小説  index

 恋の代償

 なんとなく気になって。気付くと目線で追いかけている。ふとした拍子に視界に入るのはいつも同じ人。
 ……特に理由なんて無い。自分でも理解できない。
 恋なんてのは、そんな物らしい。

 もともと惚れっぽい方では無かった。
 高校に入るまでの人生を振り返っても、恋心を抱いた相手は一人。それも本当に恋だったのかあやしい。
 半年くらい何となく気にしていたものの、彼女に恋人ができたという噂を聞いた瞬間にゼロに戻るような、恋というには余りにもお粗末な気持ちだった。
 だから……他者に対して執着が無いのだろうと思い込んでいた。ここに来るまでは。

 いつも通りに3階の一番奥のドアを開けた西條(さいじょう)は、まだ誰も来ていない事を確認しながら、自前のバッグを備え付けのロッカーの上に置いた。
 窓に掛けられているカーテンは開いているものの、北側校舎の3階の最奥に位置している美術室はかなり薄暗い。
 特別教室ばかりが集まっている北校舎は授業中でも静かで、放課後の今は西條が立てる以外、物音一つしなかった。
(……だから幽霊が出るって言われるんだろうな)
 どこの学校にもある怪奇譚は概ね音楽室か理科室が舞台だが、この高校では美術室が噂の的だった。
 壁に掛けられている人物画のレプリカから血の涙が出るだの、夜中に動いてこちらを見ているだの、冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい事この上無い噂が、まことしやかに囁かれているらしい。
 おかげで西條が部長を勤める美術部は、万年部員不足だった。しかも文化部の特性上、名前だけ部員の多いことったら無い。
(幽霊じゃなくて、幽霊部員だらけの美術部だな)
 自分の考えをフンと鼻で笑って、西條は隣接している美術準備室を開けた。文化祭に向けて描いている絵を置かせて貰っているのだ。
 今日こそは、ある程度、形にしなくてはならない。時間はまだあるが今後クラス展示の準備と重なったらやっかいだ。
 ゴロゴロと音を立てながら開いた引き戸の奥に目をやって、西條はがっくりと肩を落とした。
(またか……)
 目の前には準備室に備え付けのイスに座った状態で、机の上にばったりと倒れている人物。少しも染めていない真っ黒でうねった長い髪が机に広がっていて、その下には両腕がだらりと伸ばされている。
 部員じゃなかったら、驚き叫んで腰が抜けてもおかしくない状況。
 美術室よりも暗い小部屋にぴったりのホラーな展開に、西條は臆することなく近寄って、倒れている人物の肩の辺りを揺さぶった。
「先生、起きてください」
 一応気にして軽く触れたのだが、そんなことくらいではビクともしないらしい。西條は眉間に皺を寄せたまま少し強く揺すってみる。
 と、ガクンと身体が動いて、ゴツッと鈍い音がした。どうやら頭をぶつけたようだ。
 さすがに痛かったのか、幽霊ならぬ担当教師はゆらりと身体を起こした。
「いたい……」
 ワカメみたいな髪の間から覗く顔は青白く、起きていても幽霊のようだ。
「起きていただけないので揺さぶったら、ぶつかりました。すみません」
 余り悪いとも思っていないので淡々と言うと、言われた方はゆっくりとこちらを見た。
「あら、西條くん。おはよう」
「おはようございます。御園(みその)先生」
 美術教師で、美術部の副顧問。
 女性にしては割と長身だが、いつも猫背で絵の具まみれの白衣を着ている。ざっくりしたウェーブパーマの髪を腰まで伸ばしていて、その間から覗く顔はいつも青白い。きちんと食事をしているのか疑問なくらい痩せていて、生徒からは魔女と言われていた。
 年齢は26歳。
 西條の情報にぬかりは無かった。
「……もう授業終わったの? いま何時?」
「もうすぐ3時半です」
 御園は長い前髪をかき上げると、軽く伸びをして息を吐いた。
「やばいなぁ、また寝ちゃったよ」
「そう言って先週も寝ていたじゃないですか」
 西條が冷ややかな視線を向けると、御園はへらりと笑う。
 基本的に美術の授業は午前中だけだった。理由はよく判らないが、御園が非常勤なのでそうなっているらしい。だから本来、御園の仕事は午前中だけで終わりのはずなのに、美術部の顧問をやっている、もう1人の教師がひどくヤル気が無いので、部活の統括を押し付けられてしまっていた。
 おかげで御園はいつも部活の終わる時間まで居残らなければならない。昼から部活開始の時間まで御園は時々、準備室で居眠りをしていた。
「昨夜はデッサンに夢中になっちゃってねぇ」
「他にすること無いんですか」
 26歳の女がそんな事でいいのだろうかと呆れると、御園は気の抜けた笑顔で頷いた。
「うん、無い」
「……」
 西條は無言で掛けてあった描きかけの絵を取り、踵を返す。
 いつもながら御園の天然ぶりに苛立ちを覚えた。そしてそんな御園が気になる自分にも。
「あれ、今日はツッコミ無し?」
 机に頬杖をついてこちらを見ている御園を一瞥する。
 いつもだったら、彼氏もいないのかとつっこむか、暇な御園に付き合っていられないと突き放すかするのだが、今日は何となくからかってみたくなった。
 驚く御園の顔が見たい。他の部員がいないというのも都合が良かった。
 とりあえず近くのイーゼルに絵を置いてから、御園に向けてニヤリと笑う。
「俺は先生に彼氏がいないという確認がとれて、一安心ですけど」
 本心を冗談めかして告げた。本気にされないのは判っていたが、どんな反応をするのかが見たかった。
 御園は顔を上げると、前髪に隠された瞳をぱちぱちと瞬いた。
「なんで一安心?」
「言わないと判りませんか? 異性に特定の相手がいなくてほっとする理由なんて一つでしょう」
 内心どぎまぎしながら、平静を装う。
 どこで、からかわれていると気付くだろうか。冗談だと思うだろうか……それとも。
 じとりと汗をかいた手を、見えないように握る。
 目の前の御園は、きょとんとしたまま首をかしげた。
「それって、西條くんが私を好きってこと?」
 ズバリ直球を返された西條は、一瞬、言葉に詰まる。まさか、こうくるとは思わなかった。
「……冗談、ですよ。先生をからかってみたかっただけです」
 予想外の展開に、視線を逸らし自ら白旗を揚げた西條を、御園は少しだけ不機嫌な顔で見つめた。
「私、西條くんなら恋の代償が払えると思うのよね」
「は?」
 御園の言う意味が判らずに視線を戻すと、彼女はにっこりと微笑む。西條は自分の体温がぐっと上がるのを感じた。
「教師と生徒が恋愛をするとどうなるか、考えた事ってある?」
「……いえ」
 咄嗟に嘘をついた。
 御園を想うたびに何度も考えた事。しかし結局、そうなる可能性が無いだろう事を思い知らされるだけの行為だった。
「もちろんバレたら厳罰だとか、酷いと条例違反で逮捕なんて事になるかもだけど。上手くいっても、その後が大変だと思うのよ」
「その後って?」
「例えば、お互いを両親に紹介する時も大変だし。結婚するにしたって周りから色眼鏡で見られるでしょうし。ましてウチは両親も教師だから、そんな事になったら勘当されるかもねぇ」
「……」
 ぐうの音も出ないとは、このことを言うのだろう。告白して断られたというのならまだしも、告白すらしていないのに叩きのめされた。
 何も言えないまま、ただぼうっと見つめていると、御園はくすりと笑った。
「それが、恋の代償。何を言われても、周りが敵だらけでも、跳ね除ける強さが必要なの。簡単に振り回されるようなら、すぐにダメになるわ」
「だから、止めた方が良いという事ですか?」
 やっと搾り出した言葉に、御園は一瞬、眉を上げてから、わざとらしく笑顔を作る。
「あら、聞こえなかった? 私『西條くんなら代償が払えると思う』って言ったのよ」
「え……」
 一際大きく心臓が跳ねた。
 静まり返った小部屋で、ただひたすら御園を見つめる。いつのまにかカラカラになった喉を潤す為に、ごくりと唾を飲んだ。
 頬杖をついた御園は軽く首を傾げて、人の悪い笑顔でこちらを見ていた。
 見透かされ、試されている……そんな事は百も承知なのに、何も言葉が出てこない。
 西條が何かを言う前に、御園はすいっと視線を窓際に向けた。
「そうね。今の西條くんじゃ、まだ頼りないから、卒業する時に君の考えを教えてくれる?」
 本当に、気付いているらしい。
 隠していた想いを言外に当てられ、動揺しながらも西條は口角を上げた。
「つまりそれは、本気だったら卒業まで我慢して見せろって事ですか?」
「そうとって貰っても構わないわ」
 そう言われて、ただ一つ御園が知らない事に気付いた。それは西條がどれだけの想いを身に秘めているかという事。
 イーゼルに掛けた絵を取り上げると、西條はドアの隙間に半分だけ足を入れて振り返った。
「そんなの俺にとったら楽勝ですよ。卒業式、楽しみにしてて下さい」
 一瞬ぽかんとした御園を残して、西條は後手にドアを閉めた。

 入学してすぐ、この想いに気付いて2年と半年。あと半年待つことなんて容易い事だ。まして御園の気持ちを掴んだも同然の状態なら、あっという間だろう。
 西條は人生初とも言える鼻歌を歌いながら絵筆を動かし、入ってきた部員に手を上げた。
「あれぇ、部長やけにご機嫌ですね。完成間近ですか?」
「いや……道筋とゴールが見えた、感じかな」
 見慣れた部室を描いた風景画、小さく絵の中に登場する部員たちに混じった白衣。
 西條はこみあげる笑みを抑えると、彼女にそっと色を重ねた。

                                          End

   

→ あとがき    Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  小説  index
    お気に召しましたら、押していただけると嬉しいです →