『 ノア・ノア ―こうばしい空 』


§ 1 2 3 4 5 6 7

1


 目覚めてまず最初に感じたものは、甘くそしてどこか苦く息苦しいような強い花の香りだった。

 なぜか瞼が非常に重い。のそりと目を開くと、飛び込んできたのは見たことのない天井で、むき出しの梁と葦のような植物で覆われた屋根が見える。グラハムは数度瞬きするが、目に入るものは変わらずに、花の香りも濃くなるばかりだ。不意に自分が横たわっていることに気付き、起き上がろうと上半身に力を込めると、腹部に鈍い痛みが走り、起き上がれなかった。
「…くっ…」
 内臓がかなりやられていたはずだから仕方がないか…そう思うった途端に自分の状況に対する違和感に思い至った。
 そうだ、私は、ガンダムと戦い、そして負けた。
 疑似GNドライブと武器を破壊され、為すすべなく宇宙に漂っていた自分がなぜ?

 ここはどこだ?

 グラハムは五感に集中し、あたりを見回した。
 部屋には穏やかな陽光が満ちている。窓が開いているらしく、かすかな風を感じてグラハムは風上の方角に頭を向けると、左手に大きな窓が開いていた。ガラスサッシは全開で、白い紗のカーテンがさらさらと風に揺れている。噎せるような甘い香りが鼻腔をついてグラハムは眉を顰めた。香水のような濃厚な香りだ。しかしそこに微かな潮の香りが感じられるから、近くに海があるのかもしれない。窓のすぐ脇に大きく枝を広げた棕櫚の木が生えており、赤っぽく湿った大地に濃い影を落とし、同時にグラハムに直接太陽の光が当たるのを防いでくれている。芝生の生えた狭い空き地の向こうには椰子やシダといった南国の植物たちが生えており、濃い緑の梢に鮮やかな青空が見えた。風があるということはここは地球なのだろうか。そうだとしても、まったく見覚えのない場所だった。アロウズの基地でもなければ、連邦軍の基地でもなさそうだし、ましてや部屋の中には医療器具のは見当たらないので、病院でもなさそうだ。部屋にあるのは今寝ているベッドのほかに、二人掛け程度の四角いテーブルと籐の椅子が二脚と腰丈のサイドボードにスタンドがひとつ、それから白い漆喰の壁を覆う鮮やかな色遣いのタペストリーくらいだった。照明はつけられておらず、窓から入る自然光だけで、少々薄暗いが不便なほどではない。むしろきつい陽光が遮られひんやりと心地よい。
 一体ここはどこだ、どうやって自分は宇宙から地球へ下りたのか?…グラハムは思い出そうとするが、スサノオのコックピットにひとり取り残されたところからまったく記憶がなかった。残り酸素が少なくなって、しかし動くこともできず、このまま誰に知られることもなく宇宙の塵になるのかと、朦朧とし始めた意識の中で考えたことは憶えている。しかし、そのあとのことが全く思い出せない。どうしたことだろう。まさかひとりで地上に戻ってこれるはずもない。ということは、何者かに救助されたはずだが…それにしてもアロウズか軍ならば基地か軍病院に運ばれるはずだ。しかしそのどちらでもないということは…考えれば考えるほど、訳がわからなくなって、グラハムはひとつ長い溜息をついた。
「…考えても埒が明かんか」
 まずは何より現状の確認が先決と、グラハムは痛む身体に鞭をうって上半身を起こした。
すると、パサリ、パサリ。軽い乾いた音を立てて、何かが落ちた。同時に外で人の気配がする。
「ダメダメ、動いちゃ!!」
 甲高い叫び声がして、驚いたグラハムは眼を見開いた。赤いハイビスカスとピンクのブーゲンビリア、南国特有の鮮やかな花々とグリーンが真っ白いシーツの上に散らばっている。そしてこれが原因か…一番多いのが白く肉厚な花弁の中心に黄色の雌蕊が鮮やかな可憐な花、おそらくはクチナシの一種だろう…甘い香りに覚えがあって、グラハムは落ちた一輪を手に取った。どうやらさっきから気になっていた香りの正体はこれだったらしい。しかし、なぜにあたりに花が散らばっているのか、さっぱり分からない。グラハムの混乱をよそに、憤慨したような声が降ってくる。
「あーあ、せっかく綺麗にしたのに」
 右手を見ると、そこには大きな窓が開いており、そこに十歳くらいの少女が立っていた。
 褐色の肌に、飛び色の髪をお下げに結ったかわいらしい少女だ。だが、少女は怒っているらしい、腰に手を当ててグラハムを睨んでいる。

「…君は…?ここはどこだろうか?」
 いろいろと疑問に思うところはあるが、取り合えず、自分の置かれた状況確認が最優先とグラハムは少女に尋ねた。すると少女の後ろから、7歳くらいの少年が顔を出した。
「刹那を呼ばなきゃ!」
 少女の手を引いてどこかへ連れて行こうとするが、彼女のほうが力が強く、少年の手を振り切ってグラハムを見た。窓の木の桟に肘をついて、身を乗り出してくる。
「そうね、でもせっかく刹那に見せようと思って綺麗にしたのに…」
 少女が手を伸ばして、クチナシの花を一輪手に取ると、グラハムの耳に差した。
「とりあえずこれでいいわ、今呼んでくるから動かないで待っていてね」
 少女はグラハムの顔を覗き込み満足げに微笑むと、くるりと踵を返し、少年の手を引いて走り出した。
「おい、待ちたまえ、呼んでくるって誰のことだ?それより、ここはどこなんだ??」
 しかし少女と少年はグラハムの叫びも無視して、弾むように剥き出しのままの大地を踏みしめて、濃い緑の覆うヤシの林の向こうへ消えてしまった。

 何なんだ一体。
 強引な少女に半ば呆れつつ、グラハムは彼女の言葉を反芻する。

 刹那…と言ったか。
 少女が言った名前だ。おそらくは人の名前だろう。その名に引っ掛かるものがあって、グラハムは思い出そうと記憶を探ったが、どうしても思い出せない。
 グラハムはそのままの姿勢で窓の外を眺め続けた。

2

 あっという間に少女が去って、再び静寂が訪れてしまった。

 しばらくぼんやりと外を眺めていたが、目覚めたばかりのせいかどうもまだ身体が重く、意識もはっきりしない。なにか思考に靄がかかったようで、うまく考えられないし、具体的なことが纏まらない。仕方なく再びベッドに横たわると、足の指に糊のきいたシーツの堅い感触が冷たくて気持ちがよかった。思わず足を延ばしてシーツをなでる。こんな風に、しっかりと横になるのはずいぶん久しぶりのような気がする。アロウズでは宿舎があったが、ぐっすり眠れたことなどなかった。いや、この五年間、なかったのかもしれない。こんな風に正体がなくなり記憶があいまいになるほど深い眠りを味わったことはない気がする。ぼんやりと霞む思考が穏やかで気持ちがよくて、グラハムは再びまどろみに落ちていた。

 まどろみながら、グラハムはいろいろなことを考えた。

 戦争のこと、アロウズのこと。
 カタギリやカタギリ司令はどうしたのだろうか。
 グラハムとルイス・ハレビィに特命が下った時には、艦隊はソレスタルビーング討伐の最終作戦の準備中で、カタギリも新しいモビルスーツの整備に掛かりきりだった。何せ数が尋常ではない。数百、いや数千体のまったく同じモビルスーツを一度に建造するのだという。前代未聞だ。ユニオン時代ではフラッグは一度に十数体作るのがやっとだったというのに。カタギリはそれを地球連邦政府の国力、ひいてはアロウズの力、そしてアロウズを陰で操るイノベーターの能力だと誇っていた。恒久平和のための礎となる力だと。グラハムは、自分もアロウズの一員として恒久平和のために尽くすのだと血走った眼で語る、そんな親友の姿に強い違和感を覚えずには居られなかった。
 ユニオンの技術顧問時代のカタギリは、もっと楽しそうにモビルスーツに触れていた。自分の子供をいとおしむようにフラッグのことを考えていた。
 そうだ、ユニオン。
 そしてフラッグ。
 グラハムの愛機。何よりも強く、速くグラハムを空へと運んだ、漆黒の翼。
 フラッグは確かにただの兵器だが、それ以上にグラハムにとっては大切なものをたくさんくれた存在でもあった。
 ともに戦場で戦った、フラッグ・ファイター。
 ハワード、ダリル、ジョシュア、ランディ、スチュアート…オーバーフラッグス。
 グラハムに翼を与えた恩師、エイフマン教授。
 彼らは私に居場所をくれた。
 あそこが私にとって生まれて初めて手に入れた自分だけのホームだった。
 だがそれも今やもうない。
 全てが奪われてしまった。
 戦争に。
 ガンダムに。
 そして、あの少年。
 そういえば彼も、先ほどの少女と同じで褐色の肌をしていた。褐色の肌に、印象的な赤みがかった切れ長の瞳。
 彼はどうしたのだろう。
 ガンダムはどうなったのだろうか。

 ……ガンダム。私は、アレに何を求めていたのだろうか。この五年間、ただひたすらガンダムとパイロットの少年に追いつき彼らを超えることだけを考え、その他の全てを捨てて生きてきた。顔も名前も、フラッグファイターとしての誇りも捨てた。いや、打ち砕かれたともいえる。五年前の戦いで、完膚なきまでに粉砕された自我を再構築しなけらばならなくなった時、残されていたのは戦いたいという純粋な欲求のみで、結局私はモビルスーツに乗り続けた。

 そうだ、私は戦いたかった、とグラハムは思った。

 仲間たちの仇討よりも、復讐よりも何よりも、ただ純粋に戦いたかった。
 ただのバーサーカー、戦闘狂いだ。


 ユニオン時代には戦うことに大義があった。
動機の第一は空を得ることだったとしても、戦闘機の乗ることは国をまもる行為であり、正義があった。そう信じていたからこそ、笑いながら飛んでいたのに。
 いつの間に、自分はあの頃からこんなにも離れてしまったのだろう。
 覚悟のこととはいえ、今更ながらに寂しさがこみ上げて、グラハムは胸の前で膝を抱くようにして横たわった。

 こんな私はもう空を飛ぶ資格などないのだろうな。

 今更、その事実に打ちのめされる自分の弱さをグラハムは呪った。


 しばらくまどろんでいたらしい。
 窓と反対側のドアに人の気配がして、グラハムは振り向いた。
 すると木製のドアの正面に褐色の肌をした痩せた少年が立っている。その顔に見覚えがあってグラハムは驚きで目を瞠った。
「…少年…」
 そこに立っていたのはあのガンダムパイロットの少年だった。
「刹那だ」
 少年はつかつかと大股に近づいてくる。グラハムは呆然と彼を眺める。
 何故、彼がいる?ここはソレスタルビーングの施設なのだろうか?ということは、自分は捕虜になったのだろうか?しかし、その割には、拘束されてもいないし、服装はパイロットスーツではなく、至って普通の白い木綿のシャツとスウェットだった。窓は全開だし、監視もあるようにはみえない。それとも、彼が監視役なのだろうか?しかし、見たところ少年は武器をもっていないようだ。アザディスタンで最初に会った時とよく似た、白い長袖のシャツを身に付けていて、グラハム同様至ってラフな格好だ。赤銅色の瞳で真っ直ぐ見つめられたグラハムは、混乱した。一体何があったというのか。みたところ少年は武器を携行している様子もなく、パイロットスーツでも無い。至って普通の、ごくありふれた中東系の少年に見えた…いや、もう青年と呼ぶ方が相応しいのかもしれないが…。そんなことより此処はどこで、私は一体どうしたというのだ。乙女座の私をこれほど混乱させるとは、さすがは我が宿敵と言わせてもらおう…などとグラハムが纏まらない思考を悪戯に持て余していると、彼がベッドのすぐ傍までやってきた。腕を伸ばせば手が触れる距離に、緊張が高まった。
「痛みはあるか?」
 探るような視線に舐めまわすように全身を見分され、全身が緊張する。
「…特にないが…」
 グラハムが否定すると、少年は納得したのか、傍らにあった椅子に腰かけた。ともかく、ここで不安など見せたら負けだ。グラハムは少年の行動を怪訝に思いながらも、きつい視線を投げかけた。
「尋問でも始めるのか?」
 少年はテーブルに置いた紙袋から、オレンジや星の形をした黄色のものなど、数種類のフルーツを取り出すと、グラハムに差し出した。
「これを食え」
 フルーツの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐるが、それより何より、あまりに唐突な行動に驚きすら忘れて、グラハムは思わすオレンジを手に取ってしまった。
それはごくありふれたオレンジで、冷たさとしっかりとした重さが手のひらに広がる。思わず喉が鳴った。そういえば一体どのくらい物を口にしていないのだろう、そう思うと手の中のそれは余計重みを増したような気がする。オレンジに毒とは聞いたことがないが…しかし、すぐにでも齧り付きたかったが、寸でのところところで自重する。
「不要だ」
 見てくれは普通のオレンジのようだが、そう油断させておいて、どんな仕掛けがあるとも分からない。それになにより、何の抵抗もなく素直に敵から施しを受けるのは癪に障った。突き返すと、少年の切れ長の目に鋭さが増した。
「食べろ」
 突き返されてもグラハムは頑として受け取らなかった。
 無駄な意地だということは百も承知だ。だが、意味はなくとも譲れないことはある。というより私の気が収まらぬ。負けるものかと、グラハムは緑色の目を燃え立たせて、相手を睨んだ。
「不要だと言った、私は敵から施しなど受けん」
 すると刹那と名乗った男は、グラハムをまっすぐに見返して言った。

「生きるために、お前は食べなければならない」

 揺るぎ視線に射ぬかれてグラハムは彼の手の中のオレンジを見やった。投げかけられた言葉は、低く重くグラハムの耳に響いた。少年の褐色の手の中で、オレンジが艶やかに輝きを増していく。
 思わず喉が鳴った。唾液を呑みこむと、グラハムは喉の渇きを自覚した。
 確かに、自分は今喉が渇き腹が減っている。 それは実に単純な事実だった。
 グラハムは一度大きく息を吸った。
 すると動かないグラハムにしびれを切らしたのか、細い指がオレンジの皮に食い込み、するすると皮を剥き始めた。露わになる果肉は血のように赤く、同じ色の果汁が指を伝い落ちていく。そしてグラハムの目の前に血の色をした半月形の一房が差し出された。
 思わずグラハムはオレンジの一切れを口に含んでしまった。口に含むともう止められない。歯で噛みちぎると口中に果汁が迸り、甘みと目の覚めるような強い酸味が鼻に抜けた。それはすぐさま喉に落ち、身体の隅々に行きわたった。
 含んでから、しまったと後悔した。
 赤い果肉の先には、刹那の骨ばった細い指がある。今は赤い果汁にぬれて、てらてらとまるでそれ一個で別の生き物であるかのように。果汁の強い酸味と甘みに味覚が支配されていく。今なら、彼の指も甘いだろう。
 そう思って、グラハムは瞳を細めた。
「刹那だ。俺の名前は刹那・F・セイエイ。少年と呼ぶのはやめろ、グラハム・エーカー」

「…せつな」

 彼の名が、甘みと共に沁み込んでいく。同時に、言いようのない苦みが舌に広がり、グラハムは言葉を呑んだ。

3

「私の名を憶えていたのか?」

 積み重なっていく沈黙に、グラハムはそっと目を伏せた。少し痩せて隈の残る下瞼に金色の長い睫毛が影を落としている。南国の陽射しは直線的だ。天上からまっすぐに降り注ぎ小さい影を作る。しかし小さな小屋の中までは、外の木陰に遮られ、暴力的な陽射しも入ってこない。あるのは、ゆらゆらと揺れる白い紗のカーテンからこぼれる、薄ぼんやりした光だけ。誰がカーテンを閉めたのだろうか?ふとどうでもいいことが気になって、グラハムは刹那を見た。
「ここはどこだ?」
 刹那は一瞬難しそうに眉をひそめたが、すぐに元の無表情に戻る。
「地球にあるソレスタルビーングの医療施設だ」
 一瞬、驚きで固まったグラハムだったが、じきに立ち直って尋ねた。
「なぜ、私はソレスタルビーングの施設にいるのだ?」
 刹那が頷いた。
「宇宙で漂流していたところを救助した。酸欠で意識がなかったし、他にも怪我がありそうだった。だからひとまずトレミーからここへ下した。俺の治療のためでもある」
 グラハムは自分の身体を見下ろすが、確かにあの戦いで負った傷、僅かな打撲と肋骨の骨折はほぼ治っているように感じた。起き上がる時に腹部に引きつるような痛みが残っているくらいだ。どれほど時間が経ったか知らないが、つまり気絶していたグラハムを救助したまま、治療カプセルに入れたということだろうか。
 アロウズにとっては、あの戦いは総力戦だった。ソレスタルビーングにとってもそうだと思っていたのだが、しかし。
「…このような施設がまだ機能しているということは…戦争は君たちが勝利したということか?」

 しばしの沈黙のあと、刹那は言った。
「お前のいう勝利が何を指すのか分からない」
「戦争はどうなったのだ?」
「連邦軍の中から反アロウズ勢力がクーデターを起こしてカタロンと手を組んだ。お前と戦った直後だ、俺たちはカタロンと連邦軍の艦隊と連携してアロウズと戦った」
「ではアロウズは…」

「まもなく解体されるだろう」

 刹那の言葉がすとんと胸の中に落ちていく。自分が所属していた組織の敗北を聞いても、怒りも悲しみも湧かなくて、グラハムは驚いた。
 確かに、前からこうなる予感はあった。
 急造で、最初から無理があった組織だ。内部にいたグラハムにもアロウズの組織としての歪みはひしひしと感じられていた。しかし、気になることもあった。
「カタギリ司令はどうされている?」
「詳しくは知らないが、裁判に掛けるために軍に拘束されているらしい」

「…そうか」

 彼はグラハムにとっては恩人だ。行き場のないグラハムの願いを聞き届け、戦う場所を与えてくれた。それがどんなに馬鹿げた振る舞いだとしても、あの人は批判はしなかった。それはグラハムが優秀なパイロットだったことが最大の理由だろう。戦力になるから、ライセンスを与え、ガンダムだけと戦いたいというわがままも許した。しかし今になって思うのだが、彼はそうやって自分を守ってくれていたのではないか。勝手を黙認することで、グラハムを意に沿わぬ虐殺から遠ざけてくれたと考えられるのではないか?グラハムにとって、ホーマー・カタギリとは、決して揺るがず、変わらずに立ちはだかる、巌のように堅く厚い、壁のような男だった。グラハムが迷っているときに、手を差し伸べるのではなく、ただ目の前に立ちはだかることで、居場所を与えてくれた。そんな彼に、いつしかグラハムは父親像を重ねていたのかもしれない。
スレーチャー少佐、父親とは彼のように、憧れの対象であり、進むべき道を示し、標となる存在だと思っていた。だがカタギリ司令の厳格で近寄りがたい姿もまた、同等に大きな存在になっていた。

 こうなった以上、彼はもう生きてはいないだろ。グラハムには分かる。彼はそういう覚悟で戦っていた。
 そしてそれを止める資格は自分にはない。

「なぜ私を助けた?」
 では、自分はどうだろうか。こうして再び負けたというのに、命拾いをしてしまった。
「それは何故俺がということか?」

「助けた理由を訊いている」

 しばしの沈黙の後、刹那は重い口を開いた。
「わからない」
 勝手に助けておいて、無責任なことをいう、とグラハムは思った。
 殺してくれとは言わない。ただ放っておくだけでいいのに。しかし、それも叶わなかった今、グラハムには何を考えていいのかも分からない。生きる意味など分かるはずもない。


 刹那に背を向けるように寝返りうつグラハムの金髪に刹那の手が伸びてきた。
「花が」
 細い指が、グラハムの金髪に絡まったまま押しつぶされてしまったブーゲンビリアの赤紫の花を掴んだ。
 グラハムは投げやりに答えた。
「…ああ、女の子の悪戯さ」
 すると刹那は耳を疑うような言葉が返ってきた。
「きれいなのに」
 幻聴か?しかし、刹那はいたって平然とした様子で、手の中の花をもてあそんでいる。ああ、そうか今の言葉は花に対しての賛辞なのだな、それなら分かる。しかし、さらに予想だにしない言葉が聞こえた気がして、グラハムは刹那をみた。
「お前の髪の色によく映える」
「……??」
 すると剥き出しだった右耳に堅い指先が触れて、右の耳に新しい花をかける。視界の端に青い色が映るので、今度は青い花のようだ。

 なんだろう、この空気は…微かに耳元に指が触れて鳥肌が立ってしまった。すると少年の指の動きが止まる、緊張したのがばれたのか?グラハムは何となくいたたまれずに、身体を寝返りを打つことで彼の指を振り払い、とりあえず会話を続けることにした。
「私をどうするつもりだ?」
 すると背中に、やや不機嫌そうな声が投げつけられた。
「さっきから質問ばかりだな」
 当然だ、とグラハムは内心で叫んだ。がすんでのところで大声は呑みこむ。今ここで冷静さを欠くのは得策ではない。ともかく落ち着くことだと自分に言い聞かせ、胸の前でぎゅっと拳を握り締めていった。
「宇宙で漂流していたはずが気がつけば地上にいるんだ、疑問を持たないほうがおかしい。それに言わせてもらえば相手は君でなくても構わない。だが、目が覚めてから出会った人間の中で少しでも事情に通じていそうなのは君くらいなものでね。まぁいいさ、捕まったからには大人しくするに限る。君が捕虜の扱いを熟知しているといいのだがね。もっとも守る意思があるのかどうかわからんが。常識ある行動を望むよ。」
 いささか皮肉を込めた物言いにも、刹那は顔色一つ変えないで、言った。
「お前は捕虜ではない」

「では一体何だと…?」
 グラハムは思わず振り返った。すると、すぐ目の前に刹那の顔が迫っていて、赤銅色の双眸が炯々と光り、グラハムを射る。

「知りたいんだ、お前のことが」

4

 さくさく、さくさく。

 気まぐれに寄せてくる白い波をよけるともなく、素足がそれに負けぬほど白い砂に足跡を残していく。

 砂浜を裸足で歩くのは気持ちがいい。きゅっきゅと指の間でなる砂の感触を確かめながら、グラハムはゆっくりと歩いていた。さほど広いビーチではないが、人気のない白い砂浜は静かだ。前方で左側にカーブしているため、この砂浜があとどれだけ続いているのか分からない。椰子の梢の向こに見える飛び出した岬まで行ったとしてもほんの数キロしかないだろう。この島は歩いても数日あれば一周できてしまう程度しかない小さなサンゴ礁の島だった。遠浅の海と環礁、むき出しの太陽、抜けるような青空と宝石のように透明な海があり、風は穏やかで、まさしく南国の楽園とはこのことだろうと思われた。グラハムが意識を取り戻して今日で三日がたったが、その間に知ったことは、この島はなんの変哲のない文明から取り残されたような孤島だが、その実は地下にソレスタルビーングの医療施設であるということだ。ここには常駐の医師と最新の治療カプセルもあり、なまじっかな病院よりも設備が整っていた。グラハムも当初は地下の治療カプセルに入っていたらしい。長いこと意識が戻らなかったのはそのせいだ。おかげさまで、長時間宇宙で漂流していた後でも遺症は全くなかった。それだけは感謝しなけらばならない。しかしそれにしても、いまだに世間に知られずこれだけの施設が維持できるとは、ソレスタルビーングの組織力が想像以上に強大だということだ。
 もっとも、そうでなければ、ガンダムや輸送艦を建造するだけの資金は捻出できないだろうし、世界を相手に武力行使に出るなど不可能だろうが。
 こんなことを敵である自分に見せつけてどうしようというのだ…確かにモビルスーツもない今のグラハムなど、彼らにしてみれば脅威ではない。いつだって始末できる。

 グラハムはため息をついて、振り返った。
すると、十メートルほど後方を歩いていた少年、いや青年か、と目が会った。

「いい加減についてくるのはやめたまえ」

 すると刹那も立ち止まる。

「どこに行くつもりだ」
「どこへも行けんことくらい分かっているだろう」
 別にどこかへ行きたいわけではない。
 ただ、別に部屋を出るなと言われたわけでもないし、拘束されているわけでもないから、問題はないはずだ。問題があるなら力づくで押さえつければいい。彼ならそれができるし、いまのグラハムにはそれを拒めない。それはそうだ、食事すら彼らから与えられている状態で、グラハムに何の不満がいえよう。ここでの待遇は悪くない。むしろ良すぎるくらいだ。小さな独立したコテージ風の建物を与えられ自由に使うことができるし、食事はテフラ(グラハムが目を覚ました時窓の外にいた少女のことだ)の家族が届けてくれた。彼らはごく素朴な風貌をして、毎日裏庭で育てたヤム芋とテフラの父親が海で獲った魚と、母親が山で獲った果物を食べている。グラハムにもそうした新鮮で栄養価の高い食事を用意してくれていた。しかしどこまで知っているのか分からないが、あの素朴で善良な家族がソレスタルビーングの一員だというのは、少し、いやかなりショックな出来事だった。
これは捕虜としては破格の扱いといえるだろう。グラハムには携帯端末の類は与えられないし、部屋にはテレビもネットにつながる端末もないため、外の世界の情報は全く耳に入らない。今いったい世界はどうなっているのか。アロウズはどうなったのか。…カタギリ司令は。気になるがどうしようもなかった。確かに外を出歩く自由は与えられているが、島の外へ出ることはできない。特に禁止されたわけではないが、この島には、大きな港もなければ定期船もない。あるのはテフラの父が漁に使うようなボートだけだ。そんな動力もない舟で航海するなどグラハムには不可能だ。よしんば、ボートを操る技術を持つ漁師を捕まえて、船を出させたとしてもここがどこだか分からなければどこへ行けばいいかも分からない

 つまりは拘束などしなくても、逃げられないのだ。だからこその自由なのかもしれないが。

「何故歩く?」
 グラハムの歩く速度に合わせて、彼も数歩の距離を保ってついてくる。
「気分転換の散歩もできんのか」
 キツイ口調で言い捨てると、大股で歩く速度を速める。が刹那はやはりついてきた。他にすることもなし、散歩ぐらい自由にさせてくれ!鬱屈と溜まった苛立ちが一気に噴出しそうで、思わずグラハムは立ち止まってしまった。するとすぐ後ろから刹那の声が聞こえた。
「…お前」

 振り返ると、赤い目がすぐそばにあってのぞきこまれ、腕を掴まれて懐に入られる。赤い目にまっすぐに見つめられ、立ち止まったことを後悔するが、もう遅い。大体、何故振り返ったのか我ながら理解不能だ、そう一人ごちたグラハムだったが、刹那の右手が上がって、思わず肩を竦めてしまう。

「…近づくな!私は、一人で歩きたいんだ!」

 一瞬、殴られる、と思って思わず目を閉じてしまった。しかし痛みは一向にやってこなかった。代わりに恐る恐るという感じに頬に触れるものがある。眼をあけると、それは刹那の指だった。

「今日は、花をつけていないんだな」
 グラハムは頬に血が上って熱くなる。
「…あ、アレは、テフラの悪戯だとっ…」
 そうなのだ、白いクチナシや赤いハイビスカスなど、あれから事あるごとにテフラから花を贈られる。そして手ずから耳に差される。食事の世話になっているため無碍に無できず(つけていないと不機嫌になるのだ)、ここ数日間グラハムの右耳にはいつもなにがしかの花が刺さっていた。

 ……見られていたとは……グラハムは暗澹とした気持ちになった。常に彼の視線を感じる。それでいて近づいて話しかけようとはしない刹那に、ついにグラハムの堪忍袋の緒が切れた。良く持ったほうだと言えよう。
「君は私のことを“知りたい”といった…これはその続きなのか?」
 しばし沈黙した後、刹那は答えた。
「ああ、そうだ」
「捕虜の監視が君の役目か?」
「お前は捕虜ではない」
「では、何故殺さんのだ?!……君は、無責任だ。私から、生きる意義を奪っておいて、最期になって“生きろ”などという。そんな情けはいい迷惑だ……どうせなら、ひと思いに楽に死なせてくれればいいものを――」

 パン、と乾いた音が骨に響いて、視界がぐらつく。
 今度こそ、本当に頬に鋭い痛みが走る。
 殴られた、と気づいたのは数秒後のことだった。

5

 生温い海水がゆらゆらと踝を洗う感触が心地よくてグラハムはうっすらと微笑んだ。頭上にはビロードのように艶やかな漆黒に、宝石のように煌めく星が散らばって、都会の夜景を逆さまにして空に映したようだった。その中心に星々を圧倒する明るさで輝く銀色の月があって、冷たい白い光を化石が砕けた砂粒が反射する。海面にも映り、ゆらゆらと波打つ水がグラハムの踵までを呑みこんで、引いていく。また、強すぎる太陽光線にかき消えていた自然の細部、椰子の木の樹皮の毛羽立ちや、砂浜に散らばる螺旋状の貝殻の刺などが、満月の光に浮かび上がって見えた。
 銀色の月の光に照らし出された海面は、さざ波が鈍い銀色に輝くだけであとは漆黒の闇の中だ。吸い込まれそうに暗い海を前にしてグラハムはただ棒のように立っていた。お盆のような満月が海面に映る。今夜は満月だった。月が明るすぎるため星の数は比較的少ないようだ。エメラルドグリーンの海とセルリアンブルーの空、パールのように輝く白雲、椰子のグリーン、美しく輝いていた風景が、強烈な光彩から解放されて本来の冷たい硬質さを顕わにする。闇に塗られて黒くくすむ。

 今日、刹那に殴られた。
 といっても、軽く頬を張られただけで、今はもう痛みも腫れもない。だがグラハムの脳裏には自分を殴った顔がくっきりと焼き付いてしまっていた。きつく眉をひそめて、目をそらす。引き結ばれた唇がそれ以上言葉を発することはなかったが、耐えるような表情に、頬の痛み以上に何故だか彼のほうが痛そうに見えた。
 何故、彼は自分のような敗者を構うのか。グラハムには理解できない。

 寄せては返す波のように、または砂に書いた文字のように。
 グラハムという存在はほんの一時この地上に在ることを許されただけの、泡沫のようなものだ。だからこそせめて存在するうちは精いっぱい生きたいと願っていた。幼いころから与えられることが少なかったから、欲しいものは自分の力で手に入れる、そうやってグラハムは生きていたのだ。勝つために。勝ち取るために。それがどうだろう、そうやって身を削る努力の果てに手に入れた大切なものは、ガンダムの武力介入で消えてなくなり、そのガンダムすら今は活動休止している。刹那がこんな島で療養しているのがよい証拠だ。
こうやって時は怒涛の速さで過ぎゆくというのに、グラハムだけはいまだに取り残されたままだ。どこへ行けばいいのか、どこへ行きたいのか。家も故郷もないグラハムにはこういうときに帰る場所がない。

 グラハムは昼間と同じビーチを同じように裸足で歩いていた。しかし焼けつく太陽光線が消えた夜、火傷しそうに熱かった砂が今は冷たい。錯覚だろうが、微温湯のようだった海水が心なしか冷たく感じて、気持ちが良かった。足だけでは物足りず履いていた白いズボンの裾を膝まで捲って、ざぶざぶと沖へ向かって歩いた。遠浅の浜は歩いても歩いても水深があまり変わらない。気がつくと砂浜から十メートルほど沖へ来ていた。昼間の海は明るすぎて近寄りがたい感じがしたが、今は昼間の強烈さが嘘のように静寂が支配している。昼の太陽が生の象徴であるならば、夜の月は死の世界の象徴だ。冷たく暗く、不安を掻き立てられる。しかしグラハムは昼の海より今のほうが好ましく感じていた。
あまりに鮮やか過ぎる風景は却って不快だ。
 立ち位置すら定かではない今の自分には、完璧に美しい風景の目に突き刺さるような輝きを浴びると目眩がする。夜の闇は美しいものをすべて覆い隠して皆一様に暗く闇に沈めてくれた。だから、疲れた神経に無言で寄り添うような暗闇に、グラハムはようやく楽に息ができる気がする。深く吸い込んだ空気が甘い。

 無意識に緊張していたのだろうか。この私が?グラハムは自嘲気味に笑った。
 穏やかで戦いの影もない、平和なこの島で、自分だけが一人異質だと感じる。長寛な島の雰囲気に馴染めないのはやはり軍人の性だろうか。それとも、修羅に落ちた名残か。今だに自分の置かれた状況が理解しきれていないからか。その両方か、それ以外の何かか。
考えようとするが、答えは全く浮かんでこなかった。
 不意に、カタギリ司令のもとで行った滝行を思い出す。身を切るように冷たい水に打たれると、身体から憎しみや欲、執着といった負の感情が洗い流されるようだった。何か透明な、水に近いものになりたいとその時思った。何者にも惑わされず、意志も捨て、憎しみも捨て、ただ流れに任せて下って落ちる。力強い一筋の川になる。それこそが無我の境地というものではないだろうか。しかし結局、私はそんなものにはなれなかった、とグラハムは思った。戦場に流れる川は、失われる命、血と泥を吸って、赤黒く濁っていくだけだ。
不意に悟る。この海は、あの滝の水と繋がっているのだ。私が流したと思った雑念はすべて、結局はこうしてわが身に返ってくる。ならばいっそ、この身ごと、海に返してしまおうか。
 ぼんやりとしていると潮が満ちてきたのか、先ほどまでアキレス腱を覆うぐらいだった海水が膝の近くまで来ている。それでも再びグラハムは月へ向かって歩き始めた。ざあざあと足元に寄せてくる波に逆らい、大股で歩く。とその時、右足指の付け根あたりに鋭い痛みが走って、グラハムは眉を顰めた。どうやら堅い貝殻の欠片でも踏んでしまったらしい。傷に海水が沁み込みじくじく痛む。立ち止まって足の裏を覗くと、赤い血が細い一筋となる。思いのほか深く切っているらしい、溢れた血は止まることなく足を伝って海面に落ちた。透明な水面に黒い斑点がひとつ、続いてひとつ、またひとつと黒い点が次々に落ちては消えていく。不意に脱力感がグラハムを襲う。ぺたりと尻もちをついて、足を掲げた。傷は足の裏、親指の付け根から中指にかけてぱっくりと裂けている。左手でこすると血は止まるが、濡れているためすぐにまた滲んできて、きりがない。満月に血が付いた左手を翳すと、静寂を割いて鋭い声がグラハムを呼んだ。

「グラハム・エーカー!」

 岸辺から名を呼ばれた。しかしグラハムは振り向かなかった。またつけていたのだろうか、まったくご苦労なことだ。
 叩きつけるような水音を立て、声の主が走ってくる。
「…お前はっ…」
 また叩かれるだろうか?グラハムは立ちはだかった青年を見上げた。その瞳は常の彼とは違う、金色の強い光を放ちグラハムを射る。刹那は右手を挙げている。しかし、今度は叩かれなかった。その代わり倒れるように崩れた手が、肩に回って、背中をきつく抱きしめられた。
「死にたいのか?」
 投げかけられた直截な言葉にグラハムは首を傾げる。
「生きるために戦えと君は言った。しかし私はその意味が分からない。君は未来のために戦うと言った。だが、私にはその言葉が雲をつかむようにぼんやりとしか聞こえない。」
 未来とは積み重なった過去の連なりの先にある。だとしたら、一度過去を捨て去った自分はどうすればいいのか。まったくゼロから始めればいいのか?しかしそうするには、私はたぶん生き過ぎた。
 大切なものが多すぎる。

 グラハムにとって戦うことが生きることだ。
 そのために、過去も信念も誇りも捨ててきたというのに。彼の言葉はそのすべてを否定する。

「戦いの間は、君をとても身近に感じた。だが今は、とても遠いよ」

 刹那の腕の力が強くなって、彼の胸に顔を押し付けられる。高い体温にあおられて彼の匂いがした。

6

 頬を刹那の白い木綿のシャツに押し付けられるようにして、背中をきつく抱きしめられた。息苦しいほどの力に、抵抗しようと腕をまわして刹那の背中を強く叩くが、刹那は微動だにしなかった。手のひらの行き場がなくなって、グラハムはしょうがなく彼の背中に、宥めるように、浮き上がった肩甲骨の間に手を置いた。
 簡単に両腕が一周してしまう、細い体。まだ出来上がっていない、しなやかな筋肉の手触り。これがガンダムのパイロットなのだ、この手のうちにガンダムのパイロットがいる。目をあげれば片手で覆えそうなほど細い首が見える。あそこに手をやって握りつぶせば、ガンダムのパイロットを殺すことができる。それはとても簡単に思えた。
 しかし、それでガンダムに勝ったといえるのか。
 この胸の内の空白を埋めることができるのか。

 顔をあげると彼の肩越しに、円い月が見えた。思えば、つい数日前まで、私たちは今よりずっと月の近くにいたのだ、この地上を離れて。触れようと思えば触れられるほどに。

「お前の髪、月の光で光っている」
 そっと頭上に手を置かれる。やさしく髪を撫でられてグラハムは眼を瞑った。
 もう片方の手が、背骨の突起をたどり、背中の輪郭を確かめていく。
「こんな細い身体で、よくあのフラッグに耐えられたな」
 驚きで、目を見開いた。
「…君の口から、フラッグの名を聞こうとはな…」
「追い払っても、追い払ってもまた向かってくる…あんなしつこい機体は他になかった」
「君も堪えていたのか?…私のアプローチも無駄ではなかったということだな、光栄だよ、ガンダムのパイロット」
「刹那だ」
 ぱちりと音のしそうな勢いでグラハムが瞬いた。
 刹那は大変不機嫌そうな表情だ。どうやら、彼なりに名前にこだわりがあるらしい。
「すまない、つい癖でな」
 なにせ、名前を知らないままに追いかけていた時間が長かったから、グラハムの身体には「少年」イコール「ガンダムのパイロット」という図式が刷り込まれているらしい。不思議に思ってグラハムは聞いた。
「ずっと、君の名を知りたかったんだがね」
 顔をあげて微笑む。
「俺も、知ってほしかった」

「だから、お前が治療カプセルの入っている間、俺は傍らで待ちながら、何度も告げた」
 意外な告白に、グラハムは眼を瞠った。
「…なんと…!」
 自分が入った治療カプセルの傍らにたたずむ刹那を想像して、思わず顔が熱くなった。……なんだかとても居た堪れない。
「……それではまるで、君が私を待ち望んでいたように聞こえるぞ……」
 思わず感想を口にしてしまったが、改めてあり得ないと思った。まったくもってあり得ない。しかし、さらに驚くべきことが起こった。刹那が不意に顔をそらした。すると、顕わになった耳が微かに赤い。
「………なんと………!?」
 素っ頓狂な声をあげて、グラハムはのけぞった。
 刹那の腕から力が抜ける。しかしグラハムは離れようとはしなかった。というより、気付かなかった。

「…俺は、ただ…」
 刹那が言った。

「お前の世界を歪めた責任が俺にはあると思ったから」

 なんと、不器用な生き方をするのだろうと、グラハムは思った。
 敵の心情を慮っていては戦えない。軍人として戦場に立つ以上、ある程度己の感情は殺して任務に忠実にあるべきだ。それが自分の心を守るすべだと知っているから、グラハムは敵に対して必要以上の関心は持たない。しかしガンダムは別だった。ガンダムはあまりに謎で、そして強すぎたから、罪悪感など入る余地もなく、ただ我武者羅に向かっていくだけで良かった。だからこそグラハムは行き過ぎた熱情をおしみなく傾けることができた。戦意を高揚させ、立ち向かう恐怖を拭い去るために有用だったからできたのだ。しかし今、彼は敵であるグラハムの心を汲もうとしている。グラハムの受けた傷を思いやろうとしている。馬鹿なことだ。そんなことしていては、己が傷つくだけだというのに。それでも彼はグラハムを見る。まっすぐで、ゆるぎない太陽のような瞳だ。
「あの最後の戦闘で、お前の声を聞いて、俺は……ようやく分かった。俺たちの戦いが齎した犠牲を。頭では理解しているつもりだった。理解したうえで、それでも戦争を無くせば俺たちのように辛い思いをする人間が減るのだから、止むを得ない犠牲だとと思っていた。だが現実にお前がぶつけてきた憎しみは、とても馴染みのあるもので、…お前の痛みは自分が昔受けた痛みと同じだったんだ。」
 決して大きくはないが、不思議と良く通る声で、刹那は淡々と言葉を区切りながら話し続けた。その声は砂浜に寄せては返す波のように、グラハムの乾いた砂地に沁みとおりえぐり取っていく。
「自分と同じ悲劇を繰り返していただけだったのかもしれないと、……考えたら、怖くなった」
 恐ろしいのは自分のほうだ。
 戦慄が駆け巡る。指先が冷たくなっていく。
「刹那…」

「俺を恨んでいるんだな、グラハム・エーカー」
 グラハムはうなづいた。実際は、燃えるような復讐心は消えて燃え滓だけが凝り固まった冷たい塊が残っているだけだ。それはもう自分の核となっていてきっともう一生消えることはないだろう。
「君たちが変えた世界の中で、私は、軍人としての矜持を持ち、国を守る任務に忠実にあろうとした。その思いに仲間たちは応えてくれたよ。自由に空を飛べる翼と仲間を得て、私は幸せだった。君たちが破壊した基地は私の家で、君たちが殺したパイロットが私の家族だったんだ」
「だから宿敵なのか?」
「そうだともいえるが、全てではない」
「何故だ?」
「そんなことを知ってどうする?」
 無意味なことだ。知り合ったところで、私たちはもうさんざんに傷つけあったのだから。
「俺は、お前のことが知りたい。モビルスーツのパイロットとしてだけでなく、生身のお前を。この島で直に触れてそう思った。触れれば触れるほど、強くなるこの思いがなんなのか」

「もっと近づくには、どうすればいい?」

 咄嗟に言葉が出てこない。
「それは……」
 ひとつの答えを思いついたが、口に出さず、心の中で打ち消した。
 しかし、刹那はさらに近づいてくる。今やもう鼻と鼻が触れあうほどの距離しかない。近すぎて焦点を結ばない視界に、月が映りこんだのだろうか、彼の瞳が金色に光る。

「あ、足が痛いのだが…」
 そう言って、グラハムは身を起こした。嘘ではない、嘘ではないが、正直なところ、あまりに予想外の展開に痛みなど今まで忘れていた。思いだすと血が止まらない切り傷に海水が染みて、鋭い痛みが走った。思わず、息を詰める。すると刹那はすっと瞳を細めて、おもむろにグラハムの足首を取って持ち上げた。
「切ったのか?」
 持ち上げると、傷口が黒く盛り上がり、たらたらと血液が混じった海水が一筋流れ落ちていく。それをみた刹那はおもむろに、傷口に顔を近づけた。
「ちょ…、まちたまえ、少年!」
 ざらざらと濡れた舌が傷口をなぞる感触に、肌が泡立ち、グラハムは焦った。
「少年じゃない、刹那だ」
 幾度目かの、同じ訂正を入れても、刹那は傷を舐めることを止めない。慌てたグラハムが、足をばたつかせて抵抗するが、華奢な外見を裏切り刹那の力は驚くほど強く、振り払うことができない。それどころか、まるで流れ落ちる血液全てを舐め取ろうとするように、舌の全面を使って踵から指先までを舐められる。しまいには唇を当てて強く吸われた。
「ひっ…そ、んなところ、汚いから駄目だ…砂がつくし雑菌がいるっ」
「構わない」
「私が、構うと言った!!」
 しかし刹那の行為はやまないどころか徐々にエスカレートして、ついには傷とは関係ない親指をパクリと含んで、甘噛されてしまった。ぬめる咥内に指を含まれ、グラハムの背筋に何とも言えない震えが走り、全身が強張る。
「気持ちいいのか?」
「いい訳がなかろう」
 そうか、と彼は呟いた。相変わらず、彼の瞳は金色だ。複雑な光彩の模様に合わせて、ゆらゆら揺れる。
「顔が赤いぞ」
 グラハムはその色が、最後の戦闘で投げ込まれた信じがたい世界、彼が言うGN粒子の濃い場所でみた彼の瞳と同じ色だと気がついた。
「…放してくれ」
 足首から彼の熱が流れ込む。勢いよく足を持ち上げられたせいで尻もちをついてしまった下半身は、海水に埋まり、徐々に熱を奪われていく。冷えていく身体と相反して、刹那に握りこまれた足首だけが熱を帯びていた。口に含まれた親指の爪と肉の間の敏感なところを舌が割り込んでいく。

「……止めてくれ、痛い……」
泣きごとのような弱々しい声が出てしまう。
すると刹那がうっそりと笑った。
「ひとつだけ分かった、グラハム・エーカー」
 何を、と問い返す間もなく、刹那の腕がグラハムの脇腹に回されたかと思うと、あっという間に彼の肩に担ぎあげられてしまう。宙に浮いた両足をばたつかせて、グラハムが叫んだ。
「何をする!」

「俺は、お前に触れたい」


 それは、飛躍しすぎだぞ、少年…!何が何やら分からないうちに、刹那はどんどんと歩を進めていく。宙ぶらりんになった身体は碌な抵抗もできず、気がつくとすぐそこに、グラハムのコテージがあった。

 月はもう遥か海の向こうへ落ちていた。

7



 満月の下を潜り抜け、コテージへ戻る道を歩む。その間、二人は一言も交わさなかったが、手はつないだままだった。刹那に手を引かれ、真っ暗なビーチを抜け椰子の林を抜ける小道を歩いた。その道程はすでに何度も往復したため細部まで熟知しており、暗闇で何も見えなくても、グラハムは迷うことも躓くこともなく歩ける自信があった。しかも今は月夜だ。月影が灰色の砂地に椰子の木陰を映し出す。だから手など引かれる必要はないのに。

 にもかかわらず、うっすらと汗ばんでいる手のひらをグラハムは振りほどかなかった。
否、ほどけなかった。
 湿った土の匂いに混じりかすかに漂う放熱した汗の匂いに、引きずられて己の体温も上昇していく。この感覚は嫌いではない。絶対的な相手に翻弄されるのは脅威ではない。抗うのは快感だ。空を飛ぶことも、ガンダムに挑むことも、普通では困難だからこそ挑むことに快感を覚えたのだ。今ではすっかり何もなくなってしまった熱く燃え上がる気持ち、懐かしくもある感覚を彼の手は炙り出す。

 コテージに着くと、明かりもつけず、二人は寝室へ入った。

 すると、肩に熱い手がかかった。刹那の手だ。前を向くと、暗闇のなかで赤茶色の瞳が金色に光っている。まるで月を映したようなその瞳から目がそらせない。いや、そうではない。捕えられているのだろうか。離したくても離せない。
 此処で最初に目を覚ました時、この手からオレンジを食べた。期せずして口に含んだ指先は細く、円く切りそろえられた爪は柔らかかった。

「オレンジが食べたい」
 急に食べたくなって、グラハムは思い起こすが、そういえばテーブルにオレンジがあったなと思いだして取りに行こうと立ち上がろうとすると、待っていろとばかりに肩を押さえつけられた。暗闇の中、刹那の剥き出しの肩が濡れて薄く光っている。私は一体いつまでこうしていればいいのだろうか?分からなくなる。あの子供のような青年はきっと、多くの痛みを知っている。それでも未来の希望を捨てていない、彼の瞳の強いひかりはその決意を顕わしていた。なら、自分は?悲しみに浸ることもできず、かといって忘れることもできず、宙ぶらりんで情けない。どうしたらいいのかも分からなくて、ただぼんやりと与えられた感覚を享受する。この島に来てから、少なくともグラハムは軍人ではなかった。だから何もすることがない。あれほど焦がれて求めた空も、青々と宝石のように輝きながら手を伸ばせば届きそうなほど、鮮やかで近くにあるのに、飛びたいという気持ちだけが無い。

 いくらもせずに、刹那が戻ってきて、グラハムの隣に腰を下ろす。その手には、円いオレンジが握られていた。手を差し出すと、おもむろに指で皮をむき始める。部屋中にオレンジの芳香がはじけた。グラハムは大人しく待つことにした。水分を求め、喉が鳴る。するとほどなく目の前に剥き出しの赤い果肉が差し出された。この島のオレンジはまるで血のように赤い。グラハムは促されるままに赤い果肉を口に含んだ。刹那の手から一口で奪い取った後、ふと思いついて、先ほど、足指を舐められた仕返しに、刹那の指先に歯を立てた。それから小さく口を開いて円い歯で爪を噛むようにして口に含む。刹那の息を呑む気配に、今度は意識して爪と指の間を舌先を這わすと、感じたのか刹那の肩が小さく揺れて、視線が鋭さを増した。
 明らかに濡れた瞳に、身内に新しい熱が湧きあがって、グラハムは刹那の引きしまった細い顎に指を掛けた。そしてそのまま唇を食む。こじ開けるようにして、舌で掻き分け、彼の口にオレンジを無理やり押し込んだ。最初は抵抗されたが、舌をひっこめ軽く今度は音を立てて口づけると、彼は大人しく果肉を呑みこんだ。
「美味いかね?」
 グラハムは難しい顔をした刹那に話しかけた。そういえば、彼が物を食べるところを見たのは初めてだった。意外にも、彼は小さく頷くとゆっくりと咀嚼して、それをきちんと飲み込んだ。
 その姿を見て、グラハムは思わず、もう一度彼に口づけていた。

 あまい香りの漂う暗闇が優しく視界を遮られて、グラハムは肌をゆっくりと探るように這う熱を持った指先の持ち主のことを考えることを忘れてしまった。優しさと乱暴さの同居する指の動き。ものなれない様子に思わず微笑むと、少しむっとしたような気配がして、胸の突起を強く抓まれ、息を呑む。思わずこぼれた高い声に、彼が吐き出す呼気が項の産毛を掠めていった。静まり返ったコテージの中に、二人分の呼吸と心音、そして乾いた衣擦れの音が驚くほどはっきりと響き渡る。地球の大気圏のように、表面に貼りついている僅かな空気が発熱しているようだ。滲み出てきた汗の匂い。それからどこからともなく漂う、花の香り、潮騒。二人分の空間で閉ざされた世界は熱く、籠っていた。口づけ合うたびに刹那の息と唾液が、口腔内に流れ込んでくる。彼の歯はとても滑らかだった。唇から僅かにのぞくまだ幼けない象牙のような前歯に触れているのかと思うと興奮した。
 この行為に意味があるとは思わない。
 ただ何かが変わることは確かだろう。それは自分と少年との間に横たわる宿命か、それとも長らく遠ざかっていた肉体的な快楽を呼び起こされることで思い出される疼きか。どちらにせよ、彼の手で変えられるのはこれが初めてではない。彼の細い指が操るガンダムで、グラハムの世界は確かに変わった。初めて目にした時に感じた驚き、まるで熱病のように湧いてくる欲求と闘争心。グラハムは刹那の頬に手を当てた。
「初めて君のガンダムを観たとき、一目で心奪われた。まるで君たちの周りだけ無重力状態になったかと思った。君のガンダムほど美しいモビルスーツを私は知らない」
 すると刹那の舌が、そっと唇に触れたかと思うと、そのまま頬を這い、傷口へ至った。 境目で一瞬止まった後、ゆっくりとした動きで傷口を舐められる。まるで獣が傷を癒す時のような熱心さだ。
「この傷が哀れかね?」
 刹那が顔をあげた。その目はもう金色ではない。
「哀れだなどと思わない。…これは俺がつけたものだ」
 そして再び舐められる。グラハムは胸元にある頭を抱えるようにして微笑んだ。
「そうか、君は残酷な男だな。刹那」

 そして夜が白み始めるまで二人は絡み合っていたけれど、二度と名前を呼ぶことは無かった。

 ゆっくりと冷めていく熱を名残惜しく思いながら、グラハムはいまだに寝台から起き上がれずにいた。そのころ刹那はもうすでに立ち上がって半ば衣服を身に着けており、僅かに明るくなった東の窓から差し込む光が、彼の背中に浮かぶ肩甲骨を顕わにする。本当に細い背中だ。だが触れてみると驚くほど堅く力強かった。これが若さというものか、とグラハムは自らを省みて僅かに眉を顰めた。すると刹那がグラハムの後ろ髪をゆっくりと撫でる。掬うようにして一房を指に絡めていじっている。
「何かわかったかね?」
シーツに顔を埋めたまま問うと、僅かに戸惑った後、絡まっていた指が離れた。
「……分からない」
 シーツの間から覗きみると、刹那は額に深い皺を寄せてグラハムを睨んでいた。
「ならば私はやられ損ということか」
 そう言ってほほ笑むと、刹那の皺が深くなる。
 ささやかな意趣返しに気を良くして、グラハムは起き上がった。
「君の答えはでなくとも、私はひとつ分かったことがある」
 こんなに若くして――出会ったときはまだほんの子供だった――戦場に身をやつしてきた彼の人生を思うと、心が痛む。おそらくは常人では想像もできないような過酷な現実の中でソレスタルビーングの掲げる思想に傾倒したのだろう。それは理解できなくはない。彼らの理想は高邁だ。さりとてその一事で、彼らの行動を全てを水に流すことは、この戦争で仲間を死なせたグラハムにはできない。戦争根絶、実現するなら素晴らしいことだと思う。だがしかし現実の戦場は彼らがいう戦争という一言ではくくれない。国同士の利権争い、宗教対立、民族紛争…それぞれの戦場で戦う兵士はそれぞれ異なる思想のなか、異なる動機に突き動かされて武器を取るのだ。その武器を破壊したところで、彼らの思想や欲望や憎しみは消えないだろう。
 私が刹那個人の表情や言葉には好意を抱きつつも、許すことができないように。

「君を許すことはできない。許すには君が私から奪ったものは大きすぎたから」
 刹那は感情の読めない面持ちでじっとグラハムを見つめていた。
 分かっている。自分もモビルスーツで戦場で命を奪ってきたのだ、彼に罪があるのなら、同じだけの罪を自分も背負っている。

「だが、君のことは……嫌いではない」
 真っ直ぐに自分を見つめる刹那の瞳は美しいと思う。
 もっと違う世界に生まれていれば、たとえば此処のような穏やかな場所で出会っていれば、恋に落ちていたかもしれない。しかし残念ながら現実は違う。二人の間には埋めようにも埋められない壁があって、今は長閑な南の島でそれがちょっと薄らいでいるだけだ。だからこそ、今彼の気持ちを聞いてみたい。
 しかし刹那はおもむろに立ち上がった。
「今日、ハワイへ向けて船が出る。お前はそれに乗れ」
 突然の言葉に、茫然としていたグラハムだったが、刹那が歩きだしたので慌てて引きとめる。冗談ではない、彼だって本当は分かっているはずだ。好意が無ければ、男の自分を抱けはしないだろうに。何も言わずに立ち去るつもりだろうか。
「君は?」
 しかし刹那は答えなかった。代わりにグラハムが尋ねる。
「君は私のことをどう思っているのか?」
 グラハムの言葉は刹那の背中に飲み込まれて、そのまま何も言わずに、刹那は部屋を後にした。
 一人残されたコテージは先ほどより明るくなっている。月は沈んだようだ。代わりに太陽が昇ろうとしている。
 グラハムは、そばにあったシャツを羽織って外へ出た。太陽が水平線上に現われようとしている。朝焼けで空が黄金色に輝いていた。そうしていると自然と目じりから熱い涙がこみ上げてくる。流れ落ちても、グラハムは水平線を見つめ続けた。唐突に柔らかな薄闇は払われ、強い光は全てを覆い尽くしていく。夜は終わった。抗いようもなく、こうして新しい一日が始まる。古い一日の思い出も感傷も愛も、全てを置き去りにするごとくに。

 暫くぼんやり砂浜に座っていると、突然頭上から白い物がバサバサっと落下してきた。驚いて振り返ると、そこには世話になった少女、テフラが白い花を腕いっぱいに抱えて立っていた。
「刹那がね、これグラハムにって。あたし達は好きな人をダンスに誘うとき、この花を渡すの。踊って歌って、幸せになりますようにって!」
「刹那が…?」
 すると彼女は、ぽろりぽろりと花をこぼして踊りだす。
「折角たくさん摘んだんだから、自分で渡せばって言ったんだけど…刹那ね、俺にはその資格がないからって」
 よくわかんないの、と少女は小さな頭を傾げて笑った。

「誰だって笑えば幸せになるのにね。まぁいいわ。刹那は急に出発することになって……忙しいみたいだったし。だからあたしが代わりにあげる」
 グラハムの頭上から、強い芳香を放つ白い花が降り注ぐ。それはクチナシの花のようだった。
「あなたに、たくさんの幸せが訪れますように!」
 強いにおいに、噎せかえってせき込むと、止まっていた涙が再び流れ出した。

 どこまでも続く輝くような青い空、涙のせいで滲んだ視界に白い花が溶けていく。少女が驚いて何か叫んでいるようだが、グラハムは止めなかった。
 突き上げるように湧きあがってきた慟哭を心のままに吐き出し、ただ無心に泣き続けた。

 いつまでもいつまでも、グラハムは泣き続けていた。


+end+

2009.08.24

2010.11.29:一部修正