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 熱帯夜  ねつたいや

今更自慢にもならないが中学入学以来、桂吾はフリーだった事が少ない。義母のせいでトラウマになりかけた数ヶ月、女性に接する事すら遠ざかっていた時期を除けば、常に誰かが隣にいるという状況だった。
それはもちろん桂吾の努力の賜物などではなく、親ゆずりの容姿と七光りのおかげなのだが、おかげで欲求不満に対する耐性というものがやや足りない傾向にあった。
更に言えば、桂吾が唯一努力してやっと手にした旭に触れられないのは、まさに地獄というわけだ。
ああ、それなのに。
ついに今週末も無理だと悟った桂吾は、誰もいないのを良い事にがっくりと項垂れた。
いつものリビング。時計の2本の針が限りなく上を示しているような時間。
興味の無い深夜のバラエティ番組を垂れ流していたテレビを消すと、桂吾は溜息をついて戸締りのチェックを始めた。
窓にドア、出入り口を全て確認してから、最後にそっと旭の部屋を覗く。そこには、まさに大の字といった風体で眠る想い人。いびきをかいていないだけマシだが、恋人としては見たくない光景かも知れない。
もう一度、溜息をつくと桂吾は向かい側にある自室のドアを開けた。
一月前までは、自分の部屋なんて必要無いんじゃないかと思うほど、旭のベッドで共に眠っていた…のに。
桂吾は風呂に入る前に敷いて置いた布団に寝転がると、そのままぼんやりと電灯を見つめる。代えたばかりの蛍光灯は目に痛いほど白く、その奥に旭の肌を見た気がした。
「俺…ちょっとヘンかも」
自覚はしていても、無意識にそんな事ばかり考えている自分を疑いそうになる。
起き上がって乱暴に電気を消し、すぐに布団に潜り込んだ。
最初に言い出したのは自分。どうしても受かりたいと願っていた調理師資格試験を前に、桂吾は旭と触れ合うのを自ら禁じた。格好つけたんじゃない、単に余裕が無かっただけ。古臭い考えかも知れないが、将来、旭を守っていく立場になった時に困らないように、是が否でも手に入れたかった。
そして無事に試験は終わり、何とか合格できた桂吾は、自分に課した制約を解いたのだが…。
「1週目が出張。2週目が体調不良。3週目がダメな日で。4週目がまた出張…」
暗闇の中、指折り数えて、またへこんだ。
旭の体調を最優先にしている桂吾にとって、チャンスは週末しかない。しかしこの1月と少しの間、様々な理由で旭の身体が空く事は無かった。
しかも5週目の金曜である今夜、旭は取引先との飲み会に出席し前後不覚となって帰宅、そのまま眠ってしまった。明日は明日で、桂吾の合格祝いを絵美奈とマスターが開いてくれることになっている。もちろん旭も呼ばれているから、2日続けての大トラは必至だ。
桂吾は寝返りをうってうつ伏せになると、布団に肘をついて顎を乗せた。
旭は酒に強い。ザルといってもさしつかえないと思う。いっしょに暮らしだしてからは、飲めない桂吾に気を使って余り飲まなくなったが、出逢ったときの事を思えば、間違いなくそうだろうと確信できる。その旭が泥酔状態で帰宅したという事は…。
「疲れてる、んだろうな。かなり」
先月から今月にかけて、一月に2回も出張に出ているのだから当たり前だ。桂吾は自分の中の浅ましい感情が、みるみる萎んでいくのを感じた。同時に訪れる羞恥と懺悔の念。
我ながら、本当にどうしようも無い。
いつになるか判らないが、もう少し旭の仕事が落ち着くまで待とう。
耐え忍び、待つ事が旭への愛の証なのだと桂吾は心に固く誓った。

翌日、旭が起き出したのは午後もだいぶ過ぎてからだった。
あえて起こさずにいた桂吾に照れ笑いをしながらも、二日酔いの気配すら無いのには恐れ入る。
昼食というより間食になってしまいそうな、かなりずれた時間だったが、どのみち夜は宴会だからとしっかりご飯を食べ、出かけたのは空が暗くなりだした頃だった。
「桂吾くんのお祝い会なのに、私なにも準備してないんだけど良いのかしら?」
そう言って振り向いた旭は、夏らしくノースリーブのワンピースを着ている。黒地に白の大きな花柄がプリントされていて、どこかエキゾチックな雰囲気があった。
目に飛び込んでくる二の腕や胸元を意識している事を気取られないように、桂吾ははにかんで答える。
「いいんじゃない? …絵美奈さんとマスターが主催だし。俺が言うのもなんだけど」
嬉しいし有難いと思いつつ、祝われる立場というのもなかなか緊張するものだ。少し肩をすくめると、気付いたらしい旭が後ろに回りこんで、桂吾の背中をぐいぐい押した。
「絵美奈ちゃんとマスターにおまかせで、桂吾くんは思う存分祝われてればいいのよ。で、私はおまけ…じゃなくて付き添い」
「お祝いの付き添い?」
旭の物言いに思わず笑う。自分でも可笑しかったのか、旭もくすくす笑っている。
子供の頃にやった電車ごっこのように、前後に並んで歩いていくと、目指す店はすぐ目の前に迫っていた。

桂吾と旭、絵美奈にマスター。ごく内輪で開かれた祝いの会は、派手さは無いものの心の篭もったものだった。
絵美奈からお祝いにと手渡された新しいエプロンに、カフェのロゴがばっちり入っていたのには閉口したが、スタッフの1人として認められている事は嬉しかった。
始まりから数時間、用意されたごちそうもほとんど平らげ、他愛の無い会話を楽しんでいると、マスターからこっそりと耳打ちされた。
「今日は貸切だから時間は良いんですけど…日野さんそろそろ帰した方が良いかも知れないですよ」
「え?」
何を言われているのか判らず、絵美奈と乾杯している旭を見た。どんちゃん騒ぎをする程できあがっているわけでは無いが、ほんのり頬が染まり、目もとろんとしている気がする。
ちょっと酔ってる…かも?
まだ二十歳の誕生日を迎えていない桂吾は、今日の主役ながらソフトドリンクオンリーだった。素面の桂吾からすれば、確かに酔っているように見える。
本人はとても楽しそうだし、ここでお開きにするのは気が引けるが、旭にとっては二日続けての酒宴だ。桂吾は小声でマスターに礼を言うと、立ち上がった。
「今日は俺の為に本当にありがとうございました。凄く嬉しかったです。資格とれてもまだまだなので、これからも宜しくお願いします」
桂吾なりに精一杯の感謝を込めて頭を下げた。
目の前の3人のおかげで、桂吾は今ここにいられる。この祝いの会の事だけではなく、傷ついた桂吾を癒し、導き、歩く勇気をくれた事に感謝を述べた。
顔を上げると、旭と同じく酔っ払っているらしい絵美奈が大げさな泣き顔で拍手していたので、少し照れた。
「では、時間も遅いですし、そろそろお開きにしましょうか」
マスターがこちらに目配せをしてから解散を宣言する。かすかに頷いた桂吾は、名残惜しそうな旭が、残ったグラスの中身を勢いよく空けるのを横目で見た。
大丈夫かな…。
昨夜ほど酔っているわけでは無いが、やはりマスターの言う通り、何かがいつもと違う気がする。
うっすらと良くないもの感じながら、桂吾は片付けを手伝う為に振り返った。

結局、絵美奈とマスターに片付けはいいと言われ、桂吾は旭を伴って店を後にした。
飲んでいるうちは平気な振りをしていた旭だったが、出た途端にふらふらしだして、負ぶうまではいかないものの背中に張り付いた彼女を引き摺るように帰宅した。
…さすがに首痛い。
なんとか鍵を開けて玄関に入ったが、相変わらず背中にべったりくっついたままの旭は動く気配も無い。首にしっかりと腕を回しているので、首の裏側が凝ったように痛んだ。
「旭さん?」
一向に腕が緩まないところを見ると、起きていると思うのに返事が無かった。
桂吾は短く溜息をつき、壁にあるはずの明かりのスイッチに手を伸ばす。
「つけたら、だめ」
囁くような呟きと共に、首にかかっていた手が伸びて腕を取られた。
「え…」
自由になった首を回して後ろの旭を覗き込もうとすると、空いている手で頬を撫でられる。ひんやりとした旭の細い指を感じ、背中が粟立った。
なん、なんだ?
今まで見た事も聞いた事も無い雰囲気と声を纏った旭に戸惑う。
目を瞬かせた桂吾は、からかわれているのかも知れないと口を開きかけ、制された。ふいに唇に触れる旭の指に心臓が跳ねる。
「おしゃべりはいらないから、キスして?」
普段の旭からは、想像もつかないコケティッシュなしぐさで抱きつかれ、次の瞬間には唇が触れ合っていた。
旭の様子を気にしながらも、久方ぶりに味わう感触に眩暈がする。
考えるよりも速く動き出した身体は、反転した勢いで彼女をドアに押し付け、より深く口付けていた。
旭はいつも最初のキスの反応が薄い。恥ずかしさから、ぎこちなくなっているらしいのだが、今日の彼女は積極的に舌を絡め、桂吾の髪に指を挿し入れたり、首筋を撫でたりする。桂吾はそのギャップに驚く暇がないほど、旭の色香に呑まれていた。
「旭さん…」
キスの合間に熱っぽい視線を向ければ、ほんの少し口角を上げて、満足そうに微笑んだ。
これは、現実…夢…あるいは妄想?
いつも恥ずかしがる旭を開いていく様を楽しみながら、心のどこかでこんな風に誘われてみたいと思っていた。だから、これが禁欲生活の果ての夢や妄想だったとしてもおかしくない。
それでも、桂吾はかまわないと思った。妄想でも何でもいい、これが現実で無くても旭が欲しかった。
大きく息をつきながら少しだけ間を開けて手を伸ばすと、旭はその手をワンピースの胸元へと引き寄せた。見た目には判らなかったが、意外に大きく開くらしい襟に手をかけて、濡れた瞳で桂吾を見つめている。
「脱がせて」
がつんと頭を殴られたような気がした。動悸が速すぎて耳鳴りがする。
いつも「皺になるから」とか「伸びるから」とか言ってパジャマ以外は拒否するのに、こんな事があって良いのだろうか。しかも玄関で、立ったまま…。一生無いだろうと思っていたシチュエーションにくらくらする。
桂吾は旭の服に触れながら、いるのかも判らない神様に感謝した。

男らしく、言い訳はしない。うん。
翌日、目覚めた桂吾は同じく目覚めたばかりの旭と、ベッドの中で見詰め合っていた。
二人とも一糸纏わぬ姿で、昨夜何があったのかをはっきりと表す酷い格好だった。
まさに体力の限界に挑戦したというか、意識の途切れる直前まで求め合っていたせいで、身を清める暇もなく眠りについたからだ。
…気まずい…。
誘ったのは旭でも、彼女が酔っている事を承知の上で事に及んだ自分のせいだと、桂吾は責任を感じていた。
「旭さん、これは…」
「いいの」
口を開いた桂吾の言葉を遮るように、旭が呟く。
さっと視線を逸らした旭の顔が、心なしか赤いのは気のせいだろうか。
「え…?」
「いいったら、いいのっ」
桂吾から逃げるように向こうを向いた旭は、急いでベッドから降りようとしたものの、かすかに呻いて固まった。
ぼんやりと昨夜のいきさつを思い返した桂吾は、間違いなく今日の旭が動けないだろうと思った。多忙とはいえ、主にデスクワークの旭は万年運動不足だ。以前も何度か同じ理由で動けなくなったが、今回のは一番酷いはず。
桂吾は腕を伸ばして旭を引き寄せ、後ろからゆるく抱き締めた。ぎくりと身を硬くした旭の態度に首を捻りつつ、耳元へ口を寄せる。
「ごめん、俺また無茶した。今日は何もしないから、安心して」
真っ直ぐな黒髪に顔を埋めて息を吐くと、旭はふるっと震えてから静かに首を振った。
「違う、の。そういう事じゃなくて…」
「うん。旭さん酔ってるの判ってたのに、我慢できなかった。俺のせい。ほんとごめん」
完全に酔っていて別人のようだった旭が、昨夜の事を覚えているわけが無い。状況から二人の間に何があったのか理解できても、まさか自分が誘い主導したとは思わないだろう。
まさに夢のような一夜を堪能できた桂吾は、せめて旭のために事実を黙っておこうと決めた。『酔っ払ってふらふらの旭に我慢できず、無理に手を出した』そういう事にしておく方が、旭にとって良いはず。
…怒られるかも知れないけど。
少し首を竦めた桂吾は、シャワーの用意をしようと旭に回した腕を解いた。すると、それを制するように旭の手が触れる。
「桂吾くんは優しいね。昨夜の事はいいのよ」
「…?」
「その…ほとんど…覚えてる、から」
尻すぼみに小さくなった言葉の意味を理解して、桂吾はまた驚いた。
「覚えてるって、ホントに?!」
「う…ん」
初めてと言っても過言では無いほど、積極的に色々と応じてくれた旭を思い出して、桂吾は唾を飲み込む。
「ねぇ旭さんも、この1ヶ月ちょっと我慢してた?」
敢えて主語を入れずに聞くと、身を固くしたままの旭はかすかに頷いた。
酒の力で気が大きくなっていたとはいえ、旭も同じように桂吾を欲していて、あんな行動に出たのだろう。自分だけじゃなく旭もまた桂吾を望んでくれていた事が嬉しい。
桂吾は解きかけた腕をもう一度組んで、今度はしっかりと抱き締めた。
汗やらなんやらで余り心地よくないが、たまにはこんなのもいい。旭がシャワーを浴びたいと言い出すまで、こうしていようと桂吾は思った。
「…桂吾くん」
「ん?」
「ううん…何でもない」
旭が話を途中で止める事を珍しく思いながらも、擦り寄ってくる身体に目を閉じた。
久しぶりに迎えた二人の朝は、とてもとても幸せだった。

                                          End

   

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