拝島停車場平面図

下の図は、その拝島停車場平面図を再現したイメージ図です。
(手書きにつき、縮尺や長さの割合等は正確でありません)


拝島停車場駅平面図

 拝島停車場平面図(青焼きコピー)には、五日市鉄道「拝島−立川」間の線路が現在営業線として
黄色い線で描かれています。そして、五日市鉄道の変更予定線が赤い線で描かれています。
この図でブルーで描かれているのが西尾砂利線です。西尾砂利線は図面に元々描かれている線路のようです。
つまり、西尾砂利線は、五日市鉄道の線路が引かれる前に既にあった線路のようです。
   この図の目的は赤色で示される五日市鉄道の新しいルートを検討する際に描かれた図面ではないかと
推測しました。黄色で描かれる現在の五日市鉄道の線路と、西尾砂利線は交差していますがこの交差
しているところにその昔、五日市鉄道の小鉄橋があり、その前後には築堤があったとのことです。
この部分が普通の道路だとすると踏み切りにすればよく、わざわざ立体交差にすることには何か意味が
あったのではないかと思っていました。五日市鉄道は、この西尾砂利線を跨ぐために拝島駅付近に周囲より
高い築堤と小鉄橋を作り、立体交差にしたのではないかと予想したのです。そして、この西尾砂利線と交差
しないような新しい五日市鉄道の線路を計画したのかもしれません。廃線跡からするとこの北側に新しく計画
された五日市鉄道の線路は計画されただけで実際には作られなかったもののようでした。

 ”西尾”という名前の由来についてはもちろん不明でした。西尾砂利線が実在していたかすら不明でした。
もし実在していたら・・・ということで調べることにしました。
 この平面図には西尾砂利線の線路の先が描かれていませんので、どこにつながっていたかについても不明
でした。

 拝島の砂利線
 拝島の砂利線としては「東京市財務局線」があり、H.Kumaさんが詳しくレポートされています。
 拝島の砂利線(東京市財務局線)
 福生市史によると拝島駅には「東京府拝島側線」という砂利線があり、大正10年から昭和28年まで
稼動していたそうで、そのルートは「東京市財務局線」と同じでしたので「東京市財務局線」のようです。
以下福生市誌より引用
 「東京府拝島側線 これは東京府が年間三000立坪の砂利を算出する計画で、南公園の南西、多摩川と
秋川の合流点付近の河原から、南・内出通り、わかたけ会館西側の墓地の脇を通り、奥多摩街道を横切り、
市消防団第一分団詰所裏を抜け、国道十六号に出て、拝島西側の砂利置場まで約四キロメートルの間に敷設
され、昭和二八年まで稼動していた。」
引用終わり
 西尾砂利線は拝島駅の立川よりに直接接続されていたので、この「東京府拝島側線」とは異なるのでは
ないかと思いました。

 また、さらに調べてみると西尾砂利線は実在していたらしいことがわかってきました。
「多摩 鉄道とまちづくりのあゆみ(資料編) 」(株)古今書院 p.124 に「東京府拝島側線」について
について書かれてありました。 以下引用
「側線の役割は、本線である青梅線への導入路である。これでは砂利線の役目は果たしておらず、本来の砂利線は、
多摩川の採掘現場から側線の積込場までの約一キロ間に敷かれ、初期のころは馬、後にはガソリン動力となる
トロッコであったといってよい。トロッコ軌道と拝島側線も昭和三〇(一九五五)年前後に廃止になったと思われる。
なお、拝島駅へは大正末から昭和初期にかけて西尾組のトロッコ軌道が乗り入れていた。」
引用終わり
「西尾砂利線」は、このトロッコ軌道のことと思われます。西尾というのは砂利採取業者の名前と思いました。
このようなトロッコによる砂利線は無数にあったようでした。
規模が小さいものや短期間の敷設であったものは、文献や地図等には現れていないものもあるようでした。

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