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 After Valentine's Day  アフター バレンタイン

「あの。伊波(いなみ)チーフ、どこから手を付けたらいいですか?」
 唐突にかけられた声に振り向くと、自分よりも頭一つ小さい女性がこちらを見上げていた。
 どうやら仕事を手伝いに来てくれたらしい。あまり接点は無いが、知っている顔。サービスカウンター担当の、藤永(ふじなが)さん。下の名前は葉月(はづき)だったと思う。
 小さい顔に大きな瞳。セミロングの髪をゆるくおさげにして、気持ち頭をかしげる形でじっと見つめられた。
 一瞬、ぼんやりと見つめ合ってから、ハッと自分の業務を思い出す。
「あ、え……と、じゃあこっちの棚の分を、そこのダンボールに入れてもらえますか」
「はい。判りました」
 眩暈がするほど可愛い笑顔で答えると、彼女は箱を引っ張ってきて売れ残りのチョコを詰めだした。

 今日は2月14日。恋の祭典バレンタイン。
 伊波が勤めるデパートでも、1ヶ月前から大々的に特設売り場を置いて、舌を噛みそうな名前のチョコやら、酒やらを売ってきた。が、それもお終い。
 閉店まで売れ残ったチョコレートを全部撤去し、返品できる分と、値下げ商品にする分を分け、次のイベントの為に会場を空けるのが伊波の今日の仕事。
 もう何年も恋人がいない伊波には、個人的に全く興味の無いイベントだ。むしろ仕事柄嫌いだと言ってもいい。
 一度や二度聞いたくらいじゃとても覚えられないような名前のフランスの職人が考案したというチョコレートを、1袋50円で売ってるスナック菓子のダンボールに詰めていく。
 品切れしないように大量に入荷するから当たり前の作業だとはいえ、少し虚しい。
 知らず溜息をついた伊波に、隣の棚で作業している藤永が振り返った。
「伊波チーフ。これ全部入れちゃっていいんですか?」
「あ、ああ。全部同じでお願いします。問屋さん同じだから…」
 彼女は、またにこっと笑って作業に戻った。
 内心どぎまぎしながら、伊波も作業を続ける。
 藤永は伊波よりも3つ下の社員だ。加工食品担当の伊波と、子供雑貨売り場のサービスカウンター勤務の藤永。
 基本的に接点が無いのに彼女の事をよく知っているのは、単に彼女が社内で一、二を争うほど可愛いからに他ならない。25歳にはとても見えない童顔に、細身で低い身長。守ってあげたくなるという表現がぴったりとあてはまる。社内の独身男性が告白しては玉砕したという噂には事欠かない子だった。
 どう考えても彼氏がいるであろう子に恋するほど伊波は情熱的じゃないが、やっぱり可愛い子を見るのは嬉しいし、話しかけられれば妙に意識してしまう。
 浮かれておかしな想いに囚われないように自制しつつ、黙々とチョコを詰めた。
 彼女もおらず、バレンタインに義理以外のチョコも貰えず、社内の可愛い同僚と会話した事に喜んでる自分を振り返って、伊波はこっそりとへこんだ。
「しかし、もったいないですねぇ」
 急に声を上げた藤永を見ると、手に持ったチョコを裏返して眺めていた。彼女の右手の薬指にはめられた指輪がきらっと光る。
「まぁ。売れる以上に入荷するのはセオリーだからね」
 極力、声に色をつけないように淡々と返すと、藤永は手に持っていたチョコを箱へと入れた。
「伊波チーフはこの辺、味見しました?」
「ん、ああ。問屋さんがくれた奴は食べたけど……」
 手早く作業を進めながら答える。
 同じように作業しながら、藤永がふふっと笑った。
「……どれが一番美味しかったか、聞いても良いです?」
「あー……俺そんなに味覚優れてないんだけど。個人的には、そこの青い箱のやつかなぁ」
 ちらっと目線を向け、藤永の右側に陳列してある、水色に白のリボンのかかった箱を指差した。値段も手頃で、有名なホテルがタイアップしている商品だから、そこそこ売れていた奴だ。
 藤永は小さく「ふぅん」と言って手に取ると、
「ちょっとだけ、抜けてきます」
 と言って、立ち上がり走り出した。
「あ、ちょっと」
「まだカウンターのレジ開けてるから買ってきまーす! すぐ戻りますっ!」
 走りながら叫んだ藤永の声に、伊波は苦笑する。
(店内放送が止まってるから、そんなに叫ばなくても聞こえるんだけどな……)
 作業に戻ろうとした伊波は、何事かとこちらを見た他のスタッフに見えるように肩をすくめた。

 社員用通用口を出て、愛用の腕時計を見た伊波はふうっと息を吐いた。
 夜中の冷え込みのせいで、真っ白な吐息が立ち上る。
 0時13分。
 通用口の戸締りを終えた副店長への挨拶もそこそこに、伊波は駐車場へと向かった。
 毎年の事だが、商品の撤去だけで3時間もかかってしまった。歩きながらこきこきと首を捻る。
 明日は商品の返送手続きと、事務への連絡。それから什器の移動。すぐ、雛菓子とホワイトデー商戦に入るので急がなければならない。まだまだ続くであろう忙しい日々を思って、伊波は肩を落とした。
 コートのポケットからキーケースを出すと、中から車の鍵を選んで開錠ボタンを押す。少し離れた車のハザードが光ったのを確認して近づいた。
 と、隣の駐車スペースに停まっている赤の軽乗用車が見えた。
(……何だ?)
 伊波と副店長が最後に出たのだから、誰も残っていないはずなのに、なぜ車が停まっているのだろう。副店長のとは明らかに違う車を見て、伊波は訝しむ。
 北側の立駐の1階はデパートの従業員専用で、一般には開けられていない。もちろん入ろうと思えば入れるが、夜9時に閉店し駐車場入り口を閉鎖しているのだから一般の客でない事は確かだった。
(誰かが車を置いて帰ったのか? それにしても隣に停めなくてもいいだろうに)
 一応、用心しながらも、無視することにして近づくと、軽乗用車の運転席が開いた。
「伊波チーフっ」
 見れば、暗がりに立つ背の低い女性。
「……藤永さん、なんで」
 1時間前に帰宅したはずの藤永を見て、伊波は心底驚いた。
「なんでって……待ってたんですよー。当たり前じゃないですか」
「え、いや、なんで待ってたのかって事だけど……」
 わけが判らなくて、しどろもどろに答えると、冷気にあてられた藤永がぶるっと震えた。
「チーフ、車あっためといた方が良いですよ」
「あ、ああ。そうだね」
 思考回路が停止した伊波は、言われるままドアを開けてエンジンをかける。
 と、藤永は自分の車のエンジンを止めて、
「寒いんで、チーフの車で話してもいいです?」
 と言った。
 一瞬、今までエンジンをつけていた藤永の車のほうが温かいのじゃないかと思ったが、まさか女性の車に乗せてくれとは言えない。
 伊波は助手席にまわるように指し示した。
「……あんまり綺麗じゃないけど」
 こんなことなら忙しくても洗車しておけば良かった……と思っても今更仕方ない。
 伊波は藤永が乗り込むのを確認してから自分も運転席に納まった。
 今エンジンをつけたばかりの車内は外と変わらないほど寒い。しばらく2人とも無言でラジオを聞いていたが、車内の空気がぬるくなった頃に藤永がやっと口を開いた。
「これ、お渡ししようかと思って。迷惑かなって思うんですけど」
 おずおずと差し出したのは、さっき藤永が慌てて買いに走ったチョコレート。
「え……俺に?」
 格好悪くも思わず聞き返してしまった。
 藤永は視線を逸らして、かすかに頷く。
 素直に礼も言えずに、ただ呆然と受け取ると、藤永が俯いたままぼそぼそと呟いた。
「やっぱり、ご迷惑でした?」
「えっ、いやっ、ありがとう……けど、ごめん、なんで俺に?」
 藤永に彼氏がいるらしいというのは大分前から聞いていた。実際、彼女は絶対に社内の男になびかないし、いつも右手の薬指にシンプルな指輪をしていた。どう見てもただのファッションリングでないそれは藤永の恋人の存在を物語っていた……はずなのに。
「それはっ……伊波チーフが、好きだから、です」
 煮え切らない伊波に憤慨したのか、見上げるように睨む藤永に一瞬、怯む。
「ちょ、ちょっと待って。嬉しい、ほんと嬉しいけどさ。その指輪の彼氏はどうするわけ?」
 社内のアイドル的存在の藤永に告白されて、正直、倒れそうなくらい嬉しい。けれど、二股だけは勘弁だった。
 伊波が慌てて指摘すると、藤永はきょとんとしてこちらを見た。
「……ああ、伊波チーフ。覚えてないんですね?」
「?」
 伊波の態度に藤永は困ったように笑った。
「この指輪、自分で買ったんです。1階に入ってる宝石店あるでしょう。あそこで」
「テナントの?」
 デパートの1階には何軒かのテナントが入っていて、そのちょうど真ん中あたりに、こぢんまりとした宝石店がある。
 藤永はゆっくり頷くと、微笑んだ。
「2年くらい前に休憩上がりで伊波チーフと一緒になったんです。その時、私、社内で色々と言い寄られて困ってて。そしたらチーフが『右手の薬指に指輪でもしてればいくらか減るんじゃない?』って言ったんですよ」
「え……」
(そんな事、言った……か?)
「で、休憩所からの帰り道で、あの店の店頭にあった指輪を見て『こういう感じのならファッションリングに見えないから』って」
 伊波に見えるように、わざと右手をかざす。プラチナの少しだけ捻りのついてるシンプルな指輪。
 その時の事は藤永には悪いが、全く覚えていなかった。
 しかし、ずっと藤永には彼氏がいると思い込んでいた伊波は、多分その相談を受けたときも『彼氏がいるんだから、その事をアピールすれば?』という気持ちで言ったのだろう。自分で提案しておきながら、それで自分を苦しめていたとは情けない。
「じゃあ……藤永さんフリーなの?」
「はい。でも前から伊波チーフの事、好きでした。この指輪、お金出したのは私だけど、チーフに貰ったような気がして……おかしいですよね」
 くすくす笑いながら、愛おしそうに指輪を撫でる藤永を見て、伊波は心臓が早鐘のように打つのを感じた。とっさに彼女の手をとる。
 調子のいいやつだと思われるかも、と思ったが、どうしても告げたい想いを口にした。
「俺……ずっと誤魔化してきたけど……藤永さんの事、好きだった」
 本当は判ってた。好きにならないように努力してるなんて、すでに意識してる証拠だ。
 伊波の言葉を聞いた藤永は、驚いて目を見開いたあと、視線を落として鼻を鳴らす。
「すごく、嬉し……です」
 自由になっている方の指でそっと目じりを拭う藤永を見ていた伊波は、繋いでいた手を引いて、彼女を抱き寄せた。車中の不自由な体勢では、しっかりと抱き合うことはできないが、互いに身を寄せて触れ合う。
 藤永から仄かに立ち上る甘い香りにくらくらしていた伊波は、彼女が自分の肩に頭を摺り寄せたのをきっかけに自身のタガが外れるのを感じた。
 強く速く跳ねる心臓に逆らうことなく、藤永をシートに押し付けると間髪入れずに唇を合わせる。
 助手席の藤永に覆いかぶさるようにキスをすると、彼女もまたおずおずと答えてくれた。
 しばらくそうして、ふと伊波が離れたのを合図に2人は熱っぽく見詰め合った。
「……藤永さん」
 意を決して言葉を紡ごうとした矢先、つけっぱなしだったラジオから高らかに時報が鳴り出した。
 ピ、ピ、ピ、ポーン。
 ぱちぱちと瞬きした藤永は、とたんにおかしそうに笑い出した。
 気まずくなった伊波も頭を掻いて、くっと笑う。
 離れがたいが時間を考えれば仕方ない。伊波はまた運転席に座りなおして藤永を見た。
 やっと笑いを収めた彼女は、いつも通りににっこりと笑顔を作る。
「もう1時ですね」
「……うん」
「私、明日休みなんですけど、伊波チーフは勤務ですよね?」
「ああ」
 社内の人間なら、この時期に伊波が休めないのは誰でも知っている。藤永の言わんとしている事を想像して肩を竦めた。
「早く帰らないと駄目ですよね?」
「まぁ、ね。離れがたいけど」
 正直に気持ちを言うと、藤永はさっとシートベルトをつける。
「じゃあ、明日の朝ここまで送って下さい。私の車、置いていきますから」
「ふ、藤永さん?!」
 てっきりバイバイだと思っていた伊波は、藤永の言動にまたもや驚いた。
「一緒にいたいのは私もです。それとも……こういうのは嫌ですか?」
 薄暗い車内でじっと見つめられ、また心拍数が上がる。
 思いもよらない藤永の言葉と行動に、すっかり伊波は振り回されていた。本当に夢じゃないだろうか。
 伊波は信じられない心地のまま、自分もシートベルトをつけ、サイドブレーキを外した。
「あ、そうだ。俺のこと『伊波チーフ』って呼ぶの止めてほしいんだけど……葉月?」
 わざと名前で呼ぶと、彼女は顔を真っ赤にして俯いた。
「も、もう。突然びっくりするじゃないですか」
「うん。ドッキリのしかえし」
 しれっとして言うと、藤永は子供みたいに頬を膨らませたあと、ふっと微笑んだ。
「でも……好きですよ。隆二(りゅうじ)さん」
 彼女の言葉に満足そうに微笑んだ伊波は、ハンドルをしっかりと握りなおす。
 2人を乗せた車は真冬の冷えた闇の中へと進んでいった。

                                          End

   

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