『 きみにつづく空 』

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 最近、気になることがある。
 正確にいうと、気になる“生徒”がいる、ということだ。
 ぴしゃりと勢いよく音を立てて教室のドアを開く。今日は朝から気分がいい。空は青いし、一限から彼のクラスの授業だ。グラハムは教壇に立つと、勢いよく名簿と教科書を勢いよく教卓に叩きつけるようにして、教室を見渡した。まだ眠そうな生徒たちの中に、窓際後ろから3人目、やや小柄で幼げな顔の少年が一人、教科書とノートを置いただけで、教師であるグラハムに一瞥だにくれず、外を見ている。
「諸君、朝の挨拶、すなわち、おはようを贈らせてもらおう」
(飛行機雲か……今日も空が高い)
 一段高い教壇からは生徒の頭越しに、窓の外がよく見えた。
 傾斜地にあるこの高校は東側に面して視界がとても開けている。とくにこの一年生の教室は東棟の三階にあって、校舎の中で一番見晴らしがよく、窓からは秋の澄んだ青空がどこまでも遮るモノなく見渡すことが出来た。そのベールのように薄雲が棚引く秋の空に、一筋走る白い軌跡に、目を奪われたグラハムだったが、直ぐに手にもつ教科書へ目を下ろした。空の高さに高揚した気分のままに、グラハム・エーカーは腹に力を入れて声を張り上げた。
「それでは、頭から朗読して貰おう」
 グラハムの声にあわせて、生徒が一斉に顔を上げたが、すぐにほとんどの生徒が俯くかよそを見るか、ともかく視線をそらせてしまう。高揚した気分がわずかに沈む。まぁ、わからないことではないな、とグラハムは一人ごちた。生徒にとって現国の教科書の朗読など、できれば避けて通りたいに違いない。
 グラハムはそんな倦怠感あふれた生徒たちの中から、一人、最初から最後まで教壇には一瞥もくれず外へ視線を向ける男子生徒を指名した。
「セイエイ君」
 鋭い視線が投げかけられた。がソレはすぐに教科書へと向けられてしまう。
 立ちあがった男子生徒は、きっちりとネクタイを締めた細い首をうつ向けて肘の高さで開いた教科書を読み始めた。
「――得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか――」
 よく通る声だった。
 グラハムはそっとその声に耳を傾ける。
 単なる国語の朗読だ。読み方も取り立てて上手いわけではない。つっかかることも少ないが抑揚もなく、盛り上がりもない。ただ淡々と単語を声に出しているだけなのに、それでも、グラハムは生徒の朗読に熱心に耳を傾けた。熱中していたといってもいい。よく響くテノールの声に耳を傾けていると、秋の空へ意識が溶けていくような気がした。不意に訪れる非日常めいた気配。
 彼の名は、刹那・F・セイエイという。
 物静かで真面目で、どちらかといえば目立たない生徒だ。だが、褐色の肌に癖の強い黒髪を持った少年は、どこか他の生徒とは違う、不思議な雰囲気を持っていた。少し不機嫌にも見える無表情で、グラハムは刹那が感情を露わにするところを見たことがなかった。刹那は淡々と、グラハムが指示したとおり小説を読んでいる。まっすぐな鼻梁に午前中の日差しが掛かって眼下に濃い青い陰を落とし、赤みがかった褐色の瞳が黒く沈んでいる。
(可憐な外見の内に毅然とした意志の強さを内包した瞳――あの瞳に自分だけを映すことが出来たなら、その場で死んでも惜しくないのに)
 そんな教師にあるまじき、浮ついた思考が湧いてきて、おもわず溜息が零れてしまう。
 彼が満面の笑みでクラスメイトと談笑しているところをグラハムは一度も目にしたことがない。まぁ、教師の目の届かないところで羽目をはずしている生徒は多いが、なんとなく、彼はそうではないような気がした。いや確信と言ってもいい。彼には他人を寄せ付けないストイックな雰囲気があったのだ。
 そんなところが非常に気になる。
 いや、好意を抱いているといってもいい。
 実際、グラハムはこれが一目惚れというやつだ、と思っていた。
「――私はまたあの花火といういやつが好きになった……」
 思わず、びくりと反応してしまう。
 グラハムは耳をそばだてた。彼の口から“好き”という単語が発せられただけなのに、鼓動が速くなった気がする。もう一度、同じ口から“好き”という単語が流れ出す。実際その段落で作者は何度も好きという単語を使っていた。

 やはりいい声をしている。彼の声は不思議とグラハムの気持ちを高ぶらせた。まったく勿体ないことだ。こんなにいい声なのに。思わず聞き入っていると、不服そうな視線にぶつかって、グラハムは我に返った。気づけば、短編は半ば以上を進んでいた。
「……そこまで、ありがとう。ではここで……」
 次は、明らかに居眠りしていた生徒にかけた。誤読を注意しながら、授業に集中するようにと自分に言い聞かせた。

(別に私に言ったわけじゃないのだがね)
 ココにいる学生たちよりよっぽど青臭いな、とグラハムは心に思った。


「それでは、明日は小テストを行う。範囲は今日やった短編だ。各自よく復習しておくように」





 翌日、グラハムは間違っているとは思いつつ、胸の高鳴りを押さえることができなかった。
(……いよいよ、少年と初めての個人面談だ……!)
 グラハムは鼻息も荒く、生徒指導室の机に腰掛けながら、ぐっと左手を握り締めて思った。時計を見ると、終業のベルがなってから10分が経過した。そろそろ来る頃だろう……と喉を鳴らす音が必要以上に大きく感じた。


 カラカラと乾いた音を立てて、木製の少し塗料のはげたドアが開いた。白いペンキが剥げかけた床の上に、先っぽが僅かに汚れたスニーカーがひと組、きちんと並んで立っていた。はっと顔を上げると、そこに目当ての少年がいた。途端に狭い進路指導室の空気がぴんと張り詰めた。
「待ちかねたぞ、少年」
 グラハムのおかしな挨拶にも、刹那は小さく一礼するだけで、無言を通す。その姿をみたグラハムは、グレーのブレザー姿に、秋だなと思った。どうりで今朝は肌寒かった。自分の二の腕を掴むと、白い木綿のシャツが冷たい。ベストではなく、ブレザーにすれば良かったと思った。
「まぁ、座りたまえ。呼び出した理由は大体見当がついているのではないかね?」
 グラハムは教師としての威儀を正すため、蕩けそうになる頬を引き締めなければならなかった。そしてコツコツと指で机を叩くと、引き出しから一枚の答案用紙を取り出した。
「君が大変真面目に勉強に取り組んでいるのは知っているよ。どの教科もほとんど満遍なく出来ている。それはむろん承知の上だ。だからこそ、この答案が納得がいかないのだがね」
 刹那はグラハムが取り出した答案用紙を無表情に眺めている。それはほぼ白紙状態だった。
「それほど難しいテストではないだろう……単純に小説の感想を書けばいいんだ」
 しかし、刹那は黙ったままだ。相変わらず無表情だが、途方に暮れているようにも見えるし、苛立っているようにも見える。
「これまでは、きちんとできていたではないか……なぜ今回に限って、ちゃんと取り組まないんだ?」
 即行で答えが返ってきた。
「すみませんでした、次はきちんとやります」
 話はもうこれだけか、だったら帰ってもいいですか?と顔に出ている。いい訳ぐらいすればいいのに、いっそふてぶてしい。すこし憎らしくなった。
「私への嫌がらせではないだろうね」
「そんなつもりはない」
 軽口でせめて雰囲気だけでも明るくしようと思ったが、失敗だった。刹那は、眉をきゅっと寄せてきついしかめ面を作ると、そのまま立ちあがってしまった。ああ、行ってしまう、慌てたグラハムは引き留めようと立ち上がった。椅子と床がぶつかって、ガタンと無意味に大きな音を立てる。
「待ちたまえ!まだ話は……」
 少年は立ち止まった。
 そして唐突に振り返って、言った。
「最後の問題」
 一瞬何のことか分からず、首を傾げると、刹那は憎々しげに口を開く。
「……主人公の心を圧えつけていた“得体の知れない不吉な塊”は消えたのか、どうか……自分が作った問題の癖に、忘れたのか?」
 忘れた訳ではなかった、ただ、あまりに唐突だったせいで、思い当たらなかったんだけで……言い訳が口を突いて出ようとしたが、ふとぶつかった褐色の少年の目があまりに真っ直ぐで息を飲んでしまう。
 そんな大して重要なテストではなかった。ただ、こまめにテストをすることで少しでも生徒が集中して授業に取り組み、復習してくれれば……そんな思惑だった。記述式の問題で、確固とした正解は無い。小説の中では明言されている訳ではないからだ。だから、この問題は生徒がこの小説をどのように理解したのか、自分の言葉で表現するように促す問題だった。だから、何か書きさえすれば――よっぽどふざけた回答でもない限り――点数がつけられる、そういう問題だ。
 だから、ほおっておいても良かった。
 でも、わざわざこうして呼び出してまで、理由を聞こうとしたのは、何かが引っ掛かったからで、その何かが何かは分からないけれど。ただ、彼が今、何かを語ろうとしているのはわかった。それはとても珍しいことではないだろうか。グラハムは精いっぱいの自制心を持って沈黙を守った。
「主人公は人生を諦めていた。不治の病を抱え、無気力と倦怠に飲み込まれ、人生に絶望していた。だから、ちっぽけなレモン一個に無情の喜びを見出すことができたし、それを丸善の洋書売り場に置き去りにすることで、何かが変わるかもしれないという希望を抱いた――だが、レモンは所詮レモンでしかない。ただのレモンに丸善を吹き飛ばすような威力がある訳がない。そんなことで、人の心に巣くった感情は消えない。一時は薄まった気持ちになっても、時がたてば何事もなかったかのように以前にもまして強く、圧し掛かってくる。変わらないんだ、レモン一個じゃ……日常も、病気も」
 刹那が喋り続ける間、グラハムは驚きで目を見張っていた。彼がが、こんなに話すのを聞くのは初めてだったからだ。
「――そんな答を書いたら、目立つと思った」
 毒の籠ったきつい視線がグラハムに向けられて、すぐに離れた。そしてドアに手が掛けられる。
「……君は、とても真剣にこの小説を読んでいたのだな」
 適当に読み流すなら簡単だ。
 重要なポイントは授業中に説明するのだから、教師の話をきちんと聞いていさえすればいい。だが、それと、物語に没頭するのとは別だ。刹那はこの小説が気になって仕方がないようだ。決して幸せな物語ではない。陰鬱で、諦めと絶望をつづった物語だ。
 他人の悲しみに引きずられる、絶望に惹きつけられる、それはそう珍しいことではない、特に彼くらいの年頃には。
(あぁーー、なんて可憐な唇だ……)
 目眩がするくらい、眩しいではないか。
 キスしたいなぁ、そんなことを考えたのはきっと彼の若さに引きずられたのだ。それはきっと、この恋のせいだ。衝動が心の奥から突きあがってくる。
 だが、実行に移すことはできなかった。彼は子供で、自分は教師なのだから。
 今はまだ――
「先生は――」
 息をすることすら忘れそうだ。そう思いながらグラハムはスンと鼻を鳴らして息をした。吸い込んだ空気には匂いは無い。放課後の教室は薄暗かった。グラハムは電気をつけなかったことを後悔し始めていた。時が経つにつれて、1階にある指導室は校舎の間の陰に沈み、目の前の少年の瞳の色すら判別できない。
 それとも暗過ぎるからだろうか、少年の目が微かに金色に光っているような気がする。彼の小さな光彩の中に金色のオーロラがゆらゆら揺れる。
「俺にキスしたいのか」
 欲望など欠片もないようなストイックな眼差しからは、相変わらず感情が読めない。
 全身が熱くなる。特に顔が――
 なんということだ、グラハムは慌てた。キスしたいと思っていたのが刹那にばれた。そのものズバリといい当たられてしまった。これは、いい訳のしようがない、いやしなければならない、認めてはならない。誤魔化さなければ――しかし、どうしてバレたのだ?そんなに、もの欲しげな顔をしていたのだろうか?欲望が滲み出ていたのか??そうこうして、グラハムが混乱しているうちに、カラカラと再びドアが開く音がした。刹那は立ち去ってしまった。それも、駆け足で。
「――嫌われてしまった」
 初めての二人きりの会話だったのに。もう立ち直れないかもしれない、がっくりとうなだれる。
「……なんという不覚」
 これでは、暫く立ち直れそうにない。

++ continued...



2010.10.31