『 All or Nothing 』

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 じっとりと汗ばむような暑さのなか、一つしか無い窓からは西日が畳に陰を焼き付けていた。刹那はジーンズの脚を崩して、片膝を立てた体勢で、真っ直ぐに正面に座るグラハムに視線を向けた。カタカタと扇風機の羽根が回る音がして、風に当たったグラハムの癖毛がふらふらと揺れている。この部屋にはクーラーがないため、前の住人から受け継いだこの扇風機が唯一の涼をとる機械だ。グラハムは白いシャツを着て、膝を揃えて正座している。その真っ直ぐなシャツの襟と同様にぴりっと張り詰めた姿勢に、いつもの部屋のすり切れた畳や染みの浮き出た壁の見窄らしさが余計に目立つ気がする。
 ちゃぶ台の上にはスポーツドリンクが注がれたグラスが二つ、刹那はその一つを手にとって、残りをすべて飲み干した。カランとグラスの中の氷が崩れる音が、沈黙を破る。部屋に入ってから二人とも一言も発していなかった。ちゃぶ台にはグラスからしたたった水滴が丸く跡を残している。グラハムのグラスは一切手をつけられていない。彼は微動だにせず、唇を引き結び、形の整った眉をきゅっと寄せて、ただその流れ落ちる水滴を凝視しているようだった。
 その様子を観察しながら、刹那はここ数日間ずっと心に巣くっていた凝りが、グラハムを信じられない自分の弱さとか嫉妬とか、自信のなさから発生したそうした灰色の感情がすっと薄らいでクリアになっていく気がした。完璧になくなった訳ではない。引っ越しのことどうして黙っていたのかとか、何故連絡をよこさなくなったのかとか、まだ怒っているし疑問にも思っている。しかし、自分の部屋で緊張して縮こまっているグラハムを前にすると、なんだかどうでもよくなった。学校で触れた彼の手の温もりが蘇る。グラハムは今、とりあえず、目の前にいて難しい顔をして座っていた。
「楽にしたらどうだ」
 声を掛けると、グラハムの肩がびくりと揺れた。ぴりぴりした緊張がこちらにも伝わってくる。
 楽にしろといったのに、かえって肩が張っている。いつもは無遠慮にこちらの間合いに入ってくるのに、随分しおらしい態度だなと感心した。やろうと思えば黙っていられるんだな、そんなことを考えていると、グラハムがぎゅっと拳を握りしめて俯いた後口を開いた。
「今回の失態……まったく始末書ものだな」
 淡々とした口調で言葉を繋ぐ。大学での警備員との悶着のことを言っているのだろうが、しかし失態と言うほど大げさなものではないだろうに、刹那は首をかしげながら話を聞いた。
「君の大学であのような騒ぎを起こしてしまった。迷惑をかけた、すまない」
 頭を下げるグラハムに刹那はそんなことは気にするな、と返した。それっきり再び二人の間に沈黙が降りる。しかし今度の沈黙はそれほど長くは続かなかった。グラハムが口を開いた。
「あの少女とつきあっているのか?」
 予想外の質問だった。刹那は驚いた。あの少女とは誰のことだろうかと考えるが、自分とグラハムの間で共通の知人などたかが知れている。きっと大学で一緒にいるところを見られたフェルトのことだろう。彼女は大学で同じ授業を選択している関係で比較的よく話をする友人だ。ニールとも仲が良いし、時々このアパートにも遊びに来る。だが、それだけだ。それがいきなり「付き合っている」とか飛躍しすぎもいいところだ。どうしてそうなる……無意識のうちに溜息が零れた。確かにほかの女子と比べればずっと親しいが、だからといって、単に会話しただけで即恋愛関係だと邪推されてはたまらない。
「――何故、そんなことを聞く?」
 ひょっとするとずっと黙っていたのは、フェルトのことを考えていたからだろうか。
「……可愛らしい女性だった」
 刹那は目をぱちくりと瞬いた。可愛い……確かにフェルトは可愛いと思う。だが、それがどうグラハムに関係するというのだろう、刹那には理解出来なかった。なぜ彼女のことなど気にするのだろう。思いつくことと言えば……
「嫉妬か」
 グラハムがようやく顔を上げた。気まずそうな表情だ。その手が次第にわなわなと震え出し、吐き出された言葉はいつもよりも乱暴だ。
「……悪いかっ」
 かっと目を見開いてグラハムが叫ぶ。拳をテーブルに叩きつける激しい音が狭い部屋に響き渡った。
「ああ、そうさ、私はあの少女に嫉妬している。年甲斐もなく、さもしいにもほどがある」
 感情を爆発させたグラハムは、先ほどまでのしおらしさはどこへやら、顔を赤くして緑色の目を炯々と光らせて刹那に迫った。
「君は、未来のある若者だ。格好いいし、真面目だし、アルバイトしながら勉強もして、未来に向かって努力する姿は、とても魅力的だ……女性が放っておくはずがない」
 衝撃でコップが倒れてスポーツドリンクが零れたが、構わない。こんな風に感情を顕わにするグラハムは初めてかもしれない。彼はいつも率直にものを言ったが、かといってすべてを明け透けにするわけではなかった。いつもある種の壁を感じていた。それが今は剥き出しだ。
「それに比べて……私は、11も年上で30も過ぎた。小説家なんて仕事は不安定だし、ぽっとでの新人で、これまでなんて友人の親戚から部屋を借りてやっと生活してたくらいだ。ここ数作はようやく売れるようになって……やっと独り立ちして自分で部屋も借りた。でも今はメディアに持ち上げあれていても、いつまた地に落ちるかわからない……正念場なんだよ、今が。恋愛ごときに悩んでいる余力など無い……!」
 驚いた、グラハムが自分の立場をそんな風に捕らえているなんて全く知らなかった。さっきから驚いてばかりだ。いつも余裕綽々で自信に溢れているように見えたのに、内心では不安を抱えていたというのだろうか。そんなの全然想像したこともなかった。そして同時に、自分とのことをちゃんと“恋愛”と捉えていることに驚きも感じた。知らないことが多すぎる。自然と頬が熱くなって、それを感づかれたくなくて、わずかに顔をそらした。それを何か勘違いしたのか、グラハムがさらに声を荒げた。
「にもかかわらず、私はいまここにいる。君が心変わりしたのではないかと想像しただけで…………君を殺して私も死ぬ」
 がたんとコップが倒れたときよりさらに大きな音がした。グラハムがテーブルを乗り越えてこちら側へやって来た。ちょうどグラハムの背中から西日が差し込み眩しくて目を細めるが、目の前に立ちはだかった男はそんなことは意にかえさず、真っ白な顔色に唇だけを赤くして、呻くように言った。
「追いかけて、追いかけて、やっと届いたと思ったらまた離れていくのか」
 視界が反転した。後頭部が強く畳に叩きつけられて痛んだが、それよりも腹に乗られて首を押さえられて息が苦しい。鬼気迫る表情――殺される――恐怖を感じた。だが、グラハムの両手はすぐに離れて、代わりにTシャツの裾をたくしあげていく。顕わにされた肋骨に口付けが落ちる。それを合図にジーンズのジッパーが引き下ろされて、灰色の下着が顕わになった。そこはまだ反応してはいなかった。グラハムの指が触れて軽く揉まれると熱を持ち布を押し上げ始めた。急な刺激に思考が追いついていかない。寸でのところで理性が叫んだ。このアパートは築30年で壁が薄い。大声の会話など筒抜けだ。
「止めろ、隣に聞こえる!」
 その時隣から勢いよく水の流れる音がした。隣はティエリアの部屋だ。彼がいる、聞かれたらまずい、死んでもまずい……そんなところでこれ以上進められない。刹那は必死で抵抗した。しかし体格は互角で、しかも上からのし掛かられていればそう簡単では無い。グラハムは一向に力を弱めない。それどころか腰をがっちり押さえたままで四つん這いに体勢を変えてずり下がっていく。
「私のことを、馬鹿だと思っているのだろうな――あぁ、こんなことにして……」
 いつも派手に喘ぐいで、声を聞かれて困るのはあんただと思うが。刹那の心配を他所にグラハムは遂に下半身へと到達した。はあっと熱い息が下着に掛かる。興奮しているのか緑目を爛々と光らせて下着に手を突っ込んだ。
「それもこれも君のせいだ」
 そういうとグラハムは、赤い舌を差しだして、剥き出しになった欲望の証に口づけた。そのまま先端を飲み込み、くわえては舐め、吸っては揉んで、食いついてはキス、と一心不乱に繰り返す。柔らかな金髪が下腹部を撫でる。一旦、口から離し頬擦りする、その体勢で視線があった。ゾクゾクと背筋が震える。それほど目の前の光景には破壊力があった。普段は潔癖そうに引き締まった唇が涎を垂らしてしゃぶりつき、女のようにくわえて奉仕しているのだ。見せつけるように先っぽだけをくわえたまま上目使いで見つめてくる。堪らなかった。フェラチオされるのは始めてではないが、今日はいつもより興奮した。
「……ぅ……はっ……」
 止めさせたくて、刹那は身を乗り出してグラハムの金髪を撫でようとした。そこで強く吸われて思わず髪を引っ張ってしまう。グラハムの痛そうに眉を寄せる表情にも欲情を掻き立てられる。荒い息を詰めて、あと少しでいく、というところ最後の刺激を待っていたのに無情にもグラハムが顔を上げてしまった。
 そして刹那の身体の上で、高々と腰を突き上げて自分からスラックスと下着を引き下ろした。右手で頬を押さえられ、白い指先が力尽くで唇を割って舌先に押しつけられた。たっぷりと唾液を絡め出て行った指が、今度は白い双丘を割り裂いて赤く色づいた秘所へと飲み込まれていく。高々と掲げられたそこは、刹那の目からもよく見えた。思わずつばを飲み込むと、グラハムが笑った。
「浮気するなとは言わない、君だって女性に興味はあるだろうし、そんなこと言える筋合いじゃないのは理解しているつもりだ。君に好きな女性ができたら……その方が私みたいな年上でしかも男で変人に纏わり付かれるよりずっとずっと幸福になれるさ。私と付き合ってたって君の将来にはなんのプラスにもならない、私と別れたってすぐに可愛らしい恋人を見つけられるだろう。でも私は……」
 自ら秘所をほぐしながら、上気する赤い頬、湿った呼気を吐き出す唇。涙をためて嗚咽をこらえて必死に咥える姿がいじましく、可愛いと思ってしまった。
 途端にかーっと全身が熱くなる。それに逢わせて熱棒がさらに堅さを増した。そこにグラハムが口を離して、頬ずりする。
「また大きくなった」
 大きな緑色の瞳をぬるりと光らせながら、自分から熱棒を飲み込んでいく。膝まで引き下ろされたスラックが邪魔そうだ。十分解れていない入り口は締め付けがきつくなかなか奥まで入らないが、グラハムは大きな溜息を吐きながら、腰を落としていく。徐々に飲み込まれる赤黒い欲望の証、全体を熱い粘膜が包み込み、目も眩むほどの快感がせり上がって刹那の理性を焼いていく。真っ白になる。
 グラハムはそのまま上体を滑らせてキスしてくる。やや苦い味の口づけだが、ためらわず舌を絡めた。その間に、グラハムの背中から白いシャツをめくりあげて、素肌を晒す。肋骨をたどるように撫でていき、指先に引っかかった突起をつねると、滑らかな背中がビクンと跳ねた。
「……ぁん……」
 敏感な脇腹を撫でられてグラハムの口から堪え切れないという風に声がでた。するとグラハムは赤い唇をくいと持ち上げて笑った。隙間から白い歯と赤い舌が覗く。ペロリと唇を舐める仕草に魅いられてゾクゾクとした寒気が走った。肉食獣を思わせる凶暴で飢えを顕にした仕草だ。グラハムは緑色の瞳を炯々と光らせて迫ってくる。貪欲さを隠そうともしない。刹那はそれを息をつめて待ち受けた。
食べられるのを待つ餌か、それとも彼が狩に失敗して餓死するのを待つハイエナか。獲物に夢中で無防備な背中を狙うライオンか。グラハムは刹那の上でゆっくりと腰を上下した。喰うか喰われるかの緊張感、金髪を振り乱しうっとりと半目で見下ろされ、異常に興奮した。
「グラハム」
 刹那はグラハム腕を掴んで名を呼んだ。
「本当に、馬鹿だ私は」
 こんなことでムキになって、と微笑むグラハムの瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
「本当にな」

 そのまま状態を起こして、無理矢理に態勢を入れ替え、畳の上に押し倒した。そして目の前にさられた白い身体に容赦なく熱棒を打ち付ける。
「ぁっ、ああ、あああ、……せつ、な……ぁ」
 腰を抱えて、上から叩きつけるように押し入っていく。高い喘ぎ声とぱんぱんと乾いた音が部屋に響いた。
「だが、そんなところも、……可愛いとは思う」
 荒い呼吸と激しい動きに声が詰まる。それでもすべて言い終えたとき、刹那の欲望が頂点に達した。中で弾けた熱い飛沫、同時に、二人の腹の間にも熱い飛沫が飛び散った。すべて飲み込んで、グラハムが満足そうに笑んだ。

 暫くは動けないほどの快感に包まれて、満足感と幾ばくかの寂しさを味わっていた時。
「……五月蠅いっ、いい加減にしろっ!!」
 はん、と派手な音を立てて扉が開いた。誰か来た、グラハムの喘ぎ声に掻き消されて気づかなかったのだ。刹那は慌てて下半身を隠そうと試みるが、氷点下の視線が突き刺さって無駄だと知った。誰かは顔を見なくても明らかだ。
 顔を上げると、予想通りそこには怜悧な美貌をさらに尖らせてティエリアが立っていた。眼鏡を差し上げる仕草に、レンズが光る。刹那はグラハムが目を合わせないように、頭を押さえた。
「君ならここがどういう場所かよく解っているはずだ、刹那。君たち行為は、万死に値する」
 それだけ言うと、ティエリアは来たときと同じように大きな音を立てて出て行った。
 もそもそとグラハムが動き出す。
「……次からは私の部屋にしよう、刹那」
「同感だ」
 異論は無かった。

++ continued...



2011.3.23