『 All or Nothing 』

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 電車がフェンスの向こうを通過した。終電だろうか。刹那はボロボロのスニーカーをはいた足で堅いアスファルトを踏みしめて、電線の向こう、都心部の遠いネオンを仰ぎ見た。電車が通り過ぎればあたりには民家の照明と小さな街頭しかない。動くものもなく、至って静かだ。刹那は駅からアパートまでの帰り道をとぼとぼと一人で歩いた。
 アパートまでは15分ほど歩かなければならない。住宅地の細い路地は暗く、足元も不確かだった。
 行かなければ良かった。胸の内にわだかまる暗い感情に、後悔の念が沸き起こる。
 やはり自分と彼は住む世界が違うのだ。彼はきっと今頃、受賞記念のパーティで煌びやかなスポットライトの下にいるのだろう。別れ際、タキシードを着てたグラハムは恐ろしい程様になっていた。それに比べて自分は……振り返ると恥ずかかった。着古したパーカーとスニーカーじゃどう考えても場違いだ。きっと偉い人たちが……それこそグラハムのキャリアを彩る重要な人達が、彼を称賛するために集まったのだ。グラハムなら、あのいつも尊大ともいえるほどの堂々とした物腰で、きっと煌びやかなスポットライトにも負けないだろう。
 でも、グラハムは「待っていてくれ」と言っていた。折角の受賞記念のパーティなのに、二時間で切り上げて刹那の元に帰ってくると。ひょっとして、まだ待っていたら?
 そのことを後悔するかといえば、むしろ刹那の心を捉えていたのは全く別の問題だった。
 満足に祝いの言葉も言えなかった。
 刹那は知っていた。グラハムが受賞した新作にどれほど傾注していたか。内容は知らないが……しかし執筆中の姿は知っていた。ずっとずっと部屋に篭って端末に向かう後姿は鬼気迫るものがあった。どうしても触れられない世界。これが彼の生きる世界。あれもグラハムの世界。そのどれも一介の学生でしかない刹那には全く接点がなかった。未知の世界だった。

 やっぱり残っていればよかった。
 
 せめて祝いの言葉くらい伝えないと、そう思って、グラハムに電話を入れようと思った。携帯を開いて、液晶画面が光って、アドレス帳からグラハムの電話番号を選択した。が決定ボタンが押せない。
 今、グラハムと話したらきっと詰るような口調になるに違いない。
 別に彼を責めたいのではない。
 だけど、心の中に渦巻くもやもやとした薄暗い感情も消すことが出来ない。堂々巡りだ。
 待っている、というグラハムの言葉が脳裏に虚しく響いた。

 後悔なんてしなければ良かった、と刹那は後悔した。

 翌日、夏休み中のキャンパスは比較的静かだ。

 やることもないので、図書館に顔を出してから学食にいった。すると窓際のテーブルでそっくりな栗色の癖毛が二つ身を寄せ合うようにして座っているのが見えた。
 ニールと……おそらくは彼の双子の弟のライル・ディランディだろう。二人の顔が見える位置にまで近付いた。ライルは黒いスーツを着たまま、埃っぽい机に突っ伏していて、その正面に座り、ニールは頬杖をついて呆れ顔だ。
「絶対、大丈夫だと思ったのに」
「……諦めるしかねぇだろ、正面切って告白して振られたんじゃ」
「簡単に言うなよ!!……ああ、クソっなんで俺が振られなきゃなんねぇんだ」
「……お前のそういう自信過剰な態度が悪いんだろうな」
「なんだよ、だってアレは絶対俺に気があるって態度だったし……」
 ニールがライルの額を弾く。
「それが自信過剰だっていってんの」
 そこでニールの方が刹那に気付いた。おう、刹那、お前も来てたのか、と手招きしてコッチ座れよ、と隣を促され仕方なく腰を下ろした。この兄弟が一緒だと、なんとなく割って入るようで気が引ける。たぶん、顔が似過ぎているからだろう。さすがに、今では二人とも外見以外はまったく違うということが分かってきたが、それでも同じ顔に並んで見つめられると、落ち着かない。
「昨日は随分遅かったじゃねぇか。やっぱりあの男と逢ってたのか……」
 問い詰める口調に、とりあえず嘘はつきたくないので頷いた。
「……そうか、まぁ……うん、そうだな。一応その、つ、付き合ってるんだからな……うん」
 今度はニールの方が青ざめた表情で俯いてしまった。
「それにしても……俺は、俺は反対はしないが納得はしていない!あんな、あんな変態ストーカー野郎と、刹那が……刹那が……」
 呟くニールの表情が怖い、と刹那は思った。人一人くらい殺せそうな……そんな顔だ。見たくないので視線を外すと、ふと学食に据え付けてあるテレビにグラハムによく似た金髪の男が映っている。
「……あ」
 グラハムだ。
 思わず食い入るように見入ってしまった。ニュース番組の中でインタビューを受けていた。黒っぽいスーツを着て、姿勢を真っ直ぐ正して質問を受けている。画面には華やかな笑顔が前面に映し出されていた。
 すると、刹那たちの隣のテーブルの女子たちが、同じようにテレビを見ながら何か話しているのが耳に入ってきた。
「……この人なんとか文学賞取った作家だよね、なんか格好いいよね」
「俳優もやれそう」
 そのうちバラエティとか出るんじゃない?注目されてるもん、そしたら絶対に見る。じゃあ本買いなさいよ。えー難しそうだよ、そんな会話が続いていく。
 テレビに映るグラハムは、普段より二割増しくらいで華やかに見えた。人気がでても当然なのかもしれない……だが、まるで別人のようだとも感じた。
 刹那が黙ったままぼんやりしていると、ちょいちょいと右手をつつかれたので顔を上げると、ライルが身を乗り出して囁いた。
「で、どうよ野郎のケツは?結構気持ちがいいだろう?」
「うぁあああ……お前、いい加減なことをいうな!刹那に限ってそんな、そんな淫らな……って、そういう露骨なことをいうな、お前はっ!!」
「先に話振ったのは兄さんだろ。こいつだってガキじゃねえんだから、当然やることはやるさ」
「お前と一緒にするなっっ」
「兄さんは美化し過ぎ、それにお節介すぎ」
 ライルが心底うんざりしたというように、椅子に反り返ってため息をついた。それを見てニールが反論する。
「お節介じゃねぇよ、刹那はなぁお前と違って真面目で潔癖で、無垢なんだよ、変な野郎に汚されやしないかと…………?」
「それがお節介だっつうの。恋人同士なんだし、男だし、当然やりたくなるのが自然だし、やらない方が不自然だろ」
 それまで他人事のように聞き流していた刹那だが、ライルの言葉の中に出てきた一言が心に引っ掛かった。
「……恋人なんかじゃない」
 急にニールが顔を上げた。目が輝いている。
「刹那?」
 が直ぐに心配そうな表情に変わった。多分、刹那の様子に冗談じゃないと気付いたんだろう。それでまた心配しているのだ。付き合うのは反対の癖に、上手くいかなくなって刹那が傷つくと思って心配しているのだろう。まったく、余計なお節介だ。ああまた余計なことを口にしてしまった、と思った。その横でライルがニヤニヤ笑っているので、やっぱり言わなきゃよかったと後悔した。後悔しても一度出かかったもやもやは吐き出してしまいたい。
「会ってもただセックスするだけだ。恋人らしいことなんて何もしてない。」
 ニールが茫然と刹那を見ている。
 ライルはその横で、相変わらずニヤニヤと笑ったままだ。
「まぁ、そいうのは人それぞれだぜ。あんまり深く考え過ぎるのはよくねぇと思うな」
 はっ、とニールが鼻で笑って噛みついた。
「さっきまで失恋してピーピー泣いてたくせに、よく言うぜ」
「泣いてねぇよ!!」
「泣いてたね……大体いい年した野郎がいちいち失恋ぐらいで兄貴に泣きつくんじゃねぇよ。仕事しろ仕事!」
 勝手に兄弟喧嘩を始めた双子に、呆れながら、刹那は考えた。
 ニールに心配されるまでもない。どう考えても、あんなうるさい男は好きじゃない。最初の頃は、グラハムがあんな煩い男だとは思わなかった。バイト先で偶然顔を合わせたとき、笑みを交わす、その頃は単純に「きれいな顔で嗤う男だな」という印象で、どちらかといえば物静かな男かと思っていた。が、実際はそんな刹那の儚げなイメージとは真逆の男だったのだ。顔を合わせれば「刹那、刹那」と連呼され、所構わず抱きつかれたり押し倒されたり……デートとか外で会わないのも、顔を合わせた途端、グラハムが迫ってくるからで……
 第一今でも刹那は付き合うなら女の子の方がいい。というより、グラハム以外の男なんて論外だ。
 それでも、何となく許してしまうのだ……いつのまにかグラハム中心に一日の予定を考えることが多くなって、電話がないと不安になる。これだけは認めざるを得なかった。今や、グラハムという存在は刹那の心の中に深く入り込んで、しっかりと根を張っていた。
「俺は……」
 グラハムのことをどう思っているのだろう。
 考え込み始めた刹那の髪を、ライルが乱暴に掻きまわして言った。
「ま、慌てて結論出そうとしなくてもいいんじゃね。恋人同士とかいっても、相手の本心なんてなかなか分からねぇもんさ」
 振られた癖によく言うぜ、とニールがちゃちゃをいれるので、また双子で言い合いになった。この双子は本当に楽しそうにケンカをする。それが少しうらやましような、取り残されたような気がした。
 刹那にはニールにとってのライルのような、ライルにとってのニールのような、嬉しいことも格好悪いことも、何もかも包み隠さず話せる存在はいない。ニールやアレルヤ、ティエリアは友人だけど、そういうのとは違う気がした。強い絆に結び付けられた唯一無二の存在。グラハムがそうなのか?しかしグラハムに至っては……言えないことの方が圧倒的に多くて。いつも振り回されてばかりいる。
「アイツに会う。……後で話を聞いてくれ」
 
 刹那はグラハムのアパートへ向かうことにした。
 

 緊張しながら、インターフォンを押した。
 いるだろうか、……留守かもしれない。さっきも学食でみたテレビ番組に出演していたくらいだ。 数秒後、予想に反して、ドアは内側から開かれた。期待で胸が高鳴る。しかし、出てきたのはグラハムではなかった。
「アンタは……」
 出てきたのはグラハムの親友だといったビリー・カタギリという男だ。昨日もホテルにいた。その男がなぜ今グラハムの部屋から出てくるのだ。不信感を露骨に顕わす刹那に、ビリーはばつが悪そうな笑みを浮かべて答えた。
「……ああ、引っ越しの手伝いでね。今回のことでグラハム急に忙しくなってさ、荷造りとか全然出来てなくて」
「引っ越し?!」
 驚いて、思わず訊き返してしまった。
「明日だけど……聞いてないの?」
 聞いてない、まったく知らなかった。
 はー、とビリーが顔を手で覆ってため息をついた。
「相変わらずというか……なんでそういう大事なことをいわないのかねぇ……なか入ってよ、説明するから」
 促されるままにグラハムの部屋に入る。もともとすっきりと片付いた部屋だったが、今はいくつかの段ボールが無造作に置かれていて雑然とした印象だ。床には本や雑貨などが散乱している。随分沢山の本があることに、今更ながらに気付いた。
「……なんか誤解させちゃったかな」
 長話をするつもりはない。ソファを勧められたが断った。
「随分親しいんだな」
 そういうとビリー・カタギリは腐れ縁だよ、といって笑った。
 散らばっていた雑誌をひもで括りながら浮かべた笑みは余裕が感じられて、刹那は立ったまま、悔しさに拳を握りしめた。
「ココはもともと新作を書くために知り合いから借りた仮住まいだったんだ。でとりあえず本は軌道に乗ったし、部屋も適当なのが見つかったから引き上げることになったんだ」
 それより、とビリーが本をまとめていた手を止めて、改めて向き直る。
「昨日はどうして帰ったの?」
「アンタには関係ないだろう」
「そうでもないんだよねぇ。一応、友人としては彼が傷つくことが分かってるのに、みすみす見過ごすことはできないよ」
 理由なんて、こいつにだけは言いたくない。黙り込んだ刹那に、ビリーは肩をすくめてため息をついて、もう少し持つかと思ったけど、と呟いた。
「まぁ、グラハムってば外見はいいけど、中身は相当変人だから、君が愛想尽かしたとしても、しょうがないとは思うよ。ついでに貞操観念が薄いから気に行った相手なら結構簡単に寝ちゃうしね……」
 その言いにカチンときた。他人には分からないグラハムのことを知っているみたいに聞こえて、むかつく。刹那よりグラハムのことを分かっていると言われたようでむかついた。たぶん、その指摘は正しい。
「顔はいいし、小説家なんて職業で社会的地位もあるし、やさしいし、そういうグラハムの外見や外面に惹かれて近づいてくる人間は多いんだ。でもそういう人は大抵、付き合い始めて彼の性格を分かってくると、勝手に失望して、勝手に離れていくんだよね。……まぁ、分からないじゃないけどね。グラハムは自分勝手だし、融通がきかない頑固者だ。何かにいれ込むととことんのめり込んでいくから、他が見えなくなる。付き合っていると、そういう所が不満らしいね」

「君もそうなの?」
「ちがう」
 違う。確かに彼を置いて帰ったのは自分だが、だがそこまで言われる筋合いはない、と思った。
 今日ココに来たのは、きちんと謝りたいと思ったからだ。それだけじゃなくて、他にもいいたいことがあって。でもまずはおめでとうとちゃんと言いたかった。きっとこれから仕事も増えて忙しくなるだろう。そうなれば会える時間は減るかもしれない。でもそれは仕方がないと思っている。むしろ無理をして会おうとしたりしやしないか――それこそ昨日のように――そっちの方が心配だ。自分は口べただから、電話やメールだといいたいことの半分も言葉に出来ない。それでいつも歯がゆい思いをしている。……本当は、ほったらかしにされて寂しかったのだ。もっと一緒にいたかった、そんな風に子供みたいに拗ねているなんて、認めたくないが、今の内心のもやもやを突き詰めればそういうことだとしか考えられない。まったく酷い矛盾だ。最も顔を合わせても、そんなこと言えやしないだろうが……。
 
「みんな最初はそういうんだよ。私だけは彼のことを本当に理解しているんだって。でも結局、別れちゃうんだけどね」
 難しいね、そいういってカタギリは笑った。
 
「彼、ああ見えて以外に繊細なんだ」

 グラハムのことが好きだ。
 と同時に、一緒にいると辛いのだ。かといって離れていると切なくて。

 いまさらだが、持て余す感情に気付いてしまった。

 なら、グラハムはどうだろう?

 グラハムは一見すると明け透けで、隠し事なんてないように見える。がその実、彼はいつでも感情を隠すのが上手い。刹那のように無表情なわけではなく、彼は明るい笑顔でもって本音を覆い隠してしまう。相手に本音を隠していることに気付かせない。


 そんなところがもどかしい。

 踏み込めない自分がもどかしかった。

++ continued...



2010.8.30