小説  index

 7月の雨  しちがつ の あめ

夜とも、朝とも言えない、夜が明けきらない時間。
ふいに目が覚めてしまった桂吾は、外から、かすかに響く水音を感じ顔を上げた。
…雨?
7月とはいえ、昨今の温暖化やヒートアイランドのせいで、夜もエアコンをつけて置かなければ眠ることさえできない。そんな人工的な空間からでは、外の様子を窺い知る事はできなかった。
カーテンを開けて見れば良いのだろうが、隣に眠る旭を起こしてしまいそうで憚られる。
それに確認したからといって、何かが変わるわけでもない。出かける用事の無い日曜の天気が雨であろうと、特に問題は無いのだ。強いて言えば洗濯が乾かない事くらいか。
桂吾はまた横になると、一度大きく伸びをしてから、愛しの君の寝顔を見つめた。
仕事の夢でも見ているのか、眉間に皺を寄せて身体を丸めている。
相変わらずワーカーホリックと言っても差し支えないような生活をしている旭は、よく仕事の夢を見るらしかった。
せめて眠っている時くらい…いや、自分といる時くらいは、仕事の事を忘れて欲しい。
嫉妬というよりは、旭の身体が心配だった。
真面目すぎる旭には無理だと判っていながらも、つい考えてしまうささやかな願いを胸に秘めて、桂吾は仕方ないという風に微笑んだ。
人差し指で旭の眉間を撫でる。
…すぐ傍にいるから、大丈夫だよ。
声には出さない想いが届くように、ゆっくりゆっくり撫でていると、ふっと睫毛が揺れた。
「…桂吾くん?」
「あ、ごめん」
うっすらと瞳を開けた旭が、ぼんやりとこちらを見る。
これではカーテンを開けなかった意味が無いと、自分を恥じた。
「ん。いま何時?」
「さぁ…4時か5時か、そのくらい」
「ふうん。どうしたの? 寝れない?」
桂吾が起きているせいで、旭も段々と覚醒してきたらしい。いつもの張りのある声が混じり始めたのに気付いて、内心、項垂れた。
「何でもないよ。寝てて。起こしてごめん」
「そう言われたら、気になって余計眠れないけど」
ぐぐっと伸びて、欠伸を一つしてから、旭は上目遣いに桂吾を見る。
ここのところ旭と直に触れ合っていないせいで、急浮上した不埒な想いを無理矢理ねじ伏せて、桂吾は視線を逸らした。
「本当に何でも無いんだけどなー。何となく目覚めちゃっただけで」
素直にそう言うと、旭は肯定するように軽く頷いてから、窓の方に目をやる。
「…雨?」
「多分ね」
「梅雨って明けたんだった?」
「まだ、かな。南の方は明けたらしいけど」
答えつつも、腕を伸ばして抱き寄せた。
抵抗はされなかったものの、密かな溜息を感じる。
「もう」
「こうしてるだけ、後は何もしないよ」
一緒に暮らして1年と少し。寝起きの旭に手を出した事が1度や2度じゃないせいで、信用されていないらしい。
桂吾としては、一応気を使って休日限定にしているのだから問題無いだろうと思うのだが、朝から事に及ぶのは旭にとって酷く気の進まない事のようだった。もちろん、恥ずかしいという点で。
…まぁ、その恥ずかしがるのを見るのが楽しいんだけどさ。
見えないように密かにほくそ笑む。思わず直近の記憶を再生しそうになったので、慌てて思考から追い出すと、何も気付いていない旭が顔を上げて天井を見つめた。
「雨の夜なんて、あの時みたい」
言う意味が判らずに首を捻る。しかし教えてくれる気が無いのか、旭はただ静かに微笑むだけ。
背中に回していた腕を引かれ、そのまま指を絡め合う。暖かくしっとりした手の感触は、大切な一夜を思い出させてくれた。
「ああ…そうだね」
1年以上前、癒えない傷に苦しんでいた桂吾を旭が見つけて連れ戻し、一緒に泣いてくれた、あの夜。
ずぶ濡れのまま語り合い、布団に入ったのは今と同じくらいの時間だったかも知れない。
「もう、思い出しても平気…?」
『何を?』なんて聞かなくても判る。
どこか怯えを含んだ問いかけに、桂吾は絡めた指をしっかりと握り、笑顔を作って見せた。
「もう過ぎた事だよ。俺の中では全部、決着してる」
「…そう、良かった」
穏やかに笑う旭に、胸が熱くなる。どれほど感謝しても、足りない。
桂吾は絡めていた指を解き、起き上がってベッドに座り直した。桂吾に引かれるように旭も起きる。
突然の事にきょとんとした旭に向き合うと、頭を下げた。
「俺が今こうしていられるのは、全て旭さんのおかげだから。凄い感謝してます。ありがとうございました」
「な、なに、突然に。顔上げてよ」
顔は上げたものの驚く旭の顔が見れずに視線を逸らすと、照れ隠しに鼻を掻いた。
「いや…今更過ぎるんだけどさ。俺ちゃんと旭さんにお礼言ってなかったな、って」
実際は、あの日の眠る前に一度それらしき事は言っている。しかし、男のくせにわんわん泣いた恥ずかしさから、わざと旭がうとうとしている時を狙って言ったのだ。それ以来きちんと礼を述べたことは無かった。
自分の事ながら何とも情けない。旭と付き合いだしてからなどは、浮かれて流されるまま、すっかり忘れていた。
1年越しの自己嫌悪に陥っていると、いきなり柔らかいものに包まれた。
ハッとして見れば、目の前には旭の笑顔。精一杯腕を広げた旭に抱き締められているのだと、気付くまでにしばらくかかった。
「私も、だよ。今私がこうしていられるのは全部、桂吾くんのおかげ」
「だったら、嬉しいけど」
抱き締められたまま、かすかに微笑む。旭は何も答えず桂吾の肩に頭を乗せた。
首筋にあたる吐息を感じ無意識に身体を震わせると、彼女はいたずらっぽく笑う。
「…だーめ。試験まではしないって約束でしょう。桂吾くんが言い出したのよ?」
「うん、ごめん」
旭の腕の下から手をまわした桂吾は、諦めをつけようと一度きつく旭を抱き締め、大きく溜息をついた。
少し痛かったのか眉をしかめたものの、桂吾の意図に気付いているらしい旭は文句を言わず、窓へと視線を向ける。
「来週、ね」
同じく窓を見つめた桂吾は、無言で頷いた。
カフェで仕事を始めて1年、それに高校時代の弁当屋のバイトを1年と少し。実務経験を満たした桂吾は、来週、調理師資格の試験を受ける事になっている。
年1度だけの試験だから、これを逃せば丸1年待たなければならない。早く自立したいと願う桂吾の思いは並々ならぬものがあり、果たして、試験までは旭に触れないという誓いを立てたというわけだった。もちろん、ここの所また多忙を極めている旭の身体への配慮もあったのだが。
「頑張るから、待ってて」
見上げた旭に笑顔を返す。
年齢も経験も足元にも及ばないのは判っている。頑張っても追いつかないかも知れない。それでも、精一杯近づきたかった。男として、パートナーとして。
資格を持ったから同等だとか、そんなナンセンスな事を考えているわけじゃない。ただ、いざという時に旭を守れるよう、きちんとした仕事や資格を持つ事は大切だと桂吾は思っていた。
目を閉じれば、二人の鼓動と吐息、そして雨の音。

運命の夏が始まろうとしていた。

                                          End

   

→ あとがき    Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  小説  index
    お気に召しましたら、押していただけると嬉しいです →