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 デートに行くなら   金色、ひらり 3

平日とはいえ、まだまだ元気な火曜の夜。比較的、軽快な足取りで帰宅した私は、集合ポストに入っていた封筒を取り上げた。
裏に書かれた差出人は、遠方に住んでいる母方の従姉。滅多に連絡も無い彼女からの手紙を、素直に珍しいと思った。
一緒に入っていたフリーペーパーやら、チラシやらを抱えてエレベーターに乗り込む。築23年のマンションに付けられたエレベーターはそれなりに古いけど、もともとの造りが良いのか、メンテナンスがしっかりしているせいか、滑らかに目的の階へ停止した。
部屋の前まで行き、バッグから取り出した鍵でドアを開ける。
「ただいまー」
長年の癖で今でも挨拶してしまうのだけど、中からの返事なんてある訳ない。朝、出掛けに明かりは全部消して行ったから、室内も暗くて、開け放したリビングの向こうの窓に藍色交じりの夕焼けが見えるだけだった。
もともと家族で住んでいたこのマンションで一人暮らしを始めたのは4年前。
始めたっていうか、私の就職に合わせて、一緒に暮らしていた母親が単身赴任している父親のところへ引越して置いて行かれた、が正解。もうその頃には姉も結婚して家を出ていたから、私が最後の一人になってしまった。
「……そして誰もいなくなった。なーんちゃって」
自分でもくだらないって思うような冗談を口にしながら、興味無いチラシを全部ゴミに捨てる。それから、従姉からの手紙にはさみを入れた。
少し厚い封筒の中から出てきたのは、映画のチケットらしきものが2枚とパンフレット、そして便箋。

『カナちゃん、お久しぶり! 元気にしてる?
 突然なんだけど、映画の先行上映会のチケット送りました。
 抽選で当たったんだけど、遠くて行けないから
 カナちゃんに行って貰えたら、良いかなーって思ってね。
 最近、彼氏できたって聞いたし、デートに使って。ではでは!』

文面とチケットを交互に眺めて、少しだけぼんやりする。
何で私に? ……ていうか、お姉ちゃんめ、しゃべったな。
余り連絡を取っていない従姉が、私の彼氏の存在を知っているって事は、姉が教えたに違いない。そもそも身内で崎田係長の事を話したのは、姉だけだ。一方的に睨まれていた時から相談に乗ってもらっていた姉には言わざるを得なかったからだけど、教えたことを凄く後悔した。
別にやましいところがある訳じゃないけど、おおっぴらにするには私たちの付き合いが浅すぎて、まだちょっと恥ずかしい。
私は少しだけむっとしながら、チケットを見た。日付、場所、時間……そして、内容。
「……激情と官能のロマンス巨編。男女の情念が複雑に絡み合う、情熱のラブストーリー……」
パンフレットに書かれた煽り文句を口に出して、私は目を剥いた。
こ……これって、ちょっとエッチなやつなんじゃないの?! よく見たら『R15+』って書いてあるしっ!
見ようによってはきわどいとも取れる衣装を着た、グラマラスな外国の女優さんを見ながら、私は呆然とした。
崎田係長からの告白を聞きだしてから、2週間。
彼の多忙もあって、私たちはまだデートに行った事も無かった。

……困った。
あのあと、お礼の電話に出てくれた従姉は、私に恋人ができた事を自分の事のように喜んでくれた。
言うほど大した過去じゃないからだけど、これまで恋愛について話した事が無かったから、いい歳して浮いた噂の一つも無いんじゃないかと心配してくれていたらしい。
まぁ余計なお世話だと言ってしまえば、それまでなんだけど、こっそり捨ててしまおうかと考えていた私は、自分が凄く酷い人間のような気がした。
と、言っても……初デートでエッチな映画はちょっと……。
お互い成人しているし、崎田係長なんて三十路に突入しちゃってる。でもいきなりそんなのを観には行けない。誘われてると勘違いされるのも困るけど、彼の性格を考えたら逆に気まずくなりそうだし、何より最初のデートで映画に行くのは個人的に嫌。一緒にいるのなら、顔を見て話をする時間を少しでも長くしたかった。
私の知っている限りで、行けそうな友達に片っ端から連絡をしたけれど、日にちがダメだったり、内容がダメだったりで、結局、譲れそうな人は見つからなかった。

「キンちゃん、どうしよう。困っちゃったなー」
朝の休憩室。キンちゃんはいつも私がお世話しているのを判っているのか、エサを貰えなくても上機嫌で鉢の中をくるくる回っている。 うん、やっぱり可愛い。
思わず笑顔になってしまった私が指先を鉢の上で振って見せると、キンちゃんは水面まで上がってきて、何かを伝えるように口をぱくぱくさせた。
「こーんなに可愛いのに、キンタローだなんて酷いよね。竜太くんってば」
忘れもしない、崎田係長に告白された日の夕方。彼と会う前に偶然一緒になった竜太くんが、キンちゃんを勝手につけた名前で呼んだのを思い出す。
その後、彼女である奈帆子さんと連れ立って帰ったところまで思い返した私は、ごく自然に寄り添うことができる二人を脳裏に描いてため息をついた。
私も、あんな風になりたいって思う。もちろん崎田係長と。お互い信頼して、認め合って、二人でいるのがしっくりくるような仲に……。
付き合ってるはずの私が言うのも何だけど、崎田係長は目付きが悪い。目力も凄い。どちらかと言えば無口で何考えてるのか判らない時もある。でも実際は至って普通の人だ。こちらから話しかければ、ちゃんと答えてくれるし、会話も成り立つ。ちょっと真面目過ぎるところがあるけど、それも彼の魅力だと思う。
ただひらすら睨まれていた時には知らなかった本当の彼を見るたびに、輪をかけてもっともっと知りたくなった。だからこそ、学生の時のような勢いだけじゃない恋愛がしたい。ゆっくりでも良いから、一つずつ理解しあえる関係になりたかった。
……それなのに、初デートがコレじゃあねぇ……。
財布に入れておいたチケットを取り出して、また眺める。竜太くんと奈帆子さんくらい恋人としてしっかりしていれば、普通に観に行けちゃうんだろうな、なんて思った私は、ハッとして顔を上げた。
どうして忘れてたんだろう。こんなに身近なカップルがいたっていうのに。
勤務が不規則な竜太くんが希望通りの休日を取れるのかは知らないけど、ダメでもともと。最悪の場合、奈帆子さんと私で観に行くのもアリかも知れないと考えながら、竜太くんの携帯を呼び出した。

偶然って、本当に重なるものなんだって思う。全てが指定されている上映時間に、規則的な勤務の彼女と、不規則勤務の彼氏の両方の都合がつくなんて、もう神様の仕業としか思えない。
自分が行けないとしても、従姉の厚意が報われる事に気を良くした私は、終業合図の音楽が鳴ると同時に部署を飛び出した。
奈帆子さんは支社の経理監査とかで、今週いっぱい出張らしい。上映会はまだ先の事だから、今すぐチケットを渡さなくてもいいんだけれど、早く渡してしまいたい……というか、なぜか持って居たくなくて、竜太くんを無理に呼び出した。
場所は社屋のロビー。今まで似たような用事で待ち合わせる時は、便利だから休憩室を利用していたのだけど、崎田係長と竜太くんが鉢合わせるのを避ける為に、今回は止めておいた。
はっきり聞いた事が無いから、いまいち理由も判らないし、私の勘違いかも知れないけれど、崎田係長は竜太くんを余り良く思っていないような気がする。
些細な事でも話題に竜太くんが上ると、表情が曇るんだよね……。
いつもの目的地である休憩室を通り過ぎ、社屋入り口へ向かう。階段を下りてロビーに出ると、ちょうど出先から戻ったところらしい竜太くんが見えた。
向こうからも私が来たのが判ったらしく、竜太くんはサッと左手を上げてくれた。
「よ。お疲れ」
「お疲れ様。ごめんね、呼び出して」
本来なら直帰できたはずの彼を、会社に呼び戻してしまった事を詫びると、竜太くんはからからと笑った。
「いや、いいって。ついでに報告書作るし。それに礼を言うのはこっちじゃね?」
「んー。でも、誰かに行って貰わないと、無駄になるところだったしね」
バッグからパンフレットとチケットを出して渡す。
竜太くんは、手に取ったパンフレットをざっと眺めて、興味無さそうに「ふうん」と唸った。
「恋愛モノとか俺はあんまり見ないんだけど、奈帆子がすげー楽しみにしてんだよな」
「そっか。良かった」
はっきり言って全然楽しみじゃ無さそうな竜太くんが、ちょっと微笑ましい。本音はいやいやでも、大好きな奈帆子さんの為に付き合っちゃうんだろう。そういう気持ちって凄く素敵。
じっと竜太くんを見つめた私は、心が温かくなるのと同時に、また羨ましくなってしまった。
「サンキューな。奏恵」
「ん。楽しんできてね」
突然鳴り出した竜太くんの携帯の着信音を合図に、私たちは手を振り合って別れる。
営業用の顔と声で電話に応対しながら、エレベーターへ向かって歩き出す竜太くんを見送った私は、キンちゃんに餌をやるために踵を返した。

キンちゃんの鉢の置いてある休憩室は2階にある。エレベーターが来るのを待つよりは階段の方が近いし早いので、私はいつも階段を使っていた。
ロビーから直接見えない位置にある階段は、完全に非常用で薄暗く利用者が少ない。休憩室が賑わう昼時ならまだしも、この時間に階段を使う人なんていないから、周りを気にする事なく上り始めた。
今日は崎田係長に逢えるかな……また仕事忙しいのかな……?
そんな事を考えながら踏み出した私は、数段上ったところで何かに腕を掴まれ、後ろへ引き戻された。
「うひゃっ!」
いきなり引っ張られたせいでバランスが崩れる。何とか踏みとどまったものの驚きから情けない声を上げた私は、抗議するために振り返った先の人を見て、目を丸くした。
「……崎田係長?」
「あ、すまない。声を掛けそびれてしまって……つい……」
崎田係長は私の腕を掴んでいる自分の手を見つめて、困惑した表情を浮かべた。
目付きが悪いせいで強面だけど、穏やかな性格の崎田係長は乱暴な振舞いなんてした事が無い。だから、とっさの行動とはいえ、強く引かれた事に驚いた。
「驚きましたけど、大丈夫です」
「本当にごめん」
凄く申し訳なく思っちゃってるらしい崎田係長は、眉を八の字にして項垂れる。
「だから、いいですってば」
掴まれていた腕を外して正面に向き合った私が、下から覗き込んで微笑むと、崎田係長は目を逸らしてさっと頬を染めた。
……やっぱり、ちょっと可愛い。
年上の恋人には相応しくない形容詞だろうけれど、彼がちょっと照れくさそうしているのを見るのが好き。
どうやら物凄くシャイらしい崎田係長は、付き合ってても甘い言葉なんて言ってくれない。もちろん物足りないと言えば、そうなんだけど、こんな風に態度に出ているのを見るのは、好かれているのを実感できて嬉しかった。
「でも……どうしてここに? 外からの帰りですか?」
人事部の彼が外回りをするとは思えないけど、そうでなければ非常階段にいる理由が判らない。首をかしげて見せると、崎田係長は私から視線を外したまま、少しの間沈黙した。
「違う、けど。青柳さんこそ、どうしてここにいるの?」
「私は映画のチケットを……」
逆に聞かれるとは思っていなかった私は、とっさに本当の事を説明しようとして口をつぐむ。
実際やましい所なんて全然無いけど、竜太くんを良く思って無さそうな崎田係長に言って良いものかを悩んだ。
「映画……?」
ぽつりと零れた低い呟き。不穏な声音に驚いて見上げると、眉間にくっきりと皺を刻んだ彼の顔があった。
う……これは……かなり機嫌悪そう……。
睨まれている事に腹を立てていただけの時は気付かなかったのだけど、最近、本当に機嫌が悪い時の表情と、それ以外の区別がつくようになった。
本気でいらいらしている崎田係長は、見慣れた私ですら、ちょっと怖い。薄暗い非常階段の空気が更に重くなったように感じ、身を縮めた。
それにしても、彼の機嫌を損ねるような事を何か言った?
引き戻されてからの会話を思い返してみても、全く原因が思いつかない。謝るべきポイントも、言い繕う言葉も思いつかなくて、ただじっと彼を見つめた。
「彼と行くの?」
「え?」
言われた意味が判らずに、目を瞬く。何の事なのかを聞こうとした私は、次の瞬間、強く引かれ、気付いた時には崎田係長の腕にすっぽりと包まれていた。
呆然とする私の鼻に、ふと彼の香りが届いた。それは紛れもなく間近にいる証拠で、自分の置かれた状況に気付いた私は、金縛りにあったみたいに動けなくなった。
途端に激しく鳴りだす心臓。頬がみるみる熱くなる。
「さ、さ、崎田係長?!」
おろおろしながら掛けた声は、裏返って震えた。ドキドキしすぎて言葉と一緒に口から心臓が飛び出しそう。今までのもどかしいくらい紳士的な態度とは違う、力強い腕に驚いた。
「……行くなって、言いたい」
頭上からぽつんと落とされた呟きに、首を捻る。怒ってる時とか、切羽詰まってる時の崎田係長は、言葉が端的で判りづらい。
「どこに、ですか?」
「映画。さっき乃部くんを誘っていた」
乃部くん……? あー、竜太くんの事ね。苗字で呼ばないからピンと来なかったよ……。
「って、見てたんですかっ!!」
抱き締められているのも、ここが社屋だというのも忘れて叫んだ。
顔を上げた私と一瞬目が合った崎田係長は、気まずそうに視線を逸らした。
「うん、悪い」
どういう経緯か判らないけれど、崎田係長は覗き見してしまった事を謝っているらしかった。
そもそもロビーなんてオープンな所で渡したのだし、私も竜太くんも見られて困るような事なんて、これっぽっちも無い。強いて言えば、映画の内容に気付かないで欲しいというくらいで、謝られる事じゃなかった。
「別にそれは……」
またもや、あらぬ誤解をしまくっているらしい彼に、真相とフォローを伝えようとした私は、言いかけて止めた。相変わらず、きつく巻きついている腕に、とくんとくんと心臓が鳴る。
……偶然、私が竜太くんにチケットを渡しているのを見た崎田係長は、憶測からヤキモチを妬いた。だから、私を呼び止めて、抱き締めた。まるで束縛するみたいに……。
思い至った結論と、その裏側にある想いが嬉しくて泣きそうになった。
彼の胸に、額を押し付ける。私と同じくらいドキドキしてる鼓動を、かすかに感じた。
「行くなって、言って下さい」
本当は約束なんてしてない、ただ要らないチケットを譲っただけ。それだけなのに、誤解でも良いからヤキモチを妬かれていたかった。
まさか私から「止めて」なんて言われるとは思っていなかったらしい彼は、ちょっと驚いたようだったけれど、ふっと微笑んで優しく私の頭を撫でた。
「何か観たいのがあるのなら、彼じゃなくて、俺と行こう。来週なら時間作れるから」
ただ下ろしていただけの手を伸ばして、背中に触れる。ますます近づいた距離に気付いた彼が、僅かに震えるのが判った。
今、私の心の中にある嬉しくて幸せな気持ちが、触れた場所から少しでも伝わればいい。いつの間にか凄く強くなってしまった想いに気付いて欲しい。
見上げて微笑み返すと、いつもは鋭い目元が嬉しそうに細められた。
にわかに騒がしくなり始めたロビーの音が、非常階段に流れ込んでくる。残業の無い人たちの帰宅ラッシュが始まったらしい。
見つめ合った私たちは、どちらからともなく苦笑して静かに離れた。
「金魚に餌やりに行くの?」
「あ、はい」
「じゃ、行こう」
当然のように一緒に歩き出す彼に、笑みがこぼれる。手を繋ぐわけにはいかないけれど、傍目には判らないように彼の背広の裾を掴んだ。
「来週の予定決まったら、教えて下さいね。あと、行きたい所もあれば」
「あれ、映画は?」
不思議そうな崎田係長に首を振って見せる。
「映画はいいんです」
「?」
私が本当に見て知りたいのは、映画なんかじゃないから……。
もっと色々な彼が見たい。想いも、言葉も、表情も、良い所も悪い所も全てを知りたいし、知って欲しい。
近づいた休憩室のドアのガラスに、笑いながら寄り添う私たちが映る。
「来週、楽しみにしてますね」
「うん。俺も」
まだまだこれからだけど、少しは近づけた気がして嬉しくなった。
開いたドアの先、夕日に染まるの休憩室の出窓で、エサを待ちかねたキンちゃんが「お腹空いた」と言わんばかりに、ぐるぐると弧を描いていた。

                                          End

   

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