『 All or Nothing 』

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 汗ばむ熱気はそのままだが、静かな空気の中で、グラハムは目を覚ました。高かった太陽も、既に隣の家の屋根に隠れて姿を隠してしまった。一つしか無い窓を見上げても、熱を煽ったあの強い西日はもういない。水色のカーテンが掛かった窓、板張りの天井、最初は余裕がなくて改めて見渡してみると、片づいていて素っ気ないくらい簡素だ。初めての部屋、ここが刹那の部屋かと思うと感慨無量で胸が熱くなった。胸に掛かる重みと熱に比べて、背中に当たる畳がひんやりして気持ちが良かった。思わず身じろぐと、下半身の奥から暖かいものが流れ出てきた。刹那のものだ。中に注がれたまま眠り込んでしまった。畳を汚したらまずい、そう思って起き上がろうとするが、覆い被さる細い身体に動きを封じられて適わない。
「刹那」
 声をかけると、黒い前髪の間から澄んだアーモンド型の瞳が覗き目が合った。グラハムはシャワーを貸して欲しいと頼むと、刹那はすぐにまた俯いてしまった。汗ばんだ首筋の上で金髪と黒髪が絡まった。何となく、申し訳ないような気持ちになってグラハムはその髪を梳いてやる。
「……まぁ、後でもいいか……」
 口ごもっても髪を梳く手は止まらない。刹那はそうか、と呟いてグラハムの首に顔を寄せると、軽く触れるだけの口付けを落とした。そこには先ほど彼がつけた跡が残っているはずだ。それを思い起こすだけで、そこからまた熱が浸食を始めた。だが身体は重くて、確かに疲れてもいた。もう一度抱き合うよりはくっついてじっとしていたくてグラハムは口を開いた。
「……私は、これまで自由だけを求めてきた」
 誰かに束縛されるのが何よりも嫌だった。誰のものにもなりたくなかったし、誰も独占したいとは思わなかった。だから求められればよほど気が合わない人間でなければ付き合ったし、セックスもした。そういう付き合いでこれまで一番長く続いているのはカタギリだ。彼の才能は尊敬に値すし、優しく誠実で信じるに足る男だと確信している。彼とは性格は全く違ったが、そういう人間関係の根本的スタンスがよく似ていた。つかず離れず、だから互いに無理をせずいられた。それはこれからも変わらないだろう。彼と付き合えばきっと上手くいく。夫婦のように、長い時間を過ごして、最期には相手に看取られて死ぬ。そんな人生が送れるかもしれない。
 それも悪くない、……いや、自分にはもったいないくらいの人生だと考えていた。刹那に出会う前は。
 二人分の鼓動と呼吸音しか聞こえない狭い部屋の中で、上がった息を整えながら、グラハムはじっくりと身体にのし掛かる重みを味わってみた。セックスのあと、こんな風な気持ちになるのは初めてかもしれない。一つになれた達成感と、また離れてしまった寂しさとがない交ぜになって、でも確かに幸福だと感じた。この気持ちは今だけかもしれない。明日になればまた、つまらない嫉妬をしたり疑心暗鬼に苛まれて自己嫌悪に陥ったり、アップダウンを繰り返し忙しくなるに違いない。だが今は刹那はこの腕の中にいる。誰のものでも無い、自分のものだ。そう感じられて、うっとりと笑んで頭を抱えるように抱きしめる。
 温もりに幸福を感じていると、突然首筋に痛みを感じて、俯くと刹那が鎖骨に歯を立てている。穏やかな時間を破られて顔を上げると、そこで真剣な表情の刹那と目が合った。
「……俺以外とは寝るなよ」
 普段、無表情でクールな彼がこんなことをいうとは!思いがけない事態だ。鋭い視線で射貫かれて、背筋にぞくぞくとした震えが走る。こんなことで興奮してどうする……理性はそういうけれど、気がつけば脚を割って絡まってきた彼の脚に、グラハムも脚を絡めて返した。
「……君の口からそんな台詞が聞けるとは」
 不機嫌そうな額にキスをしていたら、ふと思いついた事実に、思わずほくそ笑んだ。
「そういえば、この1週間誰ともセックスしていなかった」
 すると、長い溜息のあと、刹那がごろりと畳に仰向けになった。離れた温もりに物足りなく感じていると、ぎゅっと頬を抓られて、短い悲鳴が上がる。
「やっぱり……あんた、俺以外とも寝てたのか」
 容赦なくぎゅうぎゅうと頬を抓られたまま攻められて痛みで涙目になる。腕を振って抵抗して漸く手を離される。
「……はっ……しょうがないではないか、君は時々しか相手をしてくれないし……」
 こちらから連絡しても空振りの方が多かった。だからその寂しさを紛らせるためにも、人肌の温もりが必要だったのだ。だが、そんなことは口が裂けても言えない。
「君は私より十一も若いし、大学には若くて可愛らしい女性がたくさんいるだろうし」
 一緒にいた彼女のように……そう、だからいつ心変わりされてもいいように、あまり深入りはしないように、予防線を張っていたのだ。我ながら愚かなことだ。辛いなら止めればいいのに、しかしその痛みも彼がくれたものだと思えば愛しくて、結局手放せなかった。正か誤かで割り切れないのが、人の気持ちなのだ。そんな当たり前のことにこの年になって気づかされるとは、彼の顔が見られなくて、にじり寄って胸にすり寄る。拒まれなかったことに安堵していると、刹那が言った。
「もう年のことは言うな……俺も気にしているんだ……それに、年と浮気は関係ないだろう」
「無いが、全く無いかといえばそうでもない……そんなことより、気にしているとは……?」
 と聞き返そうとしたら、刹那がぎゅっと抱きしめてきた。そして耳元に吹き込まれる。

「俺は今のアンタが好きだ」

 だから、もう俺以外とは寝るな、と言われた。そんな風に言われたら――グラハムはぎゅっと強く抱きついた。
「月並みな台詞だが……これほど嬉しい言葉はない」
 刹那の頭を抱え込んで顔中にキスの雨を降らす。
「好きだ、好きだ、君が好きだ」
 本当に、君が好きだ。気持ちが溢れてどうにかなってしまいそうだ。
 表面上は静かすぎる時間に、しかし心の中ではいろいろな感情が渦巻いて溢れてきそうだ。だが疲れた身体は睡眠を欲していた。それに次第に意識が引きずられていく。徐々に暗くなっていく室内で、温もりに包まれて心地よすぎて眠くなる。朦朧としていく意識の中で穏やかな刹那の声を聞いて、グラハムは微笑んだ。
 夕食は何を食べよう。
 出来れば刹那の一番好きな料理がいい。
 彼が毎日を暮らす場所で、いつもの食事を一緒に食べる。そんなことが叶うなら。うつらうつらにそんなことを考えながら、グラハムは眠りに落ちた。

+++ +++ +++

「空が高くて、なかなかいいところではないか、少年!」
 梅の花がほころび始めた季節。高台にあるマンションの5階からは薄靄のかかった3月の空が広がっていた。比較的郊外にある新築マンションの一室がこれからの二人の生活空間となる。ベランダから、グラハムは新しい空気を胸一杯に吸い込んで、同居人を呼んだ。
 刹那は大学を卒業し、4月からは社会人になる。卒業と同時に二人は一緒に暮らすことにしたのだ。
 朝起きると、刹那がいる。一緒に朝食を食べて仕事に向かい、夜は同じ家に帰って同じベッドで眠る。ふと気づいたことがある。グラハムにとって誰かが暮らす家に帰るということはこれが初めてのことだった。誰かと毎日同じ食事を採って、「いってらっしゃい」と「おかえり」を言い合う。
 あの頃は、そんな風に考えたこともなかった。
 追いかけることに必死で、将来を思い描く余裕など無かったけれど、気がつけばこうして一つの区切りを迎えた。これからどうなるかは、グラハムにもまた刹那にも解らない。がきっとこれまでと同じだ。止めようとしても止められるものではない。
 ……実は今日もカーテンの色で一頻り揉めたのだ。グラハムはモノトーンでインテリアを統一するつもりだったのに、刹那は青がいいという。結局互いに譲らず、未だ窓にはカーテンがない。そんな些細な諍いにも、ふと笑顔が零れるときがある。怒ったり傷ついたり時に空回りしながら、それでも続けようと努力していくだろう。
 彼が好きだから。一緒にいたいから。この気持ちが続く限り。
「少年、少年っ、――刹那!」
 何度、呼んでも返事はなく、仕方なく室内に戻ると、まっさらな真新しい部屋に残る塗料の匂いが鼻をついた。リビングには、二人用のダイニングセットとソファを置いた。ベッドルームにはベッドが一つ。部屋にあるのはそれだけ。ほかにはいらない。仕事は、彼との愛の巣には持ち込むのは相応しくないから、別に仕事部屋を確保している。そのくらいの贅沢が出来るくらいには蓄えも出来た。おかげで都心の部屋は借りられなかったが……通勤時間は40分。だがこの開放感は利便性とは変えられないな、と実感していると、カタンと寝室のドアが開いて、黒いスーツを着た刹那が出てきた。その姿にグラハムが目の色を変えた。
「おおっっ仕立て上がったのだな、いいではないか!!」
「……そうか?」
 相変わらずの無表情だったが、わずかに頬が赤い。たぶん照れているのだろう。
「惚れ直したぞ、少年……!」
 抱きつこうとするが、するりと交わされてしまった。
「……いい加減、少年は止めろ」
 細身の引き締まった体躯を黒のベーシックなスーツが覆っている。就職祝いにグラハムがプレゼントしたしたものだ。細身の下手が彼の均整のとれた手足を引き立てて、立っているだけで若々しさが溢れていた。シャツは水色で、コバルトブルーが鮮やかなストライプ柄のネクタイが爽やかだ。うっとりと溜息を零しながら鑑賞していると、刹那がやや固い声で言った。
「普通の既製品でも良かったんだが」
「何を言っている、黒のスーツならフォーマルな場所に着て出られるし、一着はいい物を持っていた方が絶対にいい」
 第一、似合っているのだから問題ない、と断固として主張する。予想以上の出来栄えに我ながらいい仕事をしたと思った。元がいいのだから何を来ても似合うが、やはり男はスーツ姿が最高だ。これからは毎日この姿が見られるのだと思うと、うきうきする……そう刹那のネクタイを直していると、急に肩に顎を乗せて彼が言った。
「せっかく着替えたんだから、食事にでも行くか?」
 耳に直接吹き込まれた呟きに背筋が泡立つ。それを知ってか知らずか(おそらくは前者だ)刹那はさらに顔を近づけてくる。鼻梁を頤に擦りつけられて、グラハムは焦った。
「それ以上は止めたまえっ」
「何故だ?」
 どうせ暇だろ、そう言われるとぐうの音も出ない。
「……これ以上すると、君を裸にしたくなる」
 揶揄うつもりでそう返したのに、刹那は離れなかった。それどころか、今度は指でグラハムのシャツの襟を開いて唇で触れた。ますますまずい。焦ったグラハムは襟を掴んで引き離して叫んだ。どうせ脱がすなら、もう少し堪能してからにしたい。
「君からのデートのお誘いを逃がすのは惜しい!!」
 沈黙が落ちる。
 窓の外には、二度目の春の空が微笑んでいた。そのわずかに霞んだ柔らかな水色を思い浮かべながら、ほんのりと灯り始めた熱に溜息を吐く。
 まだ、陽は高い。ベッドに籠もるには早い時間だ。それに本当に珍しいのだ、彼から誘いかけてくるということは。
 新しい町で、右も左も解らないから、そぞろ歩いてお気に入りのレストランを探そう。それからカーテンも決めなければならない。二人でやることは沢山あって、目が回りそうだ。
「否定しないのだな?」
「外れてはいない」
 不器用にそう返した背中に、グラハムは微笑んだ。



 この結末は終わりでは無い。
 幸せも痛みもすべて、君と共に。
 これから、続いていく毎日はきっと愛しいものになるだろう。

++ end ++



2011.4.6