夕暮れ。  夜に向かって、近づいてゆく時。  黄昏の頃。  優しいオレンジの光。  朝でもなく、昼でもなく、夜でもなく。  始まったばかりでもなく、輝かしい光に満ちあふれているわけでもなく、終 わったわけでもなく。  そんな時間を、過ごしている。            ☆           ☆  四人の男女が、向かい合っている。  日が暮れ始める、一歩手前。傾きかけた陽光。  場所は、ビルの屋上だった。四人以外の人はいない。  強引に引きちぎられたドアの錠前が揺れ、きいきいと音を立てていた。 「……もう一度、聞きたいんですけど」  四人のうちのひとりが、ぼそりと小さく言った。あまり覇気のある声とはい えなかった。  十五歳かそこら、まだ高校に入ったばかりか中学生か――そのくらいの少女 だった。少し色素の薄い猫毛を肩で切りそろえ、小柄な身体をブレザーに包ん でいる。 「許して……いただけませんか? わたしにできることでしたら、どんなこと だってします」  やや吊り目がちの細い瞳をしていたが、表情をあまり表に出さない。しゃべ り方も淡々としていて、何かを懇願しているにしては熱意に欠けると思われる かもしれない。  少女の正面にいる男も、ひょっとしたらそう思ったのか。 「駄目だな」  返ってきた答えはつれなかった。  二十代ほどの、大柄な男だった。ゆったりとしたスタジアム・ジャンパーの ポケットに両手を突っ込み、四人が入ってきた扉の横の壁にもたれさせて少女 を見ている。  それが自分たちふたりを逃がさないためなのだと、少女はとっくに気付いて いた。事実扉の反対側にいる男の連れは、先刻から身じろぎもせずにこちらを じっと睨み続けている。  挑むような大きな瞳。小柄な少女より、頭ひとつほど小さな身体。ぼさぼさ の髪。  褐色の肌の、少年。 「あんたもその様子じゃ、何でオレらがここにあんたらを連れてきたのか知っ てるんだろ? だったら四の五の言わず、さっさと選択してほしいんだがね?」  男は吐き捨てるようにそれだけを言うと、壁から身を起こす。視線をちらり と移す。  少女から、少女の隣に立っている少年へと。 「どっちでもいいぜ? オレは。このまま大人しく、ソイツを――」  少女の手に抱えられているものに顎をしゃくって、「こっちに渡してくれる なら、オレもフォビアもあんたにゃ何もしねえと約束する……それが嫌だって いうんなら」  男は一度、言葉を切った。  口を再び開く前に少女に向けられた視線には、ぞっとするようなものが込め られていた。 「無理矢理にでも、渡してもらうだけだしな」  何かがおかしかったのか、男がくくっ、と笑った。横に立っていた連れ―― 「フォビア」と男が呼んでいた――も、ちらりと男を見て同じような表情を浮 かべる。  少女はかすかに嘆息し、視線を落とした。 「そう……ですか」  右手に抱えているものに力を込めて、左の空手をぎゅっと握る。強く握れな かったのを変に思ったが、それは自分が震えているからだとすぐに自覚した。  ――慣れない、と思う。  何度か似たようなことを経験した。似たようなことを言った。似たような返 事が返ってきた。  そして、似たような展開になるのだろう。今までは過程はどうあれ、結果は すべて同じだった。おそらくは今度もそうなる。  いや、そうする。そうしなければならない――自分の意志で。  それでも慣れない。手が、身体が震える。  ふと。  その手が握られる。  握ったのが誰かは、見なくてもわかった。ただ顔を見たかったので、ちょっ とだけ首を傾けた。  大きく丸い瞳が、少女を見上げていた。  サロペットを素肌に着こんだ、長い銀髪の少年だった。伸ばしっぱなしにな った髪をさらさらとなびかせ、十になるやならずやの外見の割りに、ひどく老 成したような印象を見るものに与える表情を浮かべていた。  それがふと緩む。穏やかに。  少女の震えが止まった。笑い返すことはできなかったが、男を真っ直ぐに見 返すことはできた。  男の眉根が寄る。少女の雰囲気が、わずかに変化したことがわかる。 「……最後通牒だ」  出てきた声は、いらいらしたような調子を隠した猫なで声だった。 「その『本』を、渡しなよ」 「……お断りします」  凛とした返事――ではなかった。  ただ、断固とした響きがこもっていた。 「けっ」と毒づいた男の手が、素早く懐に入る。スタジアム・ジャンパーの懐 から抜き出されたのは、少女が右手に抱えているものとまったく同じだった。  一冊の、古めかしい本。 「じゃあ仕方ねえな――フォビア!」  にたりと笑って進み出るフォビアを一瞬だけ見つめ、少女は囁くように言っ た。 「……『イェール』」  自分の横にいる少年に向けて、放った言葉だった。もっともそれは名前では なかった。 「呪文」だった。            ☆           ☆  肌に感じる風が、湿気を含んで気持ち悪い。  どこかで聞こえる車のクラクションが煩わしい。  夜気が内包している沈黙が、もの悲しい。  春も終わりに近づいたある日の、暗い夜道。夜風に吹かれて歩いていたとき。  誰もいない家の中に、ほとほと愛想が尽き果てて。  確実にやってくる朝に、憂鬱になって。  繰り返される日常に、孤独を感じて。  身勝手で悲観的な考えだとは思った。でもそれを止めることはできなかった。  彼女の周りの、誰が悪いわけでもなかった。だからといって、彼女自身が悪 いわけでもなかった。  だからこそ、どうにもならない。それがわかった。  とぼとぼと歩く彼女は、その実どこを目指していたわけでもなかった。何か 目的があったわけでも、何かに期待していたわけでもなかった。  ただ、そのお陰で彼に出会えた。  ふたりが出会ったのは、そんな何ということもないいきさつだった。            ☆           ☆  そよそよと吹き付ける風を感じて、尚子は目をつぶる。  コンクリートに座り込んで、給水塔の壁に背をあずけている。固い地面が少 し痛かったが、もうしばらくはこうしていても平気だと思った。  お腹と胸に、重さと体温を感じている。ちょっと重くてほどよく暖かい、そ れが心地いい。  薄目を開ける。前に投げ出されている足の間に、メスがちょこんと座っている。  メスの銀髪が、オレンジの光に染まって揺れていた。ビルの谷間に隠れてい こうとしている夕陽に顔を向け、じっと尚子に体重を預けたまま、動かない。 「…………メス?」  ちょうど顎の下にある頭頂に、尚子はことりと顎を乗せる。  眠ってしまったのかと思ったが、いらえはちゃんとあった。 「重いぞ尚子」 「……ん」  抑揚のあまりない文句。  本心から嫌がっている調子ではなさそうだったので、尚子は顎をどかさなか った。  両手を伸ばして、メスのお腹に抱えるように廻した。メスの背中と尚子の身 体が密着して、暖かいメスの体温がよりリアルに伝わってきた。 「……ご苦労様、メス」  なにか明確な会話をしようとしていたわけではなかった。とりあえず先刻の 労働をねぎらってみる。返ってくる言葉は予想がついたが。 「どれほどのこともなかった。軽いものだ」  予想通りだった。それが何とはなしに嬉しくて、尚子は小さく笑った。 「メスは、強いね」 「メスが強いのではない。尚子の想いが強いのだ。メスはそう思う」  これも予想通りの返事だった。過去に何度かやりとりした覚えがある。  そのやりとりには、続きがあった。 「わたしは」言葉を切ったのは、言うべきか一瞬迷ったからだった。 「……ただ、なくしたくないだけ。メスといられる時間とか、メスのあったか さとか。……そういうの」  結局言った。 「いつかはなくなるが」  返ってきた言葉も素っ気なさも、まったく同じだった。  ここであっさりと「そうだね」と返せればいい。メスは尚子を気遣っている。  厳然として存在する残酷な事実を突きつけるのは、その時が本当に来た日に 尚子が少しでも悲しくないようにするためだ。だからこそ自分もそれに応える べきだと尚子は思う。  いつも、そう思う――。 「…………そうだね」  思うだけなのだけれど。  間が空いた。言葉に詰まった。  目をつぶって、メスの後頭部に額を当てた。ほんのわずか前まで嬉しかった のに、今は少しだけ辛かった。 「すまん」  額から響いてくる、メスの声。  メスは今、どんな顔をしているのだろう。 「………………いいよ」  見るのが怖くて、別な話題を捜す。 「……やっぱり駄目だったの? 今日の子も」 「……ああ、駄目だ。あいつでは駄目だ」  そう繰り返したメスの声が、かすかに低くなった。  抑揚の乏しい話し方をするメスだったが、尚子は最近になってようやくその 中の微妙な変化を聞き取ることができるようになった。落ち着いた――悪く言 えば年寄り臭い――雰囲気を持っているメスも、激怒したりひどく落胆したり することがある。  それに気付く者が、めったにいないというだけで。 「あの子の部下には、なりたくない?」 「嫌だ。あいつは戦いを楽しんでいた。あいつの部下にはならない。メスはあ いつを『王』とは認めない」  メスが穏やかな声で繰り返す。  尚子は知っている。  聞き返してもいないのに同じ言葉を繰り返す――そんな時メスは、ひどく精 神が高ぶっている。今抱えている感情を理解して欲しいと、無意識に感じて繰 り返すのだ。 「そう……」  尚子はそれを、きちんと理解した。  だからほんの少し、腕に力を込めた。            ☆           ☆  目的がある。  ここにやってきたのには、目的がある。  成長し、戦い、『王』になる者を決めるため。  来たのは百人。選ばれるのはひとり。  倍率としてはそこそこ高い。つまり最後まで残る一握りの者は、恐ろしく強 くなっているだろう。  弱い者は、自然と淘汰されていく。最後に選ばれるひとりは、間違いなく百 人の中で一番強い。  さて、では、それが『王』となるべき資質のすべてなのだろうか? 「一番強い」だけでいいのだろうか? それが支配者の条件のすべて? それ ですべてが許されるような、そんな単純なものなのだろうか?  答えを教えてくれる者は、誰もいない。ならば、自分で考えるしかない。  そんな時、彼女に出会った。  彼女は言った。 「……メスは、王様になりたくないの?」            ☆           ☆  理解してくれたのが、メスには嬉しかった。半面、気恥ずかしくはあったが。  自分でも気付かずに、饒舌になっている。先刻の戦いに落胆しているからな のか、気付いてもらえたから嬉しいからなのか、それすらもはっきりしない。  難しい。 「……メスが望む『王』はな」  わからないので、会話を続けることにする。 「うん」 「正しいことを正しいと感じて、それを曲げることのない高潔な『王』だ。  正しいことを知り、正しいことが良いことだと信じ、正しいことを成すため の行いに全力で取り組み――理不尽なことに涙する。そんな『王』だ」  それは、尚子にも何度か話したことがある。それでももう一度、聞いてもら いたかった。  思った通りに、尚子は大人しく聞いてくれていた。 「……メスは、そんな『王』に仕えたい。それ以外の『王』には、仕えたくな い」  言い終わってしばらくしてから、 「……そか」  尚子が返してきた言葉はそんな一言だった。尚子らしい、とメスは思った。  メスを抱いているこの少女は、会ったときから内向的で口下手だった。ゆえ に最初の頃は、お互い意志の疎通には苦労していた。  今は、きちんと理解できる。 「尚子はおらんと思うか。そんな子供は」  たとえばこうして問いかけたとき、尚子が適当に答えを出すことは絶対にな い。 「…………どうだろ。いるのかな。そんな子」  長い沈黙をじっと待てば、尚子は答えをきちんと返してくる。  ほんの少し、時間を必要とすることを知ってさえいれば。 「わたしは見たことないけど、……いるかもしれないとは思う。メスみたいな 子もいるから」 「ふむ」  メスがこの地にやってきたのは必然である。『王』の選出のために送られて きたのだから。  では尚子と出会い、パートナーとなったのも必然であるのだろうか。  メスは思う。だとしたら、その必然を生み出した者に感謝すべきだと。  そうでなければ、とてつもない幸運だったのだろう。尚子と会えたことは、 自分にとって得難い幸福だ。  自分のような「他と違う」ものにとって、絶対の理解者などそうそう巡り会 えるものではない。  「異端」は大概にして、存在そのものを否定されてしまうから。  『王』を目指して戦う百人の子供たち。メスもそのひとりとして、この地に 送られた。  だが真相は違う。正確に言えば、今はもう違ってしまっている。  『王』を目指して戦っているのは、九十九人の子供たち。  メスだけが、『王』を目指していない。  『王』に相応しい者を捜すこと――それが、メスの今の戦う理由だった。  尚子はそれを理解し、手を貸してくれている。  尚子には尚子の事情があり、動機があるのはわかっていた。しかしその動機 も、メスにとっては不快ではない。むしろ心地いい。  ――メスといられる時間とか、メスのあったかさとか。……そういうの。  先程の尚子の言葉に、メスは心の中で頷く。  ――ああ、メスもそう思う。そう思うよ尚子。  たとえば夕暮れのビルの屋上で、尚子に抱かれているこの瞬間。  この瞬間はメスにとって、かけがえのない時間である。 「ねえメス」 「なんだ尚子」  尚子の声と、ぬくもりを間近に感じ。  互いに向き合ってはいないけれど、その必要も感じずに。 「そんな『王様』が、ホントにいたらさ?」 「うむ」  終わりがやってくる時まで。  メスが誰かに敗れるか、『王』となるべき子供と出会えるその日まで。 「わたしたち、また会えるのかな。……また、会えるようになるのかな」 「わからないし保証もない」  だから冷たい言葉を、ときに返すけれど。 「…………そうなるといい、とはメスも思うが」  メスは尚子といるだけで、本当は。  ――わかってくれるだろう、尚子? 「……うん」  静かな声。穏やかな声。  オレンジの暖かい光の中で、暖かい温もりと、暖かい言葉。 「そうなると、いいね」  ――ほら、わかってくれた。            ☆           ☆  夕暮れ。 「ねえメス」 「なんだ尚子」  夜に向かって、近づいてゆく時。  黄昏の頃。 「……ずっと、こうしてたいね?」 「それは無理だろう。尚子が風邪を引く」  優しいオレンジの光。 「いいよ、わたしは」 「そうはいかん」  朝でもなく、昼でもなく、夜でもなく。 「いいんだってば」 「いかん。絶対いかん」  始まったばかりでもなく、輝かしい光に満ちあふれているわけでもなく、終 わったわけでもなく。 「いいって言ってるのに」 「いかんと言ったらいかん」  そんな時間を、ふたりで過ごしている。  金色のような、朝を夢見て。 『ささやかな欲望 〜もしくはそのふたりのささやかな幸せ〜』  了
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