『 きみにつづく空 』

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(なに、ムキになっているんだ、俺は)
 走りながら、じわりじわりと後悔が押し寄せて来て、刹那は唸った。
 キスしたい、俺に?驚き、羞恥、同時に悲しみ、混乱、色々な感情がぱんと爆発して、ぐちゃぐちゃの万華鏡のようだった。目を丸く見開いた童顔の教師の顔を思い出して、自然と鼓動が速くなって、思わず口に出してしまった。
(教師の思考なんて読んでどうする……あんなの無視すれば良かったのに)
 あれでは、明らかに自分が怪しい。徐々に後悔がら焦りに変わっていく。高校生になって半年、これまでは上手くやって来たというのに……こんなところで思わぬほころびが出てしまった。
(絶対に、バラしてはいけない)
 この秘密を知られたら、嫌な思い出が甦って来て刹那は足をとめた。既に陽が落ちたグランドではまだ部活中のサッカー部が走り回っている。賑やかななか、自分の周りだけ暗く淀んでいる気がした。

 刹那・F・セイエイの秘密、それは彼の人とは違う特殊な力による。
 他人の心を読むことができるのだ。触れたり至近距離に近づいたりすると相手の思考が流れ込んでくる。それも彼が望むと望まざるとにかかわらず、強制的にだ。この能力のせいでこれまで数えきれないほどの嫌な思いをしてきた彼にとって、これは呪いに等しい能力だった。ただ、成長するにつれ少しずつ力のコントロールができるようになってきて、余程のことがない限り、その能力を使うことはなくなって、昔のように、突然他人の感情が流れ込んできてパニックに陥るようなことは今は無い。だが、不用意に近付いたり触れられたりするとやはりダメなので、普段からあまり他人と接触を持たないように心掛けるようになった。
 お陰で、人間嫌いで付き合いにくい奴、とクラスメートから疎まれているのは知っている。だがそれも好都合だと思っていた。
 誰だって隠しておきたい本心がある。心を読まれると知ったら、誰だって敬遠するだろう。一番の身近な家族ですらそうだったのだから。
 だから刹那は友達は作らないと決めていた。必要ないと思った。それでなるべく他人とは距離を取って暮らしていた。どうせ離れていくのなら、最初から親しくならない方がいい。

 それが何故か、あの男の前では上手くいかない。

 上手くやってきたはずだった。
 それがここにきて、予期せぬほころびが生じている。
 
(……あの男のせいだ)

 あの男、グラハム・エーカーは刹那のクラスの現国の担当教師だった。
 若く、整った顔に金髪碧眼と絵に描いたような容姿をしているため、女子生徒の人気は高い。だが、だからと言って男子生徒から疎まれているといこともない。以外にも体育会系のノリと、リーダーシップで男子生徒からの人気も悪くはない、らしい。らしいというのは、クラスメイトの沙慈・クロスロードの受け売りだからだ。刹那にとっては教師は、単に勉強を教える職業にすぎないので、授業以外で関心はない。 
 だが、グラハムだけは、以前から気になっていたのだ。
 といっても、あまりいい印象ではないのだが……

(相変わらず愛らしいなぁ)
(今日はいつもより前髪が跳ねている……それもまた愛らしい)
(どうしたのだろう?なにか嫌なことでもあったのか……いつもにも増して表情が硬い……しかし、苦悩顔の少年もやはり麗しいがな!)
 
 授業中などに、不意に視線を感じて、顔を上げると、教壇に立つ彼と目があうことがあった。そしてそんなふざけた思考が流れ込んでくる。
 最初は馬鹿にされているのかと思った。
 だが、あまりに繰り返されるとそうでもないのかと疑いが出てくる。存外本気なのかもしれない、そう思いだすと背筋に鳥肌が立って、刹那は振り払うように隣の席に座るクラスメートに声をかけた。
「あの教師……ときどき俺のことを睨んでいる気がする」
「ハム先生が?そんなことないと思うけど、でも……」
「でもってなんだ?」
 勢い込んで食いついてくる刹那に、沙慈は意外そうな顔をして答えた。
「えっと、ハム先生、刹那のことお気に入りみたいだって」
 予想外の言葉だったので、刹那は目を剥いて沙慈を睨んでしまった。すると沙慈は慌てたように、そんな大したことじゃないけど、と前置きしながら、説明を続けた。
「現国の授業中よくかけられるから」
 確かに、それまで気にしたことは無かったが、そう言われれば確かにそうだ。さらに背筋に悪寒が走る。
 やはり、そういうことなのだろうか?
 自分は男で、グラハムも男で。男のグラハムが自分にキスとか……つまりそういうことなのか……?これまでの経緯から推測すると、つまりそいうことだろう。そう、同じ所を堂々巡りで混乱していたところを、沙慈の冷静な声が現実に引き戻してくれた。
「刹那、昨日の現国の課題やってきた?」
 課題のことなど、すっかり忘れていた。というよりも、教科書を開くとあの男ことを思い出すので、手につかなかったのだ。人の良さそうな笑顔を浮かべて話しかけてきたのは、沙慈・クロスロードというクラスメートだ。
「刹那はきっとかけられるね、大変だ」
「俺は次の授業は休む」
「サボるの?」
「ああ、後は頼む」
「ちょっと、ダメだよ刹那っ」
 止める沙慈をそのままに、刹那は教室を出た。とりあえず人気のない所、屋上にでも行って一時間時間をつぶせばいい。
 それが逃げだとしても、他にどうしたらいいか分からなかった。



 それからも、刹那は極力グラハムを避け続けた。教員室の前は絶対通らなかったし、グラハムが担任をしている教室を避けたりしているのだが、しかし国語は単位数が多い教科だ。毎日のように授業がある……さすがにそのたびにサボる訳にもいかず、渋々出席すると、グラハムの探るような視線と目があってしまう。
 そのたび、視線をそらすのだが、そうすると、今度はあからさまに失望してみせるのだ、あの男は。それが演技ではないのは分かっている。だが、だからと言って刹那にはどうすることもできない。彼から流れ込む感情は、とても――言葉では言い表せない――得体が知れなくて、温かくて切ないくせに、ぐらぐらと揺れて不確かだ。喜怒哀楽の振り幅が激しい。
(無視するんだ、いつもみたいに)
 他人の感情に流されてはいけない。
 どんな時にも確固とした自分を持ち続けること、必要以上に無意味に他人と接触しないこと。それさえ守れば大丈夫、刹那は自分にそう言い聞かせた。そしてしばらくすればきっとあの男も忘れてしまうだろう。これまでの友達は刹那が心を閉ざすと自然と離れて行った。あの男も同じなのだろうか。
(だが、そんな簡単に忘れてしまうのだろうか?)
 キスしたい、とあの男は思っていた。その気持ちも忘れてしまうのだろうか?そう思うと、なぜか無性に苛々した。
(それでいい、それでいい筈なのに)
 煮え切らない自分の感情が良く分からない。
 そのことが無性に腹立たしい。
 放課後しんとした教室の廊下を歩きながら、刹那はそんなことを考えながら歩いていた。考えながら歩くと、自然と俯き加減になってしまう。だから声をかけられるまで気がつかなかった。
「……少年!」
 最悪だ。顔を上げると、悩みの種の張本人が無駄に爽やかないい笑顔を浮かべて立っているではないか。刹那は思いっきり顔を顰めると、踵を返して駆け去りたい衝動に駆られた。だが、ココであからさまに立ち去るのも不自然過ぎる。相手は一応教師なのだし……あまりにあからさまなのも逆に目立つかもしれない。
(どこか具合が悪いのだろうか?)
 その時、頭の中にグラハムの声が響いた。その思いはじんわりと沁みとおるように、気遣いに満ちていて、刹那はグラハムに向き合った。
(いつものような覇気がない……眉間の皺も三割増しだ、まだ若いのに、何をそんなに思い悩んでいるのやら……だが、悩んでいる少年もまた麗しいなぁ)
 あまりに能天気な思考に遂に刹那が切れた。
「お前のせいだっ!!」
「は?」
 突然大声を上げた刹那に、グラハムは緑色の大きな目を見開いて、アホみたいに口をあけて驚いている。立ち去ろうか、そう思った途端、刹那はその手を強引に掴むと、直ぐそこの教室へ押し込んで、窓際まで連れて行く。無人の教室に、背の高い教師と、比較的小柄な二つの影が伸びる。影は机の上で屈折して黒板にまで伸びていた。グランドで練習しているサッカー部と陸上部の声が、ガラス越しに教室まで届いていた。明確ではなく、オブラートに包んだような曖昧な音、それらを掻き消してグラハムの声は真っ直ぐに届く。
「お前の声は煩いんだ」
 聞きたくないのに無視できない。これほどストレスの溜まることはなかった。この男の思考は明確で、迷いがなかった。だからだろうか、真っ直ぐに飛ぶ矢のように、刹那の感覚に突き刺さってくる。他の人間なら無視できるのに、彼相手だとそれができない。
 理由は分からない。分からないから余計不安になる。
「そうやって、いつも俺のことを考えるのは止めてくれ!!それに、愛らしいとか麗しいとか……勝手な想像で俺のことを美化するのも止めろ。俺は、あんたが思うようないい人間じゃないんだ」
 グラハムは僅かに声を震わせて言った。
「な、なぜそんなことが分かるのだ……」
 刹那は頷いた。
「俺には他人の心や思考を読む能力がある」
 グラハムは顔をひきつらせて、言葉もないようだ。
「『そんなSFじみたこと……正気とは思えん』」
 とどめとばかりにグラハムの思考を読んで本人に突きつける。
「……なっ……!?」
「アンタが今考えたことだ」
「……その通りだ……」
 刹那の言葉を聞いていたグラハムの顔が一気に赤くなる。
「だから、あの時、分かったのか?私がキミに……その……」
 しかしすぐにさっと血の気が引いて今度は真っ白になる。グラハムは突然、なんということだ、と天を仰いで大声を上げたかと思うと、顔を抱えて蹲ってしまった。
「……おい、」
 条件反射で思わず手を出して後悔した、ぐるんと顔を上げた男は、緑色の大きな眼球を水の膜でゆらゆら揺らして、じっと刹那を見つめてくる。その唇が妙に赤く感じて、刹那は息を飲む。
「ならば、キミは私の妄想も知っていたというのか……私は今、身を持って理解した……穴があったら入りたいとはまさにこのこと。私以上にこの言葉を実感した人間がいただろうか、いやない!」
 泣く程のことか……、と考えたが、確かに泣きたくはなるかもしれない。他人に知られるはずの無い、そう思うからこその本音というモノもある。刹那の能力の厄介なところは、そうやって知らずに他人を傷つけてしまうことだと、刹那は思っていた。
 だから嫌なのだ。刹那は素直に謝った。
「すまなかった、でもどうしようもないんだ。だから、今後一切アンタには近付かないようにする。だからもう気にするな」
 そうそれが一番いい。思考を抑えることができないなら、物理的に離れるしかない。授業では一緒になるので、完璧には無理だろうが。
「それは困る!!」
 しかし、グラハムは身を乗り出して怒鳴った。
「キミは一切悪くない!悪いのはキミへの感情を抑えきれなかったこの私の未熟さだ。だからっ……避けるのだけは止めてくれ」
 グラハムは必死に言った。
 刹那は、彼がどうしてそこまでするのだろうと思った。 
「私はキミが好きだ」
 いつしか、外の雑踏も耳に届かなくなっていた。
 しんと静まり返った教室の中、刹那の耳を支配するのは、グラハムの生の声と、異常に早く強く打つ自分の心臓の音だけだ。
「心が読まれるのなら、もう隠しだてする必要もないということだな。ならば敢えて言わせてもらおう、私は、キミに欲情するし、実は、一人でするときキミを思い出してしたりする!」
 がくりと項垂れた刹那がいった。
「……最悪だ」
「仕方がなかろう、私はそれだけキミに恋をしている――キミにとっては迷惑千万な話かもしれないが、すまない、これが私なんだ」


「……嫌じゃないのか?」
 俺の力を知っても、傍にいるのが。するとグラハムは力強く頷いていった。
「望むところだといわせてもらおう」
 変な男だ。本当に、変わっている。
「むしろ、うらやましいくらいだ!」
「うらやましい……?」
 そんなことをいう人間は初めてだった。刹那にとってはこの能力は疎ましい意外の何ものでもない。この力がなかったら、もっと普通に生活できていたはずだ。しかし、グラハムからは嫌みとかそういう感情はみじんも感じない。嘘ではないようだ。グラハムの色素の薄い皮膚に血が巡り、火照ったように紅さを帯びた。そして、感情の全てで刹那に向き合っているのが分かる。圧倒される。
「もし、他人の心が読めるなら……好きな人の気持ちを確かめることができるではないか!私だったら、真っ先にそうするぞ」
 力説された言葉を聞いて、刹那のもやもやと胸に掛かっていた疑問が霧散した。自分があのとき、どうしてグラハムの思考を読んでしまったのか、これまでずっと避けようとしてもできなかったのか、その答えが出た気がした。
 同時に、顔面にかーっと血が上る。
(……あの時から、いや、たぶんもっと前から……おれは、この男のことが気になっていたのか)
 ということはどういうことだ?
 一つ疑問が消えたら、また新たな疑問が湧いてきた。
 しかし、この疑問はそう簡単に解けそうな気がしない。
「しかし、すこし安心したよ、私は、キミに嫌われている訳ではないらしい」
 ふわり、とグラハムが笑った。薄暗い教室に、彼の笑顔だけぼんやりと明かりがともった気がする。
「……少年、いまキミ、微笑ったか……?」
「笑ってなどいない」
「いや、確かに微笑った!!」
 笑った、笑ってない、と子供のような問答をして、脱力した二人は、同じ机に座り込んだ。狭い机の上で肩が触れる。

 疑問は、案外簡単なのかもしれない。

+ end +



2010.11.4