『 All or Nothing 』

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 パーティから一週間がたった。
 グラハムは引っ越したばかりのマンションの一室で、携帯の着信履歴を睨みつけて、重い溜息を吐いた。
 新しい部屋は、リビングにはフローリングに黒いソファーが一つと液晶テレビが一台あるくらいで、床には手つかずの段ボール箱がいくつか転がっていた。そのほとんどは資料用の本だ。リビング以外は仕事場兼書斎と寝室だけというシンプルな作りだった。前の部屋よりは随分狭くなったが、ココの方が分不相応で落ち着く。グラハムは部屋の中央に置かれた黒い二人掛けのソファに腰掛け、黒い携帯電話を睨みつけている。久しぶりに自由な時間が取れて、思いついて開いてみたのだが、予想以上に結果は殺伐としたものだった。
 履歴リストには見慣れた名前がならんでいる、編集者や仕事関係の担当者や、カタギリなど、どれもよく知った者ばかりだが、その中には今もっとも望む者の名前はない。
 ずっと画面をスクロールしていってやっと刹那からの履歴がでてきたのがあのパーティの翌日のことだった。あの日は引っ越しの準備をしてから短編の締め切りで気づかなかった。それで原稿がひと段落付いてからすぐに電話したが、今度は刹那がでなかった。おそらくバイトの時間だろう。
 ただ、メールの着信があって、そこには簡潔に「忙しいんだな。気にしていない。だから俺にかまわず働け」とあった。
 忙しくしているのを気遣っている文面だ。だがそっけないものだな、と物足りなさも確かにあった。だが刹那からのメールをみるだけで、心が逸って、今すぐにでも彼に会いたくなってしまう。だがそれはできなくて、結局返信もしなかった。
 少し、頭を冷やさなければ……そうしないと、とても仕事など手に着かない。こんなことではいけない、今はグラハムにとっても正念場だった。注目を受けているうちにいい加減な仕事などしてしまえば途端に信用を失ってしまう……だから、しばらくは自分から刹那に連絡を取ることを控えようと決めた。声を聞けば逢いたくなるし、逢えると決まったらきっと彼のことばかり考えてしまう。
 だから、少しの間だけ刹那と距離を置こう、そうグラハムは断腸の想いで決断したのだ。

 だが。
 それにしたって、一週間も声を聞けないとは予想外だ……グラハムの欲求不満は爆発寸前まで高まっていた。たしかに、刹那の方から連絡をよこすことは決して多くない。だからといって、一週間も音沙汰なしということはこれまでになかった。
 どういうことだろう。まさかっ……とグラハムの脳裏に最悪の可能性が浮かんだ。
「……まさか……私に厭きたとか……??」
 もしくはほかに好きな人でもできたとか……あの刹那に限ってそんな不実な真似などするはずもないとも思う。無愛想だが情熱的な面もあって、そんなギャップにグラハムは翻弄されたものだ。が、しかし、本当にそうだろうか。
 グラハムは刹那のことを宿命の恋人だと思っているが、刹那からそこのところをはっきりと聞いたことはなかった気もする。記憶をたどって思い出そうとしてみるも、確かに刹那の口からグラハムのことを「恋人」だというのを聞いたこともなければ、「愛している」「好きだ」といった言葉すらでたことがないのではないだろうか。行為の最中刹那はほとんど無言だった。だが彼の情熱は十分すぎるくらい感じることができたから、今まで不満に感じることもなかったのだが。
 大学には若くて可愛らしい女の子もたくさんいるだろうし、刹那はあんなにも魅力的なのだ、ほっとかれるはずがない。私なら何をおいても全力でアタックする。しかしそうなると、刹那にグラハムのほかに好きな人ができたとしても、彼をとどめる枷はなにもない。
 急に不安になってきた。
 もし、そうなったら……刹那の口から「別れたい」と言われたら……
 ちょうどその時、携帯の着信が鳴った。思わずびくりと全身が痙攣する。刹那からだった。もし別れ話だったら、そんな想像がどんどん大きくなってきて、息も詰まりそうだ。
どうしよう、どうしようといっても出なければいけない、出なければならないが、手の中で携帯が彼のためだけのメロディーを発して震えている。
 こんなことではダメだ。すべてはグラハムの想像に過ぎない。刹那の口からはっきりと気持ちを聞くまでは、彼を信じなければ。
 ようやくそう決心がついて、携帯を開いた時、無情にも着信が切れた。すぐにかけ直そう、そう思ったが、電話しても何を話したらいいか分からない。今のままなら、開口一番彼を詰るようなことを言ってしまうに違いない。そんなこと、10も年上の自分がそんな女々しい態度をとったら、鬱陶しい男だと、嫌われてしまうのではないか。それこそ愛想を尽かされてしまうかもしれない。
 すると再び携帯が鳴った。
 今度は何も考えずに通話にでる。
 しかし期待は裏切られた。
「やぁ、グラハム」
 出たのは親友の穏やかな声で、グラハムはソファに深々と沈み込んで天井を仰いだ。
「……カタギリか」
「どうしたの、なんか浮かない声だね」
「大したことは……いや、あるか少々落ち込んでいたところだ」
 カタギリに隠してもしょうがない。
「刹那くんとはあれから逢えた?」
 カタギリはのんびりした様子で核心をついてきた。これだから彼は侮れない。
「いや……電話もしていない」
「珍しいねぇ」
「仕方がないだろう、今彼の声を聞いたら……私は我慢できる保証はない。仕事なんて……」
「ああ、はいはい。それ以上は考えないでね」
 暫くの間の後、少しだけ真面目な声でカタギリがいった。
「君さぁ、引っ越しのこと刹那くんにちゃんと説明したの?」
 そういえば……引っ越しのこと、彼に話していなかったかもしれない。なにせ急に決まったことだし、あの辺りは思うように逢えなかったから、逢えば言葉も惜しんで抱き合っていた。本当は無理にホテルに呼び出したのも、それを説明したかったからだが……
「こないだ彼が部屋に来たんだよ、で引っ越しのこと知らなくて驚いてたみたいだからさ」
「それは何時のことだ!?」
「……ええと、僕が荷造りの手伝いに行った日だから」
「パーティの翌日のことではないか!」
 そうだねぇ、と暢気な声で肯定され、グラハムの中で何かが切れた。
「なぜ、それを早く言わないっっ!!」
 なんということだ、こんなことで誤解されて終わりだなど納得できない。直接会って説明しなければ、そう思ったらいても立ってもいられず、早々に通話を打ちきり、グラハムは部屋を出た。

 刹那の大学は比較的郊外にある。初めて足を踏み入れた大学は明るく活気に満ちていた。実は大学に行っていないグラハムは興味津津だが、とりあえず刹那を探さなければならない。が一体どこへ行けばいいのか……思いたったら即行動することは、グラハムの長所でもあったが、この場合は明らかに悪い方へと働いた。途方に暮れていると、校門の傍に警備室があるのが見えた。とりあえず中にいた初老の警備員に尋ねた。
「すまないが工学部の教室はどちらかね?」
 警備員に名を尋ねられたのでフルネームで答えると、警備員は手元のリストを照合していく。A4の紙の上をゆっくりと動く皺だらけの指の動作にも苛立ちが募っていく。
「ともかく工学部の教室を教えてくれればそれでいい」
 警備員は色分けされた校内図を差し出して説明し始めた。
「すいませんけどねぇ、一般の方が入れるのはこの赤い部分だけなんですよ。工学部はこの緑色の部分で一般の方は立ち入りをご遠慮いただいておりまして……職員にご用の場合でしたら、お名前と学部が分かれば確認できますが」
 男のゆっくりとした話し方に苛立ちが募ったグラハムはとっさにその地図を取り上げた。
「そんな道理、私の無理でこじ開ける……!」
「ちょっと、あんた何するんだっ……」
 初老の警備員があたふたとブースから飛び出してくる間に、グラハムは走りだした。


 総合大学であるだけに校内は馬鹿に広い。グラハムは手に入れた地図を頼りに歩いたが、工学部だけでも似たような鉄筋コンクリートの校舎があって、その間を大きな木が埋めていて、どこへ行っても似たような景色で、一体自分がどこへ向かって歩いていたのかもよくわからなくなってきた。地図を手に入れておいて良かった、とグラハムは心の底から思った。だが、そもそもこの広い校舎のどこにいけば刹那に逢えるというのだろう……
 そうだ電話。とりあえず、迷子になる前に、刹那に電話してみよう。ようやく思い立った時、目の前の光景に目を見張った。
 道を曲がって一人の生徒が歩いていく。その後ろ姿にグラハムの鼓動が高鳴った。あの背丈、それから細いが引き締まった身体つき、白っぽいシャツの襟足から伸びる褐色の首筋に、無造作に跳ねた癖の強い黒髪……間違いない刹那だ。グラハムはほっと息を吐き出した。が安心したのも束の間のことだった。
 刹那は一人ではなかった。
 隣に同級生だろうか、ピンク色の髪をした可愛らしい少女と何か話している。何を話しているのだろう、内容は分からない。が見知らぬ少女はわずかに顔を上向けて、刹那の顔を見つめている。少女は、大きな瞳を輝かせ、控えめな微笑みを浮かべて何やら話しかけている。そしていつもクールで表情を変えることが少ない彼が、きちんと少女の笑顔に答えるように目を合わせて話を聞いている。横顔なので定かではないが、見ようによっては穏やかに微笑んでいるようにも見える。
 そんな穏やかな顔、グラハムの前ではついぞ見せたことなどないではないか……グラハムは唇を噛んだ。

「あ、いたっ!!」
 とその時、背後から叫ぶ男の声がして、数人の大きな足音がした。
「ちょっとあんた、止まりなさい」
 一人は先ほどの警備員だ。そのほかにもう一人、赤毛の長髪に顎髭を生やした背の高い男が一緒だ。シャツにネクタイという格好で、首からストラップをぶら下げているから大学の職員だろう。
 その騒ぎを聞きつけたのか、刹那が振り向いた。そして目が合う。
「……グラハム……?」
 逃げた方がいいのだろうが、まるで金縛りにあったように足が動かない。すぐに警備員に腕を掴まれたが、振り払う気力もない。誰かが何かを喋っているが、それも気にならない。
「すいません、この男は自分の知人なんです」
 とそこへ刹那が割って入った。
「どうしても今日中に提出しなければならないレポートを家に忘れて、それで届けてもらいました」
「だったら最初からそう説明すればいいじゃないか……」
 呆れ顔の警備員を押しのけて、背の高い青年が低い声で尋ねた。
「……おい、刹那こいつは……」
 どうやらこの青年は刹那の知り合いらしい。青年が何か言いたげに刹那の方を窺うが、刹那は青年を一瞥し頷いたあと、警備員に向かって話し続けた。
「本当にすいませんでした。俺がそういうのよくわからなくてきちんと説明していなかったから、本当に大事なレポートだったので彼が誤解してしまって……」
 警備員と職員が顔を見合わせて相談している。刹那の知り合いらしい青年が、グラハムのことを不審者ではないと口添えしてくれている。ふと手のひらに温かいものが触れた。そしてきゅっと握られる。その手は握り返す間もなくすぐに離れてしまったけれど。



「……あんた、何やっているんだ……」
 結局、地図を返したら特に咎められることもなく、グラハムは解放された。もともと刹那に逢う以外には他意はないのだ、当然だ。そして青年と警備員は去り、少女も刹那と二言三言会話した後、いなくなった。
 二人きりになった、がグラハムは無言のまま立ち尽くしていた。刹那に促され漸く歩きだすが、正直いろいろ恥ずかしくて顔も碌にみられない。考えてみれば、大学まで押し掛けたあげく警備員と騒ぎまで起こしてしまった。大事には至らなかったとしても、彼の大学での評価にも影響したりはするまいか?
 しかし刹那は相変わらずの無表情で怒っているのかどうかも分からない。
「何しに来た?」
 そっと横顔を盗み見ると、刹那の表情は硬い。先ほどまでに穏やかさは嘘のようだ。胸がぎゅっと押しつぶされたように痛む。
「君は……あの少女と付き合っているのか?」
「……は?何をいっている……」
 自分でも支離滅裂で訳が分からないが、乱れた感情が溢れ出て止まらない。
「だから、もう飽きたというのか。それとも最初から彼女のことが……」
 とても可愛らしい少女だった。ああいう娘が相手ならきっと刹那も楽しいだろう。今みたいにきつく眉を顰めた険しい表情などすることはないに違いない。
「おい、ちょっとまて、フェルトはそんなんじゃ」
「じゃあ、なんでメール一つ寄こさない。私は、私はずっと待っていたのに」


「グラハム」
 すこし、落ち着け、と刹那が二の腕を握って、顔を覗きこんでくる。その赤茶色の目はいつも通り涼やかで一点の濁りもない。グラハムは大きく深呼吸をしてから、その目を見返した。するとその表情が僅かに和らいだような気がした。
「ココでは落ち着いて話せない……ウチに来い」

++ continued...



2011.2.13