「幻のOB会?」との思い出  
                         昭和40年卒   植草 稔
 

 私が在学中に大変お世話になった「OB会」の活動記録が残っていないので、経年劣化した記憶を頼りに綴ります。

 当時は「東京オリンピック」を控え新幹線・高速道路の建設ラッシュ、三波春夫の「東京五輪音頭」や沖縄を含む聖火リレーなど国の一体感と躍動感に満ち溢れていました。

 木造校舎の渡り廊下先の音楽室に、吹奏楽部・絃楽部・コーラス部の各部室があり一緒に活動していましたが、私達はよく隣接するプールサイドでも練習しました。

 20数名の部員とPic・Fl・Cl・Sac・Hr・Brn・Tp・Cort・Tb・Bass・大太鼓・小太鼓の年季入り楽器で編成されたマーチ型バンドでした。
 特に、夏の楽しい御宿合宿と「音楽の夕べ」演奏会を終えると、秋には3年生が最後の演奏となる「県吹奏楽コンクール」を迎え全員が一丸となって猛練習に励んでいました。

 しかし、吹奏楽連盟の水戸知章氏が指導する出場校が入賞を独占していたので、私達は県下で最古参の楽部であり、しかも指導者に頼らず生徒の自主練習を誇りに「何とか入賞を!」を合い言葉に臨んでいました。

 昭和38年頃の練習中に、突然衛藤OB(双葉電子創業家)と島田OBが来訪され「OB会を立ち上げたので今後は皆さんを支援します!」と告げられ驚き且つ喜びました。

 暫くすると、土曜日の13時に集合するよう連絡を受け、東京の著名な先生(失念)による指導を受けさせて頂きました。
 私達の「長高マーチ」演奏を聞くと、クラリネットから音合わせを始め大太鼓・小太鼓までの全パートに及んだ。

 次に、先生の指揮による全楽器の音合わせの後再度「長高マーチ」の細部に亘る演奏指導を受けたが、普段の演奏とは異なる次元のぴったり合った澄んだ音色とメリハリの効いた「長高マーチ」に仕上がった。

 驚嘆しつつもこの音色と演奏技術がなければ入賞が叶わないことを痛感させて頂いた貴重な体験であった。 あっという間に2時間が過ぎ終了したが、先生が「水島数雄先生の作曲による良い曲ですね!」と述べられ嬉しかったことを思い出します。

 その後、衛藤・島田両OBが水野氏(勝浦市の楽器店)を伴って来訪され「楽器を寄贈するので予算内(百万円?)で選びなさい!」とパンフレットを渡され部員一同が歓喜した。

 早速、ティンパニー・スーザホーン・ユーホニウム・アルトサックス・トランペットとクラリネットを選定し水野氏が軽トラに積んで届けてくれた。
 改めて当時のOB会諸氏に対し感謝申し上げる次第です。 
部員一同は大興奮し楽器類・演奏幅の拡充を喜びつつ早く習熟しようと練習に熱中したことは言うまでもありません。

 OB会の結成を機会に衛藤・島田両OBを始め宮崎OB、高岡OB、佐川OBや何故かN響の原田氏などの来訪者が増え指導と激励を賜り活気づきました。 紙面を借りて感謝します。
 その甲斐あって、翌39年の県吹奏楽コンクールでは課題曲「若人の歌」自由曲「ラベンダーの花」を演奏し2位入賞を果たすことができました。 全員笑顔の写真を賞状の裏に忍ばせた額を部室の壁に飾りましたが、多くの後輩の記憶に残っていたら幸いです。

 このように「幻では無く確かなOB会」の活動のお陰で私達が大いに勇気づけられ、自主積極的な練習を積み重ねて悲願の「2位入賞」を果たすことができたのです。

 その後のOB会の活動は承知していませんが、本稿を読まれた関係OBに是非当時の活動状況を会誌に寄稿し、新たな歴史を記録に残して頂きたいとの願いを込めて執筆しました。
 最後に、半世紀以上昔の記憶を辿りながら綴りましたが何処かに記憶違いがありましたらご容赦下さい。
 
 追記:勝浦市の「水野楽器店」店主こそ平野和彌OB(昭和26年卒)の親友である故水野光庸OBで あったと思われる。楽器購入に当たり何度かお目にかかり大変お世話に なりました。  合掌!
故人については、「長高吹奏楽部の歩み」(平成20年)98ページの「音楽をくれた友へ」をご 覧下さい。

昭和37年に「CBO」という名称で先代のOB会が発足しました。
残念ながら昭和40年代後半に活動を停止したようですが、
その当時の思い出を綴った植草 稔氏の寄稿文と第2号の会報です。

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