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 夏の薫、ふわり   金色、ひらり 2

 温暖化……のせいかは判らないけれど、既に猛暑な初夏の午後。私と総務部の社員さんたちは、三時の休憩を取りながらいつものようにお喋りをしていた。
 「十五分しかない休憩時間で、よくそんなに喋れるね」なんて、部長に呆れられるくらいに、絶え間なく続く話題。最近は私と崎田係長の関係についての事が多かった。
「……で、結局どうなった訳?」
 顔を寄せた斜め向かいの席の社員さんが、声を潜めて言った。
「どうって……相変わらず、ですけど」
 主語が無くても、それが崎田係長の事だというのは判っている。私が事実だけを淡々と答えると、デスクの周りに集まっていた全員が顔をしかめて「えーっ」と不満そうな声を上げた。
 少し前まで数年に渡り、崎田係長の嫌がらせとしか思えない凄みのある視線に晒され続けていた私は、ひょんな事から彼が私を好ましく思っているらしいと知った。目の前に座る社員さんをして「殺人光線」と言わしめた、あのクール過ぎる視線も、実は無意識に私を見つめていただけだった。
 判りにくい上に、はた迷惑……と思わないでも無いけれど、見た目がそれなりにイケてて仕事もできる上司に好かれるのは、正直なところ悪い気はしない。
 でも……。
「ほんっとに何も無いの? デートとかも?」
 ぐぐっと身を乗り出した、すぐ横の社員さんが凄く真剣な顔で私を見た。
「無いです。誘われた事も無いし……」
 静かに首を振る。
 皆一様に眉間に皺を寄せて驚いた社員さんたちは、口々に「どこか、おかしいんだわ」とか「きっと不感症だよ」とか「やっぱり同性愛系?」とかキワドイ事を言い出した。
 最後の同性愛うんぬんは、大分前から言われている崎田係長の噂の一つ。
 顔というか目がちょっと恐いけど、一応イケメンの部類に入る崎田係長はそれなりにモテる。でも女性社員に告白されても断るし、上司からのお見合いの打診も受け付けず、三十歳を過ぎても結婚しないせいで同性愛説がまことしやかに囁かれていた。
 私の事を良いと思ってるって言った時の崎田係長を思い返せば、その噂が真実じゃないっていうのは判る。けれど、中途半端に告白されたまま、放ったらかしってどうなんだろうと思った。
「もうさー、面倒くさいから、こっちから誘ってみたら?」
「ダメダメ。向こうから好きだって言ったのに、どうしてこっちから誘ってあげなきゃいけないのよ。そんな事して調子に乗られたら、それこそ面倒でしょ」
「あー、それはあるねー。男ってすぐ調子に乗るし」
 結構、恋愛経験が豊富らしい社員さんたちが、それぞれの意見を述べる。そこまで経験値の高くない私は、なるほど、と頷いて聞き入った。
 社員さんたちの意見はさておき、私から誘うのは別に構わない。もしそれで本当に崎田係長が調子づくのなら、見てみたい気もするし……。
 ただ「良いと思ってる」なんて曖昧な言葉だけで、はっきり「好きだ」とか「付き合って欲しい」って言われた訳じゃないから、そこまで押して良いのかが判らなかった。
 デスクの上に置いてある携帯を、そうっと撫でる。彼の気持ちを知った朝にメールアドレスを交換したけれど、やりとりも最小限しかしていない。こちらから送れば返してくれるものの、向こうからメールが来た事はまだ一度も無かった。

 また、いつもの夕方。キンちゃんに餌をあげるために休憩室を訪れた私は、室内が無人だった事にほんの少しだけ、がっかりした。
 約束をしている訳では無いけれど、立場上残業の多い崎田係長はこの時間によく小休憩をするから、鉢合わせるのが常になっていた。
 出窓の傍にスツールを引っ張っていく。私の影に気付いたらしいキンちゃんが、嬉しそうに水面を揺らした。
「お待たせ、キンちゃん。ご飯だよー」
 キンちゃん用の小物入れから、餌の箱を取り出して見せる。早く食べたいらしいキンちゃんは、水から顔を出して口をパクパクさせた。
 いつものように一つまみ取り出して、指先で捻るように数粒ずつ落としていく。食べやすくする為にか水に浮かぶようにできている餌を、キンちゃんは夢中で口に入れた。
「おいしい?」
 出窓に頬杖をついて眺める。人間としては首を傾げたくなるような、妙な匂いのする餌をキンちゃんは好んで食べていた。
 金魚って嗅覚とか無いのかな、なんて素朴な疑問が浮かんだ。
 キンちゃんが口を動かす音と、それに合わせて立つ水音を聞きながら、休憩室を見渡す。
 数週間前の朝、ここで崎田係長と二人きりになって彼の想いを聞いた時はかなり驚いた。それまでずっと嫌われているんだと思い込んでいたから、すぐに好きになるって事は無かったけど、やっぱり少し嬉しかった。
 ……勘違いで迷惑させられた分、逆に振り回してやろうと思ったんだけどなー……。
 出窓に突っ伏して、溜息をつく。
 崎田係長が徹底的にノーリアクションなせいで、私のちょっといじわるな計画は実行されずじまいだった。
 ふいに後ろのドアが開く音がする。パッと顔を上げた私は、てっきり崎田係長が来たのだと思って振り向き、そこにいた意外な人物にきょとんとした。
「……竜太(りゅうた)くん」
「おー、奏恵(かなえ)、お疲れさん」
 気安く私の名前を呼んだのは、営業部の同期で乃部竜太(のべ りゅうた)という。同じ契約社員として入社した私たちは、部署が違っても同じ待遇の同志として、他の社員よりも仲良くしていた。
「こんな時間にいるなんて珍しいね」
 営業部の竜太くんは、業務内容から勤務が不規則で社内にいる事が少ない。同期会と称した飲み会で会う事はあっても、こうして遭遇するのは稀だった。
「まぁねー。今日は外回り無しという奇跡の日だからな。て、奏恵は何を……ああ、キンタローか」
 キンちゃんを勝手につけた名前で呼んだ竜太くんは、私が金魚用の餌を持っているのに気付いて頷いた。
「変な名前で呼ばないでよ。ねー、キンちゃん?」
 指先に残っていた餌を全て落として鉢を覗き込むと、キンちゃんは「その通り」と言わんばかりにくるっと回る。
「でも、こいつ負けん気の強そうな顔してね? キンちゃんなんて名前、可愛いすぎだろ」
「えー、似合ってるよ。キンちゃん充分可愛いし。それにオスかメスか判らないもの、キンタローなんて呼んで女の子だったら可哀相じゃない」
 私が反論すると、竜太くんはじっとキンちゃんを見つめ、自分の顎を一撫でして「んー」と低く唸った。
「まぁ。今はまだ身体小さいから無理だけど、後一年くらいしたら、オスかメスか俺が見てやるよ」
「ホント?! 竜太くん、そういうの判る人なの?」
 意外な申し出にびっくりした私は竜太くんを見つめる。すぐ隣に立つ彼は、片方の口の端をきゅっと上げて自慢げな表情を作った。
「ふっふーん。任せとけ。爺さんが金魚マニアだったせいで、金魚は詳しいぜ?」
 失礼ながら今まで全然興味無かった竜太くんが、やけに格好良く見える。もちろん尊敬という意味で。
 目を輝かせた私は、ぎゅっと竜太くんの手を握った。
「これから、竜太くんの事は金魚博士って呼ぶよ!」
「え、嫌だ。超ダセーし」
 あからさまに嫌そうな顔をされたので、逆にムッとした。
「じゃあ、金魚師匠でも良い」
「なにその、しぶしぶ感。つーか、奏恵に師匠とか呼ばれてたら、奈帆子(なほこ)に白い目で見られるから止めてくれ」
 竜太くんは自分の彼女の名前を挙げて、ぶるぶると首を振る。同じ社の経理部にいる奈帆子さんとは、もちろん私も顔見知りで仲良くして貰っていた。
 私は密かに奈帆子さんの人となりを思い浮かべる。一言で言えばクールビューティ。理系で切れ者。
 もし私が竜太くんを師匠と呼んだとしても、嫉妬する人じゃないけど、逆に「師匠とか呼ばせて恥ずかしく無いの……?」と彼氏を責めそうだと思った。
「そうだね、止めとく」
「おう、そうして」
 ほうっと肩を落とした竜太くんは、ちらりと壁に掛かっている時計を見た。
「待ち合わせ?」
「ん。一緒に帰れる日なんて、滅多に無いからな」
 「誰と?」なんて聞く方が野暮ってもの。付き合いだしてから三年以上経つのに、未だにラブラブで幸せそうな二人が、ほんの少し羨ましかった。
 ……一緒に帰る、かぁ。残業ばっかりの管理職と、定時上がり限定の契約社員じゃ無理だよね。
 無意識に自分と崎田係長の関係に置き替えてしまった事に気付いた私は、さっと赤面した。
 突然、ガタンという大きな音と共に、勢いよく休憩室のドアが開く。
 驚いて向けた視線の先には、私より驚いた顔をした崎田係長が立っていた。
「あ……」
 いつものように崎田係長に声を掛けようとした私は、隣の竜太くんの存在に気付いて口をつぐむ。別に付き合ってる訳じゃないんだし、やましいところなんて全然無いのに、なぜか恥ずかしかった。
「お疲れ様でーす」
 私と崎田係長の事なんて知らない竜太くんは、ごく普通に会釈する。
「ああ、お疲れ様」
 普段通りに少し険しい顔をした崎田係長は、わざとらしく中指で眼鏡を押し上げて、私からすっと視線を逸らした。それから自販機でコーヒーを買うと、かなり離れた奥の席に座って無言で窓の外を眺める。
「?」
 変なの。いつもだったら、キンちゃんの鉢の近くの席に座って、なんやかやと話をするのに……。
 私が内心で首を捻っていると、握っていた手を離した竜太くんに脇腹をツンツンと突付かれた。
「……なぁ、奏恵、まだあの人に睨まれてんの?」
「え。ううん、もう大丈夫」
「ふうん」
 崎田係長に告白されかけた事は、総務部の社員さんたち以外には話していない。睨まれていた事で常に心配をかけていた社員さんたちは抜きにして、他人に言う事じゃないし、何より、全くなびかないとはいえ割と人気のある崎田係長との事は、知られない方が得策だったりもする。女の世界は結構怖いから……。
 竜太くんに話していないのは、単純に会えなくて話すチャンスが無かっただけなんだけど、今更この状況で言うのもおかしいと思った。
 遠くの崎田係長を意識しながら、視線を泳がせると、ドアについたガラス窓の向こうから見知った女性がこちらに向かって手を振っていた。長い黒髪を綺麗にアップにまとめて、細身の眼鏡をかけたキャリアウーマンを絵に描いたような美人さん。
「竜太くん、奈帆子さん来たみたいよ」
 そう言いながら、私も彼女に向かって手を振り返した。
「おっ、ホントだ。じゃーまたな、奏恵」
「うん」
 ドアを隔てて見つめ合う二人に続けて笑顔を向けると、ぐっと私に近付いた竜太くんが目だけで崎田係長の方を見る。
「……気をつけろよ」
 耳元に囁かれる小さな声。何のことかさっぱり判らない私は一瞬きょとんとしたものの、素直に頷いた。
「? うん」
 ……また睨まれないように、って事かな?
 どういう意味か聞きたい気もしたけど、奈帆子さんを待たせる訳にはいかないので、理解した振りをしてごまかした。
 ちゃんと伝わったと思ったらしい竜太くんは、また口の端をニッと上げて、颯爽と休憩室を出て行く。ドアの向こうで微笑み合う二人が、並んで歩き出すのを見送った私は、今度こそはっきり羨ましいと感じた。

 竜太くんが去った休憩室。奥に座って無言のままコーヒーを飲んでる崎田係長と、出窓の傍に座る私。
 ……どうしたら、いいのかな。
 変な緊張感の漂う雰囲気に、困惑する。
 崎田係長がいつも座っている位置に移動してきてくれれば、私も普通に接する事ができるのに、動く気配は全然無かった。
 なす術の無い私は、またキンちゃんの鉢を覗く。水の中で何度か回って見せたキンちゃんは、もっと餌が欲しいのか水面から顔を少し出して、こちらをじっと見つめていた。
 キラキラ光る緋色の鱗、水に揺れるひれ、まっすぐな瞳。
 キンちゃんは金魚だから、当たり前だけど凄く素直で、欲しいものを欲しがるし、何もごまかさない。鉢のふちを爪でコツコツと突付くと、音に気付いて嬉しそうに、泳ぎ回った。
「やっぱり、素直にならないと、ダメだよねぇ」
 翻弄してやると意気込んだ割に、こっちが振り回されっぱなしで認めるのが悔しいけど、結局、私は崎田係長の事が気になってる。それなら、来ない人を待ち続けるよりも、自分から行った方がいい。
 私はスツールから降りて元の位置に戻すと、崎田係長に近付いて真向かいの席に座った。
 彼は一瞬驚いて目線を上げたものの、また逸らし、いつも通りの鋭い眼光を窓ガラスにぶつけていた。
「どうして、今日はここに座ったんですか?」
 素直になると決めた私は、彼にお構いなしで真っ直ぐに見つめる。私の視線に気付いているらしい崎田係長は、居心地悪そうに眉を寄せた。
「……邪魔したら悪いかと思って」
「別に、邪魔じゃないですよ」
 どことなく歯切れの悪い言い方に首を傾げる。元々、無口っぽいけど、普段はもうちょっとハキハキ答えてくれていたのに。
「ならいいけど。ここで待ち合わせていたのかと、思ったから……」
 待ち合わせ? って、もしかして竜太くんと私の仲を、疑っている? そういえば、握手してるところを見られた……かも?
「竜太くんなら、彼女さんと帰りました」
 竜太くんに彼女がいるって事を伝えたくて、きっぱりと言い切った私の言葉に、崎田係長は眉間の皺をますます深くした。 鬼気迫る雰囲気に、見慣れてる私ですら、ちょっと寒気を覚える。
「名前で、呼んでるんだね……彼の事」
「……」
 って、突っ込むとこ、そこなの?
 ちゃんと付き合ってる訳でも無いのに、まさか……と思いつつ、どうしても我慢できなくて疑問を口にした。
「あの、崎田係長。もしかして、ヤキモチ妬いてます?」
「っ!」
 崎田係長はギクッと肩を震わせて、項垂れる。直接、表情は見れないけれど、耳がうっすら赤いような気がした。
 これは、ちょっと……可愛い、かも。
 思うだけで実行されていなかった、私のいたずら心がむくむく沸き上がる。
「付き合って欲しいとかも言われて無いのに、ヤキモチ妬かれても、どうしたらいいか判らないです」
 追い詰めるのを承知の上で、しれっと言ってのけた。
 崎田係長は俯いたまま、テーブルの上に重ねて置いた自分の手を、白くなるほど強く握り締める。
「付き合ってって言ったら、青柳さん、困るだろう。俺、顔が怖いらしいし。青柳さんが怯えてるから、見るの止めろって皆に言われたし……」
 とつとつと語られる意外な真相に、感情の振り切れた私は思わず噴き出した。
「……ぷっ」
 一度笑い出すと止まらない。アクションの無さ過ぎる崎田係長に悩んでいた自分が馬鹿らしくて、可笑しくて、たまらなかった。
「あ、青柳さん?」
 お腹を抱えて笑う私に、崎田係長はぎょっとして顔を上げる。まだ赤い彼の顔と同じくらい、私の顔も赤くなっているだろうと思った。
「……困りませんよ」
「えっ」
「付き合ってって言われても、困りません」
 重ねて言った私は、笑いを治めて崎田係長を見上げる。視線が絡んだ瞬間に、心臓が一際大きく跳ねた。
 自販機と、金魚用エアーポンプのモーター音が響く休憩室で、じっとお互いを見つめる。急に真剣な表情になった彼の喉が、スローモーションのようにゆっくり、ごくんと動くのが判った。
「……青柳さんが、好きです。俺と付き合って下さい」
 今までと打って変わって、はっきりストレートに言われた言葉に微笑む。
「はい」
 頷いた私の髪を、開いた窓から吹き込む温い風が揺らした。夏至の近い今、外は夕方と思えないほど眩しい光で溢れている。
 今年の夏は、楽しくなりそう。
 笑顔で見つめ合う私たちの間を、夏の薫りがふわりと通り抜けた。

                                          End

   

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