『 イノセント・インパルス 』 01



 荷造りしていた虎徹は、ふと鼻についた雨の匂いに雑誌を縛っていた手を止めた。朝までは灰色の雨雲が重く覆っていたが、降り出してはいなかった。時計を見ると既に正午を回っている。明日の朝一番の電車で田舎へ帰るつもりだから、荷物は今日のうちに整理して業者へ渡さなければならない。家具は全て処分するつもりだし、持ち帰るのは衣服や日用品といくつかの思い出の小物だけだ。時間が掛かっているのは単に昔の雑誌を読みふけったり、アントニオからの電話にでたり……アントニオからの飲みの誘いは先約があるからと断った。
 荷造りが済んだら、今夜はバーナビーの部屋に泊まるつもりだ。シュテルンビルドでの最後の夜だ。今晩くらいは思いっきり甘やかしてやろう……そんなことを考えていた矢先、今度はさぁさぁと雨の落ちる音がして、イヤな予感にロフトになる寝室を振り返った。こんなにはっきり雨音が聞こえるなんておかしい。部屋の何処かの窓が開いているのかもしれない。いの一番に思いついたのはロフトの窓だった。それで振り返った。前髪が風に揺れる。やっぱり、と慌てて立ち上がろうとした。
 が立ち上がれない。虎徹はそのままの体勢で、目を見開く。何者かによって肩を強い力で押さえられているのだ。
 部屋は当然虎徹一人しかいないはずだ。
 鍵は懸けてあるあるはず……時々忘れることもあるが……いくら何でも誰かが入って気付かないなんてありえない。一瞬のうちに、全身が緊張で強ばった。それを押さえつけた侵入者も感じたようだ。見えないが笑う気配。ふいに押さえつける力が緩んだ。
 その隙に、虎徹は侵入者の右手を掴んで引き寄せる。そのままの勢いで上体を倒し、ソファの背もたれ越しから、男を背負い投げするつもりだった。それは骨張った男の腕だった。剥き出しの皮膚は滑らかで、固い。そして異常に重かった。予想より重いせいで勢いが殺され、床に叩きつけるはずが、ソファの上に倒れてきた。胴体に伸しかかられて、一瞬息が詰まった。
 不味い、と思ったときは遅かった。首筋を硬い腕が押さえつける。急所を取られた。顎の下を男の前腕が押し上げられて気道が塞がり息が苦しい。腕の隙間をかいくぐり、何とか右手で男の首を掴んだ、そのまま、思いっきり力を込める。人間だったら、呼吸が止まる強さで。がしかし、喉仏と顎の間に食い込むはずの親指は、びくともしない、硬い金属の感触に阻まれた。
 こくり、と男が小首を傾げた。
「――――お前……?」
 やっとのことで漏れた呻きに、伸しかかる男の唇が僅かに上がった。背筋が凍る、微笑みというには冷酷な笑みだった。
「鏑木・T・虎徹」
 抑揚のほとんどない声で名を呼ばれた。
「お前はどこへ行くつもりだ?」
 不意に喉を押さえる腕の力が緩む。と同時に虎徹は本能的に肺一杯の空気を吸い込んだ。腕の力が緩んだその隙に、男は片手で虎徹の両腕をソファに押さえつけた。
「おい、何しやがる」
「何も、ただ、話がしたいだけだ」
 動けないことを良いことに、男は虎徹のネクタイに手をかけて一気に引き抜いた。ぶちりと布が切れるイヤな音がしたから、おそらく細い部分を千切り取ったのだろう。気に入っていたのに、何でこんなことにと、心の中で泣いた。だが、今はそんなことを気にしている場合では無かった。が、相手の正体が分かった以上、幾分安心する。少なくとも命を取られることは無いだろう。外見は虎徹そっくりだが、中身は機械で出来ている。マーベリックが虎徹の身代わりにと造らせたアンドロイドだ。だから力も強い、加減もしない。そんな奴が相手ならば、これ以上抵抗してさらに服を破かれるより、大人しくした方が賢明だと悟った虎徹は、横たわったまま力を抜いた。
「分かったよ、さっさと聞きたいこととやらを話せ」
 さっさとしろと、促すとアンドロイドは相変わらずの無表情だ。目深に被ったハンチングのせいで表情はほとんど見えない。だが、虎徹と同じ髭を蓄えた顎から口元は硬く引き結ばれていた。男はワインレッドのシャツを着て、黒いベストを着ていた。暗い色彩のせいかより引き締まって見える。今度、こういう色の服も買ってみるか、こいう赤系統の色は苦手意識があったけれど、意外と似合うのかもしれない。などととりとめも無いことを考えていると、男が質問を始めた。
「どこへ行く?」
 男の目が、口が開いたままに放置されている段ボールを示す。
 虎徹は僅かに苦い気持ちを感じながら、きっぱりと告げた。
「実家に帰るんだよ」
「何故?」
「ヒーローを辞めたから、これからは娘の側にいるって約束したんだ」
 男の目元はハンチングの鍔に隠れてよく見えないが、僅かに覗いた口元がきゅっと硬く引き締められる。ひゅっと頬をすぼめて息を吸う。
「バーナビーがまた独りになってもか」
 虎徹は頷く。すると、アンドロイドが虎徹の襟を掴んで引き寄せる。首から浮いて、そこで初めて、男と眼があう。
「そんな勝手が許されると思っているのか」
 彼の言うとおりだ。不実な態度だと自分でも思う。だが、どうしようも無いじゃないか、と虎徹は唇を噛む。
 能力が無くなって、ヒーローじゃなくなった。他にどうしろというか。
 勝手はどっちだよ、そう言い返そうとした時だ。
 視界が暗くなったかと思うと、目の前が暗くなり、唇に柔らかい物が触れた。冷たいが柔らかい感触だった。そして濡れたものが唇を割って侵入してくる。歯列を撫でて舌を絡め取る。息を奪うような激しい口づけに、虎徹の意識が溶けていく。 
「こんなキス、どこで覚えたんだよ?」
 ロボットのくせに……唾液の糸を引いて、男が離れると、荒い息を吐いて虎徹がいった。キスなんて濃厚なスキンシップを許すのは、一人しか思いつかない。
「まさか、バニーか?」
 アンドロイドは綺麗に口角を上げて笑った。その顔に怒りがこみ上げて、虎徹は吠えた。
「……ツッ、だぁーーーバニーの奴」




 とその時、バタン、と乱暴にドアが開く音がした。

「虎徹さんを放せ!」


 突然バーナビーが現れて、虎徹に伸しかかっていた男を突き飛ばした。
「消えろ、偽物。いくらお前が両親の研究を元に造られた存在だとしても、この人を傷つけるなら容赦しないぞ」
 勢い込んで叫ぶバーナビーを虎徹が宥めた。
「やめろ」
 そうは言っても、虎徹には海老がとても満足げに写った。
「んなことより、なんでお前キスしたんだよ」
「はぁ?何言ってるんですか、こんな時に」
「こんな時もクソもあるか、何ださっそく浮気か、良い度胸だな」
「だから意味が分かりませんよ、コレだからおじさんは……」
「おじさんだからって、包容力は無限じゃねぞ。許せることと許せねえことがあるんだよ」
 今のは完全許容値超えた、と虎徹は吠えるが、腕を縛られてシャツの前を完全にはだけた状態で、男に伸しかかられ上半身を反らせて吠えても迫力はない。むしろバーナビーの興奮を高ぶらせるだけだ。
「まさか……合意だっていうんじゃないでしょうね!?貴方って人は……僕という恋人がありながら他の男にまで身体を許すなんて、なんて淫乱なんだ、信じられない」
 ん?なんだかおかしなことになってきたな、漸く自分たちの間の見解の相違に気付き始めた虎徹だが、興奮したバーナビーは気付くそぶりも無い。むしろさらに激昂して男に殴りかかっていた。
「お前のせいだ……」
 バーナビーが黒虎に殴りかかる。黒虎はその拳を受け止めた。その拍子に、目深に被ったハンチングが落ちた。現れた金色の瞳、表情を隠していた帽子がなくなり、男の顔が顕わになる。金色の瞳と目が合って、バーナビーは思わず動きを止めた。
 さざ波一つも立たない、鏡面のように平らな表面。眉一つ動かさず、ただ、真っ直ぐな睫毛が、バーナビーの吐く息で揺れている。
 バーナビーが俯いて視線を離す。
 反則だ。虎徹と同じ顔で、こんな真剣な顔をするなんて。普段おちゃらけた表情で目立たないけれど、こうして真面目な顔をしていると、虎徹の容姿が整っていることがよくわかる。少し垂れ気味で甘い砂糖飴のような色の瞳が細まった。
「縛り付けてでも、離したくない――――なら、縛って、閉じ込めておけばいい」
 その一言で、バーナビーはロボットが何故こんなことをしたのか解ってしまった。
「お前……」
「したいようにすればいい。他の誰にも渡したくないなら、拘束して確保すればいい」
「そんなこと、出来るわけがないじゃないか」
 何故?と男は問うた。
「そんなことしても何も変わらない。ただ、彼を苦しめるだけだし、ひいては自分が惨めになるだけじゃないか」
 
「惨めになるのが怖いのか?」
 
「どうせ何をしたって、この男はお前を嫌ったりしない」







「虎徹さんには絶対にするな、と釘を刺したのに」

「は……じゃあ、なんで」
 キスなんかしたんだ、と問いかけると、男はさぁ、と肩をすくめてみせた。
「したかったから、では駄目か」
 
 
 きょとんとする虎徹の唇をもう一度だけついばんで、アンドロイドは立ち上がった。
 
「バーナビーに飽きられたら、引き取ってやるよ」

「んなことねぇよ……たぶん」
 そういって、彼は姿を消した。残されたのは、空いたままのロフトの窓と、僅かに雨の匂いだけだった。
「たぶんじゃないです、そんな日は金輪際あり得ません」
 バーナビーが責めるように虎徹を睨んだ。

++ 2に続く ++



2011.8.31:初出(pixiv)
2011.10.19:サイト掲載