『 All or Nothing 』

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 あの男と初めて会った日のことを、刹那は憶えていなかった。
 ただ、記憶にあるなかで一番古いのは、吐く息も白い早朝のことだった。その日は、午前中の講義がなくて、早朝のバイトをいれていた。
「いらっしゃいませ」
 入ってくる客には声を掛ける。しかしその声に反応する客はほとんどいない。平日の早朝にコンビニを訪れる客はそう多くはなく、タクシーの運転手や夜の商売の人間、そうでなければ早出のサラリーマンか、いずれも眠そうな目を顔に張り付けていて、家に帰ることか、仕事のことしか頭にない。いわんや、途中に立ち寄ったコンビニの店員のことなど気にする者はいなかった。
 それが普通だった。
 刹那は、まだ夜の闇が残る街頭をすかすガラスに映る自分の横顔を見ながら、瞼を覆う程度に切られた前髪を一房掴んだ。……少し切り過ぎただろうか。ココのところずっと伸ばしっぱなしにしていたせいで、頬に掛かるまで伸びていた前髪に慣れていたせいか、少し違和感を感じる。顔全体がスースーする気がする。
 とその時、自動ドアが開いて、一気に冷たい外気が店内に流れ込む。それと一緒に、金髪の背の高い男が入ってきた。

 男は店に入るなり、レジにいた刹那の正面に立ちこう切り出した。
「髪を切ったのだね、良かった」
 レジで声を掛けられて、はっとした刹那だったが、目の前の男には見覚えがあった。よく顔を見せる客だった。常連客と分かれば、それなりに愛想も良くしなければならない。その程度のことは、バイトの刹那にも常識として備わっている。
 刹那は口元に笑みを浮かべる努力はした。……それが相手に伝わっているかは分からないが。しかし相手は大して気にしている風もなく、カウンターに朝刊二紙を置いた。刹那は無言でレジに入力する。
 コンビニの店員にまで愛想を振りまく必要なんてないのに、髪型まで把握しているとは、変な奴だ、と思った。
「君の髪を切った人間は腕がいい。称賛にあたいするよ」
 切ったのは同じアパートに住む先輩のニール・ディランディだ。今は試験もなく暇らしく、「うっとうしい」からと、半ば無理やり切ってくれたのだ。そうやって彼は実の兄弟や家族のように刹那を叱ったり気に掛けてくれる。髪型を誉められるということは、ニールのカットの腕を誉められたということだ。若干、ほんの若干だが返答が明るくなった気がした。
「たいして変わりませんが」
 実際、切ったのは前髪が長くなって鬱陶しくなっただけで別に髪型を変えた訳ではない。
「いや、その方が君の瞳が良く見える」
 男は整った顔に誰もが見惚れる爽やかな笑顔を浮かべて立ち去った。

「おーい、肉はちゃんと焼けよー」
 今夜は久しぶりの焼き肉だ……といっても、例のごとく同じアパートの住人で一番年上、研究室の助手をしているニールの部屋に集まって、ホットプレートを囲むだけ、安いオーストラリア産豚肉とボール二杯分の大量の生キャベツだけのシンプルかつ経済的な夕食だ。
 男四人が集まって、六畳畳み部屋で肉を焼けば室内はうっすらとけぶる程煙が立ち込めていた。古い換気扇がカタカタと音をたてて全力で排気をするが追い付かず、窓は全開だ。因みに、ニールとアレルヤは発泡酒で、ティエリアは自分で煮出した麦茶を飲んでいる。彼は何故かニールの部屋でマイ麦茶を用意している。保存料や添加物が混じった液体で水分を補給するのは愚の骨頂、などなど麦茶の蘊蓄を語りだすと長い。でも元は極普通のパック麦茶だ。だが自分とニール以外が手をつけると「万死、万死」と怒り出して手がつけられない。残る刹那は牛乳だ。
 そうやって食卓を囲んでいれば自然と会話もはずんでくる。もともと口べたな刹那だったが、その日は肉のせいもあってか、ティエリアの機嫌も良く、場も穏やかだったので、数日前から気になっていたことを話してみようという気になったのだ。

「最近、家の傍でバイト先の客に付けられている」

 思いがけない告白に(というほど深刻な口調ではなかったが)、ニール・ディランディはせっせと肉を裏返していた箸を止めた。肉の焼き加減に煩い家主の視線が刹那に注がれている隙に、ニールの隣に座ったティエリアが裏返したばかりの肉をホットプレートからさらい、そのまま口にほおり込む。
「豚肉はちゃんと焼かないとお腹壊すよ」
 アレルヤが心配気に眉を寄せて忠告するが、逆に眼鏡越しに透明なアメジストの双眸がきつい光で睨みつける。……なんだか自分が悪いような気分になって、アレルヤは委縮してしまう。
「その程度の知識、知らない訳がなかろう、アレルヤ・ハプティズム。俺の目測ではこの肉の過熱状態は完璧だ。十分に食用に耐えられる」
 ニールはいささか焼きすぎる、そういいながらついでとばかりにアレルヤの前の肉も皿にとっていく。
「ちょっと、ティエリア、それは僕の……」
 その時、壊れんばかりの勢いでドアが開いた。部屋と言わずアパートが揺れた。
「欲しいもんはなぁ、力づくで奪い取りゃあいいんだよ、アレルヤァァァ」
 実際のところ木造築三十年の「天使荘」、二階へ続く階段を上る人間がいると、階段といわずアパートごと揺れるので、ドアが開く前から来客が分かるという……便利な機能があった。今もドアが開く前から階段を揺らす盛大な足音がどんどんと近付いていたので、人が来たのは周知のことだ。因みに、アパートの名前は初代の大家がつけた。その時新興宗教に凝っていたとかいないとか……色々よくない噂は耳にしている。だが刹那は特に問題にはしていない。バス・トイレ共用だろうが壁が薄くて隣の話声が筒抜けだろうが、雨露がしのげてきちんとした住民票が取れて、家賃が安ければ問題はない。
「ハレルヤ、お帰り。珍しく早いね」
 因みに、くどいようだが、ここはニールの部屋であり、働いている(本人談)ハレルヤは外にちゃんと自分の部屋があるし、双子の兄弟であるアレルヤの部屋はひとつ上の階だ。なのに毎日のように顔をだす。
「良いねぇ肉か」
「100%輸入豚肉だがな、因みに、この家では牛肉はもう一年以上出されたことがない」
 するとホットプレートがのった座卓をひっくり返しそうな勢いで、ハレルヤは畳みに座るやいなや、目の前に置かれた生肉のパックを引っ掴んだ。
「何をするか、それは僕の肉だ」
「ははっ、こういうのはなぁ取ったもん勝ちなんだよ」
「……それは違うんじゃないかな、二人とも……ココはニールの部屋なんだし。肉を買ったのもニールだし、たとえ100グラム90円のオージービーフでも苦しい家計を遣り繰りしてやっと買ってくれたんだよ、」
 アレルヤの至極もっともな指摘も肉を取り合う二人を止めることはなかった。その時、ちゃぶ台を叩く音と同時に、ニールの鬼気迫った叫び声に場が凍りつく。
「お前ら、不満があるなら食うなよ!!……そんなことより――今は刹那の話の方が重要だろうがっ!!」
 5人の目が一斉にホットプレートの肉から刹那へ集中する。
 刹那はいわなければ良かったと後悔し始めていた。
「で、相手はどんな奴だ?付けられているって具体的に何かされたのか?」
 ニールの質問に、当の刹那は至極冷静だった。普段と変わらぬ無表情で答えた。
「バイト先以外でも、学校帰りとか、家の近くで時々同じ人間を見かける。俺の後をついてきて、よく外の電柱の影から観察しているようだ」
「確か今のバイト先って結構距離あるよね」
「……お、男なのか?」
 カランと音をたててニールの右手から菜箸が落ちた。それを拾いながら刹那はコクリと頷いた。
「な、何か変なことされてないか……?」
「ただ後をつけられるだけだ。特に害はないが……」
「“が、”って……?」
「随分意味深な間をとるな、刹那・F・セイエイ」
 ティエリアのアメジストの双眸が光る。
「……そういえばこの間、自治会長さんが、最近ゴミ捨て場をじっと見つめる不審者がいたって、警察に相談したらいいかどうか相談されたんだけど」
 アレルヤが今思い出したと、のんびりいった。
 ハレルヤが凶暴な笑みを浮かべた。
「そりゃあ、ストーカーだな」
「……ストーカー……っ!?」
 驚いて声を上げたのはニールだ。刹那は黙って山盛りのキャベツを睨んでいる。
「しかし野郎のストーカーとは解せねぇなぁ」
 ハレルヤが首を捻った。
「なんか恨みでも買ったのか、それとも痴情の縺れか?」
「刹那に限ってそんなこと……」
「そうだ。コイツに痴情が縺れるほどの人間関係が構築できるとは思えん」
 ティエリアが断言すると、刹那も頷いた。
「同感だ」
「……そこは同意する所じゃないぞ、刹那」
 ニールは眉間を抑えた。
「つうことは、こいつが目当ての変態ってことだな」
「普通の男だと思う。外見は特に変わったところはない。普通よりは整っているかもしれないが。身長は……普通で、どちらかというと痩せている。金髪で目の色は緑で、サラリーマンか公務員か、いつもきちんとしたスーツを着ている」
 汚れ一つない眼鏡を中指で押し上げたティエリアが言った。
「真面目そうな男ほど影ではアブノーマルな趣味趣向を持っている」
 怖いことをいうな、とニールが慄きながらも刹那の肩をがっちり掴んで諭すように言い聞かせた。
「つうか、まじで話しかけられても答えたりするなよ」
 ニールの真剣さに、刹那は思わず頷いていた。

 制服を着てレジに立つ。一日に何十人という人間と面と向かって言葉を交わすが、そのほとんどが知らない顔だ。中には何度か見た顔もあるが、刹那は極力憶えないようにしていた。
 がしかし、一人だけ例外がある。
 レジから見える、ドリンク用のショーケースの上に掛けられた丸時計に目をやった。午後8時を回っている。夕食前の買い物客もひと段落し、食後の掛け込み客にはまだ少し早い。店には一人の客もない。通りの向こうには私鉄のコンクリート製の高架が見える。この店は駅から一分と掛からない立地条件のため、いつも混雑している。刹那のバイトは、早朝と深夜が多い。翌日の午後に授業がない、火曜日は深夜から早朝にかけてと、金曜日から日曜日までの夜10時までだった。その男が来るのは、いつも不定期だ。12時前後のこともあればあの日のように早朝顔を出す時もある。……今日は来なかったな。
 ふわぁ、と小さな欠伸を零したところ、自動ドアが開いた。
「おはよう、少年」
 現われたのは、件の常連客だった。
 名前は知らない。
 会話も店のレジで二言三言言葉を交わした程度でしかない。何をやっている人間なのかも分からない。
 だが、こうして刹那のバイトの日に頻繁に顔を出す以外にも、どうやら家の近所までついて来たりしているようだ。それに気付いたのはつい最近のこと。髪を切ったことを指摘された日の後のことだった。思えばあの日交わした会話が初めてだったかもしれない。それから刹那も彼のことを意識し始めた。それでやっと、家の近所まで付けてくる男が、店の常連客だと気付いたのだ。それまでは気配は感じても気にも留めていなかったのだが……一度相手を認識してしまうと、今度は気になって無視することもできない。
「アンタ、ストーカーなのか?」
 金髪の男は、きょとんと緑の目を丸くして刹那を凝視した。と突然噴き出すように笑いだして、しばらくした後、そうだな、とうなづいてみせた。
「いわれてみればそうかもしれん」
「なぜ、俺に付きまとう?」
 しばし考えた後、真剣な顔でいった。
「……君の存在に心奪われたからだ」

 それはストーカーの理由になるのか?刹那にはよく分からなかった。
 だが、エメラルド色の瞳は澄んでいて、力強い視線で刹那を見つめている。そんな風に真っ直ぐに嘘をつけるとも思えない。
 ただ、家まで後をつけられるのは困る……そう思った刹那はごく自然に結論を出してしまった。
「俺の後をつけるくらいなら、声を掛けろ」
 言葉にした途端「しまった」と後悔した。
 男が笑ったからだ。少年のように無邪気な笑みで、そこだけ別世界になったような、思わず見惚れてしまうような、そんな笑顔が刹那の記憶に深く焼き付けられた。



 そのあと、自己紹介を済ませた二人は、急速に距離が縮まって、翌週には、刹那がグラハムの部屋を尋ねることになるのだった。

++ continued...



2010.8.17

2011.2/12 一部修正