『 淫乱兎と純情中年 』



 四方を鉄板で囲まれた箱の中、背後で巨大な換気扇が音を立てて回っている。頭上を仰ぐと、ぶち抜かれた何層もの天井の向こうに、真っ黒な夜空が見えた。時折、穴から白いサーチライトが差し込んでくる。ヒーローTVの中継用ヘリだ。
 虎徹は愛用のハンチングを指で弄りながら、隣に座る男に話しかけた。
「上っていった意味、なんで解った」
 思いついたと同時に、脊髄反射で言葉にしていたから、その時まで具体的にどうするのかとかは考えていなかった気がする。上手くいくかどうかなんて尚更考察している暇はなかった。ただ、虎徹の言葉にバーナビーが反応して能力を発動させたとき、虎徹は全力で天井へ向けてジャンプした。そして、夜空を遮る天井をぶち抜いた後、落下する途中で爆弾が猛スピードで飛んできたのを、仰け反って避けて、そして着地した瞬間、アニエスから預かったカメラを上げたら、爆音。赤い閃光が奔り、爆風と衝撃波がビルを揺らした。鼓膜を揺らす爆音と重い衝撃波の中、漸く事態の顛末、そして二人が実行した作戦の全貌を理解した瞬間だった。カメラを持つ手がビリビリ震えた。まさに決定的瞬間、独占映像、仕事はきっちりやるんだよ、と虎徹は内心ほくそ笑んだ。俺にしちゃあいい仕事したと思った。仕事となると見境がなく可愛げの無い女だが、それでもヒーローTVの実質的な指揮官は彼女だ。言いつけはちゃんと守るさ。今日一日、あの女プロデューサーのせいで引っ張り回された。何が、ワイルドタイガーがバーナビーを誘って街へ繰り出すだ、と虎徹は独りごちた。バーナビーというとっておきの素材を得て勝手な偶像を仕立て上げるのは勝手だが、自分まで巻き込まないで欲しいものだ。しかしそのおかげで爆弾を処理出来た。誰も死ななかったから結果オーライ。
 こいつもそう思っているだろう。
 アニエスのカメラの前では好青年の笑みを絶やさない男は、今埃を汗で張り付かせた汚れた顔を強ばらせ、可愛げのない仏頂面を晒していた。
「とっさの判断というか、まぁ、ああするしかないでしょう」
 日頃から理性的に行動しろという持論を振りかざす若者とは思えない発言だ。
「それって勘だろ」
 虎徹の指摘にも、生意気な新人は動じることなく、相変わらずクールな顔で、ふーっと細い息を吹きかけて愛用の眼鏡の埃を払った。
 ふと、シュミレーションの最後に言われた言葉が思い出されて、呟いた。
「どっちにしろ実戦じゃないと駄目ってことだな、お互い」
 つまりはそういうこった、俺とお前はどっか根っこの部分が共通している、虎徹の口元に笑みが浮かぶ。それに気づいたのかどうか、バーナビーは一瞬だけ嫌そうに眉を潜めて眼鏡を掛けた。
「好きに解釈してもらって結構です。」
 バーナビーは太股の埃を払ってから立ち上がる。
「そういう仲間意識は好きじゃないので」
 その声色はいつも通りトゲトゲしいが、興奮しているのか、顔色は幾分赤らんで見えた。色が白い分、顔色の変化が分かりやすい。そんな些細なことに気づいて、虎徹は笑った。
 そりゃあこれだけの仕事をこなした後だし、興奮するのも当然だ。もし、失敗していたら今頃は確実にあの世行きだ。それだけではない、あれだけの威力の爆弾がビルの中で爆発していたら、下手をすればビルが倒壊していたかもしれない。そうすれば死者は自分たちだけでは済まなかっただろう。数秒の中に自分たちと多くの市民の命が交錯した。
 ヒーローとして日夜平和のため犯罪者と戦っている虎徹にとってもこれほどの緊張感を強いられた現場はそう多くはない。
 達成感と充実感。身体が疲れていても過剰分泌されたアドレナリンのせいで興奮して疲れを感じない。
 こんな瞬間があるから、ヒーローは止められない。なぁ、お前もそう思っているんだろう?そう問いかける代わりに虎徹は、いつも通りの軽口を叩いた。
「本当お前可愛くねぇなぁ、兎のくせに」
 お前の好き嫌いは関係ない、俺が共感しているんだからそれでいい。虎徹にとってはそれだけで十分だった。
「はぁ?」
 するとバーナビーは律儀にこっちを向いて眉間に深い皺を刻んだ。嫌なら一々反応しなくてもいいんだぜ、バニーちゃん、そう内心突っ込みつつ、今の虎徹にはバーナビーのスカし顔も、相棒の糞真面目な性格の表れと思えば可愛げもあるというものだ。
「だいたい貴方は詰めが甘いんですよ。天井破るなんて短絡的過ぎる」
「どう考えても爆弾蹴る方がどうかしてるだろう!爆発したらどうするんだ!!」
「頭が固いなおじさんは」
「なにぃ!!」
 そんな“普段通り”の遣り取りをバーナビーが録画していると気づいたのは、また別の話。
「行きますよ、おじさん」
 急かされて、虎徹は重い腰を上げた。駆け出そうとすると床の鉄骨に躓きそうになったのを寸でのところで避けて、既に床のハッチからエレベーター内へ降りようとするバーナビーへ虎徹は叫んだ。
「あ、いいのかよ?現場検証とかあんじゃね?」
「全部カメラに納められていますからね、それさえ渡せば十分でしょう」
 これまた優等生らしくない発言に、笑みがこぼれた。
「……へへ」
「なんですか、にやけて……気持ち悪い」
 人間現金なものだと思う。
 ついさっきまで生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのに、今じゃこうして下らないことで笑っている。相棒は生意気だが、仕事には満足しているし、やり甲斐もある。人を助けること、守ること。俺はヒーローだ。ヒーローだからこそ俺は俺でいられる。
 ただ、――こんな時にはふと思う。興奮に高ぶった身体の内にも埋められない空虚。今はもう、人を助けても「がんばったね」と声を掛けてくれる存在はいない。「無茶をして」と叱って口付けてくれる人はいない。家に帰っても冷たいベッドが待っているだけ。それが不満な訳ではない。一人暮らしの寂しさも自分で選んだことだ。
 だが、こんな夜くらいは、誰かとこの気持ちを分かち合いたいと思ってもいいんじゃないか。
 埃臭い空気の中、天井にぽっかり空いた穴のように、この胸に空いた穴を。
 アルコールの帳を掛けて、見て見ぬ振りをしていたい。
「なぁ、これからどっか呑みにいかねぇ?」
 ちょうど良く、暇そうな男もいることだし。そう軽く考えて誘ったのだが。
「いいですよ」
 あっさり応じられて、虎徹は一瞬目を見張った。実を言うとあまり期待してはいなかった(まぁ断られても食い下がるつもりだったが)。だがバーナビーは無表情のままで振り返った。
「僕の部屋でどうですか?」
「…………へ?!」
 思わず驚きの声が漏れた。
「部屋って……お前の?あのでっけーマンションか」
 つい今朝、尋ねた高層マンション。ゴールドステージにある彼の前まで行ったのは初めてだった。
 その日のうちにバーナビーから部屋に誘われるとは思ってもいなかった。部屋とか、プライベートに入られるのは嫌いだと思っていた。虎徹の戸惑いを察したのか、バーナビーが説明する。
「昨日から取材続きで、さすがに疲れましたよ。もう人の目がある場所には行きたくありません」
 ああ、成る程……そういえばバーナビーは昨日から密着取材されていたんだっけ。一日中カメラがひっついているというのはさぞ窮屈な気分だろう。加えて今日は一日取材だったから、常にカメラを気にした状態だ。さすがのハンサムでも疲れたってことか。妙に納得して虎徹は頷いた。
「二人で呑むくらいの酒ならあります。つまみはたいした物はありませんが、それでも良ければ」
「いいよ、いいよ。全然オーケー。じゃあ行こうぜ!」
 そうと決まれば善は急げだ。相棒の気が変わらないうちに、酒にありつこうと虎徹はバーナビーの背中を押すようにして、現場を後にした。



***



 虎徹は、絨毯が敷かれた床に直に胡座をかいて、バーナビーの家にあったウィスキー飲んでいた。蓋を開けた途端に甘くフルーティな香りとスモーキーな香りが混じり合った芳香が広がった。部屋と同じで一見して上等だと解るもの。
 バーナビーはどぎつい青い色の酒を口にしている。
「何飲んでいるんだ?」
 グラスを差し出されたので舐めてみると、舌が痺れるような刺激に薬っぽい味がした。……正直好んで口にしたい味ではなかった。そこで虎徹はグラスを返す。
「お前、よくそんな不味い酒飲めるな」
「そうですか?僕は嫌いじゃないですが」
 そういうと氷をからりと揺らして、ごくりと一口飲み込んだ。うげぇ……金持ちの味覚は解らない、そう思った虎徹は大人しく自分のウィスキーに戻ることにした。
「しかし、いい酒持ってるね」
「そうなんですか?ほとんどが貰い物ですから」
「そう……」
 まぁ、そうだろうな。どれもこれもバーの飾り程度にしかお目に掛かったことのない酒ばかりだ。さぞかし値が張ることだろう。シャンパンにワインは赤・白・ロゼと一通り、ブランデーにウィスキーなどなど、種類がありすぎて持ち主の好みは解らない。
 それは、部屋そのものにも言えた。
 ゴールドステージのマンションの高層階。壁一面のガラス窓からはシュテルンビルドの夜景が一望出来る。絶好のロケーション。だが、家具はパソコンが置かれたテーブルと椅子が一つきりとか、これでどうやって生活しているのか……モデルルームだって、もっと生活感を出すだろう。


 目を転じると壁一面の窓ガラスからシュテルンビルドの夜景が見える。星空より派手であからさまな光の渦に、金髪の外はね髪が溶け込んだ。全く違和感がないことに違和感を感じる。こんな部屋で生活していることが一番の驚きだった。
 バーナビーはそんな虎徹の戸惑いを余所に、優雅にグラスを傾けていた。何となく所在なく、虎徹もいつもよりピッチが速い。
「しっかし、恐ろしくでっかいテレビだな……」
 細くて白い指が、琥珀色の液体に満たされたカットグラスを捧げている。関節照明を透かして濃い琥珀色に輝く液体の向こう側に、虎徹は相棒の横顔を垣間見て喉を鳴らした。酒のせいだろうか、僅かに赤らんだ頬、愁いを含んだ目線。……虎徹は図らずも見入っていた自分を誤魔化すために、ガシガシと頭を掻いて勢いよくウィスキーを飲み干した。強いアルコールに喉が焼ける……悪酔いしそうだ。まったく無駄に男前を垂れ流しやがって……同じ男だというのに、なんかもう作りが存在が違う気がする。人種の違いは当然だが、それ以上になにもかもが違う。髪とか、なんであんなにくるくるカールしてるんだ?パーマか?虎徹にとってパーマはパンチパーマくらいしか考えたことが無くて、バーナビーの自然で柔らかいカールはどういう構造の物なのか先天的なのか後天的なのかすら解らない。毎朝、小一時間掛けてセットしてたらどうしよう……そんな想像もたくましくなるってものだ。あとあの鼻、すっと真っ直ぐに顔の中心を走る稜線と、そこから落ち込む深い眼窩、あの目頭の窪みを指で押してみたい……まぁ眼鏡が邪魔だが。今はその深い窪みは、夜景が落とす濃い影に沈んでいた。
 こうやってケチのつけようのないハンサムフェイスを見せつけられると、なんかもう妬みとか嫉妬の入る隙間も無い。恐れ入りました、と土下座して謝りたい……絶対しないが。絶対に口にはしないが、こうして黙っているバーナビーを眺めているのは、不快ではなかった。むしろずっとこうしていたいような……アルコールのせいでふわふわし始めた思考のせいか、普段なら絶対に考えないようなことを考えている。
 視界の中に一対の緑色に気づいた。瞬きもぜずこちらを見ている。まるで口の中で溶けたあめ玉みたいにぬるりと光沢を放っていて、青に茶色を混ぜた緑色。緑のような青のような、虎徹の貧弱なボキャブラリーではこの色をなんと形容するのが正しいのかさっぱり解らない。でも解らなくてもしょうが無い、きっとこれは特別な色なんだろう。光彩の同心円が開いて、中心だけ、マンホールのように黒い点、瞳孔が開く。
 その様をつぶさに視認して、おや、なんかおかしくね?初めて違和感に気づいた。瞳孔まで判別出来るとか、近すぎる。近すぎる距離だ。今度は虎徹の目が開く。すると、鼻が触れるほどのところに先ほどまで見とれていた男の顔があった。
「……なん……」
 無意識の零れた疑問符は、生暖かく濡れた唇に飲み込まれて音にならなかった。
 何があった、俺今何された……??!!
 目の前には憎たらしいほど整った顔がある。目尻が緩んでほのかに赤い。酔っているのか、いつもの刺々しさはなりを潜めて、唇が妙に赤い。それに気づいて、再び喉が鳴る。思わず見ていられなくて視線を下げると、黒いTシャツの襟から白い鎖骨が見えた。
 こいついつ上着脱いだ?
「そんなに見つめないでください」
 そんなことより!こいつ、今何しやがった…………!まだ唇に残る感触を確かめようと、唇を舐める。しかしそこにはもうなんの名残も残っていない。それはそうだ。触れたのはほんの一瞬だったから。気のせいといえば言えるような気がする。ぐるぐる回る、アルコールで溶けた思考の中で、しかし、肩には暖かい重みで覆われている。バーナビーの白い手のひらが虎徹の肩に触れている。それから、首筋には不規則な呼吸。それから、瞳孔と睫の一本一本まで判別出来る距離にある、人形のように整った顔。
 気のせいではない。錯覚でもない。
 再び顔が近づいて、無意識に身体が強ばり目を閉じた。しかし暫くしても唇には何も触れない。代わりに、虎徹の肩にもたれ掛かる重み。全身にのしかかってくる。
「……おーい、バニーちゃん……?」
 右肩に掛かる重み。不安定でアルコール臭い呼吸。頬に跳ねた髪の先が当たって、ぐったりと虎徹にもたれ掛かってくるバーナビーに、今度は安堵の溜息が漏れた。それを慌てて苦笑に紛らせた。なんだ、ただの酔っ払いか。ピッチ速かったもんな、こいつ。
「…………すいません、肩、貸してくれませんか……ちょっと飲み過ぎたみたいだ」

「おいおい、大丈夫かバニーちゃん」
 と言いながら、虎徹は肩を貸してバーナビーを寝室へ連れて行った。初めてきた部屋だが、寝室はすぐに解った。ブルーライトに照らし出されたベッドにバーナビーを寝かせる。
「水飲むか?」
 いらないとバーナビーがいうので、することがなくなった虎徹は部屋を出て行こうとした。
「……行かないで」
 袖を引かれる。立ち止まって振り返ると、バーナビーがベッドの上で虎徹に向かって手を差し伸べている。目が合った。緑色の瞳が溶けそうに潤んで虎徹を見上げている。いつの間に眼鏡を外していたのか、虎徹は気づかなかった。
 言葉に反して、バーナビーは虎徹の顎を掴んで上向かせた。そうして動きを封じて、ゆっくりとした動作で虎徹のネクタイを引いた。しゅるりと乾いた衣擦れの音を立ててネクタイを解きながら、バーナビーの目は虎徹の目から離れない。眼鏡のレンズが除かれ剥き出しになった裸眼、数度瞬いた後、ゆっくりと閉じられる瞼、二重の瞼が落ちて金色の長い睫が結ばれる。
 最初のとは決定的に違う、唇と歯列を割って熱く滑った舌が虎徹の口内にに進入してくる。二度目のキスは、偶然を否定するだけの長さと熱を持っていて、虎徹に迫った。口に中に他人の唾液が浸入し、濡れた人間の舌の味がする。溜まらなくなった虎徹は、力任せにバーナビーを押しやった。
「おまっ、何考えてんだ、どけっっ」
「……ここまできてカマトトぶらないで下さい。それとも、焦らしているんですか?」
 焦らしてない、焦らしてない……否定しようにも、バーナビーはぺろりと舌を出して唇を舐めた。加えてこの上目遣い……その気なんかないのに、心臓がばくばく騒ぎ出す。焦らされているのは俺の方か、いやいやその思考はまずい、非常にまずい。流され掛けている。流されるってなんだ?なんなんだ……下で虎徹が混乱しているうちに、バーナビーはTシャツに手を掛けた。裾から左手を差し込んで、胸元まで手を上げる。鍛えられた腹筋が顕わになった。間違いなく彼は男で、自分も男で、だがバーナビーの肌は目に痛いほど白く、艶やかだった。この時、虎徹は気づいてしまった。ベルトの下、カーゴパンツに覆われた部分が盛り上がっていることに……それが現実だ。
 腹に乗っかられたまま、呆然と見上げていると、バーナビーがTシャツを脱捨てる。
 マジか、本気なのか、バニー???と内心慌てながらも漸く身体の方が追いついて、腹の上で押さえつけている男を押し返そうと腕で押すが、鍛えられた硬い腹筋はびくともしない。何せ体勢が悪すぎる。完全なるマウントポジション。全体重を掛けられ、こちらは急所を押さえられ手いるせいで、脚を蹴り上げても辛うじて膝が届く程度で、対したダメージはないようだ。膝が背中に当たると、バニーは顔を顰めたがそれ以上の効果は無い。が力任せに振るった拳がバーナビーの胸に当たると、さすがに堪えたらしいちっと舌打ちをした。緑色の眼が剣呑な鋭い光を帯びて虎徹を睨んだ。
「気持ちよくしてあげますから、おじさんは大人しく寝てて下さいよ」
 僕が全部やってあげます。そんな恐ろしいことを真顔でいわれて大人しくなんてしていられるか!焦った虎徹は、闇雲に腕を振り回した。が動いたせいで急激に酔いが回って目眩がした。その隙をバーナビーは逃さなかった。動きの止まった虎徹の両腕を掴むと、あっけなく片手で纏めてしまう。そして空いた右手でネクタイを解き、手首を縛る。無防備に晒された上半身に、バーナビーの剣呑な瞳がとろりと緩む。シャツのボタンが丁寧に一つずつ外されるたび、深緑のシャツの袷から濃い褐色の肌が顕わになっていく。
「年の割に良い身体してますね。大胸筋は張っているし、腰が細い割りに腹筋は綺麗に割れてて……」
 そう言いながら、バーナビーの舌が虎徹の筋肉を辿っていく。ベルトの際から、へそを通り、肋骨の舌へ。ゆっくりとたっぷりの唾液を絡ませながら進んでいく。赤い唇が小さな胸の尖りに及んぶと、ゾクゾクと背筋に震えが走った。
「肌も……張りがあって気持ちいい」
 そこを唇で嬲りながら喋るのは止めて欲しくて唇を噛む。なんだこれ舐められただけなのに鳥肌が立つ。未知の感覚が虎徹を襲った。
「俺は男だぞっ」
 衝動を誤魔化すために大声で叫んだ。しかしバーナビーは動じない。
「男同士のセックスは初めてですか?」
 しれっと言いやがる。
「んなの、当たり前だ――――」
 相棒の言葉が理解出来ない。
 そういう性向の人間がいるのは知っている。それが悪いとは思わない。だが、自分は違う。これまでだって同棲相手に欲情したことは無いし、ましてやこういう風に触られたことなんてあるはずがない。
 というか、普通触りたくないだろう!野郎の裸なんて……そう思うった途端、腹にバーナビーの熱が当たった。嘘だろう……今日何度目になるか解らない呟きを吐いて、虎徹は目を覆った。
 なに、お前、おじさんで勃たせてるんだよ……直接触れられて刺激された虎徹はともかく、バーナビーは何もしていないはずだ。それなのにそんなにして……息まで荒げて。同じ男だから今のバーナビーの辛さはよくわかる。解るが、それをおじさんに向けるのはどうかな――――
「折角なんで楽しみましょうよ、貴方だって興奮してたじゃないですか……生存本能って奴ですかね」
「だったら女抱けはいいだろっ」
 ことんと小首をかしげるようにしてバーナビーがしばしの沈黙の後答えた。
「めんどくさいじゃないですか。実名を公表しているとこういう時は不便ですね。迂闊に誘うことも出来ない……その点、貴方なら問題ないでしょう?」
 しれっととんでもないこと言いやがるなぁこの兎ちゃんは。呆然とする虎徹を余所に、バーナビーはさらに爆弾を落としてくる。
「一回試してみて、駄目だったらそれっきりで良いじゃないですか」
「お、お前そんなんでやっちまっていいのかよ……?」
「問題ないでしょ、僕ら男同士だし」
 そういいながら、耳を囓られた。本当に歯を立てて囓りやがった!それなのに、歯を立てる感触にもまたあのゾクゾクが走る。なんだこれ、しかも今回はそれだけじゃなかった。下半身が熱い。立ち上がったそれが下着とズボンを押し上げて痛い。見て見ぬ振りをしてきたがもう誤魔化しきれない。その変化にバーナビーも気づいたのか、にやりと嫌に男臭い笑みを浮かべた。信じられなかった。キスと身体を舐められただけで勃つなんて。
 確かに、他人に触られるのも舐められるのもキスされるのも久しぶりだが、だからってこんなに敏感なのはおかしい。しかも相手はあのバニーだ。
「感情がなくても気持ちよくなれますよ」
 虎徹のを握って擦り上げる。強い刺激に息を呑む。他人の手で触られたのは何年ぶりだろう……先走りで濡れた右手をバーナビーが舐める。
「ほら、ね」
 セックスは気持ちが良い。それは同意する。だけど無防備で素の自分がさらけ出されて、余裕がなくてみっともなくて、相手を本気で愛していなければ、あんなみっともないところ死んでもごめんだ。でもあったかくて幸せで。なにより、彼女の身体を抱いている時、虎徹はただの男になった。彼女の中へ入っていくのは、息をするより自然なことだった。
 そういうものだと思っている。
 だから、一人になって、そういう気持ちにはもう二度となれない――――ならないと思った。今や虎徹は一人の男である前に、ヒーローであり楓の父親だ。
 そっちの方は後回しでいい。まだ枯れたわけじゃないけれど、やりたくなったら自分ですればいいだけの話で。
 本音を言えば、5年経った今でも、未だ他人とベッドを共にする勇気がもてないだけかもしれない。塗り替えたくない、この手に残る温もりだけは最後まで塗り替えたくない記憶だったから。
 それがどうだ。今虎徹は、パートナーである男に組み敷かれ、あろうことか欲情し始めている。確かに、バーナビーに握られたものは堅さを増している。それは言い逃れのしようが無い事実だ。
 バーナビーが赤い舌を出して笑った。
「……やっと効いてきたみたいですね」
 その台詞に、虎徹はぱっと目を剥いた。
「……なんか盛ったのか?!」
「ただの強壮剤です……初めてだしお酒入っているし勃たないと困るなぁと思って。まぁ軽い媚薬ですからやってしまえば後は残りませんから」
 思わず肩の力が抜けた。
 なんだ、そうか……それならいいか。
「……なに脱力してるんですか……」
 すると、バーナビーの長い指が下着のなかで動く。強い快感が駆け抜けて、全身が跳ねた。全然良くない。
「……や、やめろ……マジで止めろって」
 ただ擦られただけなのに既に先走りで下着の中はぐちゃぐちゃだ。それに気をよくしたバーナビーはそのまま片手で下着ごとスラックスを引き下ろした。布が太股を擦る感触にすら感じる。
「後悔しますよ?折角僕が抱かせてあげるっていってるのに」


「気が変わりました」

「……は……?」

「突っ込ませれば弱み握れると思ったんですけど――あなたにその気が無いなら、僕が上でいいですね」

「……はぁ?…………はぁぁ?!」
 押し倒されて、靴下だけになった脚を抱えられて大きく開かれる。そこを凝視され、悪寒が走った。 
「バ、馬鹿なことをいうんじゃない、おじさんは、おじさんだぞっ」
「気持ちよくしてあげますよ」
 遠慮しときます、と後退してなんとか逃げようとするが、すぐに背中がベッドヘッドへぶつかってしまう。行き場はない。万事窮す。
「男に挿れた経験は少ないですけど、良いネコは良いタチになるっていうし、大丈夫ですよ」
「気を確かにもて、バニーちゃんよぉぉ…………ひっ…………こんな、おじさん抱いても楽しくないだろぉぉ」
 無駄に良い笑顔で、恐ろしいことを言う男に、後はもう涙目で懇願することしか出来なかった。



***



 全部夢でした、そんなオチを期待しながらゆっくりと開けた瞼に、朝の光は眩しすぎて痛かった。
身体が重い。頭痛もする。軽い吐き気と頭痛は二日酔いのせいだろうが……およそ二日酔いとは関係ないところが異様に重い。いつものように起き上がろうとすると、腹筋と股関節が痛んで動けなかった。なんだこれ、非常事態。しょうが無く仰向けに横たわったまま、恐る恐る後ろへ指をやってみる。そこは乾いていた。一応後始末はしてくれたらしい、それを知って一息を吐く。最低限の誠意のつもりだろうか。虎徹は見知らぬ天井を見て考えた。
 さて、これからどうする?
 こうなった以上、無かったことにするのが一番利口なやり方なんだろう。あれは酒の勢いというか迷走というか……そう、全ては酒のせいだ。あとは興奮状態がもたらした衝動的な行動ってやつで……男なら解らないことじゃない、そういう時だってある。その時側にいたのが、偶々虎徹だっというだけだ。
 しかしコンビのパートナーとやっちまったら、後々面倒になるだろうに。あのスカした男がそれくらいには切羽詰まっていたと考えればまぁ可愛げもあるというものだが、果たして。
 ……まぁ確かに余裕はなかったな。目を閉じて快感を必死に耐えて、歯を食いしばる顔は悪く無かった。下半身は無遠慮に奥を突いてくるから可愛さの欠片もなかったが。こんな時でもハンサムは得だ。
 それにしても、随分慣れているみたいだった。いつもこんな風に行きずりの人間と身体を重ねているのだろうか。
 まぁ確かにそっちの方が楽は楽だろうな。特にバーナビーはまだ若い。ヒーローは公私の区別なんて無い、事件が起こればすぐ出動。それにバーナビーがこれまではヒーローになるために色々真剣に勉強してきたということは昨日の事件で実証済みだ。ヒーローとしての覚悟もある。そう考えればまともな付き合いは難しいだろう。

 でもさ、そういうの淋しくないか。
 お前、そういう付き合い方しかしてこなかったのか?
 そんな疑問が頭を過ぎる。
 そうやって、好きでもない奴とその場限りの付き合いばかりで、衝動は満たされるかもしれないが、愛情とか絆とか、そういう本当に大事な気持ちを置き去りにして、身体だけの関係とか。
 虎徹は長い溜息を吐いた。
 溜息で物思いが全て流れ出てしまえばいいのに。だが実際は、思考は澱のように心に沈殿していくし、身体の痛みは消えてはくれない。
 すごく痛かったんだぞ、糞バニー。まったく、こちとら初めてだっつうのに無茶しやがってと、虎徹は内心毒づきながら、今度は寝返りを打って俯せから起き上がる。起きてみれば、まだ多少膝ががくがくいうが動けそうだ。時計を確認すると、出勤まで時間はある。とりあえず服を着て、バニーに家まで送らせよう。そのくらいの面倒は看てもいいはずだ。
「その前に、きつくお灸を据えてやらねえと」
 大人しく無かったことになんかしてやらん。そう虎徹は決めた。あいつの思い通りになんて、そんな癪に障ること絶対に嫌だ。
 こちとら処女をくれてやったんだからな。
 その時、音も無くドアが開いた。
 バーナビーだった。
「シャワー使いますか」
 そのいつもと変わらぬ平然としたポーカーフェイスに、虎徹は息を呑み拳を強く握りしめた。
「俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
「昨日のことなら、最終的には合意でしたよね」
「んなもん、変な薬飲ませて無理矢理言わせたんじゃねえか」
 バーナビーは生意気な面を不機嫌そうに歪ませてから、自信ありげな笑顔を浮かべて言った。
「でも、気持ちよかったんでしょ?」
 思わず顔面に血が上る。
 その言葉に昨日の自分の痴態……認めたくはないが、最後の方はもう痛いんだか気持ちいいんだか訳がわからなくなって、かなり恥ずかしいことを口走っていた気がする。ついでに声が掠れているのも、その間中喘ぎっぱなしだったから。
「この淫乱兎!!」
 沸き上がった怒りにまかせて、一発平手打ちを食らわせた。パンと乾いた音が室内に響いた。グーじゃないのはせめてもの情けだ。売り物の顔に青痣作ったら、きっとこっちが責められる。そんな打算が働いてぐっと堪えたというのが本当だが、本当、よく我慢したよ俺、そう溜飲を下げた時、再び信じられないような発言が、バーナビーの口から飛び出した。

「いい年して純情ぶらないでくださいよ、おじさん」

 おじさんが純情でなにが悪い。おじさんの純情を舐めんなよ。

「家まで送れよ」

 もう最悪だ。
 こんな最低最悪な男が相棒なんて、俺のヒーロー人生どうなることやら。
 虎徹はさらに頭痛を増した頭を抱えて、深く深く溜息をついた。

++ end ++



2011.6.20:初出(pixiv)
2011.8.5:サイト掲載