※一部に男性同士の露骨な生描写が見られます。18歳以下の方は閲覧しないで下さい。
(この回にはありませんが)

※ 劇場版のネタバレを含みます。
※ 2期最終回から劇場版までの話です。



『 ノクターン―飛翔する用意はできていた 』

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 己の心臓の音がうるさすぎて、鼓膜が破れそうだと思った。
 刹那は混乱していた。目の前にグラハム・エーカーがいることも、それから、連邦軍の軍人の前から彼を攫ってきた己の行動も。どうかしている、そう自分の行為を譴責してもやってしまったことはどうしようもなかった。しかも相手の軍人は刹那の正体を知っている数少ない人間の一人で。この失態……スメラギにしたら間違いなく失態と糾弾されるだろう……どうにかして修正しなければ、しかしその時グラハムに腕を強く引かれて、足が止まった。振り返った拍子にグラハムと目が合う。 彼の緑色の双眸が目の前にあった。いつも宇宙で目を閉じて思い描いていたのと寸分の狂いもない色だった。少しだけ記憶よりも日に焼けた肌と、やっぱり変わらない意志の強い眼差し。そして指先から直に感じる彼の脈拍。ずっとただの機械音でしかなかったものをリアルに感じている。恋焦がれていたものが、圧倒的な支配力を持って、刹那の五感を埋め尽くしている。言い訳じみた思考全て吹き飛んでしまった。
 二人はすでに先ほどの大通りからはずいぶん離れた裏通りの奥の小さな広場に来ていた。ビルの合間にぽっかり空いたその広場には、巨大なフェニックスと細かな水滴をまき散らす小さな噴水があって、その噴水の目の前で、刹那はグラハムの手を離した。しかし目をそらすことはできなかった。噴水のぱらぱらと落ちる水滴が作る水の波紋に、強い陽光が反射して、グラハムの金髪にさざ波のような微かな影を投影していた。周りにいるのは刹那とグラハム以外には観光客らしい若いのと年配のカップルと他数名だけで、至って静かだった。噴水の周囲をぐるりと囲むベンチの一つにグラハムは腰を下ろし、解放された手首を撫でる。
「痛かった」
 はっとしてグラハムを見た刹那だったが、直ぐに後悔した。グラハムはうつ向いたままで、そっと手首を撫でている。袖口から覗く手首は刹那の記憶と同じ白さだったからだ。
 目の前に対峙しただけで、胸が痛んだ。信じられない気持と驚き、そしてまぎれもない歓喜。
 何か言葉を掛けなければ不自然だと思うのだけれど、緊張しているのだろうか、喉が焦げ付いたように固まって声が出てこない。
 自分の気持ちがこれほど制御不能なものだと初めて知った。目の前で対峙した途端、これまで抑え付けていた感情が溢れだし、抑えつけなければ、今すぐにでも叫び出しそうだ。
 この男が好きだ、と。
 こんなにも強く思っていたなんて、胸の鼓動が収まらない。このままでは心臓が破裂して死んでしまうのではないかと思った。もしそうなら……それも悪くないかもしれない。
 だがしかし、同時に刹那は痛切に思い知らされた。グラハムの右頬には相変わらず痛々しい傷跡が残されている。その傷は刹那との戦いで負った傷だ。彼がそれを消さないのは、刹那にとって暗い満足を与えると同時に、彼に対して自分が下した容赦ない暴力への暗黙の抗議でもあるように思われた。どんなに苦しいほど好きでも、この気持ちは報われることはない。これまでの自分の行いを思えば当然の報いだ。グラハムにとって刹那は敵であって、仲間を殺したテロリストだ。それは変わらない事実で、そんな刹那が彼を好きになったところで、彼が同じ思いを抱くことはないのだ。この恋は自覚した途端に終わりを迎えた。
 そんな男に恋をした、これが自分へ課せられた罰の一つか。
 
 
 そんな埒もない夢想を破ったのは、グラハムだった。彼は少し眉を顰めた不機嫌そうな顔をして低い声で言った。
「相変わらず、唐突で強引、そして無口だな、君は」
 グラハムは一度大きく息を吸った。ため息のような長い深呼吸の音が耳を打つ。その近さにさらに鼓動が速まった。グラハムの息がわずかにあがっている。そういえば、遭遇した地点からは数百メートルは走っただろうか。しかしビリー・カタギリが追いかけてくる気配はない。
「そんなところも魅力的だがね……すこし止まってくれないか、息があがって状況を味わえないのだ。あまりに突然で、未だに現実だと信じられない心地だよ。しかし、まさか、こんなところで君と再会しようとは。」
 このまま勝手にしゃべらせていると、とんでもないことになりそうな悪寒がして、刹那は慌てて言葉を遮る。
「偶然だ」
 グラハムの饒舌なくちから流れ出る言葉を聞いていると、彼もも自分に会いたがっていた、とそんな都合のいい錯覚に陥ってしまいそうだった。刹那はなるたけ冷静に無表情を装おうとした。しかしグラハムはそれを許さない。
「偶然も、運命さ」
 運命だとしたら、なんと気まぐれで厄介なことかと刹那は嘆いた。別れるまでほんの数時間でしかない。いや数分かもしれない。ここで何もいわず、もしくは挨拶だけ交わして立ち去ればいいのだ。彼の事情など知ったことか、少なくとも刹那には一刻も早くグラハムと別れなければならない理由があった。恐れともいえる。
 刹那の首筋を汗が一筋流れ落ちた。
「暑いな」
 グラハムは羽織っていたフライトジャケットを脱いで、ベンチの背もたれに掛ける。下は白っぽいTシャツだった。
 心臓が相変わらずうるさく脈打っている。
 これの状況は非常に不味い。連れのビリー・カタギリが軍や警察に連絡してもおかしくはない、というか自分が彼の立場だったら間違いなく通報する。だが、その心配はすぐに消え去った。その問題を解決したのはグラハムだった。突然、彼の携帯が鳴ったのだ。
「カタギリ」
 電話の相手は、置き去りにした男だった。
「一時休戦だ。このままでは平行線をたどるばかり……それより、私には急用ができた。もちろん、彼だよ!久方ぶりの少年との逢瀬だ、口出し無用に願いたい」
 電話の向こうで、ビリー・カタギリがなにやら大きな声で叫んでいる。危険だ、とか軍に通報をとか、そういった単語だった。刹那はそれをどこか他人事のように聞いていた。
「通報はするな、それで君の嘘は帳消しにしよう」
 グラハムは通話を切った。そのまま、彼の黒い携帯はジャケットの胸ポケットに収まった。すぐにもう一度着信があったが、彼はもう電話にはでなかった。顔を上げたグラハムは、これで、後顧の憂いは消えた、と言った。

「さて、私に何の用かな少年」

 そう聞いて、グラハムはそこの見えない深い緑色の大きな瞳で刹那を見た。その視線にさらされて、刹那は口を噤んだ。
 なにも考えていなかったからだ。
 やるべきことはある。夜までホテルで休んで深夜にはロックオンに先んじてグランドキャニオンへ出発するつもりだった。しかし今この瞬間、ミッションは頭の中から消えていた。
「あんたに教える義務はない」
 ぶっきら棒に言い捨てると、グラハムは肩をすくめた。
「自分から攫っておいてよくいう」
 そしてくつくつと笑った。
「まぁ言いたくないならいいさ。それとも白昼堂々白兵戦で殺り合うかね?因みに、今の私を殺しても君らは一銭の得にもならんぞ。なにせ今の私は軍人ではない。つまり単なる無職者だ。それでもいいなら相手になるが」
 不意に殺気を見せたグラハムに、刹那は告げる。
「アンタを殺すつもりはない」
 そんなことは毛頭、考えたこともなかった。だが、この男にとっては未だに敵であることが分かって、浮ついた気分が消沈する。
「話を中断させてすまなかった」
「なに、構わんさ。どうせ堂々巡りだ」
 しかし、君に拙い会話を聞かせてしまった、とグラハムが言う。
「新型機の開発情報を漏らしてしまったかな」
 そういえばそんなことも言っていたな。連邦軍の武力についてはベーダから逐一報告があるので別に新しい情報ではなかった。だが、そのテストパイロット候補にグラハムが上がっているのは初めて知った情報だ。
「アンタは、またモビルスーツに乗るのか?」
 思わず問うと、グラハムは挑発的な笑みを浮かべた。
「だとしたらどうする?脅威にならない今のうちに排除するかね」
 二人の間に緊張感が走る。刹那は厳しい表情でいった。
「俺たちは、世界から紛争を根絶するために存在している。それは今も変わらない」
「それはソレスタルビーングの理念だ。君はどう思っているのか?」
「俺は、ソレスタルビーングのガンダムマイスターだ。それが全てで、それ以外はない」
 わざわざ言葉にするまでもないことだが、今の刹那にとってこの言葉が全てではないから、敢えて告げなければならなかった。そうしなければ別の言葉を口にしてしまいそうな自分が怖い。
 するとふっとグラハムが表情を和らげる。
「怖い顔だ……折角の再会なのに、そんな怖い顔では話にもならん。私とて君に会ったら言いたいこともあったんだ……助けてもらった礼をまだ言っていなかった」
「……必要ない。成り行きでそうなっただけだ」
 成り行きか、とグラハムが呟いた。
 そのあとは沈黙がつづいた。グラハムは俯いて組んだ両手を見つめている。時折は横を向いて、ベンチに置いた酒が入った紙袋を弄ってみたりしている。嘘だ。本当は成り行きなんかではなかった。あの島へ治療と称してグラハムを連れて行ったのは、刹那が無理をいってスメラギを説得したからだが、事実を説明するつもりは毛頭ない。真実を告げることなどできなかった。そんなことをしたところで何も変わらないし、変えるつもりもない。そう刹那は自分自身に言い聞かせた。
「ならば何故、こうして私を連れてきたのだ?」
 しかし、グラハムがそんな寂しそうな表情をされると決心が鈍る。期待してしまう。しかし、その表情は一瞬で消えてしまった。すぐにグラハムは顔を上げると、真っ直ぐに背筋を伸ばして立ち上がった。そして右手を額に斜めに当てて敬礼した。何のつもりか、軍を辞めたといながらも、彼の敬礼は一部の隙もない見事なものであった。
「乙女座の幸運に感謝する。このような偶然の出会いがあろうとは、たまには観光もしてみるものだ。」
 敬礼を解いたグラハムが右手を差し出した。
「我々の生きる道は違うが、しかし、私にとってガンダムは、全てを凌駕するほど強大で強烈な、挑むべき敵であって、超えるべき壁だった。今にしてみると思う、君が強大であったゆえに、私は全身全霊を持って挑むことができた」
 
「サヨナラだな、ガンダム」
 
 サヨナラ、か。
 刹那は差し出された手を見た。
 この手を握り返して別れれば、全て元通りになる。
 別れの握手のために差し出された手を、刹那は握り返した。
 しかし、すぐに離さず、そのまま力づくでグラハムを再びベンチに押し戻した。その拍子にがしゃん、と派手な音をたて、酒瓶がベンチから落ちた。その音に周囲の視線が注がれるなか、刹那はグラハムの肩を背もたれに押さえつけていた。手のひらで肩の硬さを感じる。薄い木綿の生地の下から骨格が手に取るように分かる。親指が鎖骨に、中指の先が肩峰の突起に触れた。そしてそのまま、驚愕に薄く開いた唇にを押さえつけるようにして奪った。グラハムの唇は少し乾燥していたが、温かかく、その感触は、それまで刹那が一人で思い描いた記憶をあっというまに凌駕してして頭の中を満たしていく。その温もりの奥を、さらに無理やりにこじ開けて舌を吸う。彼の唾液ごと舌を吸うと甘いねっとりとした味がした。
 名がい口づけに息ぐるしさを感じて漸く唇を離した。すると、グラハムが問いかける。
「一つだけ、答えてほしい……ソレスタル・ビーングともガンダムとも関係ない質問だ」

「私を抱いたのも成り行きか?」

「アンタは……今それを聞くのか?」
 残酷な男だと刹那は思った。暴走しそうな感情を抑えるのに必死な刹那をみて、まだそんなことが言えるなんて。渾身の力を込めて、彼の肩から押し離そうする。しかし筋肉が強張ってしまって上手くいかない。いつもは滑らかに動くはずの上腕筋がまったく機能しなくなっていた。腕だけではない、後ずさろうとしているのに脚も動かない。神経系統が麻痺してしまったのかもしれない。それなのに、手のひらが伝えるグラハムの温もりと、舌に残る彼の味は異常なまでに鮮明だった。
 離したくないのだと気付いてしまう。
 すると、グラハムの左手がするりと動き、刹那の腕に触れた。ぽんぽんと宥めるように軽く叩かれ、金縛りが解けた。
「君はあの島で、私という存在と初めて向き合い、何かを得た。私もそうだ」
 あの島で、刹那は初めて自分の罪について考えた。そしてその犠牲者であるこの男のことを真剣に考えた。だからだろうか、彼の外見の美しさだけではない、内面の強さと脆さに気付いて、そこに惹かれたのだ。圧倒的な性能差を前にしても怯まない勇敢さと無謀さと、紙一重の脆さ。その一途さゆえに歪んでしまった愛情。そんな矛盾した内面を抱えた男に惹かれていることに気付いてしまった。
 黙ったままの刹那の代わりに、饒舌な男が口を開いた。それは刹那の心を深く深く傷つけたけれど、同時に震えるような喜びも与えた。
「君のことを、愛しているのか憎んでいるのか分からなくなった」

++ continued...



2010.12.26