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 キンちゃんは見た!

 俺の名前は「キンちゃん」 生まれて1年半の、由緒正しき和金魚だ。
 名前が可愛いすぎるのは、ご愛嬌。愛する人につけて貰ったこの名を俺は気に入っている。

 具体的にどこかは自分でも判らないが、とりあえず遠くで生まれたらしい俺は去年の夏、同じ時期に生まれた仲間たちと共にトラックとかいう人間の乗り物で運ばれ、青くて浅い水槽へ移された。後から同じ水槽にやって来た年上の出目金に聞いたところによると、それが「金魚すくい」というものだったらしい。
 とにかく逃げ続けろという出目金の教えに従い、俺は襲い来る白くて丸い奴からひたすら逃げた、逃げ続けた。しかし所詮は生まれて数ヶ月のひよっこ、すぐに疲れて動けなくなってしまった。
 身体を休めるため、水槽の隅へ移動した次の瞬間、ドブンという水音と共に俺の身体は激しい波にさらわれる。一体何が起きたのか判らずに周りを見渡すと、そこには青い水槽なんか無くて、銀色のテカテカした壁に俺の腹が映っていた。
 「おまけ」とか「特別」とか、そんな感じの野太い声が聞こえた気がする。何か相当ヤバイ事になっていると感じた俺は、必死の抵抗を試みたものの、あっさりと狭い袋に入れられた。
 それからどうなったのか、自分でもよく判らない。人間に持ち上げられているのだろうというのは気付いたが、笑い声と共に袋がグラグラ揺れるので、少し目を回していたからだ。
 次に気がついた時には、暗かった周りがうっすら明るくなっていて、とにかく息苦しくてたまらなかった。なぜか水も熱くて、このまま皮膚が焼けてしまうんじゃないかと思った。しかし俺は金魚だ。人間のように歩く事も、しゃべる事もできない。もちろん逃げる事だって……。
 ぼうっとする意識の中で、このまま死ぬんだと理解した頃、黒い服を着た人間の男が、俺の入った袋を持ち上げた。
 こいつが後から俺のライバルとなる「サキタ」という奴だった。この時の事は死ぬまで忘れないし、今でも恨んでいる。なぜなら、こいつは俺をどこかに運んだだけで、放ったらかして逃げたからだ。一瞬「助かった」と喜んだ俺の気持ちを返しやがれ。
 そんなどん底、というか、瀕死の俺に、運命の出会いが待っていた。
 サキタが逃げた後、俺に気付いてくれたのが心優しく美しい「アオヤギ」という人間の女性だった。
 アオヤギは俺に気付くと、すぐに広くて冷たい入れ物へと移してくれた。くんだばかりの水は肌にびりっと刺激的だったが、死ぬよりはマシだし、アオヤギとの出会いに感極まった腑抜けな俺には丁度いいくらいだった。
 それからアオヤギは、弱った俺を献身的に看護してくれた。今ではすっかり元気になって、お洒落で清潔な水槽に、美味い飯を与えられている。まさに楽園だ。
 そしてもちろん……隣にはアオヤギがいる。

 人間てのは、俺たち金魚が何も判らず、何も考えていないと思っているらしい。
 だが実際は違う。奴らのすぐ傍で「癒し」とかいうものを与える代わりに、餌を貰って生活している俺たちは、基本的に暇だから人間ウォッチをしている事が多い。必然的に人間たちの生活や、人間関係にも詳しくなるって訳だ。
 アオヤギに助けられてから、1年近く。俺はこの場所にかなり詳しくなっていた。
 俺が今暮らしているのは、カイシャというところで、ここには愛しのアオヤギとその他の人間たち。それから例のサキタがいる。なぜあの野郎までいるのかは知らないが、アオヤギと仲が良くないというのは判っていた。
 アオヤギが「シャインさん」と呼ぶ、かしましい事この上ない女たちが言うには、サキタが一方的にアオヤギを嫌っているらしい。まぁ、苦しんでいる俺を放置していくような奴だから、性格が悪いのは判っているが、あんなに素敵なアオヤギを嫌うなんて何様かと憤った。しかも心優しいアオヤギは、自分に非があるのでは無いかと、俺に食事を与えながら日々悲しそうにしている。
 「アオヤギは素晴らしい人間だ、何も悪くない。あんな野郎を思ってやる必要なんて無い」
 そう言ってやりたいのに、悲しいかな金魚の俺は、水槽をくるくる回るしか出来なかった。
 とある夕方、アオヤギから餌を貰っていた俺は、かなり遠くからこちらを伺っているサキタを見つけた。何をしているのか知らないが、ただ突っ立ってじっとアオヤギの背中を見つめている。
 人間の表情というのに余り詳しくない俺にも、サキタが嫌そうな顔をしているのは判った。
「そんなに嫌なら、見てないでとっととどっか行きやがれ! お前には、俺のアオヤギを見る資格なんてこれっぽっちも無いんだよ!」
 と、出来る限りに叫ぶ。しかし声を出せるようにできていない俺の口からは、二つ三つの泡と共に餌がこぼれただけだった。
 それから、ほぼ毎日、餌の時間にサキタを見かけるようになった。アオヤギなら一日中だって見ていたいが、サキタの顔は一日に一回も見たくない。全く不愉快だ。
 当のアオヤギはと言えば、見られている事に全然気付いていないらしく、いつもの優しい声で俺に語りかけながら餌を落としていた。
 なぜか凄く嫌な予感がする。シャインさんはサキタがアオヤギを嫌っていると言っていたが、それは本当なのだろうか?
 あんなに愛らしいアオヤギを嫌う奴がいるなんて、俺には信じられない。
 ……それに、サキタの行動はまるで、メスの産卵を狙うオス金魚みたいじゃないか。
 ま、まさか……っ!?
 そこまで考えた俺は、青ざめた。肌がもともと赤いから判りにくいだろうが、この時は確実に顔色が悪くなったと思う。
 きっとサキタは、アオヤギの事を狙っているんだ。アオヤギの産む卵を自分の子供にする為に、ああやって追いかけ回しているんだろう。
 いつも嫌そうな顔をしているのも、自分の縄張りにアオヤギが俺を招き入れたのが気に食わないからに違いない。
 俺は今まで、人間には縄張りが無いんだと思っていたが、それは間違いだったようだ。
 これでやっと合点がいった。サキタは俺のライバルであり、敵だという事だ。だが、納得はしたものの、この状況をどうすれば良いのかが判らない。しゃべれない俺は、アオヤギに身の危険を伝える術が無かった。
 ……ああ、俺が人間のような身体で自由に動き話せるのなら、すぐにでもサキタを追い払って、アオヤギを抱き締め想いを伝えるのに。
 夜、消灯され真っ暗になったカイシャで、見えない涙をこぼしながら俺は眠りについた。

 人間と違って特にする事の無い俺は、いつも朝日が昇ったのに合わせて目覚める。朝は直接光が入らないものの、暗闇から段々と周りが白んでいくのは清々しいものだ。
 今日も同じように目覚めた俺は、バタンとドアが開いて閉まった音に気付いて目線を上げた。
 朝は餌が貰えないが、それでも毎日アオヤギが来てくれる。てっきりアオヤギの朝の挨拶だと思った俺は、さっと水槽の壁に映った暗い色に内心、首を捻った。
 アオヤギはこんな真っ黒の服を着ていただろうか?
 いつもはもう少し薄い色だった気がする。妙な雰囲気に警戒した俺を、上からそっと覗き込む顔。
 ……って、サキタじゃねえかっ!!
 情けない事に、かなり驚いた俺は水槽の中をぐるぐる回った。回りながら、相当マズイ事になったのを感じる。
 生き物はいつだって弱肉強食だ。自分の縄張りの中に入ってきた別の奴を、生かしておくわけが無い。もちろん素直にやられるつもりは無いが、それでも、こんなに大きな奴にどこまで抵抗できるだろうかと、薄ら寒くなった。
 ふいに聞こえるドアの開く音と、控えめな優しい声。
「……おはようございます」
 アオヤギ!!
 心臓が口から飛び出すんじゃないかってくらい、ドクンと跳ねた。
「うっ……あ……。お、おはよう」
 俺を始末しようとしていたところを見つかったからか、サキタは気まずそうに呻く。
「崎田係長がここにいるなんて珍しいですね。何かあるんですか……?」
「いやっ、な、何も……!」
 やめろアオヤギっ。追求したり、俺を庇ったりして、お前までやられたらどうするんだ! 逃げろっ!!
 声にならない声で叫ぶ。伝わらないのは頭では判っていたが、いてもたってもいられなくて水槽の中で暴れた。
「それ。ペットショップの袋、ですよね?」
「……無くなったらしいから、買って来た」
 ペットショップ……?
 耳慣れない言葉に怯える。何をされるか判らない。とにかくアオヤギに逃げて欲しくて、気付いて貰う為に必死でアピールを続けた。
「え、何で……」
「金魚、置き去りにしたの……俺なんだ」
「はい?」
 サキタと話し続けるアオヤギは、全然俺に気付いてくれない。悲しいような、空しいような気分になった。
「去年の夏、家の前に金魚が捨てられていて。でも、俺は生き物を飼った事が無いし、どうしたらいいか判らなかったから、そのまま持ってきて会社の前に置いといたんだ。誰か、そういうのに詳しい奴が、どうにかしてくれると思って……」
「詳しい奴っていうのが、私だった?」
 アオヤギの言葉に、サキタが頷いた。
 そうそう。そいつは俺を置き去りにするような最低な奴なんだって。今も俺を縄張り荒らしだと決め付けて、始末しようとしてたに違いないんだ。
「……で、何故いきなりエサを?」
「いきなりと言うか、昨日ここで青柳さんがエサが切れたって言ってたのを聞いて。ずっと、何か手伝えないかと思っていたから」
 ん……餌?
 急に話の内容が判らなくなった俺は、混乱する。
 同じように混乱しているらしいアオヤギが、少し怒ってるような声を上げた。
「何か手伝いたいとか思ってるのに、どうしていつも私の事、睨むんですか?」
「えっ!」
「会うたびに凄い嫌そうに睨まれるから、私、何かして嫌われてるのかと思ってたんですよ?」
 縄張り荒らしに怒っている事を言い当てられたせいか、意外そうに驚くサキタと、強気で言い募るアオヤギ。か弱そうに見えていたアオヤギが、実はサキタを追い詰めるほど強かったという事に、俺もまた驚いていた。
「違う、誤解だ。確かに、良いなあと思って青柳さんを見てる事はあるけど、嫌ってるなんてそんな、……っ!!」
「……」
 何故か急に二人の言葉が途切れた。水槽に入っている泡が出てくる機械のブブブーという音が、やけに大きく響く。
 とりあえずアオヤギがサキタにやられる事は無さそうだとホッとした俺は、結局、何の話だったのか思い返そうとしたものの、よく判らなかった。
「あの、ちゃんと聞きたいんですけど……」
 顔を上げたアオヤギが、ぐぐっとサキタに近付く。
 どういう事だったのかもう一度聞きたいと思っていた俺も、アオヤギに同意の意思を示すために、くるりと回って見せた。
 今まで見た事が無い程うろたえているらしいサキタは、観念したようにゆっくりと息を吐いた。

 俺の住むカイシャというところは、朝から少し過ぎてシギョウという時間になると、突然、人がいなくなる。時々ドアの向こうに動く影が見えるから、皆あっち側で何かしているのだろう。
 今日も静かになった部屋の中で、泡の出る音を聞きながら、さっきまでのアオヤギとサキタの事を考えていた。
「前から良いと思ってた」とか「睨んでない」とか「急にそう言われても困る」とか……あと、何だったか……ああ、そうだ「メール」と言いながらケイタイという機械を出し合っていた。やっぱりよく判らない。
 シギョウの合図らしい音楽が流れ出した時の、少し嬉しそうだったアオヤギの顔が、ふと思い浮かんだ。俺と二人きりの時以外で、あんな顔をするなんて思っていなかった。可愛いけど……なんとなく悔しい。
 縄張り争いがどうなったかは未だに判らないが、やはりサキタは危険だ。
 俺はそう決め付けて、泡が出るのに合わせて揺れる水面に身を任せる。ゆっくりゆっくり水を掻きながら、夕方の逢瀬に思いを馳せた。

                                          End

   

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