Before White Day ビフォア ホワイトデー
(参った……)
勤務中ながら、伊波は額に手をあてて大きく溜息をついた。
バレンタイン催事場と同じ会場で、今はホワイトデー催事が開催されている。毎日の事だが売れ行きや展示、陳列を確認するために、催事場を一通りぐるりとまわってきたのだった。
売れ行きは例年と比べ悪くない。品揃えだってこの辺の店に比べれば良いと思う。
なのに、伊波を悩ませている事があった。
……葉月へのホワイトデー。
先月のバレンタイン。
突然向こうから告白されて、付き合いだした彼女。
葉月に一体何を返したらいいのか、伊波には全く見当がつかなかった。
毎日、業務で催事場をまわるついでに商品をざっとチェックし、何がいいのか思案するものの、これといった決め手もなくいつまでも選ぶことができない。
優柔不断というよりも、ホワイトデーと付き合いだして1ヶ月目の記念日が重なるという重大性で決めかねていた。
3倍返しだとか、5倍だとか、今の相場は知らないがそれはどうでもいい。金額ではなく想いの伝わる何かを贈りたい。
そう思い続けて10日が過ぎていた。
定番なところでは、クッキーやキャンディ、マシュマロ。花…は綺麗だけど枯れる。
身につけるものはサイズが判らない。小物でも良いが、まだ付き合いだして半月では好みを把握しきれていなかった。
大体、あれが欲しいとか、これが素敵とか、そういう会話をした時間が少なすぎる。
昼休憩時、さっさと昼食を終えた伊波は社員食堂のテーブルに肘をついて、消去法を駆使していた。しかし候補の全てが消えてしまうので堂々巡りだった。
目線だけは据えてつけてあるテレビに合わせ、さもテレビに夢中ですという姿勢で、脳内に別の候補をあげていく。
と、伊波の向かいの席にさっと誰かが座った。
「伊波チーフ?」
お決まりの少しだけ首をかしげる仕草。
「は……藤永さん」
とっさに下の名前で呼びそうになって慌てた。
部門は違っても同じ職場で付き合いを公にするのは流石に憚られる。社内恋愛が禁止されているわけでは無いが、知られると後々面倒だから、職場では以前のままの関係を保っていた。
葉月もあえて気付かないふりをして、いつものようににっこりと笑う。
「どうされたんですか、ぼんやりして。お昼休憩ですよね?」
「あ、ああ。ちょっと、テレビ見てて」
まさか本人に言うわけにはいかないので、伊波は心苦しく思いながらもごまかした。
葉月はこれから昼食らしい。日替わりランチを乗せたトレーを置いて「いただきます」と呟いてから、ご飯をほおばった。
「…伊波チーフ、お疲れなんじゃないですか? ……時期的に大変だとは思いますけど」
他人行儀を装いながらも伊波の身体を心配してくれる葉月の気持ちが嬉しい。
「ありがとう。でも体力には自信あるから。それに今時期忙しいのは仕方ないよ」
社交辞令を述べて苦笑すると、わざとらしく肩を竦めた。
近くに座っている社員の中の誰が聞いているか判らない。余計な事は言わないに限る。
そのまま沈黙して、伊波はぼんやりと視線をテレビへと向けた。葉月もただ黙々と食事を続けているが、2人だけには、お互いを強く意識していると判っていた。
(……明日、葉月が休みだったら、アパートへ連れ帰って一晩中抱き締めるのに)
悲しいかな葉月の次の休みは4日先だった。
付き合って半月とはいえ、何度か過ごした逢瀬の時間を思い出し、伊波は胸を高鳴らせる。
「お邪魔しても、いーですかぁー?」
無意識に頭に浮かべていた二人きりの時の彼女は、間延びした女性の声によってかき消された。
伊波が咄嗟に振り返るのと、葉月の声が重なる。
「多香子(たかこ)さん」
「はぁい。2人でお昼だなんて怪しいぞー」
「な、なに言ってるんですかぁ、もう!」
慌てて否定した葉月の隣に、にやにやしながら座った女性は子供雑貨担当のパートタイマーで佐野(さの)さんという。葉月の言葉からすると名前は多香子らしい。
歳は伊波よりも5つくらい上だろうか。快活で世話好きな性格で、社内ではそれなりに有名だ。
佐野は葉月と同じ日替わりランチをどすんと置いて、さっさと口に入れながら、
「そーよねー。藤永ちゃんには指輪のラブラブ彼氏がいるんだもんねー」
と、つまらなそうに言った。
バレンタイン以前なら見せ掛けの恋人だったが、今は伊波という彼氏がいるので葉月は顔を赤くして俯いた。
その仕草が可愛くて、内心どぎまぎする。
しかし佐野に気付かれてはまずいので、伊波はあえて話に乗った。
「俺は相変わらず忙しくて、それどころじゃないですよ……」
苦笑しながら言うと、佐野は口をもぐもぐ動かしながらゆっくりと頷く。
「クリスマス、年末年始、バレンタイン、雛祭り、ホワイトデーだもんねぇ。まぁうちらは新入学準備フェアで忙しいんだけどさー」
「そうですね」
指折り数える佐野の言葉に同意する。
担当以外の部門の事は詳しくないが、佐野とほぼ同じ部門の葉月の残業が増えているのは、そういう事なのだろう。
「あーあ。あたしも藤永ちゃんみたいに、ラブラブ彼氏に癒されたーい」
「って、多香子さん結婚してるじゃないですか。旦那さんに癒されましょうよ」
いつの間にか復活した葉月がつっこむと、佐野は「えー」と言いながら湯呑みのお茶をずずっとすすった。
「旦那なんて癒されるどころか疲れるだけよー。釣った魚にはなーんにもくれないんだから。私だって、結婚指輪以外の指輪とか欲しいわー、ほら昔あったじゃないスイートテンダイヤとか。ああいうの」
「はぁ……」
うろ覚えらしい葉月は、曖昧に頷いている。
すると佐野は急に伊波に向き直った。
「覚えときなさいよー、伊波チーフ。彼女ができたらマメに尽くしてあげないとダメなんだからね。女はデリケートなの。うちの旦那みたいな扱いをしたら、すぐに逃げられちゃうんだから」
(……デリケートって)
目の前の佐野を見て、違和感を感じる。
「そう……です、よね。参考にします」
伊波が剣幕に押されながらもなんとか返事をすると、佐野は最後のお新香を口にぽいっと入れて立ち上がった。
「さーて、化粧直して銀行いかなきゃ。面倒だわー。じゃ、お先ね」
言うだけ言って、颯爽と食堂から出て行く後姿を見送る。
パワフルな佐野に呆然としながら前を向くと、向かいの葉月と目が合った。どちらからともなく笑みがこぼれる。
「佐野さんって、飯食うのすげー速いんだなぁ」
「ですね。会話も速いし……でも凄く面白くて良い人なんですよ」
「うん、藤永さんの部門は皆仲がいいんだろうなって思ったよ」
「はい」
伊波の言葉に優しく微笑んだ葉月の指には、あの指輪が煌いていた。
『今日の夜、葉月の家に行ってもいい? 明日も仕事なのは判ってるけど、ちょっとだけ寄りたい』
15時の小休憩の時、伊波は葉月にメールを送った。
あと4日が我慢できないのかと問われれば、我慢できないと自信を持って言えるが、今日は少し重要な用件で訪れるつもりだ。
もし断られたら、絶対に不埒な真似はしないからとお願いするしかない。格好が悪くても……他に手が無かった。
伊波は念のために、デパートのユニホームの下に着たワイシャツのポケットを探る。
10センチ四方の紙と、細いボールペン。
はっきりと調べたわけでは無いが、4日後では間に合わないかも知れない。早ければ早いほうがいい。
携帯の着信音をサイレントバイブにしてズボンのポケットにねじ込むと、伊波はまた売り場へと戻っていった。
3月14日。ホワイトデー当日。
お約束というか、当たり前というか。バレンタインと全く同じように閉店後、売れ残り商品を撤去し店を後にした時には、既に日が変わるまで残り15分弱といったところだった。
仕事あけに葉月のアパートに行くつもりだったが、これでは間に合わないだろう。
こうなることは予想できたし、葉月だって判っているとは思っても、ぎりぎりでいいから14日中に会いたかったと溜息をつく。
3月に入って大分寒さも和らいだとはいえ、夜中の冷え込んだ大気に白く煙る吐息を見て、彼女を想った。
葉月にはホワイトデーの約束を取り付けていない。
14日中に会えない可能性が高かったのもだが、何よりもお返しはサプライズにしたかった。……彼女がくれたチョコレートのように。
駐車場までの道すがら、仕事用の鞄を外から撫でる。
普段、書類と筆記用具くらいしか入っていない薄っぺらいバッグは、底のほうがほんの少し膨らんでいた。
いつものようにポケットからキーケースを出して解除ボタンを押す。
暗闇でハザードが光るのを確認した伊波は、またもや隣に停めてある赤い車を見つけ首を捻った。
「……葉月?」
離れている車中の彼女に声が届くわけないのに、まるで呼ばれたようなタイミングでドアが開き彼女が顔を出す。
嬉しそうに微笑んで、小走りでこちらに来た葉月は
「隆二さん、お疲れ様」
と言った。
葉月は出勤用とは違う淡い色のカットソーに、ニットのロングスカート。それに厚手のストールを巻いている。見るからに部屋着だった。
「葉月、どうして」
彼女の今日のシフトは早上がりだったはず。当然の疑問を口にした伊波に葉月は恥ずかしそうに俯いた。
「……迎えに来ちゃいました」
「え?」
これから葉月のところへ行こうとしていたのは事実だが、なぜそれを葉月が知っているのだろう?
伊波が驚いた顔をしていると葉月は所在無さそうにもじもじしながら、小声で呟いた。
「付き合って1ヶ月めだから会いたいなぁって思ってて。それで勝手にお夜食とか作っちゃって。だからちょっとだけ、うちに来て欲しいかな、なんて」
「葉月……」
「あっ、あの、ホワイトデーとかはいいですからっ」
顔を赤くしながら慌てて否定する葉月を見て、胸が温かくなった。
衝動的に腕を伸ばして彼女を抱き寄せる。
「ありがとう、すごい嬉しい」
「りゅ、隆二さん? ……誰か来たら困る……」
まさか抱き締められるとは思っていなかったのだろう。咄嗟に逃れようとした葉月をしっかりと抱き留めた。
「誰もいないし。別に見られても、いい」
どうせ残っているのなんて副店長くらいだ。それに、もう誰に見られたって構わない。
ばれた時に、やっかみや嫉妬、口さがない噂の中心になるのは伊波で葉月じゃない。ならばいっそばれてしまった方が良いとさえ思った。
伊波の声を聞いた葉月は、かすかに身体を硬くし、おずおずと背中に腕をまわした。
「……隆二さん」
顔を上げた葉月の唇に自分のを重ね、触れるだけのキスをする。しばらく見詰め合った後に、伊波はふと笑った。
「わざわざ来なくても、メールくれれば飛んでいったのに」
くれなくても行くつもりだったことは伏せる。
「だって……どうしても会いたかったんだもん。今日来れないって言われても私がここまで来れば、会うだけはできるでしょ?」
子供のように口を尖らせる葉月にもう一度だけキスをしてから離れると、伊波は左手に引っ掛けたままだった鞄を開けた。
模様入りの透明セロファンで作った巾着型の袋の中に、色とりどりの小さい箱が沢山詰まったのを取り出すと葉月へと手渡す。
「これ、バレンタインのお返し。お菓子とか色々だけど」
考えて考えて選んだプレゼント。この瞬間を期待していたはずなのに、いざ渡すとなると恥ずかしくて葉月の顔が見れない。
ゆっくりとした動作で受け取った葉月は、そのまま大事そうに抱き締めた。
「凄く可愛い……ありがとう隆二さん。嬉しい」
少しだけ葉月の声が震えてる。顔を見なくても、本当に喜んでくれたのだと判って嬉しかった。
ごく自然に葉月の腰に手をまわして、停めてある車まで歩く。
ふと、葉月が不思議そうに伊波を見上げた。
「ん?」
「ねぇ隆二さん、これって何が入ってるの?」
葉月が指差す先、透明の巾着の中、四角い小箱たちに混じってピンクのハート型の箱がある。
伊波は少し困った顔をしてから
「……俺の気持ち」
と呟いた。
「藤永ちゃーん」
今日も朝から元気いっぱいの声に振り向くと、葉月はぺこりと頭を下げた。
「おはようございます」
「見たぞ、見たぞー。今日の藤永ちゃんは指輪が違う!」
びしっと指を立てて指摘する多香子に、少し感心する。デザインや材質ががらりと変わったわけじゃないのに、よく気が付くものだ。
「これ昨日、貰ったんです。ホワイトデーだったから」
「えー、いいなあ。やっぱ藤永ちゃんの彼氏はマメだわー」
頬に手を当てて、これ見よがしに溜息をつく多香子に苦笑する。きっと今年も旦那さんからのお返しは無かったのだろう。
「でも彼、職場の方に『女性にはマメに尽くせ』って言われて、色々考えたみたいですよ」
「へぇ、いい同僚じゃないの」
まさか自分の事だとは思っていない多香子に、葉月はにっこりと笑いかけた。
「そうですね。とても良い方です」
そっと薬指のリングに触れた。前のよりも少し華奢なデザインのそれは、葉月の指のサイズにぴたりと合っている。
失礼だけど、そういうことに詳しく無さそうな伊波が葉月の指のサイズを知っていたのには驚いた。
実際は、葉月の家に来たときに前の指輪をこっそりとなぞって測ったと聞いて、少し笑ってしまったのだけど。
でも、そこまでしてくれた事に感動した。
「俺が選んだけど買ってあげたわけじゃないから、ちゃんとしたのをプレゼントしたかった」
そう言った伊波を思い出して、胸が熱くなる。
更衣室から売り場までの道のりを、多香子と歩きながら、遠く食品売り場をチェックしている伊波を見た。
思わず顔が緩んでしまう。普段の彼も素敵だけど、仕事している時の少し厳しい表情が格好いい。
「あー、伊波チーフだ。あの人もさ、見た目それなりにイケてるんだから、マメに女の子に声かけたりすりゃいいのにねぇ。仕事一辺倒って感じじゃモテないのにさー」
多香子の呟きに思わず笑う。
「でも……伊波チーフがモテたら困ります」
「へっ?」
気の抜けた多香子に微笑んでから、葉月は売り場への階段を登っていく。
朝の清掃を促す店内放送を聞きながら、こみ上げる欠伸をなんとかやり過ごした。
胸の中の暖かい気持ちと、ちょっとだるい身体。
(……でも仕事はちゃんとしないとね)
さっきの伊波を思い出して、葉月は多香子を振り返った。
「行きましょ、多香子さん。清掃タイム始まっちゃいましたよ!」
駆け出す葉月に多香子も慌ててついていく。
「待ってぇー……ていうか、さっきのどういう意味?! ちょっと、藤永ちゃーん!!」
多香子の声がこだまする階段を、葉月は一気に駆け上った。
End
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