『 かくも唐突で乱暴な運命 』



 ピンポーンとチャイムの音がして、グラハムは格闘していた段ボールの塊から顔を上げた。ちなみに、縛っていたのは組み上げたばかりの棚を包んであった梱包材だ。あるべき場所、すなわち1LDKのマンションの寝室の奥の壁に落ち着いた今、それらの段ボールははや役目を終えてただ無意味にフローリングの床に転がっているだけの存在、つまりは粗大ゴミと言える。そんな粗大ゴミだが、このまま部屋の中心に転がしておくわけにもいかず、さりとて、処分しようにも段ボールはどうやって捨てればいいのか、グラハムは頭を悩ませていたところだ。転入届を役所に提出した際貰った、分厚い「ゴミ捨ての手引き」なる冊子によれば、全てのゴミには種類があって種類に沿って分別し決められた収集日に廃棄せよと定められている。それによれば段ボールは資源ごみで収集日は月一回…さて問題は段ボールの収集日まで、あと2週間もあるということだ。収集日まで保管しておくしかないのだが、さりとてグラハムの新居は一般的な独身者向けなので、余分な収納スペースなどなく、問題の段ボールは店で買った時はそれほどとは思わなかったが、こうしてバラしてしまうと本体の本棚より嵩張る始末だ。段ボールの日が決まっているならその日に出すしか仕方なく、あとはこの山のような段ボールを何処にしまうか…そう頭を切り替えさらに悩んでいたところに、冒頭のピンポーンのチャイムが鳴ったという訳だ。
 チャイムが鳴るということは誰かがこの部屋を訪ねて来たということだ。それに思い至りグラハムは首を傾げた。ココには引っ越して来たばかりで、カタギリにも正確な住所は教えていない。勿論カタギリはグラハムが部屋を決めたと連絡した時には、「引っ越しには手伝いに行くよ」と申し出てくれたのだが、「手荷物程度の荷物しかないので大丈夫だ」と断った。本当に手荷物しかないのだからしょうがない。というよりグラハムにとってはこの引っ越しは文字通り一からの出発であり、やや大げさな言い方を許してもらえれば、無からの創造であったのだ。もともと軍にいたころは官舎住まいだったので、異動が決まれば即次に住む場所も割り振られていたから迷うことなどなかったし、家具も全て着いていたので、引っ越しなど私服や日用品を移動させるだけのことだった。今回に至っては本当に身一つしかなかったので、パスポートも身分証も無ければ銀行口座の預金中朝も無い。何せ、アロウズに入る前は生死不明扱いだったし、宇宙で漂流後を敵に救助され手当てされてアメリカ領に移送されたのだから。その時のグラハムはパスポートや身分証の類は当然ながら持っていない。全くの身一つだった。彼らの行為で幾らかの現金を持たされたのは実にありがたかった。加えて、釈放(彼らの対応からするにこの言葉には強い抵抗を感じるが)された場所が南太平洋の島だったので、ハワイに近く助かった。そうして紆余曲折を経て、なんとかハワイ島までたどり着いた私を待っていたのは、思いもかけない悲報だった。そのことについては今は何も話すことができない。信じられないという気持と、あの方らしいと、すとんと納得する気持ちが半々で、ただ、ただ胸の中を重く苦い塊がどんよりと塞いでいる。他の感情が入る隙間も無いほどに。
 だからと言って、この身体は生きていて、腹も空かせば眠たくもなる。気づけばこうして、新しい部屋を契約し生活の場所を築きつつある。現金なものだ。私はあの方のような潔い終わり方は選べなかった。とても中途半端な存在だ。死ぬことを恐れない、それが武士道だと信じていたのに。たった一言でもろくも崩れ去ってしまった。それともそんな軟な心でしかない己は未だ武士道の極みには程遠い存在だったということか。
 まこと、度し難いのは人間の本能か。それにしても普通に生活するということがこれほど大変なことだとは、グラハムは改めて思い知った気持ちだった。人並みに苦労を重ねてきたつもりだったが、それ以上に、グラハムにはいつも支えてくれる存在があったから、知らず知らずのうちに、その人達の好意と援助に甘えていたのだろう。こうしてたった一人世の中に放り出されてみてその好意の大きさを実感するとは、なんと恩知らずのことか。
 そんなことをつらつら考え始めたら、玄関で再びドアフォンが鳴った。

ピンポン、ピンポン、ピンポーン。

 繰り返される呼び出し音に、我に返ったグラハムは慌てて握り締めていた段ボールを放り出し、玄関へ向かった。靴を引っ掛けてドアを開ける。慌てたせいで踵が潰れてしまった。この数年間靴を脱いで生活することに慣れたので、ここでもそうしようと決めていたグラハムだったが、もっと履きやすいサンダルでも購入しなければと考えながら、鍵を開けドアを開く。すると、そこにいたのは思いもかけない人物だった。

「……!」

 言葉も無いグラハムに対して、訪問者は無言のまま手に持ったナイロン袋を差し出した。見やすいように両手で捧げられた袋はたっぷりと膨らんでいて、彼の顔をすっぽり隠してしまうほど大きい。半透明の袋から透けて見える色は鮮やかなオレンジ色をしていた。はて、これまた面妖な…?グラハムはまた首を傾げた。どうしても目の前の青年のような少年とオレンジ色の野菜が結び付かない。
「…それはカボチャではないかな?」
「そうだが、この状況で、まずカボチャに言及するのか?」
 彼はグラハムの宿命の相手であり、グラハムから自由な空を奪い、恩師を仲間を奪い、死ぬ手段を奪った張本人だ。憎んでも憎み切れない、宿敵だった。しかし、宇宙で漂流していたグラハムを救助して、地球へ帰し、それだけでなく怪我の手当てまでしてくれた。彼の手は暖かく、真っ直ぐで力強かった。彼の言葉は、あの敗戦で折れた誇りを辛うじて繋ぎとめたのかもしれない。ゆえに私は今も生きている。死ぬための刃を折られたら一体どうすればいいというのか、彼は答えをくれなかった。その代わり、焼けつくような熱と一緒に小さな執着をグラハムに与えた。
(そういえば、私は彼と寝たのだったか)
 改めて思い出すと、顔面から火が出そうになる。あの時の自分の精神状態たるや、内心忸怩たる思いがするが、ここで動揺したら、私の負けだ。グラハムは全ての矛盾を超越し、泰然と佇む相手を見据えた。
「うむ、君の言うとおり、まずこの場ではカボチャより先に言及するべき疑問があるのだが、はてそれについては聞くのも恐ろしいというか…あまりに有得ない現象で正直どんな答えが返ってきても理解出来るとは思えない。だったら、まず分かりやすそうな疑問から解消しておこうと思ったのだが」
「これはカボチャだ」
「やはりな、それが判別できたなら、さて本題だが…」
 敢えて問わせてもらおう、意気込んでいった。
「何故君がここにいるのだ、少年?」
「そんなことより、お前は客を玄関に立ちっぱなしにさせるのか」
「うむ…確かにそれは失礼した。君のあまりに唐突な出現にこの私も動揺してしまったらしい。修行が足りんな。ひとまず中へ……いや、待て少年!危うく君の口車に乗せられるところだったぞ。それより君がココに存在する訳を説明したまえ!入室を許可するかどうかはその理由いかんで判断する……と言った端から勝手に入るな。待て、待てと言った」
 猫のようにしなやかにグラハムの脇をすり抜けて、彼はさっさと家の中に入ってしまう。何も説明していないにもかかわらず、ちゃんと靴を脱いでいるのはさすがとしか言いようがない。これもGN粒子のなせる業か…とグラハムが再び思考のループでぐるぐるしていると、刹那は手に持った袋から、オレンジ色のカボチャを取り出して、突き出した。
「これはカボチャだ、それは分かった…で、だから何だというのだ」
 刹那は答えた。
「久しぶりに地上に降りたら、街中にこれとよく似たものを見掛けた。それで、昔ある男から聞いた話を思い出した」
 正直さっぱり分からない。彼の存在自体がグラハムには謎だ、いわんや彼が此処にいる理由など、GN粒子のない私にはさっぱり分からない。人は簡単には分かり逢えないのだよ、少年…
 続きを待つが、それ以上言葉は続きそうもない。なんと、彼の言葉は簡潔すぎる。これでは意味が分からんぞ。グラハムは交互に刹那とカボチャを睨んだ。そう言われれば彼が持っているカボチャは食用というには大きすぎるが、ハロウィンのジャックオランタンを作るには丁度良さそうだ。…確かにあと3日でハロウィンだ。繁華街に出ればハロウィンのカボチャで溢れている。つまり、
「君は私とジャックオランタンを作るために此処へ来たというのか?」
 こくりと黒い癖毛を跳ねさせた頭が頷いた。なんと、これはまた予想外だな。あまりに予想外な事象と遭遇すると、思考回路が停止する。これはそういう状況なのだろか。グラハムは新品の黒いソファーに座りこんでいた、刹那を見て思った。
「…それは困った…」
「何が問題だ?」
 言ってみたが、自分でも何が困ったのかわからないから困ってしまう。とりあえず、ふと思いついた言葉を口にした。
「カボチャを作るのはいいが、私には君にあげる菓子がない」
 ハロウィンと言えば菓子だろう、と言えば刹那は一瞬だけ切れ長の目を見開いて、それからゆっくりと眇めて見せた。
「菓子は不要だ…俺は、もう少年じゃない」
 刹那は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「そうか、ならば君がカボチャを作るといい、その間に、私は菓子を買ってこよう」
 名案だ。さてならば何処の菓子がいいだろうかと、思案をめぐらす。

「おい、俺の話を…」
「なに、心配無用。どの道お隣に引っ越しのご挨拶で菓子折りでも持参しようと思っていたところだ!君は存分にカボチャを作りたまえ」
「…おいっ…そうじゃない」
 そうと決まれば善は急げ、とばかりにグラハムは刹那を置いて外へ飛び出していった。


 こうして、出来上がったジャックオランタンは標準よりもやや釣り目で笑っているというよりは怒っているような表情だったが、まぁ悪くないだろう。どこか作り主を想像させる憎らしい面構えに、グラハムは微笑んだ。
 結局グラハムが部屋に戻った時には、まだカボチャをくり抜く作業までしか終わって無かったので、刹那が目を、グラハムが口を刻んだ。少年と私が共同作業とは、なんという運命のいたずらか、と感慨にふけりながら燭を灯すと、目と口がぼんやりと柔らかな光を透かす。二人はカボチャの前に並んでひざを抱えてうずくまる。
「温かいな」
 蝋燭の光など些細なもので、実際温かくなるはずなど無いけれど、それでもグラハムは刹那の言葉に無言で頷いた。

 それは無機質だったグラハムの部屋に、彩りと、僅かな光をもたらした。
 長い睫毛の影の下、オレンジ色の光を映し、刹那の赤茶色の瞳が揺れているように見える。彼の造作は驚く程繊細なパーツで出来ている。しかし弱いと感じさせないのは、彼の瞳が強すぎるからだ。
「俺に、ハロウィンのカボチャの作り方を教えた男が言っていた、ハロウィンの時期には、あの世とこの世の門が開き、良い霊も悪い霊もこの世に現れ、悪さをする」

「ならば、今私の周りには君を恨んでいる魂が沢山いるに違いない。寝首を掻かれぬよう気をつけたまえ」
 その時、横から手が伸びて、グラハムの頬を引き寄せた。目の前に、端正な顔が迫り、真っ直ぐにグラハムを見つめている。有無を言わせぬ強い力が、その目にはあって、引き離せない。
「…アンタの、夢を見る。あの島で月に照らされたこの髪や、白いシャツに透けて見える肌や、海に溶けてしまいそうな瞳の色とか、そんな些細なことばかりが、繰り返し繰り返し、脳裏に浮かんで……でも、最後はいつも同じ場面で、」
 話している間中、彼の手は頬から首筋、そしてもう一度顔へと戻り、最後には下瞼の柔らかい肉を押すように撫でた。まるで涙を拭うような仕草だった。彼の言葉は唐突で、簡潔すぎて良く分からないが、今回はなんとなく察しがついた。

 オレンジ色の炎はゆらゆら揺れて、二人の影を白い壁に映し出し、いつしかその影が一つに混じり合っていった。

+end+



2009.10.29