※このお話はイ●リスっぽい国が舞台のなんちゃってパラレルです。
※好き勝手書いてますので、苦手な方はご注意ください。
※この話は執事パロ『たとえば、僕があなたに恋をしたから』の続きです。

『 すべて世はことも無し 』



 二頭分の空きがある厩舎を掃除しながら、ハワード・メイスンは小さくため息をついた。やはり一番の暴れん坊がいないとココも静かだ。外は快晴。六月の青空はどこまでも透明で高く、透明な陽光を反射した新緑は滴るばかりに鮮やかだ。
 つまり言いたいのは、今日は絶好の遠乗り日和だということだ。
 こんな日に、ハワードの主人がじっとしていられるはずはない。この別邸にいるときは週に一度多いときには日を開けずに遠乗りに出かける主人のこと、このような絶好の朝、普段だったら真っ先にこの厩舎に顔を出し、大きな緑色の目をきらきらさせて、愛馬に話しかけるのだ。
 ハワードはその笑顔を見るたびに、いつも自分の仕事を振り返る。馬たちは健康か、馬具の整備はどうか。自分の仕事を振り返り、そして満足する。自分の仕事は完璧だった。馬たちは健康そのもの毛色もいい。鞣革が美しい馬具も今や遅しと馬の背に乗せられるのを待っている。これならば、彼を乗せてもまったく遜色ないだろう。そう結論付けて漸く、ハワードは己の主人であるグラハム・エーカー侯爵のために遠乗りの支度を始めるのだ。グラハムはハワードが知る中でも最高の乗り手だった。技術だけではなく、彼ほど馬の心を理解し一体になれる人間をハワードは知らない。それに彼の乗馬姿はたとえようもなく美しかった。まっすぐに延びた姿勢に美しい金髪が生える。その真剣な眼差しに、もう十年以上傍につかえているハワードでさえ時々はっとさせるのだ。ハワードはそんな主人に仕えることを誇りにしていた。だからこそ馬丁としての自分の仕事に妥協は許さなかった。グラハムもそんなハワードに絶対の信頼を寄せてくれるからこそ、いつも遠乗りの際にはハワードを共に連れて行くのだ。ハワードにとって遠乗りの時間は、丹精込めた愛馬と共に、グラハムを一人占めできる至福の時間であった。
 それなのに……ハワードは箒に手をついて、空っぽの二頭分の厩舎を見てもう一度ため息をついた。
 開いているのは、フラッグと新しくきたブレイブの厩舎だ。今頃はきっと屋敷の裏の森を越えて、リンゴの木のある丘の方まで言っているのだろうか。あのリンゴも今頃は満開になっているだろう。広々とした牧草地を馬で走るのは最高だ。
 青い牧草地を疾風のように駆け抜ける、二頭の駿馬。その二頭を駆るのはグラハムと自分ではなく、執事の刹那だった。これまで遠乗りといえば必ずハワードがお供していたのだが、今日に限ってハワードは一人留守番だった。
 無意識にため息がこぼれてしまう。
「……べつに、俺だけの特権とか思い上がっていたつもりはなかったんだけどな」
 独り言を呟くと、厩舎に残されたマスラオとスサノオが鳴いた。
 そうは言いつつ、内心では面白くないのも確かで、そんな時、厩舎の外から太い男の声がした。
「あれ、お前まだこんなところにいるのか……?」
 ハワードは箒を置いて、男の方へ歩いていく。彼は料理人だから清潔であることを絶対としていた。当然掃除はしているが厩舎である、もし万が一があっては困るから、ハワードは彼がココに入らなくてもいいように気を配らなければならない。――これはいささか神経質すぎると笑われるが、グラハムのためになることなら、他人に鬱陶しいと呆れられようが構わない、それがハワードの信念だった。
「旦那様なら、刹那と遠乗りに出かけた」
 声を掛けてきたのはハワードと同じく古株のダリル・ダッチだ。彼は厳つい体型に似合わず繊細な仕事が得意なコックだった。グラハム好みを誰よりも熟知しており、その体格、偉容も相まって、使用人の中でも一目おかれる存在だった。
「……へぇ、そりゃあ珍しい……あの餓鬼馬なんて乗れたんだな」
 心底意外そうにいうので、認めたくないがと内心で断ってから答えた。
「速駆けだけなら、俺より巧い」
 そういうと、ダリルは長身を少し屈めるようにして厩舎の中を覗きこんだ。
「しかし、初めてだよな。グラハムがお前以外と遠乗りにでるのは」
 ダリルは主人を名前で呼ぶ。それはグラハム本人がそうしろと命令しているからで、本当をいえばハワードも同様に言われているのだが、ハワードはどうしても名前で呼ぶのは抵抗があって出来ずにいた。
「別に俺だけという訳じゃない……カタギリ様がお越しの時にはよく誘っておいでだったが、カタギリ様のほうが馬が苦手とかで、断られていたからな。そういう意味じゃ、つきあってくれる人間ができて喜んでいんじゃないか」
 そういうとダリルは肩を竦めた。
 それ以外にどう言えばいいんだ。どこの世界に、主人が自分以外と遠乗りに出かけて文句を言う馬丁がいるものか。分不相応なことだ。いくら彼らの主人グラハム・エーカーが国でも有数の大貴族なのに、使用人に対しても分け隔てなく友人のように振る舞う。屈託のない子供のような純粋な笑顔を向けてくれる。そんな性格だったから、この屋敷の人間は皆、グラハム・エーカーのことが大好きだった。
 それが……自分だけではないのだと分かっただけで……最初から明らかなことだった。「まぁ、あんまり落ち込むなよ」
 ダリルが肩をたたく。その力強さに思わずほろりときてしまう。とその時、今度ははきはきした女性の声が庭内に響いた。
「ハワード、馬車の準備をお願いしたいのだけど……」
 女性にしては低めの声だが、良く通るはっきりした発音で彼らを呼ぶ。黒いシンプルなワンピースに白いエプロンをした褐色の肌の女性が現われた。
「……落ち込み中悪いんだけど」
「変な誤解は止めてくれ」
 ネフェルの隣には庭師であるアキラがいた。アキラは手に大きなパラソルを持っていた。
「落ち込んでないで、仕事してくれよ」
「どいつもこいつも……俺は別に気にしてないさ」
 明らかに強がりと分かるハワードに、他の3人が顔を見合わせて笑った。
「さぁ、はやく仕事を終えて、支度をしましょう!グラハムが呼んでいるから」
 ネフェルのパンパンと手を叩く音に合わせて、彼らはそれぞれの仕事を始めた。

*** *** ***

 緑色の若草が覆う、円い丘を駆けあがると、頂上に大きな一本の木が見えた。木陰まで一気に駆け上がって、刹那は馬首を返した。一泊ほど遅れて、すぐ傍で馬の低い嘶きが耳を打つ。全力疾走で駆け抜けて。丘を駆けおりそうになったところを慌てて戻ってきた。だが明らかに刹那の方が速かった。たとえ鼻差程度の差だとしても。
 刹那は馬上から見える景色に目を細めた。高台になるこの地からは周囲の様子が良く見える。この辺りは牧草地で、生垣で区切られたなだらかな丘を幾つも超えたところに、こんもりと葉が茂る木々で覆われた森が広がり、その先の、転々と散らばる農家のはずれに、一際大きく赤い屋根をした屋敷があった。それがエーカー侯爵家の別邸だ――別名“カメリア・ハウス”という。庭に多くの椿が咲いていることからそう呼ばれるようになったのだが――。ここからだといつも広すぎると思っていた屋敷が手のひらに収まるほどに小さく見える。随分遠くまで全力疾走したものだ。刹那はねぎらいの意味を込めて、ココまで自分を乗せてくれた馬の首を撫でてやった。すると馬はぶるるっと鼻を鳴らして答えてくれた。
 刹那は鐙に足を掛け、一息に地面に降りた。そして手綱を左手に絡ませると、丘を登ってくる男に声を掛けた。
「勝負は俺の勝ちということで、問題はないな」
 馬上の男はカメリア・ハウスの持ち主であり、現在の刹那の主人グラハム・エーカー侯爵だ。彼は未だ息を荒い息のままで、紅潮した頬をして悔しそうに眉を寄せて刹那を睨んだ。ただ走るだけではつまらない、そういって丘の上まで競争だ、と嗾けたのはグラハムだった。結果は結果受け入れろ、というとグラハムは悔しそうに低い唸り声を上げて、君はずるい、と詰った。
「ずるいとはなんだ……馬はあんたの馬だし、地理だってあんたの方が詳しい。こんなに有利な条件なのに早く着けなかったのだから、勝敗は明白だ」
「だが、君は自分の実力を隠していたではないか。こんなに乗馬が上手いとは……聞いてないぞ、刹那。そうやって君は実力を隠して私を油断させたのだ」
 油断する方が悪い、と反論はできた。が辞めた。あいにくと不毛な議論に首を突っ込むほど刹那は暇人ではない。こんな二人だけの速駆競争の勝敗などどうでもいい。グラハムが素直に負けを認めれば済む話である。しかし10以上年上の癖に、彼は幼稚なまでに勝敗にこだわる性質だった。だから今も悔しくてしょうがないという顔だ。刹那は長いため気を吐いた。こんなことなら本気を出さなければ良かった。だがもし手を抜いたことがばれたら、その時こそ今以上にねちねちと絡まれるのに違いない。質の悪いことに、グラハムは勘がいい、手を抜けばすぐに気付くだろう。それも迷惑な話だ……。刹那は我儘が主人の機嫌を取る方法を考えた。しかし、さっぱり思いつかない。そもそも勝ったのは刹那なのに、その刹那がなぜグラハムの機嫌を取らなければならないのか――そんなことを考え始めた時、丁度いいタイミングでグラハムの愛馬が嘶いた。
 こうしているのも、グラハムの気紛れが発端だった。だから碌な準備もできず。刹那はいつも通りの黒いお仕着せである。グラハムに至っては、足元だけは黒い乗馬ブーツを履いているが、それ以外はグレーのズボンに白いシャツにという普段通りの出で立ちだ。ぴかぴかに磨かれた上等な革のブーツの他は、その辺の労働者とほとんど変わらない格好で、とても貴族の当主とは思えない。しかし馬にまたがった彼を見上げると、逆光で日を透かしまさしく金色に輝く癖毛と、木漏れ日のような緑の双眸に射抜かれて、目を見張る。黙っていれば絵に描いた貴公子のようなのに……どこかこの世のものとは思えない出来ごとのように刹那には思われて、見とれそうになった自分を誤魔化すために、勤めてぶっきら棒に視線を振り払わなければならなかった。心音が速くなるのは、速駆のせいだと思いたい。……視線があっただけで、こんなになるなんて、一緒に暮らしているというのに身が持たない。それに、刹那にはもう一つ気がかりなことがあった。それは他の使用人たちの存在だ。使用人と言っても、エーカー家の場合陰鬱な支配・被支配の関係はあまりなくて、むしろもっと温かい、それこそ家族のような絆があると刹那は思った。だからこそ、もし自分とグラハムが、ただの主と執事という関係から一線を越えて、思いを伝えあった“恋人同士”となったことを、彼らが知ったらどう思うか非常に気になる。刹那としては隠し事をするのは好きではない。だが、あくまでもグラハムは刹那の主人であって、もしも、この関係が公になってしまったら、グラハムはきっと嫌な思いをする。だから刹那はどんなことをしても隠し通さなければならないと覚悟していた。たとえ彼らに嘘をつくことになっても。だが、本当にそれでいいのだろうか?最近ふとそう思うようになっていた。一緒に生活しているのだし、例えば今のように、ただ視線が絡んだだけで、刹那が顔を赤くして俯いてしまったら、感づかれてしまうかもしれない。そうなる前に、打ち明けるべきではないか。そんな思いが頭を過るが、同時にそれはグラハムの問題だとも思う。だから問題はグラハムがどうしたいか、ということだが――グラハムのほうから彼らに打ち明けた様子はない。しばし静観するしかないのかもしれない。
「こうして二人きりで出掛けたりして怪しまれないだろうか?」
 そう問いかけると、グラハムは真面目な顔でこういった。
「これまでも時々出掛けていたではないか、それを今更心配など無用。まぁ、君が何を心配しているのかは分かる。……私も、皆に隠しごとはしたくない。家族だからな。」
「……だが……」
 刹那が口ごもると、グラハムの白い指が唇に触れた。静かにしろと言われて、耳を澄ます。するとどこからかヒバリの囀りが聞こえてきた。今は私のことだけ考えてほしい、そう言われて思わず赤面してしまう。やめよう、折角二人きりで出掛けたんだ、そういう心配はまた後にしようと思った。問題の先送りにしかならないとしても、刹那は今グラハムと二人きりでいる時間を大切にしたかった。
「少し馬を休ませよう」
 そういうと彼に向けて右手を差し出した。しかし、グラハムは行儀悪く舌打ちをすると――彼はときどき信じられない程行儀悪いことがある――パシリと差し出された手を払いのけた。
「……君は本当に意地が悪い」
 ひらりと身軽に地上に降りたグラハムは、刹那に手綱を預けて、愛馬の首を優しく撫でた。そして水筒から手のひらに水を出して、愛馬の鼻先に差し出す。彼の乗馬は最近新しく購入した馬で名をブレイブという。刹那が乗っているのは一番年上のフラッグだ。刹那もグラハムにならって自分の水筒からフラッグに水をやる。フラッグは僅かに逡巡するようなそぶりでグラハムの方を窺うが、グラハムが笑顔で頷くと顔を寄せて刹那の手から水を飲む。ざらざらとした舌が手のひらを舐めて行くのはくすぐったいが、こうしているとより親密になれる気がして悪くない。グラハムは本当に馬が好きなんだな、と思った。
 ひとしきり水をやると、グラハムが言った。
「君がこんなに馬術に長けているとは、よくも4年間おくびにも出さずにいたものだな……知ろうともしなかった私も愚かだが」
 君の前で得意げに馬について語った自分が馬鹿みたいじゃないか、そういって少し恥ずかしげに顔をそむけたグラハムの、恨めしそうな口調に思わず笑みが零れる。
「言う必要を感じなかった」
 当然だ。今時、この国で乗馬なんてやるのは暇な貴族くらいのもので、庶民にはとてもできない贅沢だ。だから黙っていた。してやったりと、得意げな気分だったが、それもグラハムの言葉で消えてしまった。
「ならば何故今になって、主義を曲げてまで私の遠乗りに付き合う気になったのかね」
 言葉に詰まる。グラハムが悪戯っぽい目で笑っている。リンゴの木には小さな白い花が満開だ。ゆらゆら揺れる白い小さな花の下で、彼の木の葉のような大きな瞳が木漏れ日を反射してキラキラしている。十以上年上の癖に……好奇心剥き出しで楽しげな表情に鼓動が跳ね上がった。乗馬の余韻でまだ僅かにピンク色に染まった頬、薄く開いた唇。刹那の答えを待つ間、グラハムは白い貝殻のような薄い歯を見せて唇を噛んだ。つい一月ほど前の刹那ならきっと歯がゆい思いをしただろう。暴れ出しそうな思いを必死になって抑え込まなければならなかったから。
 しかし、今の刹那は他の方法があることを知っている。
 刹那は背後からグラハムに手を伸ばすと、彼の真白い頬に手を添えた。そして振り向かせるとそっと唇を寄せた。たとえばキス。キスをすると暖かいものが自分の中から湧きだしてくるのを感じる。それは尽きぬ泉のように穏やかに滲み透っていくこともあれば、間欠泉のように激しく吹き出すこともある。これはグラハムとこうしてキスするようになって初めて知ったことだった。
 それだけではなかった。毎日キスするたびに違う新しい発見があった。最初のキスでは、グラハムの唇が想像よりもずっと温かいのを知った。2度目のキスでは彼の睫がきれいにカーブしていることに気がついたし。三回目のキスでは口の中にも性感体があるのを知った。毎日キスを繰り返すたび、新しい発見があるのだ。4年間も傍で生活してきたのに、まだ発見があるなんてすごいことだと思った。

 その時、今度はフラッグが高い嘶きをあげ後ろ足立になったので、あわてた刹那が手綱を取ったが、さらに強く引かれて、よろけてしまう。するとグラハムがフラッグへ近寄って、腹を撫でながらくすくすと笑い声を立てて言った。
「どうやら彼はまだ満足していないらしい……すぐそこに小川がある。そこで彼らに水をやろう」
 指差した先、丘を下ったあたりにこんもりと緑を湛えた並木に並列する小川が流れていた。
 近付いてみると、川幅は優に2メートル程もある。透明度が高い清流に、喉が渇いていたらしく刹那の喉もなる。琥珀色の透明感のある砂に長い水草が清流に現われてゆらゆら揺れている。魚がいるらしく、白い可憐な花をつけた水草の間から、ときどき銀色のナイフのような煌めきが顔を出している。マスかフナか……それが刹那達の足音に怯えて一斉に散った。
 木漏れ日と水面の乱反射が上下から差し込んで視界がちかちかする、刹那は川面に張り出すように枝を伸ばす大きな柳の木陰に立ちつくし、目を細めた。グラハムは早速馬から降りると、水面ぎりぎりまで寄って、愛馬に水を与えた。刹那もそれに倣う。ひとしきり水を与えた後、二人は馬の手綱をすぐ傍の灌木に括りつけて、あとは二頭の好きにさせることにした。二頭はそれぞれ水を飲んだり、下草を食んだりしている。
 ふと隣から派手な水音がしてそちらを向くと、グラハムがしゃがみこんで川の水で顔を洗っているではないか。グラハムは顔を上げて、水滴を振りまくように首を振った。金髪が跳ねて、先から水滴が飛び散って刹那の顔にも水滴が掛かる。やめても金髪から滴が一つ落ち続けているのに気付いた刹那は眉を寄せた。まったく不精にも程がある、シャツの襟までびしょびしょだ。刹那は懐からハンカチを取り出して、グラハムの鼻先へ差し出した。グラハムはありがとう、と言ってハンカチを受け取った。君もどうかね、と誘われて刹那も川に手をつけてみる。水は冷たく火照った肌に心地よい。ゆらゆらと揺れる川面の光を眺めながら、ぼんやりしていると、後ろからどさりと人が倒れる音がする。驚いて振り向いた。そこには土手に長々と横たわるグラハムがいた。
「……服が汚れますよ」
 選択する者の身になってもらいたいものだ、と一言嫌みを付け加える。しかしグラハムはまったく意に介した様子もない。押しつぶした下草の汁が染みになるのも構わずに、相変わらずくすくすと小さな声を立てて笑っている。
「何が可笑しい?」
 傍らに膝をついて問いかける。手のひらにひんやりと湿り気を帯びた地面の感触がした。すると白い手がするりと伸びて、地面にあった刹那の左手に重なった。
「可笑しくはないさ、ただ……何だろうな、良く分からないが……」
 分からないなら口にしなければいいのに、しかしグラハムはどんな時でも口を閉ざすということがない。いい意味でも悪い意味でも。自分の感情に嘘をつかない。彼の言葉は刹那には理解できないことも多いけれど、嘘でないことは信用できる。
 グラハムの唇から零れたのは、空や川や花といった自然を称える言葉だった。その詩のような独特のリズムを持った言葉を聞いていると、自分までこの自然の一部に溶け込んでいくような気がした。
「だが、君の瞳には及ばない」
 よくもまぁそんな台詞が言えるものだ、と驚きつつも、彼の瞳が刹那を見つめている証だと思えば、幸せな気持ちになる。
 横たわるグラハムの頭の脇に、丁度鮮やかな菫が咲いていた。彼のハチミツのような金髪に菫の紫が映えている。自分がもっと雄弁ならば、この光景を美しい言葉で表せるのに。しかし刹那には到底出来そうもない。第一、恥ずかしすぎる。だからせめてこの光景を記憶に焼きつけておこうと思った。彼の金髪を彩る菫の紫やミントの葉、額に掛かる柳の影、細部全てを心に焼きつけておきたいと思った。いつか全てを失っても、それらをいつでも取り出せるように。
「こうしていると、世界の全てが幸せでできていると思える」
 それは幻想だ、と真実を指摘することは容易い。だが刹那は同意もしない代わりに否定もしなかった。ただ無言で手のひらに添えられた温かい手を握り返し、円く曲がった関節にキスをした。
 多分、刹那がグラハムに示せる真実は、この気持ちだけだから。この気持ちだけは、誰にも嘘はつけない。
 だからそれの全部をキスに込めて贈りたいと思う。
 じっと刹那を見つめる、彼の双眸も、この小川のように吸い込まれそうな透明な澄んだ光に満ちていた。そこに吸い込まれそうになりながら、尚も奥を覗くと純粋な光の奥に、自分と同じ、赤くけぶった情慾の炎が確かに透けていて、誘われるように刹那は眼を閉じ唇を寄せた。

「旦那さまーー、昼食をお持ちいたしました」
 あと数センチのところだったというのに……思わずがくりと項垂れた時、頭上から馬車の車輪の音が軽やかに響き渡った。顔を上げると、川沿いの土手を一台の馬車がやってくる。操っているのはハワードで、車窓からはネフェルが身を乗り出して手を振っている。彼女に向かってグラハムが手を振り返すと、馬車は静かに停止して、ネフェルが軽やかな足取りで飛び出してくる。そのあとからは大きなバスケットを持ったダリルと(おそらくランチが入っていることだろう)、パラソルを抱えたアキラが続く。立ち上がったグラハムがいった。
「さぁ、刹那。みんなと昼食の支度をしよう!」
「了解しました、旦那様」
 全部分かってやってたんだな……グラハムのしたり顔がその証拠。してやられたと刹那は臍を噛んだ。負けた腹いせのつもりだろうか、まったく大人げないったらない。
 がやられてばかりでは、男の沽券に関わる。そう、惚れた弱みで只でさえ分が悪いのだ、これ以上主導権を取られては叶わない――もう手遅れの気がしなくもないが――どうしたらいいだろうか、と考えていると一つのアイデアが浮かんだ。かなり突飛だがいい考えだと思う。もろもろの問題を一気に解決できる。刹那は意を決した。嘘がつけないなら明らかにしてしまえばいい。
 そう決意した刹那は果断に行動した。にこやかに駈け出そうとするグラハムの手を掴み強引に引き寄せると、噛みつくようにキスをした。「おお」とか「きゃあ」とか歓声が上がるが気にせず舌を絡めて唾液を吸った。濃厚な口付けに、グラハムの息が上がった頃にようやく解放してやる。驚きと怒りと快感で真っ赤に染まった顔を見て溜飲を下げる。
「……せ、刹那……君という男は……何処までも私の目論みを邪魔してくれるな……こういうことはちゃんとした時期をみて、私の口から皆にきちんと説明しようと考えていたのに……君という男は……!!」
 なら良いじゃないか、説明する手間が省けたと刹那がいうと、グラハムは顔をそっぽを向いてしまう。その子供っぽい仕草に思わず笑いが込み上げて、刹那には珍しく声を立てて笑った。
「そんなの気にしてたの?」
 初心ねぇ、とネフェルがいったのでグラハムの顔が真っ青に変わった。
「なんと……!」
 知っていたのか、という問いかけに四人が同時に頷いた。
「まぁ、あれだけあからさまだと……気付かない方がアホっつうか」
「庭先で抱き合ってるのも……」
 グラハムが奇声を上げて口を塞ぐが後の祭りだ。刹那がいつの話だ!と突っ込めど、アキラは意味ありげな笑みを浮かべるだけで答えない。心当たりがあり過ぎていつのことか特定できない。……キス以上までいたしていることもあるから由々しき事態だ。この発言にはさすがに刹那の血の気も引いた。
「……俺たちはいつもお傍にいるんですから、それくらい気付きますぜ……気にしないでください」
 穏やかに慰めの言葉を口にするハワードへ、ダリルがぼそりと呟いた。
「さっきまで遠乗りに連れてってもらえなかったって泣きごと言ってたくせに」
 うるさい、余計なことをいうなっ、とハワードにがダリルに掴みかかっていく。

「……なんだか悩んでいたのが馬鹿みたいだなぁ」
「ああ、同感だ」
 そして二人は顔を見合わせて笑った。

 空は青く、何処までも澄んで、世界は確かに輝いていた。リンゴの花の匂いを運ぶ甘い風が、二人の頬を撫でてゆき、そして皆の笑い声を乗せて野原へと渡っていった。




「さあ皆、ランチにしよう!」

「さあ皆、ランチにしよう!」

+ end +



2011.1.3


刹那さんが思いっきりアウェーな感じ。
ごめんよ。