Fetter フェター
いつも通りの土曜の朝。
まだ眠っている旭を起こさないようにそっとベッドを抜け出して、桂吾はリビングのヒーターをつけた。
それからキッチンカウンターに置いてあるコーヒーメーカーをセットし、カーテンを開けると曇り空の外へと目を向ける。
どんよりと厚く空を覆った雲を見る限りでは、今日もかなりの冷え込みだろう。
ヒーターがごうごうと温風を吐き出しているものの、まだ暖まらない室内を見回して、小さくぶるっと震えた。
もう一度ベッドに戻ってしばらくごろごろしようかと思ったものの、それだけでは済まなくなりそうで止める。
今日が休みだからと、昨夜、旭に無理をさせた自分を振り返って自嘲した。
…寝起きに手を出したら、殴られるだろうなー。
桂吾は苦笑しながら、できあがったコーヒーをカップに注ぐと、一口飲んでからテレビをつけた。
テレビの中では、キャスターが雪の予報を告げていた。
暖冬だった去年とは打って変わって、今年の冬は厳しいらしい。
この街で過ごす冬は初めての桂吾にはどれほど違うのか判らないが、旭が毎日「寒い寒い」と騒ぐのでやはり寒いのだろう。
ダウンジャンパーのポケットに手を入れて、傍らを歩く旭を見た。
ボルドーのファーコートにデニムパンツを穿いた旭は寒さのせいか、首をすくめて気持ち猫背ぎみに歩いている。
時折吹く冷たい風が、トレードマークのロングヘアを揺らした。
「ねえ、旭さん」
「ん?」
「寒いから、手つないで行かない?」
「…やだ」
あっさりと拒否されたものの、ぷいっと前を向いた旭の横顔が心持ち赤くなっていたので、桂吾は気付かれないように微笑んだ。
駅ビルに隣接している百貨店は入り口からすでにクリスマスムードで溢れていた。ちりばめられた電飾と赤と緑。脇には大きなツリーも置いてある。
横目で眺めながら通り過ぎると、店内の暖かい空気にほっと息をついた。
「旭さんは何がいいの?」
「…特に決めてないけど、桂吾くんは?」
「俺も特には。とりあえず、適当に見てまわる?」
「そうね」
意見の一致をみたので、すぐ近くのアクセサリー売り場から見始める。
旭と2人で過ごす初めてのクリスマス。
サプライズも良いけれど、せっかくだからお互いが気に入る、何か記念になるものを買おうということにしてショッピングにやってきた。
同じような目的の客でごった返す店内を、一通り見て歩く。
贈り物になりそうな商品の置いてある1階と2階をざっと見終えて、2人はふと見詰め合った。
「どうしようか」
「候補がありすぎて、逆に選びにくいかも」
定番ならペアリングがいいのだろうけど、桂吾の年齢と立場を考えれば少し荷が勝ちすぎる。
肩を竦めてこちらを見上げた旭に、桂吾は微笑みかけた。
「疲れたし、少し休…」
「旭?」
唐突に聞こえた低い声に桂吾は後ろを振り返った。
…誰だ?
目線の先には気安い笑顔で近づいてくる男。
歳は旭よりも少し上だろうか。髪をきちんとセットして、スーツに黒のコートを着た男は桂吾には無い大人の雰囲気を纏っている。
「…拓真(たくま)!」
驚きつつも男の名前を呼び駆け寄った旭を、桂吾はただ呆然と見つめた。
「久しぶり。奇遇だな、こんなところで」
「拓真こそ、どうしたの?」
屈託の無い笑顔を向ける旭に、心のどこかがちくりと痛む。
「野暮な事は聞くなよ。お前の方は…」
男の視線が、旭と桂吾を何度か往復した。どう見ても判る年齢差から判断がつかないのだろう。
桂吾は自分の身の内に得体の知れないものが溜まるのを感じた。
そんな桂吾に気付かないのか、旭は桂吾のもとへと戻り、さっと腕を組む。
人前で手を繋ぐことさえ恥ずかしがる旭の、突然の行動に桂吾は心底驚いた。
「あ、旭さん?」
「もちろんデート。今付き合ってる人なの。…桂吾くん、こちらは佐伯拓真さん。元同僚よ」
堂々と言い切った旭に佐伯は苦笑し、軽く会釈した。
「はじめまして。佐伯(さえき)です」
「直江桂吾と言います」
同じように頭を下げた桂吾は、戻した瞬間に見た佐伯の瞳の色に顔を引き締めた。
それはどこか挑発的な光。かすかに笑みをたたえた佐伯に穏やかでない感情が頭をもたげる。
桂吾は組まれていた腕を静かに外すと、旭の手をぎゅっと握った。
それを合図にしたように、旭が佐伯に向き直る。
「じゃあ、そのうちまたね」
「…ああ。邪魔して悪かったな」
佐伯の言葉には答えず、旭はにっこりと笑うと桂吾を促して歩き出した。
桂吾は手を繋いだまま慌てて会釈し、歩調を旭に合わせる。
そのまま、ただ旭に従ってついていくと、非常階段のところまで行ってぴたりと止まった。
「ごめんね」
ぽつりと呟いた旭の様子がおかしかったので、繋いでいた手をそっと引っ張る。と、素直に腕の中へと納まった。
地下の食品売り場へ続く非常階段は閑散としているので、誰にも見られることは無い。よしんば見られたとしても、誰に咎められる事でもないと桂吾は開き直った。
しっかりと抱き締めると、旭はおずおずと上を向く。
「…旭さん?」
「桂吾くん、怒ってるかなと思って」
そりゃあ良い気分はしない。元同僚と言っていたけれど、状況から言って佐伯は旭の元彼なのだろう。
でも今更そんな事を言って何になるのかと自分を諌めた。
桂吾は旭に見えるように首をかしげる。
「別に。過去は過去、今は今だから。今の旭さんが俺を好きでいてくれればいいよ」
精一杯の強がり。
旭にはすぐに看破されてしまうだろうけど、それでも見栄を張っていたかった。
抱き締められたまま旭はふんわりと笑う。
「今は、桂吾くんが誰よりも好きよ?」
そっと腕を外すと、桂吾は自分の耳の後ろに手を当てた。嬉しくて恥ずかしい。
空いている手を伸ばして旭のそれと絡める。
「あー、でも。旭さんがあの人に近づいた時は、ちょっとむかついたかも」
少しだけ本音を見せると、くすくすと笑われた。
「…だって。私が今すごく幸せな事をこれでもかってくらい見せ付けたかったんだもの」
意外に子供っぽい旭に毒気を抜かれる。
とりあえずデートを続けようと足を踏み出して、桂吾はふと振り返った。後ろに立つ旭と繋がった手が目に入る。
「旭さん。俺、買うもの決めた」
2階にある売り場に旭を連れて行くと、彼女は目をぱちぱちと瞬いた。
「…腕時計?」
「そ。ペアウォッチ。どう?」
「まぁいいけど」
いまいち腑に落ちない旭を促して、2人が気に入るデザインの時計を選んだ。
クリスマスセール期間中は無料で裏に名前を刻印してくれるらしいので、旭のには桂吾の。桂吾のには旭の名前を入れてくれるように頼む。
1週間ほどかかるとのことなので、2人はそのまま家路へとついた。
相変わらずの雲行きと気温。
ぶるっと震えた旭の手を自分のジャンパーのポケットに引き入れて、ゆっくりと歩く。
「なんとかクリスマスに間に合いそうで良かった」
「そうね…でも、なんで腕時計なの?」
「嫌?」
「いやじゃないけど、理由が知りたいかな」
不思議そうにこちらを向く旭の耳元に口を寄せる。
「腕時計って、束縛を象徴してるらしいから」
「束縛?」
「うん。まぁ本来は時間に束縛されるって事なんだろうけど。俺としては旭さんを束縛していたいわけ」
「な…」
わざと意地悪く笑うと、旭は言葉を失って頬を染めた。
「家にいるときは俺本人が束縛して、外にいる時はお揃いの時計で束縛して。ほらね完璧」
おどけて言うと、ぷっと笑われた。
「でもペアウォッチなんだもの、桂吾くんだって私に束縛されるって事じゃないの?」
「かまわないよ。俺はいつでも旭さんに束縛されてたいから」
平然と言ってのける。
旭は顔を赤くしたまま「もう」と呟いた。
「あ…」
ふと見れば、目線の先に揺れる白い結晶。見上げたグレーの空から舞い降りる無数の六花。
旭と繋がっていないほうの手を差し出すと、手のひらに落ちてすぐに消えた。
「…綺麗ね」
立ち止まって2人で空を見上げる。
振り出した雪はすぐに勢いを増し、ベールをかけたように街を包み込んだ。
「ちょっとだけ見ていく?」
「ううん。寒いから早く帰って、家の中から見るわ」
そう言って、ずんずん歩き出す旭に苦笑する。予想通り、と言ったら彼女は怒るのだろう。
……あの佐伯は、旭のこんな性格まで知っていたのだろうか。
視線が合った瞬間の挑戦的な笑みを思い出して、心が波立つ。
桂吾は先を急ぐ旭の手をほんの少しだけ引いた。
引っ張られたのを不思議に思った旭が振り返った刹那、頬にキスを落とす。
「好きだよ」
「きゅ、急に何するのよっ」
顔を真っ赤にしてうろたえる彼女に笑いかけると、桂吾は密かに策を練りだした。
ふくれる旭を尻目に、楽しそうな桂吾。
少しでも不安になった分は埋めてもらわないと、ね。
不埒な考えを悟られないように、桂吾は降り続く雪を見上げた。
End
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