらいいかなとか、何を話そうかなとか、髪型にメイクに、服、靴……。
昨日は、給料を貰ったばかりなのをいい事に、服を一式買い揃えて、美容院にまで行ってしまった。
もう何回目か覚えてないくらい見てる姿見を、また覗き込む。
いつもよりほんの少し明るい色にした髪。元々長くないからイメージチェンジするほど変えられないけど、毛先を揃えて貰った。半日も悩んで決めたスモーキーピンクのレースチュニックと黒の五分丈レギンス。それから白のサマーカーディガン。靴はリボンのついたミュールにした。
普段の私からは考えられないくらいガーリーだけど、初めてのデートだから頑張ってみた。
くるっと回って、後ろも確認する。何度チェックしても、おかしなところがあるんじゃないかと不安になった。
テーブルの上に置いてあった携帯が、メールの着信を知らせる。このタイミングでメールを寄こす人は1人しかいない。これから家を出るという内容に、気をつけて来て欲しいと返した。
手近にあったバッグを取り上げ、携帯を入れた私は、ほうっと溜息をつく。
……会う前からこんなにドキドキしてて、大丈夫かな……。
しつこいと判っていながら、もう一度だけ姿見を確認した私は、急いで玄関へと向かった。

自宅のあるマンションの前に、シルバーグレイのコンパクトセダンが静かに停車した。スポーツタイプとでも言うのか、小さくて可愛いのにすっきりしたフォルムが格好良い。免許も持っていないし、車にも詳しくない私は車種が判らないけれど、スタイリッシュで素敵だった。
ぼんやり車に見惚れていると、運転席のドアが開いて崎田係長が顔を出した。
「おはよう」
車で迎えに来てくれるっていう約束だったから、当たり前の事なのに、彼の顔を見たとたんに緊張で身体が強張る。
「お、おはようございますっ!」
マンションの前だって言うのに、思わず大声で挨拶してしまった。
恥ずかしさに頬を染めて俯くと、ふっと笑う声がした。見れば、彼が僅かに苦笑している。
「仕事じゃないから、そんなにきちんと挨拶しなくてもいいよ」
「あ……はい……」
普段あまり見れない笑顔に、またドキドキした。
仕事中の崎田係長は当然だけどスーツで、髪も横から後ろに纏めて流している。もちろんスーツ姿も凛々しくて素敵なんだけど、もともと目が怖いのもあって、どことなく近寄りがたいイメージがあった。
対して今の彼は、ラグランの襟付きシャツにデニム。前髪も固めてなくてざっと下ろしていた。
いつもと違う、柔らかい雰囲気。前髪と眼鏡に隠されているせいか、目付きも気にならなかった。
……やっぱり、ちょっと……ううん、凄く、格好良い……。
睨まれていた時から、崎田係長の見た目が整っている事は知っていたけど、お互いに嫌い合ってると思っていたせいで気にしていなかった。だから、こんな風に彼を恋人として見るのは、不思議で嬉しくて、照れてしまう……。
「俺、どこか変? ちょっとラフ過ぎたかな?」
余りにじっと見過ぎたせいで、深読みしたらしい崎田係長が自分を見下ろした。
「ち、違うんです。格好良いなーって思ってて……」
私の言葉にびくっと震えた彼の顔が、さっと赤く染まる。その様子に自分の言った意味を悟った私も、口をつぐんで赤面した。
「……え、と……青柳さんも可愛い。凄く、似合ってる」
やっと聞こえるくらいの小さい囁き声。普通だったら、こんな付け足すような言い方はNGなんだろうけど、シャイな崎田係長から「可愛い」と言われた私は、不覚にも嬉しくて泣きそうになった。
お互いを見つめて、少し笑い合う。一緒にいて彼を見るだけで湧き上がる幸せを、改めて噛み締めた。

私を乗せた車は、近くのインターチェンジから高速道路へと入った。まだ朝の時間帯だし、通勤の車が無い事もあって道路はスムーズに流れている。
お互いに観光スポットに詳しくないから、敢えて細かい段取りや目的を設定しないで、ドライブがてら目に付いた所に寄るというのが今日のプラン。決めたのは崎田係長だけど、ぎっしりと予定を組まれる事が苦手な私には丁度良かった。
背の高い防音壁に囲まれた都市部を抜けると、両脇に木々が見え隠れしだした。
普段、車で出掛ける事の無い私は、当然、道路にも詳しくない。どこへ向かっているんだろうと窓の外を眺めていると、それに気付いたらしい崎田係長が説明してくれた。
「海の方に出て見ようと思って。途中のサービスエリアも色々あるらしいんだ。どう?」
「はい。海、好きです」
助手席から彼の横顔を盗み見る。運転中だからこっちを向いたりはしないけど、少し微笑んだのが判った。
どくんと心臓が跳ねる。見られない、というか、見えないのを知りつつも、顔が赤い事に気付かれたくなくて、俯いた。
いつもは強面でクールな視線の崎田係長は、笑った時のギャップが凄い。同じ会社に勤務する人間としては、もっと笑えば良いのにと思うけど、恋人の私は彼の素敵なところを独り占めできる事が嬉しかった。

途中、大型のサービスエリアに寄って、おやつと言うにはちょっと重めのスナックを摘んだり、キンちゃんの水槽の飾りに良さそうな貝殻を買ったりした。しばらく遠出もしていなかった私には、何もかもが物珍しくて楽しい。浮かれてはしゃぐ私を見る崎田係長の眼差しが、どことなく優しいような気がした。

適当なところで高速道路を降りた私たちは、偶然見つけた看板を頼りに小さな海水浴場へ着いた。体感ではもう夏のような気がするけれど、まだ海開きが行われていないからか浜辺は無人だった。
申し訳程度の堤防の脇に車を停め、外へ出る。乗っている間には気付かなかった潮の香りを感じた。
少し風はあるけど海は穏やかで、波の音もささやかにしか聞こえない。沖の方に漁船らしきモーターボートが数隻見えるだけで、マリンスポーツを楽しむ人もいなかった。
「……静かな所だね」
先を歩いている崎田係長が、ぽつりと言う。
「あ、はい……」
何気なく相槌を打ったものの、今更、二人きりだと言う事を強く意識してしまい、急に恥ずかしくなった。
堤防の際にうず高く積まれた流木や砕けた貝殻を避け、砂地を歩いていく。崎田係長のつけた大きな足跡の横に立つ、私の足。当たり前だけど大きさが全然違っていて、彼が男の人だって事を再認識した。
「足痛い?」
「え?」
問い掛けの意味が判らずに顔を上げる。
振り返り、こちらを見ていた彼は、私の足元を指差した。
「靴、歩きにくいのかと思って」
見れば、私のミュールは半分くらい砂に埋まっていた。ドキドキしすぎていて、歩きにくい事にも気付いていなかったらしい。
「ええっと……やっぱり、裸足のが歩きやすそうですよねっ」
バツの悪さを取り繕うように、わざと明るく言ってミュールを両方とも脱ぐ。リボンの部分を指に掛けて持ち上げると、戻ってきた崎田係長がさっと奪い取った。
いきなり靴を取られ、ぽかんとした私の手を彼が掴む。
「こうすれば、もっと歩きやすい」
「っ!」
触れた手に飛び上がった。大きくて少し硬い彼の手指。絡めた場所に感じる鼓動は速く強く脈打っていた。
緊張とドキドキで少しぼうっとしていた私は、手を引かれるまま波打ち際を歩く。やがて浜辺の端まで辿り着くと、崎田係長が静かに振り返った。
「青柳さん……」
「はい」
「あ……いや、やっぱり、いい」
何かを言いかけて止めた彼は、さっと視線を外して俯く。
「崎田係長?」
急にそわそわしだした理由が判らなくて、声を掛けると、困ったように頭を掻いた。
「あの、さ。その呼び方、変えて欲しい……というか、二人の時は名前で呼んで貰えないかな?」
一瞬、何の話か判らずに見つめ返す。
……名前? 崎田係長の下の名前って……。
「誉(ほまれ)さん?」
同じ会社にいるおかげで簡単に本名を知る事はできるけど、逆に改まった自己紹介はしないし、名刺交換も無い。読み方までは名簿に書いていなかったから、確認するような言い方になってしまった。
間違っていたらどうしよう、なんていう私の思惑には全然気付いていないらしい彼は、名前を呼んだ瞬間、今まで見た事も無いくらい嬉しそうに笑った。
……う、わ……。
破壊力抜群の笑顔に目を見開いた私は、そのまま硬直する。まさか男の人の笑顔に見惚れる事があるなんて、思いもしなかった。
「青柳さん?」
固まってしまった私を不思議そうに覗き込む瞳。ハッと我に返り慌てて顔を背けた私は、胸の高鳴りを治めるために、ぎゅっと目を瞑った。
「もー、そんな顔するなんて、反則ですっ……!」
「顔?」
ついこぼれた憎まれ口に困惑しているらしい彼の声が聞こえた。
何か、私だけが一方的にドキドキしてるみたいで、ちょっと悔しい。もともとは想われる側だったはずなのに、今では私の方がずっと強く惹かれている気がする。
好きがいっぱい過ぎて身動きできなくなった私は、繋がれていた手が離れた事に気付いて顔を上げた。と、疑問を口にする暇も無く肩を掴まれ、無理矢理回れ右をさせられた。
海へ向かって立つ私と、背後の彼。状況が良く判らずぼうっとしていると、低く短い謝罪の言葉の後に後ろからきつく抱き締められた。
「ひゃっ」
突然の抱擁に驚き、情けない声が出る。しかも声が裏返ってしまったせいで、動揺しているのはバレバレだった。
後ろから包み込むように回された腕。ぴったりと重なった背中と胸から、二人分の鼓動を感じる。苦しいくらいの締め付けが、崎田係長の本心を表しているような気がした。
そっと彼の腕に触れる。それを合図にしたように、肩に額が押し付けられた。
「……俺も、青柳さんの事、名前で呼びたい」
「? いいですよ」
単にお互いの呼び方をどうするかっていう話のはずなのに、どこか苦しそうな様子に内心首を捻る。
……そんなに深刻な事なのかな。
思わず振り返ろうとした私は、先回りした彼の手に制された。
「見ないで。俺、今、凄い格好悪いから……」
「え?」
会話の流れがさっぱり判らずに聞き返すと、彼は重く息を吐いた。
「君を名前で呼びたいのに、乃部くんと一緒は嫌なんだよ」
そう言われて、竜太くんを思い浮かべる。
竜太くんだけでは無いのだけど、私たち契約社員組の同期は、連帯感から男女の区別無く下の名前で呼び合っていた。それは例えるなら、小学校の時の同級生のような感覚で、恋愛関係に発展しないからこそ、できていた。
契約社員同士の仲が良いのは、人事部所属の崎田係長なら知っている。でも、知ってても納得できない事らしい。
私は彼に気付かれないように、表情だけで苦笑した。
……ホント、格好悪くて、可愛い。
他の男の人だったら、こんなに酷いヤキモチ妬きさんにはついていけないと思うのに、崎田係長なら、そういうところも全部合わせて好きって言える。惚れた欲目って言うやつなんだろうけど、恋って凄いと思った。
少し後ろに寄り掛かるように体重をかけて、目を閉じる。お腹の上で交差していた彼の手に、自分の掌を重ねた。
「……カナって呼んで下さい。家族は皆、そう言うんです」
耳元で、息を呑む気配。家族と同じくらい近くて、大切だよっていう私の思いは、ちゃんと伝わったみたいだった。
「いいの?」
「はい」
一陣の強い風が吹く。勢いの増した風に煽られて高くなった波が、大きな音を立てて砕けた。
「……好きだ、カナ」
本当にささやかな呟きは、風にも波の音にも消される事無く、私の耳にちゃんと届いた。

                                          End

   

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